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2011/12/31

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 34

私の記憶にある教師たちは、もちろん緊張をほぐし興奮を抑えてくれた人たちで、また、生き生きとしていて色彩豊か、しかも独創的な人たちだった。彼らは少数派だったが公平さがあった。批判的な立場を描こうとすればこうだろう。「私の前の羨ましい蕪の頭たちには愛されていない。愛されていないが、少なくとも忘れていないことは確かだろう」
クラスは一つの劇場だった。先導の選手である先生は無慈悲な吟味を受けて舞台の上で演じた。生徒も観客と同時に、時には自分たちの役を演じた。
私たちは失敗しないためにも自分で守らなければならなかった。私たちは攻撃の噴出の繰り返しに慣れなければならなかった。良い基盤を築いていたR先生は厳格で指導も厳しかった。だが本当は劇場的ではなかった。家でこんなことは何も学べなかった。場面や座席そして父親役に怒鳴ることなど。母親は正直だが地味だった。怒りをぶちまけることは子どもじみていた。私は子どもっぽくよく怒ったが、今はバランスの取れた若者だ。私の理想は英国人―唇の上が堅いなどの。憤怒の噴出は伊独枢軸国にあった。

2011/12/28

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 33

たくさんの盗難品が詰め込まれた彼の家で、私は剣で決闘をしたはずだ。私たちは共にリドダールホルメンの秘密の場所にある遺跡の掘り起こしを実行したのだ。私は何とか骨格のかけらを回収することができた。私はそれを知り合いの歯科医に見てもらった結果、その骨が人骨の一部と判明したのだ。私が友達としてパッレを持ったことは良い経験だったが徐々に離れていった。加えて彼は病気のために長い間学校を休んだ。他のクラスに移った時に私たちは離ればなれになった。私の古い友達は本当に遠くに行ってしまったのだ。その表情は蒼白く深刻だった。彼はたまに一つの足を切断されたまま学校に来ていたのだ。その表情は青白く深刻だった。彼が死んだ時私は受け入れることができなかった。私は良心の呵責を感じたが認めることができなかった。私は酷いものと思った。私と同い年で45年前に死んだのだ。しかしながら、まとめて言われる“昔の人たち”、年老いた教師は、今これを書いている私と同じ年齢にもかかわらず私の記憶の中では昔のまま残っている。私たちはいつも年より若いと思っている。私は木がその年輪を刻むように自分も早い面を内に持ち込むのだ。それを総決算をするのは“自分”に他ならない。鏡は自分自身の最新の顔を映し出すだけだが、それは全て以前のものなのだ。

2011/12/26

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 32

南ラテン中学校は南部地区の最も高い所にあって、中学校のグランドは地域の上の方に高台を形成していた。だからレンガ造りの学校の建物は遠くからでも見ることができた。そよ風の吹くこの城への道は一般的には駆け足半分で踏破できた。私は長い木の山―それは危険な年の兆候なのだが―に沿って急いだ。ビョルンの庭園の前にはハンソンやブルースの本屋を通り抜けてイェータ通りに出れる道があった。そのイェート通りを左に大きく曲がるとヘーベリィ通りに入り、いつもの冬の朝一頭の馬がかいば袋から藁を噛みながら立っていた。醸造所の馬で湯気を出しているオーデンだった。私はほんの少し臭いのきついその馬の陰にいたのだ。冷たく湿気のある中でこの忍耐強い家畜の臭いが強烈なのを生々しく覚えいる。その臭いはすぐに息が詰まるほどだったが気持ちいいものだった。 私は朝の説教の時間が始まるベルが告げようとする時に、学校のグランドに滑り込んだ。朝の8時と9時の間だったがほとんど遅刻しなかった。春は学校が始まるように堅かった。 学校生活の最後の日、私はもちろん落ち着いていて普通通りだった。時々パッレと一緒に家に帰った。南ラテン語中学校の最初の学年では一番の親友だった。私たちは普通にたくさんのことをして遊んだ。彼の父親は船員で長い期間留守していた。私を見て喜ばす性格のいい母親の一人っ子だった。私と同様にパッレも大人げた特長を備えていた。彼は自分の興味をのばして、結局収集家になった。何のだって?もちろん、全てのだ。ビールのラベル、マッチ箱、刀、火打ち石の斧、切手、葉書、貝殻、民族学的な奇妙なものそれに骨の収集だ。

2011/12/25

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 31

生徒は決められた時間にきちんと礼儀正しく、必要な教科書を持って指導を受けることになっている。彼らは良い命令と適度な振舞いを観察したり、受けるべき指導に従ったり、また、同じように朝の礼拝に出席し静かに注意深く自分を処することになっている。
生徒は学校の職員に対して充分な尊敬の念を持って従う。命令に従い処罰や懲罰を受け入れることになっている。

2011/12/22

超人の最近気になるニュース雑感 北朝鮮 金正日総書記死去報道

■北朝鮮の金正日総書記が急死。2011年12月17日午前8時20分、地方のデパート視察途中の列車の中で心筋梗塞で倒れ死去。(追記。この死亡時刻と場所には疑問点が多いらしい。2011年12月17日午前1時別荘で遺体発見と24日付毎日新聞の一面の記事)このニュースは日本がいち早く報道、韓国のメディアは多少遅れて報道、これについて韓国メディアは目立つ報道をしたがっているのか、暗殺説まで出る始末。一体どうなってるの?
やはりアメリカの衛星がいち早く死去の情報をキャッチしていた。また、悪ふざけもここまで来ると騒動になる報道も。今朝のシンガポールのテレビが伝えた台湾メディアのアナウンサーの話。例の北朝鮮の甲高く大袈裟に喋る、民族衣装を纏って現れる年配の女性アナウンサー(つい最近日本のメディアでもこの年配のアナウンサーが出ていないと退職説が出たりと話題だった。しかし今回は現れた!)の真似をしてしかも総統選挙報道をしたらしい。少しか多くか、悪ふざけもほどほどがいい。
それにしても北朝鮮の首都の平壌人口が200万人、故金総書記の弔問人口が500万人、一人2回以上弔問した計算だ。可笑しい。しかも視察予定のデパートのエレベーターで泣きじゃくる女性たち、いやはやこんな光景がまだあるの、と一瞬過去にタイムトラベルした錯覚を覚えたほど。しかし現実、相当演出がかったと見るべきだろう。
さて、故金総書記の後継者の三男氏は、小学生の指導者とマスコミは北朝鮮の専門家の話として伝えているが……。それもそのはず、まだ後継指名されて1年ちょっと、これでは誰の目にも無理と移るはず。この世の中、完璧は難しいのが常。日本でもやれ次の社長は息子にと独裁的な経営者に多いのも可笑しい、また、二世議員……。
要人の弔問客に挨拶をしている後継者の故金総書記の三男氏―握手しているが目は次のところを見ていてちぐはぐ―の後ろにいる女性がマスコミのカメラが捕えて喧しい。やれ三男氏の妹に間違いないと、またあの人、元金総書記の料理人だった藤本氏がマスコミ登場し出した…。

2011/12/20

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 30

中学校

小学校のクラスから2人だけ中学校(realskola)に進学した。私以外誰も南ラテン語中学校を出願しなかった。私はパスしなければならない入学試験があった。これについて一つだけ記憶にあるのはsärskilt(特別に)という単語のスペルを間違えたことだ。私はllと2つ書いてしまったのだ。その時以来私が煩わしいと思った単語は1960年代に入ってまで長くまとわりついた。
私は1942年秋南ラテン中学校に入学した最初の日をはっきりと覚えている。それはこうだ。私は何人かの見知らぬ11才の少年に囲まれていることに気づきおじけづいた。私は不確かで孤独だった。しかし幾人かは互いに知り合いのように思えた。彼らはマリア予備校出身だった。私はカタリ―ナ・ノッラ出身の顔をずっと探した。私の感情には憂鬱な心配事と希望の持てる期待感とが混じり会っていた。
私たちの名前が呼び出され、3つのクラスに編成された。私は15Bのクラスにあてがわれ、私たちの担任になるモーリン博士に従うように言われた。彼は最年長の教師でドイツ語を教えた。背は低いがすばしこく、静かだが動きが速かった。しかも短気で、言いにくいが白髪でこみかみの上は禿げたくさび形をしていた。彼を知っていそうな側近の誰かから、私は彼の評価を掴んだ。モッレ―そう呼ばれていたように―は“厳しくが公平”な人だが、不気味だった。
最初から中学校は小学校とははっきりと違っていた。南ラテン中学校は全体的には男性で、学校は修道院や兵舎のようだった。数年経って初めて入って来た2人の女性は気取った職員だった。
毎朝私たちみんなは講堂に集められ、賛美歌を歌わされ、宗教担当の先生から配られた説教を聴かされた。それから私たちは尊敬するクラスまで行進させられた。南ラテン語中学校の集団的な雰囲気は、イングマール・ベルイマンの映画『悶え』(訳者註 : 英国での映画の題名は「熱狂」、米国での映画の題名は「苦悩」)よって不滅になった。(この映画は私たちの学校で撮影され、生徒だった私たちも5、6ヵ所のシーンにエクストラで出演している)
私たちは学校規則を渡された。それには「学校法規に則り、命令と方針に従って指導」と書いてあった。

2011/12/17

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 29

運搬人他を伴った19世紀の探検だった。私が半ば気付いたことは、現在では旧式な旅行だったことだ。アフリカは変わったのだ。イギリス領のソマリアでは戦争があった。それがニュースになり、戦車が出動した。事実連合国が進行できた最初の地域だった。もちろんアビシニアは独伊枢軸国から解放された最初の国だと分かった。
私のアフリカの夢は数年後に戻ったときには、近代化されて今はほとんど現実的になっていた。私は動物学者になってアフリカの昆虫を収集しようと考えた。新しい砂漠の代わりに新しい種を発見しながら。

2011/12/14

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 28

ある夏―どの夏だかは覚えていない―私はアフリカについて詳しく調べたり追究したりしながら空想を巡らしていた。図書館からは大分遠いルンマレの島にいたのだ。私はファンタジーの世界に引き入れられて、中央アフリカを通りまっすぐに遠征していた。私はルンマレの森をとぼとぼ歩いた。自分が引いた全体陸図のアフリカの大きな地図に線を引いてどの位来たか記した。例えば、もし達成したら私は1週間でルンマレを120キロ歩いたことになる。地図に120キロと記した。大分遠い距離ではなかった。
最初私は東海岸から遠征することを考えていた。多少スタンレーが始めたところだ。しかし最も面白いところに到着しないうちに横断するには途方もなく離れていた。私は考えを変え車でアルベルト・ニァンサまで横断しようと考えた。ここは徒歩で遠征をスタートするには適した場所だった。私は夏が終わらないうちに大部分のイツリ森林を通り抜けるまともな機会を得たのだ。

2011/12/11

20011年ノーベル文学賞受賞式 スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏

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ノーベル文学賞受賞式のトーマス・トランストロンメル氏
下記は「8 sidor「」紙2011年12月9日付の電子版から。

Fest i Stockholm
Publicerad: 2011-12-09

I helgen är det Nobelfest i Stockholm och Oslo.
I Oslo delas fredspriset ut
och i Stockholms konserthus
delas priserna ut i kemi, fysik,
medicin, ekonomi och litteratur.
På kvällen blir det stor fest i Stockholms stadshus.

I år är det en svensk bland pristagarna.
Författaren Tomas Tranströmer får litteraturpriset.

Pristagarna har mycket att göra
både dagarna före och efter prisutdelningen.
De ska hålla tal, vara med på fina middagar,
möta studenter och andra forskare
och mycket annat.
Men Tomas Tranströmer orkar inte vara med
om hela programmet utan har valt
ut några saker han tycker är extra viktiga.
Det kan eleverna i stockholmsförorten
Rinkeby vara stolta över.

Tomas Tranströmer har valt att tacka nej
till middagen med kungen och drottningen.
Men han har tackat ja till att träffa eleverna i Rinkeby,
skriver tidningen Dagens Nyheter.

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クロカル超人が行く 153 JR東海道線辻堂駅 『テラスモール 湘南』

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2011年11月11日オープンした『テラスモール 湘南』。テラス型巨大ショッピングモール―外観はカリフォルニアのパセディナを想起させる―が誕生した。広々とした駅前広場に面したエリアは、各フロアを増しながら、湘南の広々とした空の下、ゆったりとした空間をつくり出す。延床面積約17万㎡に281の店舗が入る湘南随一の大型商業施設(「テラスモール 湘南」のパンフレットより)。キャッチフレーズは“豊かで・落ち着いた・上質な・毎日”だそうだ。この辺の再開発は住友不動産が手掛けた。元々住友関係の企業跡地だ。最近の首都圏の集客事情、小田原駅、戸塚駅についで辻堂駅の再開発がやっと進んだ地域だ。今まで注目度が低かった地区で湘南エリアの再起を促す格好になった。駅から3分のこのモール(2階のアーケード型デッキでJR辻堂駅と直結)に土曜日の正午に到着。人出はマスコミで報道されていたほどではなかったが、食べ放題の串焼き店で2時間以上待つ間、各階のショップを見て回った。
4皆はホビー&レストラン。全部で10のシアターがある映画館「109CINEMAS」、毎月10日は1000円で映画鑑賞できる。12月10日のこの日も特別割引で映画鑑賞できたが、観たい映画がなく見学のみ。東モールを歩くと、美山、串家物語、がってん寿司、チェゴヤ、いしがまやハンバーグ、H.B.PASTA&PIZZA、ダブルレインボー、花旬庵、チャイニーズダイニングCHAO、大戸屋ごはん処、とんかつ新宿さぼてん、バケット、鎌倉パスタ、ラケル、サンマルクカフェのレストラン。どこも行列。特に花旬庵、串家物語、大戸屋、バケット、鎌倉パスタなどが目立ったが、何と言っても串焼き店「串家物語」が一番人気だ。
有隣堂はトレードマークのグリーンの配色から抜けてホワイトが基調のややヤング向け指向に転換して出店。店内を一巡して目立ったといえば、子どもがコミックを電子書籍で読んでいるコーナーがあったこと位か。クリスマス関連デスプレイが中心。絵葉書を買おうとしたが品揃えが悪くほんの少しあった程度。隣の家電製品のノジマで写真のプリント依頼、L版1枚30円、26枚出来上がるのに20分、早い方かも。1枚10円の相模大野にあるフォトショップには叶わないが。アトランダムにショップ歩き。BRICK HOUSEシャツ工房、グローバルワーク エト、ムラサキスポーツanotherstyle、m.f.editorial、コンファーム・フロウリッシュ、Top to Top、ABC-Mart、Beach Sound、フララニハワイ、イワサキメガネ、銀座山野楽器、ABC Cookingなどファッション、雑貨、カルチャーのショップ。
3階はファミリー&カジュアル。DAD-WAY、アカチャンホンポ、アクシーズファム、マザウェイズ、靴下屋Life and feel、クレアーズ、生活の木、パスポート、ロフト、ユザワヤのファッション、雑貨、ライフスタイル等々のショップ。グルメ&フードのショップは、ブレンディーズクレープ、湘南 野の実(佐野実のラーメン)、梅蘭、石焼ビビンバの店 李家むっとり、しらす問屋とびっちょ、グリルおくう、KUGENUMA SHIMIZUなど。2階はファッション&グッズ関連のショップ、1階はフード&デイリー関連のショップ、ユニクロ、サミットストア、セブンイレブン、銀行などがずらり。
待っている間に絵葉書1枚を書き終え、「串家物語」に戻って遅いランチをとった。串焼き食べ放題土日用1680円(制限時間70分)を試食。バイキング方式で串に刺した肉、魚、野菜類の具材を取り、テーブルに備え付けてある油に小麦粉、パン粉を塗し浸して焼き揚げ、好みのタレをつけて食べるのだが、何せ初めての体験、戸惑ったことも確か。全体的に小粒の具材、牛肉、豚肉、エビ、オクラ、ししとう、しいたけなどはまあまあの揚げ具合で旨かったが、サツマイモ、ジャガイモ、カボチャそれにレンコンは多少時間をかけて揚げないと硬いままだ。これは要注意だ。オプションで飲み放題も頼んだ。串焼きは35本でギブアップ。家人は29本。他にカレー、チキンライス、ごはん、味噌汁、お茶漬け(梅や鮭だけではなく種類が豊富)、野菜サラダ、デザートなどサイドメニューも豊富。タレは甘口、辛口ソース、マヨネーズ、梅、ポン酢、大根おろしなどから選べるのだ。筆者は醤油も頼んだ。家人は筆者がビールやワインを飲んでいる間にカレーを食べていた(後にあれはレトルトカレーっぽいと言っていたが)。多少油にまみれた70分、満足感はあった。食べ終えて外に出ると、女性シンガーミンミンのコンサートがモール前の特設ステージで開催されるとあって人集りが出来ていた。開演20分前だった。関係者の、みなさん、録音や撮影はご遠慮下さいとの声がひどくやかましくて目障りだった。すでにモールの2階や3階のテラスにも人集り、コンサートが始まると一斉に観客が手を振ってエールを送っていた。
初冬の夕暮れ、湘南はこのシーンを見た限り元気である。盛り上がっていた。午後入った時間より帰る時間になって人がどっと増えて来た感じだ。比較的若い人たちが多いが、もちろん年配の人たちもいた。外国人は筆者の見た限りでは出口付近で1人見かけた―。

「テラスモール湘南」の巨大ショッピングモールを計画するにあたって関係者の話がパンフレットに載っている。それによると、フィロソフィー(哲学)とコンセプト(概念)それに動線をいかに引くかが難しかったらしい。だから各階のコンセプトには衣食住の基本的スタイルからトータルファッション、エンターテイメント、カルチャー、公共的なサービスまでやや重なり合いながらトータルイメージを描き出そうとした苦労のあとが垣間見えるようだ。相模湾のへそという立地を活かした、明るく自分なりのライフスタイルを追及できる、ゆったり感も施されているようだ。
オープンしてから一ヶ月、果たして勝算はあったのか?

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2011/12/10

超人の面白ラーメン 158 中央区日本橋『ますたに 日本橋店』

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 ある大学の先生と久し振りにお会いしてラーメン談義。なんと先生は京都・銀閣寺道のラーメン店『ますたに』をよくご存知だった。筆者も京大の先生に教えてもらって以来何度か食べていたラーメン店だ。好みで評価が分かれるところがラーメンの妙味。その典型が『ますたに』。もう20年以上(途中途切れ途切れだったが)もお付き合いの先生だが、こんな話は聞いたことがなかった。実は先生の生家があったところは京大農学部の先あたり(父親は京大教授の言語学者だった)。『ますたに』(当時は屋台、昭和29年頃だそうだ)でよく食べた由。その上おまけつきまで。『ますたに』と同業者、『珍萬』の屋台ラーメン時代のほろ苦く味付けされた話も聞けた。店主は雨風関係なく常に同じ場所で毎日営業していた由。それこそ根性がすわっていたと。百万遍に移ってからは明るく上品な味になり、その昔の薄暗い中で啜るラーメンの“味”は消えたと貴重な証言も得た。話は脱線するがこの先生の手製の関西風きつねうどんは美味だった。

 さてさて、前置きが長くなってしまった。先生に教えてもらった東京にもある『ますたに』の姉妹店、その一つが日本橋『たいめいけん』(久しく忘れていた洋食屋だ!ここのオムライスを食べに近々訪ねてみたい)のトイメンにある『ますたに 日本橋店』だ。夜7時頃入った。意外と広い。カウンターだけだが40人近くは入れるスペースだ。大分本家本元とは雰囲気も違う、味も違う、人も違う、ようだ。ラーメン(750円)を頼んだ。鶏ガラスープ、背脂、細緬ストレート系、チャーシュー、九条ネギ、これが『ますたに』の定番だ。本家本元とは違うがより関東風で上品な味わい、意外と美味。特に鶏ガラスープがまろやかで澄んでいる。麺も極細麺、スープとの相性もいい。背脂の量も程良い、それに柔らかいチャーシュー、難を言えばもう少しボリュームを。
 全体的にバランスがとれた一品である。メニューはラーメン、チャーシュー麺(930円)他1点と数は少ない。開店して17年らしい。行列はできていなかったが次々と客が入って来ていた。若いサラリーマンや女性客が多い。
『ますたに 日本橋店』1.スープ★★★2.麺★★☆3.トッピング★★☆4.接客・雰囲気★☆5.価格★★

追記。銀閣寺道にある『ますたに』(2006年7月26日付本コラム参照)入って右手に厨房があるが、素朴で印象的。カウンターは狭く、むしろ畳の上で食べるのがいいかも。味は濃く表面には九条ネギがたっぷり、チャーシューは硬い。応対はおばちゃんパワーで・・・。ここは今でも時間帯によっては行列ができている。
追記2。ラーメンの話からまたまた脱線してもほんの少し触れたい話。それはこの先生の新潟珍道中の話だが、この話は別の機会に…。筆者も去年の6月頭に関東のある大学の先生に誘われて、学会出席、ゼミ合宿に付き合った。新潟大学→佐渡行。まさに珍道中だったのだ。


2011/12/08

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス ・トランストロンメル氏の作品を読む 27

一旦図書館で自由になると、私はほとんどノンフィクションに夢中になった。私は文学を運に任せた。同様に経済学や社会問題と貼られた棚にも夢中になった。歴史ももちろん興味の対象だったが医薬の棚にはびっくりした。
しかし地理が私の好きな棚だった。私は広いアフリカの棚に特に夢中になった。『エルゴン山』、『アフリカの市場の少年』や『砂漠が描く』などの本のタイトルを呼び込んだ。これらの本がまだ書棚にあるのかしら?
アルベルト・シュバイツアーが『水と原始林の間』という本を書いたことを誰かが気付いた。それは大部分人生についての思索から構成されていた。しかしシュバイツアー自身はミッションを配置して留まり動かなかった。彼は本物の探検家ではなかった。例えば、イェースタ・ボーベリとは違っていた。彼は際限のない距離を魅惑的に踏破した。例えば、ニジェールやチャドのような見知らぬ地域や土地を。図書館にはそれらの地域や土地について詳しく調べ上げた文献があった。ケニアやタンザニアはスウェーデンの居住地だったため好意的だった。ナイル川を浮動植物地域まで登った旅行者がまた北へ旋回した。彼らは本を書いた。しかしスーダンの渇いた地帯に入った人たちではなく、コルドファンやダルフールへ入る途中の人たちでもなかった。アンゴラやモザンビークのポルトガルの植民地―地図上ではすごく大きく見えた―もまた、知られていなかったし、アフリカの棚で見落とされた地域だった。それらの魅力は更に増幅した。
図書館では多くの本を読んだ。私は同じ種類のたくさんの本を家に持ち帰らなかったし、同じ本を何度か継続して持ち帰りもしなかった。図書館員に非難されているみたいで、それは私がどうしても避けて通らなければならないことだった。

2011/12/07

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 26

一方で叔父のオロフが中を取りもってくれた。叔父が私に大人のセクションに行くカードをくれた。私たちは彼が集めている本があるという口実を作っていたのだ。欲しいものが手に入れることができた。
大人のセクションはプールがある壁で仕切られていた。入口で中の匂いがした。換気装置から漂う塩素の匂いと響き渡る声が遠くから聞こえた感じだ。スイミングプールなどはいつも奇妙な響きを醸し出していた。健康の殿堂と本の殿堂が隣り合わせだったのだ。良いアイデアである。私は何年も市立図書館の分館の良き理解者として通った。私はこの図書館をスヴェアベーゲンにある中央図書館より優れているとはっきり認める。中央図書館は雰囲気が重いが塩素や響き渡る声はなかった。本自体がそこでは違った匂いがしたのだ。私は頭が痛くなった。

2011/12/06

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 25

図書館

市民会館が1940年頃に建てられた。南部地区の真中に大きな4つの正方形のブロックが置かれているだけではなく、明るく将来性のある建物で近代的しかも“機能的”である。家からわずか徒歩5分のところにあった。
市民会館には公共のプールと市民図書館の分館も含まれていた。子ども室は当然必要で私の割り当てられた領域だった。はじめは消費するためには充分な本が揃えてあった。一番大事なことはブレームの『動物の生活』という本だった。
私はほとんど毎日図書館に入り込んでいた。しかしこれは悩みがないことでは全くなかった。女性図書館員が時々私の年に相応しくないと考えた本を貸し出のに躊躇したことがあった。一つはクヌート・ホルムベの『砂漠は燃えている』という乱暴なドキュメンタリーの本だった。
「この本を借りたいと誰が?」
「私が…」
「えっ、ダメ…」
「私は…」
「お父さんに訊いてからお父さんが借りに来てください」
私が大人のセクションに入ろうとしたことが尚更悪かった。子ども室になかった本が必要だったのだ。入口で止められた。
「ぼく、何才?」
「11才です」
「ここでは本は借りられないよ。5、6年経ったら戻っていらっしゃい」
「はい、分かりました。でもその本はここにしかないんです」
「どんな本?」
『スカンジナビアの動物 : 移住の歴史』そして『エクマンが書いた』と付け加えた。力の抜けた声でゲームに負けたと感じて。私は赤面し怒り狂った。女性図書館員には決して謝らなかった。

2011/12/04

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人のトーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 24

私たちがエーンシェデに行く途中の郊外電車に乗っていたとき、私はいつも派手さを嫌った母親にプロパガンダの新聞「フロム グレート ブリテン」紙を広げていたが、私たちの立場を静かに公表して欲しかった。彼女はほとんど私の見方だった。
戦争中私は滅多に父親と会わなかった。しかしある日父親がひょっこり現れて私をジャーナリストの友人たちと一緒にパーティーに連れて行ってくれた。グラスが用意され、笑い声があがり、紫煙が立ち込めていた。連れまわされ紹介されると私は質問に答えていた。くつろいだ雰囲気で寛大、私もしたいことができた。私はひとりで立ち去り、この不思議な家の書棚を棚に沿って歩いた。
私は『ポーランドの苦難』という新刊書と出会った。ドキュメンタリーだ。私は床に座り、声が出ている間丹念に読んだ。恐ろしい本―決して見たことがなかった―は私の恐怖あるいは期待が含まれていた。ナチスは私が想像した通り非人道的だった。否、一層酷かった。私はひきつけられながら戸惑ったと同時に、勝利の感情が沸き起った。私は正しかったのだ!詳細な証拠は本の中だけだった。待って下さい! ある日すべてが暴かれるはずだ。ある日疑っていた皆が非難を受けた真実を手にするはずだ。少し待って下さい! それは実際に起こったことなのだから。


2011/12/02

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 23

私と近しい人たちから曖昧でない支持を期待した。私たちが叔父のエロフと叔母のアグダを訪ねたある夕方、ニュースに興奮した日頃は無口な叔父が、「イギリス軍はうまく撤退している…」彼は皮肉な低い声を交えながら少しがっかりしたと言った(概して皮肉は彼には相容れなかった)。私は突然引きつめられる恐ろしさを感じた。歴史の連合国解釈は疑問視されなかったのだ。私は慰めるため屋根の灯りをじっと見つめていた。それはイギリス人の鉄のヘルメットだったがスープ皿のようだった。
日曜日にはよくエーンシェデの母方の叔父や叔母と食事をした。彼らは離婚後母親の代理人的役割を担っていた。BBCのスウェーデン語ラジオ放送を捻ればイギリスの儀式の番組だ。私はその番組のオープニングの派手さをずっと覚えている。最初勝利のシグナル、その後署名チューニング、それからパーセルのトランペットボランタリーと思われる曲が流れ、実際はジェレミア・クラークによるハープシコードのやや膨らんだアレンジ曲だった。アクセントに微妙な違いがあるアナウンサーの静かな声が、優しい英雄たちの世界から私に直接話かけた。爆弾が雨のように落とされたとしても、通常の仕事と分かって仕事をする英雄たちである。

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