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2009/12/27

超人の面白読書 62 黒川鍾信著『東京牛乳物語』 最終章

 和田牛乳店は大正時代に木造2階建てから鉄筋コンクリート2階建てに、裏手には近代設備の殺菌、均質化、ビン詰めなどができる工場を建てた。父該助は牛乳搾取に、息子の重夫は牛乳販売や製酪にと生産と販売部門を各々興味ある分野で担当して、家業から企業への転換を図った。低温殺菌機の導入で日本で初めての低温殺菌牛乳生産も可能にした。大正12年9月の関東大震災では幸い本店は震災を免れる。重夫は被害にあった隣のトッパン印刷や近隣に無料で牛乳を配るなど地域活動も怠らなかった。帝都東京の災害の復旧も早く牛乳の需要も伸びた。大正の末年には1日の販売量が500石と最高の売り上げを記録したのだ。昭和始めには展覧会、「牛乳デー」などの催しものやパンフレット配布、ポスター掲示、講演会など牛乳飲用宣伝を大きく展開、その効果は1日の増加が100石の販売量になったという。その後、「結核牛問題」、「牛乳不正問題」などの不祥事が起こり、「牛乳営業取締規則」が改正され、牛乳の検査、殺菌処理・加工や乳製品の製造などを牛乳処理所で行う制度になった。ミルクプラントの設立である。和田牛乳は東京で第1番目にミルクプラントを設立して低温殺菌牛乳の普及に努めるが、やがて東京市乳業界の戦国時代がやってくる。和田牛乳本店は本格的に市乳業に参入し始めた明治製菓株式会社にまた、関連会社は森永練乳株式会社に買収されてしまう。昭和8年、三代目重夫が社長の和田牛乳店は敗北。2代目該助はすでにその4年前に亡くなっている。その後、話は戦前に生まれた女優木暮実千代(三女つま)のことや和田潤平の足跡を追うアメリカの旅に移る。
 第1部に戻って和田牛乳と4姉妹の章は、戦後神楽坂でたった5部屋の旅館『和可菜』を姉妹で経営(三女つまがオーナーで四女敏子が運営)した話だ。そこは色川武大、滝田ゆう、野坂昭如、伊集院静、村松友視、高橋三千綱、結城昌治、中上健次、常盤新平、早坂暁、内館牧子、市川森一の作家諸氏や脚本家、映画監督が仕事で逗留した、言わば、数々の名作を生んだ舞台となった旅館と著者は記す。
 自分史にはややもすると自慢話に陥りやすい欠点があるが、本書はそこを足で稼いだ資料で補い、なるべく客観的に描くことに力を注いでいる。ノンフィクションの魅力はここにある。最後に本書以外の著者の本を紹介しておこう。『神楽坂の親分猫』、『神楽坂ホン書き旅館』、『旅に出よう船で』、『木暮実千代−知られざるその素顔』、『高等遊民天明愛吉』、『大草原に輝いた101人−ローラの里の日本語教育』、『親と子の受験マラソン』などがある。

2009/12/26

超人の面白読書 62 黒川鍾信著 『東京牛乳物語』 6

 一代目半次郎、二代目該助とも婿養子組、著者は二人を惹きつけたのはその美貌だったのではと推理する。三代目になるはずの該助の長男輔は、小さいときに仕事にかまかけて実家に預けて育てられたせいか父親とは馴染まず、やがて勘当されてしまう。三代目は次男の重夫が継ぎ(札幌農学校出の長女あいの婿養子潤平が二代目該助の命により重夫を補佐)、長男輔は田舎暮らしを余儀なくされる。その放蕩三昧はこの物語の影の部分を照らし出していて哀しい。
 長女あいの婿養子潤平は「酪農の父」と言われた宇都宮仙太郎と若い時に札幌農学校時代に会い、アメリカの酪農経営法を学んだのではないかと著者は推理する。和田潤平は二代目該助に懇願してアメリカに留学する。当時の酪農先進国はデンマークやアメリカ中西部。そのアメリカ中西部のウィスコンシン州で最新の酪農技術を吸収、また、ホルスタイン種20頭を買い付け、中西部からロッキー山脈を越えて西海岸へ、そこから日本へ船で搬送したらしい。搬送途中で2頭の牛を失う。明治40年代である。最も過酷な仕事だったと本人も帰国して随分経ってから、再婚後(なぜか突然出家してしまい、全国を行脚、その後は三島で再婚し何人か子どもを設けた。出家の原因は何かは本書では詳らかではないが)に生まれた息子に語っていたと著者。これはオーラルヒストリーの成果だろう。この辺が本書の醍醐味だ。また、著者自身も潤平が行ったアメリカの足取りを辿る旅を試みているが、その記録は付記に道中記として纏められている。
 本書160ページには芸者衆に囲まれてご機嫌の輔の写真が差し込まれている。著者は「天真爛漫」、悪く言えば「おっちょこちょいの江戸っ子」だと山口は彦島での生活ぶりを淡々と描いている。

2009/12/25

超人の面白読書 62 黒川鍾信著『東京牛乳物語』 5

  さて、本書の一代記を急いで活写してみよう。
 近代市乳営業の元祖前田留吉、阪川當晴、写真開発でも有名な下岡蓮杖の「北辰社」など明治初期の名立たる牛乳屋の面々。鷹匠家系の和田家は明治で失職、9代目半次郎が東京でひょんなことから前田留吉と出会い口説かれ、50才で牛乳屋に転職、明治8年9月に下谷区練塀町に「和田牛乳店」をオープン、乳牛3頭、子牛2頭の小さな店だった。これが初代。「早暁星を仰ぎて乳を搾り」の成果は、収入から支出を引いた差引利益がかなり出たらしい(明治12年当時、白米10キロが55銭、利益金は374円もあったらしい。牛乳屋は特定の層に高値で売れたのだ!)。詳しくは本書104ページの収支決算書を参照されたい。筆者も愚作の参照にと収支決算書を探しているが、地元の図書館などに問い合わせしたものの残存していない。
 初代の婿養子に入った二代目は、薬学を東大の医学校で学んだほどの人物でアメリカにも留学している。

2009/12/24

超人の面白読書 62 黒川鍾信著 『東京牛乳物語』 4

 この本も図書館から借り出した本だが、本書の登場人物と繋がっていて、近代の夜明けを演出するのに格好の材料を提供してくれるばかりでなく、外国との接点も見えてくるから面白い。飲み物としての「牛乳」は、本格的には幕末そして明治の始めに横浜居留地から始まった。そこには外国人から搾取業を学んだ近代乳業の開祖なる人物もいたり、また、当時の英字新聞には外国人が営んでいた牛乳屋の広告が絵入りで載っていたりしている。Cliff Dairy、 新鮮で濃厚な牛乳、朝夕お届けできますと。

2009/12/22

超人の面白読書 62 黒川鍾信著『東京牛乳物語』 3

 江戸時代以前、牛乳は人の体をよくする「薬」と信じられていた。江戸時代に入って、水戸藩主徳川斉昭が牛乳に酒を混ぜた「牛酒」を愛飲、また、寛政4(1792) 年には第11代将軍徳川家斉が医師桃井寅に記述させた「白牛考」(牛乳や乳製品の効能と牛の種類を紹介した本)が現れ、同じ年に安房峰岡(原千葉県丸山町大井)の牧場から白牛の一部が江戸に移された(当時70頭の白牛がいたらしい)。このように明治以前の牛乳に関しての記述も面白いが、それは『日本牛乳史』なる本に詳しいらしい。
 さて、近代の始まりの明治。ここにもう1冊、同年同月に出版された本がある。草間俊郎著『ヨコハマ洋食文化事始め』だ。

2009/12/21

超人の面白読書 62 黒川鍾信著『東京牛乳物語』 2

 筆者は第1部を拾い読みしたあと、第2部(明治初年〜昭和20)の東京市乳業界の変遷と和田牛乳(初代〜2代目)から読み始め、東京市乳業界の変遷と和田牛乳(二代目〜3代目)、放蕩息子とその父親(感動になった3代目)と読み進んだ。そして第1部(昭和29年〜平成9年)を読み返し、最後に付記(明治43平成9年9月、アメリカ)を読んで、284ページの牛乳物語を読み終えた。2ヵ月前に古河市の牛乳博物館を尋ねた時に、昔の牛乳屋は3Kみたいでしたとその会社の幹部らしきガイドさんが言っていたが、なるほどここに書かれている酪農・牛乳屋の仕事がいくら生業であったにせよ、きつい仕事であったことは初代〜3代目の仕事ぶりを読めばよく分かるのである。

2009/12/20

超人の面白読書 62 黒川鍾信著『東京牛乳物語』

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この本は約10年前に書かれた本である。副題に和田牧場の明治・大正・昭和とあるように著者の母方の家族史、しかも女優の木暮実千代を叔母に持つちょっとハイカラな自分史でもある。筆者は今あるテーマで愚作を書いているが、所々場面展開に必要な箇所を確認する必要があって、図書館などに資料探しに歩いている。その中で見つけたのが本書。初めはどうせよくある自分史かと知りたい写真だけでもと図書館から借り出した。ところが、一読して面白いのである。ついつい著者の“モー駄目”のダジャレに惹かれて夢中になって読んでしまったのだ。著者の筆力恐るべし。
 叔母たちが語り部のこのノンフィクションは、明治、大正、昭和そして戦後の一時期まで酪農・乳業を生業として生きたある家族の歴史を愛情をもって追っている。

   牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌大いにおこる

 あとがきで著者が、『野菊の墓』の作者伊藤左千夫の墓参時に石に刻まれた歌を読んだのがこの歌だ。牛飼が歌を読み小説を書いた。そこに著者は惹かれた。英国詩が専門の著者ならではの発想である。そう言えば、芥川龍之介の父親も酪農・乳業を営んでいて東京でも指折りだったと本書で言及している。〈続く〉
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2009/12/12

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント 33

 大型自動機械が東京から届いたのは何時だったかナオミには微かな記憶の片鱗があるだけだった。
ある日大型トラックがナオミのうちに入り込み荷物の上げ下ろしをしていた。さて、どういう風にして中に入れたのかは分からない。恐らく学校に行っている間の出来事だったことは容易に想像つくが、また、この機械の撤退についても分からない。ナオミは栄枯盛衰の味わいをそれなりに感じていた。人間は技ありとは言うものの、時の運も左右するのだとモノの哀れをこの機械が撤退後の作業時に思った。本当にどの位の時間が流れていたのだろう。機械は人間の代わりをしてくれる素晴らしいモノだが、それは生産というとてつもない荒技を発揮はするけれども、それ以上は所詮無理なのかもしれない。チャーリー・チャップリンの『モダンタイムズ』 ではないが―。

2009/12/10

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント  32

 ナオミがいつも不思議に思っていたことだが、この見本市に出かけた何ヵ月後には段ボールの箱かしっかり梱包された箱が届くのだった。進取の気取りというやつが顔を出すのだ。子どもながらにナオミも大いに興味を持った。洒落たデザインのグラス、牛乳のキャップ、アイスキャンディの棒、アイスモナカの皮など子どもがいたずらするのに困らない代物ばかりだった。ナオミは近所の仲間と牛乳のキャップでよく遊んだ。
どうするかって、少し想像してみてください、実に簡単なゲームなんですから。
小さなちゃぶ台か縁側の一角が舞台になるが、そこに牛乳のキャップを並べる。じゃんけんで順番を決め、ゲーム開始となるのだが、一つ問題がある、ある程度の高さがないといけないのだ。縁側だと庭から横にプレイすることになるのだ。さて、どうするか、メンコのアレンジ形と言えば良いか。キャップめがけてパッと息を凝らして微妙な風を送る、キャップが裏返しになれば勝ちなのだ。対面形式でプレイしたようだ。外でこのゲームをすると、風のある日は中止だった。自然に裏返しされてしまうか風の強い日は吹き飛んでしまうからだ。このゲームの名前は「パッ」である。

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント 31

 その資金の調達の話は、実は、薄々少年のナオミにも分かっていた。が、真相はと言えば、藪の中、ここは大人の会話に任せた方がいいと子どもながらに考えたようだ。
 ナオミの父は、毎年1月の中旬になると上京し、乳業業界の見本市が開催される上野か浅草にでかけていた。朝暗いうちに出て、夜遅く帰って来るのが常だった。ある時など家族の誰かに行きか帰りの電車か知らないけれども、隣り合わせた女性の話を珍しく得意気に話していた。そんな時父の目は益々細くなるのだった。

2009/12/09

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント  30

 牛乳瓶洗浄後は殺菌し冷ました牛乳を瓶詰め(充填)にするのだが、Kミルクプラントでは一時期最新式の機械を導入してオートメーション化を図った。当時どの位の大きさだったろうか。40坪くらいの広さには主に牛乳製造工場とアイスキャンディ製造工場、それに冷蔵庫が置かれていた。この冷蔵庫に纏わる話は後ほど書くことにして、大型の自動牛乳製造機械はその四分の一を占めていた。導入当初はこんなに便利なものがあるんだとナオミも驚いたほどだった。しかし、不思議に思ったのはその機械購入の資金だ。ナオミはこの資金の出所が今もって分らないままだ。

2009/12/08

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント  29

 ボイラー室を出ると真っ正面には一斗缶などを蒸気で殺菌する保温室があるが、ミルクプラントの玄関から左側奥、ボイラー室の後ろが牛乳瓶洗浄場である。ここにステンレスで出来た底が半月形の水槽があって、ナオミはそこに液体の洗剤をたらして瓶洗いをした。カチンと音がした時など瓶が割れて後始末が大変なのである。ナオミにも苦い経験があった。水槽の底に溜まった瓶の破片を拾おうと掻き混ぜているときに、小指に刺さって血が出たのだ。急いでオキシドールで傷口を殺菌、ガーゼを当てて包帯でぐるりと巻いたまでは良かったが、そのあとぬるま湯で瓶洗いを続けると傷口が痛むのだった。

2009/12/06

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント  28

 さて、そのミルクプラントの中はどうだったかナオミは頭を巡らした。
 ちょうど入口の左手にボイラー室があった。ここには燃料のおが屑や木っ端をブリキで出来た四角い入れ物に入れ、カマを炊き、水を加熱し、発生した温水や蒸気を室内に送り込む装置のボイラーがあった。そのボイラー室に入ると、給水、燃料配り、カマ炊き、サーモスタットや温度計の点検、適温になればボイラー室入口左上の蒸気出口のコックを拈る。ボイラーが適温になるまで燃料を配るのだが、これがまた、一仕事なのだ。そんな時ナオミはカマの近くで姉や弟と雑誌『平凡』の付録の流行歌の歌詞を見て覚えるのが楽しみだった。

わらにまみれてヨー 育てた栗毛
今日は買われてヨー 町へ行く


学術先端情報―学術情報誌「CPC Journal」の最新号紹介 2     

Img094_42009年第2号 小特集: 挑発的日本語論 水村美苗著『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』を読み解く・・・

目次
■バベル塔崩壊以前への復帰 韓国外大日本語通翻訳科教授 徐載坤
■いくら亡ぼされても、針は。 詩人 和合亮一
■21世紀はクリアーな日本語教育へ シートン・ホール大学准教授 大須賀茂
■寺山修司の言語性、もしくは方言性―序章としてのコラージュ 国立国会図書館・国会分館長 神繁司
■近世日本の「鎖国」と「重商主義」―長崎貿易と国民生活との関係(1)― 関東学院大学文学部教授 矢嶋道文
■『近代日本語教科書選集』の編集を終えて 京都大学講師 李長波

バベル塔崩壊以前への復帰─英語世紀の翻訳─

徐載坤(スゼコン、韓国外国語大学校日本語通翻訳科教授/近代詩)

 『聖書』によると、昔、人類は一つの言語、つまり<普遍語>でコミュニケーションをしていた。しかし、天に近づこうとする欲望からバベル塔を築き始め、それに怒った神様は塔を破壊し、互いに言葉が通じないようにし、それ以後は同じ言葉を使う言語集団に分かれて生活するようになったようだ。しかし、もはや英語はインターネットの普及に伴い、人類の宿願であった<普通語>になりつつある。
 約1年半前の大統領選挙で勝った李明博候補は、早速「政権引受委員会」を発足させ、ある女子大学の女性総長を委員長に任命した。新政権は小学校低学年への英語授業の拡大、そのための英語先生の大量採用、特に「英語没入教育」の実施による学校での英語教育強化路線を取ろうとした。「英語没入教育」というのは、English Immersion Programの韓国語訳で、要は学校での一般科目の授業も英語で行うということである。水村氏の表現を借りると、「国民の全員がバイリンガルになるのを目指すこと」であった。新政権は学校での英語教育を充実させることで、私教育費(民間の塾での勉強費用)を減らし、しかも国際社会に通用する人材を育成するという一石二鳥の名案(!)であると主張した。その新しい英語政策公聴会の席上で飛び出したのが、委員長の「オレンジ発言」である。アメリカに行って学校で教わった通りに発音したら相手が聞き取れなかったという逸話を紹介した。だから早期からの「英語没入教育」を通じて的確な英語能力を養い、国家の国際的競争力を向上させるべきであるというのが発言の主旨であった。しかし、彼女の発言は世論の猛反発を招くことになり、「英語没入教育」は見送られるになった。もともと、新政権の英語教育強化方針に対して現実を度外した理想論であるという非難も少なくなかった。日本と同じく韓国も大学受験競争が激しく、学校教育は大学入試と密接に結び付いており、英語が高い比重を占めているのはいうまでもない。小学校低学年からの英語教育実施は更なる早期英語教育ブームを引き起こす危険性があることを専門家たちは指摘していた。現在、英語専門の幼稚園が誕生したり、アメリカの教科書を教える塾が増加するなど、もはや韓国は事実上「韓国語が亡びる」道のりを歩み始めたと言えるだろう。水村氏の本を読みながら、これは韓国の現状に対する鋭い批判にもなることを認めざるをえなかった。とは言いながら、私自身、「二重言語者」であり、わが子もバイリンガルか、トリリンガルになることを望んでいながら、昨今の韓国政府の英語政策と英語学習ブームを批判するのは自己矛盾ではないかと反問せざるをえなかった。漢字文化圏の周辺国で、特に中国大陸との陸続きの韓国では固有文字の誕生が15世紀(朝鮮時代)にまで遅れたため、その間、<外の言葉>である漢文が<書き言葉>の役割を果たしてきた。だから、<普遍語(漢文)>能力が知識人の必須条件になり、朝鮮時代では科挙試験の実施によって社会的地位までを左右してきた。その力はハングル誕生後も衰えることはなかった。また自国語の能力より<普遍語>能力が最優先された時期としては、日本の植民地時代とアメリカ軍政期を挙げられる。だから、韓国では上流階級、または知識人は、その時代の<普遍語>ができる<二重言語者>を意味してきた。‘英語の世紀’である今日、韓国では身分上昇の手段として英語にオールインする人たちが少なくない。最近、韓国の新造語に「お父さん鴨」「お父さんペンギン」というのがある。これはお父さん以外の家族は子供の教育のため、英語圏の国か地域で暮らし、一人韓国に残って働いているお父さんを指す言葉である。前者は少なくとも年1回くらい、お父さんが会いに行くが、後者は何年間も家族再会が行われていないケースを指す。世界的に例がないこの不思議な家族形態は、単に英語習得だけでなく、わが子を大学入試中心の知識教育から開放させ、先進国の人性重視教育を受けさせたいという願いから生まれた一面もある。しかし、言語をコミュニケーションの手段にすぎないと考えるのは危険である。「言語は文化のための道具ではなく文化そのものであり、私たちの主体そのもの」(福田恒存)である。だから、ある外国語を習うということは直、間接的にその文化まで習得することを意味する。だから、早期の外国語教育は子供に自己アイデンティティの混乱をもたらし、どちらにも定住できなくなる場合もある。グローバルというのは自分と他者の共通点と差異を明確に認識することから始めるべきである。次に、自分にないものを取り入れて自分と自文化の中身を豊かにすることこそ国際化で、相手のことをそのまま受け入れることではない。ある文化(圏)の持っている独自なものを別の文化(圏)に伝えるのが<翻訳の役割>であるのは言うまでもない。翻訳とは二つの異文化が出会う場であり、創造の領域である。自文化にない属性(要素)を自文化のコードを使ってデフォルメさせる行為であり、その時、真のコミュニケーションが実現するといえる。だから、インターネットと英語の世紀に求められるのは優秀な翻訳(者)であるにちがいない。


2009/12/04

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント 27

 ここに一片の新聞記事がある。もう大分前のものだが、Kミルクプラントの外観が分かる写真だ。しかし、かつて繁盛したKミルクプラントの面影はない。あるのは物置小屋化した無人の小屋だけである。
これがあのミルクプラントの晩年の姿か。ナオミには信じられないような光景だった。
その新聞記事にはこう記されていた。

 16日午後5時10分ごろ、I市中央口5の無職田中芳一さん(75) 方物置小屋から出火、木造平屋建て同建物約130平方メートルを焼いて間もなく消し止めた。
I市警察署とT消防署で原因、損害調査中。燃えた物置小屋は田中さんが3年前、家を新築する際に住んでいたことがあるが、その後空き家になっており、火の気はなかった。
現場は国道沿いで、一時は国道を交通規制して消火作業にあたった。

 この元ミルクプラントの火事の原因は放火の疑いがあるものの、今もって未解決のままである。

2009/12/03

超人の面白創作 携帯連載小説 ミルクプラント 26

 ある時などナオミは嫌々ながら集乳の仕事をしていて事件が起きてしまった。
Kミルクプラントから自転車の荷台に行きは空の一斗缶を積んで帰りは搾乳の入った一斗缶を積み、往復約50分の道程を集乳するのだ。途中堤防の道や橋を渡って酪農家に行き、空の一斗缶を置いて搾乳が入った一斗缶を持ち帰る。この酪農家は牛が7、8頭の小規模酪農家で、行く度に牛糞の臭いが立ち込めていた。搾乳が入った一斗缶は門を入ってすぐの右側に置いてあった。一度だけナオミは実際にここで乳搾りを体験したことがある。ピュウピュウと指で搾るのだが、これが思ったよりむずかしい。バケツからはみ出したり、自分の顔にかかったりと上手くいかない。一定の量を搾りだすことすら難しかった。今は機械で搾り出す。

 事件は雨上がりの橋の袂で起きた。雨上がりだから堤防の道や橋の上の道には所々水溜まりが出来ている。橋の袂でナオミはよく友達と会って暫しの休息を楽しんだのだった。帰り時間を気にしながらだが。その時は友達といたかどうかは判然としないが、もちろん暗闇だったことは確かだった。どこでどう違ったのか、ドカンと音がしたのだ。砂利道だ。うっ、荷台に積んであった一斗缶が転げ落ちた。十文字に縛った黒いゴム紐の引っ掛けるところが外れたのだ。いけない、牛乳がこぼれている、慌ててナオミは自転車を止めた。すでに三分の一はこぼれている。一斗缶を起こした。ふと見ると、堤防の草むらに養分を補給してしまっていた。父に叱られるとナオミは思った。はて、どうしたらいいか考えた末、ゆっくり帰れば寝てしまっているから叱られないで済むと自転車を押しながら家路に向かった。大体いつもは午後7時頃には到着するのだが、この時は何時だったか、10時はとっくに過ぎていたようだ。父から何と言われたかは分からないが、もしかしたら母が庇ってくれたのかも知れない。少なくとも父が取り戻して来いとは言わなかったが、ナオミは自分の失策を悔いた。

 この道はいつか来た道―。その後何かの用事で何十年ぶりに通ってみた。アナボコは全くなかったどころか風景が一変していた。

2009/12/01

超人の面白創作携帯 連載小説 ミルクプラント 25

 ナオミはまだ瓶詰めに忙しかった。ガタガタ、ガタガタと機械の音がする。夜の11時は過ぎていた。眠い目を擦りながら今日のノルマの牛乳製品作りにあたっていた。

ミルクプラントのメインステージで牛乳を瓶に詰めていくのだが、多少は自動化されている。空き瓶を何十本かを一塊にして搬入台に乗せ、牛乳を注ぐ回転式の機械に流し、出てきたらキャップをして箱に詰め込み、冷蔵庫にしまうというのが一連の仕事の流れだ。その前後には、酪農家から集められた一斗缶を検査、濾過、殺菌する(主に父親の仕事)という基本的な仕事の流れもあって、一方ではボイラー(ミルクプラント内の貯蔵タンクなどに蒸気を送り込む動力装置)適温化のためのおが屑などの燃料入れ作業と温度の定期的な点検作業、その間に一斗缶(テトラ缶もあった)や瓶洗いの作業、また一方では、牛乳製品を箱詰めにして冷蔵庫にしまった後に大きなタンク(搾乳を検査等した後殺菌するための貯蔵タンク)2つと一斗缶、機械とその周辺の掃除の作業と続き、真夜中になることもしばしばだった。この補助作業をビニールの前掛けをかけて家族の人間が二交替か三交替で毎日行うのだ。家業とはいえ、なかなか大変な作業だった。

 ナオミが姉と組んでその作業を終えたのは午前1時を回っていた。ミルクプラントから母屋へ帰るほんの少し外の冷気に触れた。


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