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2009/03/06

大正は遠くなりにけり―ある死 その2―

M男による回想記。
 大正時代は15年続いた。西暦では1912年から1926年までだが、第一次世界大戦、ロシア革命、国際連盟設立、米騒動や関東大震災と大きな出来事が内外にあった時代。しかし、大正デモクラシーといった自由を謳歌した時代でもあった。

 そんな時代に東北の南端近くの一村で生まれた藍子叔母(仮名)は、その生涯のほとんどを田舎で暮らした。昔百姓バッパと帯に書かれた『洟をたらした神』の吉野せいも大雑把にいえばこの地域だ。その帯を書いた草野心平が通った小学校はこの叔母の家から畦道を通ってすぐ近くにある。校庭の端には心平自身が作詞した校歌が刻まれた石碑が立っている。M男は子ども時分に盆暮れの使いにその藍子叔母の家によく母に連れられて行ったものだ。バスは田舎の砂利道を揺れながら走って30分、バス停「S原入口」で降りる。そこから単線の磐越東線の踏切を跨ぎ砂利道を10分くらいほど歩くのである。周りの田んぼや人家、そしてその小学校を過ぎたあたりから左手前の方のやや高台に人家が見えてくる。あー、やっと着いたと脇に抱えた風呂敷に包んだ赤飯の入った重箱を多少直すのだ。親戚の家が近づいたのだから当然の行為だ。母は体格が良かったせいもあり、えらくのんびり歩いていたような記憶がある。勿論自分もこの先の山間の出身だったからこの辺の地理に昔から詳しかったのかも知れない。その母も百姓バッパだった。そうして叔母の家が牛と馬それに鷄など(確か他の家畜もいたはず)の鳴き声や牛糞に迎えられて辿り着くのだ。左隣の家は目印になるくらいの立派な何某さんの蔵と母屋であった。その叔母の家も隣に劣らず新宅や馬小屋などもあって広かった。確か家に入って右手奥には小川が流れていたが、そこは米を磨いだり洗い物をしたりする貴重な洗い場だったが、少し先に上れば澄んだ小川で鮒などの川魚が泳いでいるのが見えたものだ。そう言えば、明治生まれの眼光は鋭いが蟹股歩きの厳しい爺さんがいた。名前は良何某。
藍子叔母の家では米や麦それにトマトなどの野菜類だけではなく梨や桃も作っていて、収穫後は叔母自らそれらを入れた籠を背負い町に出て売り歩くのである。今でも都会でそういった光景を総武線の朝一番の電車の中で見かけるしまた、有楽町や神田駅ガード下におばさんたちが野菜などを並べて売っている姿がときどき目に入るけれども、藍子叔母もT駅近くの路地で同じような商いをしていた。M男は中学か高校時分にその姿を間近で見て今でも目に焼きついている。長年の半農半商の職業病か、M男が冠婚葬祭などで実家に帰るたびに、藍子叔母の腰が少しずつ曲がっていると見て取れた。家族を養うためにがむしゃらに働いたのかも知れない。そもそも明治17年生まれの父(M男からみれば祖父)と嫁いだS原の家から歩いて30分くらいのK地―ここも親戚まわりのコース、このS原の叔母の家に寄ってから行くのが常だった―の出のやや神経質で喧しい母(M男からみれば祖母だがM男が1歳のときに亡くなっている。当然M男には祖母の記憶がない故、祖母の性格などは母からの伝聞)の第3子(長男はM男の父親でその下に次男、三男、次女の家族構成)、長女として叔母は生まれた(幼子が2人いたが生後何ヶ月でなくなっている)。その大正時代の田舎の日常はどうだったか。いつだったか―祖父や父や母の葬送の時だったかも知れないが―M男はそんな小さい頃の話を多少聴いたことがあったが・・・。

 その藍子叔母が去る3月3日のひな祭りの日に亡くなった。享年87歳。(但しM男の記憶が正しければの話)。関係者の話では急死だという。生真面目な夫に、娘二人にも先立たれた叔母はさぞ悔しかったろうと察するに余りある。今となってはM男にはご冥福を祈るしかない。M男はそんな叔母にほろ苦い思い出がある。その昔学生時代だったから(M男は貧乏学生故にアルバイトで多忙)大昔になるが、何かの席でたまたま隣り合わせになり、M男ちゃん、今度何か贈るからねと言ってくれた。ここまでは話が聞けるのだが。このあとが大変だった。M男はずっとそのことを忘れていた。ある日旧国鉄のH貨物所から手紙が届いた。その文面には駅止めの荷物預かりと書かれていた。確かすぐにその荷物のある場所に引き取りに行ったのだが、開けてビックリ、なんと、なんと梨一箱が無残な状態になっていた。腐っていたのである。もう何日も置き去りにされたままだったのだ。いや、何ヶ月かも知れなかった。今思い返してみれば、荷物は一旦M男のアパートに運ばれたが留守で戻されたか、あるいはもともと駅止めの荷物で取りに行かなければいけない荷物だったのだろうか。記憶は薄れて曖昧さだけが残るのだ。当然母に叱られた。もう大分昔だ。藍子叔母には大変申し訳なく、一生悔いの残る恥ずかしい話だ。最後に帳消しの意味も込めて藍子叔母が最近といっても何年か前に(母の葬送のときか)、母と泊まり込みで田植え手伝いに来てくれたねと昔を思い出すように言ってくれたことだ。当時は手で植えていたので、子ども(確か小学4年生くらい)が大人に追いついていくのがやっと、泥かぶりは避けて通れなかった。今となっては懐かしい農作業だ。その藍子叔母はもういない。合掌。

雛祭り"桃梨"飾って叔母葬送

付記。藍子叔母は、若い頃は文学少女だったと告別式のメモリアルビデオで初めて知った。その下の叔母は三野混沌・吉野せいの子どもを知っている。筆者はその昔三野混沌の詩集を今は廃業したM書店で手に入れたことがある。立派な金文字「否」が輝いている表紙の詩集は筆者の書棚にひっそりと今も並んでいる。藍子叔母は大正時代の白樺派の作家の影響を受けたのかしら?ちょっと訊いてみたかった・・・。(2009年3月11日 記)

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