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2006/07/30

超人の面白読書 21 岩波新書『森鷗外』

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 北欧文学研究者でコペンハーゲン大学異文化研究・地域研究所副所長で滞丁37年の長島要一氏。その著書『森鷗外』(「岩波新書」2005年10月刊 定価740円)文化の翻訳者をようやく読み終えた。出張中に持ち歩いてしかも帰宅途中の新幹線の中に忘れ、JRに問い合わせても他の買い込んだばかりの3冊とともに無しのつぶて。仕方なく買い直した本なのだ。要は早く読まないのが悪いのかも知れない。無駄なことをしたものだ。
  この本は本格的な翻訳文化論である。文豪森鷗外は、その著書『舞姫』、『うたかたの記』、『文づかい』の所謂ドイツ三部作のヒロイン、エリス、マリイ、イイダの女性を当時の近代的な西洋世界の表象として描いたと第一章 そこにはいつでも「原作」があった ドイツ三部作の最初の章で著者は言うが、西洋文化の核を形成する三人のドイツ人女性の生き方に日本人留学生を遭遇させることで、象徴的にとはいえ、日本の近代化の将来を透視していたのだと見抜き、鷗外をバイカルチュラルの先駆者と呼ぶ。鷗外の文業を広い意味での「翻訳」という観点から概観することで、狭義の翻訳の世界の向こう側に開ける「もうひとつの世界」を築くのが著者の狙いらしい。そして、第二章 鴎外とアンデルセンでは、『即興詩人』の鴎外翻訳を通じて原作の理解度、日本流に置き換えられた翻訳、神の概念の排除・消去、意識的な省略、Eventyrの訳についてなどを精査する。第三章 口語文章体と西洋新思想の日本化ー「翻訳」から創作への章では、イプセンの『ブランド』の末尾の省略、ストリンドベリ『債権者』の翻訳、イプセン『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』の訳文分析によって鴎外のイプセン劇の理解もしくは誤解し原文を操作していたことなどを具体的に示していく。当時の日本でのイプセンブームをも書き添えながら。第四章 仮面をつけた翻訳者 「訳者」であり「役者」であることでは、イプセン劇『幽霊』の翻訳、『人形の家』の意味するところ、翻訳から歴史小説へ、 第五章 歴史小説の世界 方法としての「翻訳」では、「不思議」の訳語、 『ノラ』の世界、鴎外のヘルメル理解、ノラはどこへ、翻訳から脚色へとイプセンの有名な『人形の家』を詳述する。 第六章 小説から史伝へ 「翻訳」からの飛躍 自分と同じ立場の人物を求めてでは、『山椒大夫』、『ぢいさんばあさん』、『最後の一句』などは『人形の家』に対する批判的コメントを自作を発表することで行っていたと書き、史実の「翻訳」から史実の「脚色」へと方向転換させた結果がもたらしたものだという。 終章 鴎外の遺書 最後の「翻訳」 文化の翻訳の現代的意味でこの北欧文学翻訳論は終わる。森鷗外はドイツ語からの重訳でアンデルセンの『即興詩人』をはじめ、ストリンドベリ、イプセンなどの翻訳をした文豪だが、そこには彼一流の戦略的な翻訳・意訳・試訳・私訳があったことは想像に難くない。スウェーデン語、ノルウェー語という現地語に精通していた訳ではなかったが、その文学・文化の理解度、想像力・創造力が文学的な深い教養とあいまって優れていたからこそドイツ語でも行けたと思うのだ。しかしながら、著者が言うように現地語に当たれば誤訳だとすぐ分かるところや、ドイツ語版がすでに語句の解釈など文化の翻訳を誤ってすればその意味するものも、日本語に置き換えられ移植されたとき意味のズレが生ずるのは当然と言えば当然である。翻訳とは二つある意味などから言葉を選択することだとこの本のどこかで著者はさりげなく書いているが、何故かこの言葉が読了後にも筆者の脳裏に焼きついていた。これは至言である。
結局は、文豪森鷗外は近代的で開放的な女性像を追い求めてはその社会的ステータスのためにできず、文学の中に弄んだのだろうか。筆者にはそんな妄想が沸き立ち、鴎外の文学の翻訳、強いて言えば文化の翻訳というプラスとマイナスの両面を越えて翻訳論・文化論のパースペクティブが見えて来るようだ。これは取りも直さず著者の意図するところに行き着く。それが森鴎外をしてバイカルチュアルの先駆者と言わしめていると思うのだ。大正期坪内逍遥、和辻哲郎訳のストリンドベリの本、昭和2年(1927)新潮社版イプセン全集の一冊、昭和51年(1976)毛利三彌訳講談社版世界文学全集58イプセン/.ストリンドベリ、平成元年(1989)原千代海訳未来社版イプセン全集を書棚から久し振りに出して捲ったみた。それぞれ時代の匂いはするものの、それにしても進歩していない自分がいるのには驚くー。巻末の略年譜、参考文献も入れれば228ページ、イプセン没後100年の先取り企画だが読み応えのある本である。

追記。著者が本文178ページで森鷗外の訳文にある「不思議」という語について言及しているところがある。
原作のvidunderlige、そのドイツ語のdas Wunderbare、いずれも「もっともすばらしいこと」、「すてきなこと」を表現する言葉だ。著者はイプセンの『人形の家』は、いかにしてノラが人生のパラダイムを変えるにいたったかを追求した作品で、しかもたった3日間の出来事をドラマにしてそこにノラの人生が凝縮された形で提示されていると見る。 それがさらに三幕、3時間足らずの舞台に圧縮されているため、同じ言葉でも劇の冒頭、事件の起こった前と後、結末の部分で意味することが変化・発展していて当然と書く。問題は、『人形の家』を翻訳する時に、原作(鴎外の場合はドイツ語訳ですが)では意味の位相が変わっていく語に訳語を与えていていいのかと疑問を呈しているのだ。第一幕ではノラの陽気で快活のプラス志向の感嘆を表現する形容詞「すばらしい」で現代語風に言えば「すっごーい」があてはまるとし、第二幕はノラが偽りの署名をした証書がノラの運命をもてあそぶようになると状況が一変し、この「不思議」は名詞化しマイナス志向となり、何か「大変なこと」を意味するようなると書く。そして、これほど変貌する劇中のキーワードを何語にしろ翻訳することは並大抵のことではないと言い、「不思議」をどう訳しているか見るだけで、その翻訳の出来具合が判断できるくらいと指摘する。
  それではちょっと筆者の手持ちの本でその訳を読み比べてみよう。昭和2年、昭和51年、平成元年と時代の背景を考えながら、訳者の個性と翻訳の工夫をここに読み取ることも可能だ。
 
①著者が故意に鴎外の訳語をはめ込んだもの
2005年(平成17年) 
ノラ 分かるわけないじゃない。これから「不思議」がおこるんだから。
リンデ夫人 「不思議」 ?
ノラ そう、「不思議」よ。でも大変なことなの。それ。何があろうと起こっちゃいけないことなの。

②楠山正雄訳
ノラ まあ、どうして分かるものですか。だつて奇蹟がそこへあらはわれようといふところですもの。
リンネ夫人 奇蹟とは。
ノラ えゝ、奇蹟よ。けれどじつにおそろしいことなのー。
【1927年昭和2年新潮社刊『世界文学全集(26)楠山正雄訳イプセン集】

③毛利三彌訳
ノーラ ああ、どうしてあなたにわかったりする ? 今から起ころうとしているのは、素晴らしい奇蹟なのよ。
リンネ夫人 素晴らしい奇蹟 ?
ノーラ ええ、奇蹟、素晴らしいわ。でもとても恐ろしいわ、
【1976年(昭和51年)講談社刊毛利三彌訳『世界文学全集-58イプセン/ストリンドベリ】

④原千代海訳
ノーラ あら、わかるはずないでしょう ? 奇蹟なんですもの、起ころうとしているのは。
リンデ夫人 奇蹟 ?
ノーラ ええ、奇蹟よ。でも、とても恐ろしいことなの、
【1989年(平成元年)未来社刊原千代海訳『原典によるイプセン戯曲全集』】

  森鷗外は「戯曲の翻訳法」でこんな事を書いている。
蓋戯曲をするものゝかゝる自由をなす所以は、戯曲といふもの彼反復咀嚼して其味を知るべき哲学書などゝといふものから殊なればなり。哲学書に於いては作者に人と同じからざる用語例ありて、一字といへども動し易からず。その訳者は宜しく字を遂ひてこれを訳し、文の或は艱渋になるをも厭わざるべきものなれど、戯曲はこれを読み、これを聞きて、その幻象直ちに読者聴者の目前にあらはれざるべからざればなり。故にいはく。戯曲の翻訳は、これを哲学書などの翻訳に比すれば頗る自由なるものなり。
(岩波書店刊 日本近代思想体系15「翻訳の思想」所収)
(8月20日 記)

追記2。そう、明治大正期の島村抱月訳もできたら手に入れて上記に加えてみたい。
奇蹟、奇蹟と言えどもこれは遺跡それとも井関農機か、あら不思議。
と幕末に外国船を見て驚いた川柳の口調にあやかってみた・・・。
(8月21日 記)

追記3。
さて、島村抱月訳はどうか。

ノラ それが何うしてあなたに分かりませう ? これから見はられて來やうといふ奇跡てすもの。                
リンデン 奇跡ですつて ?
ノラ はあ、奇跡。けれども非常に怖い事ですよ、

【復刻版・日本図書センター刊『イプセン傑作集』(底本は大正2年~7年、早稲田大学出版部刊『イプセン傑作集』全6巻)から】
(9月2日 記)

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