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2012/01/31

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 46 余滴

2011年10月始めにノーベル文学賞の発表があったが、日本ではあまり知られていない詩人トーマス・トランストロンメル氏の本をノーベル文学賞発表のあとすぐに都内の洋書店へ駆け込んで予約、1週間くらいでアメリカから届いた。それが『The Great Enigma』。それとインターネットでスウェーデンの版元から直接手に入れたe-bookの原書をゲット。英訳本をたよりにスウェーデン語の原書を参照しながら(スウェーデン語では意外と手間隙かかるのではとの勝手な筆者の思いで)、その本に掲載されている「わが回想」の日本語訳を試みた。それから約3ヶ月かけてようやく1月28日に“私訳”を終えた。大半が朝の通勤電車内で携帯電話のメール機能を使って行った。原書で約40頁、英訳本で約25頁そして日本語“私訳”で約21頁(但しA4判)だ。
回想、博物館、小学校、図書館、中学校、悪魔祓い、ラテン語の小見出しがついて幼少の頃から大学入学直前までの回想が綴られている。著者60才の回想記は筆者のそれとはかけ離れて一言でいえば〈内なる図書館〉の構築の過程であったか。誰でも小学校、中学校それに高校ではその時々の心に残る教師が良いにつけ悪きにつけいるものだ。筆者の例でいえば、高一の生物(著者は生物学や地理学それに中世の歴史が得意だった)の授業で生物担当の教師が、高校自分に出来の悪かった生徒でも後に大成する云々の話を白衣を着ながら語っていたのを昨日ように鮮明に覚えている。今そのことの意味をつらつら考えるに、エネルギーがまだまだ残っているので、それを自分が発見して行けばある程度(運不運はあるが)人生の荒波の中でナビが見つかり、自信をもって理想(自分の夢の実現)の岸に辿れるのではないかという意味だと解釈できた。
この回想を読み解く限りでは、著者は教師の一人息子というま、恵まれた環境(筆者の友人にもいるが)で育っているけれどもまた、早くして離婚の環境にも接していてその家族愛や兄弟姉妹などの揉まれ方が些か違っている。しかも1930〜1940年代の戦前戦中だ。その時代の幼少時の過ごし方―小学校前、小中学校生活―が手に取るように分かるのだ。特に教師の観察や描写が鋭い。思い入れや造形も深いのだ。筆者的にはギリシャ・ラテン語の教師のボッケン先生が魅力的だ。それとおませだったのか著者の博物館や図書館通いも凄い。しかも学校に上がる前にである。博物館では余りに熱心に通ってくるので正規登録させてもらったり学者と議論したりしている。相当おませである。また、図書館では大人の本を借り出そうとして司書に断られ、叔父が一計を案じて借り出しに成功する。悪ふざけもあるのだ。全てはかわいい少年の好奇心を満たしてあげたいばかりの大人の配慮なのだった。

2012/01/29

超人のかつおくんリポート 2012年 新物

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超人のかつおくんレポートもはや7年目。今年は1月25日に千葉産のものを1サク近くのデパ地下でゲット。出始めなので値段は高いがやわらかだった。一番寒い季節に食べるのもまた楽しからずや。

2012/01/28

ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 45 最終回

私の彼に対するイメージが13世紀の人生を扱った中世ラテン語の授業のあと更に悪くなった。曇天の日だった。ボッケンは身体の調子が悪く怒りが爆発寸前だった。突然彼は質問を浴びせた。「エリック・ザ・レイム・リスパー」とは誰か?テキストでエリックを調べた。私が彼はグレン・シェッピング(註。元々は小さな街。風刺週刊紙、グレンシェッピングス ヴェッコブラッドによれば、街はエリック・ザ・レイム リスパーとして知られているが、エリック エリックソン王(1216-1250)が創設した)の創始者ですと答えた。これは重苦しい雰囲気を明るくするための私の発した咄嗟の行動だった。しかしボッケンの怒りはその時だけでは収まらず、学期末でさえまでも続いて、ついに「警告」を私に言い渡したのだった。これは簡単な家庭への伝言だった。生徒がラテン語の授業のようなケースで科目をさぼったことに対して使われたのだが。私の作文の点数はすべて高かったので、この「警告」はラテン語の実績というよりはむしろ人生になった。
最終学年で私たちの関係は良くなった。試験があったときには全く本物になった。
その時あたりから二つのホラチウスのスタンザ形式、サッフォー的詩風それにアルカイオス的な詩を自分の作品に反映する術を発見したのだ。大学入学後の夏私はサッフォー的なスタンザでニ編の詩を書いた。一つは「ソローへのオード」、後に簡潔にして「ソローへの五つのスタンザ」となり、更に青春の部分が消されて行った。もう一つは「秋の群島」を順々にした「嵐」だ。しかしボッケンがこれらの詩を本当に知っていたかは知らない。古典的な韻律、それをどういう風に使うようになったか?
それは単にひょっこり現れただけだった。というのは、私はホラチウスの詩を現代的と見ていたのだ。彼はルネ・シャール、オスカー・レルケ、アイナー・マルムのようだ。その考えは大変ナイーブだが洗練されるようになった。


2012/01/27

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 44

ボッケンは慢性的な関節炎を患っていて強く足を引きずっていた。早く動くのがやっとだった。彼は自分の鞄を机の上に投げ出していつもドラマチックに教室に入って来た。数秒後私たちは機嫌が良いか悪いかはっきりと判った。天気の状態が彼の気分に影響するからだった。ある冷たい日に彼の授業は全く快活そのものだった。低気圧に覆われていて雲が多いときには彼の授業は抑えがたい怒りの爆発で中断され、鈍くイライラした雰囲気の中でのろのろと授業が進められた。 彼は他のラテン語の先生と同じだと想像することすらできなかった。事実学校の先生より他に想像することは難しいと言われていたはずだ。最終学年の前年のコースで現代詩の自分の作品を製作中だった。私が古い詩を引用したと同時にまたラテン語の授業が戦争、元老院や執事官の歴史ものからカトウルスやホラチウスの詩に進んだときには、私はボッケンの支配する詩的世界に喜んで入ったのだ。
詩をこつこつ学ぶことは勉強になった。こんなふうに。生徒がまず多分ホラチウスからのスタンザを朗読しなければならなかったはずだ。

Aequam memento rebus in arduis
servare mentem, non secus in bonis
ab insolenti temperatam laetitia, morituri Delli

ボッケンが叫んだ。「訳しなさい!」そして生徒が強制された。
一つの気持ちでさえ…あー… 思い出して下さい、一つの気持ちに…いや、… 気難しい気持ちを持ち続けることが、そしてダメなら…あー…そしてこの、気持ちのいい…あー…極端な…あー…溢れている喜び、いつかは死ななきゃならないデリウス

現在古代ローマ時代のテキストは本当に地に落ちた。しかし次のスタンザのときにホラチウスがラテン語で詩の奇跡的な正確さを携えて戻って来たのだ。一方でつまらないものや老朽化したもの、他方で楽天的なことや崇高さを選択することで私はたくさん教えられた。それは詩と人生のことを扱っていた。詩の形式をおさえることで次のレベルまで引き上げてくれた。芋虫の足が消えて翼が広がったのだ。人は希望を失うべきではないのだ。
悲しいかな、ボッケンは私がいかに古典のスタンザから学んだか全く知らなかった。彼には私が1948年秋の学校誌に掲載された1940年代的な詩を書いている生徒にしか理解していなかったのだ。彼が私の詩の出来を見ると、大文字や句読点のマークを一貫して避けたことに関して彼は憤慨の反応を示した。私は粗野の進んだ兆候の一つだと判った。このような人はホラチウスの詩にも動じないに違いない。

2012/01/23

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 43

ラテン語

1946年の秋私は高等学校のラテン語コースに入学した。新しい先生の登場だ。モッレ、サターン、スレマン(スレ=さえない)に替わってフャーラル、フィード、リッラン、モステル(おばちゃん)やボッケン(山羊)のような人物だ。最後の名前が一番重要だった。彼は担任で私たちの個性が潰されたと思いたいほど私に影響を与えた。
私の先生になる数年前、私たちは劇的な接触の瞬間があった。ある日私は遅れて学校の廊下を走っていた。もう一人の少年が私と反対方向で突進して来た。似たようなクラスにいたGで雄牛としてよく知られていた。衝突を全く避けようとしなかったので向き合って急に止まった。この急なブレーキで勢いあまる攻撃を封じ込められたが私たちは廊下にぽつんと置き去りにされた。Gは右手の拳を出して私の上腹部をなぐった。私は目の前が真っ暗になり床に倒れた。19世紀の小説の中における独身女性のように唸った。Gが消えた。暗さが晴れてくるにつれて私は曲がっている一本の指にチカチカした星印があるのに気がついた。やつれて喚き、「どうした?どうしたんだ?」と絶望したかのように繰り返し声を出し続けた。そのとき私はピンク色の顔と白チョーク色のとても身綺麗な顎髭を見たのだ。顔の表情は心配している様子だった。
その声や顔からラテン語やギリシャ語を教えているペール・ヴェンストルム、別名ペッレ・ヴェンステル(左の意)、別名ボッケンだったと判った。彼は私が床にどっしりと倒れている理由について何も質問しなかった。彼は私が助けを借りずに歩けるのを見て満足そうだった。ボッケンが心配して現れ、手助けをしようとしたので、私は彼が良い人だという印象を持った。その印象は後々まで続き、私たちが心配事があるときでもそうしてくれたた。
ボッケンはかっこよく本当に芝居じみていた。彼は普段は白い顎髭を生やし、つばの広い帽子を被り、短いコートを着ていた。冬の外での最低の着飾りだ。ドラキュラの格好だとはっきりわかるのだが。ちょっと離れて見れば彼は優秀で着飾っていたが近寄って見れば彼の顔は無力そのものだった。
彼の特徴の半ば歌うような抑揚はゴットランド仕込みだった。

2012/01/21

クロカル超人が行く 154 港区三田 慶応義塾大学三田キャンパスで開催された講演会『大いなる伝統 西脇順三郎から田村隆一まで』

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 三田の慶応義塾大学で西脇順三郎アーカイヴ開設記念の講演会があって出かけた。講師は明治学院大学名誉教授の新倉俊一氏。今年は西脇順三郎没後30年で誕生日の今日、記念講演会が東館の5階で行われた(歴史を感じさせる瀟洒なホール)。ホールはほぼ満員の80名以上が聴講。西脇順三郎と親交があった詩人、影響を受けた人などを俎上に乗せ、大いなる伝統について詩やエピソードなどを交えて講演。紳士的ソフトムードの講演会だった。その中で戦後の荒地派の代表者、鮎川信夫の西脇詩の評価についての話が興味を引いた。「橋上の人」はやはり倫理の人、西脇詩についても厳しい評価―。その荒地派同人の、晩年は鎌倉の呑んべえ詩人こと田村隆一の話が印象的。西脇先生に表札をお願いしたとは。それは尊敬を通り越して崇拝者だろう。そう言えば英文学者の福原麟太郎、西脇順三郎、中野好夫、阿部知二の戦中行われた座談会(『文芸』昭和15年12月1日 改造社)で司会をしていた若い田村隆一がいたっけ。
 最後に演劇関係者の西脇順三郎や田村隆一の詩の朗読で終了。この後西脇順三郎アーカイヴ開設のお披露目を兼ねたプチパーティーが、「西脇順三郎―大いなる伝統」展開催中の南館アート・センターの2階であった。

 西脇順三郎アーカイヴ開設記念「没後30年 西脇順三郎―大いなる伝統」展は2012年1月10日〜2月24日まで慶応義塾大学アート・スペースで開催中。Nishiwaki_ten2ジョン・コリア、英文詩集『スぺクトラム』(この本の出版事情についての記事は、2012年2月10日刊行の小冊子『CPC Journal』第5号に掲載されるはず)、ジョン・コリアより新倉俊一宛書簡、「旅人かへらず」の詩稿ノート、表紙に使われた鳥居清長≪菖蒲の池≫、『アムバルワリア』、『詩の原理』、『昭和詩抄』、T・S・エリオット、エズラ・パウンド、瀧口修三、西脇セミナーの報告が連載された雑誌「詩学」など60余点が展示されている。狭いスペースにもかかわらずいろいろな詩人の息吹が感じられ、また、小千谷訛りの残る西脇順三郎「最終講義」も聴ける。鑑賞中にちょっと耳に入ったのが次の言葉。ぺらぺらと英語を話すばかりではねえ、文化がなければ・・・。
 この講演会のパンフレットの最後に掲載されている田村隆一の詩を引用しよう。



ぼくは17歳の4月、早稲田の古本屋で
不思議な詩集を見つけて
東京の田舎 大塚から疾走しつづけた
ワインレッドの菊型の詩集をめくっていると
ほんとに手まで赤く染まってきて

小千谷の偉大な詩人 J・N
言葉の輪のある世界に僕は閉じこめられてしまって
古代ギリシャの「灰色の菫」という酒場もおぼえたし
イタリアの白い波頭に裸足のぼくは古代的歓喜をあじわって
だしぬけに中世英語から第一次世界大戦後の
近代的憂鬱に入る

ぼくは50歳 偉大なるJ・Nは80歳 
ハムレットの 「旅人帰らず」という台詞がお気に召したらしく
J・Nはピクニックに出かけてしまったが
「じゃ現代はいったいなんなのです?」

おお ポポイ
哀ですよ
人は言葉から産まれたのだから
J・Nは言葉のなかにいつのまにか帰っているのだ

四千年前の 二千年前の 百年まえの
言葉という母胎に帰ってくる旅人たち
<4月は残酷そのものさ>
いつのまにか猟犬が地に鼻をつけ
まるでT・S・エリオットのような声で
ここ掘れワンワン

ここ掘れワンワン

吠えつづけていて

2012/01/18

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 42

当時私はすべての宗教に対して無神論者だった。確かに私は一度も祈らなかった。数年後に危機がやってきたなら、ある黙示として経験できたはずだ。私に起きたこと、それは釈迦の4人の邂逅者(老人、病人、死人そして物乞う僧)みたいだ。私は無意識に侵入した変人や病人に対して多少哀れみの感情や怖れない感情をどうにか持ったはずだ。しかしその時に戻って恐怖にとりつかれていたならば、宗教色に染まった解釈は私には役立たなかったのだ。祈らなくも音楽で悪魔祓いをしようと思えばできた。私は熱心にピアノを叩き始めた。
そうしてずっと成長してきた。秋季学期の始めに私はクラスで一番背が低かったが、終わりには一番背が高くなっていた。私の中に棲みついた恐怖は植物が急に成長するのを手助けする化学肥料的な役割を果たしたのだ。
冬が終わりかけ日が長くなった。今奇跡的に私自身の中の暗闇が引いた。少しずつだが事は起こったが何が起こっていたのかよく理解するには時間がかかった。ある春の夕方、私の恐怖は今端なものだと解ったのだ。私は深く考えたり煙草を吹かしたりしながら友達と座った。蒼白い春の夜に歩いて帰宅するときだった。家に待っている恐怖に私は怯えなかった。私が加担してしまったもの、おそらくは私の一番大事な経験だろう。でも終わった。地獄だったが煉獄だったと思った。

2012/01/16

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 41

私は最近生きることの喜びをなくした10代の若者たちについて読んだ。エイズが世界を支配するという考えに彼らがとりつかれるようになったからだ。彼らは私を理解したはずだ。
危機が始まった晩秋の夕方私が患った金縛りを母が目撃していた。しかし母は外部者に過ぎなかっただろう。誰もが締め出されるに違いなかった。先行不明は議論するにはあまりにも恐ろし過ぎた。私は幽霊に囲まれていたのだ。私自身が幽霊だったのだ。毎朝歩いて学校に行く幽霊が自分の秘密を暴かず授業中ずっと座っていた。学校は一息つく空間になっていて、私の恐怖はそこでは同じではなかった。幽霊が出没した私の私生活、すべてが混乱していたのだ。

2012/01/15

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 40

しかし私の怖さは増大し夜明けまでまとわりついていた。夜中支配した感情は恐ろしい人フリッツ・ラングのようだった。『マビュース博士の遺言』のはじめのシーンで機械や部屋が揺れ動いている間誰かが隠れている工場のシーン。夜はさらに静けさを増していたが、すぐにこんな状態にいると解った。
自分の存在で一番重要な要素が病気だった。世界は広い病院だった。人間が肉体や精神の中で変形されるのを私はじかに見たのだ。灯りが燃えて恐ろしい顔を掴み返そうとするが、時々うとうとして瞼を閉じてしまうと、突然に恐ろしい顔が私に近づいて来たのだ。
すべて沈黙のまま起こったが、沈黙の声が際限なく騒がしかった。壁紙の原型が顔に変身。時々沈黙が壁のちくちく鳴る音で破られた。何で生み出されたか?誰が?私が?私の病的な考えがそうさせたから壁が崩れたのだ。さらに悪いことには…。私が狂っていたのか?ほとんど。
私は狂気に引き込まれるのを恐れたが、一般的には病気を怖く感じなかった。心気症のケースはめったになかった。が、病気の絶対的な力で恐怖を引き起こしたのだ。映画のシーンのように、つまらないアパートのインテリアが絶えず人物に変身する場所や単調な音楽が聞こえるときなどに、私は全く違った外の世界を経験した。病気にうなされ目覚めたからだが。数年前には私は探検家になりたかった。今私はなりたくなかった未知の世界への道を推し進めてしまった。私は悪魔の力を見つけてしまったのだ。むしろ悪魔の力が私を見つけたと言った方が正確かも知れない。

2012/01/13

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 39

悪魔祓い

15才の冬の時期私は余りの酷い心配事に悩まされた。私は明るい方ではなく暗い方を射した灯りに彩られていた。私は黄昏がかった午後に捕えられ、夜が明けるまで恐ろしくて手をしっかり握ったままだった。ほとんど眠れなかったのだ。普通はベッドに座って目前の薄い本と戯れていた。この時期何冊か薄い本を読んだが本当にそうだったのか言えないのだ。私の記憶の中では何の痕跡を残していなかったからだ。それらの本は灯りをつけるための予備的な本だった。
晩秋が始まった。ある夕方私は映画館へ行って、あるアルコール中毒者を扱った、「浪費された日々」を観た。その映画は精神錯乱状態の男と一緒のところで終わる。今日私が子供じみたと解るはずの連鎖を壊す症状、それが精神錯乱状態なのだが、当時は違っていた。
横になって寝ていると、私は心の中に映画が再上映された。映画を見終わったときのような。
突然部屋の雰囲気が恐怖で張り詰めた。何かが私の身につけているものを取りはらった。突然私の身体が揺れ始めた。特に足が。私は傷ついたぜんまい時計でがたがたと走ったり飛び跳ねたりした。金縛りは自分の意志ではどうにもならないほどコントロールが効かなかった。こんな経験はしたことがなかった。私がうなされ悲鳴を上げたので母が来てくれた。徐々に金縛りは引いた。また来ることはなかった。

2012/01/12

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 38

私の一番の得意科目は地理と歴史だった。助教師のブレマンがこれらのクラスを教えた。血色が良くエネルギッシュなブレマンは若者でそのストレートでブロンドの髪は、よく怒ったとき端に寄る傾向があった。彼は善良な人で私は好きだった。私が書いた作文はいつも地理や歴史ものだった。長かった。これを考慮に入れながら、私は大分後に別の南ラテン中学校の生徒、ボー・グランディエン(詩人でジャーナリスト)からある話を聞いた。ボーは後に私の親友になったが、彼が話してくれたことは、お互いに知り合う前の早い時期だった。彼が言うには最初私の名前を聞いたのは、休み時間中で私の級友たちとすれ違ったときだった。彼らは自分たちの作文を返され点数に不満足だった。ボーは「トラナンのように早くすべては書けない」(*トラナンは鶴の意)との不満げな意見を聞き、「トラナン」は忌まわしい鳥で避けるべきだと決めた。私にはこの話は見方によれば気持ちのいいものだ。今日欠陥品でよく知られているが、私はその時量産する走り書き手で有名だった。文字通りスタハノフのような過度に生産して罪をつくったのだった。

2012/01/10

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 37

母は取り止めた。学校生活を通して私は2つの言葉―学校と家庭―を切り離して守ることに力点を置いた。もし2つの言葉がお互いに浸透しあったら家庭は乱されたと感じるはずだ。そうしたら私はもはや適当な逃げ場がなくなってしまうだろう。現在でさえ私は「家庭と学校の協力」のフレーズに何か同意できないものがあるのだ。私が実践した、分離した言葉を別々に保つことは私的生活と社会とを更にはっきりと区別し維持することにやがてなる(このことは左か右かの政治的傾向とは全く関係ないのだ)。学校生活全体は社会のイメージとして計画されているのだ。私の学校生活全体の経験は入り混じっていた。明るさより暗さの方だった。社会に対する私のイメージができあがったように(私たちは“社会”とは何かとよく訊ねたが)。教師と生徒の間の連絡はひどく個人的なものだ。個人的で重要な特徴が、クラスの雰囲気の中の多くの張り詰めた状況のために誇張されたのだ。個人的にはいいが乏しい私生活ではダメだ。私たちは教師たちの私生活について何も知らなかった。が、た
いていは学校の周りの通りに住んでいた。モッレが若い時にはフェザーライト級のボクサーだったといったように自然に噂が入ったきた。彼らはまともな証拠に辛うじて支えられていた。私たちはほとんど信用がなかった。私たちは何のドラマにもならない男、ほんとに目立たない2人の若い教師の信用できる情報を持っていた。その1人は貧しく夕方はレストランでピアノを弾いて自分のぎりぎりの給料で生活をしていた。もう1人はチェスのチャンピオンだった。彼は新聞に載った。
秋のある日モッレが授業に使うキノコ(筆者注 : Russula aerugina : ベニタケ属のクサイロハツというキノコ)を手に持って教室にやってきた。そして机の上にそのキノコを置いたのだ。彼の私生活を垣間見て解放された気分だったがショックも隠せなかった。私たちは今モッレがキノコを集めていることを知ったのだ。
教師たちの誰もが政治的な発言はしなかった。しかしときどき職員室では前例のない緊張が走っていた。第2次世界大戦がまたここでも戦わされていたのだ。多くの教師たちがナチに委ねられた。1944年の遅く1人の教師が職員室で叫んだという。「ヒットラーが倒れたら私たちも倒れるだろう」しかしながら彼は倒れなかった。私は後にドイツ語では彼を負かしたが。彼は見事に回復したので1946年のヘッセのノーベル賞を大はしゃぎしながら歓迎できた。
私は立派な生徒だったが一番ではなかった。生物は得意な科目だったはずだが、たいていの中学校には変わった生物担当の先生がいた。過去に彼はインクの染み付いた写しの本を持参したことがあった。彼は注意されてから静かな火山みたいになった。

2012/01/09

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 36

雨が降り注ぐような平手打ちをくわされた。私はあざけり笑った。次の瞬間モッレが机に戻り座っていた。怒りで泡を吹きながら家庭用のメモを書き出していた。「授業中の小さなミス」だったと責め立て、やや曖昧に表現していた。多くの教師は家庭用のメモがあれば両親の手元に詳しい罪に対する質問や罰を知らすことが出来たのだ。
私に関してはそうではなかった。母が私の話を聞いてからノートに署名した。その時母が私の顔に青あざを作っているのに気づいた。担任の愛の手の仕業だ。母の反応は意外に強かった。学校に連絡しようと母が言った。多分校長に電話するのだろう。
私は抵抗した。母はそんなことはできなかった。すべてを承知していた。しかし今は「醜聞」を恐れた。私は「母が教師の子ども」と呼ばれずっといじめられるはずだ。担任のモッレではなく職員全員に。


2012/01/07

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 35

続きの私訳に入る前に、少しこのトーマス・トランストロンメル氏の作品『わが回想』の周辺に触れてみたい。一つは作者が地理にも詳しくしかもストックホルムの南部地区に長く住んでいることだ。『わが回想』は十代までの時期、博物館、図書館、中学校、高等学校での回想が主のためストックホルム市街の地名や通りの名などがよく出てくる。筆者は理解をより深めるためもあってストックホルム市内地図を買い、いつでも調べられるように鞄に入れて持ち歩いている。非常に助かるのだ。もう一つは先に書いたようにイングマール・ベルイマン脚本の映画『もだえ』が作者も言うように当時の(戦前の)学校の雰囲気を十分に伝えているばかりではなく、周辺の通りや建物なども映像で読み取れるから、今とりかかっている私訳に大変役立っているのだ。筆者の十八番の言辞、点→線→面の観点から言えば、面だ。立体的に理解できるのである。さて、私訳の続きに戻ろう。

学校では憤怒のプリマドンナがいてヒステリックな怒りの塔を構築するのに授業の大半を費やしていた。神の怒りを受ける人を無くすためだけだが。
私の担任のモッレは、プリマドンナではないが、定期的に来る抑えきれない激情の犠牲者だった。不幸にも私の一番思い出深いことは彼の激情だったのだ。(筆者註。『もだえ』のラテン語教師みたい)大きな感情の爆発が起きたのは月に2回程度だったろうか。しかし担任の権威主義が最もはっきりと注がれるのは得てしてこういう場合によってだった。
こんな授業のただなか、雷が風景を遮って轟かせた。稲妻が光ったことは誰にも明らかだが、どこなのかを予測するのは誰にもできなかった。モッレはある生徒たちの犠牲にはならなかった。彼は厳格で公平だった。誰もが稲妻に打たれた。
ある日稲妻が私を襲った。私たちはドイツ語の文法を開けと命じられた。私はできなかった。鞄の中にあるのか、家に忘れて来たのか?
「立て!」
私はモッレが机から踊って私のところに近づくのを見た。それは野原で一頭の雄牛が近づいて来るのを見ているようなものだった。

2012/01/04

超人のスポーツ観戦 2012年 箱根駅伝総合優勝は東洋大学

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 2012年の箱根駅伝の総合優勝は東洋大学。10区間、109.9キロ、10時間51分36秒、去年より8分15秒更新の大会新記録だった。今年は明大、青山学院大、城西大、順天堂大、山梨学院大、国学院大、国士舘大などが活躍、早大、中大、東海大などが失速した感じだ。それと今回エントリーできなかった日大他もいない。大学は4年間在籍なのでその間の選手の出来具合で勝敗が別れる。また、それがこの伝統的な箱根駅伝の醍醐味でもある。各大学の強化策はコーチや監督の招聘でも左右されるようだ。その典型的な例は今年の青山学院だろう。最後のゴール近くで中大のアンカーの頑張りにも目を見張るものがあったが、青山学院大の頑張りの方が上手だった。何と言っても堂々の5位だから凄い。これは青山学院大としては快挙だ。また、明大は約半世紀振りの3位(最速のランナーがいたらしい、しかも挫骨神経痛を患っての)、これまた快挙。今年は今までと違った大学のレース展開が見られて面白かった。
 そんな中「山の神(筆者としては山の男)」柏原竜二が4区の走者からトップでバトンを受け、終わってみれば自己記録を難なく更新してチームの往路優勝に貢献した。筆者的にはやはり山道を背後から抜き去って行く柏原の独特の走行フォームを視たかったが。それは柏原だけに頼ってばかりいられないチームの事情もあったようだ。去年の覇者早大に僅差で負けた悔しさを挽回せよと「1秒伸ばし」にチーム一丸となって取り組んだ。その成果が実を結んだようだ。いずれにせよ、今年の東洋大は強かった。柏原はこれから富士通に入りやがてオリンピックのマラソン走者になることを目指すらしい。期待したい。

2012/01/02

超人の面白映画鑑賞 イングマール・ベルイマン初期作品など

 筆者は今2011年のノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の散文詩「ある詩人の回想」の私訳を試みていて、あと7ページ足らずのところまでこぎつけた。主に通勤電車の中で携帯電話を使って。
 その中に戦前の中学校生活を描いている箇所があり、その学校はイングマール・ベルイマン脚本の映画『もだえ』のロケに使われ、作者自身も他の生徒と一緒にエクストラ201201022247000で5、6箇所のシーンに出ていることは以前このコラム(参照:2011年12月20日付コラム)で書いた。

【右の写真は多分エクストラのシーンだろう。この中に中学生のトランストロンメル氏がいるはず】 

 ベルイマンの初期の作品『もだえ』を含めた下記の7本を年末年始に約10時間30分かけてビデオ観賞した。これは2007年にテレビ放映したものを知人に頼んで録画してもらったもの。今頃になって偶然に―ひょっとしたらトーマス・トランストロンメル氏がその著作で言及していたところが出てくるかもとの期待もあって―その3本のビデオを開陳したのだ。

①『もだえ』1944年、97分。
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    【上の写真は原作タイトル“HETS”のシーン】
②『危機』1946年、88分。③『愛欲の港』1948年、94分。
④『歓喜に向かって』1950年、96分。
⑤『夏の遊び』1951年、92分。
⑥『悪魔の眼』1960年、84分。
⑦『この女のすべてを語らないために』1964年、77分。
 以上、1940〜1960年代の作品の一部。喜劇や悲喜劇ありの初期作品だが、①の『もだえ』は他の作品と違って社会問題を扱った作品だ。当時の教育とナチズムに対して強烈な批判を展開している。ベルイマンの高等学校での体験が基になっているらしい。筆者的には戦前のスウェーデンの学校の構造や雰囲気、それと当時のアパートや市街の状況そしてファッションが映像を通じて理解できたから貴重だった。ベルイマン監督の処女作②の『危機』は田舎に慎ましく暮らす病気がちの育ての親とその娘、都会で派手に暮らす生みの親と悪魔性を帯びた甥の恋愛葛藤劇。結局女を漁る癖のある甥の自殺で元のさやに納まる娘。恋愛劇と人間の強欲さも見える、田舎と都会暮らしの人間の有様の対比が面白い。③の『愛欲の港』では港町で港湾労働者として働く男と工場で働く更生施設帰りの女の恋愛劇。最後は取り返しのつかない事件を起こして外国逃避行を試みるが、乗船の手はずができたとき、考えが変わり生まれ育った町で暮らすと決心する。少女時代の母親と父親のいさかいシーンでは時計、人形というベルイマン得意の小道具が活躍する。他の作品は喜劇や風刺仕立てで、やや入り組んでいる。個性的な女優と衣装、男優の動きの機微とメリハリの利いたセリフ、セットやロケなども古い映画の中では興味がつきない。生涯54本の映画、126本の劇作品、39本のラジオドラマを書いたベルイマン、そのテーマは性的苦悩、孤独、人生の無意味さの追及、神の問題等々難解さでなる監督だが、結婚は5回、最後には南部の小島にごく親しい人たちと住み、人を寄せつけなかったという。

 さて、ベルイマン作品『もだえ』のエクストラ出演シーンの中で、中学生のトーマス・トランストロンメル氏を発見できたか ? 答えはNejである。しかし解決法はある。映像をスローモーションにしかつ拡大すれば見つけられるかも。その当時の写真もスウェーデン語の原作には載っているし……。だがこの話は主題から外れるのでこの辺で止めておこう。


2012/01/01

超人の新年の詩 2012  the year of the Dragon

3.11
9.11

地球が揺れた東と西
人類の叡智が試された
文明があまりに傲慢に
突き進んだ結果か
神々の悪戯かは知らず
ただずむ私たち

かつては信じていた
信頼や安全という神話も
3.11直後に起きた
原発のメルトダウンによって見事にうちさかれた

著名なイギリスの批評家G.S氏 あるPR雑誌のインタビュー記事で ヨーロッパの没落とインドの台頭を予測した後 曰く 「困難」な状況下 文明の利器で甘やかされた精神が覚醒し 新たな創造をもたらす可能性は少なくないと 「楽観的悲観論」を披露

そうして私たちは
フクシマの現実の
目に見えない力に
絶えずおびやかされ続けている

かつて科学の力
そして政治の力に
これほどまでに
虚に突かれることが
あっただろうか

9.11の首謀者は
地球の底に消された
しかも文明の衝突といっては計り知れない
現代も徘徊する形骸化された
シュウキョウと
ハイキンシュギ
人類が創造した座標軸の
矛盾に満ちた信頼よって
……

2012年
昇ってゆく龍に
微かな希望を
天空高く託すのだ

それは人類史を遡る
遥かな道程であることか

それとも未来史の
大いなる一歩を
私たちが分かち合えて
叶えるものなのか

苦役をだきしめて
歩かなければ
……

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