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2020/02/02

超人の面白読書 145 雑誌『すばる』2020年2月号 北野道夫「予測A」を読む 2

それでは印象的な場面を本文から引用してみよう。57頁もあるのでほんの少しの引用だ。はじめの出だし36行。主人公が自分の家にいてシャワーを浴びるところからこの物語は始まる。


今、家の中には私しかいない。浴室でぬるい湯船に身を浸し、どこかに水滴が落ちる音を聞き、壁の外に広がる薄暗い静寂を感じている。
妻は5歳の長男を空手教室に連れていき、16歳の娘は土曜日なのに朝から学校に行った。最近は何かの委員会活動で忙しいらしく、土日も関係なく制服を着て出ていく。まともな企業なら働かせ過ぎで摘発されているところだ。
湯船に浸るつもりはなかったのだが、昨日遅くに帰ってそのまま寝てしまい、朝、シャワーを浴びようと思って浴室に入ったら、湯が張ってあった。おそらく娘の朝風呂の残りである。わが家では珍しいことではなく、昨日も会社の同僚とそんな話をした記憶がある。温度を確かめて、少しだけ湯を足して入った。
目を凝らすと、水面に細かいごみが浮かんでいるのが見える。娘は妻と先夫の間の子なので、私とは血は繋がっていない。純粋な女子高生の残り湯じゃないですか、と会社の後輩が興奮していたが、血は繋がっていなくとも子供の頃から知っているので、前後の脈絡なく純粋な女子高生として娘を見ることは決してない。決してないが、今や出会った頃の妻と同い年になった娘は、とても美しかった。私などの血を引かなくて良かったと思う。
妻とは6年前に結婚し、5年前に長男が生まれた。長男は生物学的にも私の子供である可能性が高い。父親譲りの運動音痴を矯正するため、空手教室に通わせているが、本人はあまり乗り気ではない。
「オッケー・クロール。換気扉を回して」
私が命じると、小さな電子音がして換気扉が回り始める。同時に、クロールは私が換気扉を付けさせたことを知っている。30分ほど前に目覚めて、まずトイレに行ったことも、冷蔵庫の気の抜けた炭酸水をらっぱ飲みしたことも知っている。それは世界中のあらゆる端末に偏在しながら、東京の中心、千代田区千代田に巨大ビルとして聳えている。もはや神にも等しいクロールに生活の細部まで把握されることを、人々は恐れなくなった。あるいはほとんど忘れた。それは圧倒的な便利さのためでもあり、無力感のためでもあり、双方の無関心のためでもある。

(P.10―P.11)


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