« 超人の面白読書 135 三島由紀夫著『金閣寺』(新潮文庫) 2 | トップページ | 超人の面白読書 135 三島由紀夫著『金閣寺』(新潮文庫) 4 »

2019/01/27

超人の面白読書 135 三島由紀夫著『金閣寺』(新潮文庫) 3

『金閣寺』の告白調の内容の理解がなかなか難しい。ここには三島文学の小説に賭けた事柄が凝縮されている。書き出しはこれからどう展開するのか想像を巡らせてくれるが、結末は味気なく中途半端で、むしろ放火後の主人公の心の動きや展開を知りたいはずである。映画のラストシーンでもよく見かける光景で、余韻を残す、あるいは読者の想像に委ねる手法なのか。そういえばアプレゲール派の梅崎春生の小説『幻化』もそうだった―。梅崎春生は昭和22年から昭和32年まで東京新聞に文芸時評を書いていたので、三島の作品『金閣寺』(昭和31年10月刊行)も当然俎上に載せていたに違いない。どう評価したか興味あるところだ。二人の作家に共通しているキーワードは〈戦争〉である。
少し横道に逸れた。三島由紀夫は、新聞の社会面に載った金閣寺放火事件にヒントを得て、それこそ綿密な取材をして事件から5年後に小説を書いた。その緻密さは所々に見られるけれども、とりわけ物語の終わりのほうに金閣寺を放火するまでの様子を刻一刻描写する場面があるが、スリリングがあって見事という他ない。『金閣寺』は雑誌連載中にすでに評判を呼んだ。それは自分の観念、ある種の理想をこの事件にダブらせて描き出し、〈美〉を卓越した言葉の紡ぎ方で追求したのだ。甘美なまでのロゴスとパトスをもって。そしてエロスを味付けに使いながら。主人公は金閣寺の美しさの不滅を内に溜め込んで、終いには感情の化学反応―金閣の美しさ故に儚い、憎いが美しい、それを独り占めにしたいというアンビバレンツな感情―を引き起こして放火という行為で認識を越えようとした。小説はむしろポエジー的でしかも究極、かのマラルメの究極の詩業に似て。彼方にあるのは真善美の〈美〉、耽溺した後に来る死を匂わせ虚無が残る・・・。三島が描いた文学的提示は究極のところ一つの伝統美の回帰という世界を現出させるために、認識から行為へと誘い始めたということか。偶然にもある大学の入口に次のようなフレーズを見つけて驚いた。行動する知性、Knowledge into action。大学のUIの文言は三島の認識から行為へ、を彷彿させる。
それにしても仏教や古典など幅広い知識を駆使して、磐石な構成、人物の設定と造形力、観察眼そして無駄のない論理的な小説作法に驚愕した。
「作家は行動する」ではないが、三島由紀夫が自決してやがて50年になる。その恩師である川端康成も葉山マリーナで自殺、また、「作家は行動する」の江藤淳も鎌倉で自殺をしている。文学は相対化され益々ショー化してきている。そして、キナ臭い政治状況が現前しているのだ。戦前回帰、三島は今草叢の陰でニンマリしているだろうか―。
三島由紀夫は、三代続く官僚の家柄でおばあさん子、幼い頃は外で遊ばず家で女の子のように大事に育てられたという。辞書は好きで隅々まで読んでいたようだ(大江健三郎や井上ひさしなどの作家にもこの手の話があるが)。観念の人三島を彷彿させるエピソードである。もう一つこんなことも。蛙の鳴き声は本では知っていたが現実に蛙の鳴き声を聴いて、あれは何の音ですかと訊いたという、信じられないエピソードも―。

« 超人の面白読書 135 三島由紀夫著『金閣寺』(新潮文庫) 2 | トップページ | 超人の面白読書 135 三島由紀夫著『金閣寺』(新潮文庫) 4 »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 超人の面白読書 135 三島由紀夫著『金閣寺』(新潮文庫) 3:

« 超人の面白読書 135 三島由紀夫著『金閣寺』(新潮文庫) 2 | トップページ | 超人の面白読書 135 三島由紀夫著『金閣寺』(新潮文庫) 4 »

2020年8月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31