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2012/12/29

松井秀喜選手の現役引退会見

12月28日朝のニュースはどのテレビ局も一斉にニューヨークからの生中継を放送していた。大リーグのプレイヤー松井秀喜の現役引退会見だった。筆者などはとうとうその時が来たかと瞬時に思った。イチローのヤンキース電撃トレードもドラマチックだったが、松井選手の現役引退発表もそれに劣らずの感じ。日本とアメリカで20年、スラッガーも体力の衰えには叶わなかった。38才の現役引退は少し早いと誰もが思ったかも知れないが、両膝の故障などで以前の力を出し切れない不甲斐なさに自ら終止符を打ったとも言える。天才がバッターはその天分に努力を重ねることを忘れなかった。記者会見で現役野球選手生活では長嶋さんに素振り練習を教えられたことが一番印象に残っていると語った。もちろん長嶋さんもコメントを出している。松井選手には一流の選手に育ってもらいたいがために褒めることをしなかったらしいが、今回は違った、一流の選手だったと褒めた。松井選手も語っているように、長島さんには技術の指導ばかりではなく、その人柄にも触れたことだったようだ。だからヤンキースでの活躍でもゴジラはニューヨーカーに愛されたのだ。ニューヨークタイムズのスポーツ記者はヤンキースのピンストライプのユニフォームフォームを着た背番号55、Matsuiを忘れないと語った。筆者にしてもあくまでもファンを大事にするプロ選手、しかもその人柄がいいと思ったほど。少し不器用だがみんなから愛されたのだ。だから巨人上層部からコーチや監督になれる人と受け入れの用意があると言ってもらえるのだろう。
また、大物プロ野球選手が去った。今朝の朝刊を読んで珍しくある感慨に浸った。思い出すのは3年前のヤンキースタジアムでヒットを打った松井選手、筆者は内野中段でその光景を目にしたのだ。良い思いである。
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【写真 : 筆者撮影】

下記は『ニューヨークタイムズ』の松井選手引退の記事から。

December 27, 2012
Matsui, Star in Two Continents, Is Retiring
By KEN BELSON
Like the United States, Japan has its own baseball royalty, and the princes are high school players drafted by the Yomiuri Giants. Being chosen by the hallowed Giants — Japan’s equivalent of the Yankees, the Lakers and the Cowboys combined — does not guarantee success. But the princes who succeed on and off the field are all but certain to be anointed kings.
Some of Japan’s most beloved players include Shigeo Nagashima, Sadaharu Oh and Tatsunori Hara, who all starred for the Giants and later managed the team. Hara just guided the Giants to their 22nd championship, easily the most in Japanese baseball.
Hideki Matsui was destined to follow them. After a stellar high school career, Matsui was chosen by the Giants and made his debut in 1993 to much fanfare. His powerful bat earned him the nickname Godzilla, and he wore No. 55, a nod to Oh’s single-season home run record. Under intense scrutiny, he lived up to the billing, hitting 332 homers in 10 seasons. He led the Giants to three titles, including in 2002, when he was won the Most Valuable Player award.
It was his swan song in Japan. Matsui, the humble country boy who gave his all, who never raised a fuss and made grandmothers across the country proud, became a free agent and joined the Yankees the next year. Japan was torn. He was at the height of his powers, yet he headed to New York to play on baseball’s biggest stage.
“I tried to tell myself I needed to stay here for the prosperity of Japanese baseball,” he said in a nationally televised news conference a decade ago. But “I will do my best there so the fans will be glad I went.”
No doubt, Japanese fans were glad he went. Matsui hit a grand slam in his first game at Yankee Stadium, in 2003, and he helped the Yankees return to the World Series that year. He played in every game his first three seasons before injuries sidelined him. He finished with a bang, hitting three homers in the 2009 World Series, which the Yankees won; he was named the most valuable player.
Matsui played with the Angels, the Athletics and the Rays in the last three seasons, but he was a far smaller presence. On Thursday, he conceded to the inevitable when he announced his retirement in a room packed with Japanese reporters at a Midtown Manhattan hotel.
“I wanted to bat cleanup again, but the results weren’t there,” Matsui said in slow, quiet Japanese, his eyes seemingly welling up. “I thought it was time to stop.”
With characteristic understatement, Matsui said he had no regrets, only that he could not play better. He paid homage to Nagashima, his manager on the Giants, who told him that Joe DiMaggio had also played center field, where Matsui played in Tokyo. Ever polite, he refused to name a favorite teammate so as not to leave anyone out.
Derek Jeter was not as shy. “I’ve had a lot of teammates over the years with the Yankees, but I will always consider Hideki one of my favorites,” Jeter said in a statement. “Despite being shadowed by a large group of reporters, having the pressures of performing for his fans both in New York and Japan and becoming acclimated to the bright lights of New York City, he always remained focused and committed to his job and to those of us he shared the clubhouse with.”
Matsui declined to say what he planned to do next. But given his even temper and reputation, managing in Japan is a natural choice.
“I guess managing, he has the ability to do that,” said George Rose, who translated for Matsui when he came to America and is an adviser to the Yankees. “Younger players would really relate well to him.”
If Matsui had stayed with the Giants, he would have been groomed to take over as manager. But his departure for America irked the Giants, who tried hard to keep him. Though Hideo Nomo, Ichiro Suzuki and many other Japanese moved to America before him, Matsui was the first star from the Giants to leave. His decision not to play for Japan in the World Baseball Classic also made waves.
The question may be irrelevant because Matsui appears comfortable living in the United States, said Robert Whiting, who has written extensively about Japanese baseball. Here, he can blend in and raise a family without being chased by ever-present reporters.
“Still, I somehow think that all would be forgiven if Matsui wanted to come back to Japan,” Whiting said. “Matsui has a lot of capital to spend in Japan.”

David Waldstein contributed reporting.

2012/12/27

余りにも早すぎたYさんの死ーある死その5

その死は余りにも早過ぎた。

懐かしさ凍る季節に訊ねるも誰もが返す言の葉知らず

Yさん享年63歳。人はいつかは死ぬ。早いか遅いかの問題である。大昔英文法の例文で習った単純な文章を思い出す。Man is mortal. 確かこんな文章だったと思うが、当時このmortalの単語に何か道徳臭さを感じて、be動詞の働きの理解がスキップされ、「人は死ぬものである」の日本語が一人歩きした。そしていつの間にか頭にこぶりついた。だが人はそう簡単に死ぬわけがないと買い被っていた。今思えば若気の至りだったか。そうして疾風怒濤の時代には芸術家気取りよろしく早世を夢見た。その後は死を忘れて生を謳歌してきた。矛盾した感情を抱きしめて疾走したとも言える筆者。冠婚葬祭という人生の儀式を遠ざけて、今ここを生きた。筆者と違ってYさんは執拗にコモンセンスの人であった。幼いときの苦労を乗り越えて、術は共に生きよ、共助、共生、共存の精神に貫かれていたのかも知れない。何を造っているんだろ、でお馴染みの会社に入って幾星霜、決して本流を歩んだ訳でもないが、一技術屋あるいは設計屋と自ら造り自ら内外問わず需要のあるところはどこへも駆け巡った。金沢、青森、フランス、マレーシア、中国などへ飛んだ。その仕事に賭けるバイタリティーも凄かった。あるいは良き家庭人として。ワーカホイックなまでの会社人間の顔を覗かせていたのも事実。
しかし、悲しいかな、人はやはりいつかは死ぬ。この紛れもない事実に直面したとき、人はかけがえのない存在者を失った喪失感で絶望的になり、ポカーンと穴が空いた感情にとらわれる。あえて言えば存在の不快、といった感情だろうか。ある作家のエピゴーネンでは毛頭ない。人間の儚さを思うのだ。

赤ワイン、飛びっきり辛いの下さいな、この際ちびっとではなく、ガブッと飲み干したいな、誰ともないつぶやきが聞えた。幻聴かと疑ったが確かな人間の声、寒空に三弦の月が光り、雲間に誰かがお隠れになった。一瞬、静寂―。

それにしても死、最近評論に近い英文書評を読んだノルウェーの作家、クナウスゴルト作『わが闘争』には父の死に直面して作者と思しき主人公が漏らす言葉が印象的。結局人間は死によって物質になる、大地に帰るのだ。そして本当に久し振りにー学生以来かーアルチュール・ランボーの有名な詩句を思い出した。

とうとう見つかった
何がさ、永遠だよ
海に沈む夕陽

Yさん、さようなら。合掌。 

因みに今年亡くなった著名人は下記の通り。
二谷英明、芦野宏、淡島千景、尾崎紀世彦、小野ヤスシ、地井武男、山田五十鈴、大滝秀治、桑名正博、桜井センリ、馬渕晴子、森光子、中村勘三郎、小沢昭一、伊藤エミ、藤本義一、浜田幸一、横森良造、三宅久之、安岡力也、ベアテ・シロタ・ゴードン。著名人のなかにも早過ぎた人も。御冥福をお祈りいたします。

2012/12/26

超人の面白ラーメン紀行 164 神田神保町『可以』

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以前にも書いたがラーメン店の開閉店が激しすぎる。それだけ競争が激化している証拠だろう。落ち着いて食べてみようと出掛けてみるもすでに閉店していたなどはよくあるケースだ。神保町界隈もその例に漏れない激戦区。しかも『ラーメン二郎 神保町店』や『用心棒』それに覆面某の店がある神保町二丁目は、いつの間にか軒を連ねてラーメン店ができていた。その周辺だけでも7、8軒はあるか。この辺であの3.11の大地震を体験したのだった。地面が大きく揺れた。筆者はちょうどラーメン二郎に寄ろうと近くを通ったが営業時間が過ぎていて入れず、ほんの少し歩いていたら覆面某の店の前辺りでビルが、電線が大きく揺れたいたのだ。怖かったあ。
今回登場のラーメン店はそんな軒を連ねる一角にある、味噌系つけ麺が売りの『可以』。高田馬場の『渡なべ』の支店、開店して3年目らしい。何ともユニーク、何とも濃厚な味が売りだ。筆者は高田馬場の『渡なべ』で実食した経験はない。ともかく味噌に魅せられて入ったのだがその濃さが半端じゃないのだ。カウンターの比較的奥の方に座り味噌ラーメンを頼んだ(800円)。何分かして出てきたラーメンを一振りしてサプライズ。濃い、コイ、こいといった感じ、スープがドロドロ状態、もちろん動物系と魚介系のダブルスープだろうが、ともかく濃い味、これにはマイッタ。今までこんなドロドロ系は食べたことがない。思わずスープ割をもらいたかったほど。むしろつけ麺専門店の様相(開店早々はつけ麺専門店だったらしい) 。太麺ストレート系はごく普通、チャーシューは柔らか。①醤油②味噌③海老醤油④海老味噌⑤辛醤油⑥辛味噌⑦カレー⑧トマト⑨黒胡麻の中からスープが選べるらしい。そして店のお勧めがスープでの組み合わせ。Ncm_0514_3


一色つけめん(750円)、二色つけめん(850円)、三色つけめん(950円)と。その他味噌らあめん(800円)、醤油らあめん(700円)、味噌つけめん(850円)、醤油つけめん(750円)がある。意外とトマトのスープがイケるみたい。筆者は今回が初めてだから今度挑戦してみよう。若者組にはウケるかも。
住所 : 千代田区神田神保町2-2-12 サンエスビル1階 電話 : 03-5215-5623 営業時間 : 11時〜20時 無休

神田神保町『可以』①スープ★★②麺★★③トッピング★☆④接客・雰囲気★★⑤価格★☆

2012/12/24

超人の面白読書 97 河合武著『不思議な国の原子力ー日本の現状ー』 8

この本は51年前に書かれた本だが、新聞記者が原子力問題について書いた先駆的な本だ。これは長崎、広島に原爆が投下されてから約10年後、新エネルギーとして原発を導入する動きがあって、その導入時期や何をどう進めるか、国民を愚弄しながら強力に推進する一部の財界人や政界人それに官僚が決定していくプロセスを一担当新聞記者の目を通して明らかにされたものだ。原発を導入することで莫大な利益を得ようとする財閥系会社、その前に原発先進国のイギリスやアメリカに翻弄される政治家の姿も明らかに。しかし、著者も書いているが、安全性や万が一事故が起こった場合の補償問題が議論されていたけれども、きちっとした見通しを立てずに見切り発車していたことが分かるのだ。著者はこのことに警鐘を鳴らした。この本は私たちに原発を導入することで何が変わるのか、何が問題として残るのか、よく示してくれていると思う。図らずも40年後に起こってはならない炉心溶解(メルトダウン)という前代未聞の原発事故が福島県浜通りに建造された東電福島第一原子力発電所で起こったのだ。その当時誰が予想しただろうか。そして放射能が降って福島の地域住民は今もって避難を余儀なくされているのだ。その数16万人とも。次々と明らかになって来る事故当時の政府、東電の対応、どうも適切な判断で事に当たったというよりは事実隠しが先行した格好に思えてならない。今こそ先駆的なこの本を手にとって読み返すことが必要かも知れない。大いなるヒントを読み取れるからだ。残念ながら絶版なので図書館で借り出して読むしかないが・・・。

蛇足だが昭和36年(1961)に角川新書の一冊として発売されたこの本の巻末の広告を見ると、下記のようなタイトルが並ぶ。新書版なので一般受けするものが主体のはずだが。
市村其三郎 現代人の日本歴史 120 辰野 隆 凡愚春秋 110 朝日新聞社会部編 日本人 120 江口 清 天の手袋―ラディゲの生涯と作品― 100 山田 続 老子 130 片岡弥吉 長崎の殉教者 120 河盛好蔵 江毛つれづれ草 110 幸田 文 身近にあるすきま 110 ※数字は当時の書籍価格。60年安保直後の世相が解るか―。

2012/12/20

超人の面白映画鑑賞 イングマール・ベルイマン作『秋のソナタ』 3

ベルイマンの作品には登場人物は少ないが饒舌さがある。この後の作品『ある結婚の風景』にしてもほとんど夫婦の会話で終始終わっている。これは北欧人の解決法の一つを提示している証左なのか。それにしてもあからさまだ。母娘が激しくぶつかった結果、一つの答えを引き出し、もう一つには解決へと氷解して行く過程が読み取れる。人生の諸問題の、人間の生き方の根源にあるものを抉りながらー。
最後に「ユーロスペース」のパンフレットから。舞台となった北欧ノルウェーの静謐な風景と柔らかな秋の光が、人間たちのドラマに深い陰影をもたらしている。

冬の土曜の昼下がりは生憎小雨模様、ジャストセーフで渋谷の道玄坂にある映画館「ユーロスペース」に入った。やはり年配者、特に女性が多かったが中には若い人たちもいた。ベルイマン映画の世代間を超えた人気だろうか。観客はそう多くはなかった。『第7の封印』、『野いちご』と『処女の泉』も来年7月に上映予定とか。
イングリッド・バーグマンの英語はきれいで分かりやすかったが、スウェーデン語の聞き取りはまだまだで、修業が足りないことを痛感。30年以上経った映画だが決して色褪せていない。『秋のソナタ』は“秋のドナタ”と言い違えてしまうほど(笑)。
この映画の上映を知ったのはインターネットラジオ「オッターヴァ」の視聴者のショパンの「プレリュード2番イ短調」のリクエストからだった。多謝。

2012/12/19

超人の面白映画鑑賞 イングマール・ベルイマン作『秋のソナタ』 2

あらすじ。とあるノルウェーの町の牧師館でエーヴァ(リブ・ウルマン)が手紙を書いている。彼女の夫で牧師のヴィクトルがドアの後ろで彼女とのなれそめなどを語るところから物語が始まる。ジャーナリストのエーヴァとは教会の会合で知り合い結婚・・・。エーヴァの手紙は愛人を亡くした国際的なピアニストである母親シャーロッテ(イングリッド・バーグマン)を慰め、休息を自分の家で取ってほしいとの手紙だった。夫にも読んでもらった。
楽譜などを詰めたトランクをもちながら母親シャーロッテがエーヴァの家にやって来る。母娘は久し振りの再会に喜び合う。シャーロッテは愛人と病院で過ごした出来事を芝居じみて話す。その後エーヴァが退行マヒの障がいをもつ妹エレーナがいることを告げると母親シャーロッテの表情が急変。エーヴァは妹エレーナを施設から引き取って自分が夫とともに面倒みていると話す。なぜ手紙でエレーナのことに触れなかったかと母親のシャーロッテがエーヴァを責めるが、書けばきっと来ないとエーヴァが反論。多少口論なるもシャーロッテはエレーナのいる2階へ。母親に会えた喜びを一言喋るのがやっとのように振る舞うエレーナ、この時ばかりとファンからもらった高級腕時計をエレーナの腕にはめてやるなど母親なりの愛情を注ぐシャーロッテ。夕食の準備をするからとシャーロッテに告げたエーヴァは、夫と夕食の支度に取りかかりながら母親のことや自分のことについて夫に話す。夫は妻を労わる。
夕食後シャーロッテは外国にいるマネージャー、ポールからの英語の電話でコンサートの受注を受ける。少し明るくなったところでシャーロッテは娘のエーヴァにピアノを弾いくれるよう依頼する。ショパンの『プレリュード2番イ短調』を弾き、母親シャーロッテに感想を求める。シャーロッテは最初褒めるも娘の執拗な感想の求めにプロ意識丸出しの辛辣な批評を吐いてしまう。そして自分が見本を示してピアノを弾く。ヴィクトルは何も言わず見ている。まだ陽があるので散歩にシャーロッテが誘うもエーヴァは水死した息子の部屋に閉じこもる。その夜エーヴァから幼くして水死した息子のスライドばかりを見せられ、娘がおかしくなっているとシャーロッテが呟く。ベッドに着いて亡くなった愛人の資産管理のこと、パリ行のことを考え、また、新車を娘夫婦にと考えるも今乗っている車を譲って自分が新車を買うと心変わりしたりする。やがて眠りにつくが悪夢にうなされ起きてしまう。気づかったエーヴァがシャーロッテに付き合うが、ワインを飲むほどに自己主張が激しさを増していく。芸術家気取りで男性的な性格のシャーロッテを娘エーヴァが家庭を顧みない女性のエゴイストと激しく非難する。そのためにいかに惨めだったかと自分の子ども時代を告白。これに対してシャーロッテは音楽家としてちょうどスランプの時期で大変だったと激しく反論。母娘譲らずの激しい口論はこの映画の最大の山場、二人の女優の迫力ある演技が光る。やがて憎悪劇は母親シャーロッテが罪を認め許しを乞うことで収束する。シャーロッテは予定の宿泊を早めに切り上げ、マネージャーのポールとジュネーブに演奏旅行へ。一方エーヴァは死んだ息子の墓に。そしてエーヴァが言い過ぎた自分を反省し、いつでも分かり合える、これからでも遅くないと手紙を書き、郵便局に行く準備をしている夫ヴィクトルに読ませ、彼が封をとじる。物語はここで終わる。

この物語はベルイマンが現実には母親と娘との確執があまりないことにヒントを得て書かれたらしい。<続>

2012/12/16

超人の面白映画鑑賞 イングマール・ベルイマン作『秋のソナタ』

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イングマール・ベルイマン監督『秋のソナタHöstsonaten』を観た。ベルイマン60才の作品で主演のイングリッド・バーグマン、共演のリブ・ウルマンの迫力のある演技が光っていた。イングリッド・バーグマン没後30周年記念デジタルリマスター版。上映時間92分。彼女はこの映画出演(1978年スウェーデン劇場公開)から4年後、癌のため67才で亡くなっている。だからこの映画は彼女の遺作。オールドファンにはお馴染み、イングリッド・バーグマンといえば『ガス燈』だろう。あの美貌、そして霧の街ロンドン。時は1939年、相手役はシャルル・ポワイエ、推理白黒映画。スカパーなどではこれでもかと再放送を繰り返している名作。しかしこの映画で見せた晩年のバーグマンの演技力も凄い。40本以上あるベルイマン映画は全て鑑賞するつもりでいる筆者にとっては良い機会だった。この映画が日本公開された1981年になぜか見逃していて、その後も気にかけてはいたが観る機会がなかった。その年は某社に途中入社したばかりで映画を観る余裕がなかったのだ。

恋愛経験も持つ国際的なピアニストと抑圧されて育った娘との壮絶な確執を描いた母親と娘の愛憎劇。<続>

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2012/12/15

超人の面白読書 97 河合武著『不思議な国の原子力ー日本の現状ー』 7

毎日新聞2012年10月22日付朝刊で原発問題連載記事、この国と原発 第7部 メデイアの葛藤 1 続けられた批判記事の中で、この本について言及している。

河合氏は、日本でもっとも早く原発を批判的に報じた記者の一人。49年に入社し、54年の第5福竜丸事件を機に原子力取材にのめり込んだ。中略。安全審査を形骸化させた原発推進体制の問題点を指摘した河合氏の著書「不思議な国の原子力」(61年、角川新書)はこう結ぶ。「原子力の『関係者』は、常に『国民全体』である。だから原子力は、ガラス張りの中で、公正に進めらなければならない」

こう書いてきて原発の動きに新たな問題が浮上。敦賀原発の下には活断層が走っていたとの原子力規制委員会の調査結果である。新聞は廃炉と大見出しをつけていたが、法的根拠はないらしい。しかし、安全性には重大な問題、廃炉への道筋をつけるべきだ。経済性優先はこの際二の次だ。このところまた、比較的大きな地震が来ているし、それが原因で再び原発事故が起きたら取り返しのつかない事態が生じることは明白だからだ。昨日東電は3.11 直後の福島原発事故以来初めて自分たちの過失を認める発言をした。衆議院選挙の争点の一つでもある原発問題は事態を悪化してはならない。当事者目線を持ち、他人の痛みを分かち合うことができる社会を構築することが求められているのだ。そう言った意味でも今度の日曜日の選挙は3.11後を占う貴重な選挙になるはず。民主党は70を切ると予測する日経新聞ー。こう書いて来て、またまた活断層が。今度は青森県の東通原発にも活断層・・・。〈続〉

2012/12/03

超人の美味しいワイン試飲

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大阪のN氏から頂いた赤ワイン。2005年もののボルドーワイン。彼の友人がフランスの農園を経営していて、そこから送られてきたものを頂戴した。早速帰宅して試飲、辛口系で飲むほどにうま味が増す感じだった。ブラボー。

追記。美味しかったので親しい人にもお分けするつもりでN氏に注文の仲介を依頼したが、品切と素っ気ない返信。売れているらしい。味わいたい時に手に入らないのも悔しいけど仕方ない。
代わりにN氏お薦めの『チャイナジャッジ』が昨日手元に届いたので読み始めた。ワインレッドよりも濃いめのドロドロ系、みたい(2012年12月15日 記)。

2012/12/02

クロカル超人が行く 171 恵比寿にあるナポリ仕込みのピッツア屋『アンティーカ ピッツェリア ダ ミケーレ』

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やっと3回目で入れたピッツア人気店『L'Antica Pizzeria da Michele アンティーカ ピッツェリア ダ ミケーレ』。1、2回は電話予約するも取れず諦めかけていたところ、渋谷での用事の帰りに思い付いて寄ってみた。やはりすでに10人位は並んでいて危うく最後尾に並ぶはずだったが、ラッキーなことに、隅の一人席ならと案内してくれすぐ入れたのだ。案の定土曜昼下がりの店内は若い男女などで満杯、熱気で溢れていた。
定番のマルゲリータ(小 1450円)を頼んだ。他にビールとオリーブの盛り合わせも。出てくる間に店内を撮らせてもらった。ここの店員はフレンドリーで、窯を撮りたいなら近くでどうぞと案内してくれたほど。ピッツアを焼いている店員が喜びますよと。嬉しいことを言ってくれるじゃないー。8月の終わりに食べた横浜高島屋のイタリアンの店員とは雲泥の差だ。
撮影しながら思ったこと、それは窯色が他のイタリアンのと違って青、群青色でオシャレなことだ。丸みがかった造形美にも思わずカワイイと言いたくなるほど。さすが本場イタリアナポリから運ばれて来た逸品のことはある。ついでにキッチンそれに店内の飾りつけもカチャ、この店のナポリ本店創業者のファミリーの写真もNcm_0504_3Ncm_0502_2
頼んだピッツアが運ばれて来た。えっ、デカい、食べられるのかしらと一瞬不安になった。しかし、みんなよく食べているしまた、よく見るとワインもボトルで飲んでいる。まだ昼下がりなのに。時代は確実に変わったのだ。決して丸くないビッツアを自分でカットして一口食べた。もちもち感と窯焼きの焦げ具合の食感がいい。アメリカンスタイルのパリパリ系とは一味も二味も違っていた。美味。しかしあとで多少塩味が残ったか―。材料の小麦粉、塩、トマト、オイル、窯をイタリアから空輸し、こねり方、窯焼きなど本場イタリアナポリ仕込みのこだわりこそが、この独特で病みつきになりそうなピッツアを生みだしているのかもしれない。完食。
また、フィオルディラッテ(モッツァレッラ)などのチーズに至っては、ナポリにて朝出来立てのフレッシュを空輸で直送している(店のパンフレットより)。
食べ終えて店の外へ出た。行列はまだ続いていた。
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実はここに来る前土曜朝の旅番組「旅サラダ」でこの店のナポリ本店が紹介されていたらしい。いつもは観ている番組だが、時間によって同じような海外ものがこの他に2つあって、チャンネルを回している間に見過ごしてしまったのだ。残念。
最近ニューヨークそれにデンマークやノルウェーなどの国々から東京に進出してくるカフェやレストランが増えてきているようだ。それだけではないアジアの国々からも。今や東京は世界中の食べ物が本格的に食べられる都市に。そしてそれなりに人気を得ているのだ。ここもその典型的な店で若い人たちが頑張っている。頼もしい限りだ。
この店について書いた以前のコラムはこちら→2012年7月16日付「行列のできるピッツア店 恵比寿 アンティーク ピッツェリア ダ ミケーレ」
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■アンティーク ピッツェリア ダ ミケーレ
■03-5447-3800
■150-0013 東京都渋谷区恵比寿4-4-7
JR恵比寿駅東口から徒歩5分
■mon-fri/ 11:30-14:30 17:30-23:00
sat/11:30-23:00 sun/11:30-22:00



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