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2008/06/28

超人の面白ラーメン紀行 94 杉並区『地雷源』

超人の面白ラーメン紀行 95
ここはスープが切れたらお仕舞い、せいぜい3時間の営業時間とは2003年のラーメン店紹介での話(今は12時〜15時、18時〜22時30分が営業時間、金曜日定休日)だが、筆者も気に掛けていて一度訪れたいラーメン店だったのだ。その噂の店は地下鉄丸ノ内線方南町から徒歩8分の環七通りを少し右に入ったところの、通り過ぎれば分からないマンションの一階にある。梅雨の晴れ間の土曜日の昼下がり、方向間違いをして20分は鍵状に歩いてしまった。店に入るなり汗はピークに達し額を覆ったのだ。そうか、店の名前はと狭いジャズ風の店内をキョロキョロ、あった、ローマ字で“JIRAIGEN”地雷源 だ。洒落ているのか、それとも“地雷”を踏まそうと思ったのか、いや、そういう意味でもあるまい。
我流旨味そば(醤油)750円を頼んだ。一啜りするやあの永福町の「大勝軒」の味だと舌が教えてくれた。それは昔懐かしい味でもある。鰹出汁、鶏ガラやその他独特の素材がミックスされたやや濃そうに見えるがあっさり系のスープ、ストレート系細麺、トッピングは柔らく味もいいチャーシュー、海苔、刻みネギ、メンマ、海藻などは他のラーメン店よりは量が少なく“上品”なのだ。店内は8席のカウンターのみ、やはりジャズが流れていた。店内の色調は黒、切り盛りは無口っぽい男性二人だ。店の紹介記事が二ヶ所に貼られていたのが印象的。つけ麺850円、フランキー中華そば800円、ロイクーメーン850円など。
『地雷源』1.スープ★★★2.麺★★☆3.トッピング★★4.接客・雰囲気★☆5.価格★★

2008/06/23

超人の面白読書 42 石川榮吉著『欧米人が見た開国期日本-異文化としての庶民生活』 3

 本書は幕末期の庶民生活を外国人の目を通じて再現しているが、彼らの好奇心、関心は多肢にわたっていて精緻、たまには大いに首を傾げたくなる事柄にもぶつかるけれども大方観察が鋭い。特にアレキサンダー・フンボルトの描いた絵は当時の庶民生活の実態が知れて貴重だ。この中の一枚、「寺子屋」(本文P.231)Img002
には勉強に飽きたのか眠りこけてる女性もいて今と何ら変わらない"学校風景"が見える。
 さて、目次を追ってみよう。はじめにーこの本の意図 第一章 日本人の容姿 1 日本人の身体特徴 2 醜い日本の男 3 美しい日本娘 第二章 花の命は短くて 1 剃眉とお歯黒 2 入浴好き・熱湯好き 第三章 1 混浴と羞恥心 2 変わる羞恥心 3 性の防波堤 4 売春天国日本 第四章 男尊女卑うらおもて 1 蓄妾のすすめ 2 三行半 3 女の実力 第五章 庶民の服装 1 非活動的な日本の着物 2 地味好み 3 奇妙な履物と雨具 4 扇子と懐紙は必需品 第六章 庶民の飲食 1 肉を食べない日本人 2 粗食・小食の日本人 3 刺身はうまい 4 日本人は喫茶・喫煙王 5 不可解な食事マナー 第七章 簡素な庶民の住居 1 プライバシーのない家 2 家具がないー畳は万能 3 枕は日本文化の謎 第八章 矛盾だらけの日本人 1 不誠実な日本人 2 正直で親切な日本人 3 日本人は勤勉でいて悠長 4 礼譲でいて無作法 5 清潔好きの清潔知らず 第九章 印象あれこれ 1 音楽を知らない日本人 2 日本人は天性の芸術家 3 日本人は自然愛好家 4 動物愛護は日本が本家 5 日本人は宗教に無関心 6 躾上手の日本人 7 日本人は総中流 ? おわりにー異文化理解の心得 引用書目 刊行にあたって(須藤健一)

今日の毎日新聞書評欄には普及版『現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記』全5巻(編集・久米邦武、訳水澤周 慶應義塾大学出版会刊 定価1680円~1890円)刊行の紹介記事が載っていた。2005年に刊行されたときに何度も立ち読みしたが高価でちょっと手が出なかったのだ。この本は当時(明治4年、1871年)の岩倉使節団約50人の日本人が外国をどう見てどう理解したか、いや、吸収したかが如実に分かる本だ。もちろん当時のアメリカ、イギリス、ドイツ、フランスなど10ヶ国を1年9ヶ月かけて見聞している。記述の間違いも現代語訳では注で解説・訂正している。本書『欧米人が見た開国期日本』といわばin and out の関係で読める本である。
<続く>


2008/06/22

超人の面白読書 42 石川榮吉著『欧米人が見た開国期日本-異文化としての庶民生活』 2

 実践ビジネス英語7月号巻末にあるドミニク・チータムのコラム「Sing a Song of Sixpence」 第4回でクール・ジャンパンを取り上げている。伝統的で愛国的な歌「ルール・ブリタニア」のパロデイ→「クール・ブリタニア」(1967年リリースのボンゾ・ドッグ・ドゥー・ダーバンドの曲、筆者は知らなんだ)→ドミニク・チータムの一捻りで「クール・ジャパン」、それが今回のタイトルだ。 そのコラムの中で彼は、アメリカの雑誌「ハーパーズ・ニュー・マンスリー・マガジン」(1860年創刊の有名な一般月刊誌だが最も古い雑誌)の1856年3月に、アメリカのペリー提督が初めて日本を訪れたときの記事を「クール」に引っ掛けて紹介している。アメリカ人と日本人の出会いを紹介し日本人の好奇心や日本の役人たちが初めてのシャンパンやウイスキーを満喫した様子、それに日本から贈られた「有名な漆を塗って美しく磨き上げられた木製のお椀、上質な絹、グロテスクに飾られた扇子」に言及している。その後の日本ブームをこのコラムニストはミステリアス、ファッショナブル、アグレッシブ、プラスチック、エレクトロニクスそしてクールと形容詞一語で短く表現していて見事だ。
ところで、このペリー日本初上陸の記事が気になったので筆者は図書館やインターネットで探した。そして上述の原文は以下のようだ(抜粋)。

Yezaimon was always prepared to take his part in any conviviality on hand, and seemed now to enjoy keenly the ship's biscuit, the ham and cold tongue, and especially the whisky. As the Japanese rose to go, they crammed into their spacious sleeves pieces of the bread and ham, and other remnants of the feast, and took leave in the most courtly and friendly manner.
The Commondore on the next day transferred his flag to the Mississippi, and pushed his way to a distance whithin seven miles of Yedo, so near, in fact, that he could distanctly see the suburb although not the capital itself, for projecting promontory hid it from view. There was no interruption to the progress of the steamer, but evently great interest excited on shore, as the inhabitants crowded down to the water's edge in multitudes, and the troops thronged about the batteries. On the Mississippi returning to her anchorage,
Yezaimon came on board, bringing with him some presents for the Commodore of no great value, but interesting as speciments of Japanese workmanship. There were a few wooden cups beautifully polished with their famous lacquer, some pieces of fine silks, and several grotesquely ornamented fans. There were only accepted on the condition that something of at least equal value should be received in return, which, after some demur on the part of Yezaimon, was finally complied with.
-from an article of p.465, March edition in 1856 of The Harper's New Monthly Magazine.

さて、話を元に戻そう。<続く>

2008/06/21

超人の面白読書 42 石川榮吉著『欧米人が見た開国期日本−異文化としての庶民生活』

 Img001_2
国際交流が盛んな今の時代、特に日本は以前のゲイシャ、フジヤマなどのエキゾチズムと違って新たに"Cool Japan"と呼ばれ、J-ポップス、コミック、アニメ、キャラクター、ゲーム機、映画にファッションそれにハルキ・ムラカミなどの現代文学と欧米やアジアなど世界の大人や若者に日本が注目され人気がある。最近のクールジャパンブームも含めて1900年のパリ博のジャポニズムなど今まで何回かいわゆる"日本ブーム"を 起こしているが、来年開港150周年を祝う準備に大忙しの横浜などその150年位前のニッポンはどうだったかー。
 そんな折オセアニアが専門の文化人類学者が書いた『欧米人の見た開国期日本-異文化としての庶民生活』なる本がでた。ドイツ人医師ケンペル、ロシアの海軍軍人ゴロウニンやドイツ人医師・博物学者シーボルト、ペリー提督、ペリー提督に随行しアメリカに帰化したドイツ人ハイネ、ハリス総領事、オランダ語の通訳兼書記官ヒュースケン、初代駐日英国領事・公使オールコック、シーボルトの息子アレキサンダー・シーボルト、プロシャ公使オイレンブルク、外交官アーネスト・サトウ、地質・鉱物学者パンペリー、スイス人アンベール、トロイの遺跡の発掘者・考古学者シュリーマン、デンマークの海軍軍人スエンソン、イタリア人アルミニヨン、お雇い外国人のアメリカ人グリフィス、オーストリア外交官ヒューブナー、アメリカ人ホイットニー、大森貝塚発掘のモース、女性探険家イザベラ・バードなど計40名の外国人の日本体験記・見聞記・日記から拾いつつ編んだ本書は、好奇・侮蔑・愛情・偏見・差別・誤解・誤認(もちろん卓見もあるが)などの日本人としては不愉快な記述も網羅し、著者の文化人類学者らしい小刻み良いコメントあるいは呟きが挟ま込まれていて、異文化理解の好材料を提供してくれるだけではなく、欧米人の日本観も判って大変参考になる本である。江戸期、開国期、幕末期や明治初期に日本にやって来たいわゆる欧米の知識人が当時の日本を見てどう理解したかが分かって大変面白い。<続く>


2008/06/14

畜生の時代

畜生
こんちくしょう

何とでも暴言が吐けて
心がすっきりしても
まだ わだかまりが残っている

私たちは永遠に生き永得るわけでもなく
さりとてそれに異を唱えることでもなく

応えが出せないまま
ついここまで来てしまった

ブルーライン
グリーンライン

一字がはみ出したからと言って
全てが終末ロンに片付けられては困るのだ

青い線
緑の線

センとチヒロくらいちがうが今は
赤の線が少しだけ欲しい

鎌倉の海岸に行けば
真っ赤に染め上げた沈む夕陽が富士山の頂上に
見えるという

そうか
永遠かー

ただの赤い線かい

それでもバーチャル
それがバーチャル

都会はみんな地下に潜ぐりたがる

いくら掘っても掘っても出てくるのは
金の木偶の坊
灯りのない地球の姿

畜生
えっ、チクショウだい

2008/06/09

超人の文学散歩 本郷界隈 樋口一葉ゆかりの地

超人の文学散歩 樋口一葉

【樋口一葉自筆原稿(銀座の日本料理店が入っているビルの一角で開催されていた小さな「樋口一葉展」)と一葉が通った菊坂は本郷6丁目にある「伊勢屋質店」 いずれも筆者の携帯電話付カメラで撮影】

筆者は東大赤門前の古本屋に用事があったので、用事を済ませてから夕暮れ近くの文学散歩を試みた。今回は樋口一葉本郷ショートコース。4才から5年間住んだ法真寺東隣にあった「桜木の宿」に足を止め菊坂を下り、テレビ東京の番組「アド街天国」でも放映していた“金魚のいる”喫茶店を横目に質屋の「伊勢屋」や路地裏など樋口一葉ゆかりの地本郷界隈を楽しんだ。なるほど、坂と路地が入り組んでいる。そんなに高くない緑の樹々、うねった路地裏に置かれた植木鉢に咲く花に西日がさして陰影を作っている。えっ、一葉が眉間に皺寄せ反物を携えながら急ぎ足に通り過ぎる、そんな明治の始めの日常に想いを馳せた。この日は梅雨の晴れ間で夏日、暑かったこと。平塚らいてうらが建てた終焉の地の碑Fukuyamamaruyama1_3も見たかったが途中で迷ってしまったのだ(住所は文京区西片1-17-8だった!次回は西片のこの辺や春日は萩の舎跡など出没したい)。樋口一葉関係以外で印象に残ったのは、本郷6丁目20番地の古い二階建木造長屋だ。その木造の外壁や玄関口がなかなかいい。その脇にある旅館の趣も昔の面影を残してこれまた奥床しい。そして風がその間をそっと吹き抜けた。急いでもときた路を端折って駆け抜けると、やたらに出版社の看板が目立ったのだ。

【写真右: 「文京区の樋口一葉ゆかりの地をめぐる」のプログより】

一葉が暮らした界隈影を追い

2008/06/08

超人のドキッとする陶芸 2 清水正作 『青釉マグカップ』

Photo

京都五条坂の京都陶芸会館に依頼して出来た清水正作『青釉マグカップ』。
何とも言えない青の色艶、3ヶ月以上かかったが手許にまだ現物は届いていない。

マグカップ待ちこがれた青夏入れり

追記。京焼き・清水焼青釉マグカップは6月8日に届いた。思ったよりやや小さいが色合いは抜群、
そっと窓辺に置いてしばし観賞した。(6月13日 記)

超人のジャーナリスト・アイ 84 秋葉原通り魔事件

Nec_0273_2悲惨な事件がまた休日の白昼に起きた。今日の午後0時半頃あの秋葉原で通り魔事件が発生。現在まで7人死亡、10人がけがをしたとテレビが報道した。犯人は現場で現行犯逮捕された。25歳の派遣社員で静岡からレンタカーを借りて秋葉原にやって来た。彼は世の中が嫌になり殺すのは誰でもよかったと万世橋警察署で供述したらしい。宅急便会社でよく見かける大型トラックを運転し日通ビル近くの秋葉原の交差点に突っ込み、通行人をサバイバルナイフで次々と大声を出して切りつけて行ったらしい。現場にはたくさんの血痕が残っていた。また、現場にいた人が携帯電話付カメラで撮った、警官に取り押さえられた犯人の画像もテレビで報道された。異常と言わざるを得ない。通り魔事件は最近では品川、土浦でも起きていた。その中でも今回の事件は最悪の事件だ。このニュースはBBC放送など海外のメディアがいち早く取り上げて報道していた。奇しくも7年前の大阪府池田市で起きた小学生殺傷事件と同じ日、“オタク”の街秋葉原でまた、酷い事件が繰り返されたと伝え、日本社会の安全神話は崩されたと報じた。
【写真左:NHKのニュースより】

2008/06/02

クロカル超人が行く 93 星薬科大学星一資料室

筆者はずっと関心があって一度は尋ねてみたい資料室だった。前のコラムでニューヨークのブルックリン橋の話を取り上げたが、この星一も野口英世(第一回野口賞が先週末で閉幕したアフリカ会議の最中に受賞式があったばかり)とニューヨーク時代に同じ同県人として交遊があったのだ。そのニューヨーク時代の資料捜しにこの資料室を尋ねたのだ。しかしその資料は解らなかったが(別室にあるらしい)、ここは大正時代の雰囲気を充分感じさせてくれた。星一がそこに微笑んでいるのではないか―。最後に記帳、そのノートにはある作家が尋ねた女性らしい筆跡もあった。
突然の訪問に戸惑いながらも応対してくれた関係者に感謝したい。さあ、今度は大崎のTOC(東京卸センター)にある星製薬会社を尋ねてみたい。荒俣宏のユニークな訪問記をそのまま体現するという試行だ。
 
 
【写真上左から: 星一の銅像と大正後期建築のホール 親切第一他星製薬のモットー 子息の作家・星新一の著作 明治・父・アメリカ他2点 写真下左から: 愛用の湯のみ茶碗他 後藤新平らの書 英語版・中国語版・西語版の日本概略史など星一の著作】


2008/06/01

超人のジャーナリスト・アイ 82 ニューヨークのブルックリン橋竣工祝125周年の記事

Img024_4ニューヨークの有名なブルックリン橋が2008年5月22日に竣工125周年を祝った記事。面白いことにこの記事を昨日届いたThe Japan Times Weekly May 31,2008年のTopicsで見つけて読んだが、アメリカではどう伝えているのか写真ともども見たいと思ってヤフーアメリカで検索をかけてみた。するとシカゴトリビューンドットコムの電子版に出くわした。そしてサプライズ−。記事が同じなのである。しかも シカゴトリビューンドットコムの記事の方が3センテンス長い。これがこの記事のすべてだが、JTWの記事は3センテンス分削除したようだ。【写真:The Japan Times Weekly May 31より 】

 ブルックリン橋はニューヨーク市のマンハッタン島南端付近とブルックリン区を結ぶ橋でマンハッタン橋やウィリアムバーグ橋と並ぶニューヨークのイーストリバーにかかる三大橋の一つ。ドイツ人移民のジョン・ロービリングの設計だが途中で病死、息子のワシントン・ロービリングが携わるもこれまた病気に見舞われたらしい。結局13年(14年説もあり)の年月を費やして1883年5月24日完成。実はこの橋の建設プロジェクトに参画した一人の日本人測量技師がいた。その名は旧上田藩主の二男松平忠厚だ。明治5年にアメリカに渡りニューヨークのラドガース大で土木工学を学びマンハッタン高架鉄道にエンジニアとして就職、このブルックリン橋建設の設計も担当したらしい。その後コロラド州デンバーに移り住み結婚、二男を儲け1888年37歳の若さで死去した。その自伝はノンフィクション作家・エッセイストの飯沼信子著『黄金のくさび』(郷土出版社)に詳しい。こういう先駆者もいたのである。幕末明治初期にはさりげなくアメリカあたりに私費留学してその留学先で活躍した日本人がいたのだ。
 筆者も夜になるとブルーのイルミネーションがきれいなブルックリン橋をニューヨークでよく見かけた。当時逗留していたところはブルックリンではなく、隣のクィーンズだったから毎日通ったわけではなかった。しかしこの橋にはいろいろな物語があったのだ。
 さて、ブルックリン橋祝125周年記事はChicago Tribune.comの電子版より。


Brooklyn Bridge celebration
Tribune wire reports

1:37 PM CDT, May 22, 2008

It was so singular a marvel, so ambitious a feat, that its opening drew the president and a crowd of thousands. A leading national magazine said it stood poised to become "our most durable monument."
Some 125 years later, the Brooklyn Bridge remains a powerful symbol of engineering might and imagination, and a revered fixture in the landscape of the nation's largest city.
And it can still draw a crowd. Thousands of people are expected at the bridge's 125th birthday blowout Thursday, with fireworks, a Navy flyover, a colorful new lighting scheme and the debut of a tribute song scheduled to honor the storied span. It opened on May 24, 1883.
"It's an icon for not only New York, but for America," said Brooklyn's official historian, Ron Schweiger.
The 6,000-foot-long landmark is one of the nation's oldest suspension bridges and among its most treasured.
Tourists flock to see its interplay of architectural grace and muscle and its commanding views of the Manhattan skyline. Historians note its role in shaping the city: It linked Manhattan with what was then a largely rural Brooklyn, helping spur a Brooklyn growth spurt, Schweiger said. Brooklyn's population grew by 42 percent between 1880 and 1890, while Manhattan's grew by about 26 percent, census figures show.
Engineers laud the bridge's strength and innovation.
"There was nothing like this before, at least nothing like this that was of this scale built before," said Serafim Arzoumanidis, a New York-based engineer and bridge designer.
The Brooklyn Bridge is roughly six times as long as the biggest earlier bridge of its type, and its Gothic-arched stone towers and web of steel cables are technically impressive even by today's standards, he said.
Building the bridge took 13 years, cost $15 million and claimed several lives, including that of its celebrated designer, John Roebling. He succumbed to an infection after being hurt while looking over the site. His son, Washington Roebling, took over the project.
Its dedication was dubbed "People's Day" and featured two parades, an hourlong fireworks show and an appearance by President Chester Arthur. The Brooklyn Daily Eagle called the occasion "an enormous stride in the march of American progress"; Harper's Weekly, a popular illustrated magazine, declared the bridge the manmade work "most likely to become our most durable monument, and to convey some knowledge of us to the most remote posterity."
The bridge now carries about 126,000 cars per day, at the city's last count in 2006, and is used by countless cyclists and pedestrians. It has been refurbished repeatedly, and some parts have been strengthened. But the towers, main cables and main beams are original.
Recent inspections have flagged some problems. The U.S. Department of Transportation rated the bridge as structurally deficient in 2006, and state inspectors ranked its condition as "poor" in a recent survey.
Federal and city transportation officials have said the criticisms largely reflected deterioration of the bridge's newer approach ramps, and city officials have stressed that the bridge is safe.
The city plans to spend $250 million to $300 million fixing the ramps and painting the bridge, starting early next year, city Department of Transportation spokesman Ted Timbers said Wednesday.

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