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2011/06/30

超人の面白ラーメン紀行  149 JR神田駅西口『神田ラーメン わいず』

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 久し振りに神田西口商店街に出没。ここはサラリーマンの天国、飲食店がズラリしかも新旧交代が激しく店舗展開の光と影をみせつけられているみたい。以前にラーメン店が多くなったと書いたが、その実情は今も変わりはないようだ。いや、もっと激しさが増した感じすら受ける。
そんなサラリーマンの街の一角に金色の看板が目立つラーメン店『神田ラーメン わいず』はある(近くには後発組の『緬屋武蔵 神山』も)。つい最近テレビで店を紹介されたあるプチフレンチの店を少し覗いた後のラーメン行。滅多にない行動パターンだが、なぜか以前からこの店が気になっていたのだ。今回思い切って入ってみた。
 カウンター15席のみの小さな店の売りは醤油ラーメン。券売機でラーメン(700円)を購入して並ぶこと12、3分、筆者のすぐ後に並んでいるサラリーマンの男性2人から胸がどうのこうのと女の話が聞こえてくるなか、店内奥深くに入った。水切りなど気合いを入れて客の注文を次々と捌ている店主の前に座った。まだ若そうだ。木箱の中の黄色味がかった太麺(特製麺だそうな)をカウンター越しに眺めながら、うまそうかもと夢想しているうちに注文のスープ多めのラーメンが出て来た。一啜りそしてもう一啜りするうちに筆者の舌が反応した。これは横浜家系ラーメンの味にそっくり―。豚骨醤油系だった。もっとあっさりしたクラシックなラーメンを想像していたが見事に裏切られた(軒先のチャンプのトロフィーレプリカ他写真を頭に入れて入れば良かったのだが早合点してしまった)。それでもストレート系太麺との相性はいい、チャーシューもごく普通の柔らさ、メンマ、ほうれん草にネギそれに海苔の常連もごくごく普通、しかし食べた後に塩辛さが残った。思い切って店主に訊いてみた。塩辛さがあったが? 濃い醤油味だから、と優しい口調で応えてくれた。店は午後11時過ぎてもほぼ満席だった。
 食べ終えて通りに出れば、この時間アジア系と思しきおねえさん方がマッサージはいかがと手招きしていた。グレーのジャケットとワイシャツ姿が溢れるなか、清楚な女性の姿もぽつりぽつり、頬はほのかに赤くそれが煌びやかなネオンに弾き出されていた。
住所:千代田区内神田3-9-6 電話:03-5256-0313。営業時間:午前11時〜午前0時。土曜日:午前11時〜午後3時。日曜祝日:休。
JR神田駅西口『神田ラーメン わいず』1.スープ★★2.麺★★☆3.トッピング★★4.接客・雰囲気★☆5.価格★★

2011/06/29

超人のジャーナリスト・アイ 143 閣僚人事など

 日本国の最高権力者である菅直人首相が辞意表明後の1ヶ月経ったこの時期に閣僚人事を行った。異例のこととマスコミは掻き立てているが、その真相は何か、やはり延命策?第二次補正予算案、再生可能エネルギー固定価格買取法案、特例公債法案の三点をもって一定のめどと考えていると一昨日の記者会見で菅直人首相が語った。その閣僚人事は原発事故担当相に細野豪志氏、復興担当相に、松本龍氏、首相補佐官に国民新党の亀井静氏、総務政務官に自民党から浜田和幸氏、行政刷新担当首相補佐官に蓮舫氏、法相兼環境相に江田五月氏、官房長官兼行政刷新担当担当相に枝野幸男氏。この面々をみると、首相側近固め、それにしても横滑りや兼任が多く刷新には程遠いようで、目先を交わした程度だ。震災復興や原発事故収束、住民の安全と安心それに生活保障など政治が担うべき仕事が山積している。これで問題が解決するとは到底思えない。
民主党執行部とも軋轢がある中、首相の独断で国民新党の亀井氏を相談相手に野党の自民党の議員を取り込み、法案成立を睨みながら数合わせに拘った戦法に出たと読めるのだが。はたしてどうか。
 昨日株主総会で東電が原発の存続の方向を打ち出した。今日東北電力や関西電力などの電力会社の株主総会が開かれるが一体どうなるのか、ここは事態を見守りたい。

下記は内閣不信任案否決直後の筆者の感想など。

 日本国の国会では自民党や公明党などから提出された内閣不信任案が今日大差で否決された。マスコミもこぞって民主党の造反がいくつ出るかを騒ぎ立てたが、結局茶番劇、フヌケの文字が躍ったようだ。未曾有の大災害と放射能汚染の対策が思うように進んでいない現状をいち早く政治的に手を打って行かなければいけない時期に政治家は何をしているのか全く呆れる。被災地の人々中へ入り、一緒に生活をしてもらいたいものだ。そしてその人たちの身になって静かに考え、そこから現実的で具体的な対策を練ってもらいたい。政治家とは自分のことだけを考えているエゴイストか―。
 アメリカではミズリー州での竜巻、ミシシッピー川の氾濫そして今度は東部地区のスプリングフィールドでの竜巻と自然災害が続いていて、死亡者や避難民が出ている。ヨーロッパはドイツで大腸菌感染が死亡者が出るほど猛威を振るっている。ヨーロッパのテレビ各局はこの報道を連日報道。そして今日のニュースではロシアの兵器庫が火災、弾薬などの爆発もあって周辺住民3万人が避難したらしい。原因は煙草の不始末とか。
今はテレビが世界のテレビ局と提携していてダイジェストだがタイムラグがさほどなく世界に起こっている出来事がリアルタイムで視られる。もちろんインターネットの動画サイトなどでもだ。その最近の典型が日本国に起きた大地震、大津波や原発事故だ。結構詳しく報道されていた。しかし、インターネットでは中国からのグーグルのgmail破壊などにみられる不正攻撃が世界のサイバー空間を脅かしている、これも大問題だ。価値観の多様化が進み、かつて拠り所にしていた知的装置や倫理観が効力を失い、新たな価値の創造が構築されていないのが現状かも知れない。進歩した世の中がいいのか、その科学の進歩の最たるものが原子力だった―。それが“想定外”の災害でもろとも崩れたのだ。

2011/06/26

クロカル超人が行く 148 横浜再訪 桜木町・関内・山手あたり

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 昨日の晴天から一転して梅雨空の横浜。帆を張った日本丸を見たいと思っていた矢先、偶然にも月1回の帆を張る日にぶつかり帆船日本丸を見ることができた。日本丸は1930(昭和5)年に建造された船員を養成する練習船。地球を45.4周(183万km)して1984(昭和59)年に引退。横浜市に誘致、翌年から一般公開されている。
マストの色が真白いものと想像していたから少しがっかりしたが、きしくも梅雨空の色と同じ。
【写真左上:帆船日本丸、観覧車周辺、日本丸のスクリュー・プロペラ、】

追記。筆者は前夜仲間二人と久し振りに関内のギリシャ料理店『オリンピア』でギリシャ料理をほんの少し堪能した後、本牧のジャズ喫茶『ミントンハウス』に寄った。店主がどこに座っても結構ですと言うので、右端のやや広いテーブルに座った。隣りの席では中年の夫婦が懐かしいジャスサウンドを楽しんでいた。しばらくして店主が頼んだつまみを持って現れそして曰く、これは崎陽軒のシウマイではありません。いやー、洒落が効いていて笑っちゃいます、筆者もこれには負けた。そのシウマイをつまんでコク、コク、コク、とトリスウィスキーを飲んだまでは良かったが、そのうち連れの二人がテーブルに頭をつけて寝てしまったのだ。よっぽど眠かったとみえてなかなか起きなかった。スピーカーからは浅川マキの低音のしびれる唄が流れていた。
ここの店主は崎陽軒のテレビコマーシャルで有名な人。

横浜 たそがれ


約1週間後の夕方、民放のニュースの合間に崎陽軒のコマーシャルが流れた。店主にまた会えたのだ。
実と虚の妙な味わい―。

2011/06/23

超人の面白読書 86 吉村昭著『三陸海岸大津波』 6

 昭和8年の津波の章。海嘯・よだの言葉の定義を記すが、海嘯はかいしょう、つなみと読み明治時代によく使われたらしく、波の押し寄せる海の轟きを表現している言葉でまた、「よだ」はこの地方の方言で津波と同意語だという。次に波高。測定はなかなか難しいが3つあるらしい。海中に設置された験潮儀による測定、残留している物体による測定それに海水が陸地に侵入した地域を海面と比較して津波の高さを測定する方法だ。そして明治29年の津波の高さを調査した宮城県土木課が算出した24ヵ所の波高の実例を示す。それによると下閉伊郡田野畑村羅賀では22.9メートルに達した計算なるが、実際ははるかに高かったと古老から聞き出している。今回の3.11では田野畑より南の島越地区で27.6メートルを記録した。最近田野畑地区を取材した新聞の記事によると、島越駅にあった吉村昭氏の文庫本、常宿にしていた「ホテル羅賀荘」(本書のあとがきでも触れている)も流されたという。
 チリ地震の影響が過去にこれだけあったのかも本書で初めて知った次第。

 村の古老の証言、現地調査、想像力を働かせた再現シーンなど臨場感溢れる本書は、置かれた立場の悲惨さ無念さを包摂して記録の何たるかを私たちに示唆している。物語性のある立派な災害史だ。
 作者吉村昭氏は津波が来たらともかく何も持たず早く逃げろ、道路はふさぐなと言い続けていた。これは講演などでの話だ。最後に先ほど触れた新聞記事で吉村昭の妻で作家の津村節子氏の言葉を引用して終えよう。

「吉村があれだけ調べてまとめたのに、警告にはならなかったのでしょうか。この被害を見たら、大変悲しむと思います」

追記。フリージャーナリストの呼びかけに応えて被災地石巻の子どもの作文がNHKの番組「クローズアップ現代」で朗読を交えて披露された。まだ津波の被害と向き合えないでいる子どもいるし複雑だ。津波体験は彼等にそれなりの影を落としていることが作文から読み取れた。このジャーナリストはこれからも書いてくれた子どもたちとつき合って行くという(追記の追記。この子ども作文集はつい最近『つなみ』のタイトルで刊行された。原稿用紙に書かれた子どもの字には性格が表れていたが、それより人生の荒波を被った心情が吐露されていた。しかしこう書かせることに筆者などは多少違和感が残る。時期尚早のような気がしてならない。2011.7.2)。何日か前には陸前高田の高校が今回の震災体験を踏まえながら将来を考える作文に取り組んでいる、との新聞記事もあった。2011.6.23

2011/06/21

超人の面白読書 86 吉村昭著『三陸海岸大津波』 5

 この『風俗画報』のディテールをもっと見たいと考えたが、今は先を急ぎたいのでカット(判り次第アップしたい)。余波の章の短いページもおさえておきたい。津波史。これは一応本文から書き写そう。

1.貞観11年5月26日(869年7月13日)大地震で死者多数。家屋の倒壊甚大、津波来襲、死者1000余名(三代実録」による)。
2.天正13年(1585年)5月14日。津波来襲。
3.慶長16年(1611年)10月28日。地震後大津波。伊達領内で死者1783名。
4.慶長16年11月13日。大地震後、津波三度来襲。溺死者約5000名(「駿有政事録」。
5.元和2年(1616年)7月28日。強地震後、大津波。
6.慶安4年(1651年)宮城県下に津波来襲。
7.延宝4年(1676年)10月。三陸海岸一体大津波。
8.延宝5年3月12日(1676年4月13日)。三陸沿岸岩手県下数十回の地震後津波。宮古、鍬ヶ崎、大■浦等で家屋流失。
9.貞亭4年(1687年9月17日)塩釜、宮城県下に津波来襲。
10.元禄2年(1689年)三陸沿岸に津波。
11.元禄9年(1696年)11月1日。石巻に津波来襲、船300隻さらわれ、溺死者多数。
12.亨保年間(1716―1736年)に津波あり。田畑に海水、人畜に被害なさし。
13.宝暦元年(1751年)4月26日。高田大地震余波、岩手県下に津波。
14.天明年間(1781―1789年)に津波来襲。
15.天保6年(1835年)仙台地震で津波、人家数百が流失、死者多数。
16.安政3年(1856年)7月23日午後1時頃、北海道南東部地震で三陸沿岸に大津波。
17.明治元年(1868年)6月、宮城県元吉郡地方に津波。
18.明治17年(1894年)3月22日午後8時20分頃、岩手県沿岸に小波。これに続いて、明治29年6月15日に大津波発生。

 作者作成の年表でこの地域が昔から地震や津波に悩まされ続けてきたことが理解できる。〈続く〉

2011/06/20

超人の面白読書 86 吉村昭著『三陸海岸大津波』 4

 さもその場にいたような書きっぷりで妙に臨場感がある。これは緻密な現地調査や証言などを踏まえた上で描いた作家の想像力の賜物なのだ。情景は死体がごろごろしている地獄絵だ。残酷物語そのもの。逃げ遅れて10メートル、20メートル以上ある大波に襲いかかられまた、引き波に多くの住民がさらわれてしまったのである。この光景は被災地後の海岸近くに立ってみれば分かる。

改めて目次を眺めてみよう。

まえがき
1 明治29年の津波
前兆
被害
挿話
余波
津波の歴史
2 昭和8年の津波
津波・海嘯・よだ
波高
前兆
来襲
田老と津波
住民
子供の眼
救援
3 チリ地震津波
のっこ、のっけとやって きた
予知
津波との戦い

参考文献
あとがき―文庫化にあた って
再び文庫化にあたって
解説 記録する力 高山 文彦

 あとがきや解説を再読。次に目を留めたのは、やはり著者もあとがきで触れているように『風俗画報』の絵だ。明治29年の津波―挿話の章で3枚挿んである。〈唐桑村にて死人さかさまに田中に立つの図〉、〈広田村の海中魚網をおろして50余人の死体を揚げるの図〉、〈釜石町海嘯被害後の図〉、〈溺死者追弔法会の図〉、〈志津川の人民汽笛を聞て騒乱する図〉や〈釜石の永澤某遭難の図〉は当時の大津波被害の様子をリアルに伝えている。ビジュアル的に秀作揃い。交通の便が悪い〈陸の孤島〉に入ってリポートした記者魂を著者もあとがきで褒めていた。それは3.11以後危機に立つ地方紙にも見られ、新聞の原点を否応なしに見せつけられた思いだ。その一つ、石巻復興新聞の健闘ぶりはその典型的な例だろう。

2011/06/19

超人の面白読書 86 吉村昭著『三陸海岸大津波』 3

 原題は『海の壁―三陸沿岸大津波』1970年7月中央公論社刊〈中公新書〉で後に題名を「三陸海岸大津波」と改め、1984年8月中公文庫刊、2004年3月「文春文庫」刊、そしてこの文春文庫は2011年4月で11刷の本。地道に評判を呼び10万部以上出ているそうだ。

 さて、明治29年の大津波の被害の様子を本書に沿ってみてみよう。宮城県下、死者3,452名、青森県下、343名、岩手県下、22,565名。その岩手県南部の気仙沼郡では6,748名で人口の21%が死亡。上閉伊郡、死者6,969名、釜石町は6,557名中、5,000名が死亡。下閉伊郡は全人口35,482名中、7,554名が死亡。船越村、山田町、津軽石町、田老町、普代村は住民の半分は波にのまれた。この数字は今回の3.11より大きな被害数字だろう。
 そしてこれら4郡下人口103,772名の22%が津波による死者でまた、総戸数17,211戸の36%にあたる6,156戸が流失した。こう被害概要を数字で示した後、作者は次のように大津波襲来後の様子を描く。少し長くなるが引用してみる。

 村落は、荒地と化していた。津波のはこんできた大小無数の岩石が累々として横たわり、丘陵のふもとにある家々がわずかに半壊状態で残されているだけで、海岸線に軒をならべていた家々は跡形もなく消えていた。
 海は、平穏な海に復していた。しかし、そこには家屋・漁船の破片や根こそぎさらわれた樹木が、芥のように充満していた。
 住民たちは、再び津波の来襲するのをおそれて、丘の上から海岸へ降りようとはしなかった。そして、虚脱したように海岸を見下ろしたまま時をすごした。
 夜になると、丘の上で火が炊かれた。電線も道路も杜絶して、救援隊もやってこない。かれらは、ようやく激しい飢えになやみはじめた。
 やがて夜が明けた頃、住民たちはおびえながら丘から海岸へとおりていった。見失った肉親の安否を気づかって、かれらはあてもなく海岸をさまよった。
 死体が、至る所にころがっていた。引きちぎられた死体、泥土の中に逆さまに上半身を没し両足を突き出している死体、破壊された家屋の材木や岩石に押しつぶされた死体、そして、波打ち際には、腹をさらけ出した大魚の群のように裸身となった死体が一列に横たわっていた。
 所々海岸のくぼみにたまった海水の中には、多くの魚がはねていた。それを眼にした住民たちは、飢えに眼を血走らせてそれらをとらえてむさぼり食った。
かれらは、あまりの惨状に手を下すことも忘れて、ぼんやりと死体の群をながめているだけだった。
 梅雨期の高い温度と湿度が、急速に死体を腐敗させていった。家畜の死骸の発散する腐臭もくわわって、三陸海岸の町にも村にも死臭が満ち、死体には蛆が大量発生して蝿が潮風に吹かれながらおびただしく空間を飛び交っていた。

2011/06/18

超人の面白読書 86 吉村昭著『三陸海岸大津波』 2

つなみ

尋三 大沢ウメ

がたがたがたと大きくゆり(揺れ)だしたじしんがやみますと、おかあさんが私に、
「こんなじしんがゆると、火事が出来るもんだ」
といって話して居りますと、まもなく、
「つなみだ、つなみだ」 と、さけぶこえがきこえてきました。
私は、きくさんと一しょにはせておやまへ上りますと、すぐ波が山の下まで来ました。
だんだんさむい夜があけてあたりがあかるくなりましたので、下を見下ろしますと死んだ人が居りました。
私は、私のお父さんもたしかに死んだだろうと思いますと、なみだが出て参りました。
下に行って死んだ人を見ましたら、私のお友だちでした。
私は、その死んだ人にてをかけて、
「みきさん」
と声をかけますと、口から、あわが出てきました。

 この地方では死人に親しい者が声をかけると口から泡を出すという言い伝えがあると作者は書き、さらに作文を書いた女性に貴重な津波体験を聞き出している。
山の上に駆け上った時、まだ田老村には灯りがともっていた。それがゴーッという物凄い響きをあげて津波が来襲し、白い水煙が舞い上がったと同時に、ちょうど焚き火に水をぶちまけるように灯りがまたたく間に消えたという。作者はこの話に津波の恐ろしさを示す妙な実感を味わったと書いている。また、別な児童の作文の最後の数行にもこう書かれている。

「又、なみがきたあ」
といったのでむこうを見ると、火がぼうぼうもえて、山の下にいる人たちは、
「たすけてくれろ、たすけてくれろ」
というので、お父さんたちは人をたすけにゆきました。
夜があけてから学校へきて見ると、まだだれもきて居りませんでした。それから表へ出て見ると、しんだ人達が、あっちにもこっちにも、ごろごろと女や男の人が居ました。

 空恐ろしい地獄絵さながらの光景だ。
作者が言うように子供の眼は正直、また、ありのままを書けと担任が指導したという。
悲痛な叫びが心を打つのだ。上記は昭和8年の津波の情況を子供の眼で捉えた秀作。本書の書評はここから書き出したかった。ここに作者吉村昭の事実を透視する眼を感じたからに他ならない。まさしく生死を彷徨う臨場感を記録することで生きのびられるのだ。

 今回の大津波は真夜中ではなく昼下がりの時間帯だったが、住民が一瞬のうちに大波にさらわれた。その中にはたくさんの小学生もいた。やりきれない一言だ。被災地に遺品として残されたランドセルなどがそれを物語っている。今日で3.11から100日、死者3000人、行方不明者2000人を出した被災地石巻市では合同慰霊祭が行われている。被災地はまだまだこれから、長期戦だ。

 石巻市から気仙沼、釜石、宮古そして岩手県下閉伊郡辺りに舞台を移し、この記録文学の書き出しに戻ろう。明治29年6月15日の大地震・大津波の被害概要とその被害光景だ。〈続く〉

2011/06/17

超人の面白読書 86 吉村昭著『三陸海岸大津波』

 勿来、小名浜、永崎、豊間、薄磯、四倉、久ノ浜のいわき七浜、夏は海水浴場として人気のスポット。魚も豊富。その一つ薄磯海岸を尋ねた。美空ひばり「乱れ髪」の歌詞にもある“塩屋の岬“から海、磯そして人家を眺めた幼い日々を想い出しながら、いつもなら夕陽を浴びて豊饒の海の調べを奏でている時間帯だが、筆者が見た3.11以後の景色は一変して語るに絶する被災地の姿だった。大津波被害は甚大で復興には大分時間がかかるだろう。(詳細はこのコラムの2011年5月16日付「クロカル超人が行く 147 いわき市平薄磯海岸 現地報告」)読まれたい。
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 ここに一冊の文春文庫がある。作者は記録文学の名手、吉村昭。吉村昭といえば、5年前に「死ぬよ」と娘に告げて全ての生命維持装置を自ら外して壮絶な死を遂げた作家としても知られ、その詳細が雑誌「文學界」2011年5月号発行に妻の津村節子の手で(小説「紅梅」)書かれている。
 また、『戦艦武蔵』などの戦記物のジャンルを開拓、筆者も地方の書店で手に入れた『漂流民上下』(確か亡くなられた時期に購入したもの。読みかけのままで今は書棚)など江戸ものも大分書いている。
 題名は『三陸海岸大津波』、明治29年、昭和8年、昭和35年と三度も津波災害を受けた三陸地域に何度も足を運び、津波の歴史を丹念に調べ、関係者にインタビューした記録文学の傑作、吉村昭本人の言葉を借りれば、地方史の記録として残しておきたい本である。
 筆者は「昭和8年の津波―住民」もさることながら、次の章の「子供の眼」に心を奪われた。本文から引用してみよう。〈続く〉

2011/06/14

超人のジャーナリスト・アイ 133 ドキュメント・東日本大震災・原発事故関連

4.18からの記事追記で。
◆福島原発一号機、燃料棒55%溶解。圧力容器に穴。データに不信感。2011.5.13
◆メルトダウンが1号機だけではなく、2、3号機もメルトダウン。2011.5.16
◆2号機の建屋に二人の作業員入る。わずか14分。2011.5.19
◆福島第一原発、1、2、3号機、溶融(メルトダウン)した様子。2011.5.24
◆福島第一原発事故はG8先進国首脳会議(フランスのリゾート地で開催中)でも取り上げられ、菅首相は冒頭10分間の異例な演説をした由。2011.5.26
◆福島第一原発事故について。水素爆発後の海水注水について、中断が実は東電福島所長の判断で続行していたなど東電、原子力・保安院(毎日新聞の誰かのコラムで書いていたが、むしろ英語表記の“産業保安院”がより正確)、政府と事故から2ヶ月以上経って訂正。大事な事態にコミュニケーション不足が露呈した格好。信頼が大きく失墜。国際原子力機関(IAEA)の調査団が福島原発1〜4号機の被害状況を視察。2011.5.27
◆東電社員2人、緊急時の被ばく限度(250ミリシーベルト)を超える可能性ありと東電が発表。2011.5.30
◆原発の冷温停止をめどに首相退陣表明か。2011.6.2
◆1号機の原子炉建屋内で最高値の毎時4000ミリシーベルトの放射線量計測
◆事故調査・検証委員会初会合
◆大地震からちょうど3ヶ月。未だ収束の糸口見えず。新宿で大規模な原発反対デモ。オーストラリアのアボジニーのウラン採掘、もう採掘しないとオーストラリアの新聞が報道。東電もこのウラン鉱山からウラン購入。2011.6.11
◆作家の村上春樹、スペインでの国際賞受賞スピーチで日本の原発批判。全ては効率の名のもと。2011.6.12
◆イタリア、国民投票で原発建設拒否。ドイツ、スイスに続き。2011.6.14
ヨーロッパの原発数→フランス59、英国19、ドイツ17、スウェーデン10、スペイン8、ベルギー7、チェコ6、スイス5、イタリア0(毎日新聞2011.6.14付朝刊)。
◆福島第一原発、汚染浄化システム停止。浄化作業遅れる見通し。2011.6.11
◆海江田経済産業省、原発再稼動要請へ。地方自治体に。
福島第一原発、汚染水浄化システム停止。浄化作業遅れる見通し。2011.6.18
◆福島第一原発1号機ベント(排気)失敗。2011.6.24
◆6月25日〜7月11日の期間、只今調査中(仕事に忙殺されて書く暇なし)

◆汚染牛肉、東京、神奈川、静岡、大阪、愛媛など9都道府県に流通。南相馬市の畜産農家から出荷した和牛11頭から暫定既定値(1キロ当たり500ベクトル)を超える放射性セシウムが検出。毎日新聞7.12
◆菅直人首相、脱原発表明7.13

2011/06/07

超人のジャーナリスト・アイ 142 テレビ番組評 最近の出版事情関連 続

 横浜駅西口ダイヤモンド地下街にある「有隣堂」。神奈川県を中心した日販帳合の書店業界第3位の大手書店。かつては時間帯によっては客で溢れていた有名書店なのだ。ここにも時代の波が押し寄せている。筆者も驚いたのだが、店内の吊り看板を見て本屋の中に本屋がある感じ。古書と新刊の混在、何%、何10%オフの値札が躍る、有隣堂もコラボかと思ったのだ。古本屋の連中の仕掛けかなとふと頭を過ったのも事実。有隣堂西口店の話のついでにもう一つ。伊勢佐木町にある有隣堂本店の話。日本文学関係の英訳書を探しに立ち寄ったのだが地下1階のコーナーに並んでいる本の貧弱なこと、これでは全然置かない方が却って良いくらい。しかもアルバイトの女性らしく、棚にあるだけですと素っ気ない。みなとみらいにある有隣堂の洋書部門の店に訊いて在庫の有無を確かめてくれるサービスぐらいできないものかと正直腹が立った。つい3、4日前の話だ。本店にも昔は洋書もそれなりにあったが今やインターネットで買える時代、しかも自宅まで1日足らずで運んでくれる超便利な世の中だ。回転の悪い本が棚から消えていくことも致し方ないのかも知れない。
急いで話を元に戻そう。
というわけで、番組でも取り上げていたが新刊書店と古書店とのコラボレーション。これも書店サバイバルの一環だろう。いやはや、時代は変わったのだ。と思いきや、明治時代の始めには古書店も新刊書を売っていて、やがて政府が条例を出し古書と新刊書を売る店に分離、書店ビジネスを方向づけた由。この近代本屋曙の話は鹿島茂の連載「神田神保町書肆街考」(「ちくま」2011年6月号)に詳しい。大変示唆に富む連載で毎回メモを取りたくなるほど。書店も原点に戻ったということか。有隣堂を見ててそう思ったのだ。まさかブックオフを意識した?確かにこの横浜駅界隈は都内の新宿、渋谷、池袋などのターミナル地区と同様に書店激戦区。有隣堂は地元の雄として迎う打つ立場だが、有隣堂自体このダイヤモンド地下街だけでも5店舗もあるのだ。他の追随を許さんとばかりに。横浜駅界隈は栄松堂、丸善ブックメイツ、紀伊國屋書店などがひしめき合っている。
そのブックオフにも番組は取材していて、新古書店の利点は新刊寿命が短い新刊書店と比べて新刊書店にない本をフォローしつつ、品揃えを充実させていることだという。現在1077店舗、売上は444億円だ(因みに紀伊國屋書店は1145億円、丸善は889億円、有隣堂547億円、ジュンク堂486億円)。しかしブックオフも大型店舗展開をしていくらしい。町田などにあるブックオフはもはや老舗の感もあるけれども、ともかく多品種でそれなりに人も入っている。このビジネスも市民権を得たのだろうが、これからはサバイバル作戦?“ブックオフ大賞”を設けたりして集客力を高めることかも知れない…。
 筆者は書店生き残りは立地、仕入れそれに単品管理(接客や係数管理能力も入るが本好きが一番のモチベーションかも)にあると考えている一人なのだが、中小書店の典型の書店も番組は取材していた。地下鉄早稲田駅に近いあゆみブックスだ。業界でも有名な店らしい。ここに中小書店の生き残る道のヒントが隠されているような気がする。札幌駅ビルにかつてあった某書店での話はこのコラムでも書いたが、コンピュータ(棚は縦横にコンピュータにより在庫管理されている)に頼り過ぎて実際の棚にある本が活かされていない本末転倒の話。それとは違ってこのあゆみブックスは、今日売れた本を調べるのにスリップを実際に手に取り管理しているという。アナログ的といえばそれまでだが実際身体で覚えることで傾向と対策が打てる。今は忘れかけている目利きの効用だ。手先と口先だけでは書店の仕事は務まらない。棚を舐めるように絶えず触ってなんぼ、書店はもっと奥が深いのだ。あゆみブックス(確か仙台にもあった)にはもう一つ狭いスペースを活かした工夫があった。女性店長がテレビ取材ににこにこと応えて曰く、文庫の棚が二重棚になっていて品揃えが充実していると。ここは早稲田の先生や学生さんが多いので買切の岩波文庫も揃えていると。咄嗟に地震のときは…と想像してしまったが。また、手書きポップを置いて客を引き付けることも忘れない。いろいろと努力していかないと生き残れないことが分かる。そんな中最近書店との直取引が増えていてこの傾向は今後増えていくかも知れないとは司会の財部氏の予測。アマゾンと出版社、ベストセラーを出した出版社と書店のように。筆者も正味問題や促進などを考えると直取引にはマイナス面もあるがプラス面もあるような気がするのだが。アメリカでは小売大手のダブルデイが倒産して何ヵ月が経っているが、再生したのだろうか。番組は最後にコミックのベストセラー仕掛け人にインタビューしていた。この若い編集者は作家さんは書くのが仕事、私たちは売るのが仕事、編集はうまく整理すること、なぜ本が売れない、売れ方が変わってきていることが分からない、どう造るしか考えていないと淡々と喋っているわりには鋭い。ベストセラーを産み出した自信が見え隠れしていた。それにしても財部氏の声のハスキーなこと。
 ここまで書いてきてこのテレビ番組のタイトルに戻れば、本は売れているのかの命題は、これだけの現象を追っただけでは解けないということに行き当たる。実際にきちんとした統計がつかみ切れていない。アマゾンなどの売上―。紙媒体から電子媒体への変化は確実に社会や読書環境に大きな変革をもたらすはずだ。
 最後にコンビニの話。大手取次店にいたこともあるコンビニ最大手の経営者が、その経験を生かしてコンビニの一角に雑誌を置き販売する書店ビジネスに進出。始めは周りの書店の協定もあったのか、限られた雑誌の店頭販売しかできなかったが、今や扱う雑誌や書籍のアイテムも増え、スペースも拡大して3000億円の売上規模、その分どこが割りを食ったか、自ずと明らかだ。町の中小書店だ。年間廃業数は凄まじい。パイの食い争い、取次代理戦争―。栄枯盛衰、世の慣わしというが…。

2011/06/06

超人のジャーナリスト・アイ 142 テレビ番組評 最近の出版事情関連

 書籍の電子出版が本格的になりつつある現在、紙媒体の方の行方が気になるところ。筆者はまだマイクロソフト製やソニー製などの電子書籍は持っていない。最近この手のものが電車の中でも見かけるようになった。
 土曜日の夜たまたまBSチャンネルを回していたら、最近の出版界を取り上げた番組に出会った。エコノミストの財部氏が司会の番組で「激変 ―本は売れているのか―」と題した1時間の番組(BS日テレ午後11時〜午前0時)。出版界全体の売上は現在約19000億円、これはピーク時の3分の2程度の売上である。特に雑誌の売上の落ち込みがひどく、5年間で760億円のマイナスだ。番組は司会の財部氏自身書き手ということもあってそれなりに分かっているところもあったが、全体的にはもう一歩突っ込みが足りなかったようだ。アシスタントの女性(「クールジャパン」のアシスタントも務めているタレント、who ?! )は、その発言から出版流通システムにはからきし疎い。出版業界を複雑怪奇な出版流通システムと財部氏が語る。それは再販制度と委託制度に守られた出版界独特の制度のことだ。出版社(メーカー)は商品を造って取次店(ディストリビューター)に入れれば売上が立ち、また、書店(リテーラー)は売れ残った商品は返品できるのだ。定価は出版社が決めて維持される。再販維持。但し売れ残った商品は引き取らなければならないし在庫は課税対象商品。ここで奇妙な現象が起きる。出版社は売れなかったら返品されて経営を圧迫するので、ともかく商品を造り続けて取次店に入れ売上を確保する。自転車操業といわれる所以だ。書店はともかく余計な在庫を持ちたくないから本をせっせと返す。取次店はこの両サイド(製造サイドと小売サイド)を川上から川下へといって把握し実質支配している。4000社の出版社、40の取次店、15000の書店、この数字は20年前とは様変わりしているが、テレビインタビューを受けたある大学出版会の関係者で出版評論家の先生はこんな出版流通業界は世界中にどこにもないと断言していた。しかし歪ではしょうがない…。テレビでは取次店の取材はなかったが、最近この辺の流れが変わりつつあるのだ。これはここ4、5年の傾向だろう。小売サイドの再編が続いているのだ。売れない書店が悲鳴を上げ、資金に余裕のある大手印刷会社(フリーペーパーの出現で大分印刷需要が増大…?!)が手を貸して書店などの再編劇を演じている。CHIグループの登場だ。

2011/06/05

Chojin's picking up the article on the earthquake in medieval Japanese literature

The following article is a part of English version of THE HOJOKI (TEN FOOT SQUARE HUT) written by Kamo no Chomei in Kamakura period, about 800 years ago.

The great earthquake:

[21] Not long after this (1185) there was a violent earthquake, causing unbelievable damage. Mountains crumbled, rivers were completely filled up, and waves from the sea inundated the land. The earth split and water gushed out. Boulders broke off in the mountains and tumbled into the valley. Ships were tossed around on the sea, and horses were unable to keep their footing on the roads. In the vicinity of Heian-kyo, temples, shrines, and towers were so damaged that not a single one was left in good condition. Some collapsed; others were turned upside down. Dust and ashes billowed up like smoke. The sound of the movement of the earth, and of the destruction of houses, was like thunder. People who were inside the houses might be crushed at once, but those who ran outside were faced by the cracks in the earth.
[21*] In that earthquake the only child of a samurai, a child of about six or seven, was innocently playing under the roof of a mud wall, making a toy house, when suddenly that wall collapsed, burying the child, crushing it so badly that it couldn't be recognized, both eyeballs having been popped out about three centimeters. It is impossible to express in words the pity I felt seeing the mother and father, crying and wailing in loud voices, holding that child in their arms. To see that not even a brave warrior could disguise the anguish in his eyes suffering the agony of his child's death, could not control this kind of natural lament, provoked my sympathy.
[22] The terrible shaking stopped after a short time, but then there were after-shocks. After that great earthquake, there might be twenty or thirty tremors in a single day. After ten days, then twenty days, they gradually came to be more widely spaced, probably four or five times in a day, then two or three times, then every other day, skipping two or three days--but there were still some aftershocks up to perhaps three months.
[23] Among the four great elements recognized by Buddhism, three--fire, water, and wind--are frequently associated with disasters, but earth is most often identified with stability. Still, in the Saiko era (540), I believe, there was an earthquake so severe that it damaged the neck of the Todaiji's Great Buddha so that the head fell off, and did unusual damage to many other things. But it was no match for the violence of the earthquake this time. Those who experienced this earthquake all talked about it that way at the time, that of all the miserable things in this world, it was the worst, seemed to be a thing of evil passions. But the days and months passed into years, and they came to deplore other things, so that you might go for a month now without meeting anyone talking about the earthquake.


--Medieval--KAMO NO CHOMEI (1153-1216)

Kamo no Chomei's An Account of My Hut is a long essay that, while coming out of very different circumstances, reminds one of Thoreau's Walden, but is interesting as both history and philosophy. The history is the history of Kyoto, or Heian-kyo, the capital city of Japan in what must be one of the most disasterous periods for any important city in history. Kamo no Chomei describes the Great Fire, the Whirlwind, the moving of the capital, the famine, and the earthquake, all while civil war between the Taira and Minamoto clans is going on. In this chaos, he is denied the appointment as priest at the Kamo Shrine that he might have expected, and, with all these other experiences, this leads him to renounce the world in favor of a retreat into a Buddhism that is philosophically close to Thoreau's transcendentalism. The late Medieval period was a time of the develpment of several new sects of Buddhism in Japan--Shingon, Nichiren, Zen--but what Chomei preaches from his ten-foot hut is pretty fundamental--the world is a veil of tears and the wise man will turn his spirit to Nirvanah. I identify with the author strongly--if I were left alone I might arrange my affairs to live as simply as I could, too, enjoy what I could do with my own hands, and see with my own eyes (I tried to imitate Thoreau while I was still in my teens--but now would want my computer and VCR). At any rate, it is not hard to see his pattern of reaction to the catastrophes of life as pretty universal.

I will present him in his own words, which I have translated from a modern Japanese version of the essay, and present in what I would call a second-draft translation. (It still needs a lot of work, and, if it ever gets it, I'll replace this, perhaps a paragraph at a time, with the new translation--one of the advantages of publishing on the world wide web.)
from http://www.washburn.edu/reference/bridge24/Hojoki.html

2011/06/04

超人のジャーナリスト・アイ 141 大地震報道展示会

 つい最近東京丸の内のプレスセンターで開催された東北大震災報道の展示会。3.11大地震直後の地方新聞社の奮闘振りが手に取るように分かる―。

下記はある知人からのメールリポート。

 特別展示 東日本大震災「その時、地元新聞は」5月24日(火)~30日(月)、午前9時~午後6時(無料)日曜日は休展日本プレスセンタービル1F玄関フロア(千代田区内幸町2-2-1) 平成23年3月11日、東日本大震災は発生した。震度7強の大地震と20mを超える巨大な津波が東日本の太平洋沿岸を襲っている。その時、地域の新聞と記者たちは果敢に取材活動を展開している。被災地の地元紙が、どのように震災報道と向きあったのか・・・。各紙の協力を得て貴重な歩みを展示する。 主催:3.11大震災被災地新聞を支援する会協力:(社)日本新聞協会/(株)日本プレスセンター/日本地域紙図書館

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