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2006/10/09

超人の面白読書 22 岩波新書『』を読む 2  

  第四章「戦後民主主義」の構想 1 焼跡からの出発の項の冒頭で著者は、1994(平成6年)年1月の雑誌『現代思想』の特集で小説家、埴谷雄高のエッセー「時は武蔵野の上にも」が異彩を放っていると書く。埴谷雄高の親友、武田泰淳が1957年(昭和32年)に杉並区高井戸に移った頃から武蔵野市吉祥寺に住んでいた丸山と同じく吉祥寺に住んでいた埴谷と竹内好とは家族ぐるみの交流があってこれは武田、竹内が世を去るまで続いたらしい。桑原武夫、森有正と並んで日本三大おしゃべりと自他ともに認めていた様子が埴谷雄高の回想で紹介されていて面白い。

  の携えきたった思索内容は、さながら数マイルに及ぶ弾帯を備えた機関銃の無限発射のごとく切れ目もなくつづきにつづいて、横にいる私が、いまとまるか、とまるか、と時折息を切る相の手をいれてみるけれども、停まらないのである。自宅を出たとき、また、短い距離を歩いていたとき、何かの核心と核心がつながっているかのごとき内面を携えていたに違いないけれども、竹内家に到って数語を発したと途端に、この世界の地水火風も、生の人情の機微も、階級社会の構造も、つながりにつながって、は喋りとまらないのである。これはもはや内面のトランス状態であるのであって、たとい自身がとめようとしても、精神の自動機械と化した原言語発動は、宗教のなかに時たまある。お筆先、以上にとまらないのである。

終戦直後開放の空気のなか、知識人たちは、政治上の路線や大学での専門、学問、藝術といった大きな分野の違いをこえて、さまざまな集団を結成して活動をはじめた。丸山自身も青年文化会議、思想の科学研究会、未来の会、清水幾太郎らによる20世紀研究所やマルクス主義者の学者が主流を占める民主主義科学者協会にも参加していると書く著者。終戦直後、当時誰でも価値転倒した社会に一方で開放、他方で不安を持ちえて彷徨っていたのかも知れない。
はまた、「明治維新のときを追体験した気がしました」と本人が回想している庶民大学三島教室で普通の労働者や主婦たちにむかって講義を行っている。彼ら参加者は貪欲に知識を求め、盛んに質問することを通じて、吸い取り紙がインクを吸い取るように学んでいたし、一方向の啓蒙活動ではなく教えられに行くお互いの発見の場であったと著者は丸山の回想記などを引用して書く。戦後2,3年ほどのあいだにこのような知識人も庶民も、さまざまな集団を結成し、集団がたがいに交錯する状況が現れていたらしい。共産党の合法化にまで及ぶ占領改革に驚き、あてがわれた自由に対し戦後初めての講義ではこう始まる。

  われわれは今日、外国によって「自由」をあてがわれ強制された。しかしあてがわれた自由、強制された自由とは実は本質的な矛盾ーcontradiction in adjectoーである。自由とは日本国民が自らの事柄を自らの精神を以って決するの謂に外ならぬからである。われわれはかゝる真の自由を獲得すべく、換言するならば、所与としての自由を内面的な自由にまで高めるべく、血みどろの努力を続けなければならないのである。

徳川にかつて仕えながら明治政府の官僚に転じる学者たちを、痛烈に批判した福澤諭吉の先例も、丸山の念頭にあったとし、新憲法についても、その内容は支持するものの、時流に軽々しく乗るかのような姿勢を示したくないという気持ちから、政府による憲法普及会の講師になることや法改正の委員への就任は断り続けたという。日本国憲法第九条にはその軍備放棄の規定は、軍事的国防力をもたない国家という、新しい国家概念の登場を意味すると解し、高く評価した(今この憲法第九条をめぐる改正論議が盛んで9月に誕生した保守色の強い安倍内閣でも憲法改正方向を強く打ち出しているが、今日の新聞では北朝鮮の核実験実施の問題を扱ったニューヨークタイムズなどアメリカのマスコミは日本は核を持つとなると一年以内に核準備は完了可能だし韓国も持つのではないかとの脅威論を載せている)。軍備を廃したあとで、他国が攻めてきたら、当座の対応としてはどうするか。丸山はその仮想質問に、あなたは一般人民の自己武装(民兵)を許す用意があるのかと揶揄して答えるが、個人による武装抵抗を、本気で支持していたかどうかは疑わしいと著者は書き、米軍の日本駐留と日本の自主武装の双方を原則として否定するほかに、防衛政策論にふみこむことはなかったと書く。

  2 「天皇制」との訣別の項では天皇制を君主制や皇帝制の制度一般ではなく、あくまでも日本に固有の「精神構造」として問題化したのである。この立場をうちたてた論文「超国家主義の論理と心理」は創刊間近の『世界』1946年5月号の巻頭を飾ることになる。この論文は、頂点の天皇までをも支配する日本社会の病理に対して、「個性の奥深き底」から呼びかける「良心」によって行動を律する、「純粋な内面的な倫理」を各人が確立し、「自由なる主体的意識」を育てるようよびかける倫理の観点からする「天皇制」批判だったと著者は言う。そして丸山はこの論文にによって論壇や文壇にその名を知られるようになる。近代史家、坂野潤治は丸山の議論はあまりにも「包括的、体系的」が高く、「明治から敗戦まで、権力の頂点から末端までを包摂しきった「超国家主義」は、いわば空気のごときもので、分析意欲を阻喪してしまう」と苦言している。その諸論文を歴史記述として吟味するかぎり、こうしたさまざまな批判も、決してはずれていないと著者は認める。丸山は腹を割ったり、肝胆相照らしたるストリップ趣味を終生拒否し続け、それは情緒によるずるずるべったりするような一体化から精神を引き離すべきだという提言を自身にもあてはめた自己規律であったが、同時にまた、その日本社会批判の出発点にあるものを読者に見えなくさせた。そう書いて著者は、みずから招いた悲劇とも言えるかもしれないと結論づける。そして、身内からも理解されず攻撃をうけることになる。戦後に雑誌記者をへて日本のフリーライターの草分けとして活躍した6歳年下の弟、丸山邦雄が1968(昭和43年),年大学紛争のさなかに発表した著書の一節を引用する。

   あの時代に、天皇制軍隊のなかで、テキさんを殴れなかったような兵隊は、スーパーマンにひとしい勇者といってよい。そんな人間もいたかもしれないが、たとえいたとしても、とうてい生き残れなかったということだけは、たしかである。そういう英雄の存在を、隣でヤブにらみしながら、ただじっとうずくまっていたのが、戦後になって反戦文学、反戦映画などをつくり、日本軍国主義者の精神構造などを分析したりしてカッサイを博したのだ。

この丸山邦雄は、四人兄弟の末っ子でただ一人勉強を嫌い帝国大学に進めなかった。両親から見放され、会社勤めの後に早稲田の仏文科へ編入するが、母の死と終戦の衝撃で中退、家出し焼跡のなか食うや食わずの生活をへて記者となる。結婚して千住柳町に住み、エリート・インテリの巣窟の実家では味わえなかった下町の人情にふれ人生観が変わったという。新左翼と全共闘を支持、東大教授の鼻もちならないエリート意識、聖域意識と、アジアに対する経済支配を批判しない戦後民主主義の欺瞞性とを攻撃した。保田與重郎の作品を愛読、戦場での死にあこがれ出征したものの不運にも入隊直後に熱を出して勤労動員に回され生きのびた。仲間が死に自分が生き残ったのはなぜか。終戦後ずっと、その運命の不合理さを自問している者としては、精神構造を筋立てて分析して見せられても、ただただ腹がたつだけなのだ。同じような批判を丸山に加える読者は多いが、この弟ことをみなが忘れているのは、いったいどうしたことだろうかと著者はこの章の終わりに疑問を投げかけている。

第五章 人間と政治、そして伝統の章では丸山さんは歴史主義的であり、総てのものを相対化してしまう。そうだとやがてニヒリズムに道を開いてしまうのではないか、と政治思想史研究の手ほどきをうけことになる当時学生の小川晃一が回想している。そして著書はこの言葉が丸山の発言に見え隠れするものを言い当ていると書く。

  

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