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2020/06/15

ポストコロナに想うこと 2

2020年6月11日付毎日新聞夕刊に「コロナ断想 下 民主主義の限界 露呈」と題した加藤尚武(京大名誉教授・倫理学)氏の寄稿を読んだ。この執筆者の名前はよく見かけているが、はて、どこだろうと頭を巡らせていたら、『図書』の出版広告のなかにその名前を見つけた。加藤尚武著作集だ。ヘーゲルについての著作があるようだ。その毎日新聞の記事に興味深いところがあったので少し長いが引用してみたい。

官僚や政治家に関して、男女平等がもっと進んだ方がいいという考え方が認められているが、それ以上に、文理平等が推し進められるべきではないだろうか。知識をもつ専門家を官僚組織の中に隠しておいて、国会では隠れた筆者の紙きれを大臣が読み上げるという「民主主義ごっこ」ではなくて、どうして人の接触を8割減らさなくてはならないのか、その理由を直接に理系の専門家が提案し、審議して、そこに国民の声を反映させるようにしてもらいたい。どうしたら「民主主義ごっこ」をやめることができるのか。コロナ問題が残した課題のなかの一つだと思う。

寄稿の前編「『コロナ断想 上 情報の直接性』の喪失」の中で、国会審議について加藤尚武氏はこう書く。

国会の審議は、紙きれを読み上げる大臣の姿で埋め尽くされている。大臣のためにその紙きれに答弁の文字を書いた人は、別の文字を見て書いた。情報の直接性、「ざらざらした大地」(ヴィトゲンシュタイン)がどこにもなくなった。情報として与えられた数字が、作為的にゆがめられたものではないという保証がないと、人類は生き延びる機会を失いかねない。
国会の審議の不思議な光景に一矢を放った格好だ。レベル、ラベルの問題で、反知性主義では国民を束ねていけない。やはり政治家には高い次元の知性が求められて然るべきだが。森友、加計、桜見会、黒川問題と疑惑のオンパレードで、コロナでも転んだ。政権末期のレイムダック状態か。

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