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2006/09/03

超人の面白読書 22 苅部 直著『』(岩波新書 2006年6月)を読む 1

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今気になっている作家に庄司薫がいる。『赤頭巾ちゃん気をつけて』で芥川賞を受賞した作家でピアニスト中村紘子の夫だが、もう25、6年以上も作品を書いていない寡黙な作家でもある。中村紘子のゴーストライターではないかとか言われているこの庄司薫氏は、の教え子の一人と何かで最近読んだ。
余談から始めたが、著者刈部直氏は現役の政治思想史専攻の学者だが、そのあとがきでという稀有な知性がのこした言葉の群れのなかへわけいって、そのなかをさまよう途上で見つけた、珠玉の棒切れや落とし穴を、できるかぎり克明に記し、それぞれと出あった驚きを、読んでくれる方々とともにすることであると書く。この40歳前半の文学的な表現を巧みに扱う気鋭の政治学者は、高校時代にの著作にふれる講義をしてくれたこともこのあとがきで特筆すべきことと記している。没後10年、雑誌『思想』8月号でも再読という特集を組んでいる。この本の副題はリベラリストの肖像である。序章 思想の運命、第一章 「大正子」のおいたち、第二章 「政治化」の時代に、第三章 戦中と戦後の間、第四章 「戦後民主主義」の構想、第五章 人間と政治、そして伝統、終章 封印は花やかにそれに参考文献と略年譜からなる。筆者などはこの思想家にはそれほどのめりこんだ記憶がないが、気になって何冊かは読んではいたが熟読、精読までは行かなかった。
 
実を言うと20ページそこそこ残してこの書評にとりかかったのだが、まんまとこの著者にやられた。次の章の終章に冒頭に書いた庄司薫のことが懇切丁寧に書かれているではないか。まさか出てくるとは思わなかったのだ。うっかりである。庄司薫、本名福田章二は1959年(昭和34年)教養課程分科二類から法学部へ進学し、丸山の演習に参加していた。この小説の原型となる短編も同人誌にはじめて発表されたものだと書く。それでここで引用されていた中公文庫(1995年初版、2006年改版3刷)の「赤頭巾ちゃん気をつけて」を急いで買い求め、例の「大山先生」の話のところや著者のあとがきを読んだばかりだ。久し振りに読んだ筆者の感想は、庄司薫は都会的、知的、自己韜晦的でやはり頭巾が似合うな、と。哀しいかな、昔読んだのだが記憶にない。筆者の書棚には確かビニールのかかった46版の本が長らくあったのだが・・・。雑誌『思想』2006年8月号の特集、を読み直すを読んだり、東京女子大学図書館に寄贈した資料についての記念比較思想研究センター報告書・創刊号(2005年3月刊)を探したりしていた。
さて、この刈部直のに戻ろう。この比較的若い著者は、ややもすると全体像が理解しにくいを分かりやすい言葉でその生い立ちを追っている。は洋行帰りのジャーナリストだった父、丸山幹治(政論記者で朝日新聞記者、毎日新聞記者を歴任)の次男(長男は後にNHK歌謡・芸能担当プロデューサー、弟は雑誌記者)として大正3年兵庫県芦屋に生まれ東京四谷で育つ。その父も純粋のエリートコースを歩んだ訳ではなく、むしろ苦労して大学を卒業して新聞社も何社か変わっている。当時はまだ新聞記者は堅気の職業として認められなかったらしい。丸山の尋常小学、中学時代は関東大地震災後の復興東京でバー、カフェ、ダンスホールなどふえいわゆるモガ、モボなどが銀座を闊歩して歩いていた時代。丸山も不良ぶる中学生で好きな英語で推理小説を読んだり、兄の影響もあって映画館通いをしたりそれに西洋音楽に親しむなど一見東京山の手の中産階級の暮らしぶりだったと著者は書く。そして丸山は後年まで、知識人と大学人としての自負をもちながら、他方では大学教授の地位にまとわりつく権威や、言論人としての名声を忌避し、それを避けることにこだわり続けた。そのどこかぎこちない、両義性を帯びた態度は、すでにこのころからめばえていたと指摘するあたり著者の柔らかな感受性を読み取ることができる。旧制高校入学時に満州事変が起こり、15年戦争の開始である。それはまさしく政治化の時代もあった。1925年(大正14年)に制定された治安維持法によって、学生がマルクス主義の思想を学び、社会主義・共産主義の政治運動に参加することは、厳しく禁じられていた。一高では左翼運動が続いていた。この旧制高校での寮生活では貧農の地方の出身者たちなど境遇の違った学生とも接触することになる。そしてこの「異質なものとの接触」という問題は、やがて丸山の思想の中で、人間観から政治観に至るまで、大きな位置を占めるようになっていく。後年、教え子たたちとの座談会の中で個人の成長には「異質なものとの接触」が大事だとこの高校での寮生活の経験ふりかえっている。
この高校三年時に唯物論研究会創立第二回公開講演会で、長谷川如是閑を弁士に本郷仏教青年会館で講演開会最中に治安維持法違反の疑いで警察に検挙され、留置場に拘留されたのだ。この事件は後の助手、助教授時代までつきまとうことになる。マルクス主義の文献にも触れてはいたが、むしろハインリッヒ・リッケルトの『認識の対象』など新カント派の本を原書で熟読、かくある事実の世界に対して、かくあるべき価値の自立という新カント派の方法がのちの丸山のものとして血肉化してゆくと著者は見る。この当時はマックス・シェーラーなどの人間学の潮流やエドムント・フッサールの現象学、マルティン・ハイデガーの『存在と時間』が日本に紹介されていた。丸山と同じ年に一高に入学した作家や文学者には、猪野謙二、立原道造、寺田透、一年上に杉浦明平、森敦がいて、森敦は横山利一に師事し、1934年(昭和9年)iに新聞小説「酩酊船」でデビューした。ノンポリで文化の最新動向に奥手の高校生が実際には政治活動に加わる意欲などなかったにしても、すでに活動家の疑いをかけられたのだ。<この項続>(2006年9月10日 記)

丸山は多感な10代後半の時期に、時代の激変をみずから痛感させられた。留置場で「本物」の思想犯でありながら、毅然としていた一高生、戸谷敏之の前で涙を流してしまったとき、「俺はだらしない人間だ。いざとなると、平常、読書力などを誇っていたのが、ちっとも自分のささえになっていない」と、大きな挫折感を覚えたことを回想しているとこの時の衝撃を著者は書いている。この時期1933年は、京都帝大法学部教授で刑法学者、瀧川幸辰が学生をマルクス主義に導く「赤化教授」であるとして休職処分を下す文部省の意向が明らかになったいわゆる"瀧川事件"も起こり、京都帝大経済学部に在学していた兄鐡雄も運動に加わっていて父親を困らせた。
1934年(昭和9年)4月に、丸山は東京帝国大学法学部政治学科に入学、はじめは文学部ドイツ文学専攻を考えていたらしいが、父親と一高のドイツ語の先生の忠告により法学部に志望を変えたのだ。大学一年次にはドイツ公法学者、カール・シュミットの著書『政治的になるものの概念』を原書で手に入れぼろぼろになるまで熟読している。
第二章「政治化」の時代に では左翼もしくは同調者の知識人に対する、国粋主義者からの攻撃、天皇機関説の國體明徴運動などの政治化の時代に、『日本資本主義発達史講座』、ローザ・ルクセンブルグやルドルフ・ヒルファーディングなどのマルクス主義経済学の古典、唯物論全書などの諸著作を読み「ムード的左翼」だったと丸山自身が回想していると著者は書く。と同時にマルクス主義の発想に疑問をもち、むしろ近代の個人主義やリベラリズムの意味を見なおす志向をすでに大学時代に抱いていたと著者は、当時の研究会、読書傾向、論文などから結論づける。思想営為についての丸山自身の感想はこうだ(本文P.75より、『座談集』から)。

なだれを打った左翼の転向時代で、しかもきのうまで勇ましい、ラディカルなことを言っていたやつが、たちまちわたしなんかをとび越して右がかったことを言い出し、やがて御稜威とか聖戦とかを口ばしるようになる。むしろ、いままでなまぬるいリベラルだと思っていた人のなかに、反動期になればなるほどシャンとしてくれる人がいる。むろんリベラルにもダラシのないのが多かったけれど、とにかく平素口で言っている思想だけではわからないものだという感じを痛切に味わった。

やがて南原繁の助手となり、大学時代に混沌とした思いにとどまっていた思考が、徳川時代の諸思想や福澤諭吉の著作を研究していく過程で、言葉になってゆくと同時に、研究者、思索者としての新たな出発でもあると著者は第二章を締めくくる。(2006年9月18日 記)<この項続>
  
第三章 戦中と戦後の間では1940年頃から1945年8月15日の母の死までを描く。天皇の東大行幸、経済学部での「國體明徴」の立場の土方成美と対立する河合栄次郎の休職処分、文学部では中世史学者、平泉澄が陸海軍からの支持をうけて学内外で活動することや法学部でも刑法学者、小野清一郎が「日本法理」へ、国際法学者、安井郁は軍部と交流、「東亜協同体」、「大東亜国際法」を唱えるようになってゆく。リベラル派の勢力がいくぶん強く、右翼からの攻撃をうけた法学部でもいろいろな立場や考え方の人がいたと丸山は述べていると著者は当時を丸山の証言を引用しつつ活写していく。「大東亜戦争」が始まった直後の1942年(昭和17年)、皇紀2600年記念事業刊行の『東京帝国大学学術大観』に丸山が寄稿したのが論文「福澤諭吉の儒教批判」である。現状報告の企画だが、経済学部と法学部は天皇機関説の弾圧を被った憲法講座について、この状況下で客観的に述べるのは難しいという判断から各教官による論文集の形で刊行することになった。それは岩波文庫から刊行されていた福澤諭吉の主著『文明論之概略』を読んだ丸山の皇紀2600年記念刊行物に、福澤に関する研究論文を載せることは先人の論鋒を借りながらひそやかな形で眼前の状況を批判しようとする営みだったと著者は言う。当時の時代状況を反映した丸山の回想を著者は引用している。
「金甌無欠」といって意気揚々としている。本当に昭和10年代の日本の現実でした。維新の初めに福澤などがこれだけ自由にものを言っているのに現代の日本は何とまあ逆戻りしたものか、日本の近代100年というのは一体何だったかのか、と非常に暗い感じにとらえられたものです。その思いは、いまでは戦時中を知らない人々に伝達するのが困難だ、という気がします。
より上位にある者にはへつらい、下にある者を威張って抑圧する心理は、福澤が『文明論之概略』で、武士の間にみられる「権力の偏重」として指摘したところであるが、これを読んだ丸山は、昭和の軍人たちの姿はまさしくそうで痛快に感じ、後の終戦直後の論文「超国家主義の論理と心理」でこれを「抑圧委譲」の原理と名づけている。

1939年10月、東京帝国大学法学部に東洋政治思想史講座が発足し、その8ヶ月後の1940年6月、丸山は助教授に昇進する。浄土真宗の篤い信者だった母セイは、その助教授発令の辞令を見て仏壇にてをあわせたが、父、幹治は一瞥しただけだったらしい。そして江戸時代の儒学者、荻生徂徠を中心にすえ、徳川時代の思想史を通観した作品、「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」を『国家学会雑誌』に掲載される。この論文は絶賛され、12年ぶりの新人として助教授のポストに就く。論文は徳川時代の儒学思想の内部で、近代意識の成長が始まり、やがてそれが、荻生徂徠という転機を経て、国学という対立物を生むに至った、「思惟形式」の変遷をたどっている。全体の枠組は、元禄期から享保期にかけての商品経済の発展による社会的変動を、徂徠学の登場の背景に見出すもので、マルクス主義歴史学とカール・マンハイムの知識社会学に多くを負っている。マルクス主義の思想が学問の本質的な党派性を説くのに対し、思想の背後に潜む階級意識を暴露するのみにはとどまらず、社会の階層変化と関連づけながら、思想それ自体の発展を別個に描きあげる丸山はマンハイムから学んだ。戦後に丸山は、スターリン体制をはじめ、日本の学生運動に至るまで、マルクス主義者たちの思考が政治の論理を欠落させていることを批判続けることになる。徂徠が道を先王のたつる所と説き、人間の作為によって秩序を基礎づけたことに焦点をあてた第二論文「近世日本思想史における「自然」と「作為」-制度観の対立としての」(1941年~1942年)の末尾はこう語っている。
福澤、植木、そして自由民権運動が唱えた社会契約論の潮流が明治時代の後半になると、明治政府の封建的な秩序思想に圧倒されてしまったなりゆきを「作為」の論理が長い忍苦の旅を終わって、いま己の青春を謳歌しようとしたとき、早くもその行手には荊棘の道が待ち構えていた。それは我が国に於いて凡そ「近代的なるもの」が等しく辿らねばならない運命であった。

1944年(昭和19年)3月一高の同級生の妹、小山ゆか里と結婚、30歳で陸軍二等兵として朝鮮平壌へ召集(東京帝大の教授・助教授職の人間が徴兵されるこは珍しく、まして二等兵の例はない。これは思想犯としての逮捕歴を警戒した一種の懲罰だったらしい)、惨い体験をしながら病気で東京に戻るが、1945年(昭和20年3月)再び召集。広島市宇品町の陸軍船舶司令部に配属される。ここで丸山は被爆を体験し、8月17日には母の死の知らせも受ける。その息子、眞男の安否を詠った母の歌。

 召されゆきし吾子をしのびて思ひ出に泣くはうとまし不忠の母ぞ

著者の言葉でトレースしてきたこの書評も、戦後期第四章、「戦後民主主義」の構想へと続く。<この項続く>(2006年9月24日 記)


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