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2008/08/16

学術先端情報―学術mini情報誌「PS Journal」の最新号の紹介 9    

2008年第13号 特集: 研究者の現在ⅩⅡ歴史研究の地平
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目次
■水曜会と新水曜会 東海大学教授 井上 孝
■歴史研究の醍醐味 敬愛大学教授 村川庸子
■「リテラシー史」という領域 早稲田大学教授 和田敦彦
■大蔵官僚の天下りと銀行業務の近代化 横浜国立大学准教授 邉英治
■北部九州の炭鉱史料群を前にして 九州大学准教授 宮地英敏
■ヒトの行為を中心に地域経済の変動を考える 東北学院大学准教授 白鳥圭志
■現在の研究と関心 明治大学教授 佐々木聡

内容詳細はこちら→「img006.pdf」をダウンロード

■水曜会と新水曜会
東海大学教授 井上 孝

 マリオン・グレーフィン・デーンホフ(Marion Gräfin Dönhoff(1909-2002)という女性ジャーナリストの存在を、専門外とはいえ、寡聞にして知らなかった。ドイツの影響力ある週刊新聞 Die Zeit の主筆そして発行人であった著名人である。彼女はその名が示すように、貴族の出であるが、東プロイセンにあった所領の城で育ち、当時の女性としては珍しい大学教育を受け、一時所領の経営をしたが、やがてナチへの抵抗運動に加わり、戦後は東西融和に力を注ぎ、波乱の多い生涯を送った。その経歴は大いに興味を誘う存在である。
 デーンホフがその晩年の1996年、文化、学術、経済、政治の各界の一流のメンバーを集めて、現代の「焦眉の問題」を論じるべく企図して設立したのが、「新水曜会」(Die neue Mittwochsgesellschaft)である。この会は、彼女の没後も活動を続け、その成果を公表している。では、なぜ新・水曜会なのか。
 そもそも曜日名を冠した会は19世紀から各地にあったようだが、彼女が意識した「水曜会」なる名称は、19世紀の後半、ベルリンで設立された会合に由来する。1863年「学問的対話のための自由な会」(freie Gesellschaft zur wissenschaftlichen Unterhaltung)は、時のプロイセン国務大臣にして文部大臣であったB.ホルヴェークが主としてベルリン大学における各分野の教授を自宅に集めて自由な学問的集まりを意図したのに発する。1 会員はつねに16名であり、大抵は死去に伴って、新会員が補充された。創立時のメンバーは、まさに当代の各分野の第一人者であり、プロイセン、後にはドイツ帝国の知的エリートたちであり、その後、これに選ばれることは学問的な勲章と思われていたようである。思想・信条は問われなかった。月に2回、会員宅の持ち回りで会合を開き、自宅を提供した者が専門の講演をして、簡単な食事を供することになっていた。ただし、その際、狭い意味での時事的問題(Tagespolitik)は論じないことが、会の方針として決められていた。
 会は、1863年1月14日を第一回として、1944年7月26日まで、80年間にわたり1056回を数えたが、これを最後として、再び開かれることはなかった。例の、1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に、この会のメンバーのポピッツ、ベック、イェッセン2 そしてハッセルの4人が連座し、処刑された。事実上の最後の会は7月12日であり、講演者は理論物理学のハイゼンベルクであった。
 いま述べたように、戦後、会を再興しようとする動きはなかったようである。その理由は明らかではないが、水曜会メンバーは精神的自由が前提であっただけに、とりわけヒトラーの政権獲得後では、親体制も反体制も呉越同舟であった。上記の対ナチ抵抗運動のメンバーと同時に、ナチ支持者で有名な人類学者フィッシャーなども一員であったので、ナチ体制の崩壊後のドイツにおいて、そのメンバーが再び集まるのは所詮無理であったろう。
 さて、ではなぜその52年後に、「新」と銘打って、「水曜会」が再び結成されたのか。会は、1996年9月25日の初会合からの記録を順次公刊しているが、1998年におけるその第一巻(第5回目の会合までの記録収録)において、デーンホフ自身が、以下のような前言を述べている。今日、学問と科学も資本主義法則と相俟って業績と物質的成果をなによりも重視している。そのため精神・文化・芸術が次第に周辺に追いやられ、経済優先となっている。倫理規範なき社会ともみられる。方向を失いつつある社会では、これについて諸所で論じられているが、舞台と登場人物の交代はそうした議論の影響力をそいでいる。このときに想起されるのが、「無類の仕組み」としての、かの「水曜会」である。今日、事態は異なるが、この閉塞状況を打破するには、世界観は違っても、むしろ倫理的信念および法と正義という観点で結びついたグループの持続的な会合・討論を通じた、見解表明が必要であろう。そこで、今日のドイツの知性を集めて、この会合を持つことにした、と。3
メンバーは、デーンホフのほか、元ドイツ連邦大統領のリヒャルト・ワイツゼッカーや同じく首相のヘルムート・シュミットをはじめとする政治家やジャーナリスト、学者、実業家、著述家などであるが、旧東ドイツ出身者が三分の一を占める。公刊された23回分の会合記録で見る限り、狭く採っても時事的なテーマがその半数を占めているのは、メンバー構成からみても当然であろうし、彼女の現代に対する危機意識の現われであろう。デーンホフは、旧水曜会では純粋に学問的会話に限り、時事は除くことを規定に謳っていることを知っていたはずである。したがって、時事問題を論じつつも、個人と社会、道徳と正義、大学の危機、などをテーマにしたり、また劇場の危機や、宗教の復興など、彼女が前言で述べたように、精神文化的主題が含まれる。こうした構成を見ると、現代社会に対して批判的なジャーナリストであると同時に、東プロイセンにおいて出自でも知性でもエリートであったデーンホフは、ベルリン水曜会はやはり一種の憧れの存在であったのかもしれない。

註。
1 この会に関しては、中澤護人・田澤仁・増田芳雄『ベルリン「水曜会」 - ヒトラー暗殺未遂事件に関与した将軍と教授』、近代文芸社新書、2002に詳しい。著者のお一人の中澤氏は、同書に登場するベック将軍(ヒトラー暗殺首謀者の一人として処刑される)の父『鉄の歴史』の著者L.ベックの研究者として知られた学者であるが、偶然の機会からお近づきを得て、同書のもとになる自家版の小冊子なども頂いていた。
2 「民族的」経済学者として華々しい立場にいたJens Jessenがなぜ反ナチになり、命まで投げ出すことになったのか、その生涯と業績がこのところの私の関心事である。
3 Marion Gräfin Dönhoff(Hrsg.), Die neue Mittwochsgesellschaft – Gesprache über Probleme von Bürger und Staat,1998.

■歴史研究の醍醐味 
敬愛大学教授 村川庸子

 昨年末、拙著『境界線上の市民権-日米戦争と日系アメリカ人』(御茶の水書房)を出版した。着想から25年で博士論文に仕上げ、更に出版までに4年を費やした、と言うと、一様に戸惑ったような反応が返ってくる。逆の立場であれば私も同様の反応をするであろうと、寧ろ微笑ましく感じたりもする。だが、本の出来栄えはともあれ、これほど歴史研究の醍醐味を味わわせてもらったことはなかったし、恐らく今後もないであろうと思われることから、その経験について少しだけ紹介しておきたいと思う。
 本研究は、日米戦争中の日系アメリカ人の強制収容政策の研究から始まった。その政策に反発し、米国への忠誠を拒否した上に市民権まで放棄した(とされてきた)5千5百名余の二世の姿を追ってきた。アメリカを裏切った、と見なされたことから、一般のアメリカ社会でも日系アメリカ人の社会でも、またその歴史の中でも、幾重にも周辺化され、不可視化されてきた人々であった。
 この研究、実は最終盤に思いがけない展開をするのだが、その点については後述するとして、この30年近い歳月は、ユングの言うシンクロニシティを地でいくような人や資料との偶然の出会いに支えられてきた。それは、例えば、ある人の経験談を読んでいる最中にその当人から突然電話がかかってくる、たまたま見つけた昔の雑誌記事を知人に見せたらそこに載っていた数枚の写真が全てその家族のものであった、30年前に出会い本研究のきっかけになった家族と最後に出会った家族の名前が戦後送還船の8千名もの乗船リスト上で並んでいるのを見つける、といった形で、繰り返し目前に立ち現れた。
 研究の最終盤の2000年の研究休暇中にワシントンDCの国立公文書館で一連の行政文書を入手した。先行研究が皆無に近く、直接的な一次史料も見つけることができなかった本研究は、それまで周辺の政策に関する資料調査や、当事者や家族、関係者などへの面接調査を中心に行っており、隔靴掻痒の感を否めなかった。何年も公文書館を訪ね続け、「ここには無い」と言われ続けていた司法省の、それも本研究に直接かかわる文書が突然引き出されてきた。他の史料の収集に追われていて「貴女が興味を持つかも知れない資料があったから、手続きをしておいたよ。忘れずに引き出しなさい」というアーキビストの声にも生返事であったような気がする。ともかくも、この史料の発見により、私はその時点で概ね書き上げていた博士論文を一から書き直すことになる。
 強制収容の歴史に関しては、これまで数多くの研究が積み重ねられてきたが、大部分が陸軍に主導された(後に戦時転住局に移管される)11万名の一世・二世に対する政策に注目し、背景となった西海岸の排日運動や陸軍の政策決定に関与した人々の人種・民族差別を厳しく批判するものであった。他方、本研究で注目した司法省は、開戦直後に陸軍の政策に先んじて国内の治安維持に危険性をもつと思われる外国人の管理・統制にあたっている。戦前から用意されたリストに従い、6千名の日本人を逮捕し、2千名を抑留したが、対象となった人数が小さかったこと、個人ベースの調査が行われたこと、戦時に危険な外国人を国家が管理することは当然だと考えられたことから従来の歴史の中では等閑視されてきた。第一次大戦時の在米ドイツ人に対する政策などに比べれば、はるかに抑制の利いた政策であったと論じる研究者も多い。開戦後、両省の間では陸軍の政策を承認するか否かについての論争が続くが、司法省の動きが従来の歴史の中で見えているのは1942年2月半ば、陸軍の政策の実施が決定される頃までである。陸軍の政策は不必要で合憲性に疑いありと主張し続けていた司法省は、最終的には圧倒的な軍部の圧力に屈しその政策を認めてしまう、という図式が描かれた。
 だが今回発掘した資料を通して、@戦前から司法省内部で戦時の敵性外国人政策が周到に準備されていたこと、Aこの準備が陸軍省などには知らされず秘密裏に進められていたこと、B当初から予防措置としての拘禁と平時にも通用する恒久的な法整備が企図されていたこと、C彼らの言う「潜在的な危険性をもつ外国人」の中に一部市民が含まれていたこと、D危険な市民を排除するために彼らから市民権を剥奪し、「外国人」に変えること、即ち、ドイツ系帰化市民の帰化取消と日系市民(当時、アジア人には帰化が認められず、日系の帰化市民はごく僅かしか存在しなかった)の生得の市民権放棄、しかもE国内における(無国籍者を生み出す可能性があり、国際法では禁止されていた)自発的市民権放棄に向けての法整備が検討されていたこと、Eその目的が1944年の国籍法改正で実現したこと、そしてF時限立法であったその法が現行の国籍法に読み込まれ、ほぼ原形のまま生き残っていることが明らかとなった。
 これまで強制収容は日系アメリカ人に特殊な経験として描かれた。戦前からの排日(排アジア人)運動の歴史と真珠湾攻撃をきっかけにそのクライマックスとして位置づけられる強制立退き、という文脈の中で語られた。人種主義を中心に展開された日本人特殊論は確かに補償要求など政治的には効果的であったが、これを過度に強調することで見過ごされるものもある。その一つが国家的危機における外国人政策の歴史の視点、ナショナリズムの視点である。アメリカでは大きな戦争に際しては常に何らかの形で外国人や市民の自由が制限され、治安維持に危険であると見なされた者の逮捕・拘留、時に国外退去が行われてきた。リンカーン大統領に始まり、第一次大戦中の司法長官パルマー、第二次大戦中の司法長官ビドル、いずれも進歩的政策で知られる人物が人身保護律の停止に踏み切った。いずれも条件とされる戒厳令は敷かれておらず、違憲の疑いもある。危機における外国人政策の文脈の中では第二次大戦中の日本人・日系アメリカ人の経験は決して特殊なものではないのである。
 従来の「歴史」とは全く異なる展開に誰よりも驚かされたのは筆者自身である。この驚きと興奮を少しでも多くの方に共有していただければ幸甚である。

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