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2007/05/31

学術先端情報-学術mini情報誌「PS Journal」最新号の紹介 6

学術先端情報-学術mini情報誌「PS Journal」第10号Img142_1
特集: 研究者の現在Ⅸ 人文・社会科学の、パースペクティヴ 2

RG131接収商社資料と空襲ターゲット選定
                         九州大学教授 三輪宗弘

米国国立公文書館Ⅱに所蔵されているRG131(接収文書)は大きく分けて3つの資料群から成り立っている。
①日本(商社と銀行)、ドイツ、イタリア企業の在米支店の接収文書
②司法省戦時経済局(Department of the Justice, Economic Warfare Section)の調査資料(日独伊企業、日独伊と取引・資本関係のあった米国企業、日独伊占領地域の経済調査)
③第一次世界大戦時接収資料(主にドイツ)
 
RG131の司法省戦時経済局調査関係資料のRecords of the Japanese Research Project(entry 341)の24箱に手書きの草案や英訳を行うだけの価値があるとされた資料が残されている。司法省戦時経済局は、押収した日本の商社のニューヨーク支店(三井物産、三菱商事、大倉商事、浅野物産、安宅産業)の資料を徹底的に分析し、日本の企業がどのような機械・装置を購入したのか、機械を据付けた工場の所在地はどこなのか、一点一点調べ上げた。機械や石油に特化していた大倉商事、浅野物産は資料がなくなるほど調べ上げられたようである。大倉と浅野の資料は戦時経済局の作成した調査レポートによって在米支店の活動および日米取引の実態を把握するしかないのが現状であるが、かなり研究がすすみそうである。
日本の基幹産業・軍需工場の設備が丸裸であり、日本への戦略爆撃ターゲット選定に有用なレポートになったであろう。例えば航空機燃料を精製する石油プラント関係の機械(購入先、商社、納入先)に関しては、航空機ガソリンや四エチル鉛の製造企業約50社の機械・装置の導入や契約内容などに関しては以下の手書きのレポートが残されている。
①H. Glicks, Draft of Petroleum Report
②Fred S. Auty, ,Report on Synthetic Oil and Gasoline Industry Japan (1943年8月8日作成)
陸軍造兵廠・海軍工廠(横須賀、呉、舞鶴、航空本部、艦政本部など)はじめ日立金属、中島飛行機などの個別企業ごとに、機械の購入元(メーカー)、販売商社名の詳細な調査記録が残っている。商社別の調査記録もある。例えば浅野物産、大倉商事、三井物産、三菱商事の資料から人造石油(フィッシャー法、オイルシェール)に関する情報を収集したり、交通網を破壊する資料として鉄橋や港湾、高速道路などの情報収集するなど手抜かりはなかった。機械据付に派遣された米国企業の技師のインタビューや日本に滞在した宣教師からの事情を聴取して作成されたレポートもある。
爆撃目標に選定された日本企業は九冊からなる“Air target intelligence, Japanese War : target analysis by areas”が米国議会図書館のGeography & Map Reading Roomに所蔵されている。Indexも一冊あり、日本本土だけでなく、満州、朝鮮、台湾、インドシナ、中国なども幅広く目配りされており、ターゲットとすべき目標(企業、鉄橋)が網羅されている。幸いにも米国戦略爆撃調査団のマイクロフィルムに収められており、国立国会図書館憲政資料室で閲覧できる。「接収された商社資料が日本爆撃にどのように利用されたのか、米国が日本の戦争遂行能力を低下させるためにどの企業を爆撃するする必要があると考えていたのか」という問題を跡付けることで、接収された商社資料は斬新な視点・切り口を日本経済史研究や軍事史研究に照射(しょうしゃ)しそうである。
米国国立公文書館Ⅱで、司法省(Department of the Justice)の資料を探したところRG60のCentral Correspondenceの中にEntry 230: Records of the Economic Warfare Section関連資料があり、戦時中の日本の戦争遂行能力に関する包括的な研究が行なわれ、プラスティック、軽金属、人造石油、化学産業、セメントなどの報告書が収められている。戦争末期になると、ドイツ、日本の賠償能力に関する。レポートも作成されたようである。作成されたレポートは左記に配付された。
①BEW(British Economic Warfare)
②OSS (Office of Strategic Service)
③MIS(Military Intelligence Service)
④A-2―Far East Section(後のG-2)

さて、米国戦略爆撃調査団(The United State Strategic Bombing Survey)報告書マイクロフィルムが国立国会図書館憲政資料室で閲覧可能であるが、その中に、戦時中の司法省戦時経済局が作成したレポートが収められている。Entry 46: Security-Classified Intelligence Library,1932-1947の中のSection 6: Japanese Intelligence Libraryの中に戦時経済局が作成した200ものレポートがマイクロフィルムに所収されている。RG165( Entry 79 : P. File)およびRG60に点在する戦時経済局のレポートも寄せ集め、接収された商社資料分析から、どのような知見が得られるのか、現在調査中である。

全内容はこちら「img143.pdf」をダウンロード

超人の面白翻訳 14 『スロヴェニア人が見た不思議な国・ニッポン』

このようなことはヨーロッパでは不可能だろう。ヨーロッパの社会は性的暴力などに対して子どもを守るには熱心だし同時に、性的倒錯者に対して探索が行われているのだ。性、暴力と子どもという考えは共通の分母ではないのだ。
日本のコミックで重要なことがある。描かれたキャラクターは子どもの外見だが、性的にも精神的にもトラウマを持っていてそのメッセージは次のようなものだ。彼らは自からを守れない。どんな社会にでも潜んでいる病んだ性的倒錯者はいる。そんなコミックの背景的なメッセージをどう解釈するかを書くときには長く特別な章を費やさなければならない。
ジャパンタイムズのコミック欄でさえ考えさせられる。そのコミック欄には大方の男性はどう女性を理解するか、私たちはどう女生徒やアニメプリンセスやしとやかな芸者になりきれるかなどの特集が組まれている。
私は外国人だ。だから普段見慣れているものやそうでないものを観察している。

2007/05/27

クロカル超人の面白翻訳 携帯翻訳 13 『スロヴェニア人が見た不思議な国・ニッポン』

大人と比べると子どもは無力だと認めて子どもの話題を始めた。一方では単なる傍観者である誰かの思想のように従おうとすれば、読者を満足させられないだろう。日本はコミックの熱狂ぶりでは世界的に知られている。若者だけではなく大人もレストラン、店や書店などで大概どこでもコミックを読んでいるのだ。これらのコミックにはある種の強調された女性のキャラクターが描かれていて外見はとても子どもっぽいが、性的な内容が重要な役割を演じているのだ。男性のキャラクターは女性のとは性的行動は違って描かれている。多くは従属的で利用されているようだが、暴力が背後にあるようだ。さらに女性のキャラクターはすべて子どものように見える(性的であることが例外だと分かるのは、書店の前や中で見られるのだが、コミックがある特別な区切りがある場所や最初にカバーがビジュアル的かでどの作家の内容かが分かるところでだ)。しかしながら、読者の仲間がむしろ限定的だったりコミックが紐で縛られている事実はこの際考慮しておこう。大人がもっぱらコミックを購入し性的フラストレーションを追いやる生活の手段として使っていると思われる。

クロカル超人の面白翻訳 携帯翻訳 12 『スロヴェニア人が見た不思議な国・ニッポン』

また、最近京都で起きた子どもの殺人事件についての日刊紙の論評や記事もある。私は過去何週間かの経験で知っていたが、日本の家族の人たちは子供に特に気をつける傾向があるのだ。子供の暴力的な死亡統計は年間30人まで上昇し大変問題になっていることも理解できる。交通事故で年間平均30人が死亡している国(人口200万人以下の国)から来ているが、同時に出生率はヨーロッパで最低なのである。私はこの話題の新聞記事をざっと読んだ。
専門外の人が説明やら解決策を絶えず探っているが、本当に難しいのだ。
子どもは依存性が高く社会の一番弱い構成員ないし連携であるが、社会が伝統的であればあるほど、脆い子どもたちに手を掛けることに集中するのだ。現代社会もまた、矛盾した現象をよく一般化してしまう。例えば、子どもに対する性的暴力、近くにいる恐ろしい殺人者、子供や大人の虐待などだ。これらの殺人事件は意外な関心を呼んでいてさらに悲しませる。裁判の記事は新聞で読めるので、それによると刑事被告人は主に大人の男性だが、その中に一人、狂気沙汰の外国人が目立った。その外国人は殺人の烙印を押されても仕方ないような愚かなキャンペーンを張られている(テレビの記者のせいや新聞報道通りでは)。事実は犯罪者全員が精神的なもので不安定なもの。だからある種の疑問は公開しなければならない。この恐怖の理由は何であるか、どうして防げるか、そして絶対に止めさせることができるかの疑問を公開しなければならない。

超人のジャーナリスト・アイ 64 北欧の新聞拾い読み 

■リトアニアの新聞「Lietuvos rytas リトアニアの朝」の天皇、皇后両陛下訪問の報道。2007年5月26日付。

Japonijos imperatoriškoji pora lankosi Vilniuje (dar papildyta, video, nuotraukos) (56)

Japonijos imperatorius mojavo į Daukanto aikštę susirinkusiems žmonėms. M.Kulbis
BNS ir lrytas.lt inf.
2007-05-26 19:58
Į Vilnių šeštadienį atvyko Japonijos imperatorius Akihito su žmona Michiko, tęsiantys vizitą po Europą.

Japonijos imperatoriškosios poros lėktuvas šeštadienį priešpiet nusileido Vilniaus oro uoste. „Tekančios saulės" šalies svečius Lietuva priėmė saulėta ir neįprastai karšta. Reportažą apie vizitą žiūrėkite lrytas.lt videonaujienose.

Japonijos imperatorių Akihito su žmona Michiko oro uoste sutiko Lietuvos premjeras Gediminas Kirkilas su žmona Liudmila.

Japonijos imperatoriaus žmona į Vilnių atvyko prie šviesios spalvos kostiumėlio prisisegusi Lietuvos vėliavos spalvų - žalios, geltonos ir raudonos - gėlių puokštelę. Imperatorienė nacionalinių vėliavų spalvų motyvais puošėsi ir Estijoje bei Latvijoje, kuriose lankėsi prieš kelionę į Lietuvą.

Iš oro uosto Japonijos imperatoriškoji pora atvyko į Prezidentūrą, kur juos iškilmingai sutiko prezidentas Valdas Adamkus su žmona Alma. Prezidentūros kieme svečius sutiko ir pagerbė 14 amžiaus šarvais ir ekipuote vilkintys Lietuvos kariuomenės Garbės sargybos kuopos kariai bei tradicinė Garbės sargybos kuopos rikiuotė. Vėliau Prezidentūros kieme Lietuvos prezidentui pristatyta visa kelių dešimčių žmonių Japonijos delegacija.

Lietuvos prezidentas Japonijos imperatoriškosios poros vizitą įvertino kaip „nuoširdų dėmesį ir Lietuvos pripažinimą".

Imperatoriškoji pora netrukus po vidurdienio Daukanto aikštėje priešais Prezidentūrą pasirodė visuomenei. Japonijos bei Lietuvos vėliavėlėmis mojuojanti minia svečius sutiko plojimais.

Susitikimo metu Prezidentūroje pasikeista dovanomis bei valstybiniais apdovanojimais.

Kaip pranešė prezidento spaudos tarnyba, V.Adamkus įteikė imperatoriui tris lietuvių dailininko Petro Repšio sukurtus sidabrinius medalius, skirtus esminiams Lietuvos įvykiams - pirmajam Lietuvos vardo paminėjimui Europoje, pirmajam tarptautiniu mastu pripažintam Lietuvos valdovui ir pirmai Lietuvos valstybėje lietuvių kalba išleistai knygai.

Imperatoriaus žmona Michiko buvo apdovanota juvelyrės Dalios Varnaitės paauksuotu kaklo papuošalu iš gintaro ir sidabro.

Japonijos imperatorius prezidentui V.Adamkui įteikė tradicine japonų technika - tapyba laku bei inkrustacija - pagamintą dėžutę, A.Adamkienei - Imperatorių rūmuose auginamų ir imperatorienės prižiūrimų šilkverpių išaustą skarelę.

Vėliau Lietuvos vadovas ir Japonijos imperatorius apsikeitė apdovanojimais.

Prezidentas V.Adamkus įteikė Japonijos imperatoriui aukščiausią Lietuvos valstybės apdovanojimą - Vytauto Didžiojo ordiną su aukso grandine. Vytauto Didžiojo ordinas skiriamas Lietuvos ir užsienio valstybių vadovams bei piliečiams už ypatingus nuopelnus Lietuvos valstybei. 2 psl.>>

■The Baltic times 2007年5月23日天皇、皇后両陛下訪問のニュース。

Japan’s royals on Baltic tour

May 23, 2007
By Aleks Tapinsh

RIGA - Japanese Emperor Akihito and Empress Michiko will visit the three Baltic countries May 24 - 27 as part of a 10-day European tour. The royal couple will spend one day each in Estonia, Latvia, and Lithuania on what is the first trip of any Japanese monarch to a former Soviet republic. “The visit of the Japanese Emperor to any country, especially to Estonia, as a small Baltic Sea country, is a noteworthy event,” Estonian President Toomas Hendrik Ilves said in a statement. “A visit of the Emperor of Japan is one of the greatest marks of respect that the Japanese nation pays to other countries.”


■Swedish Radioが伝える植物学者、カール・フォン・リンネ生誕300年祭に天皇、皇后両陛下が出席のニュース。

2007-05-23
Japanese Imperial Visit to Uppsala
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The Japanese imperial couple in Uppsala
Japanese Emperor Akihito and Empress Michiko’s visit to Sweden reaches its climax on Wednesday with a series of events in Uppsala marking the 300th anniversary of Swedish botanist Carl Linné.

The imperial couple, accompanied by the Swedish king and queen, attended a memorial ceremony on Wednesday morning in Uppsala Cathedral, where Linné is burried.

After the emperor and empress attend a concert and meet Japanese and Swedish students and researchers, they are due to attend a banquet at Uppsala Castle.

The imperial couple leave Sweden on Thursday for the three Baltic states, before heading to Britain.


■エストニアの地方紙「ポスティメース」の24日付電子版が伝える天皇、皇后両陛下エストニア初訪問歓迎のニュース。

Jaapani keisripaar tänas kontserdi lõppedes dirigente ja lauljaid (47)
24.05.2007 15:40
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Lauluväljakul lõppes äsja kontsert, mis tutvustas kõrgetele Jaapani külalistele Eesti laulupeotraditsiooni. Kontserdi järel on linnarahval veel põgus võimalus näha keisripaari, kui nad lähevad pool seitse Tallinna raekotta.
Vasakult: proua Evelin Ilves, keiser Akihito, president Toomas Hendrik Ilves ja keisrinna Michiko.
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Foto: Mihkel Maripuu
«See on põgus moment, keisripaar väljub autost, lehvitab rahvale ja siseneb seejärel hoonesse,» lausus Mariann Sudakov välisministeeriumi pressiosakonnast.

VIIMASED KOMMENTAARID
eh,eksperdid,miks
te toetate sellist seisukohta,et president on abielus oma TÜTRE vanuse naisega?! See neiuealine on ...
20:58 -le
oli mõeldud see õeluse nahavahelt väljalaskmise soovitus ( Sorry, koos loll tiitliga ). Ei tasu kara...
Teised kommentaarid
Pärast lauluväljaku kontserdi lõppu tänas keisripaar kontserdi dirigente ja lauljaid. taustaks aga kõlas Alo Mattiiseni laul «Isamaa ilu hoieldes», kus koos ühendkooridega esinesid solistid Lenna Kuurmaa, Gerli Padar ja Ivo Linna.
Lauluväljakule kogunes keisripaariga kohtuma ja kontserti kuulama ligi 4000 inimest, teatas Postimehe kohalviibiv reporter.
Lauluväljakule jõudnud Jaapani keisripaar ja Eesti presidendipaar tervitasid kohalesaabunud inimesi ja asusid seejärel kontserti kuulama.
Keisripaarile esines seitsme lauluga 3700 koorilauljat 117 koorist, kes tutvustavad kõrgetele külalistele Eesti laulupidude traditsiooni.
Dirigendipuldis seisid tänasel kontserdil lisaks Aarne Saluveerile veel ka Hirvo Surva ja Tiia-Ester Loitme.
Kontserdi kunstiline juht Aarne Saluveer lausus, et nime «Rõõm laulust» kandvat kontserti ei korraldata ainult keisripaari auks, vaid see on ka hea võimalus harjutada suvel peetava noorte laulupeo tarvis. «Laulupeo ühendkoori kooshoidmine ei ole nali, see vajab proovi,» selgitas Saluveer.
Mariann Sudakov välisministeeriumi pressiosakonnast kutsus kõiki eestlasi koos keisripaariga kontserti nautima. «Kõik inimesed on lauluväljakule oodatud. Seal on hea võimalus keisripaari näha,» lausus Sudakov.
Julgestuspolitsei kinnitas, et lauluhuvilised pääsevad lauluväljakule ka pärast kontserdi algusaega.

Toimetas PM Online



2007/05/26

超人のドキッする絵画 4 相国寺承天閣美術館の『若冲展』

Img137_3京都市上京区の同志社大学と同志社女子大学の間の道を入って程なく歩くと名刹、臨済宗大本山・相国寺がある。普段は静かなこの寺も今回ばかりは些か趣が違うのだ。雨が時折強く降る悪天候にもかかわらず、その寺の前ではタクシーから降りていく人たちが次々と現れ、やがて境内に入るやその光景が長い列に変わるのを見て驚嘆。一体何がー。喧騒は雨音に混じって池の蓮にも届いているようだった。
「只今入場まで20分待ちです」。相国寺にある承天閣美術館で今江戸時代に活躍した奇想の画家で異端児・伊藤若冲展が開かれている。Img138
騒ぎの主はこの絵観たさに集まった人たちなのだ。それほどまでに引き付ける若冲の絵の魅力とはー。中年夫婦、学生、カルチャー好きの実年女性、初老の男性、若いカップルなど様々だが、やはり中高年の女性が圧倒的に多かった。1500円でチケットを購入してから入場するまでが長い(美術館側が680人まで数えて音を上げたと初日の様子を毎日新聞が伝えていた)。雨のため特別に用意された長いテントの中の回廊を渡って入口に入るのだが、途中待たされて結局30分以上かかって入場。
第一展示室へ。相国寺派鹿苑寺(金閣寺)所蔵の水墨の襖絵「鹿苑寺大書院障壁画」50面が並ぶ。構図といい濃淡といい実に見事、何枚かに渡って大胆かつ細密に描かれた襖の水墨画は滋味深くかつ壮観そのもの。家業を蹴って画家に、その写生と対象の模写の修行には神経が病むほどだったらしい。絵に見惚れて進む速度が遅くなればたちまちの内に人集り、今度は最前列に行かないと下まで観れないのだ。ここではいかんせんゆっくり鑑賞できない。そして第二展示室へ。ちょっとその前に、またインターバルがあって館内で待たされた。20分後係員の「お待たせしました」の声で「動植綵絵全30幅」と「釈迦三尊像」全3幅が共演した展示室のドアが開いた。薄暗いその展示室に艶やかな色彩の饗宴、鳥や鶏、鯛、鯉や鰹、牡丹、薔薇、鶴や孔雀が奇抜な構図のもとに配置され息を吹きつけられて、静謐のなかに躍動感のある不思議な世界に誘われる。既知のものが未知に未知のものが既知にといった世界。若冲マジシャンの手でシュールに変幻自在に・・・。
中央に配置された「釈迦三尊像」、じっと目のあたりを観ていると多少ユーモラスにも見えてくるから不思議だ。
圧巻は何と言っても表情が面白い「群鶏図」、水族館を想わせる「群魚図(蛸)」、「群魚図(鯛)」、「菊花流水図」、
「紅葉小禽」などが印象的だ。「老松白凰図」、「菊花流水図」や「雪中錦鶏図」などに見られる白さは、最高級の胡粉を使用しているとは専門家の意見だが、この第二展示室は正面から入ってすぐに一堂にかいした絵が見れる。幽玄の中に艶やかさと躍動感が溢れて壮観である。若冲の描く絵は不思議な世界である。

若冲展に因んだこぼれ話しをひとつ。某タクシー会社のドライバーが東京からの中年の女性客を乗せ、車中ちょっと会話を交わした。「若冲展」を観に来たがあまりの混雑でゆっくり観られなかったの。それで今度はじっくり観に来るわ。数日後、この中年の女性客は同じタクシーに乗って二度観たわと言って満足気だったという。東京と京都を二往復したことになる。こういうファンもいるのだ。びっくりである。
そしてもうひとつ、今回だけで言えば外国人が一人もいなかったこともサプライズ。

ここで承天閣美術館のホームページを覗いてみよう。「若冲展」の解説があったので下記に引用してみる。

はじめに

 伊藤若冲は相国寺の大典禅師と親交のあった江戸時代の画家で、近年奇想の画家として注目を集めるようになりました。
 伊藤若冲は、父母永代の供養を願って釈迦、文殊、普賢の仏画三幅対と、三十幅の動植綵絵を描き、明和七年(1770)十月、相国寺に寄進しています。これら33幅は相国寺方丈に於いて行われる伝統的な儀式である観音懺法において方丈の周りにかけられたと伝えられています。まさに最高の仏画として描かれ、儀式に使用されてきたものでした。
 しかし明治時代、財政の危機に瀕した相国寺を立て直すために、当時の初代管長荻野獨園禅師は伊藤若沖の描いた動植綵絵三十幅を宮内省に献じて金壱万円の下賜金を得、それを資金に境内地一万八千坪を買い戻し現在の相国寺の面目を取り戻しました。以来動植綵絵三十幅は相国寺の手を離れ宮内庁の御物となっていました。
 今回120年の時を経て相国寺所蔵の釈迦三尊図3幅と現在宮内庁三の丸尚蔵館所蔵の動植綵絵30幅は再会を果たし、相国寺承天閣美術館に於いて一同に展観することが出来ました。多くの皆様に是非ともご覧いただきたいと思います。
 

「釈迦三尊像」「動植綵絵」
全33幅が創り出す空前絶後の展覧会

 臨済宗相国寺派の大本山で、京都五山の一つ、相国寺は明徳3年(1392)に足利義満によって建立されました。それから六百年以上の間、相国寺は春屋妙葩(しゅんおくみょうは)や鳳林承(ほうりんじょう)章(しょう)らの高僧、さらには周文や雪舟ら巨匠など、日本文化を代表する人々の集った寺院であり続けて今日に至っています。
 江戸時代の中頃にも、相国寺は稀有な才能を持つ画家との縁を結んでいました。その画家こそ、「奇想の画家」として、近年再評価が進み、高い人気を誇るようになった伊藤若冲その人です。若冲は京都・錦小路の大きな青物問屋の長男として生れながらも商売を好まず、ひたすら絵を描く事だけを好んで絵に没頭していました。
 この時期に相国寺の第113世の住持を務めた梅荘顕(けん)常(大典禅師)と知り合ったことは若冲の人生にとって転機でした。若冲は大典の人格、学識に傾倒して、在家のままで禅の修行に励んだほどでした。この両者の交流が極まったのが、若冲の最高傑作として名高い「釈迦三尊像」「動植綵絵」全33幅です。

 中国の古画を若冲が模写した「釈迦如来像」「文殊菩薩像」「普賢菩薩像」の3幅と、仏を取り巻く様々な動植物が極彩色で描かれた「動植綵絵」は、若冲が四十代前半から五十代前半の十年間を費やして描きあげ、亡き両親と弟、そして自分自身の永代供養を願って相国寺に寄進した作品です。

 以降、相国寺では年中行事の中でも最も重要な儀式の一つである「観音懺法(かんのんせんぼう)」の時にこの作品を飾り、若冲の遺志に報いてきました。しかし、このうち「動植綵絵」は明治22年(1889)に皇室へ献納され、以来33幅が一堂に展示されたことは今まで一度もありません。
 折しも今年は、相国寺の開基、足利義満の没後六百年にあたります。本展はこの記念すべき年にあたって「動植綵絵」全幅を宮内庁三の丸尚蔵館より拝借し、「釈迦三尊像」と、そして相国寺とのおよそ120年ぶりの「再会」を計ろうとするものです。さらに相国寺の塔頭である鹿苑寺(金閣寺)の大書院に描かれた、若冲の水墨画の代表作である重要文化財「鹿苑寺大書院障壁画」全50面の一括展示や、新発見作品を含むその他の若冲、大典ゆかりの作品多数を加えた展覧会です。この歴史的な、そして空前絶後の機会を存分にお楽しみ下さい。

見どころ

一、「釈迦三尊像」「動植綵絵」全33点がおよそ120年ぶりに再会

 「奇想の画家」伊藤若冲の最高傑作として知られる「動植綵絵」は、もともとは若冲が張思恭の「釈迦三尊像」を模写したものをとりまき、荘厳する目的で描かれたもの。つまり、33幅が揃った姿が完全な姿です。
 しかし、廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)などの影響で疲弊した相国寺が、復興のために明治22年(1889)に「動植綵絵」を皇室に献上するにあたり、若冲が寄進したときの「両親と弟、そして自分の永代供養を」という遺志を汲んで「釈迦三尊像」を相国寺に留めたことから、この33点は分蔵されることとなって今日に至っています。この時からのおよそ120年間、「動植綵絵」30幅が一堂に展示される機会はありましたが、33幅が揃ったことはついぞなく、今を生きる人間でこの傑作の真の姿を見た者は存在しません。今回の展覧会はまさしく歴史的な機会といえます。

 
二、「釈迦三尊像」「動植綵絵」のための特別な空間で、若冲を観る

 当館は昭和59年(1984)に、相国寺創建600年を記念して設立されました。このときの展示室は設計段階から「いつの日か「動植綵絵」の里帰りが叶ったときに一室で展示が出来るように」と配慮して建築されたものです。東側の展示ケースには「釈迦三尊像」が、南北面の展示ケースにはそれぞれ左右に「動植綵絵」15幅ずつが掛けられるようになっています。
本展では、この展示室内にはパーテーションや独立ケースなどを一切使用せず、全作品が視界に入る形での展示を行います。
 

三、配列順番は第一線の研究者を交えての会議を経て決定

 献納以前に「釈迦三尊像」「動植綵絵」がどのような順番で配列されていたのか、という問題については、資料が失われている事もあってはっきりとはわからず、研究者によって様々な説が提示されています。このため、今回の展覧会の開催にあたり、監修の辻惟雄先生(東京大学名誉教授・MIHO MUSEUM館長)と小林忠先生(学習院大学教授・千葉市美術館館長)、そして太田彩先生(宮内庁三の丸尚蔵館主任研究官)と当館担当者による会議の末に配列順番を決定しました。詳細については展覧会の開催まで発表できませんが、会場での展示の順番が、諸説提示されている「釈迦三尊像」「動植綵絵」の配列順番に対する相国寺としての回答となります。
 

四、若冲による水墨画の傑作も一堂に公開

 若冲の着色画の最高傑作が「動植綵絵」なら、水墨画の最高傑作は重要文化財に指定されている「鹿苑寺大書院障壁画」全50面だと言えるでしょう。相国寺の山外塔頭である鹿苑寺(金閣寺)の大書院の5部屋を飾っていたこの作品は宝暦9年(1759)、若冲が44歳の時に描き上げたものです。この時期は「動植綵絵」を5点も制作したという若冲が最も旺盛な制作意欲を見せた絶頂期であり、「鹿苑寺大書院障壁画」は若冲ならではの水墨世界を堪能できる作品と言えます。
 本展では、このたび増築した別館展示室にこの50面のうち、鹿苑寺大書院一之間と三之間の床の間を飾っていた「葡萄小禽図」「月夜芭蕉図」の床の間を原寸大で再現、より臨場感ある展示が可能となりました。また、他の作品も一括して並列展示いたします。
さらに、「葡萄小禽図」「月夜芭蕉図」「双鶏図」は修復を終えて面目を一新、今回が初めての展示となります。
 

五、「動植綵絵」の鑑賞機会、「観音懺法(かんのんせんぼう)」もクローズアップ

 京都の禅刹の特徴を言い表す言葉として「禅面(ぜんづら)」と言う言葉があります。「大徳寺の茶面、東福寺の伽藍面……」などと言われる中、相国寺は「声明面」として知られてきました。
 この「声明」とは、室町時代から伝わる儀式で、毎年6月17日に行われる相国寺でも最も重要な法要である「観音懺法」の時に捧げられるものを指しています。実は、「釈迦三尊像」「動植綵絵」は相国寺に寄進されてから、この「観音懺法」の際に用いられてきました。現在でも「文殊菩薩像」「普賢菩薩像」の2幅が実際に使用されています。
 本展では、皇室への献納以前までは年に一度の貴重な鑑賞機会であったこの「観音懺法」についても、実際の資料の展示を通して紹介します。
 

六、新発見の名作「厖児戯帚図(ぼうじぎほうず)」初公開

 本展開催に先立つ予備調査で、鹿苑寺の蔵から発見されたのが「厖児戯帚図」です。明治時代に鹿苑寺の歴史をまとめた『金閣寺誌』什物帳の部に記載されていたことから発見に至ったこの作品は、画面を斜めに横切る箒と、その前に座って見返る愛らしい子犬を描いたもの。若冲30代後半に描かれたと考えられる作品で、画家としてのスタートが遅かった若冲としてはかなり若い時期の作品ということになります。同時に、この作品は相国寺派の寺院に伝わる若冲作品としては最古のもので、おそらくは大典との親交が始まって間もなく描かれたものと思われます。この作品は、若冲自身にとっても自信のある作品だったらしく、ほぼ同じ構図を水墨で描いた「箒に子犬図」も現存していることも貴重です。今回の展覧会が初公開となります。
 

七、最新の研究成果を反映

 本展には、相国寺所蔵の各種資料を用いて様々な新発見がありました。若冲の没後85年目に描かれた肖像画である久保田米僊( く ぼ た べいせん)筆「若冲居士像」(相国寺蔵)の制作背景や、若冲による水墨画の優品「竹虎図」(鹿苑寺蔵)「芭蕉図」(相国寺山内塔頭 大光明寺蔵)が本来対になる作品であった事など、様々な新知見を反映した展覧会となっています。
 

主な展示作品

釈迦三尊像<相国寺蔵>

釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)
文殊菩薩像(もんじゅぼさつぞう)
普賢菩薩像(ふげんぼさつぞう)
 

動植綵絵<宮内庁三の丸尚蔵館蔵>

老松孔雀図(ろうしょうくじゃくず)
老松白鳳図(ろうしょうはくほうず)
芍薬群蝶図(しゃくやくぐんちょうず)
牡丹小禽図(ぼたんしょうきんず)
梅花皓月図(ばいかこうげつず)
梅花小禽図(ばいかしょうきんず)
南天雄鶏図(なんてんゆうけいず)
向日葵雄鶏図(ひまわりゆうけいず)
蓮池遊魚図(れんちゆうぎょず)
秋塘群雀図(しゅうとうぐんじゃくず)
老松白鶏図(ろうしょうはっけいず)
椶櫚雄鶏図(しゅろゆうけいず)
雪中鴛鴦図(せっちゅうえんおうず)
雪中錦鶏図(せっちゅうきんけいず)
紫陽花双鶏図(あじさいそうけいず)
芙蓉双鶏図(ふようそうけいず)
老松鸚鵡図(ろうしょうおうむず)
梅花群鶴図(ばいかぐんかくず)
芦鵞図(ろがず)
芦雁図(ろがんず)
群鶏図(ぐんけいず)
薔薇小禽図(ばらしょうきんず)
桃花小禽図(とうかしょうきんず)
大鶏雌雄図(たいけいしゆうず)
池辺郡虫図(ちへんぐんちゅうず)
貝甲図(ばいこうず)
菊花流水図(きっかりゅうすいず)
紅葉小禽図(こうようしょうきんず)
群魚図(蛸)(ぐんぎょず・たこ)
群魚図(鯛)(ぐんぎょず・たい)


鹿苑寺大書院障壁画<相国寺山外塔頭 鹿苑寺(金閣寺)蔵>

葡萄図床貼付(ぶどうずとこはりつけ)
月夜芭蕉図床貼付(げつやばしょうずとこはりつけ)
松鶴図襖絵(しょうかくずふすまえ)
芭蕉叭々鳥図襖絵(ばしょうははちょうずふすまえ)
菊鶏図襖絵(きくけいずふすまえ)
秋海棠図襖絵(しゅうかいどうずふすまえ)
竹図襖絵(たけずふすまえ)
双鶏図貼付(そうけいずはりつけ)
 

牡丹・百合図(ぼたん・ゆりず)<相国寺山外塔頭 慈照寺(銀閣寺)蔵>
松亀図(まつかめず)<相国寺山内塔頭 大光明寺蔵>
竹虎図 梅荘顕常賛(ちくこず ばいそうけんじょうさん)<相国寺山外塔頭 鹿苑寺(金閣寺)蔵>
芦雁図(ろがんず)<相国寺山内塔頭 大光明寺蔵>
鯉図(こいず)<相国寺山外塔頭 慈照寺(銀閣寺)蔵>
龍図(りゅうず)<相国寺山内塔頭 大光明寺蔵>
伏見人形図(ふしみにんぎょうず)<相国寺山外塔頭 慈照寺(銀閣寺)蔵>
亀図 聞中浄復賛(かめず もんちゅうじょうふくさん)<相国寺山外塔頭 鹿苑寺(金閣寺)蔵> ほか

※都合により、展示作品や展示内容を変更する場合がございます。
悪しからずご了承ください。

開催要項

会  期 : 2007年5月13日(日)~ 6月3日(日)
休 館 日 : 会期中無休
開館時間 : 午前10時 ~ 午後5時(入館は午後4時半まで)

入 館 料 :
一般 1,500円
65歳以上・大学生/高校生・団体(20名以上) 1,200円
中学生/小学生 1,000円
※障害のある方と介護者1名 無料 バリアフリー対応

会  場 : 相国寺承天閣美術館
問 合 せ: 050-5542-8600(ハローダイヤル)
主 催 : 相国寺・日本経済新聞社
協  力 : 宮内庁
後  援 : 文化庁・京都府・京都市・京都新聞社・NHK京都放送局・毎日放送・KBS京都・京都仏教会・京都商工会議所
監 修 者 :
辻 惟雄(東京大学名誉教授・MIHO MUSEUM館長)
小林 忠(学習院大学教授・千葉市美術館館長)
担当学芸員 : 村田 隆志

■「動植綵絵」人気投票HPから。
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【写真左から: ①牡丹小禽図②菊花流水図③群魚図鯛④群魚図蛸⑤群鶏図⑥群蝶図
写真右から ⑦紅葉小禽図⑧雪中錦鶏図⑨雪中鴛鴦図⑩池辺群虫図⑪老松孔雀図⑫老松白凰図】


■愛知県立美術館では若冲再発見の立役者、ジョウ・プライス氏所蔵17点を展示開催中。6月10日まで。

2007/05/22

クロカル超人の面白翻訳 携帯翻訳 11 『スロヴェニア人が見た不思議な国・ニッポン』

私はさらに日本の数多くのバイクやスクーターなどを見れることを期待していた。速度があって頑丈な日本のバイクというイメージを好んでいたからだ。ラッキーなことにもうひとつは、この辺にはそういったバイクがそう多く見かけないことだ。言わせてもらえば古い。あまり楽しい印象をもっていないが、最初2人のバイクの運転手に巻き込まれた。ここのキャンパスで出会った学生にとってはバイクは最も適当な交通手段だが、彼らの運転は攻撃的に思える。ともかく誰も怪我や暴力は起きていないようだ。少し驚くかも知れないが。
バスもまた、交通手段の実用的な手段である。頼りがいがあって安く実用的だ。時間通りに来ないことで不快感を表す多くの人を見つけるけれども、私は個人的には見て回るのにはバスを利用するのが好きだ。バス乗車券の払い方が分かった後は結局その方を好んだ。外国人は目新しものには何か特別なものと考えるが、適応能力がバッチリなときは彼らはその国の人がしている仕方を受け入れる。少なくとも私はそう思う。
よく言われることだが、あまり善良過ぎるほど良くないものはないのだ。もっと正確に言うと、かつて経験したことがなかったことを書かなければならない。悲しいことだ。
2日前信号が変わるのを待って横断歩道に立っていた。1人の男性と幼い子供が私の近くに立っていてその子供が私を見て顔を逸らした。父親がそのことに気づいて手を引っ張り衝動的に何か説明し始めた。その位の年齢の子供は妙なもの、しかも外国の人やものに本当に興味があることが分かっているのだ。その子供は私をじっと見つめていた。外国人が目の前にいるということの忠告や事実をその子供がどう知るか、私には術がなかった。父親はそういうことを子供に話しかけていたと思う。これは推測だが、父親が自分の息子の腕をとても強く掴んだ後からその場の雰囲気がますます悪くなったのだ。そう、苦い経験だった。

2007/05/20

クロカル超人が行く 60 MARUNOUCHI , TOKYO

4月下旬に丸ビルが新生オープンしてから地下鉄丸の内線東京駅の周辺は、にわかに人だかりができて特に週末はそれこそ人ヒトひと、peopleだ。地下鉄丸の内線東京駅から繋がってオフィスだけではなくオシャレな食空間に変わった新生丸ビルゾーンにすぐ入れるようになったからだ。それこそ老若男女と様々だが、強いて言えば年配者が多いようだ。そんな新名所の丸ビル36階の和食『暗闇坂 宮下 丸の内』で先週会食する機会があった。この日の天候は雨かと思えば晴れたりとめまぐるしく変わったが、夕方は晴れの状態で収まった。通勤では地下を通っておしまいの日常生活、こんな場所には滅多に来れないと半ばおのぼりさん気分だった。その36階の窓から夕闇迫る建築家・辰野金吾の設計で超有名な東京駅200705171902000_2を見下ろす眺めは最高だ。明治・大正建築の傑作とポスト ポストモダーンの建築の組み合わせをとくとごらんあれ。もう一つの写真は丸の内・大手町界隈。Marunouchi2_1
ニューヨークの摩天楼の夜景は特に有名だが、この真新しい夜景は"百万ドル"でも買えないのだ。この日の会食でのおみやげは、超軽量のビアタンが一個、7000円と言っていた従業員の話とお相手の某先生が森進一のファンとの話のダブルサプライズだ。そしてこの夜景は誰のもの-MARUNOUCHI。【写真: いずれも筆者が午後7時過ぎにカメラ付携帯電話で写す】

晩春の笑み零れてやビル灯り
                                                                                                                                   



2007/05/19

クロカル超人の面白翻訳 携帯翻訳 10 『スロヴェニア人が見た不思議な国・ニッポン』

私は日本生産の多くの乗り物が見られることを期待していた。あちこちでプジョーは見られる、多分ベンツも見られるがそれまでだ。私はある時から日本車が好きになっていた。だから間近で見れる機会ができてうれしいのだ。ちょっと驚いたのは新しくよく手入れされた乗り物をたくさん見かけることだ。5年位前だったか学部の同僚と私は本部の前に駐車していた小さな一人乗りの日本車を褒めた。その車は形といい機能性といい誰もが納得していた。それは私たちが見慣れていないものだった。「しかしここにはそういう車がたくさんある」と笑い飛ばすように自分に言い聞かせた。日本では3、4社の自動車メーカーが優勢のようだが、マツダ製の車は日本でさえ価格が高いように思える。
日本で私はとても特異な色の配色を見つけた。それは黒、白それにグレー以外の色は存在しないということだ。誰かが私に尋ねたとしたら明るい色は存在しないと応えるだろう。Mazda5_z_2Online_192846300
【写真左: 2007年5月20日付スロベニアのマリボール市の新聞「Vecr」紙に載ったトヨタのハイブリット車。写真右:スロベニアの「マツダ・スロベニア サイトから】


マツダの車がとても生き生きした色と奇抜さのコンビネーションでヨーロッパ市場を驚かせたことを考えてかなりショックを受けている。現在までいろいろと見てきたので、私は追突された車や傷がある車を見ても驚かないのだ。そんなことはよくあることだし、自分の町で楽しい経験ではなかったがあった。特にスーパーマーケットに車で行ったときなどに。私は日本人が忍耐強く教養があって親切丁寧な人たちとの印象を受けた。

クロカル超人の面白翻訳 携帯翻訳 9 『スロヴェニア人が見た不思議な国・ニッポン』

基本的なところは(標識や灯り)スロヴェニアFullsize_1【写真左: スロヴェニアの首都リュブリャナの現在の市街】
のと同じだ。遊歩道も全ての大都市と同じように見える。道幅や大きさも同じでそれにその脇ビルも大変よく似ているのだ。他方少し問題もある。それは言葉の問題だ。標識はほとんど日本語で書かれているし、しかもたくさんあるので、道路や通りの名前も横文字(ラテン文字)で書かれているという事実を簡単に見過ごしてしまうのだ。理解できない標識は私には広告とは思えない。私は基本的にはそれらを見ても影響を受けないのだ。なぜなら漢字、ひらがなやカタカナになると読めないからだ。それでも書き方は大変美しく心を打つものだと分かる。
私は舗道を歩くと嬉しくなるのだ。メイン通りはすっかり舗装されているが、私が驚いたのは道路でさえ平坦で表面がきれいにできているということだ。人が一杯いたり交通渋滞がないからストレスも怒りも感じない。ここの交通量は人口10万人位の故郷の町の交通量よりずっと少ないという妙な感情に私は捉われている。こんなことがいかにして可能なのか?

2007/05/18

クロカル超人の面白翻訳 携帯翻訳 8 『スロヴェニア人が見た不思議な国・ニッポン』

そんな隣近所は一団になり自己充足的な集団のようだ。だから学校から薬局まですべてあるのだ。そんな集団でいくら稼げるかあるいは店の儲けはいくらか興味がある。半マイル(1マイルは約1.6キロ)毎に流行っている食べ物屋があるようだ(24軒中7軒)。だからデパートは自分の町にある数より数が少ないし、店で浮かれている群れにも出くわしたことがない。多分外国人なら誰でもそうだが英字紙やヨーロッパのタバコ屋がないと寂しいと思う。自販機や自動飲料機はあるのだ。執拗に固執するなら、喫煙道具を置いてある特別な店を見つけることができる。幸いにも私は英字紙のジャパンタイムズ(因みに筆者のドラゴ・ウヌク氏が現在住んでいるマリボ−ル市の新聞は、「VEER」。その電子版→「www.vecer[1]」をダウンロード)に出くわした。テレビを見ないので満足である。
日本人はとても善良な隣人だと指摘されている。手助けする方法や情報の自由なやり取りを見つけだす力が備わっている。もっとも日本人の多くは英語を話せないし私は日本語を話せないが。西欧人は日本人を厳格でとても真面目な国民と見ている。笑わない時などまるで怒っているかのように私たちには映るのだが、それは西欧人の心にある一枚の絵と同じだ。強調しなければならないのは、こんな親しみやすい人々には以前には会ったこともないし、私のような見知らぬ外国人に親しくするだけではなく他の人にも同じようにするのだ。私には親切丁寧な決まり切った態度に見受けられるのだ。特別でユニークな会話の形式があるのを理解するために言語をマスターする必要はない。外国人であるにもかかわらず、どんなところでも余計な感情を持ったことはなかったし、この点に対しては会った誰もが歓迎してくれた。
私が上陸して触れた文化のもうひとつの面は清潔さだ。「まずは最初に清潔にすること」となるとヨーロッパのどこにもそんな学者ぶった文句を私は見たことがなかったのだ。通りや家をそして全体的な環境を清潔に保つことは日常生活の主要な面だ。そういう空気の中にひとつの意味があるのだ。いかにして人は自分自身や他人を敬うか考えさせてくれるのだ。
外国人にとってすごく重要なことが交通事情にある。それは独特なものだからだ。日本に上陸してすぐにタクシーに乗った時、新しい交通事情に馴染むのに数分必要だった。タクシー運転手は右側に座っていたが、時差ボケで小銭を落としてしまったのだ。同じようなことがイギリスの交通事情でも起きた。結局違いに気付いたあとだが普通のことだ。しかしながら、この地点に達するまでに例えば道路を横断するような小さな出会い方の場合には、間違って別の側などでバスを待っていてもルールに従うことを優先させた方がいい。幸いにも私はここでは今尚ハンドルを握っていない。


2007/05/17

クロカル超人の面白翻訳 携帯翻訳 7 『スロヴェニア人が見た不思議な国・ニッポン』

京都郊外には大きな山が広がっている。私は晩秋の木の葉やさらにすばらしい色彩に驚かされた。明るい黄色から赤褐色に広がっているのだ。私は多少慎重な性格なため、一番近いところを探索することが専らの関心事だ。民家が真ん中にある街の外れに住んでいることが嬉しいのだ。その民家は繋がっていて路地が家のまわりに広がっている。植木鉢や庭に花が咲いていて緑がたくさんあるのだ。本当に故郷みたいだ。晴れた日には特に自分のまわりをさらに探索するのが楽しい。驚くほどの店(花屋、クリーニング屋、小さな食堂、魚市場、文房具屋と宝石店)もまわりにはあるのだ。京都に住んでいる人は自営業の人が多いので、サービスは収入の主な源泉である。

2007/05/15

クロカル超人の面白翻訳 携帯翻訳 6 『スロヴェニア人が見た不思議な国・ニッポン』

街を散歩すると、いろんなものが見える。ものは大変近くにあってしかも豊富だ。しかし目に入る些細な問題もある。山ではなく木々を眺めるのはいつも最良だ。他の道を回って、ということは京都を散策すると少しずつ分かってくる。と同時に、実際に自分がいるところのイメージが掴めるようになるのだ。
もちろんビルが一番目に入る。古く伝統的なものが残っていて街に溶け込んでいる。他方、現代の建造物もあってそれは二つに分けられる。低い民家と高いビル(註。唖然とするが京都には高層ビルはないようだ)は、私が見たところでは、高低差のあるビルとの興味深い相関関係を指摘できると思う。それは街をとても生き生きとさせているのだ。遊歩道はヨーロッパよりも広く路地は狭い。そこには多くの民家が立ち並んでいる。さらにビルの形は機能面を重視した箱形になっているのだ。


2007/05/12

クロカル超人の面白翻訳 携帯翻訳 5 『スロヴェニア人が見た不思議な国・ニッポン』

私は12cm位積雪のあった冬のただ中のスロヴェニアを後にした。だから冬の服装で着飾って着いたため汗をかいてしまった。(ハンドブックのアドバイスに従ってそうしたのだが)。秋の気温を感じた。「この暖かな気候は本当に魅力的だね」と私の内なる言葉が過った。私は電車の窓の外の風景を褒めたい。
新しい住まいは京都市左京区にある京都大学国際交流会館だ。ヨーロッパを旅行した経験では、学生は絶対に贅沢さからは縁遠いことを認めなければならない。アパートのインテリアは古く擦り減っているし、技術的な問題の断り書きは何もないのだ。「留学生用にコンピュータルームとADSLの回線はあります」とね。しかしながら私が期待するのは、自分の所属する学部が提供すべき理想的な研究環境だ。
次の日から冬が来るが、セントラルヒーティングもないしスロヴェニアで使っていたものまでないのだ。暖房器具は動かないので私は電気ヒーターと余っている毛布を補助用にと親切にしてもらいながらも受け取った。外は風があり骨まで凍みる寒さのため、それらを使っても十分には役立っていないのだ。暖かな気候は今どこに?

クロカル超人の面白翻訳 携帯翻訳 4 『スロヴェニア人が見た不思議な国・ニッポン』 

こんな妨げられたイメージに応えたくないと思っていたので、私はガイドブックから実用的な情報を得、自分が実際に降りる場所を知ろうとしたのだ。そう、1年は環境充足情報として内部情報や過程情報を取得するには実質的には時間はたっぷりあるのだ。
私が期待していたことが最初に起こった。飛行中ずっと起きていたにもかかわらず、太陽が日本の上を昇って近づくにつれて私の視野に日本の海岸、船や関西国際空港が入ってきた。やがてだんだん近くなってきた。新しい日が明けるにつれて私は微笑みながら思った。「そうだ、自分がまさにしばらく住もうとする国のロマンチックな考えが現実なりそうなのだと」。日本は遠いかも知れないが、私たちの文化がつくられたような違いや頑固さを信じるべきか。いみじくも空港での規則正しさを見ることで私は次の日たくさんこういう光景に出会うことを予見してしまったのだ。つまり、日本人は例外的に親切であること、依存性が高いことそれに有能であることなどである。


2007/05/11

クロカル超人の面白翻訳 携帯翻訳 3『スロヴェニア人が見た不思議な国・ニッポン』 

身体の隅々まで“了解”をしていたものの、自分がやってきている環境はとても普通ではないような選択だと理解したのだ。確かに関心は大きかったが、自分自身としては人生上意義深い変化を差し出したつもりだった。
私たちの文化は日本について本当にステレオタイプ化している。日本は将来も発展する国であり、また歴史のある国と基本的に見られているのだ。また、一方では上品さは充分にあるし、リーダー的な経済と西欧世界の重要な要求に対する適応もある国と基本的に見られているのだ。私が受ける最近の日本のイメージは、伝統的な建築、芸者それに俳句の統合された情報のモザイクである。それは平均的な西欧人がテレビやインターネットを通じて受けるイメージだ。放送によって精神活動を拡げているのだ。

クロカル超人の面白翻訳 携帯翻訳 2 『スロヴェニア人が見た不思議な国・ニッポン』

              スロヴェニア人が見た不思議な国・ニッポン

  私はずいぶんと若かった。物事は目に見えるように存在するのでもなく、現前することでもないことに気づき始めた頃の私は・・・。15年前に独立し今日までヨーロッパでは全く謎の国のままでごく普通の意識レベルでもほとんど知られていない、そんな国土の面積が2万平方キロメートルで人口が200万人もない、所謂ヨーロッパのポケットからきた外国人の目で実体を観察すること、それは日本と日本人とはいかに違うだろうか。
どこで自分の研究をすべきか決断しなければならなかった時にまず最初アメリカについて考えたが、可能性と期待の点で熟考した後、日本へと自分の見方を変えたのだ。ほんの一瞬で最終結論に達した。決定的なことは、リーダー的な研究と世界の発展力としての日本の役割である。


クロカル超人の面白翻訳 携帯翻訳1 『スロヴェニア人が見た不思議な国・ニッポン』

 これからこのコラムである小雑誌に寄稿してもらった外国人の日本印象記を、書斎でなく机の要らない移動先でも気軽にできる携帯メールで翻訳を試みたい。これはある種の実験である。


スロヴェニアSi_2のマリボ-ル大学教育学部スロヴェニア語スロヴェニア文学講師のドラゴ・ウヌク氏は、JSPS(日本国際交流基金学術研究助成)在外研究員学位取得後研究の助成を受けて1年間京都大学大学院人間環境学研究科三谷教授の指導の下で言語学研究をするため、2005年12月に来日。この日本印象記はある研究者の紹介を得て彼の京都滞在中に4回に渡って書かれたものだ。ドラゴ・ウヌク氏はすでに研究期間を終え帰国している。1人のヨーロッパの小国の学者が母国語でない英語でしかもアジアの東端の初めて出会った国・日本を描く、これはクロスカルチュラルアスぺクトにぴったりのテーマだ。発想、ものの捉え方と感じ方、言語感覚や外国語に現れる母国語など類似と相違が読み取れるはずである。どれくらいの長さになるか分からないが、ともかく始めてみよう。その前にスロヴェニア国を拙い知識で一瞥。スロヴェニア国は中欧に位置し、旧ユーゴスラビアから1990年12月に独立した新しい国で北はアルプスの南麓、オーストリア、北東はハンガリー、西はイタリア、南東はクロアチア、そして南はアドリア海に接する人口約200万のカトリックの国。トレッド湖、鍾乳洞、中世の教会など歴史的な遺産の多い風光明媚なところ。首都はリュブリャナ(人口26万人。地震も多いらしい。写真はリュブリャナ城)。Ljubljanaskyline_1言語は南スラヴ語に属するスロヴェニア語(複数形の他に双数の概念もある)。登山・スキーの観光産業と農業だが繊維、電気機器、機械、自動車産業も発達していてGDPも高く最近EU(2004年)にも仲間入り。その歴史は被支配の歴史だ。国民はドイツ的影響を受け継ぎ勤勉。人口の割には文献学・文学・詩などの分野の学者を輩出。勿論有名サッカー選手なども輩出している。日本のそばと同じ食材のパンがあるらしい。ドラゴンは縁起が良いと言って店先などに飾られているとはテレビの受け入れ。筆者は行ったことがないので詳しいことは分からない。スロヴェニアについては2006年6月18日付筆者のコラムを読めば多少参考になるかも知れない。
Slovenia where love can be found.
追記。筆者は今言語学者・チェコ語学者、千野栄一の『言語学フォエバー』を読んでいるが、その中でスロヴェニアについて書かれた面白い文章に出くわした。スロヴェニアでは狭い国土にもかかわらず方言が結構あって、北と南とでは言葉が通じないと驚いていた。やはり山岳地帯と海岸沿いの地域では地理的地政学的条件が違うからか ? 日本でも東北地方の北端、青森の津軽弁と九州地方の南端、鹿児島弁とでは"通訳"がいないとお互いに意思疎通が出来難いと言われている。それも近年マスコミの発達で薄れてきて標準語化しているが。


2007/05/10

超人の面白ラーメン紀行 64 品川区大崎『平太周 味庵』

200705101301000_1東急池上線大崎広小路駅から右に山手通りを歩いて1、2分のところにあるラーメン専門店『平太周 味庵』。立正大学の真下、JR五反田駅からも歩いてもそう遠くない距離だ。この店は環七ラーメン系で板橋本町の『平太周』で修行した人が店主だそうな。背脂の独特な味がこの店の特徴だ。太麺で脂多めの大盛でと言って注文をしていた中年の男性もいて人気があるみたい、この背脂。筆者は味玉子も入った特製味噌ラーメン(900円)を注文、トッピングのチャーシューは軟らくて美味。スープの味噌味は多少塩っぱいかな。麺はストレート系でもちもち感もありまあまあ。暑かったけれど完食でした。ラーメン650円、味噌らーめん750円、特製ラーメン800円、つけめん750円、つけめん味噌だれ850円。トッピングのチャーシューは300円。このチャーシューは食べてみる価値があるかも。カウンター12席の黒を基調とした木の温もりが感じられる店。
『平太周 味庵』①スープ★★②麺★★③トッピング★ ★☆④接客・雰囲気★☆⑤価格★★☆
ところで、最近「缶詰ラーメン」なる商品が発売されて評判らしい。伸びない性質を利用して麺はこんにゃくを使用、お湯を注がなくとも食べられるらしい。定価300円、最初の7万個は売り切れで100万個以上製造予定とか。ある機械メーカーが新宿の『麺屋 武蔵』と共同開発したらしい。それにしてもうまいのかなぁー。


2007/05/06

超人のちょっとした面白雑誌調査 雑誌「暮らしの手帖」

図書館から借り出した雑誌が長らく手元に置いたままになっている。早く返せと図書館から催促もきている雑誌だ。創刊号から約10年刻みの『暮らし手帖』バックナンバー7冊である(ほとんど合本分)。1948年(昭和23年)創刊から1994年(平成6年夏号)の分だ。関心のある雑誌の調査・分析をしてみようと、ある会社のある部署の活性化のために筆者が個人的にアイデアをだしたのだ。その部署の人間たちと筆者も関心のある共通のもの(これがなかなかむつかしい)を題材にして現状打破を図ろうとする試みで、現実に役立つ良いヒントを引き出そうと考えたのだ。誰でも分かっている健全と言われている雑誌の栄枯盛衰から学ぼうというヤボな企みでもある。そして締め切り期限ギリギリのところで書き始めている。

これは あなたの手帖です

いろいろなことが ここには書きつけてある

この中の どれか せめて一つ二つは

すぐ今日 あなたの暮らしに役立ち

せめて どれか もう一つ二つは

すぐに役に立たないように見えても

やがて こころの底ふかく沈んで

いつしか あなたの暮らし方を変えてしまう

そんなふうな

これはあなたの暮らしの手帖です

「暮らしの手帖」は大橋鎭子と花森安治よって昭和23年9月に東京銀座で創刊した。これは創刊2号の花森安治の生活革命宣言とも受け取れる文章である。これがこの雑誌の哲学であり、全てはここから始まりここで終わる。新しい婦人の日常生活革命である。女性の生き方を変えたい、だから創刊号から何年かは"美しい"暮らしの手帖になっている。創刊号Img124の表紙は手作り感のある字体、小物などがさりげなく置いてある女性の部屋、A4変形判、96ページで定価、110円(季刊)。広告なし(企業に媚びない一貫した姿勢を貫くためで最近号まで広告はない)。執筆者は佐多稲子、扇谷正造、中里恒子、田宮寅彦、川端康成、戸板康二、など40名。実用的なものの工夫に溢れているが、2007年の現時点から照射したとき、小物入れ、髪形、直線裁ちのデザインから始まって指人形の作り方、服飾の読本と当時の世相、感性というかセンスが浮かび上がってきて斬新さがある。時代の移り変わりで変わって行くものと変わらないものとが如実に現れている。サザエさんの髪型はこの当時の流行だった ? 筆者は服飾 、デザイン、ファッションには疎いが関心はある。創刊号のあとがきは約1430字、むつかしい漢字はほとんどなく、むしろひらがなで平易に書かれているが、メッセージは明確である。むつかしい議論やもったいぶったエッセーは載せない、売れるはずはないが一冊でも売れてほしいという文章からは編集者の複雑な心情吐露が窺える。戸板康二の歌舞伎ダイジェスト、舞台装置家、吉田謙吉のすまゐのたのしみ(一畳から六畳まで具体的に書かれている)が面白い。第2号のあとがきでは写真をもっとの読者の声に応えた形でページを倍にした話、約10年後の1959年(昭和34年)、第50号は表紙のレイアウトも変わり、ページ数も250ぺージに増えて、定価160円(年5回刊行)。あとがきで部数は50万部を昭和32年1月に超え、雑誌作りとは一つの流れを作っていくことだと花森安治は言っている。50号で75万部、創刊時7人が22人に増えたスタッフそして大橋鎭子が「独創的な作り方」でアメリカのペアレンツ賞を外国人で初めて受賞した話などが盛り込まれている。ちょうど手元に昭和24年〜昭和31年頃までのバックナンバーがないので何とも言えないのだが、恐らくはこの創刊3年後〜7、8、9、10年後がこの雑誌の推移を見る大事な過程の一つだろう。朝鮮戦争の特需、もはや戦後ではない昭和30年、それは太陽族も生まれて明るい時代の兆しが見えた時代と符合する。このとき生活様式も変化したのである。『暮らしの手帖』は時代をとらえ急激に部数を伸ばしたのだ。
この50号では暮らし、すまい、料理・食べもの、工夫・工作、買い物、こども、健康と分野が分かれている。小児科医の松田道雄、数学者の矢野健太郎の文章も入る。第49号で創刊号から揃えて下さいと言っていて次の号の第50号ではバックナンバーを絶版にして下さいと書く。暮らしの速さで変わってしまい役立たないのが理由である。だからバックナンバーには〜世紀と節目の号から付いているのだ。

11年後の1969年(昭和44年春)第100号Img125の表紙は記念号とあって既刊雑誌の表紙を配した真ん中に100の数字入れて金色の表紙で飾る。ページ数229ページ、広告ページ7ページ、定価260円。この雑誌の目玉ページの商品テストが導入されて11年目、その意義を20ページにわたって具体的に示す。良質な読者の獲得、筆を曲げない編集方針、編集者雑巾論(編集者は何年かやっていると、チエのほうがスリ切れてくるから、雑巾と同じで、適当な頃あいをみて、新しいのと取りかえるのがよい)の意義申し立て、職人的な才能を要求する等々自信のほどをあとがきに記す。花森安治は職人的編集者と記しているが、編集仲間は彼の徹底したこの姿勢にときに物が飛んできたり、怒鳴られたりと大変だったと社長だった大橋鎭子は、いつだったかの毎日新聞のインタビューに応えていた。暮らしの手帖を通じて見た戦後の3年間、なにもなかったあの頃という写真と文章、小品を集めた雑記張欄、おべんとうなどを掲載。

1977年(昭和52年)第150号、総ページ197ページ、定価520円(年6回刊行)、1986年(昭和61年)第200号、総ページ195ページ、定価700円、2000年(平成12年)、総ページ204ページ、定価900円、2007年春(平成19年4月)、総ページ194ページ、定価900円(この最新号2007年春号は書店で購入)。1970年代に筆者は六本木にあった暮らしの手帖社を尋ねている。玄関が透明ガラスでオフィスは細長かった。買切商売で売ってやるといった態度だった。この会社の印象が多少悪かったことを記憶している。

花森安治から編集長が松浦弥太郎へ。これは新聞でも賑わして話題になったが、花森が言う初期の良質な読者が高齢化し段々と読者の数が減っていて部数が落ち込み、再構築に迎えた40代の人に新生暮らしの手帖を託した。すでに花森安治は鬼籍。最新号2007年春号(平成19年4月)Img126_1のあとがきで松浦新編集長は、開拓の仕事と題して欲することを自由に試みる正直さと強さを持ち読者の声を糧に歩む、そしてていねいにと書き記している。これは筆者には伝統と意識革命と読み取れる。最新号を見ると表紙の字体も変わり、文字とイラストの割合も変わって、以前よりは若い層を狙っているなとすぐ分る明るい表紙になっている。花森安治のあの有名なテーゼ、「これは あなたの手帖です・・・」の宣言はそのままだ。新しく号毎にテーマが掲げられ、今号は「工夫と発案」。紙質も白っぽく、光沢のあるアート紙ではなく以前より軽い。レイアウトもそう変わっていないように見えるが、ところどころ色合い、段組などデザインが今風に変わっている。色が鮮やか、書き手も変わり、ざっと読んだところオシャレに変身したようだ。買い物案内のページなど一歩現代の日常を切り取ったテーマへ、分りやすくやわらかくなったということもあるが、一番変化したところは広告のページかも知れない。通販のカタログよろしく仕掛けが施されている。いつの間にかステータスになりブランド化して一種の胡坐をかく存在になっしまっていて内容の切れ、濃さ、スマートさが失われ、こんなはずではないとの傲慢さが徐々に読者離れを引き起こしたと推測する。カリスマ性の神通力が弱まっていたことも一因だろうか。ターゲットが見えなくなってきた、つまり時代精神とズレてしまったことをこの雑誌は痛いほど味わったのではないか。変化の激しい現代がその高らかな創刊の生活革命の言辞を維持できず形骸化の謗りを免れず走ってしまっていたというのが素人の筆者の見解である。だから新編集長は開拓の精神とそこに創意と工夫をさらに盛り込んで読者の声に耳を傾けなければ理想で終わってしまうことを感じていると思う。会社を維持させていくことはいつの時代もむつかしいことだが、やはりここは時代から謙虚に学ぶことだと思う。それが筆者の結論である。多少途中スルーしたが詳しくはまたの機会に譲りたい。

追記 筆者がこの記事を書いて9年以上が経過した。『暮らしの手帖』社 の大橋鎮子社長がNHKの朝ドラのモデルなるとはサプライズだが、朝ドラ「とと姉ちゃん」は今視聴率20%台をキープしていて大人気だ。この記事もつい最近浮上してきた。ついでに拙文を見直して訂正したところもある。(2016.7.13 記)

追記2 NHK朝ドラ「とと姉ちゃん」があと少しで終了だ。平均視聴率が22%台と好調を維持、しかし、可笑しくて笑ってしまうこともしばしばだ。その一つが長年の暮らしの雑誌文化を牽引してきた功績で出版文化賞をもらうシーンで、そのテレビインタビューを受ける相手のアナンサー役が阿川弘子だった。これにはあのおばはん、朝ドラにも進出してるんだ、と思わず苦笑。役どころが良かったかは少しクエスチョンがつく。TBS土曜朝の対談番組を見ているだけに何だかフィクションなのに妙にリアル、奥深さが今一だった。“アダモちゃん”ことタレントの島崎も出ていた。雑誌編集のカメラマン役で・・・。プロデューサーの受け狙い登用と思われても仕方ないかとも(2016.9.30 記)。

2007/05/05

超人の面白読書 25 金谷武洋著『主語を抹殺した男 評伝三上章』 3

  この本の書評の続きも3回目。話を叔父の三上義夫に戻そう、と書いてからすでに3ヶ月近く経ってしまった。その間何も考えてなかったと言えば嘘だが、なかなか手付かずにいたと言ったらいいだろうか。
さて、『文化史上より見たる日本の数学』を45歳になって上梓した叔父の三上義夫。この叔父を語ることは三上章の思想を語る上で絶対的なものと著者には映る。それは三上にも共通する現場主義の土着思想だ。帰納的、具体的である言わば虫の視点だと著者は書く。和算史の事跡について全国調査を開始、それは神社仏閣の絵馬として掲げられる「算額」(数学の証明)であるが、三上義夫は算額を奉納する理由を和算が学者の研究心を刺激する競技であったからだと説明する。実用を離れて趣味性に注目、その特徴を「改善」のプロセスにあったと著者は推定する。そして彼の著作、『文化史上より見たる日本の数学』の一部を引用している。
  
和算家は一つの問題を分析してその解答を得るための手段を演段と称した。この演段もしくは解義を試みる。そうして誤りを発見したり、迂遠なところがあれば、どしどし訂正して別の書物を公刊する。他の人はまたこの書物の問題について解義を施し、さらに訂正を加える。和算は大半、解義だけで成り立ったといっても過言ではない。

西洋人の目からは、この解析方法が極めて不完全に見え、西洋数学の結果を知って試みたもののように、解せられることもありがちである。しかしながら和算家の好んで使用した論理過程が、如何なるものであったかを考え、その前後の事情等を参酌するときは、ここに極めて日本的のものがあることを認められるのである。

著者は三上義夫の西洋至上主義を批判した文も引用しているが、甥の三上章が文法研究で望んでいたのは和算の世界に見られた自由な論争と相互の啓発にあっのではないかと三上章自身の『文法小論集』からも引用している。

私の主語否定論もずいぶん長い。その間、自分自身では変説の可能性を留保していたつもりである。納得できる反論に出会ったら、いつでも肯定論へくらがえするという用意である。しかし、目にふれた範囲では、ついにそういう反論に出会わなかった。もう変説もできないと思う。

著者はここに口惜しさと命がつきるのを見つめている静けさがあるという。三上の代表作が同じ構文の「象は鼻が長い」をタイトルにしているのは、この論争が、じつは「主語」という日本語に要らない概念のために引き起こされた擬似問題であることをわかりやすく説明するためでもあったが、論争できる知的土壌はすでに失われた、時代は変わったのだという無念さが伝わってくると著者は書く。三上義夫の論文も当時の数学学界から文化史と位置づけたのが悪いなどと罪のないところで学士院からも降ろされたりして無視された。晩年は研究を陰で支えた妻にも先立たれ、終戦後の農地改革で土地さえ失ってしまいながら不遇な日々を送ったらしい。

Img123その後三上章は助詞「は」の研究、「陳述論」(著者解説:「鳥が飛ぶ時、」と「鳥は飛ぶ時、」を比べて、前者では何をつなげてもいいが、後者においては「鳥が」、たとえば「羽がこんなふうに動かす」と、言い切りの形にしないと収まらないことに注目。宣長が係り結びの法則で発見したように、「は」は終止形と呼応するからである。それを発展させたのが山田文法の「陳述論」、いっぽう三上は、山田の「言い切り」を認めた上で、さらにそこからの視点を転じ、「鳥は」が「飛ぶ時」をはるかに超えて、つぎへつぎへと係っていく事実に注目。しかもそれぞれの述語との文法関係を超越した係り方である。「鳥は」が節や文を超えること。これこそが、語幹の「tob−」までしか係れない「鳥が」との決定的な違いなのである。三上において、山田の陳述論はさらにわかりやすく射程の長い「コンマ超え」や「ピリオド超え」へと発展・改良されたのである。本文P.193からの引用)の山田孝雄と出会い大いに影響を受ける。この山田孝雄も橋本進吉の文法に学校文法採用の点ではその発想の豊かさにもかかわらず負けた。しかも山田は学歴が中学中退、一方の橋本は東大卒ということで当時の文部省の役人の思考停止が働いたのではないかともいう。その橋本進吉の弟子が大野晋(日本語の起源はインドのタミル語が起源と唱えている国語学者だ。最近では岩波新書の『日本語練習張』がベストセラーになったことは記憶に新しい)だ。彼は橋本文法批判をしていた三上章を『日本の言語学』(服部四郎編ほか共著1978年)のなかで主語廃止論について述べ、また助詞代行理論研究に賛成しかねないことを書いている。三上文法を無視していると著者は噛み付いているようだ。そして、最近の国語学界から日本語学界への改称を機会に保守的で旧態依然の体質を改める必要があろうとも言っている。筆者も賛成だ。

三上章Img122_1は、八尾での長い数学教師の生活をしながら文法研究を続けることから解放され、1965年、新設の大学である大谷女子大学の国語学の教授に就任する。著者はこの晩年の時期の三上章の言動を伝える"笑えない"エピソードを紹介している。久野によりハーバート大学へ招聘されるも精神を病み早めに切り上げるハプニングもあった。相手の心を見透かすように冷静な視線とか授業でチャイムと同時に教室に入るが同時に、講義終了時のチャイムが鳴るとたとえ話半ばであっても、ピタリと止めて教室を出てしまう離れ業とかもあったらしい。ゴールデンバットは手放さず肺と精神はますます病んで行ったというのだ。淋しい晩年と言うべきか。1961年、八尾市立病院で肺癌のため死去。享年68歳だった。この著者のいう「街の文法学者」を支えた妹茂子の功績は絶大であったと思う。ところどころ入り子構造風に挟まれて前後関係が読みづらいこともあったが、"評伝・三上章"はこのカナダの日本語学者の手で書かれたことを読者は喜ぶべきかも知れない。この著者は三上章の評伝を書くことが念願だった。作家の高田宏の協力など資料収集過程ではいろいろとあったと著者自ら書いているが、その甲斐はあったと思うのだ。これはまさに知的外圧だ。
最近の季刊雑誌「iichikoNO.92 特集 日本語の文化学」(定価:1800円 発売:新曜社 発行:2006年10月31日)での三上文法、ネット百科ウィキペディア(瞠目すべく内容もあるがそうでないものといまところ玉石混交だが)と三上文法に対する関心は益々増しているようだ。2003年の生誕100年記念の「三上章フェスタ」では一人の文法学者の業績でフォーラム開催は前代未聞の快挙と関係者は喜んだ。著者金谷氏もこのところ三上文法の知的伝道師として関連著作も多い。日本語には文法論をはじめ音韻論、形態論、類型論、統語論、意味論、語彙論、方言学そして日本語系統論他まだまだ科学的な研究の研鑽を積んでいかなければならない分野がある。三上文法はその日本語研究のパースペクティヴをこの著者の手でやっと示したのだと思う。
『主語を抹殺した男 評伝三上章』(定価:1700円 講談社 2006年12月刊)

超人の面白読書 26 第10次「早稲田文学」0号などを読む

Img120_1届いたばかりのフリーペーパー「WB」VOL.7~VOL.9、「早稲田文学0号を寝転びながら読んでいたら、小特集 寺山、発掘のページに出くわした。その中からこんな若い時の詩があったみたい。

「風」より五篇から一部を引用してみよう。

若い手帖

     1

たとえば5月の星を百万までも数えようとする。
大きな椅子の
上にやわらかな平衡がある。
少年よ。 一体ぼくはどこにいて、そして待つ
ているのだろうか。

     2
  
バラの色の雲を破つて足の長い郵便夫があらわれる。
彼はとても若いので<幸福>にスタンプは押さな
い。
少年の内にいる僕が耳をすませば僕を訪れる森の
少女のソネット。

     3

忘れたふりをすることは愉しいことである。そう
だ、僕は
おまえをしらなかつた。
- たそがれ、展覧会の画の前で僕はひとり言を
  つぶやいていたのだつた。

     4

  <あれはほんとの青空だよ>
  <おまえの頬にアプラクサスを書いてやろうか>
  <知らないね>
    
     5

枝に時間がひつかかつた。山羊が教科書の方で鳴いている。
失くしたくないので僕は何も考えはしない。マクダエ
ルの牧歌がキヤベツ
に沈むとちよつぴり涙ぐんで貪欲を増す

     6

あゝけれども4Bの鉛筆で夜を塗ると星が無限にで
てくるのだ。
この星の光りはしかし決して一瞬もおなじではないのに
僕はどこにいるのだろうか。
そうしてだれを待つているのだろうか。
               (1955年、「風」」1号掲載)


私撰百句
雲は飛ぶ教室である から。

花売車どこへ押せども母貧し

沖もわが故郷ぞ小鳥湧き立つは
青む林檎水平帽に髪あまる

西行忌あほむけに屋根裏せまし

方言かなし菫に語り及ぶとき

燃ゆる頬花よりおこす誕生日

「風」は早稲田大学教育学部国語国文学科のクラス誌として1955年から3年間発行されたと註にある。これは若き日の寺山修二の一面を大いに見せてくれる詩篇そのもの、中に有名な詩句が見え昔読んだ。懐かしさとイメージの豊穣さと独特の語句の使い方の妙技にやはり感心したのだ。

いゃ-、参ったな、これは新潮社の小説新潮別冊の「yom yom」とそっくり、ページ数が33ページ足りないくらいで紙質、版型も同じなのだ。定価が331円高く割高感はあるが、前から後ろからも読める遊び心あって、面白いかな。「yom yom」の読者を喰うか ? しかし最近では文芸雑誌の運営は、大変でこの老舗の雑誌も例に漏れず模索中なのだと思う。斉藤美奈子×森達也の対談も面白い。「WB」200705051340000「WB」9号の現代作家が選ぶ世界名作シリーズは第9回目、金原ひとみがイタリアの作家、アルべルト・モラヴィアの『軽蔑』を選んでいた。第8号の初活字化公演(1985年にフランスの高等師範学校での公演) 中上健次 三島由紀夫をめぐって(抄)、その他モブ・ノリオ等等、寺山修二のジュリエット・ポエツト レーナの詩もあった。午後の陽射しを浴びてまた読もっと。 

2007/05/04

5月の詩 『MARUNOUCHI』

      5月の詩

  MARUNOUCHI  

 麗しき5月とはある有名なドイツの詩人の言葉  今クラシック専門局から溢れ出るドイツ歌曲  そして春の川の調べ チェロ・ソナタ・ト短調  OTTAVA  お- ! タバネタhealing melody  ゴールデンウィークも晴れて  零れ落ちる緑の匂いに負け  喧騒の都会をひたすら歩く  OTTAVA  NEW STYLE NEW LIFE  OTTAVA  ここは丸の内現代の聖ジュンたちのダンス  熱狂する音の饗宴  OTTAVA  MODERN LIFE NEW STYLE  OTTAVA  いつも通勤で東京駅はSUIKA 新丸ビル直通の地下鉄駅はPASMOImg119_1 そして横浜郊外のT駅からはバスモ  OTTAVA  OTTAVA BATABAVA  OLD PAR NEW STYLE  君知るやレモンの花咲く国とはドイツの有名な詩人の言葉  今やドイツでもフランスでもそしてイタリアでもなく  コスモ パスモ マリモ  MARUNOUCHI  OTTAVA  OTTAVA  NEW STYLE NEW LIFE  ドビッシーの牧神の午後  ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン  コノヒビキハ ニホンゴジャナイ  かつて詩人の中原中也はこの界隈の朝の光景を唄って  こう叫ぶ  出て来るわ 出て来るわ ぞっするほどの人ヒトひと  そして70年以上が経って かつてのロンドンのシティを模したビルヂィングは 花でうめつくされ  ポスト ポストモダーンと生まれ変わった  OTTAVA  OTTAVA OTAWA  誕生はいつも受身  WAS BORN    決して無駄骨にしてはならない

2007/05/03

超人のジャーナリスト 63 エストニアで旧ソ連碑衝突事件

「占領」か「解放」かの見出しで今日(2007年5月3日)の毎日新聞朝刊「人びと 民族 地球」の欄でエストニアの首都タリンで先月26日から27日にかけて発生した旧ソ連兵の記念碑撤去問題でロシア系住民らと警察官との衝突をきっかけにロシアとエストニアの間の緊張が高まっていると報道。毎日新聞の記事によると、モスクワのエストニア大使館前ではプーチン大統領の親衛隊集団が27日から連日、抗議集会を開き、大使館は2日、主要業務の中断に追い込まれた。エストニア政府は先月26日、今年は初めの国会決議に基づき、タリン中心部にあった旧ソ連兵の記念碑を撤去し、郊外の軍人墓地へ移転する作業を開始した。これに抗議するロシア系住民が同日夕方から記念碑周辺に集まり、解散させようとした警察官と衝突。1人が死亡、市民44人が負傷したほか、一部が暴徒化して市内の商店を襲撃。計約1100人が拘束された。今月8日に移転先での記念碑の除幕式が予定されている。この記念碑はエストニア国民の約3割にあたるロシア系住民とっては第二次大戦後をナチス・ドイツから「解放」した誇りあるソ連の象徴。だが大半のエストニア人には旧ソ連による象徴で、毎年5月9日の戦勝記念日には、記念碑周辺で双方の小競り合いが続いてきた。カリユランド駐露大使は事件後にエストニアを訪れたロシア議員団がエストニア首相辞任を求める声明を発表したことなどに触れ、「ロシアは一方的な態度を取り、建設的に対話を拒否している」と非難。これが記事のあらましだ。ここで思い出されるのは1991年に旧ソ連崩壊後のエストニアの独立回復である。この様子は日本でも連日テレビなどで報道されたので記憶に残っている。確か大学の研究者らが先頭に立ち当時のロシアの圧力にも屈せず独立を勝ち取った。このことが強いては東欧の国々にも独立の波が派生していった経緯がある。そもそも歴史的にも言語、民族も違った隣国の小国を力ずくで押さえつけることは問題だとしても、モザイク的な国の事情を考えると政治、経済、軍事上ではなかなかデリケートな問題も含んでいて、遠くこの東アジアの日本国に住んでいる筆者には一刻も早く平和的解決をと願うばかりなのだが。

この日本国では今日5月3日は戦後憲法制定して60年目の節目の記念日である。護憲か改憲かでゆれるこの国は、ロシア他ヨーロッパで見られる新右翼の台頭まで行かなくとも右傾化の風潮が以前より増加しているようだ。いつか来た道を辿らぬよう平和憲法は守っていかなければと願って止まないのは筆者一人ではないはずである。議論を煮詰めないまま憲法改正へでは解せない。国の進むべく道を為政者ばかりに任せるのではなく、国民投票で賛否を問いながらみんなで考えることだ。毎日新聞の今日の社説は"平和主義を進化させよう"だ。

下記はこの事件を伝えるThe Baltic Times の電子版。

NEWS

Relocated Bronze Soldier to be unveiled May 8 Apr 29, 2007 From wire reports

Estonia’s defense minister Jaak Aaviksoo announced Sunday that the Bronze Soldier monument, whose planned removal from central Tallinn sparked two nights of violence and looting in the city, will be unveiled in its new location on May 8. Photooftheday_1 The unveiling will be part of a solemn ceremony to commemorate the defeat of fascism at the end of World War Two. Representatives from countries that made up the anti-Nazi coalition have been invited to attend the ceremony, and Estonian politicians and war veterans will also be present, the minister added. The unveiling comes in time for May 9, the day Soviet Army veterans traditionally gathered at the Bronze Soldier monument when it was located at Tonismagi, in central Tallinn. Veterans groups had vociferously opposed the monument’s relocation. Archeological work continues at the Tonismagi site to identify the remains of 13 or 14 soldiers who are thought to be buried there. The grave monument is to be placed in a military cemetery near Filtri Street. The minister expressed hope that it will be possible to show the monument on Monday too. The Estonian Defense Ministry said that works to prepare for re-erecting the monument in the military cemetery in Tallinn started on Sunday. It said the cemetery of the defense forces was a respectable place of burial for the soldiers buried at Tonismagi and the only cemetery where it was appropriate to commemorate the war dead, because it has been a final resting place for the military since it was established. The soldiers buried in the cemetery are people of different nationalities, including Estonians, Germans, Russians and Britons. All over the world it is customary that fallen soldiers are buried at a common site regardless of what country's uniform they were wearing, the ministry said. Aaviksoo underlined that the Estonian state respected the memory of all victims and fallen soldiers of World War II and valued highly the contribution of the nations who selflessly fought against aggressive totalitarian regimes in the name of crushing fascism and Nazism. "Likewise Estonia condemns the activity of all those who committed crimes against humanity in its territory and carried out mass repressions," the defense minister said. Russian politicians had been using the controversial relocation of the monument to paint the Estonian state as pro-Nazi. Many Ethnic Estonians, however, wanted the monument relocated because they see it as a symbol of Estonia’s occupation and oppression by the USSR.

MORE NEWS

Saturday night passes calmly in Tallinn

Second night of rioting hits Tallinn

Signatures still needed

Government begins discussing presidential candidates

Latvia draws closer to security referendum

Russia, Estonia, and the EU: the saga of the bronze soldier continues

Latvia no longer dependent on World Bank

City protects historic bar European presidents meet in Riga

Tula offers to receive Bronze Soldiers' remains

2007/05/02

超人のジャーナリスト・アイ 62 再び両用車両(DMV)の記事

Img117_1JR北海道が世界で初めて実用化した線路と道路の両用車両「デュアル・モ-ド・ビ-クル(DMV)」の試験的運転が14日、オホーツク海を望む釧網線で始まったと4月14日付毎日新聞夕刊が報じている。去年の11月29日付のこのコラムでも書いたが、この夢の乗物が実用化すれば地方の廃線の憂いの目に合っているところでも再生の可能性が見出せるかも知れない。記事はこう続く。第一便は午前9時20分に浜小清水駅(小清水市)を発車。藻琴駅(網走市)まで11㌔の線路を約15分で走った。復路は鉄輪を車体下に収納してマイクロバスに変身し、国道244号を走った。定員の12人で埋まった車内はガイドの宮本絵美さん(25)がDMVの特色と魅力を紹介した。6月まで土、日と祝日に1日3往復する。7月から復路のルートを変更し、濤沸湖の南側の湖畔をたどる。ぜひ乗ってみたいなぁ-。強風には大丈夫かしら。【写真左上:道路を走るDMV 毎日新聞から】

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