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2015/03/31

クロカル超人が行く 174 神田小川町『ポンチ軒』

ミシュランガイドブックに載った神田小川町の洋食屋『ポンチ軒』。
ヒレ豚定食(1250円)を食したが、ボリューム的にはイマイチ。味は上々。再度他のメニューで挑戦してみたい。店内はカウンター席、テーブル席あわせて20席。筆者的には女性スタッフのかわいい鼻が印象的だった。

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【写真 : ランチのヒレ豚定食とお店】

ランチメニューは下記の通り。
ロース豚定食 1200円
ビーフカツ 1600円
ミンチコロッケ &
メンチカツ 1150円
カツと特製カレー 1100円
タレかつ丼 1100円
※単品
ハムカツ 400円
メンチカツ 680円
アジフライ 520円
一口ヒレカツ 450円
大正海老フライ 520円

※ごはんは1杯までお代わり無料、
キャベツと豚汁もお代わり無料。
キムチも無料。

住所 : 千代田区小川町2ー8 扇ビル1階
電話 :03ー3293ー2110
営業時間 : 11:15ー14:30
17:30ー21:00
定休日 : 日曜日と第三月曜日

追記 雑誌『ゲーテ』5月号が洋食の特集をしていて、その中に『ポンチ軒』のビーフカツ(2600円、薄肉1600円)が紹介されていた。

クロカル超人が行く 173  町田市民文学館『常盤新平展』 5

やがて翻訳家として独立。1974年、訳書『大統領の陰謀』がベストセラーに。常盤新平、43歳。初の小説『遠いアメリカ』が第96回直木賞受賞するのは57歳のときで、それ以後小説、エッセイや時代ものも手掛ける。そして首都圏を転々したあと、1994年から町田の南つくし野で過ごし、2013年の1月に町田市内の病院で死去。享年81歳。小説21、エッセイ他62、訳書86以上、その他に編著や監修書20弱と多作。エンターテイメントを中心の翻訳もの、市井の人びとを描くエッセイもの、暗黒街の人びとを温かい目で綴ったもの、それに競馬や将棋などの趣味ものも。これらを常盤新平は平明かつ洒落た文体で書き続けた。筆者的に想像するに、常盤新平は作家といえども生活は決して楽ではなかったはずで、必至に書き続けた結果がこのような多作を産んだのだろう。それとも多趣味がこうじて・・・。いずれにせよ、良き読者とは言えない筆者(ミステリー小説や推理小説はあまり読まない)としては略年譜の行間を読み取りながらそう思うのだ。そして、それらの本が「常盤新平展」でところ狭しとずらりと並んだ。アメリカに憧れをもった、多面的な作家の一生がコンパクトに鑑賞できた。
ところで、筆者は常盤新平の本で雑誌「ニューヨーカー」の存在を知った。もう大昔ー。作家村上春樹も愛読の雑誌だ。クオリティーペーパーとしての地位はすでに確立していて、老舗(1925年2月17日創刊)の貫禄のある文芸誌だ。その「ニューヨーカー」に掲載された短編小説を訳して本にしていたのが常盤新平である。最近ではハンナ・アーレントの描いた映画「ハンナ・アーレント」(2013年1月岩波ホールで上映)でこの雑誌が果たした歴史的役割は記憶に新しい。1963年ハンナ・アーレントのアイヒマン裁判傍聴リポート「イスラエルのアイヒマンー悪の凡庸さについての報告」がこの雑誌に掲載されて大論争が起こったのだ。筆者は思いきって去年1年間購読してみたが、毎週(バラで読むより非常に安価)届いても読みきれず、さっと目を通したものを少し時間をかけてじっくり読んでみようと考えている。時事的な記事でも今読んでそんなに古さは感じられないのだ。ましてやユーモアのある挿絵や文芸もの、街の話題、リポート、インタビュー記事(これが意外と面白い)、それに映画評、新刊短評や定評のある書評も1年遅れで読むのもいい。
筆者は、雑誌「ニューヨーカー」に早くから目をつけ紹介し続けた常盤新平を時代の先駆者としてリスペクトしたい。
英語力は相当だったに違いない。そういうエピソードやメモ類ももっと観たかった。
参考文献 : 町田市民文学館ことばらんど刊「常磐新平―遠いアメリカ」展 additional notes(2015年1月17日)

2015/03/29

クロカル超人が行く 173  町田市民文学館『常盤新平展』 4

常盤新平の風貌は硬派なイメージでやわな翻訳ものに携わっていた人とは、失礼ながら想像しにくい。しかし、人は見かけによらずこういった人が意外な職業に就いていることが多いのだ。
『常盤新平展』を約1時間半かけて観たわけだが、全体的な印象からいえば、パネルの説明書に従い、陳列してある作品をただ眺める平凡なものだった。空間利用一つ取ってももっと立体的な工夫がほしいところだ。限られたスペースにすべてを盛り込むことは無理としても、ある種の変化やサプライズが見られなかった。前にも言及したが簡単な展示目録がなかったのが残念。岩手県水沢生まれの仙台育ちで、父親(この父親とは葛藤があった)が税務署員(最後は会津若松で税理士として死去)だったため、東北地方を何ヵ所か移っている。英語に目覚めたのは仙台の高校時代。この頃意外にも同人雑誌に詩も書いていた。同人雑誌に掲載された2篇の詩を読むと、やや心情吐露風で決して上手いとは言えない。大学時代はもっぱらアメリカのペーパーバックや雑誌の耽読時期だった。その中から次第に好みの作家を見つけ出し、大学院生活最後の頃には最初の翻訳を手掛けている。本格的な翻訳書、E・S・ガードナーの『腹の空いた馬』刊行の前年で児童読物、ラルフ・ ムーディーの『開拓の勇者』を訳している。常盤新平、26歳。早川書房では雑誌「エラリイ・クィーンズ・ミステリ・マガジン」や「ミステリマガジン」の編集長を長く務めた。やがて社内のゴタゴタがあって早川書房を辞めることになる。〈続く〉

2015/03/25

クロカル超人が行く 173  町田市民文学館『常盤新平展』 3

「常盤新平展」プロローグ 遠いアメリカの最初の展示写真は「六本木交差点」(昭和34年、港区立図書館蔵)。そこにクローズアップされて写し出されている書店の「誠至堂」は、100年目の2003年に閉店したが、直木賞受賞作『遠いアメリカ』にその名前が出てくるのだ。

彼女は重吉の眼の前に、クローバーから買ってきた小さな箱を持ちあげてみせる。椙枝の肩からハンドバックの紐がいまにもずりおちそうだ。重吉はババロワのはいった箱を受けとり、そんなに待たなかったという。
「今日は誠至堂にたくさんあったからね」
椙枝は、彼がこわきにかかえた紙包みにちらりと眼をやって、また微笑を浮べ、彼の腕にそっと手をおく。彼女の指が細くて白い。
「よかったわ」
重吉は咽喉が乾いていて、冷いコーヒーかコカコーラを飲みたい、それに手も洗いたい。古本屋でペイパーバックや雑誌をいじったから、指が汚れている。20150325133113_00001_4

筆者は「誠至堂」が12年前に閉店したことは知らなかったが、ここの経営関係者だった人を覚えている。筆者がまだ22、3歳の頃竹橋にあるM新聞社編集局でアルバイトをしていた時分に(余談になるが、筆者たちが属していた電信課は、本社と地方局との原稿の送受信の基地で、隣の課には原稿を印字するさん孔課があった。筆者たちは本社と地方局間の記事を電信用テープで送信、あるいは地方局の記事を漢テレで受信、言わば、電信作業の補助員。漢テレがよく故障して、その度に技術畑の比較的若い社員が懸命に修理していた。今はコンピュータ化されていて様相は一変したが、当時はやっとコンピュータによる電信技術の開発が緒についたばかりの時代だった。筆者は今はない「英文毎日」でアルバイトをしたかったが、あまりに時給が安くて喰えないため、ある人の計らいで電信課で働くごとになったのだ。こんなこともあった。K課長の娘さんが受験を控えていたので、英文雑誌を使ってある期間英語を教えていたことも。同時にアルバイトを2つやっていたわけだ)、社員でKiさんという都会育ちの優男がいて、毎月10日頃になると『文藝春秋』を何冊か小脇に抱えて入って来るのを見かけたものだ。その人こそこの写真に登場した「誠至堂」の人だった。親しくなった比較的若い社員のMさんに教えてもらったので確かなはずだ。一方、エピローグ 町田の日々では、昭和の香りがぷんぷんする「仲見世通り」の一角にあるカツカレーで有名な「アサノ」にも常盤新平は訪れた写真も。取材だったらしく、その雑誌の掲載誌が展示されていた。筆者も2、3年前にここのカツカレー(1500円)を食べに行って店主と会話している。すべてが手の届くような狭い空間で味のいいカツカレーは王子様の風情、また、店主のキャラクターも気さくでいい。〈続く〉

2015/03/23

クロカル超人が行く 173  町田市民文学館『常盤新平展』 2

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展示構成は、プロローグ 遠いアメリカ、第1章 作家の原点、第2章 アメリカ憧憬―編集者・翻訳家として、第3章 ときわの流儀―エッセイ・書評、第4章 片隅の人たちを描く、エピローグ 町田での日々の6つのパートで構成。「小説新潮」の看板を掲げた書店「誠志堂」が見える六本木交差点の写真から始まって、直木賞受賞作品『遠いアメリカ』(初版本)、『Life』、『Esquire』、『New Yorker』などアメリカの雑誌、幼少期時代の写真など、早川書房時代の仕事場や社長に連れられての初めてのニューヨーク出張時スナップ写真、『ミステリーマガジン』などの雑誌や新書サイズの翻訳もの、ハヤカワミステリー、ハッピーエンド通信、雑文、単行本、アルカポネなどのマフィアもの、シシリー島旅行時のスナップ写真、池波正太郎の手紙、時代小説など、エッセイや単行本の類い、山口瞳の手紙、生原稿、時計などの愛用品など、終の棲み家の町田、略年譜で終わる。残念ながら、この「常盤新平展」には展示内容の目録がないため、筆者の簡単なメモを手がかりに再現するしかなかった。入館料が無料だったので仕方がないとは思うが。【写真上 : 「常盤新平展」チラシより】〈続く〉


2015/03/21

クロカル超人が行く 173 町田市民文学館『常盤新平展』

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春の日差しがさしかかった午後、町田市民文学館で開催中の『常盤新平展』(22日で終了)を観に出かけた。山口瞳が愛した国立の『うなぎ 押田』についてはすでに書いた。その山口瞳を文章の師として仰いだ常盤新平は、平明で読みやすく洒落ている、ということを自分の文章スタイルとして心掛け、翻訳、小説、エッセイなど数多く書いた作家だ。〈続く〉

2015/03/18

画家金子國義氏の死

画家で絵本『不思議の国のアリス』や澁澤龍彦の作品の挿絵を手掛けた金子國義氏が3月16日、虚血性心不全で死去。78歳。雑誌「ユリイカ」や「婦人公論」の表紙も担当された。人物画の独特な艶のあるタッチが印象的。金子國義といえば、澁澤龍彦家の居間に掛けられていた「花咲く乙女たち1」の絵を思い出す。澁澤龍彦氏に大金を出して買ってもらったため、この大作を兄と二人で鎌倉の階段のある澁澤宅まで運んだという。エロチックでユーモアたっぷりの絵だ。この絵を見たい方は筆者のコラム、“ドキッとする絵画 8 横須賀美術館「澁澤龍彦幻想美術館」続々”を読まれたい。
https://crocul.cocolog-nifty.com/callsay/2007/11/post_e5b0.html

2015/03/13

クロカル超人が行く 172 横浜税関庁舎

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象の鼻公園から見た横浜税関庁舎のクイーン塔。因みにキングは神奈川県庁、ジャックは開港記念館の塔。ドームはインド古典建築様式らしい。一昨日雑誌でニコライ堂の歴史を読んだばかりなので、このドームも気になって一撮り。映えること、映えること。

2015/03/09

クロカル超人が行く 171  国立 鰻店『うなぎ 押田』  5

「冷めないうちに召し上がれ」
店主が様子を見に来ていた。
いつの間にか酒は日本酒の熱燗に代わり、進むにつれ話が弾んで過去のある時点に引き戻され止まったままの状態だ。鰻の白焼きがまだ半分残っていた。見渡せばY君はすでに完食。お重の底は真っ赤だった。次にうな丼が出たはずだが、熱燗が進み過ぎたか、この辺から記憶が少し曖昧だ。
「これ、見てください」
さりげなく店主がある名簿を持ってきてくれた。立派な名簿である。
「あ、校長はT先生だったね」
筆者が指を差した。それは歴代校長の写真の中にあった。青春時代の貴重で甘酸っぱさが残る1ページだった。
楽しい昼の宴はあっという間に過ぎて、すでに昼時間帯の午後2時を過ぎてしまった。店はお開きだ。
「もう、こんな時間か」
Y君の声だ。

弟さんの運転で駅まで送ってもらった。美味しゅうございました。店主の弟さんにお礼を言った。
それから大分経って、なぜか帰宅したのは9時過ぎだった。国立の一番古い喫茶店でY君と延長戦を楽しんでいたからだ。いろいろと熱く語り合った。
夜になってもまだ早春のしとしと感が残っていた。
A君に大感謝である。

作家の山口瞳が愛した鰻店『うなぎ 押田』は、紛れもなくトウキョウの名店である。タイヤのミシュランさん、いらっしゃい!

メニューは下記の通り。
うな重 うな丼 2,100円 竹 2,700円 松 3,500円 殿様丼 5,600円
蒲焼き 竹 2,400円 松 3,200円 白焼き 3,200円
一品料理 肝焼(2本) 1,100円 うざく(うなぎの酢の物) 1,500円 う巻玉子 1,800円
やきとり(2本) 800円 天ぷら 1,600円 茶わんむし 600円 骨せんべい 400円
新香 600円 御飯 350円 肝吸 300円
押田弁当 3,000円 押田弁当(上)4,400円
天重 1,400円 上天重 2,200円 親子重 1,000円 うな玉重 1,800円
桜コース 6,400円 楓コース 7,900円

鰻店『うなぎ 押田』は明治元年福島県双葉郡富岡町で創業した鰻屋『押田』の暖簾分け店。ここで20年以上営業している。A君によると、祖父がやり手だったらしい。
住所 : 府中市北山町3―24―2 電話 : 042―573―3167 営業時間 : 11時~14時 16時~20時 定休日 : 月曜日

ここまで読まれた賢明な読者諸氏は気づかれたはず。撮りたての写真がないのだ。そう、Y君と話に夢中で写真を撮るのを忘れてしまったのだ。一生の不覚。(笑) 今度はこの店にF先生ご夫妻を招待したい。

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一押田二も押した三春うなぎ

追記 高校3年時の話を一つ。Y君と誰かが漱石の小説『それから』(だったと思うが)の読後感について議論していた場面が鮮明に覚えている。詳細は忘れたが。 筆者がいた隣の教室で。当時は現代国語を教えていたT先生、この女性が若くて服装は七色変幻なんの、評判だった。

追記 鰻店の話をもう少し。 今日のフジテレビの番組でお笑い芸人の松本人志氏がタレントタモリ氏がよく話していた鰻店に行ったら、偶然にも本人のタモリ氏がいたとサプライズ発言。その評判の鰻店は博多・中洲の鰻店『吉塚うなぎ屋』みたい。関東の“白焼き”は福岡では“素焼き”と言うらしい。値段はほぼ同じみたい。博多に行ったら、観光会館の明太子屋とこのうなぎ屋はぜひ訪ねてみたい。(2015.3.15 記)

2015/03/08

クロカル超人が行く  171  国立 鰻店『うなぎ 押田』 4

青春時代パート2の話に夢中になっていて、鰻の肝2本がテーブルに供されていたのを忘れていた。鰻の肝なんぞ、そんなそこらじゃ食べられない逸品なのだ。これはぜひ召し上がりたいと思っていたもの。粋な計らいでありつけたことに感謝である。生ビールが3杯目?あたりで鰻の肝を食したが、美味いのなんの、手が付けられないほどの美味。肝は思ったより柔らかく、そんなに甘くもなく、タレのつけ具合も最高だ。口の中では香ばしさも手伝ってか、焼鳥を食べているときとは違って抜群に食感がいい。生ビールが進むわけである。話はこんなことにも及んだ。
「A君、貴君それに私の3人一緒に駅前でラーメンを食べたね。A君覚えている?家が薬局雑貨屋の」
Y君が昨日行ったかのような話振り。記憶が鮮明なのだ。
「当時ラーメン1杯、確か100円だったかな」
Y君が続けた。
「うーん、細面の人かな」
筆者は記憶を手探り始めた。A君は街中育ちのせいか少し気障っぽかったか。ラーメン店、where ?

そうこうしているうちに本日のメインディッシュの鰻の白焼きがお重に乗って供された。
「滅多に食べられないものかも」
店主が腕によりをかけた自慢の一品で、美味しく召し上がれとのサインを送ってくれた。その声は暖かい心の声だった。
「白くふわふわ感たっぷりで超柔らか、しかもシンプルな味わい。美味しい」
店主に言われるままワサビをつけて食した。こんな食べ方は初めてだ。疲労回復にもってこいの鰻は、食感もいいので思ったよりたくさんの鰻好きがいるはず。が、筆者も含めて大抵の人は安どんぶりチェーンの中国産などを食べているのだ。神田駅西口そばには四万十川清流の鰻を使用した比較的安い鰻店がある。昼飯によく通ったものだ。もう大分前である。変わったところでは、横浜の山下公園入口に鰻を使ったデンマーク料理を出す有名な『スカンディア』がある。このコラムの冒頭で言及した通り、今や鰻は高嶺の花なのである。〈続く〉

2015/03/07

クロカル超人が行く 171  国立 鰻店『うなぎ 押田』  3

生ビールとツマミの鰻の蒲焼きを細切れにした一品が供された。まずはK君と再会を祝して生ビールで乾杯した。お椀に溢れんばかりの蒲焼きをつまんで口に入れたら、ぱっと口の中に少し甘いがしっかりした鰻の食感が広がった。焼き具合の黄金色といい、秘伝のタレに浸されたものと想像される艶といい、小さな光沢を放っているばかりではなく、ツマミにあうしまった感じのする鰻もまた、乙なものだ。生ビールの進み具合が急に速まった感じだ。何せ鰻店でゆっくり食した経験がない筆者にとっては、味わい深い異空間でもてなしの鰻料理にワクワクなのだ。K君とは去年久し振りに会ったときの話の続きになったようで、青春時代パート2といった様子。
「どこで外国人を見つけたの。田舎じゃ、いないものね」
K君が生ビールを少し嗜んだあと訊いてきた。
「うーん、確かT市のビルの1階で確か上智の露語科を出た女性がやっていた喫茶店かな。何かいろんな情報交換ができた店だったから」
筆者は必死に当時のことを思い出していた。それは細くて繊細な記憶の糸を一つまた一つ解きほぐす作業だ。それ以前は記憶の糸に縛られたまま、永久に忘却の彼方に押しやられるはずだったものだ。〈続く〉

2015/03/06

クロカル超人が行く 171 国立 鰻店『うなぎ 押田』 2 

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「こんにちは。Kと申します。今日はお世話になります」
出迎えてくれた店主と奥さんに挨拶した筆者。
入口からテーブル席を通り抜け左手にある和室に案内された。2人席にしては贅沢な日本間の空間である。座席に着いてすぐに、筆者はY君とY君の弟さんの店主にお土産を渡した。ごくありふれたお土産だがご当地ものだ。すると、Y君もお土産物を持って来ていて、お互いに物々交換している格好みたいで可笑しかった。
「この花はうちのが生けたんです」
恰幅がよくて心優しそうな店主の発した言葉には多少自慢げな様子も。夫婦愛が一瞬覗けた感じだ。壁側には確かに春を思わせる紫の花の小宇宙が愛しいくらいに広がっている。奥さん自信作の生け花だ。
「奥さんは美人ですねえ」
滅多に口にしたことがない筆者が思わず言ってしまった。それほど彼女の美貌にはっとさせられたのだ。女優では誰似かと考えたが咄嗟に浮かばなかった。
「兄とはよく喧嘩をしました」
懐かしげに語る店主。
「そうだな」
Y君が頷いた。
「この店は多摩では名店だそうですね。ネットの書き込みで読みました」
筆者が伝えると
「いやー、東京の名店と言ってほしいですね」と店主に切り返された。この地で長らく営んでいる鰻職人の顔を覗かせた一瞬だった。
「で、店主はどこで修業したんですか」
筆者が訊ねた。
「上野の伊豆榮です」
確かそう言われた。江戸中期から続く有名な鰻割烹の店だ。筆者はこの店の永田町店で昼飯に九大のM先生とうな重を食べたことがあるが、上野の森の一角にある店でいつかは鰻の蒲焼きを食べてみたいと思っている。

「飲み物は何にしますか」とY君。
「とりあえず、生ビールでお願いします」と筆者。

こうして2人の青春時代パート2の宴会が始まった。どんな美味しい鰻料理が出て来るのか楽しみだ。〈続く〉
【写真上と下: 『うなぎ 押田』のwebsiteから。上の写真は入口付近で下は筆者らが食した座敷】

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2015/03/05

クロカル超人が行く 171  国立 鰻店『うなぎ 押田』 1 

鰻店『うなぎ 押田』に入る前に、鰻に関するとっておきのエピソードを一つ。本か雑誌で読んだのか今となっては記憶が曖昧だが、歌人の斉藤茂吉の鰻好きはつとに有名で、戦中疎開先にも鰻の缶詰を持ち込み、疎開が終わって自宅へ帰るときも余った缶詰を持ち帰ったほど鰻好き。息子の精神科医・随筆家の斉藤茂太の話が面白い。茂太が見合いすることになり、宴席に父である茂吉も出席した。人生の節目の儀式に鰻の蒲焼きが出ていざ、食べるときになった。茂太のお相手の女性(もちろん後の奥方)が緊張のあまり一箸つけただけでそのままの状態が続き、見かねた茂吉がもったいないと思いその鰻の蒲焼きを食べてしまったというのだ。大好物の鰻がずっと目の前におかれてあるのに堪らなかったのかも知れない。後年茂太が夫人から「あたしだって、喉から手が出るほど食べたかったの。それなのに、あなたのお父さんたら…」と言われたという。げに食べ物の恨みは恐るべし。この場合は鰻である。斉藤茂太や斉藤宗吉(作家の北杜夫)のご兄弟の書きものには鋭い人間観察のなかにもオブラートに包んだユーモアがある。下記は鰻好きの茂吉の歌。

戦中の鰻のかんづめ残れるがさびて居りけり見つつ悲しき

〈続く〉

2015/03/03

クロカル超人が行く 171  国立 鰻店『うなぎ 押田』その前に

「裂き3年、串8年、焼き一生」といわれている鰻店、昨今は鰻不足で値段が高騰していて庶民には高嶺の花だが、今回知り合いのY君の計らいで弟さんが営む鰻店『うなぎ 押田』でご相伴にあずかった。
その日は生憎雨模様でしとしと冷たい雨が降る中、店のあるJR国立駅まで出かけた。3月初めの日曜日にしては電車は思っていたより混んでいた。立派になったJR国立駅には11時10分前に着いた。改札口前のほうに相変わらず元気そうなY君がいた。去年の11月半ばに会って銀ブラして以来3ヵヶ月振りである。彼とはどういう訳か偶然のなせる技でことが動く。最初は去年、筆者が図書館で調べものをしていて司書が資料を探している間、突然彼の名前が浮かんでどうしているのかと気になり、調べものしたあとに試しにパソコンで検索してみた。すると名前と住所が出てきたのだ。ビックリである。で、さりげなくその住所に手紙を出して近況を訊ねた。すると、今度はメールで「まさしく、Yです。まだ生きています」との何やら尋常ではない言葉が認められていたのだ。それで本当に久し振りに会うことになったのだ。筆者の熱中時代の産物も聞きたかったらしいが、そんなものは青春初期の置き土産にすぎないのだが。彼にとっては強烈だったらしい。彼が上京時の去年の4月は東京駅の新名所や新宿ゴールデン街など夜の東京を筆者がガイド、そこには“青春25時の夢舞台”があった。そして11月に彼が仕事で再上京したときには銀座のランドマーク『サッポロビアホール』や太宰治が通った店『ルパン』にも顔を出した。その間に彼の大病の話と克服の過程を聞いて胸が熱くなったこと、それに実家が東日本大震災・東電福島原発大事故で被災し、帰宅困難地域になっていて帰宅出来ないこと(筆者は高校時代に彼の実家を一度訪ねている)など。人生の一大事を乗り越えた彼は再び青春時代へ、気が合う仲間と青春プレイバックしたのだ。
そう、これから山口瞳が贔屓にしていた鰻店『うなぎ 押田』に行くのだった。その山口瞳といえば、サントリー時代(当時の有名な雑誌は山口瞳も参画していた『洋酒天国』)のヒットコマーシャル、「トリスを飲んで、ハワイに行こう」が有名だ。筆者はその昔池袋駅西口から出て15分位にあった左角の飲み屋?屋根に取り付けられたトリスの看板を思い出す。もう大昔、まだ池袋が暗く少し恐い街だった頃ー。
そんなことお構い無しのY君、失礼。
『うなぎ 押田』はタクシーで7分の住宅街にあった。もちろんY君が案内してくれた。〈続く〉

【写真下:店主から頂いた店の献立】

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