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2020/06/17

クロカル超人が行く 118 ニューヨーク再訪 7 最終回

下記は2009年9月21日付コラム。約11年前の記事だが、当時の様子が分かって興味深い。最後に新型インフルエンザの話にもほんの少し触れている。また、annus mirabilis のラテン語にも注目したい。ここに再掲することにした。

すでに帰りの飛行機の中にいる。出発して約7時間が経過、アラスカ上空あたり。早朝6時にブルックリンのアパートを出た時は23℃快晴、4時間前の客室乗務員のアナウンスによると、日本の成田国際空港は15℃(そう聞こえたが21℃位だと思う。この客室乗務員は日本時間も間違って訂正していた)晴。涼しいか。
何の気なしに差し出されるままに「ウォール ストリート ジャーナル」9月19日・20日号を手に取った。その新聞にジョン・スティール・ゴードン氏が(確かシカゴで出している雑誌に寄稿しているコラムニストだと思うが)、“Don't bet against New York ニューヨークに賭けないで”というタイトルでニューヨーク ウォール街の金融破綻の再生を過去の歴史から繙いている。興味をそそられる記事だ。このコラムニストの記事を要約してみよう。

ニューヨーク ウォール街の金融破綻が2008年に起きて40000人の人が失職、市も国も一つの産業の税収入に頼ってきた。再生の方法がたくさん語られてきたが、ニューヨークの歴史を眺めれば楽観的な理由がそこにはあることに気付く。その理由は初期の時期に説明できる。金融危機は崩壊したが、市は過去に何度も再創造してきたと書く。ニューイングランドのピューリタン、ペンシルべニアのクェーカー、メリーランドのカトリック教徒が自由を求めてアメリカにやってきた。そして近代資本主義を発明した金持ちのオランダ人が金儲けにマンハッタンへやってきた。彼らは貿易に忙しく、17年もの間教会の建物を造らなかった。オランダ人が入植してから20年後の人口は一千人、すでに通りでは18カ国語が話され国際的だったという。その後イギリス人がハドソン川経由で北米の内部へアクセスする水路をもって世界的な中心に港を据えた。オランダ人の知事が北からの攻撃を守るため壁を構築するが、1664年イギリス人が南から海軍の力で帆走、オランダ人の商人が調停して町は拡大し続けた。ハドソン川沿いの土地は小麦を育てるのに適し、イギリス人は小麦生産を独占化、主貿易として13のコロニーが育ち、特にボストン、ニューヨーク、フィラデルフィア、カールストンのような最も重要な都市が出現した。だが、南北戦争でニューヨークも大打撃を受け、イギリス支配の時に大きな火事と逃げてきた愛国者の人口で町の大半が崩壊、その後イギリスが撤退、町は驚くほどの速さで回復した。1800年にはフィラデルフィアの人口を抜き、アメリカ一の人口となった。1817年、ニューヨークにとってannus mirabilis(驚異の年。元々は1667年に発表されたジョン・ドライデンの長編詩。1665年~1666年の出来事を記念したもの。ロンドンの大火やペストの大流行(ロンドンの大疫病)など災厄があった年。ウィキペディアより。2020年6月18日付毎日新聞朝刊の「余録」参照✳)、驚異の年のような3つの出来事があった。第一は世界で最初のヨーロッパとの定期航路が形成されたことでニューヨークは直ちに海洋乗船輸送の中継点になった。それは1970年代に飛行機旅行の近代長距離輸送が始まるまで残っただろうか。第二はニューヨーク証券取引所が正式に組織されたことだ。当時フィラデルフィアが最も重要な金融センターだったが、債務不履行を起こし銀行が倒産した1830年代にニューヨークが引き継いだのだ。1840年代「ウォール ストリート」はアメリカの金融世界の代名詞になった。1850年代モーリスの電報の発明のおかげで世界中の取引者と取引可能になり、アメリカで唯一の重要な金融市場になった。当時のフリップ・ホーン市長が「4月の太陽が来ないうちに富が雪のように解けてしまった」と言った19世紀は、ほぼ20年ごとにパニックが起こり崩壊、しかし、ニューヨーク市はその度に大きく伸びて蘇った。1817年には最も特筆すべき出来事があった。ニューヨークとアパラチヤ山脈の西部の伸び盛りの地域とつながるエリー運河が計画され1825年に開通した。生産物がミシシッピー川を経由し、ニューオーリンズの港に搬送されて東部地区やヨーロッパの市場へ到達、現在はニューヨーク経由で流れている。詩人のオリバー・ウェンデル・ホームズ(最高裁の父)に、商業と金融のクリームをぺろりとなめる舌と書かれたニューヨーク市。1800年にアメリカの輸出の9%がニューヨーク経由だったのに対し、1860年には62%達した。1820年にはフィラデルフィアの人口の10%が1860年にはその2倍になった。かつて遭遇したことがないほどニューヨークは大きなブームに沸き、1年に2ブロックの割合でマンハッタン島は北の方に鳴り響いた。マンハッタンが横幅約2マイルあるなら、それは毎年毎年新しい通りを約10マイルずつ拡張していることを意味していた。ジョン・ジャコブ・アスターが臨終のときにマンハッタン全てを購入しなかったことが大変残念だったと言ったことも確かに頷けるのだ。
南北戦争はニューヨークを麻痺させたはずだ。というのは市が南部の綿貿易をほとんど仲介したからで、最も重要なことは1861年にファーナンド・ウッド市長が南部同盟11州の先導に従い、ユニオンから脱退する提案を実施したからだ。しかし、南北戦争でニューヨーク市は大当たりした。国の負債は6500万ドルから270億ドルまで膨れ上がり、戦争が引き起こした産業は急激に拡大、戦争終了時にはロンドンにつぐ世界第二位の金融センターなった。20世紀に変わってニューヨークは金融や港湾両方ともロンドンと同等になり、また、製造業の主要なセンターにもなった。毎年100万人の移民が市に溢れ、安い労働力を供給、衣服製造や軽産業が発達した。かつてのイギリスのように世界の工場になったのだ。1929年の大恐慌、ニューヨーク ダウはその価値の90%を失い、失職。パークアベニューの共同アパートは維持支払いする人たちに提供された。セントラルパークやイーストリバー沿いには失業者向けの住宅(Hooverville)が急に建てられた。わずか15年後の第二次大戦後にニューヨークは世界の中心になった。最も金持ちが集まる大都市は、あまり統治されていなかった。福祉のコストが嵩み、偽の簿記担当者と組んだ事実を隠していながら増税につぐ増税しても経営費を賄うために今尚借金をしなければならなかった。
ニューヨークに本社を持つ以外に選択肢の全くない事業は、コストの安い郊外か他の都市に移って行った。より安い輸送は生産する仕事を可能にし、より安い労働コストの場所へ出て行くのだ。ウォーターフロントの堕落振りに呆れて船主たちが他の港に逃げた。ニューヨークは大都市としての機能を失った。
しかしながら、新しいチャンスが出版、広告、ファッション、通信の分野で旧いものに取って代わって到来した。市は移民たちにとってひとつの磁石のまま残った。戦後の郊外化における人口の減少もない北東地区の唯一の大都市だ。事実人口は以前より増加している。1970年始め阿漕な人たちが現れて税収は減少、ウォール街の銀行は更なる借り入れを拒否、市は崩壊した。通りは汚く地下鉄は移り気で落書きに悩まされる始末、ニューヨーク証券取引所の座席はタクシーの免許権の2倍以下の価格で購入された。しかし、市はまたもやどん底から這い上がった。幾人かの有能な市長と金融管理委員会によるしっかりした監視によって財政立て直しができた。落書きやポイ捨てのような犯罪を駆逐することは街の概観を非常に良くしたのだ。驚くべきほどの通りの犯罪の減少で国の最も安全な都市に変わった。同じく重要なことは、「メーデー」(1975年5月1日に仲介人の固定コミッションを廃止したこと)だ。1970年代のインフレの終焉、1982年に始まる世界経済の超拡大が歴史上最も大きく長引いたブームだった。25年以上ダウ平均株価は780から14000まで膨れ上がった。それから一年後リーマン・ブラザーズの破綻がやって来たのだ。大きなブームは去り、ニューヨークの最も重要な産業がまたもや崩壊した。
これが大体のあらましだ。
が行われ
最後に著者は書く。ニューヨークが何年もかけてしてきたことをまたやるならば、時間だけが教えてくれるはず。以前より大きく、より良くそしてより金持ちになって回復せよと。しかしながら、私はそれに賭けたくないのだ。大人の中にある子供のように広大な巨大都市の中心深くでは、商売に浮かれ、もちつもたれながら金融街で働こうということがほとんどみられない。ここでは富の創造は今尚切なる願いなのだ。

この記事は短いがいろんなことを示唆している。ニューヨークの歴史が概略できてためになることも然り、筆者が短時間で読めるくらい、文章も平易、しかも繁栄と崩壊のポイントをおさえている。ここには歴史は繰り返されるという単純な命題がある、ダイナミズムが、強欲がある。しかしだ、ニューヨーク魂があるからこそここまで来たのだと思うのだ。それはマンハッタンの強固な建築物である摩天楼の高さと歴史を刻んだ色合い、建築の内部にはしばしばラテン語と装飾が施され、当時の繁栄振りが解るのだ(最もマンハッタン島は一枚岩でできていて地震がない)。筆者は何度も何度も見上げたものだ。そして最も驚いたことは、地下鉄の中で本を読んでいる人たちが以前よりずっと多くなったことだ。第一、スマートになった。このジョン・スティール・ゴードン氏の記事はニューヨークのの整備過去を知れば、未来は怪我をしないよう歩けるはずだと言っているのだろう。過去の教訓を読み取ろうということだ。

✳今朝(2020年6月18日)の毎日新聞「余録」前半にこう書かれている。
「ロンドンが近代世界を代表する大都市となった大きな節目とされるのが、1666年のロンドン大火という。4日間にわたり燃え続けた火災は、主に木造だった市内の家屋の9割近くを灰にしたという。この大火前年のロンドンはペストの大流行により、8万人近い死者を出している。まさに踏んだり蹴ったり、とんでもない災厄の連続だった。だが、惨禍からの復興で木造の建築が禁止され、広い道路や下水道の整備が行われる。再生したのは火災に強く、衛生的な近代年ロンドンだった。市民は疫病と大火という歴史的な大災害から新たな時代の文明の拠点を作り出したのである」

筆者がちょうど昨日このロンドンの大火やペスト流行について知人に話していたばかりで、このように翌日の新聞のコラムに載るとは驚きだ。

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