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2010/05/18

超人の文学散歩 『蘆花恒春園』 余滴

実際の写真で見る蘆花恒春園・蘆花記念館。
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2010/05/16

超人の文学散歩 世田谷文学館『星新一展』

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超人の文学散歩世田谷文学館『星新一展』

 デジカメの映像がサイケ調に変色、映像としては面白いと思うが、何かの不具合らしい。何度やっても同じ状態で、ついに家電量販店の修理コーナーを尋ねた。撮影した映像を取り込むところのCCDに不具合が生じたためらしく、修理になると16000円位はかかるとは店の人の話。それなら新しいデジカメを購入したら安上がりだとアドバイスされた。で、新機種がおいてあるコーナーへ。24800円でカメラの概念を変えたような、タッチ式のカメラがあった。被写体を覗く側のフレームが大分大きく、いろいろと斬新である。経済的に余裕がない状態なので、一応カタログを持ち帰った。今度はメーカーの修理受付係に直接電話してみた。すると、池袋にその場で直してくれるメーカーの修理部門があるとのこと、故障状態を告げると部品を取り置いておくので、直接来て下さいとの返事。再チェック後CCDの不具合であれば無料で交換しますと。ラッキーである。
 というわけで、午前10時に池袋にあるメーカーの修理部門を尋ねた。やはりCCDの不具合と判明、45分後無料でデジカメ修理が完了した。はて、この差は何だろう。家電量販店の言い分を鵜呑みにしていたら余分な出費がかかってしまうところだった。助かったのである。
 そのデジカメを持参して『星新一展』を観に京王線芦花公園駅近くにある世田谷文学館を訪ねた。入口左側にはボッコちゃんを始め星新一の著作がずらり並んでいた。入場料700円を払って受付を済ませて2階の企画展へ。すでに家族連れ、カップル、オバタリアンなどが観賞中。最初は左側に幼少時の星新一、尋常小学校時代の集合写真、新一少年はどこにとクイズも。 星新一が描いた絵、祖母の小金井喜美子(森鴎外の妹)が描いた表紙のノートや絵日記それに地理の授業のノート。絵は上手いが字が小さい。昭和9年10月、父が世界視察旅行に出かけたときの作文もあった。原稿用紙に自筆で丁寧に書かれていた。星新一年譜と平行して愛用品が並べられている。ホシヅル、テディベア、根付け、作家さんの自筆のコースター、その数47。五木寛之、井上ひさし、水上勉、安岡章太郎、井上靖、手塚治などだ。銀座8丁目のバー『まり花』で集めたもの。星新一の父、星一が野口英世と並んで撮った写真と顕微鏡、それを境に星一のコーナーと続く。その前に星一が世界視察旅行に出かけるときの映像が写し出されていた。旅行に出かける当日の東京から横浜で出帆するまでの映像だが、当時の東京駅、電車、横浜港などがリアルに分かって面白い。今から76年前の都市風景だ。幼い星新一も家族とともに見送りに来ていた。
 星一が社長の星製薬会社の親切第一と書かれた額が陳列されているコーナーの手前で、娘のサリナさんのコラムをさらっと読んだ。父親譲りの文章か。そういえば、『30年後』という星一の小説もあった―。愛用の制服、蝶ネクタイやスティッキ、星商業専門学校設立記念式典の写真、手帳やパスポート、ドイツ化学会からの感謝状、吉田茂の名前の入った弔辞の原稿などが展示されていた。次の一角は星新一の著作や星一の著作や翻訳、順路右手へ。先ほどのモニターの脇には星製薬の製品の数々。モルヒネ、キニーネ、胃腸薬数種など。そして著作拡大版、明治・アメリカ・父それに官吏は強し人民は弱しの自伝拡大コーナー、細かい字で書かれていた下書きそれに原稿、著作からの引用パネル、その中に夫星一が遭遇した疑獄事件の裁判に無罪を願う妻精の歌が本にそっと挟まれていた。鉛筆書きの柔らかな形といい、切実な想いといい、少なからず心を動かされた。次に祖父小金井良精の記拡大版そして関係者、新渡戸稲造、後藤新平、頭山満、杉山茂丸などの明治の人物誌コーナー。図解の構図が斬新。すでに半分は過ぎた。
 星新一のSF世界へ。撮影ができるボッコちゃんコーナー、パチりと2、3枚撮る。
SF雑誌「宇宙塵」の集まり風景再現コーナー(そば屋の2階)、各種下書きと原稿、小さい字でノートにびっしり、虫眼鏡で見ないと読めないほどだ。星新一の創作過程、星新一の著作の挿絵を描いた真鍋博や和田誠の装画の数々、星新一の日記、SF雑誌「空飛ぶ円盤」、「宇宙塵」、「宇宙機」、下書きや原稿を丸いオブジェに閉じ込め、異空間を遊ぶ星新一ワールド、ショート・ショートの部屋。不思議な異空間だ。音で聴く講演会の話、創作の秘密、ショート・ショートひらめきの法則、異質な2つのものを結びつけること→アイデアと。最後は未来コーナー、娘の文章や孫の絵など。12時12分〜13時44分の1時間32分、たっぷり星新一ワールドを堪能できた。黄色と青の色調で統一されたこの企画展では、主人公星新一の精悍な顔が至るところに覗け、びっしり詰まった下書きの文字が流星群に見え、娘たちの文章や孫の絵にもファンタジーを感じ、何らかの形で継承されていることを実感した。もちろん日本のSF史を具体的に覗けたのも収穫だ。
 企画展記念レクチャーも開催されていて、星新一を読むヒント―「ヒューマノイドロボットって何?」というタイトルで早大の高西淳夫先生が講演。これは正真正銘ロボット屋の話、だが星新一展を観賞した筆者にはいきなり科学の最先端の話にはサプライズ。もう少し流れを考えても良さそうなものとの印象を受けた。それでもほぼ満席、100名弱はいたか。しかし、それは早合点だった。関連イベント8回の一つとして企画されたものでパンフレットを紐解けば解かるのだ。5月30日の星薬科大学三澤美和教授の「星新一の父・星一の仕事と生涯」、「星新一ゆかりの地を歩く―星薬科大学ほか」も面白そうだ。最後に「星新一展」の図録を購入(1200円)。世田谷文学館館長の菅野昭正氏の文章をはじめ、本文80ページの贅沢な図録だ。図版、家族、SF作家の誕生、ショート・ショートの話、描かれた星作品それに年譜や著作リストなどの資料編。筒井康隆の星語録作成の話や星新一の別荘で主自身がドビッシーの音楽を聴いているうちに感激して泣き出した、タモリの話などエピソードも面白い。その中で娘のサリナさんが英訳した『ボッコちゃん』の冒頭を引用してみたい。

 The robotic woman was very well made. Being artificial,it was possible to make it look as beautiful as the creator wished. Indeed,the robot had a look of perfection. Its design incorporated all the elements of a beautiful woman. This included arrogance because, of course, conceit is one of the attributes of a beautiful woman.

 そのロボットは、うまくできていた。女のロボットだった。人工的なものだから、いくらでも美人につくれた。あらゆる美人の要素をとり入れたので、完全な美人ができあがった。もっとも、少しつんとしていた。だが、つんとしていることは、美人の条件なのだった。

星新一語録。
寓話作家。思いつきとは異質なものどうしの新しい組み合わせ。アイデアとは育てるもの、雑多な平凡な思いつきを整理し、選択し手を加えることに精神を集中してつづれば、なにかかが出てくるのは確実である。要素分解共鳴結合。会社をつぶした男に、まともな会社がやとってくれるわけがない。あこがれて作家になったわけではない。ほかの人と違う点だがやむえなかったのだ。背水の陣であったが。

ペーソスとユーモアの人、想像力の賜物、それをうまく書き出す技術力の人、しかも分かりやすく短く―。科学の眼を持った文学者だった。

筆者感想。過去・現在・未来をテーマにした星新一ワールドのこの企画展は、つい最近亡くなった作家井上ひさしのペーソスとユーモアとは少し違った味わいがある。DRYとWET、SFとDRAMAの違いだろうか。二人ともわかりやすく書こうとした作家には違いない。そのために凌ぎを削った。根っこは人間への限りない優しさだった。

斬新なパンフレットとチケットだが黄色が目立つこと。

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 ついでに廬花亘春園へ出向いた。『不如帰』の著者でトルストイとも親交があった徳富廬花の旧居だ。戦後妻が寄贈した。兄は徳富蘇峰。蘆花記念館(蘆花の『不如帰』は当時大ベストセラーで50万部以上の売れ行き、英語、ドイツ語、スペイン語、スウェーデン語やフィンランド語にまで翻訳されていたことが647_2ここに足を運べば分かる。また、世界一周旅行に蘆花も出かけたらしい。それよりこの出版に纏わる大正時代の版元の意気込みが凄い。トルストイの廬花宛ての手紙も展示されている)、愛子夫人居宅、母屋、梅花書屋、秋水書院それに竹林、初夏の匂いがたっぷりの廬花亘春園(あとで気付いたことだが、実はもっと広くて夫妻の墓地、自然観察資料館、花の丘、藤棚などがあるらしい)。
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 201005151647000201005151700001帰り際に芦花公園駅の踏切を渡って商店街にあるニューヨークのシェフ上がりのアメリカ人経営の「アーバンラーメン」に寄って醤油ラーメン(800円)を食した。二度目。今人気のラーメン店である。駅に戻って電車を待っていると、近くであの外人のやっているラーメン店はどう、という中年夫婦の会話が聞こえた。

2010/05/07

超人の面白読書 69 『萩原延壽集 1 馬場辰猪』

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 NHKの大河ドラマ「龍馬伝」が人気だ。自由闊達かつ坂本龍馬扮する役者の容貌と語り口、また、同じ土佐出身の三菱財閥の創業者、岩崎弥太郎扮する役者の演技も主役と対照的で、この点でも視聴率を上げる好材料になっている。龍馬は今でいえばコーディネーター的な人物で、日本を変えるという大きな理想に燃えて突き進んだ幕末の群像の一人だろう。作家司馬遼太郎は生前もっと長生きして欲しかった人物の一人とどこかで語っていた。それにしても日本人は斯くも龍馬が好きなのか。さらに最近では“歴ドル”なる新しい愛好者も加わって女性にも人気が出ている。
 翻って今の日本の政治はどうか、確かに政権は変わった、だが前政権と変わらない政治家の金と政治の不透明さ、政策決定の遅れ、政府と与党間の不協和音などが目立ち始めているが、一方、野党第一党でも党首の存在が薄いのか、まとまりにかけ今や分裂状態で、すでに何人かは離党して新党を立ち上げた。地方の首長らも立ちあがった。政治改革、刷新とは言うものの、参議院選挙に勝つための自分たちの狭い世界だけを泳ぐ強者に映る。今一つ彼らの言説には私たち国民の目線が感じられないのだ。目先の政治に忙しい。政治哲学や政治理念、倫理があまりにも欠如しているとしか思えない、言わば、政治が安っぽくなった。国民が納得できる政策を打ち出せずに何か内向きの政治に固執しているようにみえる。このままでは日本丸は迷走して荒海に飲み込まれてしまうような感じすら受ける。期待や希望が持てないのだ。マスコミの論調もただ批判の矢を射るだけではなく、ジャーナリズムの健全な見識を持ち、もっと私たち国民が知りたいことを客観的かつ分かりやすく報道してもらいたいものだ。枝葉末節なことはどうでもいい、独自な取材で得た、骨太の記事を期待したい。政党政治の有様、勝てば官軍、後は数の論理で押し通していく昨今の日本の議会制民主主義の有様が問われている。有権者の一票、政治の無関心も問題だ。
 さて、本題。今から125年前の明治10年代に政治改革を掲げて闘った、自由民権運動家の馬場辰猪。その生涯を綴った萩原延壽の評伝『萩原延壽集 1 馬場辰猪』を読んだ。きっかけは大分前に歴史学者の勧めだったが、当時文庫本は絶版、図書館から借り出して多少読み、それを何回か繰り返しているうちに忘れてしまっていた。そして2007年に『萩原延壽集 1』が朝日新聞社から刊行されて購入。馬場辰猪の墓の話を探し出すところから始まる文章に目がとまり、何か気になって来た。一体馬場辰猪とは何者か。最近彼がロンドン留学中に書いた最初の英文、『日本語文典』に興味を持つようになって、観光ついでに彼の墓のあるフィラデルフィアまで出かけて探したのだった。ペン大学の一画にてっきりあるものとばかり思って探したが(現地の大学の人にも聞いたが、ちょうど土曜日で歴史関係者も休みの人が多かった)、結局帰り際のタクシーのなかで、試しに携帯の端末の検索をかけてみることで一縷の望みを託した。すると同じように探しに来た誰かのブログでその場所が特定できたのだった。何とアホなことを、その時にはもう時間はなかった。ああ、ウッドランド・セメタリー! 資料コピーを持参するのを忘れてうろ覚えのままが悪かった。

  この400ページ弱の重厚な書物は、単行本として約40年前に中央公論社から刊行された。朝日新聞社のものは萩原延壽集として陸奥宗光や東郷茂徳の評伝などが収められた1巻目として刊行されている。
在野の歴史家・萩原延壽氏の緻密な筆の進め方で見えてくる馬場辰猪の生涯、それは著者の言葉を借りて言えば、性急な歩行者の姿だ。また、萩原延壽氏の文章もいい。対象にのめり込まず、距離感がほどよい。だからと言って対象者に愛情がないわけでもない、むしろ人一倍あるくらいだ。解説者の宮村治雄氏は、「馬場辰猪の生涯を識るものは一種凛冽の気に打たれるのを覚える」と著者が語った言葉が、馬場辰猪の師福沢諭吉が「気品品格の高尚」と讃えた言葉と響き合っていると書いていることでも分かる。萩原延壽氏の文章は遠く遡れば、朝日新聞の夕刊で連載された「遠い崖―アーネスト・サトウ抄」ですでに触れていた。日記を詳細に追っていた。それはしつこいほどだった。この馬場辰猪の評伝も歴史家とジャーナリストの2つの眼を持って書かれているような気がしてならない。それが対象をみつめる視線のしなやかさに繋がっている。
 土佐藩士の次男として生まれ、アメリカのフィラデルフィアで客死するまでの39歳の生涯は、日本の政治改革に純粋に向き合った人間の早すぎた死だろうか。結核に倒れたのだ。1850年、土佐藩士校の次男として生まれ、藩校文武館で学んだ後、17歳で福澤塾に入塾、21歳、他の4人と藩留学生として海軍機関学を学ぶためロンドンに留学、幾何、地理、歴史、物理学を学ぶ。23歳、イギリス滞在中の岩倉遣米欧使節団に法律学修得を願い出て許可、藩留学生から政府留学生に切り替える。24歳、『日本語文典』刊行。25歳、帰国、26歳、共存同衆で最初の演説、再留学ロンドンへ、『日本における英国人』刊行。27歳、文化人類学者の嘱託で『古事記』の冒頭部分の翻訳、『日英条約論』出版、28歳、健康衰え、送金も途絶えがちになる。29歳、イギリス留学中の真辺戒作と口論、殺傷、勾留、帰国、京橋区日吉町一番地に下宿。30歳、日本語の最初の著作『法律一斑』刊行、31歳、交詢社常議員に当選、東京両国中村楼で演説討論政談会(のち政談討論演説会に改称)を開く。32歳、政談討論演説会を国友会に改称、明治義塾を開校、発起人、自由党常議員に選出、33歳、朝野新聞社客員、自由党機関紙『自由新聞』創刊、板垣退助、後藤象二郎の洋行に強く反対する。34歳、『天賦人権論』刊行、各地で遊説、『商法律概論初編』刊行、自由党脱党。35歳、自由党解党、『雄弁法』刊行、爆発物取締罰則違反で逮捕、37歳、結核悪化のため監獄病院に入院、証拠不十分で無罪放免、大石正巳と横浜からゲーリック号で渡米。38歳、アメリカ各地で講演、フィラデルフィアに移る、ペンシルベニア大学で講演、成功、アメリカの新聞に投稿する。39歳、陸奥宗光を訪ねる、『日本の政情』を刊行。ペンシルベニア大学病院で死去。フィラデルフィアのウッドランド・セメタリーに埋葬。以上、巻末にある馬場辰猪年譜を追ってみた。本文からこれといった箇所を2、3引用してみよう。
 「観念としての民衆と事実としての民衆との間の乖離が、自由民権家としての自分の前におかれている課題が二重のものであること、つまり、取り組むべき対象が圧制官吏ばかりではなく、自由民権運動そのものの純化であることを、はっきり語っていた」(P.117)、「馬場には、福沢や中江とちがって、知識人が政治に参加する場合に不可欠な精神の『戦略論』」、この場合についていえば、理念と現実との間に時間という要因を介入させてゆく媒介的な思考が欠如していたのではないかと、現在わたしは考えている」(P.270)、「もし板垣自由党にかわって馬場自由党が出現した場合、自由民権運動の解体をよく防止することができたであろうか。馬場には、自分と自分自身が没入していた自由民権運動とを越えたところに、もう別な視点を設定してみるという精神の『戦略論』は、やはり無縁なものであったようである。つまり、馬場は、自分に執しすぎていたといってよいのである」、著者は藤田省三氏の書物(「あるマルクス主義学者」、『転向』上巻所収)を引用しながら次のように書く。「河上肇の『自叙伝』と福沢諭吉の『福翁自伝』を比較しながら、藤田氏は次のようなするどい指摘を行っていたが、…中略。『自叙伝』は全く私小説のスタイルであって、方法的に組み立てられていないのに対して、『自伝』は叙事的で、かつ叙述は方法的である。したがって福沢には簡略化の能力があり、河上にはその力はないといえる。そしてこれらの特徴はまた、自己と自己を取り巻く状況から超越した眼をもつことができるかどうか、の能力から生まれるものである(この河上のところを馬場と置き換えるとよく分かると著者)」(P.284)、それに次のような箇所。「旧師の福沢や旧友の中江にくらべれば、馬場は、けっきょく、人生というドラマの俳優ではありえても、これを演出する役割には適しなかった人間であったのだろう』(P285)。
 ここには著者の鋭い分析がある。論理の直線、西欧流知識人対日本の政治、そして何より生き方が生真面目過ぎた。もっと迂回すれば良かったのだ、良い意味での遊びが必要だった。それは父や兄の不祥事を見て知ってしまったことと無縁ではあるまい。
  ここで解説者宮村治雄氏も言及している著者の「挿話」の典型を本文から拾ってみたい。
自由党系の新聞人大井通明の編集した『日本全国新聞記者評判記』(明治15年12月刊)の「馬場辰猪評判」。
「文章 大ニ其法ニ暗クシテ書翰モ能ク認ムルヲ得ズト云フノ評判。 議論 理論ニ精明ニシテ東洋ニ於テハ氏ノ右ニ出ルモノナシト云フ程ナリ。 学芸 久シク西洋ニ遊学セシヲ以テ深ク洋学ニ達ス、泰西古今ノ事情寸毫モ識リ得ザルハ無ク、且ツ政事学ニ法律学ニ皆ナ然リトイエドモ、惜匕哉漢学ニ於テハ実ニ暗シトイフ。 弁舌雄弁 デモスゼンスヲ欺キ能舌パトリックヘムリーヲ慚愧セシムルニ足ル。故ニ氏ノ演説ヲナスニ方テヤ衆人聴イテ為メニ恐敬セザルハナシ。実務 其術ニ迂ニシテ、時事ヲ整頓ス可キノ議論ヲ立ツルコト稀レナリトノ評判。 性質 深沈ニシテ而シテ大度アリ、容姿艶然、真ニ学者社会近世ノ美男子ナリ。」(P.388)
 おそらく、当時の日本の政治社会と言論界に流布していた代表的な馬場の人間像であろうと著者は書く。
 政治におけるリアリズムとは、「権力」だけに着目するのではなく、政治を動かしている「理念」についても、正当な評価を与える態度を指すのである。双方に対して、過不足のない認識と理解をしめすものだけが、政治の世界において真にリアリストの名に値いするのだ(「陸奥宗光小論」)という著者の見解を引用しながら、これに対して、解説者宮村治雄氏は、政治のリアリストたらんとするものは、果たして馬場の生涯を無視したり、軽蔑したりできるだろうかと疑問を呈している。また、馬場における「政治の技術」的契機の視点がなかっただろうかと書き、さらにその理解は、いささか一面化されていなかったろうかと書く。馬場の言動は、一私人の、一私人だから駆使しうる「政治の技術」もまたありえることを示唆しているからだと書く。
 馬場辰猪という一人の西洋知識人が日本の現実の政治と向き合って叫ぼうとした行為は、民心から政治を変える一言に尽きると思うのだ。結果的には国家権力の及ぶことになったり、自由民権運動の衰弱を招いたり、曖昧な民衆に戸惑ったりと明治10年代を疾走した。終には馬場辰猪自身アメリカに新たな可能性を求めて亡命、道半ば病で果てた。アメリカで講演者として生きることを決意、外から政府批判を続けようと企てたが果たせなかった。
 萩原延壽のこの評伝にはもの悲しさが漂っている。著者の筆運びはこの辺の醸し方を心得ているようにも思えた。始めはデクレッシェンド、徐々にクレッシェンドへと流れる文章―。明治初期の書物や書簡の引用文を読むのには不慣れな筆者だが、なかなか読み応えのある重厚な1冊だ。
 筆者の目下の関心事は、森有礼の反駁の本として書かれた、馬場辰猪著『日本語文典』だ。ここには彼の早い時期の思想があるようだ。
 尚、少し違和感を感じたが、付録として「福沢・中江・馬場」、「丁丑公論」、「瘠我慢の説を読む」を収録」している。

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