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2006/07/29

クロカル超人の北欧文学散歩 8 ヘンリック・イプセン没後100年 

  今年はノルウェーの作家・Henrik Ibsenヘンリック・イプセンの没後100年の年にあたり、いろいろとイべントが組まれているようです。下記はそのイプセン・イヤーを紹介しているノルウェーの公式サイトです。
Ibsen
日本国内におけるイプセン関連イベント
劇作家ヘンリック・イプセン(Henrik Ibsen)Ibsen_eldst_lime_172px
の没後100年にあたる今年2006年を「イプセンイヤー」と定め、世界各国で記念すべき年を祝い様々なイベントが行なわれます。日本で開催される、イプセン劇上演をはじめとする関連行事を、イベントカレンダーでご案内します。

イベントカレンダー(2006年1月-12月)

1月20日-22日 
「ロスメルスホルム」イプセンを上演する会
新生館スタジオ(東京都板橋区中板橋19-6ダイアパレスBF1 Tel. 03-5943-9559) 
連絡先:新宿新生館 Tel. 03-5389-5735
◇イプセンを上演することを目的に設立された劇団による没後100年特別公演。大久保良一演出。
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3月23日
イプセン・イヤー2006月例会<3月>
ノルウェー大使館・多目的ホール
◇講演「日本におけるイプセンの受容の歴史について」(菅井幸雄明治大学名誉教授)、ドキュメンタリー映画上映「不滅のイプセン」
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4月28日
イプセン・イヤー2006月例会<4月>
ノルウェー大使館・多目的ホール
◇演劇集団円による、「ロスメルスホルム」リハーサル

5月18日-28日
「ロスメルスホルム」 演劇集団円
ステージ円 (東京都台東区西浅草1-2-3 田原町センタービル5F) 
連絡先:演劇集団円 Tel. 03-5828-0654
◇古典劇と現代劇を繋ぐ近代劇の代表者イプセンに、「ヨーン・ガブリエル・ボルクマン」「小さなエイヨルフ」を手懸けた安西徹雄がみたび取組む意欲作。安西徹雄演出 。
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5月26日-6月4日  
「民衆の敵」 燐光群
俳優座劇場(東京都港区六本木4-9-2 Tel. 03-3470-2880)
6月8日(足利公演)
足利市民プラザ
6月13-15日(松本公演)
まつもと市民芸術館
連絡先: 燐光群/グッドフェローズ Tel. 03-3426-6294
◇現代日本社会とイプセンの時代とを結び、不正に対する人々の姿と社会への警鐘を、シニカルにユーモアを交えて描く作品として再構成し、大浦みずきを客演に迎えて上演。坂手洋二脚本・演出。
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5月30日
イプセン・イヤー2006月例会<5月>
ノルウェー大使館・多目的ホール
◇俳優 勝部演之氏によるイプセンの詩「タリエ・ヴィーゲン」朗読と無声映画上映会

6月16日-18日
「ゆうれい」イプセンを上演する会
新生館スタジオ(東京都板橋区中板橋19-6ダイアパレスBF1 Tel. 03-5943-9559)
連絡先:新宿新生館 Tel. 03-5389-5735
◇イプセン国際会議演劇祭(5月8日‐18日 ダッカ、バングラデシュ)参加作品。花島宣人演出。

7月27日-8月6日
「あたしたち死んだものが目覚めたとき」(原千代海追悼) アクターズスタジオ櫻会
櫻会スタジオ(東京都中野区弥生町2-3-10グローヒル弥生町B1 Tel. 03-3299-7230)
連絡先:アクターズスタジオ櫻会 Tel. 03-3299-7230
◇演劇の向上を図り、人材の育成に務める劇団。イプセンの翻訳者原千代海追悼の連続公演第一作。沢田次郎演出。
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10月13日-15日
「ヨーン・ガブリエル・ボルクマン」 イプセンを上演する会
新生館スタジオ (東京都新宿区中板橋19-6ダイヤパレスBF1 Tel. 03-5943-9559)
連絡先: イプセンを上演する会 Tel. 03-5389-5735

10月28日-29日
「人形の家」 鳥の劇場
鳥取市鹿野町鹿野1812-1
連絡先:鳥の劇場 Tel. 0857-23-2224
◇鳥の劇場杮落とし公演。中島諒人演出。2003年利賀演出家コンクール最優秀賞受賞作品を全面改訂して上演。

11月6日-12月17日
イプセン没後100年記念展 「日本におけるイプセン受容の歴史」
早稲田大学坪内博士記念演劇博物館(東京都新宿区西早稲田1-6-1 Tel. 03-5286-1829)
◇上演舞台写真、ポスターなどの演劇博物館内外のイプセン劇上演関連資料、日本におけるイプセン劇上演年表、翻訳資料等の展示。
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11月7日‐14日
展示「わたしたちの時代のイプセン Ibsen in our time – to be a poet is to see」
早稲田大学小野梓記念館1Fワセダギャラリー(東京都新宿区戸塚町1-103)
連絡先:ノルウェー王国大使館広報部 Tel. 03-3440-2611
◇イプセン作品に見られる社会的、政治的テーマを現代ノルウェーの哲学者、作家やジャーナリストが掘り下げた文章と、イプセン作品からの引用とで構成。

11月9日-11日
イプセン没後100年記念フェスティバル
早稲田大学小野梓記念館 小野記念講堂(東京都新宿区戸塚町1-103)
連絡先:早稲田大学演劇博物館21世紀COE・演劇研究センター Tel. 03-5286-8110
◇1892年に『早稲田文学』に二度にわたってイプセンを紹介し、また1911年にはイプセン劇の上演も手がけた坪内逍遥ゆかりの早稲田大学で、3日間にわたって行われる記念行事。
講演(河竹登志夫)、ノルウェー人女優ユーニ・ダールによるひとり芝居「Ibsen Women」、無声映画「Terje Vigen(波高き日)」、ノルウェー映画「人民の敵」、シンポジウムなど。
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11月10日
『イプセンの女たち』
ユーニ・ダール
ドーンセンター(大阪府立女性総合センター)
大阪市中央区大手前1-3-49
dawn@dawncenter.or.jp
連絡先:人形の家2006プロジェクト Tel. 070-6681-7470
◇ノルウェーの女優による一人芝居。イプセン作品に登場する様々な女性を演ずる。シンポジウムあり。
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11月16日-26日
『タリエ in Japan 2006』
アーティスティック・ディレクター:トマス・ホーグ(ノルウェー)
主催:アーツ・アライアンス・プロダクションズ他
協力:日本航空、ダーボン・オーガニック・ジャパン他
会場:横浜新港ふ頭
プロジェクトに関する連絡先: ぴあ株式会社 Tel: 03-3265-2016
◇ノルウェーの国民に広く読み継がれているイプセンの韻文詩「タリエ・ヴィーゲン Terje Vigen」をもとにした屋外マルチメディアパフォーマンス。
>>詳細 www.terje.jp

11月16日-12月18日
Jack Mcleanアート展 「ペール・ギュントコネクション オスロ-カイロ-東京」
A.R.T -Artist Residency Tokyo-(渋谷区恵比寿南2-12-19)
◇戯曲ペール・ギュントをテーマに、Jack Mcleanが描く絵画(ペン画)展。
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11月22日-12月3日
「幽霊」(原千代海追悼) アクターズスタジオ櫻会
櫻会スタジオ(中野区弥生町2-3-10グローヒル弥生町B1 Tel. 03-3299-7230)
連絡先:アクターズスタジオ櫻会 Tel. 03-3299-7230
◇イプセンの翻訳者原千代海追悼の連続公演第二作。沢田次郎演出。

11月22日-26日
「ゆうれい」 名取事務所
シアターΧ(墨田区両国2-10-14 Tel. 03-5624-1181)
連絡先:名取事務所 Tel. 044-854-5366
◇イプセン現代劇連続上演第7作目。毛利三彌演出。

11月28日-29日
「ドールズ・ハウス」 STONEφWINGS(ストーンウィングス)
彩の国さいたま芸術劇場小ホール(さいたま市中央区上峰3-15-1 Tel. 048-858-5500)
連絡先: STONEφWINGS(ストーンウィングス) Tel. 03-5689-0075
別役慎司演出
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Ibsen in Japan

Links
イプセン・ネット
オスロ大学イプセン研究センター
イプセン博物館

Ibsen
明治期におけるイプセン受容
ヘンリック・イプセンの作品は明治期に日本に紹介され、演劇界のみならずその社会にも計り知れない影響を及ぼしました。

「明治期におけるイプセン受容」 (ノルウェー王国大使館・プロジェクト担当官 岡本健志)

はじめに
「近代劇の父」と賞されるノルウェー人劇作家ヘンリック・イプセン(1828-1906)は、日本の演劇界のみならず、その社会にも計り知れない影響を及ぼした。本論では、時代背景に注意を払いつつ、主に明治期におけるイプセン受容の足取りを、紹介/評価・翻訳、上演及び社会的影響の点から追うことにする。なお、イプセンは当初イブセンとして紹介されていたが、本論ではイプセンという表記法を用いる。

1.紹介/評価・翻訳活動

明治元年(1868)、明治維新によって、徳川政権から天皇制に基づく新たな中央集権国家体制へと移行すると、鹿鳴館に象徴される極端な欧化政策が進められることになった。明治政府には欧米諸国との関係を改善するという大きな目標があったが、当時は「とにかく古いものはよろしくない」という考えが一般に既に広まっていたこともあり、「西洋」を熱心に迎え入れる基盤が成立していたということができる。

森鴎外
最も早い時期にイプセンの名前を日本に紹介したのは、ドイツから帰朝後に文学活動を開始した森鴎外(1862-1922)とされている。鴎外は、明治二十二年(1889)、『しがらみ草子』第二号に掲載した「今の諸家の小説論を讀みて」に、「ゾラ式の淫欲と残忍の心とを写す」作家としてトルストイとヘンリック・イプセンの名を挙げていた。当時、鴎外は、イプセンを単なる自然模倣の自然詩派として、その評価も否定的なものだった。鴎外を始めとする文芸関係者は、一様に、「イブセンは最も熱心たる個人的自由論者也。彼は、人間最初最重の義務は純然人間たるにあり、あらゆるゐとに於て自己を離れざるにありと主張す。信仰に於て極端の理想家として、彼は人間の未来に望みを掛け、現今の人、現今の政治的社会的制度に對して懐疑家也。彼の天職は、古ソクラテスの天職の如く、人類を警醒して真に自己を理解せしむるに在り。されは彼は最も忌憚なき徳義上の改革者也」と理解していたようである。(*1)

因みに、この時期、鴎外はイプセンの翻訳をめぐる翻訳論争を行っている。論争の相手、遠藤吉三郎は、海藻研究のため留学したベルゲンでノルウェー語を学習し、『新日本』に「日本におけるイプセン劇の誤譯を嗤ふ」を発表し、鴎外の翻訳を批評した。これに対し、鴎外が反駁を試みたが、遠藤は文学的センスに欠けていたようで、鴎外も「ノルウェー語を承って、あつとばかり感服するわけにはいかない」(*2)とその稚拙な翻訳にあきれ果て、そのまま終了することになった。この頃も日本にはノルウェー語を理解する者がほとんどいなかったことから、ウィリアム・アーチャー(1856-1924)による英訳とフィッシャー社やレクラム文庫から出版されていた独訳が広く利用されていたようである。

余談になるが、森鴎外と同時代に活躍し、日本文学の双璧と賞された夏目漱石(1867-1916)もイプセンの描写法を研究していたことが知られている。漱石の場合にも、イプセンを非余裕派とし、「あまりに作者の「哲学」が露(骨)であって、情操化されていない」ために、「イブセンはそれだけ(文学的効果で)損をしている」と考えていた。(*3)

坪内逍遥
鴎外が紹介した後の明治二十五年(1892)、坪内逍遥(1859-1935)が『早稲田文学』に二度にわたり纏まった形でイプセンを紹介した。逍遙による紹介は、デンマーク人文芸評論家ゲオウ・ブランデス(1842-1927)を典拠にしたものだった。この頃、イプセンの名前が英国の雑誌書籍に登場する頻度を増していたことで、逍遥はイプセンに注目し始めたようである。その後の講演で、逍遙は、「本来私は余りイブセンを好かなかったのであるが、此ニ作(『鴨』と『ヘッダ・ガブラー』)を精読するに及んで、成る程、偉い作家だと思った。イブセンは十九世紀の革新作家の中の第一の人である、外の人はずっと低いと思った」(*4)と述べていた。

坪内逍遥も、このようにイプセンの作劇法を高く評価し、特に『野鴨』などの客観的な性格本位の作を好んだとされるが、その思想は、鴎外同様、受け入れることができるものではなかった。明治三十七年(1904)、彼は、『新樂劇論』で「演劇もまた国策の線に沿って発展させるように努めねばならぬ。そう考えてこそ、日本の演劇は世界に誇りえるものになると違いない」とし、「国劇」を唱えた。(*5) 明治四十四年(1911)にイプセン劇上演した坪内逍遥だが、倫理学者・教育者として、『人形の家』などの作品が日本の美徳を損ねないかと次第に懸念するようになり、イプセン臭(思想)を受け入れ難い意図とするようになった。『人形の家』上演に成功した後期文芸協会がその後に舞台化したヘルマン・ズーダーマン(1857-1928)の『故郷』が、親子が諍いしあったまま幕が下りるのは教育勅語の趣旨に反するという理由で、内務省から上演禁止が言い渡されるという事件がおきたが、この事件とも少なからぬ関係があると想像するに難くない。

但し、この時は、イプセンに対してそれほどの反響があったわけではなく、イプセンが本格的に注目を集めるのは明治三十九年(1906)以降のことだった。当時の人々は、日本文献からだけでなく、とりわけブランデスやイェーゲルら、海外の文芸批評家の記事からもイプセンに関連する情報を積極的に収集していたようである。(*6)

翻訳作品
翻訳に関しては、明治二十六年(1893)に高安月郊(1869-1944)が同志社文学に発表した『社会の敵』(未完)及び一点紅に発表した『人形の家』が日本語への最初の翻訳とされている。因みに、同年一月に『棟梁ソルネス』の一説が『国民新聞』に発表されているが、訳者は不明である。イプセンが他界するまでに日本で翻訳された作品は、以下のとおりである。

岸上質軒 したたかもの 『ボルクマン』  明治三十年 (1897)  文芸倶楽部
藤沢古雪 人形のすまゐ 『人形の家』 明治三十四年 (1901) 新文芸
森皚峰 社会の敵 『社会の敵』  明治三十四年 (1901) 時事新報
高安月郊 イプセン作社会劇 『人形の家』、『社会の敵』 明治三十四年 (1901) 東京専門学校出版部
森鴎外 牧師 (未完) 『ブラン』 明治三十六年 (1903) 万年草
千葉掬香 建築師 『棟梁ソルネス』 明治三十七年 (1904) 歌舞伎
島村抱月 ノラ結末の場 『人形の家』 明治三十九年 (1906) 早稲田文学
イプセンの訃報が日本に伝えられると、島村抱月(1871-1918)を始めとする多くの演劇関係者がその死を悼んだ。『早稲田文学』の「イプセン特集号」には多くのイプセン論が掲載された。大正時代を迎えるまでの六年間だけで、『幽霊』、『蘇生の日』(『私たち死んだものが目覚めたら』)、『ヘダ・ガブラア』(『ヘッダ・ガブラー』)、『海の夫人』など、イプセン存命中には翻訳されていなかった作品や翻案劇がのべ二十九作品が発表された。加えて、『思ひ出のいたましさ』などイプセンの詩が明治四十五年(1912)に翻訳された他、イプセンの書簡集、イプセンの箴言集『珠玉集』もそれぞれ大正三年(1914)、大正六年(1917)に出版されている。(*7)

ここでは、『人形の家』が翻訳の半数を占めていることに注目に値する。また、明治三十三年(1900)頃から始まった美的生活論争を契機として、『牧師』/『ブラン』の「一切か無か」というモットーが一般の関心を集めていたようである。因みに、未完に終わったものの、『牧師』は、森鴎外が自ら進んで翻訳した唯一のイプセン劇だったことが知られている。

病床にあるイプセンのもとに日本語に翻訳された作品が届けられたことがオスロから伝えられている。これは、このうちのいずれかの翻訳がオスロまで届けられたことを意味するものである。

2.上演について

イプセン戯曲の上演を扱う前に、明治初期以降の演劇状況を簡単に紹介を行うことにする。日本の伝統演劇である歌舞伎にはその頃には約三百年の伝統があったが、舞台装置は勿論、鳴り物から科白まわしに至るまで、伝統的な「型」に囚われ、時代の進歩についていくことができなくなっていた。この状況を打破するために「演劇改良」が叫ばれることになった。明治二十三年(1890)には、男女合同演劇の許可も出された。明治政府による政策を背景に、「演劇改良」は、主に歌舞伎界内部からの動き「新歌舞伎」と外部から改革をもたらそうとする「新派」によって進められた。結論から言えば、この時期の「演劇改良」は成功したとは言いがたいが、新派から日本の「近代劇」を完成させる新劇への道筋をつけた点で評価できるものである。

新派
演劇改良路線は、明治二十年代後半から三十年代にかけて、新派に引き継がれることになった。自由党の政治青年(壮士)の角藤定憲(1866-1907)や川上音二郎(1864-1911)らの新派を代表する人物は、大劇場で翻案劇を中心とする商業演劇を行った。この頃の国会開設を目前にした政治論争の激化を背景として、自由民権論者である野党の政治青年は、言論統制が厳しいこともあり、プロパガンダの手段に演劇を利用した。当時のメディアを考えてみても、演劇は有効な手段だったと言える。

ところで、富国強兵策をすすめる当時の日本は、足尾銅山開発に積極的だった。足尾銅山は既に江戸時代に開発されていた。明治十年(1877)、足尾銅山は旧古河財閥の所有となった。一時は東アジア一の銅の生産を誇るほど、当時の日本の代表的な輸出品だったが、精製時に発生する鉱毒ガスや鉱毒の影響で、付近の環境が大きな影響を受けた。台風などにより有害物質を含む土壌が渡良瀬川に流れた結果、魚の大量死、稲の立ち枯れの被害が報告され、田中正造(1841-1913)が帝国議会でこの問題を取り上げた。議員辞職後、正造は明治天皇に直訴もした。これが足尾鉱毒事件の概要である。

この直訴が行われた翌年の明治三十五年(1902)、新派の担い手であった花房柳外(1872-1906)は,イプセンの『社会の敵』を翻案し、明治政府への欝憤を叩きつけた。但し、柳外の目的はあくまで社会悪への抗議のための翻案であり、イプセン劇紹介のためではなかった。つまり、日本での最初のイプセン戯曲の上演は、日本初のプロパガンダ劇でもあった。

日清戦争を機に演じられることになった戦争物のテンポや迫力は、「型」にはまる歌舞伎では放言しきれず、新派が観客の心を掴むことになった。しかし、「正劇」(音楽的要素を除いた科白劇)をめざしたにも関わらず、上演自体は旧来の歌舞伎の影響を色濃く残したものだったらしい。(*8)

新劇 
小山内薫(1881-1928)や坪内逍遥を中心に進められた新劇は「思想的、文学的な近代戯曲の写実的上演を基本としていた」ことから、翻案の方は歌舞伎、新派という伝統的な感覚と劇術の延長線上にある改良の、実演の舞台の上で、翻訳の方は西洋学者、文学者ないし新聞ジャーナリストなど近代知識人の文学的訳業のなかで、それぞれに進められることになったわけである。

日本の近代劇史上で最も注目される二つの上演は、いずれもイプセン劇の上演である。一方は小山内薫と市川左団次(1880-1940)らが創立した自由劇場による『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』上演で、他方が松井須磨子(1886-1919)を世に出した坪内逍遥、島村抱月らの後期文芸協会による『人形の家』である。

自由劇場
自由劇場は、明治四十二年(1909)十一月に有楽座で『ボルクマン』を上演した。本来はゲアハルト・ハウプトマン(1862-1946)の『夜明け前』(1889)が予定されていたが、小山内薫が島崎藤村(1872-1943)が推薦する『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』上演案に同意し、急遽同作品の上演に変更されたという経緯がある。これまでに発表された記事から推察できる理由は以下のとおりである。 

先ず、検閲という問題があった。明治五年(1872)、明治政府は演劇を通じて皇道思想を普及する旨を通達していた。既に日本国内でも労働運動、社会主義運動、自由民権運動が高まりを見せていたことから、明治政府は脚本検閲を強化していた。この時、岡田八千代は、(ハウプトマンの『夜明け前』では)当時の劇界の情勢から見て検閲にかかる危惧があり、社会主義や労働運動の模様が描かれている『夜明け前』よりも「検閲の通る『名作』を選んだ方がよくはないか」(*9)との意見を兄の小山内薫に述べている。次に、俳優の問題があった。日本の伝統演劇には女優が存在しなかったことから、この時代には女優の養成が急務だった。後述する後期文芸協会の方針とは異なり、自由劇場は「俳優を素人にする」、つまり歌舞伎俳優の「型」を外して、演技をさせるという方針をたてていたことから、女優は在籍していなかった。そのため、小山内は「(お婆さんばかり出る脚本を選んだ理由は)お婆さんならどうにか男の役者でも胡魔化しがつこう。イプセンが書いた若い女などは、とても男の役者には演り科せないだろうと思ったから」(*10)と説明している。リアリズム色が強い『人形の家』などを上演する場合、写実性が求められる。つまり、女優なしには上演が成立しないと想像できる。そして、『ボルクマン』などの象徴性の強い作品を上演する場合には、象徴性の強い女形による演技を舞台に載せることができると考えたのかも知れない。最後に、興行・文学的理由がある。この頃の演劇動向を考慮した上で、小山内は「既成勢力が決してつけないだろうと考えられる象徴的な作品を選ぶのが得策である」とも考えていた。ショーやシュレンテルらによる『ボルクマン』評が好評だったことも、『ボルクマン』が選ばれた理由と考えられる。更には、ある意味、当時西洋文化の窓口として機能していた鴎外の名前を利用する有効性も指摘される。

なお、日本における特殊事情として、イプセンの作品が一時期に日本に伝えられたため、西欧諸国に見られるようなロマン主義から自然主義、自然主義から象徴主義への移行がそれほど著しいものではなかったため、すぐに時代遅れの作品とはならなかったとも考えられるだろう。

上演評
小山内が依頼した『ボルクマン』は、残念ながら、「とてもしゃべりそうのない、不思議なせりふ」だったらしく、千田是也(1904-1994)も「あのころの科白はリアルな心理表現なんてものは、どうもないだろう」と述べている。(*11) 当時の専門家には演技も台詞回しも従来的な歌舞伎の型にはまったものであり、正宗白鳥(1878-1962)もこれに耐えられずに第四幕で劇場を後にしたという。その一方で、若い観客は、疑いもなくこの公演を感動し、夢見ごこちで家路についていた。与謝野晶子は『人形の家』について、「「目のさめていない多数の女性には聞かせる価値のあるものであるが、「目の開いた俊秀な女子」の参考とはならない旧式のものである」(*12)としているが、晶子の「女子」と「観客」を言い換えれば、白鳥と観客の反応の違いを説明するものである。

後期文芸協会 
これから二年後の明治四十四年(1911)、後期文芸協会は帝劇で『人形の家』を上演した。坪内逍遥は自宅を改良して附属演劇研究所を設立し、「素人を俳優にする」俳優養成プログラムを進めた。文芸協会の顔ぶれは、坪内逍遥の他、早稲田で英訳された『人形の家』を使用し、近代写実劇を講義した島村抱月らである。

明治四十三年(1910)九月、文芸協会は、演劇研究所で『人形の家』の第一会試演を行った。この時のノラ役の松井須磨子が余りにも好評だったことから、帝国劇場側から翌年の上演作品をシェークスピアの『オセロ』から『人形の家』への変更するようにとの依頼があった。こうして、『人形の家』が上演された。

上演評
上演自体は大成功を収めた。楠山正雄(1884-1950)は、「誇張でも何でもなく、この女優のノラは、日本で初めて女優問題を解決した記念として、更には舞台の上に女性を解放した記念として永く忘るべからざるものと思う」(*13) と、松井須磨子の名前も広く世の中に知れ渡ることになった。『人形の家』には「目覚めたる女性を目の当たりにする興奮」と「あたらしい『女優』」という魅力があったようで、花柳章太郎は「須磨子をみて、女形をやめようかと思った」と言うほどだった。興行的にも成功を収め、坪内逍遥は新しい演劇の動向を実感することになった。

3.影響について

近代劇の確立
この時、イプセンの下で、科白中心の劇、女優、洋風演劇志向、近代意識が一つになり、近代劇が確立されたということができる。森田草平(1881-1949)がこの日に近代劇に触れた感動を次のように述べていることは、イプセンの影響力の凄さを示すものだろう。

「劇は何処までも脚本のことである。役者の芸だと大層に云うな。これを要するに、今回の自由劇場第一回試演は予想外の大成功であった。それは役者の手柄でもなければ、背景のお陰でもない。直接イプセン自身の効果である。従ってイプセン劇を始めて日本に輸入した小山内薫、市川左団次両君の手柄である。」(*14)

イプセン会
この頃には『俳優無用論』が飛び出すほど、日本でも戯曲が重要視されることになっていた。イプセンが他界した翌年、自然主義文学者の集まり「龍土会」は、月に一度イプセン作品合評を行う「イプセン会」に変わり、柳田国男(1875-1962)、岩野泡鳴(1873-1920)が主催し、島崎藤村、田山花袋(1872-1930)、正宗白鳥ら日本文学史に名を連ねる文学者が集まった。彼らの合評は『新思潮』に記されるが、概ね「意思と理想、自我と現実暴露の革命的思想家、「無技巧・無解決」の自然主義者」という意見で一致していた。

とくに明治四十年以降、イプセンが活発に論じられ、佐野天声(1877-1945)、真山青果(1878-1948)、中村吉蔵(1877-1941)、菊池寛(1888-1948)ら多くの作家がイプセン模倣劇を書いた。特に、中村吉蔵は大正十年(1921)に、早稲田系「イプセン会」とは異なる演劇研究団体「イプセン会」を主催し、自宅で例会を開いていた。彼は、自らをヘンリック中村と名乗るほどイプセンに傾倒していた。吉蔵は、「イブセンは所謂、哲学者、思想家ではない、偉大なる天才的戯曲家である」とし、文学者であることを強調していた。(*15) なお、この後もイプセン戯曲を議論する研究会が京都などにも設立されていた。

思想家 
ところで、イプセンが、明治から大正時代にかけてこれだけの注目を集めたのは、劇作家としてよりも「新しい思想家」としてであった。明治維新以降、多くの内部矛盾をはらみながら急速に変化する社会にあって、新しい思想に注目が集まるのも当然のことだったとも言えるだろう。新劇の先駆者は、イプセンの戯曲のドラマツルギーよりもその中の豊にもられている近代的な思想により強く関心を示していることが指摘できる。(*16)

女性の解放 
平塚らいてう(1886-1971)は、「原始、女性は実に太陽であった。真正の人であった」との宣言で始まる機関誌『青鞜』で「ノラ」特集号を組んだ他、「ヘッダ、ガブラァ合評」、「幽霊を論ず」など、多くのイプセン関連の記事を掲載した。同誌は単に文芸活動だけでなく、日本の女性解放運動にも多大な影響を与えることになった。「ノラ」特集号(1912)に掲載された「人形の家に就いて」には、「人形の家は劇としてとどめ置かずして、私共の日常生活に結びついて考へて見る必要がある」とあるように、社会的にも大きな影響を及ぼしたことが記されている。但し、らいてうは、「明治末年より大正初頭の我が婦人問題」の中で「イプセンのような作家によって、その作物を通じて一種の婦人問題が提供され、婦人の新生活についての夢が、婦人たちの心に、与えられました」とマクロ的には評価をしているものの、特集号に含まれる「ノラさんに」では「ノラの自覚というのは甚だ危いものであって、人間にならねばならぬと気付いただけのことであり、真の人間になるためには、これから先にこそ大きな試練が横たわっている、そこを自覚し、それを経てゆく自覚が問題なのだ」(*17)という旨のノーラ批判を展開している。これは、ノラの自覚を真実のひらめきのあるものとして、当時の肯定的に受けとめている他の多くの記事とはかなり異なる主張だった。

『青鞜』から原稿を依頼されていた與謝野晶子(1878-1942)のノーラに対する考えも、当時の大勢とは異なるものだった。晶子は、『一隅より』(1911)で、ノーラの行動は「目のさめていない多数の女性には聞かせる価値のあるものであるが、「目の開いた俊秀な女子」の参考とはならない旧式のものである」ということである。そして、彼女は、『「目の開いた俊秀な女子」としては、自分がノラであれば、家に居て夫や子供を教育してみせる、またそれを通じて自分自らも教育してみせる』と述べ、「日本の多くの女性に目をさまし、さめた目でノラを見、そして家にあって自己教育に努め、一人前の人間になるように努めて欲しい」と呼びかけていた。(*18)

新旧の思想が激しくぶつかる明治社会では、イプセン劇に見られる新しい思想に対する反撃や否定論も高まりを見せ、ノーラやヘッダ、強いてはノラを演じた松井須磨子への風当たりにも強いものがあった。女学校では校長が『人形の家』を観ないように注意したことなども伝えられている。実際、尾竹紅吉による『人形の家』を観劇した多くの女性が「決して、あの場合家出なぞする必要がない」との報告(*19)も当時の社会の一面を示すものであろう。

おわりに
『西洋のドラマトウルギイの日本ドラマトウルギイに対する影響』で、秋田雨雀(1873-1962)は、「最も影響力を持ってゐたものは、何といっても、イプセンの戯曲だったと思ひます。この時代に戯曲作家として成長した人でイプセンの影響を受けない人は殆ど一人もなかったといっていい位です」(*20)と述べている。明治期に移入されたイプセンの影響力は、演劇を超えて、政治的、社会的にも計り知れないものがあったことは明らかである。

注解*
(1) 「泰西英傑逸事(其一)」『明治翻訳文学全集新聞雑誌編 47 イプセン集』、川戸道昭編、大空社、1998年、p.8 
(2) 『鴎外全集』、岩波書店、昭和46-50年、全38巻、全集第26巻、p.505
(3) 木村功、「夏目漱石におけるイプセン戯曲の受容 留学時代のイプセン読書(1)」、www2a.biglobe.ne.jp/~kimura/papers/papers.htm
(4) 中村都史子、『日本のイプセン現象 1906-1916』、九州大学出版会、1997年、p.58
(5) 河竹登志男、『近代演劇の展開』、日本放送出版協会、昭和57年、p.170
(6) 枡形公也、「日本におけるキェルケゴール受容史」、www.kierkegaard.jp/masugata/juyoshi1.html  
(7) 『明治翻訳文学全集』、川戸道昭他編、大空社、1998年、第47巻「イプセン集」、p.464-466 
なお、『したたかもの』は、仏語からの重訳で、三幕のみ全訳され、それ以外は梗概のみが記されている。
(8) 『演劇の目覚めと展開』 www.geocities.jp/kazuo714/kapitel3.htm p.15
小山内も左団次も、言いようのない責任を感じた。題材が新しいでけでは何ともならぬ。演劇は、要するに総合芸術だ。そんな初歩的なことがわかっていながら、なぜもっと万端の準備を整えておかなかったのか。長慰安の頭の中には、そういった様々な悔恨がうずまいた。
(9) 菅井幸雄、「近代劇の成立とその受容の多様性」、『日本の演劇 5 近代の演劇Ⅰ』、未来社、平成9年、p.13
(10) 河竹登志夫、前掲書、p.182
(11) 菅井、前掲書、p.14
(12) 中村都史子、『日本のイプセン現象 1906-1916』、九州大学出版会、福岡、1997年、p.345
(13) 島村抱月、「囚われたる文芸」、『島村抱月文芸評論集』、岩波書店、1987年、p.37
(13) 『演劇の目覚めと展開』 www.geocities.jp/kazuo714/kapitel3.htm p.20
(14) 菅井、前掲書、p.17
(15) 藤木宏幸、「イプセン」、『欧米作家と日本近代文学 3 ロシア、北欧、南欧』、福田光次他編、教育出版センター、昭和51年、p.236
(16) 菅井幸雄、『演劇の伝統と現代』、未来社、1969年、p.138
(17) 中村都史子、前述書、p.238
(18) 前述書、p.345 
(19) 藤木宏幸、「イプセン」、『欧米作家と日本近代文学 3 ロシア、北欧、南欧』、福田光治他編、教育出版センター、昭和51年、p.233 
(20) 中村、前述書、p.337

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イプセンと写実主義
イプセンが1877年から1882年にかけて出版した『社会の柱』、『人形の家』、『ゆうれい』、『人民の敵』は、写実主義現代劇、あるいは問題劇といわれています。これらの戯曲がそのように呼ばれるのは、次の4つの特徴を持っているためです。

1. 社会問題をテーマとしている。
2. 社会批判の視点を持つ。
3. 劇の時代設定を現代にしている。
4. どこにでもいる人物、どこでもある状況を描いている。

テーマとしての社会問題
デンマークの文芸批評家ゲオウ・ブランデス(1842~1927年)は、北欧諸国での写実主義の飛躍をもたらした偉大なパイオニアです。彼は1871年、コペンハーゲン大学で、「19世紀文学の主流」と題してシリーズで講義を行いました。この講義の中で、ブランデスは、社会批判的写実主義とよばれる新しい文学の形式について次のように述べています。

「現代文学は社会問題をテーマとして論じるということで、それ自体が生きた演劇となっている。例えば、ジョルジュ・サンドは男女間の問題、バイロンとフォイエルバッハは宗教、プルードンとスチュアート・ミルは所有、そしてツルゲーネフ、シュピールハーゲン、エミール・オジェは社会的諸条件をそれぞれテーマに取り上げ問題にした。こうした問題をテーマとして扱わないとすると、文学の意義はすべて失われてゆくということだ。」

ノルウェーにおける社会批判的写実主義を代表する作家は、イプセン、ビョルンソン、リー、ガルボルグ、ヒェッラン、スクラムですが、彼らは皆、ブランデスから影響を受けました。冒頭に上げたイプセンの4作品では、ブランデスが一例として引用したいくつかの社会問題が取り上げられています。男女間の問題は『人形の家』と『ゆうれい』のテーマです。『社会の柱』と『人民の敵』で描かれているのは、社会道徳、多数派の横暴、営利的な目論見と一般的な社会的配慮、あるいは環境上の配慮との軋轢など、社会の至るところで見られる状況です。

社会批判の視点
イプセンは自らが執筆した写実主義演劇の中で、社会の否定的な側面、偽善や欺瞞、暴力の行使、ごまかしなどを容赦なく暴露しようとし、真実と自由をたゆまず求め続けました。「真実」「束縛からの解放」「自己実現」「個人の自由」がキーワードです。『社会の柱』の最後のセリフに「真実の精神と自由の精神-これが社会の柱です」とあります。『ゆうれい』では、結婚とキリスト教というブルジョワ社会を支える柱を明るみに引き出してこれを批判し、近親相姦、性病、安楽死という典型的なタブーを次々に取り上げていきます。このため、イプセンと思想を同じくする人々は、当時、問題児として見なされ、彼等の作品は激しい論争や大きな騒ぎを引き起こしました。後になって考えると、これらの作品の中には、その後のさまざまな社会運動に大きな影響を与えたものがありました。例えば、世界中のほぼすべての文化活動で、『人形の家』ほど女性の解放に大きな影響を及ぼした文学作品はありません。

同時代性の視点
イプセンが『社会の柱』を含めてそれ以降執筆した作品の舞台設定はすべて同時代の社会です(従って、現代劇と呼ばれます)。写実主義文学の代表的作家たちは、自分たちが現実に生きている時代を描き、自分たちの作風がほかとは違うことを意図しました。民族的ロマン主義様式の歴史劇は時代遅れとなりました。

ギリシア・ローマの神々や英雄、ローマ皇帝や各国国王たちの代わりに、「あなたや私のような」普通の人々が主役を演じるようになりました。演劇の舞台は全体として、その時代の特徴を刻みつけることになりました。

イプセンが『人形の家』に最初につけた解説(1878年10月19日付)には「現代悲劇についての解説」というタイトルがついています。「現代悲劇」という言葉は状況をよく描写しています。

この戯曲でイプセンは、古典的な悲劇という演劇形態を現代的な題材に当てはめて表現しようとしました。イプセンは『人形の家』で、形式面では、大胆な実験を試みていません。例えば、時間、空間、行動という古典演劇の三要素一致の原則は維持しています。イプセンの新機軸は、登場人物の間の対立に現代的な題材を取り入れたこと、つまり舞台上で起きていることに時事性があるという点です。

どこにでもいる人々とどこでもある状況
1883年8月22日、ヘルシンボリ(Helshingborg)での『ゆうれい』初演は、北欧・ヨーロッパにおける彼の最初の公演でした。この上演準備中にあったスウェーデン人演出家August Lindbergに宛てた手紙でイプセンは次のように書いています:

「セリフは自然に聞こえるようにし、演技は劇中の登場人物それぞれの特徴を表現するようにして下さい。ある人物が別の役者と同じように振舞うことがないようにして下さい。この点については、リハーサルで手直しすることがたくさんあるでしょう。役者の台詞が不自然でぎこちないときは聞いて直ぐわかります。ですから、何度も演技を変えさせ、セリフが真実に迫り、現実に起きていることだと実感させるようになるまで繰り返す必要があります。劇の印象というものは、概して、客席に座っている観客が自分の目の前で、現実の生活が繰り広げられていると感じられるかどうかにかかっています。」

イプセンが現代劇の制作で最も心を砕いたのは、劇の観客や戯曲の読者が、劇中の一連の出来事は自分たちの身にも容易に起こりうるものと感じてもらうようにすることでした。このため、劇中登場人物の話し方や行動は、自然でなければなりませんでしたし、日常生活で起こりうるような場面設定が必要でした。登場人物は、『ブラン』や『ペール・ギュント』の場合のように、韻文調で語ることはなくなり、『ヘルゲランの勇士たち』のような独白や、傍白、押し殺したしゃべり方は用いられなくなりました。写実主義演劇は、観客に現実を見ているような錯覚を与えるものでした。

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イプセンの生涯と作品年譜一覧
1828年 ヘンリック・ヨハン・イプセン、3月20日にシェーエンのストックマンスゴーレンに生誕。父は商人のクヌート・イプセン、母はマルケン。

1835年 父親が仕事を辞めざるを得なくなり、財産が競売にかけられる。一家はイェルペンにある農場、ヴェンストゥープに転居。

1843年 イェルペンの教会で堅信礼を受ける。
一家がシェーエンのスニーペトルプに戻る。
イプセンは12月27日家を出る。

1844年 1月3日にグリムスタに到着し、薬剤師イェンス・オーループ・ライマンの見習いとなる。

1846年 ライマンの召使の一人、エルセ・ソフィー・イェンスダッテルとの間に非嫡出子をもうける。

1847年 ラーシュ・ニールセンが薬屋を引き継ぎ、店を拡大し移転する。

1849年 『カティリーナ』を執筆。

1850年 大学入学資格の試験準備のためにクリスチャニアへ向かう。
ブリニョルフ・ビャルメ(Brynjolf Bjarme)というペンネームで『カティリーナ』を出版。
大学学生新聞Samfundsbladetと風刺週刊新聞Andhrimnerで編集に携わる。
9月26日、一幕劇『勇士の塚』がクリスチャニア劇場で初演される。イプセン作品の初上演。

1852年 ノルウェー・シアターの舞台監督を務めるためにベルゲンに転居。
コペンハーゲンとドレスデンへ研修旅行。

1853年 『聖ヨハネ祭の夜』初演。

1854年 『勇士の塚』改訂版初演。

1855年 『エストロートのインゲル夫人』初演。

1856年 『ソールハウグの宴』初演。
スサンナ・トーレセンと婚約。

1857年 『オーラフ・リッレクランス』初演。
クリスチャニア・ノルウェー・シアターの芸術監督に就任。

1858年 6月18日、スサンナ・トーレセンと結婚。
『ヘルゲランの勇士たち』初演。

1859年 詩『荒原にて』と詩集『画廊にて)』を執筆。
12月23日、息子シーグル誕生。

1860年 『愛の喜劇』の草稿『スヴァンヒルド』を執筆。

1861年 詩『タリエ・ヴィーゲン』を執筆。

1862年 クリスチャニア・ノルウェー・シアターが破産。
民話研究のためにグブランスダーレン渓谷とノルウェー西部へ研修旅行。
『愛の喜劇』を出版(1873年11月24日にクリスチャニア劇場で初演)。
クリスチャニア劇場の顧問に就任。

1863年 『王位継承者』を出版。
詩『貧乏な弟』執筆。

1864年 『王位継承者』をクリスチャニア劇場で初演。
イタリアに向かい、ローマに4年間住む。

1865年 『叙事詩ブラン』を執筆。題名を『ブラン』として改定。

1866年 『ブラン』出版、成功を収める。
芸術家を対象とする政府の研究奨学金を受給。

1867年 『愛の喜劇』改訂版を出版。
『ペール・ギュント』を執筆、出版(1876年2月24日にクリスチャニア劇場で初演)。

1868年 ドレスデンに転居、家族で7年間暮らす。

1869年 『青年同盟』を出版、クリスチャニア劇場で初演。
ストックホルムで開かれた北欧語綴りに関する会議に出席。
エジプトへ行き、スエズ運河開通式に出席。

1870年 詩『風船で飛ばしたスウェーデン人婦人への手紙』を執筆。

1871年 生涯で唯一の詩集を出版。

1872年 『皇帝とガリラヤ人』の大半を執筆。

1873年 『皇帝とガリラヤ人』が完成、出版。
ウィーン国際芸術展の審査員。

1874年 ノルウェー(クリスチャニア)一時帰国の後、ストックホルム訪問。
『エストロートのインゲル夫人』改訂版を出版。

1875年 『カティリーナ』改訂版を出版。
ミュンヘンに転居し、3年間暮らす。
詩『韻文書簡』を書く。

1877年 『社会の柱』を執筆、コペンハーゲンの王立劇場で初演。
ウプサラ大学から名誉博士号を受ける。

1878年 再びローマに戻り、数回の中断を挟んで7年間暮らす。

1879年 『人形の家』を執筆、出版。コペンハーゲンの王立劇場で初演。

1881年 『ゆうれい』を執筆、出版(1882年5月20日にシカゴのオーロラ・ターナーホールで初演)。

1882年 『人民の敵』を執筆、出版(1883年1月13日にクリスチャニア劇場で初演)。

1883年 『ソールハウグの宴』改訂版を出版。

1884年 『野がも』を執筆、出版(1885年1月9日にベルゲンの国民舞台で初演)。
1885年 ノルウェー(クリスチャニア、トロンハイム、モルデ、ベルゲン)を訪問。
ミュンヘンに移り、6年間暮らす。

1886年 『ロスメルスホルム』を執筆、出版(1887年1月17日にナショナル・シアターで初演)。

1887年 ユトランド半島北部のセビーで夏を過ごす。ヨーテボリ、ストックホルム、コペンハーゲンを訪問。

1888年 『海の夫人』を執筆、出版(1889年2月12日にワイマールの宮廷劇場とクリスチャニア劇場で同時初演)。

1889年 ゴッセンザスで最後の夏。エミーリエ・バルダッハと知り合う。

1890年 『ヘッダ・ガブラー』を執筆、出版(1891年1月31日にミュンヘンの宮廷劇場で初演)。

1891年 ノルウェーに戻り、クリスチャニアに居を定める。
ヒルドゥール・アンデルセンと知り合う。

1892年 『棟梁ソルネス』を執筆、出版(1893年1月19日にベルリンのレッシング劇場で初演)。
シーグル・イプセンがベルグリオット・ビョルンソンと結婚。

1894年 『小さなエイヨルフ』を執筆、出版(1895年1月12日にベルリンのドイツ劇場で初演)。

1895年 クリスチャニアのアルビエン通りとドランメン通りの角にあるアパートに移り、そこが終の棲家となる。

1896年 『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』を執筆、出版(1897年1月10日ヘルシンキのスウェーデン劇場とフィンランド劇場で同時初演)。

1898年 70歳を迎える。クリスチャニア、コペンハーゲン、ストックホルムで盛大な祝賀会が開催される。

1899年 『私たち死んだものが目覚めたら』を執筆、出版(1900年1月26日にシュトゥットガルトの宮廷劇場で初演)。

1900年 最初の発作を起こす。

1906年 5月23日死去。

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レパートリー・データベース
レパートリー・データベース・プロジェクトは、イプセン劇の世界の劇場における上演状況を正確に記録するという初めての試みです。

イプセン・ネット (ibsen.net) のレパートリー・データベースの目的は、世界的な劇作家としてのイプセンの重要性を文書で記録として残すとともに、演劇研究者などがイプセンの演劇芸術を実証的に分析する手段を提供することです。たとえば、どこでイプセン作品が上演されているのか。一度の演劇シーズンあたり、イプセン作品の初演はいくつあるのか。どの作品がより多く上演されているのか。どのようなタイプの劇場がイプセンを上演しているのか。イプセン作品は10年前に比べて現在の方が上演回数が多いのか。いつどこで、それぞれの劇の初演が行われたのか。クリスチャニア劇場 のイプセン劇のレパートリーはいくつあったのか。これらの質問は、レパートリー・データベースで検索するとその答えがわかるようになっています。

データベースに登録された作品は、初めてイプセン劇が上演された1850年9月26日(クリスチャニア劇場での『勇士の塚』)から、今日までに至っています。データベースには、最近の上演についても新しい情報が掲載されています。レパートリー登録作業には時間と手間がかかりますが、今ようやくその目的を果たしつつあります。

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イプセン・ワールドワイド (Ibsen worldwide) へようこそ。これは、2006年のヘンリック・イプセンの没後100年を記念して制作され、18の言語に対応し90ヵ国以上の国で開設されています。ヘンリック・イプセンの作品と、それぞれの国に関連した情報を詳しく紹介しており、他の関連サイトにもリンクしています。

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