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2011/03/17

昭和はもはや遠くなりつつ―ある死その4 続々々

 筆者はここ30年間位は貴美子叔母とは主に親戚の葬式で会うぐらいだった。晩年は自家用車を危なげに運転していたが、その前―ビジネスが順調な頃―は、当時としては珍しかった叔父運転の高級車で実家などに見えたものだ。ふくよかさと語りかけるような独特なトーン(商いの語り口と筆者は勝手に思っている)が印象的。
貧乏学生の頃に娘の大学受験に備えて大学の下見に付き合い、案内したことがあったっけ。その後盆の帰省の折などに実家に寄っては、2人の娘が学生生活を送っている状況を面白おかしく、多少誇らしげに語っていたのが今となっては懐かしい思い出だ。
 また、筆者がすぐ下の弟と貴美子叔母の青果店でアルバイトに駆り出されたのはいつ頃だったか。中学生の頃? その仕事は主に正月用のナマス作りだった。12月の25日過ぎの冬休み、北風の吹く崖っぷちの青果店の外で人参や大根を切り酢と混ぜて袋詰めする作業は手がかじかんでしまうほどの難儀な仕事だった。泊まりがけでのアルバイト、終わると貴美子叔母が狭い台所で何か下ごしらえをしていた。それはその時初めて食べたすき焼きだった。叔母の得意料理の一つだった。今でも忘れられない味。ある時など―確か元旦―いやに静かなので窓を開けたらそこは一面銀世界。夜のうちに雪が降っていたのだ。辛いアルバイトの後に見る光景は感動そのものだった。
 貴美子叔母はよく喋ったが、反対に叔父は寡黙で絶えずタバコをくゆらしていた。店番をしていたときなどでもそうだった。
 その後叔父の青果店は叔母との二人三脚で繁盛、名称も替えて株式会社に。筆者の身内も参画、ビジネスの栄枯盛衰を味わうのだが、この話はここまでである。この間筆者は都会の喧騒を昼夜問わず彷徨っていた時代だからだ。
 ところで、筆者のもっとも遠い記憶は、叔父(筆者の父親の末弟)の家の中、しかも蚊帳の奥にいた若い時の叔母の姿、その光景が脳裏に焼きついている。あの時何を話していたのだろうか―。
 生前のご厚情に感謝しつつご冥福を祈りたい。天国で叔父とゆっくりと語り合って下さい。

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