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2010/01/31

超人の面白読書  64 吉田豊著『牛乳と日本人』続々

 寛永8年(1631)にオランダ東インド会社総督の特使として江戸に派遣されたウィルレム・ヤンセンの日記に、平戸から荷物を送らせた中にチーズが含まれていたとの記述がある。これが江戸入り第1号だという(P.49)。また、徳川斎昭は弘道館のかたわらに医学館や薬園のほか養牛場を設けて牛酪(濃縮乾固乳と思われる)をつくらせたばかりでなく、朝食にはかならず鶏卵とともに牛乳を食膳にのぼらせ、その量は毎日5合(900ミリリットル)以上だったという。(P.82)
安政5年以前にアメリカの貿易事務官ライスが捕鯨船でやって来て、西洋式洗濯・緬羊飼育の方法や西洋式馬術・船の帆操を教えたが、農耕用の雌牛を使って乳絞りを実地指導したらしい。ハリスの件では、お吉(唐人お吉)はハリスの侍妾として領事館にあてられている玉泉寺に通っていたが、ある時牛乳を欲しがっていた病気中のハリスに近くの馬込村の農家から牛乳を調達し飲ませた。ハリスは回復したらしい。この話を聞いた当時寺院に仮寓した駐在領事たちは、牛を飼い搾乳夫をおいて乳を飲むようになる。夏はガラスの徳利に入れ井戸のなかに吊るして冷やしたという(P.88〜P.94)。
 アイスクリームの話、横浜発祥、北海道のリーダーたち等々まだまだおもしろいエピソードがあるが、あとは読者諸兄が実際に手にとって読んでほしい。どこからでも読める本だ。但し、『東京牛乳物語』と同じ時期に出た本で、発売して10年以上経過しているので入手は困難かもしれない。筆者は図書館から借り出して読んだ。自称“牛乳三部作”読破の次の目標は、最後のステージ、大冊『大日本牛乳史』を読むことだ。

2010/01/30

超人の面白読書 64 吉田豊著『牛乳と日本人』続

 興味深い記事を本文から拾ってみよう。
 酪はヨーグルト(発酵乳)または、練乳、あるいはバター。蘇はクリームかバター、または練乳、あるいはチーズ。醍醐はバターオイルまたはチーズと一定しない(P.26)。文献から蘇は乳を単に10分の1に加熱濃縮した、日本古来のものはチーズだと認められる。、明の時代の『本草綱目』によれば、醍醐は蘇(バターなら)を精製加工してつくりあげる→バターオイルとなるが、加熱濃縮型の蘇の場合には蛋白質と結合しているので、バターオイルは分離することができない、つまり醍醐はつくれない。わが国では文献にはあるが、実際にはつくられなかった幻の食品であった由。また、『般若経』では醍醐は、仏の道をきわめる段階を乳製品の製造にたとえたもので、修行によりだんだんと高い地位に上がった最上の仏の段階を醍醐としている。醍醐天皇というように天皇の名前が醍醐になっているのは興味深いとし、醍醐が実在の食品でなかったことを示唆すると著者は推測する(P.32)。

2010/01/29

超人の面白読書 64 吉田豊著『牛乳と日本人』

 Photo
 雪印乳業の宣伝部にいた著者が、会社の広報誌「SNOW」に書いたエッセイがこの本。古代から戦後までの長い歴史を扱っていて教えられること度々。牛乳、乳製品の流通や利用について楽しく読んだ。ざっと目次を捲ってみよう。

飛鳥の昔
わが国牛乳飲用のはじめ 飛鳥 蘇の貢木納

木簡は歴史の証人
蘇の木簡 蘇の製法 牛乳の木簡 貢蘇番次

酪・蘇・醍醐
酪と乳粥 発酵乳 蘇と練乳 蘇とバター・チーズ 醍醐
信長・家康・武蔵
貢蘇の廃絶 小説や日記のなかの牛乳・蘇

ポルトガル人の来航
ポルトガル船の積荷 当時の日本人の牛乳 チーズと豆腐

平戸の蘭商館・英商館
商館日記のなかのチーズ 商館長と平戸の殿様

長崎オランダ屋敷
オランダ正月の料理 ツェンベリーとわが国牛乳事情
オランダ商館長の江戸参府江戸旅行と乳製品 ケンプェルの旅行記から 当時の先進的な日本人

安房峰岡と徳川吉宗
峰岡牧場と白牛酪製造 『白牛酪考』の発刊

長崎丸山遊女
遊女のもらい物 シーボルトの書いたわが国の牛乳事情

中浜萬次郎と浜田彦蔵
アメリカ滞在中の萬次郎・彦蔵と牛乳

徳川斎昭の先見
斎昭と牛乳・酪 米国艦内の食事 愛娘・八代姫 徳川慶喜

函館と下田
米国貿易事務官ライスと牛乳 ハリス総領事
と牛乳

遣米・遣欧の使節
使者たちとバター・アイスクリームとの出会い

幕府奥医師の松本順
西洋医学にも通じた漢方医 牛乳の普及に尽力

 以下サブタイトルは省く。
 横浜発祥、マスコミによる啓蒙、乳母知らず、武家の商売、初期の官営施設、エドウィン・ダン、牛酪・乳油・乾酪、地方の先駆者、クラークとモース、涼味賛歌、北海道のリーダーたち、明治の文学、東京牧場とミルクホール、北海道の当別・遠浅、学校給食

日本の牛乳史年表・参考書・文献付き。本文198ページ。
 筆者は所謂“牛乳もの”をここ2、3ヵ月読んできた。その中には雪印乳業や森永製菓の社史(明治乳業はこれから)も入っていた。近代の所産と勝手に思い込んでいた牛乳・乳製品とその利用には、実は、長い歴史があったのである。この本には近代以前の牛乳・乳製品とその利用に関する雑多な知識が散りばめられていて読む者を楽しくさせてくれる。著者もあとがきで書いているように、本書の狙いは牛乳・乳製品の利用が古代から始まったが途中で中絶してしまったことの疑問、仏教の影響であるとのことだが著者はこの説を採らない。飛鳥・奈良・平安時代のあと空白期間となり、明治期に吹き返して戦後は体位向上・健康増進という見地から牛乳・乳製品の需要が伸びてきたと著者は書く。やはり「牛乳は薬」、その効用は今や計り知れないが、牛乳・乳製品の歴史を紐解くとそのことがよく分かるのだ。また、著者はよく調べているだけではなく、その成果を何気なくエピソード風に語っている。江戸時代の安房峰岡、萬次郎や彦蔵などの話も面白いが、ここは特に幕末・明治時代の牛乳・乳製品の話が興味深い。

2010/01/24

クロカル超人が行く 130 川崎大師

クロカル超人が行く川崎大師
クロカル超人が行く川崎大師
クロカル超人が行く川崎大師
クロカル超人が行く川崎大師
厄払いで初めて来た川崎大師。この寺院は弘法大師こと空海が開祖。

吹く風を追い風と思え虎トンボ


2010/01/21

超人の面白ラーメン紀行 129 千代田区神保町『麺屋 33 』

超人の面白ラーメン紀行千代田区神保町『麺屋 33<br />
 』
神保町周辺も神田駅西口周辺に劣らずラーメン激戦区、この店は確か洋食屋だったが、いつの間にかラーメン店に早変わり。入口には最近タレントのいなりかずき氏とラーメン評論家の石神氏が訪ねたらしく写真が貼ってあった。
『麺屋 33』。名前の謂われは知らないが、何か意味がありそう。丸鶏旨味そばがここの売り、何でも西洋料理に使うブロードと羅臼昆布のコンビネーションで旨味を引き出しているらしい。
丸鶏旨味そば醤油(700円)を注文。旨味スープにもちもちとした細麺が絡み、食感はいい。トッピングのチャーシューもチョー柔らかで美味。最近チャーシューの料理技術が進歩したのか、柔らかいチャーシューが多くなったようだ。刻みネギにメンマもいい。スープをレンゲで掬い、旨味のある(多少甘いが)スープを食べる。至福の時だ。和風さっぱり系のラーメンである。
メニューは丸鶏旨味そば醤油・塩(700円)、濃厚豚骨魚介そば(750円)、つけ麺(750円)

『麺屋 33』①スープ★★☆②麺★★☆③トッピング★★☆④接客・雰囲気★☆⑤定価★★☆

2010/01/20

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント 45  

 いつだったかK牛乳店の得意先で不良債権があって現物を抑えたことがあった。そんなとき父からナオミとヒロミに現物を取りに行くようにと命令が下った。恐らく牛乳かアイスキャンディの卸売り代金の未回収だったのだろう。
 ミルクプラントからS店に行くには大分距離があった。徒歩で往復4時間くらいかかったのかも知れない。よく晴れた日曜日だった。完全舗装がまだ徹底していない時代に隣のY町まで行って、そこから現物をリヤカーに積んで持ち帰るのである。 現物で代金回収を図ったのだ。あまり気持ちの良い仕事ではなかった。
 その現物とは当時の家電製品、テレビと電気洗濯機それに駄菓子類だった。毛布と紐などで固定して運んだのだ。ナオミはつい最近テレビ番組「熱中時代」の中古テレビコレクターの中にその同じ型番を見つけて興奮した。テレビ画面の下にチャンネルがあって番号が1から12まで並んでいた。しかも奮っていたのは、拡大用のスライド付きだった。ゼネラル製だったか。電気洗濯機は1層式で脇に手動式の絞り機の付いた素朴な洗濯機だった。
 砂利道ではガタガタと揺れるので、片方に傾いたりして持ち帰りには難儀した。その分帰ってからテレビをセットして映った感動は何物にも替えがたかった。母屋の中の間と奥の間の敷戸は外され、テレビは中の間の仏壇の近くに置いて遠くから動く映像を視た。もちろん白黒だった。

2010/01/18

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント 44

 ミルクプラントの裏側には細く背の高い桐の木と無花果の木が植えられていて、ミルクプラントに緑色の色彩を添えていた。その2つの植物の葉の生え方が似ていたようでもありまた、違った形で生えていたような感じでもあった。ミルクプラントの外側に面した窓ガラスを開けて空気の入れ替えをすると、植物の独特の匂いが漂い新鮮だった。無花果の木は背丈はそれほど高くはなかったが、枝分かれして横に伸び、比較的大きな葉が邪魔なくらい生い茂っていた。元々はアラビア産の植物で江戸時代に長崎経由で日本に入って来たらしい。さて、何本くらいあったのか。推測の域はでないけれども、少なくとも12、3本位はあったか。実りの季節になると、ナオミたちは竹で編んだ笊を小脇に抱えて無花果の木によじ登ったものだ。あまり太くなかったためかたまには枝が折れたりした。赤紫色と縦に線が入った熟れた無花果の実は、皮をうまく剥いて食べるとやわらかくて甘い味がした。しかし、もぎ取り方を一歩間違えば、白い乳汁が手や顔など身体の一部につくので厄介だった。その独特の樹液はゴムの樹液と似ていて粘り気があった。
 今ではどこに行ってしまったのか検討もつかないが、恐らくは火事や新築の際に消失してしまったと容易に想像はつくのだが、学生服を着た坊主頭のナオミの兄が無花果の木によじ登っている元気な姿の写真があった。
ミルクプラントの裏側は子どもの遊び場の天国だった。ナオミがまだ小学校低学年の頃は―。

2010/01/17

クロカル超人が行く 129 餃子専門店『天鴻餃子房』神田神保町二丁目店

 Cavp9ib0筆者たちは仕事を終えて通りの達人こといっちゃんがテレビでオンエアしていた評判の餃子専門店(連れが餃子好き)に入ったが、階段を上がって店に入るとすぐに、何だか分からない中国語の喧嘩腰の言葉が飛び込んで来た。店の人と言い合いをしていたのか分からない。ここが有名な餃子専門店?それにしてはノッケから威勢がいい。見れば背が小さく目が細い、いかにも我がむき出しの中国人女性だった。店は20人も入れば一杯の個人まわりした店で、テーブルや椅子などを見ると所々に綻びが見えた。狭い通りを少し中に入ってテーブル席に座った。4人掛けだったのか先ほどの女性がもっと中に詰めて下さいと理不尽なことを言ってきた。隣の二人掛けのテーブルではすでに中年の夫婦が食べていた。水差しや餃子用のタレや醤油などが目の前に所狭しと置いてあるのにだ。そのうちオーダーを取りにやってきた。態度がぶっきら棒、こっちはお客さんですよ、もう少し丁寧な応対をと嗜めた。すると、目尻が急に上がった。
黒豚餃子一皿(760円)と連れは元祖餃子セットを頼んだ。黒豚餃子はまあまあ、元祖餃子は今二、スープは今三以下だった。食べたくなくなるほどの接客態度は解せない。やはり『おけい』に行けばよかったと反省しきり。
 ネットでこの店の評判を調べてみたら、案の定、同じ体験談が載っていた。通りの達人もたまには見誤るのだ。
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2010/01/16

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント 43

黄色いミルクプラントの正面玄関の小さな庇にはその季節になるとツバメが巣を作る。行き交う親ツバメが頻繁になると急に騒がしくなり、やがて新しい生命の誕生に沸く。今生まれたばかりのツバメの新生児、くちばしは赤く鳴き声が煩い。親ツバメは頻繁に餌を運ぶのに忙しい。時にその仕草は低空飛行となって仕事の妨げになるのだ。頭に何かが、ナオミはツバメの巣がある庇を見上げていた。これが正体か。その時生きている実感をした。季節はめくるめくって来るが、素通りしていくものの何と多いことか、風景は移ろい、何一つ確実なものが掴めない、ツバメ親子の姿はナオミには新鮮そのものだった。それにしてもあの巣の頑丈さ―。ミルクプラントの風物詩であった。それは母屋の屋根に巣を作ってはしゃぐスズメと対をなしていた。

2010/01/15

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント 42

 昭和37年の牛乳年鑑によれば、ナオミの県には牛乳処理工場が98軒あって、その内ミルクプラントという名前を使っている牛乳処理工場は31軒、ナオミの地域で牛乳店を営んいた同業他社は17軒だった。大雑把に言えば、全国には少なくとも4000軒以上の牛乳店があったのだ。それは明治乳業、雪印乳業(現メグミルク)や森永乳業などの大手乳業メーカーを除くとほとんどが地域に根ざした中小規模の地場産業だった。K牛乳店も何人か人を使ってはいたが、所詮家族中心の合名会社にすぎなかった。東京オリンピック開催前の時代、大手乳業メーカーが資本力と技術革新を旗印に地方にも進出、否応なしに大企業の波が押し寄せてきたのだった。

2010/01/13

超人の面白読書 63 最近買い込んだ本や雑誌など 

■大江健三郎著『水死』 講談社 2000円+税

去年だったか大江健三郎賞受賞対談を聴く機会があったが、その時に話していた父のことについての本がこれ。父が水3つの漢字「淼淼」びょうびょうを「森森」しんしんと読み間違えた話など多重奏の趣の大江ワールド。

■管啓次郎著『本は読めないものだから心配するな』左右社 定価1800円+税

初出一覧で見つけた「亡びてもいい、けれども」(「ユリイカ」2009年2月)の執筆者がこの本の著者。水村美苗著『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』の雑誌「ユリイカ」特集号に寄せたもの。過去の雑誌や講演を集めた雑文集。英語、仏語、西語の翻訳がある比較詩学が専門家の面白エッセイと読書のエッセンスが詰まった本。

■中央公論2月号 特集:大学の敗北 定価900円 中央公論社

大学の危機が叫ばれて久しいが、大学の敗北とは些かショッキングなタイトル。日本の大学もここまで来たか。養老猛司、小林哲夫、西田亮介、黒木登志夫、吉見俊哉が執筆。特に吉見俊哉の次の文章が示唆に富む。
大学は、知識の生産・再生産システムの重要な部分を担ってきたが、あくまでその部分であることを自覚し、大学を同時代の知のネットワーク、コミュニケーションの重層的な編成全体の中で定義し直すことである。
その他大江健三郎とル・クレジオとの対談、われらの生きた同時代、その文学と世界を語るも面白い。


■加藤周一のこころを継ぐために 岩波ブックレット 岩波書店 500円+税
「戦後」と格闘した巨人は、何を伝えたかったのか―。ブックレットの帯から。

■加藤周一自選集 3 岩波書店 3400円+税
1960―1966
安保条約と知識人、日本の英語教育、親鸞、福沢諭吉と『文明論之概略』、サルトルの知識人論などを所収

■ベネディクト・アンダーソン著加藤剛訳『ヤシガラ椀の外へ』 NTT出版 2200円+税
著名な東南アジア研究者の自伝。学問とは何かを説く他。

■現代思想 2009年 11月号 特集: 大学の未来 青土社 1300円

■思想 2009年.12月号 特集: ベルグソン150年 岩波書店 定価2000円

■季刊誌「考える人」2009年秋号 特集:活字から、ウェブの……。新潮社 定価1400円
第8回小林秀雄賞決定発表水村美苗『日本語が亡びるとき』 活字とウェブを特集しているのだが、筆者的にはインタビュー記事の木滑良久氏の出版社は、町工場じゃなくちゃいけない、に共感を覚えたのだが、その他も読み応えがある雑誌。

2010/01/12

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント 41

 ナオミは牛乳を麻製の牛乳袋に詰め込み、自転車のハンドル両脇に抱えてミルクプラントから配達に出た。和田地区40軒の戸別配達である。牛乳瓶は本数があると意外と重い、雨などの日は泥道になるからハンドルをとられかねない、自転車のハンドル両脇に抱えた牛乳袋が落ちそうになるのだ。しかも雨合羽を着ていて身動きが今一だった。そういう日が牛乳配達には一番堪えた。集金もしたのである。駄賃をいくらかもらったのかも知れないが、ナオミにはこの牛乳配達に関しては記憶がない。何時だったかやはり雨の日だった気がするが、瓶が滑って泥道に落としてしまった。当然引き返して新しものと交換したのだが、そういう時には学校に行くのがいつもより遅れたのだった。アイスキャンディ配達はすぐ下の弟ヒロミと主に2コースに分けて得意先の小売店を定期的に自転車で販売した。茶箱にシャーベット、オッパイキャンディ、棒状のアイスキャンディなどを積んで店を回った。茶箱が得意先の店先で空になれば良いが、現実はそんな日ばかりでもなかった。
 一つのコースは、ミルクプラントのある地域を道沿いに北に向かって行くのだが、途中から曲がりくねった急坂を走らなければならなかった。もう一つのコースは、途中から橋を渡って行く川向こうの地域、旧炭鉱町の長屋が並ぶところまでのコースだった。いろいろと持参したが、その中でもシャーベットとオッパイキャンディが売れ行き商品だった。確か1袋20本入りで200円、それを10個は積んでいた。この販売には駄賃がついた。1袋売ると20円だった。売上金額を精算すると、ナオミの父がビニール袋から小銭を出して駄賃をくれた。これがナオミの小遣いだった。
 大分後になって父が珍しく悔しがったことがあった。ナオミがI高校入学時に初めて父兄同伴した。小学、中学校はすべて母任せだった。その父が教室まで付き添ってくれた帰り道、担任のS先生がその昔学校牛乳参入を拒んだ張本人だったとぼそっと言ったのだ。「学乳」が入れば牛乳店は販路拡大ができたのである。父の顔には悔しさが滲み出ていた。

2010/01/11

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント 40

 冷蔵庫のある棟にはアイスキャンディ製造工場があった。ここではアイスキャンディ、アイスモナカ、アイスシャーベット、オッパイキャンディなどを製造していた。木製の大きな冷却庫が3基あった。冷蔵庫のすぐ脇にあった水色の冷却庫はうまく冷却が働かなかったせいかあまり使えなかった。だから蓋したままの状態でその上にものが無造作に置かれていた。そのそばには長い作業台があって、ここで出来上がったアイスキャンディを袋に詰めた。冷却庫には茶色いアンモニア水がたっぷり入っていて、その中に調合されたアイスキャンディの原料の入ったブリキ製の金型―平べったいものや真四角それに丸いものまで数種類のものが片方10本、もう片方10本の対にして作られていた―を固定された枠に嵌めて冷却する。途中頃合いを見計らってアイスキャンディの棒を素早くさしていくのだが、まだ冷えていない状態では棒が倒れてしまうし、だからと言って冷え過ぎると棒がささらず折れてしまうのだ。もちろんタイミングが悪くお釈迦も作った。それと大失敗は、アイスキャンディの原料が入ったブリキ製の金型を固定された枠に嵌めるのだが、位置がずれるとアンモニア水の中に落ちてしまうのだ。これを引き上げるのには多少エネルギーが要った。中はアンモニア水だ、冷たいのなんの、下手すると凍傷を起こしてしまうのだ。ナオミやヒロミや姉など労働に駆り出された家族の者達もこの作業には失敗を繰り返した。アイスキャンディができるまでの工程は、この型を何セットか入れて列にし、木製の蓋(間仕切りされた開閉自由な蓋だがそれなりに重い)を閉め、棒をさし終えたら凍るまでしばらくアンモニア水に浸しておく。その時間40分〜1時間。冷却後、温水槽に浸して型からアイスキャンディを一本一本抜き取る。あまり浸しておくと溶けて型崩れを起こすので手加減が重要だ。。これを作業台に持って行き、袋詰めをして冷凍庫で保管するのだ。袋詰めも、袋がビニール製なので滑りやすいから散らばったりしたが、多少の風を送れば口がうまく開き、スムーズにアイスキャンディを中に押し込むことができた。この作業も家族全員交代で当たった。数的には結構あった。一時フリザーの機械を使ってアイスモナカも製造していた。これは調合の難しさ(甘さ加減)もさることながら、作業工程の正確さ(固まり具合)と冷凍庫での保管の難しさ(中を冷やし過ぎないこと)もあって、小さいわりには手間がかかった。また、オッパイキャンディは、ゴム製の袋に原料を入れて、空気を入れる小さな道具を使い、膨らませてから手でゴムを押してこぶを4、5個作る。それを輪ゴムで口のところを結んで冷却庫で凍らすのである。凍らしたオッパイキャンディは、持つところが丈夫な網で掬い、水洗いをして冷蔵庫に保管するのだ。アイスシャーベットはと言うと、細長いビニールの袋に原料を入れ、口を熱して閉じ冷却庫で凍らすのだ。足と手を使うのだが、熱してある平らなところに手でビニールの口1センチを挟み込み、足で操作して瞬時に張り付けるのである。下手するとビニールが切れてお釈迦を作ってしまうのだった。ナオミもよく失敗して父から叱られた。むしろ弟のヒロミの方が上手かった。これらのアイスキャンディは、チョコレート味、ミルク味、フルーツ味と数種類製造された。
 チョコレート味のキャンディとオッパイキャンディは店頭でよく売れた。

2010/01/10

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント 39

 ナオミの父は戦前何をしていたのだろうか。11月3日が結婚記念日だったことは父か母のどちらかに訊いていたから知っていたが、はて、何年に結婚したのだろうか。昭和18年、19年、それともそれ以前か、2人とも亡くなってしまったから今は分からない。恐らく答えてくれたがナオミが失念してしまったというのが正確だ。ナオミはずっと以前に晩年の父に何か書かせようと原稿用紙を差し出したことがあった。結局何も書かずに逝ってしまった。また、当時「H郷土史」を編んでいて、父にも編者が尋ねてきたがインタビューを断ったとナオミは本人から聞いたことがあった。本人としても大したことはして来なかったのだから他人に告げるほどのものを持ち合わせていないという謙遜な気持ちだったのだろうか、それとも・・・・。
 その「H郷土史」の中にナオミの父のことにも言及した文章が書かれている。

 肉役牛として先進地、鳥取県等から畜産組合、農業協同組合が仔牛を導入し、親牛を労役に用い、仔牛を生産して家畜市場に出荷した時代、これが衰えて一部肥育牛を飼うこともあったが昭和50年頃にはこれも消滅した。
 終戦後に栄養の問題がとりあげられ、畜産農家は酪農経営に熱い視線を注いだことがあったが、これより前の昭和16年(1941)、A氏・N氏が乳牛を50頭飼育し、昭和17年S氏と昭和19年田中芳一がある程度の大規模経営にあたった。戦局上その飼育には惨憺たる苦労をなめたといわれる。
 戦後、T市は昭和23年(1948)北海道にN氏外5人の視察団を派遣し、主として雪印乳業関係の牧場・酪農工場を視察せしめた。東京から帰農したばかりのN氏は、宮城県大河原町のO氏の指導を受け、郡内酪農家と連絡して拡充を図り、J酪農農業協同組合を結成して、郡内の乳業者と大手乳牛に原料乳を供給し、当時大手乳業株式会社のT工場誘致を図った。
 H地区の飼育農家数も33戸頭数110頭に達していたが、集荷、輸送及び取引きが円滑を欠き、組合は創立2ヵ年で解散し、酪農家数、飼育頭数ともに漸減して、今は(昭和62年)N氏が専業酪農家として残っているにすぎない。

 ナオミの最も早い時期の記憶では、母屋の奥の棟に牛小屋があって7、8頭の牛がいたのだ。ナオミ、4才頃の記憶だ。ナオミの父は牛飼い、馬喰をしていたのだ。終戦直後はこの商売で儲けたらしい。これは叔父から聞いた話だ。

2010/01/09

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント 38

 ナオミは父からよく思われていなかった。扱いづらい子どもだったかも知れない。それは子どもの中に嫌なDNAを見ていた父がいたことの証しだったろうか。ナオミはこの家業が嫌だった。だから従順でない、少し生意気でサボり癖のあるナオミを父は疎んじていたのだ。まあ、ちびっこ達をよく働かせたものだと感心はしたが、父が死んだ夜に枕元でナオミの母がぼそっと言った一言が今もナオミの胸に響く。子ども達には何もしてあげなかった…。

2010/01/08

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント 37

 ナオミの父はと言うと、以前にも書いたことだが、背が小さい割りにはよく動いていた。また、明治生まれのせいか実直で頑固、厳格を地でいくほどの人物だった。だからナオミは一度も真剣な話などしたことがなかった。直球系だったのだ。ある意味では怖い存在だった。褒めることもできない不器用さもあったため、営業展開には確かに不利な面があったのかも知れない。その点すぐ下の叔父や叔母などは商売人の顔が備わっていた。ナオミの父は短気でもあった。仕事が思うように行かないときなどミルクプラントの床に空瓶をよく投げつけたものだ。そんな時ナオミの母―体格が良く大らかだった―が出番で、仕方なく子ども達に号令をかけるのだった。
そんなナオミの父にも楽しみがあった。それは金曜夜8時のプロレス中継だ。力道山全盛の頃だった。ルーテーズ、体重が優に200キロを超していた大食漢でぼさぼさ頭のアメリカのプロレスラー、吉村、豊登、遠藤、ジャイアント馬場、猪木など面白いプロレスラーがいたのだ。テレビ観戦しているのだが、いつの間にか夢中になってリングのそばにいる錯覚を覚えるのだ。そして日本人タッグチームが負けそうになると、手で拳を振り上げ、そこだ、そこと声を張り上げ、力道山が空手チョップで攻勢に出るといいぞ、いいぞ、その調子、アッハッハとなるのが常だった。その時間帯は貯蔵タンクの牛乳の殺菌、温度下げの作業中だから多少時間に余裕があったのだ。

 先見の明、計画そして実行―。一生懸命働くが現実に直面、今でも通用する言葉だが、そこには夢とその事業成就の仕方に些か相違があった。少なくともナオミにはそう映った。

2010/01/07

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント 36

 K市の牛乳博物館を訪ねた時、ガイドの男性がまだ来ていなかったので、1階フロア左側の一角に置かれ昔使っていた機械類を見て歩いた。大きな鏡、書画それに骨董などがある以外は、バター製造樽、ミルクタンクや瓶詰め機などその当時(昭和20年代から昭和30年代)使っていたものが所狭しと展示されていた。その中に見たことがあるタンクもあった。が、何よりそれらの機械類に増して驚いたのは、醸し出す臭いだった。これは牛乳屋特有の臭い、職業柄が空間に漂う瞬間で、また、居たたまれない雰囲気を醸し出すのだ。牛乳特有の柔らかくて多少臭いがきついと言ったら想像がつくだろうか。この臭いが牛乳屋の証明だ。多少嬉しくもありほろ苦さもあった。

 冷蔵庫に牛乳製品を収納したあとには最後の清掃が待っていた。貯蔵タンクの中、特に周りに付いた脂肪の塊を除去する作業や白いタイルの掃除、瓶詰め機械、多少ベタベタしていた床の掃除、丸いメガネが10個くらい組み合わさった搾乳検査機(ぐるりぐるりと何度か回して凝固状態を診る)などが置かれた作業台―ガラス窓近くに一定の高さに備え付けられていた―の整理と雑巾掛けなどタワシやホースを使って何度も擦ったり水かけして清掃作業をするのだ。ナオミの唯一の楽しみは、ホースでの水かけ作業だった。排水しやすいように溝ができていて、そこに汚れものをホースの水で誘導して流し込むのだが、この意外と清潔になっていく過程が爽快なのだった。だから何度でも水かけをしたものだ。水道代が多少かかったかも知れないが。もっとも排水溝に溜まったべとべとした牛乳の塊などが付着したところを取り除く作業には辟易した。特に排水溝の蓋の裏側の掃除が大変だった。


2010/01/06

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント 35

 ナオミは箱詰めの牛乳を冷蔵庫に運んだ。ミルクプラントの玄関を通って冷蔵庫まではすぐだが、足元を注意しなければならなかった。二ヶ所敷居を跨ぎ、冷蔵庫の入口の少し高いところをクリアして初めて所定の位置に着けるのだ。50本入りの牛乳箱はそれなりに重量があった。それを何往復すれば運び終わるのか―。この冷蔵庫は手前が冷蔵庫でドアを開けるとその奧が冷凍庫になっている。集乳した搾乳が入った少し大きめのブリキ缶や製品化された牛乳が貯蔵されていた。奥の冷凍庫には真ん中が通路で両脇に各7段に仕切られたスペースにアイスキャンディ類が置かれていた。それと製氷もあった。そこはいつも真冬の寒さで、長くいると軽い凍傷を起こした。
 また、この冷蔵庫は時々お仕置きの場所としてその効果を発揮することもあった。仕事のことや末弟にちょっかいをかけたことなどでナオミや長兄もその「恩恵」を被ったものだ。中は真っ暗で寒い、自ずと耐久戦になるのだが限界はある。反省して降参するのである。

2010/01/03

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント 34

 ナオミは大きな最新式の牛乳製造機械の前に立っていた。ボイラー室側近く、瓶洗いを自動で行うところだ。瓶洗いするところからベルトコンベアで瓶が運ばれ、牛乳を瓶に注ぎキャップをしビニールをかけ輪ゴムで留める、この一連の作業を自動的に機械が行った。いつ頃からかは分からないが、今は紙パックが主流で牛乳瓶がめっきり減っている。しかし瓶が消滅したわけではなく、駅の売店や宅配ではまだ残っている。湯煎やリサイクルが可能なのと衛生面それに紙臭さからだ。アメリカみたいにガロンで扱うところはほとんどない。しかも容器はビニール製。ともかく飲む量が違うのだ。お国柄の違いだろうか。先ほどキャップしたあとビニールをかけて輪ゴムをすると書いたが、これはひょっとしたら手作業だったようだ。要所要所に人員を配して機械がスムーズに動いているかをチェックしたり、瓶の動きや牛乳の注入具合などを見届けた。はて、何人いただろうか。7、8人はいたか。先ほど書いたように最後の工程のビニールをかけて輪ゴムで留める作業は確か2人ずつだった。このあと箱に詰めるのだが、K牛乳店と横にネームが入った50本入りの木箱にいかに速く正確に入れるか競争したものだ。この作業如何によっては夕飯にありつける時間が違ってくるのだ。だから半ば二人三脚の競争は貴重だった。できなければ夕飯後の残業が待っているのだ。この自動牛乳製造機械の導入時にはナオミも、技術革新の素晴らしさを思ったものだ。しかし、使っているうちに機械だから時々止まる。否、ナオミの記憶が正しければ、頻繁に止まっていたから、やがてこの機械を廃棄せざるを得なくなったのだろう。
1日の牛乳製造本数は確か1箱50本入りで(1本→1合瓶=180ml)15箱だったか。牛乳瓶1本の値段は15円―

2010/01/02

超人のスポーツ観戦 第86回箱根駅伝 往路優勝 東洋大学

Dscf0912東洋大の柏原竜二選手(福島県いわき市出身)が山登りの5区で逆転、区間新記録で優勝。2連覇。第86回箱根駅伝でまたしてもドラマが生まれた。小田原中継所でたすきを渡された時にはトップの明大と4分26秒差の7位だった東洋大の柏原竜二選手が、次々と抜き去ってとうとう13キロ附近でトップに躍り出た。その走り振りには感服。山登りのスーパースターだ。写真はインタビュー時のもの。

冬の箱根疾風の如く登りけり

2010/01/01

超人の新年の詩 2010 クリーンタイガー

クリーンタイガー

新聞では→今年の元旦の天気は関東では快晴穏やか 一方日本海側の鳥取で40センチ 富山で60センチ 名古屋でも2センチとの積雪情報 今夜は更に大雪の予報 暖冬が一変して寒冬 つい先日までスキー場は閑古鳥だった 天気予報官はいつもブラックユーモアの天才 寅年の人口は1034万人 全人口の8%  それでも寅年人は多くないらしい テレビでは→CNNはタイガーウッズの大企業コマーシャル契約 打ち切りと報道 しかも理由は告げずのオマケつき インターネットでは→14時間遅れて ブルームバーグニューヨーク市長のスイッチで タイムズスクウェアのカウントダウン あわや大惨事の声はすっかり消えて 歓声とキスの嵐

タイガーイヤー
クリーンタイガー

政治にさわやかさを
民主党に喝を
どことなく聞こえる
スローガン

マニフェスト
マンフェース

子ども手当てだ
事業仕分けだ
財源だ

この国は皆バラバラに
喋っている

政治主導
官僚不要
国民不在

タイガーイヤー
クリーンタイガー

明治は歴史に
大正はすでに遠く
昭和は色褪せて
今や平成人が横行

だが戻れたら戻ってみたい明治の気骨
古 奈良の都のち・か・ら
モドカシカッタラ
ムカシ二カエレ

タイガーイヤー
クリーンタイガー

中国がこの国を抜く

いいじゃないか
いいじゃないか

暮らし向きが
人口が
環境が
泣いている

ある新聞のインタビュー
ある政党の元党首に付けた見出し小見出しが躍る

ルールなき資本主義の不合理
横暴と搾取を抑え一歩前へそしてこう続く
その先、政党は不要

マルクスは生きている

挟み込まれた情報が溢れ
本は半開きのまま

クリーンタイガーよ
吠えろ

今こそ
未来に向けて


追記。今朝のニュースは、寅年に因んでホワイトタイガーが200頭位しか生存していないと報じていた。鳴く声は猫みたいだった。もうひとつ、JPも洒落た切手を出したのだ。それが下の写真。
201001071439000_2
良い年にと願うばかり―
(2010年1月8日 記)

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