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2010/04/30

超人の詩歌鑑賞 西脇順三郎

ギリシア的抒情詩

 天気

(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとさゝやく
それは神の生誕の日。

 カプリの牧人

春の朝でも
我がシゝリヤのパイプは秋の音がする。
幾千年の思ひをたどり。

 雨

南風は柔い女神をもたらした。
青銅をぬらした、噴水をぬらした、
ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。
静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、
この静かな柔い女神の行列が
私の舌をぬらした。

―「Ambarvalia」より

旅人は待てよ
このかすかな泉に
舌を濡らす前に
考へよ人生の旅人
汝もまた岩間からしみ出た
水霊にすぎない
この考へる水も永劫には流れない
永劫の或時にひからびる
ああかけすが鳴いてやかましい
時々この水の中から
花をかざした幻影の人が出る
永遠の生命を求めるは夢
流れる生命のせせらぎに
思ひを捨て遂に
永劫の断崖より落ちて
消え失せんと望むはうつつ
さう言ふはこの幻影の河童
村や町へ水から出て遊びに来る
浮雲の陰に水草ののびる頃

―「旅人かへらず」より

近代の寓話

四月の末の寓話は線的なものだ
半島には青銅色の麦とキャラ色の油菜
たおやめの衣のようにさびれていた
考える故に存在はなくなる
人間の存在は死後にあるのだ
人間ではなくなる時に最大な存在
に合流するのだ私はいま
あまり多くを語りたくない
ただ罌粟の人々と
形而上学的神話をやっている人々と
ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ
アンドロメダのことを私はひそかに思う
向こうの家ではたおやめが横になり
女同士で碁をうつている
われわれ哲学者はこわれた水車の前で
ツツジとアヤメをもつて記念の
写真をうつして又お湯にはいり
それから河骨ような酒をついで
夜中幾何的な思考にひたつたのだ
ベドウズの自殺論の話をしながら
道玄坂をのぼつた頃の彼のことを考え
たり白髪のアインシュタインがアメリカの村を
歩いていることなど思つてねむれない
ひとりでネッコ川のほとりを走る
白い道を朝早くセコの宿へ歩くのだ
一本のスモゝの木が白い花をつけて
道ばたに曲がつている、ウグイスの鳴く方を
みれば深山の桜はもう散つていた
岩にしがみつく青ざめた蕾、シャガの花
はむらがつて霞の中にたれていた
私の頭髪はムジナの灰色になつた
忽然としてオフィーリア的思考
野イチゴ、レンゲ草キンポウゲ野バラ
スミレを摘んだ鉛筆と一緒に手に一杯
にぎるこの花束
あのたおやめのためにあの果てしない恋心
のためにパスカルとリルケの女とともに
この水精の呪いのために

―「近代の寓話」より
いずれも那珂太郎編『西脇順三郎詩集』(岩波文庫)から引用。

 この巨人がなくなって28年、そろそろ新たな息吹がほしいところだ。
初期作品から後期の作品まで大きな振幅があって読み込んでいくことが大変な詩人だが、北原白秋―萩原朔太郎―西脇順三郎―瀧口修造といった近代詩から現代詩へのひとつのつながり方のなかにも、変貌していった日本の詩における表現史上の重要な特色があること(澤 正宏著『西脇順三郎のモダニズム―「ギリシア的抒情詩」全編を読む―』のあとがき 双文社出版 2002年)の指摘を待つまでもなく、筆者が新たな息吹をほしがる水脈もこの辺にありそうだ。モダニスト、幻影の人、存在自身の淋しさの人、諧謔の人西脇順三郎―この詩人はもっと読み継がれても良い。

 ところで、上記の西脇順三郎に関して講演会が開催されるようです。
CPC 第2回文化講演会 2010年5月8日(土)午後1時~3時 江戸東京博物館1階会議室 講師: 澤 正宏福島大学教授 演題: 「詩人西脇順三郎を語る」 入場料500円。興味のある方は当日直接会場に出掛けてはいかがでしょうか。

2010/04/21

超人の美味しい果物発見 2 「はるか」

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 普段あまり果物を食しない筆者だが、夏みかんの新種にはサプライズ。某先生が普通の夏みかんと交互に入った箱を2箱送ってくれた。感謝しつつ家人と食した。はて、その黄色檸檬みたいな果物は何? 梅干しではないが、すぐ反応して酸っぱいとのイメージを喚起してしまう。しかしだ、これが大きな間違いだった。皮を剥いて被りついたら、ほどよい甘さに一瞬度肝を抜かれた。この落差―。美味!家人いわく、今までに体験したことのない味だそうな。
で、この果物の名称は?分かんない、ネットで調べたら5年前から市場に出回っているらしい。遥か愛媛は八幡浜から届いたフルーツの名称は、はるか。粋な計らいの某先生に感謝です。

2010/04/18

超人のジャーナリスト・アイ 119 アイスランド火山噴火報道

下記はレイキャヴィークの英字紙「ICELAND REVIEW」の火山爆発報道。

17/04/2010 | 16:52

Iceland Review Reporters: This is Like Ragnar k, the End of the World
“We tried driving into the darkness and it was like we had stepped into another dimension. We felt it was the end of the world as described in V lusp , the old Icelandic Poem the tells the story of the end of the world called Ragnar k or G tterd mmerung in the famous opera by Wagner.

“We saw nothing. The windshield filled with ash and we did not dare leave the car. It was like the sun had gone out in the middle of the day,” said Iceland Review editor Bjarni Brynj lfsson and photographer P ll Stef nsson. “It is not only fine ash but rough small grains. We did not dare go further. After three kilometers we felt we had gone too far. So we returned to Sk gar. The ash is so thick that it was like driving through snow.”

Sk gar was beaming with life when the Fimmv rduh ls eruption was still going on, but now it is deserted. Only a farmer was there. The shop and hotels are closed. Now our reporters have to decide whether to go east or try so see if there is a chance of going again through the thick ash towards the west.
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Sk gar on Saturday April 17 at 16.05. Photo: P ll Stef nsson/Iceland Review
V lusp  says:

The sun turns dark,
earth sinks in the sea,
the fair, bright stars
disappear from the heavens.
Sizzling blaze
around the tree of life
colossal heat plays with
the heavens.

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Photo by P ll Stef nsson/Iceland Review
But let us not forget that the sun came out again and the world rose, more beautiful than before.


17/04/2010 | 16:12

Iceland Eruption: How Frigthening to Pronounce Eyjafjallaj kull
One of the difficulties on reporting on the Iceland eruption is the difficulty in pronouncing the name of the glacier now turned volcano. The reporter at Fox said: “Too many letters to pronounce.” Others have dared to try, but often not with much luck.

By looking at the video you might learn how to say the word and how not to.
詳細を読みたい方はこちらへ→http://www.icelandreview.com

追記。2010年8月1日NHK BS放送で世界のドキュメンタリー「世界を止めたアイスランドの火山」と題したイギリスBBC制作の番組があった。火山噴火後5日目に現地に入った地質学者の現場からのレポートなどアイスランドの火山噴火の模様をリアルに伝えていた。番組は最後に1918年に噴火したカトラ火山が再爆発する可能性が近づいていると警告していた。ヨーロッパの国々は、事前に備えないと4月に起きた火山噴火より被害が大きくなる恐れさえあるという。(2010年8月2日 記)

2010/04/17

超人のジャーナリスト・アイ 118 アイスランドの火山噴火

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 かつて作家の山室静氏はその著書『アイスランド』(1963年刊 紀伊國屋新書))のはしがきで次のように書いた。
 
 なにしろ大洋をへだてた地のはての島だったし、海岸は多くは断崖で、中央部は高峻な溶岩台地、島の大部分が火山と氷河で覆われている状態である。草も乏しく、木となると、灌木状のものがあちこちに生えているくらいだから、自然開発の技術をもたぬ時代の人間には、なかなか住みにつきにくい土地だったにちがいない。やっと住みついた人間も、繰り返し繰り返し噴火でおびやかされた。
 島には大きな火山が150ほどもあり、たとえば1362年に噴火したオレーフ火山は、40の農場を溶岩流で押し流して、人間も家畜も残らず海に葬り去った。ヴァツナ氷河で、3280万平方マイルを覆い、最高点のオイレフ火山のところでは7000尺の高さに達している。雪と氷の中から火を噴いているのだ。川や湖がいたるところにあり、温泉や間歇泉がいたるところにふき出している。
 それだけに景観は、独特の雄大な、荒涼美といったものを見せている。

 その神話と伝説の島、氷と火の島アイスランドで今度は南部のエイヤフィヤトラヨーテルEyjafjallajökull氷河の火山噴火が起きた。その火山灰によりヨーロッパでは空港封鎖が相次ぎ17000便が欠航、その規模は戦後最大規模だとメディアが報じている。英国、ベルギー、デンマーク、エストニア、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、アイルランド、オランダ、フランス、ドイツ、ポーランド、ルーマニア、ハンガリーなどの空港が影響を受けているようだ。各地の空港では相次ぐ欠航便に成す術がない旅行者、諦めて列車での移動に切り替えた利用者もいる。大半は空港周辺で様子見といった状態。その中で仕方なくオスロからブリュッセルまでタクシーで移動した人もいたという(英国のコメディアン。タクシー運賃は日本円で約50万円 ! )。アイスランド火山、憎しとテレビのインタビューに応えていた旅行者もいたりと今しばらくはこの混乱は続く模様。
 それにしてもだ、アイスランドはついていない。一昨年の金融危機で自立再建の道を模索しているなかでの火山噴火、それがヨーロッパ各地に空から煙を送ってしまい、航空機の運航に支障が出てしまった。航空会社は一日2億ドルの損失だという。もちろん物流にも影響が出ているはずで、経済的打撃は大きいと思われる。
 翻ってこの日本国は、4月下旬にもかかわらず東京や神奈川ではこの時期としては41年ぶりの雪、冬に逆戻りの異常気象である。中国のチベット族自治州では大地震があったばかり。地球は警鐘を鳴らしている。【写真左から 今回の噴煙 3月の噴火 普段のエイヤフィヤトラヨーテル氷河 地図での位置 いずれもネットから】

2010/04/15

超人の面白ラーメン紀行 131 千代田区神田神保町『緬武 鷹雅』

超人の面白ラーメン紀行千代田区神保町『緬武鷹雅』
 昨日慶應仲通り商店街を歩いていたら、つけ麺で有名な『三田製麺所』に出くわした。ちょうど昼時、店の前には行列ができていた。やっぱりそうかと並んでいる人数を数えた。約20人。この時間帯は当たり前か。
 一昨日は神保町界隈を散策、ここは今やラーメンの激戦区、ともかく出入りが激しいこと、今や新たな神田駅西口商店街のラーメン激戦区に勝とも劣らず、ラーメンワールドを演出中だ。進化なのか退歩なのかいざ知らず、あるわあるわ、B級グルメの天国。やはり学生街か、ざっと瞬時に数えただけでも15軒、狭い区域である。過当競争もいい加減にしてよと言いたいほど。前にあったラーメン店が別のラーメン店に早変わりなんてよくあるケース。何せ突貫工事よろしく雨後の筍の如く出来てしまうから不思議。ラーメン店は、もともと狭いスペースで気軽に出来るせいもあって、開店までそんなに時間がかからないのだ。あとは腕と言いたげだがこれが難物なのだ。
 ラーメン店『鷹雅』のメニューは4、5種類と少ない。、最近出来た店だが、札幌系の味噌ラーメンが売り、しかし現代的にアレンジした、一種の北国創作ラーメンだろう。千石にあったラーメン店の神保町進出らしい。味噌ラーメン(800円)を頼んだが、ちと値段が高い。緬は独特、もちもち感とはまた違ってやや歯応えのある、小林製麺の特注品らしい。中細ストレート系。ブレンドした味噌味だが、濃厚過ぎて薄めてもらいたい気分だった。改めて味噌には玉ねぎや挽肉があうかも。ここにネギもある、筆者的にはグーである。チャーシューは全部小刻みかと思いきや、そうでもなかった。とろけるほどでもない、パンチが濃厚の味噌に引きづられている感じだ。店一押しは焼き醤油ラーメン(750円)。午後3時近く、やはりこの時間帯は客はぽつりと少なかった。まだ始まったばかりの店、集中力が落ちる時間だが、適度な気合いの入った笑顔がほしい。
 新宿歌舞伎町の人気店『虎龍』とは姉妹店。場所はJR水道橋駅から徒歩5分の日大経済学部のすぐ脇、白山通り沿い。14人が入れば満杯の店だ。
『緬武 鷹雅』①スープ★★☆②緬★★③トッピング★★④接客・雰囲気★☆価格★★

2010/04/13

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント 63

 当時のミルクプラントは労働集約型の典型的なところだったかも知れない。瓶洗い、瓶詰め、蓋閉め、箱詰め、冷蔵庫への保管、清掃と一連の作業が毎日繰り返された。今は地方の酪農家からタンクローリーで時間差がほとんどないくらいに工場に運ばれるらしい。大幅に集乳過程が改善されたのである。工場も大型化、自動化が進み大量生産で、紙パックに入った牛乳製品が市場に出回る。生産拠点のグループ化も進んでいる。また、牛乳製品の種類も豊富だ。それはスーパーに行けば一目瞭然である。当時はまだ汚くきつい仕事だったのである。
 そんな家業をよそにナオミが、中学時代に多少自分の居場所を見つけ出していたことも書いておこう。それは新鮮な驚きだった。
ナオミは他の同級生たちと一緒に自転車で通学していた。片道20分だったが、中学校は高台にあったので急坂を登らなければならなかった。小雨の日も雨傘を片手に差して通学したのだ。もちろん濡れるのを覚悟してのことだ。
その中学校がある高台は街の中心から近く、小学校、裁判所、神社、少し歩けば高校などもある文教地区で、中学校の正門を出て少し歩くと右側には陸橋があり、渡ると旧城跡に行き着く。この辺にはお堀の名残か池があった。浮草で覆われていてほとんど水面が見えなかった。そんな高台にある中学校の校庭には大木があって、その木に向かって“大木よ、おまえはその昔”で始まる大木を讃える詩を朝礼で一斉に朗読をさせられたのだった。恐らくその大木のようにすくすく育てとの意味合いからだったろうか。
 ナオミには何人かの友達がいた。その一人に根っこから真面目そのもの、顔は端正だが口調はやや女性っぽい、サラリーマンの家庭で育ったM男がいた。ちょっとオマセな男だった。どういうわけかナオミと気が合った。休み時間や下校時の一時に彼とよく話した。何を話したのか、哲学めいたものだったか、それともある小説家の話だったか、ナオミは記憶の奥底をさぐった。しかしなかなか出て来ない、仕方がない、ナオミ流の記憶の現出を試みた。すると、かすかにM男がしきりに喋っている光景が出て来た。

ナオミ君、僕小説書いたんだ、読んでくれるかな。

 彼は照れくさそうに藁半紙10枚をナオミに手渡した。そこには鉛筆でやや四角張った字がぎっしりと並んでいた。消しゴムで消したあとも所々あった。

小説っ ?

ナオミは今まで実際に小説を書いている人間に出会ったことはなかった。下校時の大木の下で半ば告白ぽかった。内容はSF小説のようだった。太宰治の小説ではなかったのだ。

じゃ、読んでみるよ。

 ナオミは生返事をした。こんなもの読んでどうなる、何も役に立たないと考えたのだった。しかし、ナオミは家で読んでみた。今思えばSFファンタジーだったか―。どういう感想を言ったのか思い出すだけでぞっとするが、的外れ的なことを言ってお茶を濁しただろうことは容易に想像がつく。彼は悲しんだはずだ。もっとうまく書くよと答えたような気がする。

彼は今何をしているのだろうか。小説家になっていれば分かるはずだが、それとも……。ナオミには中学時代の一時期の付き合いだったが鮮烈だった。

 もう一人オマセな同級生もいた。彼は背がひょろっとしていて痩せていた。首を少し右に曲げる癖があり、多少皮肉屋でやや神経質な性格の持ち主だった。いつも授業そっちのけでクルマのデザインをノートに描いては暇をつぶしていた。育ちが良いせいか語り口はやわらか(たまに出る皮肉的な口調を除いては)、しかし、学生服は時々襟元近くが汚れていた。彼とは幼なじみのY夫も家が油を扱う商売だったせいか油の臭いが服に滲み出ていた。そんなクラスが隣同士のナオミたちは、休み時間になるとプロレスごっこが日課になり、時々、ごっこが本番になって、額に絆創膏を張る始末になることもあった。Y夫もその口だった。
 F男の家は学校からすぐ左側の坂を降りた道路の向かい側にあった。彼の父は確か役所のトップにまで上りつめた人で、彼の兄弟は秀才一家と言われたほどだ。工学系から文系まで兄たちがそうだった。F男は末子だった。ナオミは学校帰りにF男宅に行っては彼の兄たちが残していった本を見るのが楽しかった。勉強した筆跡も散見できたラテン語、フランス語やドイツ語の読本をよく見せてもらった。英語の本はもちろんのこと、数学や文学の本もあった。様々な本を持ち出しては誇らしげに解説するF男がいたが、増築した彼の離れ家はそれほど大きくはなかった。いや、むしろ狭い感じだった。ここには何とも言えない知的雰囲気があった。彼の兄の一人は、大手出版社に入りフランス文学全集を手掛けたが、惜しくも40代の若さで病に倒れた。ナオミは生前一度か二度この兄の家にF男が下宿していた時に会って話したことがあった。ナオミに何かアドバイスしてくれたはずだが忘れた。紳士な人だった。

  F男もよくギア付きの自転車でミルクプラントの方まで遊びに来てくれた。彼はシニカル スマイルが得意で飄々としていたが、本当は屈折していたのだ。

 中学時代の彼らとの出会いが、ナオミの将来に少なからずヒントを与えた。ミルクプラントの外への準備はこの時すでに始まっていたのだ。それは祖父の死とも関係していた。

  どういう理由か知らないが、ナオミが抵抗なくミルクを飲めるようになったのは、ミルクプラントを離れて相当後の30過ぎてからだった。不思議な生理現象である。

 そのミルクプラントはもうない。<了>

2010/04/11

超人のジャーナリスト・アイ 117 作家井上ひさし死去

 作家井上ひさしが肺炎で昨日(4月9日)亡くなったとメディアが報じた。享年75歳。肺がんを患っていることは筆者も知っていた。最後に見かけたのは去年か東京駅地下の横須賀線ホームのグリーン車乗り場で並んでいたときだ。夕方5時半頃だった。紙袋を下げていた井上ひさし氏だが、講演の帰りなのか、あるいは版元打ち合わせの帰りだったのかは知るよしもなかったが。顔色はあまりよくなかったようだ。服装は開襟シャツ、紺のブレザーと茶系のズボンと比較的ラフな出で立ちだった。その前は6年前のある社葬の会場に井上ひさし氏がいた。この故人のS氏とはS氏が井上ひさしの大ファンで一時期子息も秘書修行をさせていたほどだの親密さだった。筆者は未だに『父と暮らせば』を劇場では観ていないが、テレビでオンエアしたときには途中から観ていた。天皇の戦争責任問題がテーマだった。一昨年12月に亡くなった評論家の加藤周一氏らと憲法9条を守る会のよびかけ人の一人でもあった。
 筆者は面と向かって一対一で話したことはないが、何回か接点があった。まだ20代半ば―モラトリアムの最中で書店のにわか店長をしていた―頃で、オーナーが浅草出身、先妻の好子さんと親しかったせいで、井上ひさし氏の本の一括注文が舞い込んで筆者がその係だったのだ。オーナーが好子夫人から注文カードを受け取り、それを店から注文を出し入荷すれば検品、箱に詰めてオーナーが車で浅草の自宅まで運んだ。1回の発注額が100万円以上だったと記憶している。そのネタ本からは代表的なエッセー本が生まれている。当時井上氏は新潮社のPR雑誌「私家版日本語文法」を連載していて、それを単行本にまとめたのだ。谷崎、中村、三島などの今までの作家の文章読本とは些か赴きが違っていた。憲法の条文、新聞の記事など身近なところから言語の運用について鋭く切り込んでいるかと思えば、一方ではユーモアの精神も反映していて思わず笑ってしまう箇所もあった。オーナーが六本木で今井上氏新作の戯曲『雨』が上演中だが観に行くかと誘われた時には、まだ現代劇には余り興味がなく遠慮したのを覚えている。その昔テレビ番組「イレブンPM」で確かタブーのことかまたは、その関連で触れたコメントが筆者的には特に印象に残っている。セイコーの時計が12時をお知らせしますとメディアは流すが、そのセイコーは必ずしも精工舎の“セイコー”とは限らず、“性交”も容易に連想できると表現の自由を身近な例でコメントしていたことだ。「イレブンPM」といえば、読売テレビの司会者は直木賞作家の藤本義一氏だった(東京の日テレと大阪の読売テレビで交代で放送、東京の司会者は大橋巨泉や愛川欽也)が、その藤本義一とは学生時代には東の井上ひさし(上智大)、西の藤本義一(大阪市大)と互いに小説のライバルだったことはつとに有名な話だ。
 小説『青葉繁れる』、『四十一番の少年』、『モッキンポット氏の後始末』など何点かは読んだ。最近の作品はご無沙汰だが。試しにネット検索をしてみると、小説・童話51、随筆54、戯曲44、他、すごい、多作なのだ。遅筆堂と名乗っているくらいだが、よくもこれだけ書けたとただ感心するばかり。相当な勉強家でもあったのだ。一時期週刊誌などでDV問題で話題に、後離婚しロシア語同時通訳者・エッセイストの米原万里(何年か前に癌で亡くなった)の妹と再婚、鎌倉に住んでいた。あの人懐っこい顔は一度見たら忘れられず、言語感覚が鋭く、何よりもユーモアを大事にした作家だった。容貌に関してはテレビのインタビューを思い出した。高校の先輩のの俳優菅原文太をそれは当時も紅顔の美少年でしたといつもは辛口の彼の口調がここでは完全に甘口だった。俺もそうだったらなとの願望が込められていたのかも知れない。手放しで褒めていたのだから。こればかりは勝てないとの諦観だったかとその彼の深層心理を筆者的に解釈した。
最後にこの作家がモットーとしていた言葉を引用しよう。合掌。

むずかしいことをやさしく/やさしいことをふかく/ふかいことをゆかいに/ゆかいなことをまじめに書くこと

2010/04/06

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント  62

 ここに色褪せた一枚の写真がある。たまたまナオミの赤い玉手箱の中から出て来たものだ。この箱には和紙の端仕切れにカタカナ、ひらがなそして漢字が少し混じった母親が鉛筆で書いた自筆メモ、父親がボールペンで書いた几帳面な手紙、外国からの手紙類、有名な詩人がB文庫にいたときに撮った写真とサインなどが入っていた。恐らくナオミが田舎から持ってきたものも含まれているはずだ。そこにはナオミが忘れかけていたミルクプラントの周辺が映し出されていた。そうか、こんな色だったのかとナオミは改めてその写真を見入った。屋根近くの色褪せた黄色と青色、その下が斜めにひび割れが入ったコンクリートの壁―ナオミたちがこの壁にぶつけてよくキャッチボールをしていた―は、大きな冷蔵庫・冷凍庫がある壁だ。残念ながらミルクプラントのボイラー室の外側辺りから撮ったらしく、ミルクプラントの玄関は写っていない。例のツバメの巣も見られない。代わりに大きな自家用車が中央に鎮座している。叔父の車だ。叔父はその頃手広く青果業を中心に食料品店を営んでいた。
 この歴史の証言のような一枚の写真は、ミルクプラントの栄枯盛衰を無言のうちに語っている。そこに働く家族のドラマもまた、ある時期の人間の営みを映し出している。ミルクプラントは単なる牛乳処理工場ではなかった。ナオミの家族の物語は、ある意味で家族の結束の展開図だ。今や否、当時もこの結束の展開図は有意義に描かれていたのだろうか―。
 父の事業がせめてあと10年持続したなら、いろいろと家族の結束の展開が新たな糸口を見出だしたに違いない。

この差は何だろう―

 ナオミはいつの間にか熱くてボイラー室から外に出ていた。外の空気がとても美味しく感じられた。

クロカル超人が行く 134 桜の名所 千鳥が淵、靖国神社の桜

クロカル超人が行く桜の名所千鳥が淵、靖国神社の桜
クロカル超人が行く桜の名所千鳥が淵、靖国神社の桜
クロカル超人が行く桜の名所千鳥が淵、靖国神社の桜
クロカル超人が行く桜の名所千鳥が淵、靖国神社の桜
クロカル超人が行く桜の名所千鳥が淵、靖国神社の桜

千鳥が淵、靖国神社の桜  

2010/04/04

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント 61

 ナオミはT男に山案内されたことがある。この人の良さそうな男は、母親の実家を継いでいた。
 H山の標高は約900メートル、どのルートから登るかは場所によって違っていた。そのときは正常ルートだったはずだ。つい一人で登れると考えていたナオミは、途中までは良かったが、登山口近くの梨畑の脇の道路の先は笹藪に覆われたところで、右に行くか左に行くか迷ってしまったのだ。そんなとき水先案内人のT男は竹の棒を持ちながら、こちらだと案内してくれた。面白かったのは、笹藪では一面同じ情景なので隠れてしまえば一瞬人影を見失ないがち、どうするかって、笹藪を除けてやや高台にぽつんと立つのだ。これでどこにいるか判るのだった。H山の真下は石ころだらけ、頂上は大きな岩が二つ、どちらに登るか思案していたら、こちらだとまともやT男の声。えっ、見ただけでここをよじ登るのかと思うと恐怖感が過った。急勾配のなか、正面左手の岩に登り着いた。狭い、足場を外したら今にも落ちそうだ。もう一つの岩には足を大股にして渡ればいいが、下を見れば岩肌が丸見え、恐怖感が増した。中央付近に恐る恐る歩み寄った。標高900メートルの頂上にはすでに10数人がいた。360度全景のパノラマ、後ろにはA山脈の山々だ。秋の木々の色付き見事で絶景だった。だから登山はその達成感と頂上から見渡す眺望が止められない、だから人は山に登るのだ。
 風がやや強くなってきた。おにぎりを頬張っていたら、T男の声が近くで聞こえた。

帰るよ。

 そのT男はいつだったか理由は単純だったはずだが、誰も知らないうちに一人で逝ってしまった。忽然とこの世から消えた。それから数年後、T男の姉も海に身を投げたのだった。この山間には魔物が棲んでいたのか、あるいは血のいたずらなのかナオミにはただ人生の儚さ、無常を思うだけだった。

2010/04/03

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント 60

 戦前戦後を生き抜いてきた父は、一家の長として家族を支えてきた。生業が何であろうと家族を食べさせていかなければならなかった。遅い結婚でそれから子どもを6人設けた。結婚当初はほとんど家を空けていたらしい。当時―戦前だったと思うが―馬喰で鳥取辺りまで行っていたらしい。それは後年母がナオミの結納で相手の親に語った話からも伺えた。戦後一家の長として恐らくはこの牛の仲介業で儲けて次の業種に発展的に転換したのだ。すでにアイスキャンディ関係の商売は始めていた。戦後のどさくさの時代は地方にも経済の新たな風をもたらしたのだ。もちろん他方では田畑や近隣と共同の山林(ナオミも祖父に連れられて下刈りに行ったことがある)や蚕産業(戦前でむしろ祖母たちの仕事だったか。その名残を母屋の囲炉裏のあった天井裏に見ることができた)、お茶栽培(当時は二軒先の床屋で何人か共同でお茶の乾燥作業があった。ここのおじさんはひょうきんな人で有名だった)などもしていたのであった。稲作は借りていたところも合わせれば全盛期には1町歩ほどあった。N川の堤防に沿って歩くこと20分の隣の地域沿いから菩提寺のあるお寺の下の方まであちこちに点在していた。この田畑の仕事は祖父と母が取り仕切っていた。祖父が亡くなってからは母一人だった。だから冒頭近くですでに書いたことだが、母は百姓女そのものだった。春の種まき、除草、収穫期そして田んぼの後片付けと結構それなりに忙しかった。繁忙期には母方の親戚が手伝いに来てくれたのだった。また、ユイが残っていた時代で、ナオミもお返しに母方や叔母の田植えに駆り出されたのだった。その中にある時期から毎年耕運機で春になると苗代を作ってきた人物がいた。吃り症の笑うと目がなくなりそうな、ナオミの2才年上の従兄弟T男である。今ナオミの瞼に浮かぶ光景は、ミルクプラントから道路を挟んだ向かえの田んぼでT男が耕運機で水を張った苗代を何度も何度も平らにしている農作業の光景だ。顔に泥が跳ね、手で拭い去ろうとするがまた、泥が跳ねる。T男さん、目のところに泥が、とナオミの声。その声に反応したのか彼は笑った。母から休憩時の差し入れの味噌おにぎりを持参したのだ。

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント 59

 ナオミの転寝は佳境に入っていた。
 ミルクプラントが良かった時期はこの10年間位の時期だったか。ナオミが小学生の低学年の頃、高学年には事業にも陰りが出て、家族には家の犠牲になる者も出たのだった。その時には一応家族会議めいた会合が玄関を入ってすぐの居間で開かれたが、当然父は自分の意見を通した。家族を養っていかなくてはいけないから、誰かを外に出さなければならなかったのだ。そこにはやり切れない思いが子どもたちにはあった。まだ学業半ば、上級学校への門戸は開かれていたはずだったし、当人も当然そう思っていたはずだ。事業を持続させていくにはそれなりの覚悟が必要だが、それを乗り越えていく何かが必要なこともまた、事実だった。怒号が飛び交う、そんな修羅場より解決に向かう暗黙の了解が漂っていた。確か「たこや」、この響きはナオミの鼓膜に末長く張り巡らすことになる。いつの世も栄枯盛衰はつきもの、家族に犠牲者は出さないと誰が言えるか。そこに生を受けた者とってはある意味での運命だったかもしれない。仕方がないな、と呟きが長男にはあったのだ。兄弟はいたし。母は泣いていた。それから長男は外での稼ぎに回された。二転三転、結局どういう計らいかは知らなかったが、親戚の事業の参画で落ち着き、ある時期まで事業展開の推進役を担った。この頃にはミルクプラントはすでにその役割を終えていた。看板の黄色板に書かれていた青色のミルクプラントの文字はペンキが剥がれて文字が霞んでいた。

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