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2011/11/29

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 22

他の記憶。あるクラスメイトの家を訪ねたとき、私はトイレがなく、裏庭に田舎に行けば見かける類の渇いた物置だけがあってびっくりしたのを覚えている。私たちは捨てられた鍋の中に用を足し、それを友達の母親が台所の流し台に持って行って流したはずだ。一風変わった光景だった。概してその家族がいろいろと不足していたなんて思いも浮かばなかったし、だからと言って、エッペルヴィーケンの住宅を素晴らしいとは思わなかった。私はあまりに能力不足だったため、多くは早い時期でさえも階層の状態や与えられた環境での経済的レベルを一目見ただけで掴む必要があったようだ。多くの子どもたちはそうすることができると思われたが、私には出来なかった。
私の“政治的”衝動は絶えず戦争とナチズムに向けられた。私はナチか反ナチかのどちらかと信じていた。私には全く理解出来なかったことは、生ぬるい態度や楽観的な成り行き任せのスタンスがスウェーデンに広がっていたことだった。これは連合国の支持かあるいは隠れナチズムかのどちらかだと私は解釈した。私がある人間が“職業ドイツ人”を好きになることが本当に解ると、私は直ちに胸が引き締まるほどの恐ろしさを感じた。すべてが壊されたのだ。仲間意識が全くなくなっていたのだろう。

2011/11/27

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 21

戦争

1940年の春だった。私は新聞の上に屈んだ、がりがりの9才だった。黒い矢のドイツ戦車部隊侵入を示す戦争の地図に夢中だった。これらの矢はヒットラーの敵のフランスや私たちのスウェーデンを貫通していた。彼らは私たちの身体に寄生して住んでいた。私は本当に自分をヒットラーの敵とみなした。私の政治的信条は決して心暖まるものではなかった。
9才の政治的信条を書くことは明らかに嘲笑の的だろう。しかしこれは世の中のまともな意味で政治的問題にはほとんどならなかった。参戦するとは単純なことだ。私は社会問題、階級、組合、経済、資源の分配、社会主義や資本主義の競争的な要求のような問題について浅はかな考え方をしなかった。共産主義者はロシアを支持した人だ。“右翼”はいかがわしい言葉だが、政治的残像の終焉でドイツに偏りした人たちだった。金持ちと理解された人たちだ。金持ちとは本当にどういうことだったのか。私たちはたまに金持ちの家族との食事に招かれた。彼らはエッペルヴィーケンに住み、家主は卸売りのディーラーだった。大きな屋敷で白人や黒人の召使がいた。私が気付いたことだが、その家の私と同い年の少年は信じられないほどの大きくて魅力的なおもちゃの自動車やエンジンを持っていた。このようなものをどのようにして手に入れたのか?私がふと思いついたのはその家族は違った社会階層に属していたということだ。普通は大きなおもちゃの自動車など買えない階層の人たちだ。このことは今尚孤立していてるが大して重要な記憶ではなかった。

2011/11/24

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人 トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 20

私より5倍も力があって体格がいい、黒ずんだ少年ハッセは、一学年の休み時間にレスリングをする癖があった。始めは私が激しく反撃に出たが、どうにもならなかった。彼は私を地面に投げつけて勝った。とうとう彼に絶望するようになった。手加減してリラックスしてやってくれれば良かったのに。彼が私に近づくと私はとっさに演技をした。彼が望んだ通りに地面に押しつけられたボロ布を“本当の自分”が置き去りにしたまま飛んでしまったように振る舞った。それからまもなく彼は興味を失った。私は自分自身をボロ布に変身させる方法が後に自分の人生に役立った。自尊心がある間は踏み躙られた。トリックをよく元に戻せただろうかか?それは上手く行く場合もあったし、ハズレたときもあったのだ。

2011/11/22

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 19

もっと現実的な脅迫は避難だった。戦争の最初の年、計画は大都市の全ての児童の避難のためだった。母がシーツなどにインクで記しながら、トランストロンメルと名前を書いた。疑問が残るのは私が母親や彼女の学級と一緒に避難したのか、あるいはカタリーナ・ノッラの自分のクラスと一緒に避難したのかどうかだ。即ちR先生と一緒に強制移動させられたか。私は後者だと思っている。
私は避難を免れた。学校生活が続いたが、終わる日を待ち焦がれながらずっと過ごした。だから自分の最も関心あるものに没頭した。アフリカ、海底の世界、中世などだ。私がただ一つ興味を持ったのは壁図表で、それに夢中になった。そして私が一番幸せだったことは、使い古した段ボールの図表を持ち帰るため、店に担任のR先生と一緒に行ったことだ。そうして私は店内にある他のぶらさがっているものを覗いた。私は出来るだけ家で作ろうとしたのだ。
私の生活とクラスメイトの生活との重要な違いは父親がいなかったことだ。大部分離婚が本当に稀な労働者階層の出身だった。家庭の事情について特別に何も変化がなかったことを認めよう。私自身に対してさえなかった。否、もちろん、たとえ年に一度だけ会うことでも、父親はいたのだ(普段はクリスマスイブ)。私は父親を見逃さなかった。戦争中のある時期、父親は魚雷艇に乗っていて、私に楽しい手紙を送ってくれた。クラスでこの手紙をみんなで読むことが好きだったのに、その機会はやって来なかった。私はパニックの瞬間を忘れない。私が2日間学校を休んでいたときで、学校に戻ってから、ひとりのクラスメイトが、先生―担任のR先生ではない代用の先生―が、父親がいないからと言っていじめてはいけないとクラスのみんなに言ったことを教えてくれた。言い換えれば、クラスメイトは私に申し訳ない気持ちだった。私はパニックを起こした。私は本当におかしくなったのだ。で、ずっと遠く離れて喋ろうとしたが自分の顔が赤くなってしまった。
私は実際によそ者とみなされる危険を知っていた。自分がそうだと内心思っていたからだ。私は普通の子が持っていない興味に夢中になった。自主的に絵画クラスに入って、海底のシーンを描いた。魚、ウニ、蟹や貝だ。先生が私の絵はとても個性的と高々に指摘したからまた、パニックに陥ってしまった。私を不思議な少年といつも指摘したがっていた無神経な大人がいたのだ。クラスメイトたちは本当に耐えた。私は人気者でもいじめられっ子でもなかった。

2011/11/19

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 18

すでに書いたように、私が教師の息子だったことが暴力沙汰から救ってくれた。しかし私はあらゆる脅迫や叱責によって引き起こされた重苦しい雰囲気を感じた。鼻が高く危険な校長がいつも背後にいたのだ。最悪の場合には少年院へ送られることだった。特別な行事の時に言及したのだ。私は個人的には脅迫とは感じなかったが、まさにそう言ったことで納得の行かない事件を巻き起こしたのだ。
私は更生するとはどんなことかよく分かる。それは一つの名前を聞いてからますますそうだった。ヤスリや鉋をほのめかす名前のSKRUBBA、ごしごしこするという意味の言葉だ。収容者がそれを毎日拷問に従わせる自己証拠とみなした。世間が子どもを拷問にかける特別な機関の存在を許したのだ。多分死ぬまで。事件を起こしたことで。恐ろしい見方だ。しかしそれならそれでいい。私たちが事件を起こせば、その時は…。
私たちの学校から一人の少年が少年院に連れて行かれて一年後に戻って来たとき、彼は死から這いあがったのだ。

2011/11/17

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 17

一昨日の毎日新聞夕刊にトーマス・トランストロンメル氏のことが書かれた記事が載っていた。ノーベル文学賞発表の5日後の10月11日夕刊にやはりトーマス・トランストロンメル氏の写真が載っているが、その後方に書があって、その書のことで読者から問い合わせがあり、それにも応える形で同じ記者が書いた記事。厳密に言えば、10月11日の記事はトーマス・トランストロンメル氏の長年の友人でストックホルム在住のジャーナリスト、クリステル・デューク氏の文章を佐藤由紀記者が翻訳したもの。また、11月14日の記事は佐藤由紀記者自身のもの。
今私訳中のトーマス・トランストロンメル氏の散文詩『ある詩人の回想』には、高等学校で友人たちと校内誌を発行し、そこに彼の詩編が掲載されたことが書かれているが(私訳はまだそこまで行っていない!)、その辺のちょっとした事情を高等学校以来の友人であるクリステル・デューク氏が書いていた(10月11日の記事参照。筆者はこの記事をうっかり見逃していた。で、毎日新聞本社に出向いて入手した)。
そのクリステル・デューク氏の文章にトーマス・トランストロンメル氏が国民詩人である一端を覗かせる件がある。
子供の洗礼から結婚式、誕生日、葬式まで、日常生活のさまざまな場面でいつも彼の詩が読まれるからだろう。ごく普通の人にも理解出来る詩を書き、題材も日常から取ったものが多いが、クリステル・デューク氏も書いているように、突然、詩的な魔法によってまったく別なイメージに変容する。読者を人生の呪縛から解き放つ、言わばメタファーの達人なのだ。
そのトーマス・トランストロンメル氏が中国の昆明に滞在したときに手に入れた書は、著名な書道家が書かれたものと記事は解説している。早い時期から俳句を嗜み、日本や中国に行きたい夢は捨てていないが、やはり高齢で健康的な問題もある。筆者的には日本に来てもらい、芭蕉を生んだ国を堪能してもらいたい。
前掲11月14日の毎日新聞夕刊の記事から句作を拾ってみよう。

脱走者
捕らえられし
ポケットいっぱいの
アンズダケ

送電線
厳寒の王国の上にのび
あらゆる調べの
北にあり

サングラスをかけ
鳥のこえが
暗くなる

海はかべ
カモメの叫びが聞こえる
わたしらに手をふる

ひそやかな雨の音
わたしは秘密ひとつをささやいて
響き合わせる

2011/11/15

超人の面白ラーメン紀行 157 千代田区猿楽町『SOUP 』

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ある一定の法則は見られるものの、今やラーメン店の名前は何でもありの様相。『SOUP』というラーメン店もその一つだろう。単純明解だが、どっこい、単純すぎて分からない。筆者が店に入った午後2時頃には2、3人の客、そのうちの学生が、ところで、この店の名前は何と言うのと店主に訊いていたのだ。看板も横文字でSOUPと書いただけで言わば、“見出し”だけ。不親切と言えば不親切、木の素材を活かした黒を基調としたモノトーンの店内、券売機以外にメニューがない。地鶏だし二本立て、塩と味噌味、それにチャーシューとメニューもシンプル。淡麗地鶏塩味(750円)を頼んだ。全体的に黄色いスープを一振り、鶏スープ味そのものと塩っけが多少、さっぱり、あっさり系だ。全体的にはまろやかさを演出していて細緬ストレート系との相性もいい。しかし、スープにコクが感じられず、また、尾を引いた。脂と塩のインバランスか―。トッピングのチャーシューは柔らかくてイケた。
まだ開店1ヶ月の店だが、若い店主夫婦(?)の意気込みは感じられるが、ちと力が入りすぎているようにみえた。笑いある店には福来る、だ。
『SOUP』1.スープ★★2.緬★★★3.トッピング★★4.接客・雰囲気★☆5.価格★★

2011/11/14

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 16

小学校

私はカタリーナ・ノッラ小学校に入学した。担任は毎日服を変えてくる、身ぎれいなオールドミスのR先生だった。毎土曜日学校が終わると、子どもたち一人一人にキャラメルを上げていたが、厳しかった。髪を引っ張たり、矢を飛ばしたりには寛容だったが、私にあたることはなかった。私が教師の息子だったからだ。最初の学年を通じて雰囲気は最高だったと感じている。しかし時が経つにつれて何か寒気がしてきたのだ。 善良な命令に対する妨害、引っかけや鍵裂きがあってから先生は怒るようになった。私たちは落ち着きがないことや大声を上げることが許されなかった。めそめそ泣くことも出来なかった。学ぶことで予想外の困難さを経験することはなかった。結局私たちは予想外のことをすることはなかったのだ。恥や恐怖でへこんだ子どもたちには慈悲を期待することが出来なかった。

2011/11/11

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 15

ぐずぐズしているところはすべてエチルアセテートの臭いがした。私がポケットに殺した昆虫の入ったブリキ缶をいつも忍ばせていたからで、私の臭いも―。手引き書の薦めでカリウム青酸塩をあえて使っていたことは確かだ。幸いにこの物質は私の手元にはなかった。だから使うのにどれを選ぶかで自分の勇気を試す必要はなかった。
多くは昆虫採集に割いた。近所の子どもたちは興味津々の昆虫を見たとき、子どもたちの知らせの音が聞けるようになった。「ここにいるよ!」という子どもたちの声が家々の間に響き、私が蝶捕り網を持って駆け込んだものだ。私は絶えず探検を続けた。健康を助長するという馬鹿げたことを考えないで済む屋外での生活だった。もちろん私の戦利品には何も芸術的な意見はなかった。結局科学の部類だった。しかし知らず知らずに多くの自然美を吸収できた。私は偉大なミステリーの中で動いていたのだ。土がが生きているのを学んだ。また、私たちにほとんど注意を払わなくとも自分たちの生活を豊かに過ごしているものたち、はい回っている、飛んでいるものたちの無限の世界があった。
私はその世界のほんの少しの部分を捕まえてピンで止め箱に入れたのだ。その箱を未だに持っている。滅多に意識することのない隠された小さな博物館だ。しかし昆虫がそこに座っているのだ。自分たちの時期が来るのを待ち望んでいるかのように。

2011/11/08

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 14

ある日誰かと出会った。見学者ではなく彼は学者の類だった。私たちは無脊椎動物の間で会った。彼が突然陳列ケースの間に現れたのだ。彼は背丈が私と同じくらいで、半分独り言を言っていた。そして突然軟体動物の議論に巻き込まれた。彼はひどく放心状態になっているかあまり偏見をもたなかったからか、私を大人扱いしてくれた。子どもの頃にときどき現れた護りの天使がまた現れたのだ。
会話がきっかけで私たちは普通入れない博物館の部屋に入ることができた。小さな動物を準備中にたっぷりアドバイスをもらったし、実に専門的にみえる小さなガラス管まで用意してくれた。
私は11才から15才になるまで最初にカブトムシの昆虫採集をした。最も芸術的な、張り合っている興味に私は夢中になった。昆虫学がダメになることを感じたことでなんと憂鬱になったことか。これはその時の便宜的なものだと強く思った。15才かそこらで自分の収集を取り戻したかったのだろう。
私の収集は春に始まり夏にルンマレ島の郊外でピークになる。動き回る位しかスペースがなかったサマーハウスで、私は死んだ昆虫や蝶の陳列された板を瓶に入れて保管した。

2011/11/06

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメルの作品を読む 13

ついに到着、私を象の骨格が出迎えてくれた。よく直接「古い」部屋にも行った。中には膨れた頭のある、やや乱雑に置かれた、18世紀の剥製の動物の部屋もあった。しかしここは特別な魔法の部屋だ。私の興味をそがないほどエレガントにデザインされ、動物見本がうまく配置されている大きくて人工的な景観、それらは子ども騙しだった。いや、生きた動物の問題ではなかったことは一目瞭然だった。科学に役立たせるために剥製化されて立っていたのだ。一番身近に感じた科学的方法はリンネ式分類学だった。それは発見、収集し調査することだった。
私は博物館でゆっくりと勉強したはずだ。古生物学の部屋にある鯨の間の長いポーズ。その時私を最も引き止めたのは無脊椎動物だった。
私は他の見学者と全く接触しなかった。事実私は博物館の見学者を覚えていない。時々訪ねた国立海洋博物館、国立民族学博物館、技術博物館などの博物館はいつも混んでいた。しかし国立歴史博物館は私だけに開いているように思えた。

2011/11/05

超人のラーメン紀行 156 東京ラーメンショウ 2011

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 仕事の帰りにラーメンの殿堂、「東京ラーメンショウ2011」の会場の駒沢公園に出向いた。生憎の曇天模様、やや蒸し暑い午後3時過ぎに一番人気の京都木津川『無鉄砲』×千葉県松戸市『中華蕎麦とみ田』のコラボの店の前に並んだ。係員が50分待ちですと言われたが並ぶことにした。気になっていたラーメンで、2店舗ともまだ食べていなかったラーメンだ。さて、思ったほど早くラーメンブースに近づいたまで良かったが、チケットがないと食べられないと係員に言われて慌ててチケット販売所に買いに行った。係員が待っててくれて一件落着。おバカである。ちびまる子も呆れたかも。800円のコラボのラーメンの味は、ドロドロ系、濃厚豚骨そのもの。塩辛そうにみえるが実は甘さが漂う不思議な味だ。究極の魂の一杯とはラーメンカタログのキャッチ。麺は『とみ田』、中細ストレート系、濃厚のスープによく絡んでいる。普通の麺の色と違いやや黒っぽい。イケた。それにしてもドロドロ、ドロドロ…。豚炙り、鶏炙り、味付け玉子入、300円のトッピングのオプションもある。これを入れたら大変な味になること間違いない。が、柔らかなチャーシュー以外はちとトッピングが寂しい。スープも麺もトッピングも少なめ、これで800円だ。ちと高い。筆者は実は徳島の『岩田家』が食べたかった。人気の行列店は、ブースNo.12の秋田成ト会、比内鶏、桃豚、長ネギなどを使った鶏白湯と筋系を合わせたダブルスープの秋田県大館市『らーめん錦』×秋田県横手市『らーめん丈屋』、ブースNo.13の縮れ麺と薄口醤油のあっさり系釜石ラーメン、ブースNo.1の北海道新味塩ラーメン、ブースNo.21の長野の信州麺友会の肉玉チャーシューなど。因みに筆者が食べたブースNo.25の『無鉄砲』×『とみ田』の客数は2000人以上らしい。すごい!会場を少し歩き回っての感想は意外なものだった。若者と女性が多かったことだ。ラーメン食べ歩きのルールも徹底していた。今年で15周年、これだけ多くいても気持ちよい食空間は流石に関係者の努力の賜物だろう。ラーメン店を知らせる多彩な色ののぼりが風に吹かれていた。それにしても旧オリンピック村はその広さに引けをとらず多かった。

麺面と打つ買うゲーム秋暮れて

麺喰いは男女の宴秋嗤う


2011/11/03

クロカル超人が行く 152 舞岡ふるさと村

 曇天の文化の日の今日、“ちいさん”につられて横浜南西部の舞岡ふるさと村を散策。所要時間約2時間。横浜市営地下鉄ブルーラインの舞岡駅→農産物集出荷施設・産地直売所の舞岡や→ハム工房まいおか→水車→舞岡八幡宮→総合案内所「虹の家」→舞岡公園入口→瓜久保の家→小谷戸の里のコース。
 直売所前のジュウガツサクラを一瞥、直売所を一巡、そう安くないみたいと思いつつ、隣のハム工房へ。ちいさんが食べたおにぎりは売れ切れ、仕方なくメンチを購入(1個170円、これが美味)。水車は多少くたびれていても動いていた。もう休憩しておにぎりを頬張っている家族も。ビニール栽培の農家をチラリ、整備されている散策道を行く。初めは石段を上り鎌倉時代創建の鎮守、舞岡八幡宮にお参り、超自然、手入れが行き届いていなく無人風。それでも賽銭を入れて行く…。寂れた感じの神社だ。これもなかなか風情があって良い、とはある若い親子のふと漏れ聞いた会話。小川には錦鯉が何匹も、金魚、いや亀まで遊泳、のどかだ。家人曰く、誰が逃がしたのかね、だって―。
 虹の家では能面の展示会をよそに農機具、背負子(はいこ)、足踏式脱穀機、唐箕を拝見、昭和30年代まで使われていたものだろう。遊び半分で筆者も小学低学年時頃に使っていた。素朴な農業の歴史も壁紙に読める。
20分位歩いて舞岡公園入口に到着。山里そのもの、その瓜久保の家を潜り、こども田んぼを見、奥の池を一巡、そこは野草と野鳥の宝庫、それは素朴な掲示板の野鳥の写真や望遠レンズを覗く男性たちを見ればわかる。
コスモスの群生に足を止め、田んぼの案山子や渡り鳥を見てさらに進むとそこは古民家のある小谷戸の里。
左にトイレさらに農機具などを収納する納屋、中間に事務所そしてその奥に藁葺屋根の古民家、金子邸。明治初期に建てられたもので元々は横浜新道の近くにあったものをこの公園の一角に移築されたらしい。
玄関を入って土間、かまど、囲炉裏、広い畳の居間、足踏み式のミシン、食器類が置かれた納戸に離れトイレ。

「坊や、その敷居に土足で上がらないで。掃除している ! よく教えてください」

「……」

 この古民家の保存状態が良いのは5、600人いるボランティアの人たちが交代でサポートしているからとボランティアの一人、11月23日には一大イベント、収穫祭があってたくさんの人たちで賑わうと。デジャヴの空間―。母方の祖父を思い出す。入口付近にはこの民家関係のチラシと共に1冊のノートが置かれていた。

ちいさん散歩のテレビを見て来ました。とても懐かしく、癒されますときれいな字の筆跡が。恐らく中高年の女性か。

 庭の一角では製作者の名前入りで野鳥の木彫りの品々が展示されていた。これも中高年の趣味のお披露目、フクロウなど秀逸。

「今パート時給が850円位ならばその代金位でご提供したいのですが、誰も買ってくれません」

製作者の一人がぽつりと言った一言が印象的だ。
帰路は田んぼの案山子、水鳥を眺めて畦道、散策用に整備された道を引き返した。
ハム工房で今度はコロッケを購入。これも美味。やはりちいさんが食べたおにぎりはなかった。

農機具も今は昔飾る秋

幼子に山田の案山子喋ってる

秋深しフクロウもいる小谷戸家


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2011/11/02

超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 12

 博物館の職員が若い少年の熱心さに気つき、ときどき事務室に通され、見学者名簿に自分の名前を書くことを許された(後ろのS字を前にして)。私は鉄道技師になりたかった。でも電気のエンジンより蒸気のエンジンの方に興味を持った。言い換えれば、私は技術的なことよりロマンチックな方だった。
 私は自分独自の収集を始めていて、それを家の食器棚に収めていた。しかし自分の頭の中では途方もない博物館が育まれ、想像的なことと実際訪ねた現実の博物館との間に相互作用が増した。
 私は毎第二日曜日に国立歴史博物館を訪ねた。ロスラグスツルには路面電車で行き、残りは歩いた。道は常に想像していた以上よりも少し長かった。とてもはっきりとした足取りで歩いたのを覚えている。いつも風っぽく、鼻水が出、目は涙で一杯だった。反対方向の歩行は覚えていない。博物館まで出ただけでもまるで家に帰れないようだった。巨大で奢侈なビルの方角へ向かって歩く歩行で、それは鼻水の出る、目に涙を一杯貯めた、期待の膨らむ歩行だった。

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