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2006/06/25

超人のジャーナリスト・アイ 33 最近の日刊ゲンダイの記事から『悪党芭蕉』

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まずは著者インタビュー冒頭の記事から。「芭蕉と聞けばほとんどの人が"古池や蛙跳び込む水の音"という句を浮かべて、わびとかさびとかの俳聖を思い出すでしょう。しかし、あの池は"枯淡の聖なる池"ではなくて、天和2年の江戸の大火で大量に死体が飛び込んだであろう池で、ゴミの浮かんで泥のにおいが強い"混沌の池"なんだ。それが、後世、芭蕉が神格化されることで、意図と違う解釈がまかり通ってきたんですね」とは『悪党芭蕉』の著者嵐山光三郎氏。2006年6月15日付の日刊ゲンダイの著者インタビュー「芭蕉は危険領域の頂に君臨する"悪党"でした」は、そのタイトルもそうだが、痛快そのもの。久し振りにわれらの嵐山光三郎氏の登場で記事が踊っている感じ。曰く、江戸に出てから俳句で名を上げるまでは、土木工事の請負仕事で100人の人夫を采配していたんだから、やっぱり並の人じゃない。スポンサーへの配慮も怠りないし、あいさつ句も実に多いとか。曰く、芭蕉には、行く先々でスポンサーに提供してもらった庵を旅に出るときには売り払い旅費にしてしまう、というずうずうしさもあったと。また、曰く、芭蕉という俳号については、謡曲の『芭蕉』に由来すると言い、僧の前に女が現れて草木の成仏を願い、後半その女が芭蕉の精(女)としてみすぼらしい姿で現れて世の無常を説くという話なんだが、芭蕉は両刀遣いでね。最初は伊賀の殿様の寵愛を受けた女役だったんじゃないかと考えられるとか、ともかく痛快なのだ。芭蕉は旅するだけの風流人じゃない。こういう危険領域の頂に君臨する宗匠だったということを知ったうえで、その句を鑑賞してもらいたいために書名を敢えて"悪党芭蕉"としたと著者の視点、その企てが見える。芭蕉に魅せられてきた著者渾身の芭蕉論のようだ(新潮社 1500円)。まずは書店で手にとって読んでみるとしよう。以前に書いた松尾芭蕉関連記事もどうぞ。

"場所"捜しすればするほどワビ剥がれ

追記。この本は最近第34回泉鏡花賞に決まったと報じられた(2006年10月16日 記)。

超人の面白読書 19 三浦 展著『下流社会』 続

  本書は博報堂研究開発局との2002年以来数回にわたる共同研究、2004年にイー・ファルコンと行ったマルチクライアント・プロジェクト「昭和4世代欲求比較調査」の結果、2005年に読売広告社にスポンサーになって頂いた「女性階層化調査」の結果や住環境研究所で行った調査の再集計結果を下敷きにしている。著者ははじめにのなかで「"下流"とは、単に所得が低いということではない。コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、つまりは総じて人生の意欲が低いのである。その結果として所得が上がらず、未婚のままである確立も高い。そして彼らの中には、だらだら歩き、だらだら生きている者も少なくない。その方が楽だからだ」と書く。団塊ジュニアといわれる世代やそれよりも若い世代を中心に意識調査、消費調査を行い、その結果を分析した、副題にもある”新たな階層集団の出現”を表出させた階層問題に関する消費社会論だ。目次を見ると、第1章「中流化」から「下流化」へ 第2章階層化による消費者の分裂 第3章団塊ジュニアの「下流化」は進む? 第4章年収300万円では結婚できない!? 第5章自分らしいさを求めるのは「下流」である? 第6章「下流」の男性はひきこもり、女性は歌って踊る 第7章「下流」の性格、食生活、教育観 第8章階層による居住地の固定化が起きている?から成り立っている。著者もあとがきでこのアンケート調査のサンプル数が少なく、統計学的有意性に乏しいと認めざるを得ないと記しているが、その統計手法を駆使した現在の若者の意識、消費の引き出し方は見事と言わざるをえない。たまにはそうかななど首を傾げたくなるところやその結果の引き出し方にも疑問もあるところもあるが。著者指摘の面白いところを引用してみる。「その学歴、性格、容姿などが、純粋に個人の能力と努力だけの産物というわけではない。それらは親の階層によっても大きく規定されてしまう可能性が高い。男女の差別、男女間の階層性ではなく、女性同士の差別、そして個々の女性の背景にある親の階層性による差別が、今、拡大しているのだ」(本文P.70)。京都の有名私立大学のある教授が、幼稚園から小、中、高、大学まで否卒業して教職員としてその大学に就職するとしたら想像するだけでもぞっとするねと言っていた。しかも幼稚園入園金が約150万円、学校法人の囲い込みはとうとうここまで来たかの感を筆者などは持つが、どうしても入りたい親もいるのから不思議だ。入園倍率も高いらしい。
それは次の事柄に実にあてはまる。生まれたときから東京の郊外の同じような住宅地の同じような中流家庭に育った価値観の若者が増えるということは、異なる者同士のぶつかり合いから新しい文化が生まれる可能性を縮小させていると言えるだろう。それはいわば「世界の縮小」だ。(本文P.259~P.260)そして上述の例は団塊ジュニアが親になる世代だ。進行しているか、《格差社会》ー。かくして井の中の蛙の「バカの壁」は知らぬ間に築かれる。そして築かれても、その存在に誰も気がつかず、壁の中の快適さに耽溺する危険がある(本文P.261)。それでは下級社会を防ぐために求められるのは、「機会悪平等」の仕組みなのだと著者は言う。親の階層が低い子供は学力が低い傾向があり、それは遺伝ではなく、家庭環境のためであるとするなら、大学入試で、親の所得の低い家庭の子供は合格点数を下げればよい。いわゆる下駄を履かせるという方法である。(ついでに所得の高い親の子弟は合格点を上げてもよい)。東大や京大でまずは低所得者下駄履き入試を実施してみてはと提案。これは面白い、オモシロイ。そしてこのユニークな提案はこうも続く。東大学費無料化、大学授業インターネット化、地方から東京へ進学した場合の資金援助、上流には「ノブレス・オブリージュ」(高貴なる者の義務)を、と。
この本の性格上、数字とパーセントの多いのは仕方がないが、なかなか読み進みにくかった。ポスト資本主義はアメリカのそれを追随するのではなく、北欧型の社会民主主義をモデルに日本型・環境・社会・民主主義を目指すべきだろう。大格差を無くす意味でも。

それにしてもサッカーワールドカップ世界大会(FIFA 2006 Germany)で日本は一次リーグを突破できずに敗退。身体能力、技術力、監督采配力、リーダー力、チームワーク力いずれにせよ世界の猛者と伍していくには何か。プロ意識に欠けているとはジーコ監督の弁、しかしこの大会に勝つためにジーコは監督を引き受けたはずだったのにこの言辞。ま、プロリーグが出来て13年の日本のサッカー、これからを期待するしかないね。足の速い、切り替えが、ミドルシュートが、空中戦ができるなどの選手が出現するか、新監督の名前が川渕会長のslip of tongueで暴露されているが・・・・・・・。オシム氏有力と今日の毎日新聞朝刊に活字が躍った。サプライズだ。
サッカーの格差《社会》か、洒落にならないね。ハングリー精神が足りないのではと思うのは筆者だけだろうか。残念、斬りッ! それにしても初戦のオーストラリア戦の戦い振りが悔やまれるね、あーぁっ !


2006/06/18

超人の面白読書 20 文庫クセジュ『スロヴェニア』

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  サッカーのワールドカップ(FIFA2006年)ドイツ大会F組で初戦オーストラリアと3対1で負けた日本は、2戦目はクロアチアと戦う。そのクロアチアは1991年6月25日旧ユーゴスラビアから独立した新生国家。同じく独立して今年で15年、その西隣に位置するスロヴェニア。ほぼ四国位の面積に201万人が住み、北はアルプスの南麓オーストリアに接した山岳地帯、東はハンガリー平原と接する穀倉地帯、西はイタリア、南東はアドリア海の海岸線もあるリゾート地、そしてクロアチア近く中部の荒涼としたカルスト地形といった風光明媚と変化に富んだ小国、それがスロヴェニアSloveniaである。最新情報では謳い文句は"LOVE"のある国 Slovenia where "love"can be found らしい。
この本は、フランスで最も評価の高い「アカデミー・フランセーズ賞」を二度も受賞している東欧史研究の第一人者でパリ第三大学国立東洋言語文化学院名誉教授のジョルジュ・カステランGeorges Castellansと『スロヴェニア史』の著作もある同じ国立東洋言語文化学院(INALCO)のスロヴェニア語の教授のアントニア・ベルナール女史Antonia Bernardの共著『スロヴェニア』の翻訳である。訳者の千田善氏は1986年ベオグラードやリュブリャナで7年間過ごしたフリーランスのジャーナリストで国際問題研究家。新書版形式のクセジュ文庫の一冊だが内容は濃い。目次を見ると第1章国土と人間、第2章スロウ゛ェニアの歴史、第3章スロヴェニア文化とスロヴェニア民族の形成、第4章ユーゴスラウ゛ィア統治下のスロヴェニア人、第5章独立、第6章スロヴェニアの経済、第7章スロヴェニアの文化から構成されていて1、5、6はジョルジュ・カステラン、3と7はアントニア・ベルナール女史が担当している。185ページのこの本を読了して感じたことは、長い長ーい歴史の困難を乗り越えて自分たちの国民国家を樹立し、今日の繁栄を享受しているスロウ゛ェニア人は辛抱強い国民だということだ。去年はポーランドに関する本を数冊読んだが、それと劣らず歴史から国名が消えた屈辱の歴史は同じかも知れない。
この本には巻末に歴史年表が付いていないので、日本ースロヴェニア友好協会編で簡単にこの国の歴史を垣間見てみよう。

869年 スラブ人君主コーツェルによって、スロヴェニア人による初めての独立国家を建国
900年 騎馬民族マジャール人の侵略により王国は崩壊
1804年 オーストリアのハプスブヘルグ家の武力に鎮圧され、スロヴェニア全土を支配される
1848年 3月革命によりメッテルニヒが追放され、ウィーン体制が崩壊
     ・ スロヴェニアはオーストリア=ハンガリー帝国の保護下にあることを選択
     ・ 第一次大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊
1918年 南スラブ人の統一国家であるセルビア人・クロアチア人・ スロヴェニア人の王国に参画
1929年 セルビアの強い影響下になる最初のユーゴスラビアが誕生
1941年 ユーゴスラビアがナチス・ドイツとムッソリーニのイタリアに占領される
1945年 第二次世界大戦が終結するとともに、チトー将軍率いる共産党がユーゴスラビア連邦を建国
1990年 スロヴェニア初代大統領ミラン・クーチャンを党首とする連立政党デモスが共和国議会の多数を獲得
1991年 6月25日 独立国家へ
2002年 ミラン・クーチャン大統領の任期切れに伴う大統領選挙が実施され、ヤネズ・ドゥルノフシェク(Janez
Drnovsek)大統領(自由民主主義党党首)が誕生
2004年 ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリー、リトアニア、エストニア、マルタ、キプロスとともにEU加盟

  この文庫クセジュ本は1996年発行なので2002年、2004年までは勿論言及されていない。全体的に文学関係が地理、歴史、政治、経済関係より多く割かれていて、この小国の文学特に詩歌の豊かさが窺え知れるのだ。ということで文学に関するページを追ってみた。なかでも著者は18,19世紀の作家達に注目し、その活躍は今日のスロヴェニア文学に強い影響を及ぼしていると書く。スロヴェニア人による最初の詩集『試みのための詩Pesmi za pokušino』(1806年)やスラブ人の土地に古代のローマ時代のイリリア州を復活させたことに関し、ナポレオンをすぐれた騎士としてささげた最も有名な詩『イリリアの再生Iliirija oživljena』(1811)などを書いた聖職者で詩人のヴォドニクValentin Vodnik(1758~1819)、『青春の決別Slovo od ladosti』、『マティアス・チョップの思い出にDem Andenken des Matthias Čop』、『不運のソネットSoneti nesreče』、叙事詩「サヴィツァの滝の洗礼Krst pri Savici』(1836)それに民謡を採録した「美しきヴィーダLepa vida」を書いてその大半は『ポエジーPoezije』(1847)に収められているスロヴェニア最大の詩人フランェ・プレシェーレンFrance Prešeren(1800~1849)。これは、スロウ゛ェニア人にとっての民族的シンボルである言語と文学の代表作として大きなよりどころとなった(第3章スロヴェニアの文化とスロヴェニア民族の形成 Ⅳフランツェ・ブレシェーレンP.50~P.51)。
  言語学者イェルネイ・コピタル(1780~1844)がスロヴェニア語の本格的な文法書を出版したり教会改革思想のヤンセン主義を受け継いだ聖職者による聖書のスロヴェニア語翻訳(公教要理、福音書講和、祈祷書、旧約聖書の詩篇など)は、スロヴェニア語の文語の確立に大いに貢献し、知識人にも影響を与えた。その他1800年から1825年にかけて、J・ヤーペリ、V・ワイセントゥルム、J・L・シミゴツ、P・ダインコらによっておびただしい文法書が出版された事実は、言語の問題が日常生活の一部になっていたことの証明であるが、それでも高等学校より高いレベルのスロヴェニア語の教育は、1919年のリュブリャナ大学の開設を待たねばならなかったと著者は書く。この本に則って19世紀後半、20世紀の文学史を素描するとしよう。
ウィーンの学生たちや、後に偉大な作家となる若者によって創刊された『スロウ゛ェニアの報道者Slovenski glasnik』誌に、詩人・作家・劇作家・批評家・百科事典編集者・文法学者のフラン・レウスティクFran Levstik(1831~1887)の作品『リティヤからチャテジュへの旅Popotovanje iz Litije do Čateža』が掲載されたことは画期的と記し、今日でも依然として新鮮な印象を与える、スロヴェニア人のダヴィデ(しっかりした農民で知恵が回る)と巨人(ウィーン政府とその貴族たちに恐れられている)の戦いを簡潔、明快に描いた『マルティン・クルパンMartin Krpan』とこの作家の独自性はそのジャンルの多様さにあると書く。J・ユルチッチJ.jurċiċ(1844~1881)の『スロヴェニアイェニチェリ、ユーリー、コズィヤックJurij Kozjak,slovenski janiČar』、『10番目の弟Deseti Brat』、『ドーメンDomen』(歴史物語)、『隣人の息子Sosedov sin』、『ユーリー・コピラJurij Kobila 』、『ドクトル・ゾーベルDoktor Zober』、『美しきヴィーダLepa Vida』などの散文の最初の古典といわれる作品、スロヴェニアのハイネと呼ばれるシモン・イェンコSimon Jenko(1835~1869)の『前進Naprej』、大衆小説で知られるフラン・エリャヴィツFran Erjavvec(1834~1887)の『家畜および野生動物図解Domaċe in tuje živali podobah』、イワン・タルチャルIvan TavČar(1851~1923)の短編集『冬の夕べZimski VeČeri』、歴史小説『城の書記Grajski pisar』、『ヴィソコ年代記Visoška kronika 』、新興中産階級の生活を描いた小説『死んだ心Mrtva srca』、『秋の花Cvetje v jeseni』がある。その他ヨシブ・ストリタルJosip Stritar1836~1923)の『ゾーリンZorin』、『ミランドルの紳士Gospod Mirandolski』、詩集『ウィーンのソネットDunajski soneti』の作品やアントン・アシュケルツAnton Aškerc81856~1912)の詩集『バラードとロマンスBalade in romance』などの作品もある。スロヴェニアで今日評価の高い作家の多くは19世紀後半の人びとであると著者はこの時代の書き手に詳細を施す。その後の文学の変遷は近代文学、モデルナのグループ、社会主義リアリズム、戦争文学そして現代文学と紆余屈折しながら今日の隆盛を迎えている。
  それらの詩歌のなかでもアヴァンギャルドの代表のトマージュ・シュラムンTomaź Ŝalamun(1941~)は(外国生活も長くコスモポリタンの詩人で多くの作品をスロヴェニア語に翻訳したり、彼自身の詩集も多くの外国語に翻訳されている)、処女詩集『ポーカーPoker』(1966)、『アメリカAmerika』(1972)、『ソイ・リアリダードSoy realidad』(1985)などが代表作であるが、つい最近「 EURO-JAPAN POETRY FESTIVAL」 日欧現代詩フェスティバル in 東京(2005年12月9、10日、東京九段のイタリア会館で開催)で来日して自作詩の朗読を行っている。筆者も聴きに行ってその"死者たちよ"のリフレーンの響きが妙に未だ耳元に残っている。全体で75行もあるトマージュ・シュラムンの詩「死者たちよ !」の最初の17行を引用してみる。

Mrtvi fantje

Mrtvi fantje ! mrtvi fantje !
kjer stepah hušknejo ptice in se raqzpolovi dan
kjer so kocke glav jardrnice za śepetanje in se vozovi
desk odbijajo od skal
kjer so jutra bleśčeča kot oči slovanov
kjer se na serveru kloftajo bobri da odmeva kot vabilo
k smrti
kjer kažejo otroci podplute oči in z besom skačejo
po butarah
kjer z odtrganimi rokami plašijo sosedom bike
kjer čakajo mraz v vrsti
kjer smrdi kruh po kisu, ženske po zvereh
mrtvi fantje ! mrtvi fantje !
ker se čekani zabliskajo in zaśumijo pravljice
kjer je največja umetnost pribiti sužnja v loku skoka
kjer koruzo zažigajo na ogromnih ploskvah da jo zavoha bog
mrtvi fantje ! mrtvi fantje !

死者たちよ

死者たちよ ! 死者たちよ !
ステップに鳥が飛び交い、日が二つに割れ
るところ
頭のダイスが囁きの帆船となり、板を
       乗せた車が岩にあたって跳ね返
るところ
北でビーバーが叩きあい、それが死へ
      誘うかのように響くところ
子供たちが血走った目をして、薪の上を
     怒りにまかせて飛び跳ねるとこ

もぎ取られた両の手で隣人の牛が脅かされる
ところ
厳寒を列を成して待つところ
パンが酢のにおいを放ち、女たちが獣のに
おいを放つところ
死者たちよ ! 死者たちよ !
牙がきらめき、御伽噺がざわめくところ
最高の芸術品が奴隷を虚空でくぎつけにす
るところ
巨人な平原でとうもろこしが燃え盛り、神
がそれを感じるところ
死者たちよ ! 死者たちよ !

【金指久美子訳】

  訳者あとがきで歴史については、この新しいスロヴェニアはまだ通史がなく、旧ユーゴスラビア、オーストリア、ハンガリーなどの複数の地域にまたがる文献から自分でまとめなければまらなかっこととウィーンから見れば、旧帝国の辺境、田舎にすぎず、「支配者」の側からの断片的な記録しかないという。スロウ゛ェニアは西欧の影響を強く受け、文化やメンタリティーの点でほかのバルカン的地域とは一線を画している上に、経済的にも生活水準が飛び抜けて高いなど南スラブの仲間のなかでも異端児だった。今も色濃く残る中世の教会や建造物はこの国が培った歴史そのもの、筆者も訳者同様否訳者に刺激されて、神聖ローマ帝国や宗教改革、ルネッサンス、バロックなどの西洋文化史について勉強し直さなければとつくづく感じた次第。このスロウ゛ェニアについては知っていることがあまりにも少なすぎた。あるHPを読んでいたら今やこの国の首都リュビャナには世界的なハンバーガーチェーン店も進出、大分流行っていて既存の伝統的な店が閉店に追い込まれているというちょっと淋しいニュースも入っている。聖職者で詩人のウ゛ォドニクがその詩を捧げたようにスロヴェニア語への思いを象徴するものの一つが”イリリアの塔”だ。訳者が言及しているこの話には筆者も感動したね。リュブリャナの国立国会図書館裏手の「フランス革命広場」に、高さ13メートルの塔がそびえている。「イリリア」はナポレオンの軍隊がこの地を占領し、フランス領土として編入した属州の名で、この当時、史上初めて、スロウ゛ェニア語がドイツ語と対等な公用語として認められるという画期的な「大事件」が起こった。ナポレオン統治はわずか9年間だったが、オーストリア宰相メッテルニヒがウィーン体制によって封じ込めるもスロヴェニア人は、これをきっかけに民族的に「目覚め」る。その後多数のスロウ゛ェニア語の文法書や詩人や作家が輩出し社会的に影響を与える。゜イリリアの塔"はこれを記念し、20世紀になってスロウ゛ェニアの代表的建築家ヨージェ・プレチェニク(リユブリャナの主な建築のほか、プラハ城の修復でも有名)の設計で建立された。日本でもこの国についての本格的な最新の成果を踏まえた概説書がそろそろ出て来てもよさそうなものだ。もっと知りたいスロウ゛ェニア、だ。最後に難点を言うと、図表はほんのちょっとあったが写真なども入れて欲しかったし、歴史、政治、経済、地理と文学、文化史とで分けた方が通史としては読みやすい。
さらにスロヴェニア文学を知りたい方は下記のHPにアクセスしてみて下さい。
http://www.synapse.ne.jp/saitani/slovenia.htm


2006/06/16

超人の面白ラーメン紀行 42 市ヶ谷 麺処『くるり』

超人の面白ラーメン紀行  42

  2006年2月4日のこのコラムのラーメンランキングのなかで紹介した注目のラーメン店が、市ケ谷にあります麺処『くるり』。雨降りの昼下がりにもかかわらず、筆者はこの機会を逃すまいと13番目に並びました。中に入るまでの所要時間は35分、多少くたびれました。読みかけの本の続きを読んだり、次の行動予定を立てたりして過ごしましたが、やっぱりこういう時はカンネンして人間観察が一番。カウンターがけ7名の個人回りした店は、法政大学市ケ谷キャンパスの川向にあるところ、場所柄勿論地元の大学の学生さんらしき人が多くグループで食べに来ていたみたい。若い女性も年配の女性もいましたね。みそらぁめん(630円)、みそねぎらぁめん(750円)それにみそちぁしゅう(800円)、味付け玉子(100円)と大盛りはサービスと、至ってシンプルなメニュー。というわけで筆者は大盛りサービスのみそらぁーめん(630円)を頼みましまた。究極のラーメン作りに日々勤しんでいる若い店主、極上の味は隣の学生さんが発した言葉が象徴的でした。クリーミーでうまい、うまいな。でも普通のラーメンと違う味ー。筆者は魚介系の濃いスープに背脂、出汁はむしろトロトロ、しかしチャーシューは本当に美味かったね。香油(?)がかかったやや多めの刻みネギとモヤシがストレート系中細平麺に絡まってラーメンのミクロコスモスを演出、この技は開店して二年目のこの若い店主のイマジネーションの賜物でしょうか。筆者にしてはまろやかですが、ややコクてしつこい感じがしました。正直言って。カウンターに置いてあるカレー風味他3種類の香辛料を択んで食べるのも味を引き立てること間違いないかもしれません。ところで、この店は店主一人でやっているみたい。トイレはいつ行くのでしょうか。つい余計なことを考えてしまいました。ひとつだけ難点を言えば、出されたどんぶりのまわりが油でちょっとベトツイテイタことでしょうか。たまたま筆者のものだけだったかもしれませんが。午前11時30分~午後7時までの営業で、日曜祭日はお休みと小さく張り紙してありました。それにしてもいらっしゃい、ありがとうございましたの挨拶がそれこそ蚊の鳴くような声、ともかく控え目、昨日の池袋のラーメン店とは正反対です。それでもこれだけ仕切るのですから並大抵の根性では勤まらないかもしれません、ね。ここは無駄のないシンプルでいて上品なラーメン小屋といったところでしょうか。蛇足ですが、若い店主は日々究極のラーメンを求めて食べ歩いているらしい。
麺処『くるり』①スープ★★☆②麺★★☆③トッピング★★★④接客・雰囲気★★⑤価格★★★


ラーメン道満ち足りては笑顔デズ
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2006/06/15

超人の面白ラーメン紀行 41 続

そして、一句。 暑さごえスープ啜るやブクロ味

超人の面白ラーメン紀行 41 池袋『無敵家』


  ラーメン激戦区、池袋。並んででも大勝軒に入ってみようと思ったのですが、残念水曜日は定休日でした。そこで目を付けたのがここ、南池袋1丁目はジュンク堂の前にある行列のできる店『無敵家』です。30度近くはあったでしょうか、こんな日はさすがラーメン屋でも疎らだと、しかも時間帯も時間帯午後3時過ぎですからとたかをくくっていました。探しながら5、6分歩いた後、汗を拭き拭きその店に入ろうとしました。あっ、並んでない、これはラッキー。内心しめしめと思いましたが、ちょっと中に入や否ややはり学生さんとサラリーマンの人が並んでいたではありませんか。やっぱり池袋でも一、二番の評判の店だけあるねぇーと感心しているうちにとんコクらーめん「本丸めん」(750円)がカウンター上に登場。一口食してこれは行けると思いましたね。カツオ出汁が目一杯の豚骨醤油味。中細ストレート系の麺、ホーレン草、支那竹と味付け玉子それに柔かくて美味だったチャーシュー。この暑いなかー30人位しか入らない店内も店員の気合いの入った掛け声でも暑かったがー久し振りに完食です。食べ終わって外に出るとナランデイマシタ 、ナランデイマシタ8名ほど !
げんこつラーメン、麺創房『無敵家』の初夏の昼下がりの一幕でした。
『無敵家』①スープ★★★②麺★★★③トッピング★★④接客・雰囲気★★⑤価格★★☆

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2006/06/10

超人のジャーナリスト・アイ 32 テレビ視聴あれこれ 美しきノルウェー

  テレビ東京の番組「地球街道」を初めて見ました。しかも偶然に。美しきノルウェー・フィヨルドで深呼吸がしたい !が今回のタイトルで、シンガーソングライターの辛島さんがノルウェーの春・初夏を尋ねていました。オスロの国立美術館のムンクの『叫び』」(何年か前にこの美術館から盗まれて大事件を起こした有名なムンクの絵画ですが、筆者は大分前に東京に来たムンクのこの絵を見ています)を見たり、最先端のノルウェーサーモンの養殖場では、鮭の刺身を食べたことのないノルウェー人に食べさせてはこちらの方が味は濃いねと言わしめる旅人、それが辛島さん。彼女も小さい頃からノルウェーの魅力に魅せられた一人何だとか、その彼女がこの春出来たばかりのフィヨルド絶景のポイントに立ちます。この絶景はここに立つ者でしか味わえないかけがえのない風景です。また、降り注ぐ滝の飛沫を見たときなど癒された気分が全身を駆け巡るみたい(決してマイナスイオン効果なんて言うまい !)。フェリーでのソグネフィヨルド(全長200kmは世界最長)とその支流の世界遺産・ネーロイフィヨルドの旅は、言わば入り江Fjørdの独特のくねった自然美(それは山、河と断崖絶壁の鋭く抉られた幾何学的構図に何千年の北欧の自然の営みを見る思いがしますが)に酔いしれる旅でもあります。前編30分は短すぎると筆者には映りましたね。後編はグリークの音楽を尋ねる旅とか。そう言えば先週かな、イプセン(今年はイプセン没後100年、いろんな催しが行われるみたい)の「ヘッドカブラー」をNHKのBS2で深夜にやっていましたね。この分野では第一人者の毛利先生に話を聴く形で演出家の女性とアナウンサーの鼎談、対談形式で。興味深かったのはシェークスピアについで上演回数の多いのがこのイプセンらしいとのこと、surpriseでしたね。女性の解放とかテーマは社会性を帯びていて当時の女性には賛否両論が沸き起こる問題作でしたが、イプセンの私生活はというとあまりこの点をイプセン本人が語らなかったのでよく分かりませんとは毛利先生の弁。セリフが長いのが役者泣かせとも。で、筆者は翌日は仕事もあるし途中で眠りについてしまった次第。

それではテレビ東京のHPをどうぞ。060617_1
美しきノルウェー・フィヨルドで深呼吸したい!前編」
辛島美登里・美しきノルウェー。フィヨルドで深呼吸がしたい!ノルウェーに来たら、必ず見ておかなくてはならないもの。それはノルウェーが生んだ天才画家、ムンクのあの絵です。もちろん辛島さんも、オスロ国立美術館へ。ヨステダール氷河国立公園で見ることができるのは、青い氷河。幻想的で美しいその光景は、そこだけまるで他の惑星に迷い込んでしまったかのような錯覚を起こさせるほどです。
中略。『神の言葉を語る』と称される荘厳なフィヨルドで、辛島さんの夢が叶います。

2006年6月17日放送
「美しきノルウェー・フィヨルドで深呼吸したい!後編」
辛島美登里・ノルウェー音楽紀行。フィヨルドで曲が生まれたら。
ノルウェーを代表する偉大な作曲家、グリーグの足跡をたどります。
ノルウェーの大地が育んだ素晴らしい音色を奏でるのは、この地独特の楽器。その代表が、ハルダンゲル・ヴァイオリンとアコーディオンです。お祝いの席には欠かすことのできないこの楽器に隠された秘密とは…?
ノルウェー第二の都市ベルゲンは、グリーグの生まれ故郷。14世紀の中頃、海上貿易の商人たちが暮らしていたこの場所は、現在世界遺産に指定されています。木造家屋が立ち並ぶ、宝石のような美しい街並みには、不思議な現象が…。
ハルダンゲルフィヨルドは、グリーグが最も愛した場所。ここにはグリーグの作曲小屋があり、愛用のピアノが残されています。そのピアノに触れ、『ノルウェーの風景を表現する曲を作るのが自分の務めだ』と語ったグリーグの思いと、美しいフィヨルドを全身で受け止めた辛島さん。その旅の記憶が生み出した、新しいメロディーとは…?

追記(2006年7月17日 記)

7月15日放送分

「宍戸開・我が愛しのスウェーデン。野いちごの道は国境を越えて。 前編
現在、写真家としても活躍中の開さんが大好きな映画、それは、1957年に公開された、ベルイマン監督の名作『野いちご』。
たとえその道に絶景やグルメがなくても、映画の舞台になった道を走ってみたい…その夢を叶えるために、ストックホルムから、南部の町ルンドまでおよそ700kmの道を走ります。
ストックホルムの中心にある旧市街、ガムラスタン。13世紀、ストックホルムの街を築く基点となった古い街です。映画『野いちご』の撮影も、ここで行われました。何度も繰り返し『野いちご』を見ている開さんにとっては、初めての街とは思えないようですが…バードステナは、13世紀から続く古い街。そこで出会った親切な方に、スウェーデンの人の暮らしを見せていただくことに。
古いものを大切にする、シンプルであたたかい、おしゃれな暮らしぶりを学びます。
ストックホルムからおよそ300km、グレンナという小さな村には、『野いちご』の撮影で使われたホテルがあります。
主人公の老人が、途中で知り合った若者たちと、湖の見えるテラスで昼食を取る、開さんお気に入りのシーン。今も残るその撮影現場に立ち寄り、感慨ひとしおの開さん。
しかし、夢の旅路はここでは終わりません。ルンドの街まで、あと400km…。

2006年7月22日放送

「宍戸開・我が愛しのスウェーデン。
 野いちごの道は国境を越えて。 後編」

開さんが大好きな、ベルイマン監督の名作『野いちご』。映画の舞台になった道を走りたい…その夢の道は、ストックホルムから、南部の街ルンドへと続いています。
「ガラスの王国」として知られるスモーランド地方には、いくつものガラス工房が点在しています。美しいデザインで世界中から人気を集めるスウェーデングラスの歴史は、
16世紀ごろ、ベネチアから職人を招いたことに始まります。
ここで、旅の思い出になるものを作りたい。もちろん開さんは『野いちご』にまつわるものを、と考えました。自らデザインし、気合い十分で職人さんと相談。完成は2日後です。
開さん憧れの町、ルンドは、古くからの学生街。映画の中の主人公、そして開さんの目的地です。街のシンボルである大聖堂や、北欧最大のルンド大学。
全てが、開さんの心を震わせた映画で見たままに残っています。
さらに開さんは、国と国とをつなぐ道を走ります。それは、遥かなる一本の橋、全長16kmのオアスン橋です。
建設構想から約400年の時を経て完成した、スウェーデンとデンマークをつなぐオアスン橋。その国境の橋を渡って、デンマークへと入ります。
長年あたためていた夢を叶え、ヨーロッパの道を走る喜びと楽しさを感じた開さんの次なる夢は、どこにつながっているのでしょうか…?

学術先端情報ー学術mini情報誌『PS JOURNAL 』の紹介 4

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2006年第9号 特集:研究者の現在Ⅷ 人文・社会科学の、パースペクティブ

■王政復古政府と身分問題             京都大学名誉教授     佐々木 克
■最初の現地調査ー「掃苔録」第1冊からー    仏教大学教授     原田 敬一
■総合科学と歴史学                広島大学助教授     布川 弘
■宮沢賢治の造語「イーハトヴ」について      福島大学教授      九頭見和夫
■作品の力がものを言うー中国における谷川俊太郎ー
                         東京大学外国人研究員     田 原
■「自立」途上にある韓国の植民地期経済史研究
                              江陵大学講師    呂寅満
■資本市場研究について               東京大学教授    伊藤 正直

宮沢賢治の造語「イーハトヴ」について

 九頭見和夫 (福島大学教授/比較文学)

 賢治文学解明の重要なポイントの一つに、豊かな教養から生み出された賢治独特の造語がある。中でも特に重視しなければならないのは地名「イーハトヴ」であろう。
 この「イーハトヴ」の表記については、賢治自身の中で揺れ動いたのか一定せず、最も早く登場する詩「イーハトブの氷霧」(1923年11月頃)から始まって全部で7種類存在する。(1)「イーハトブ」(前述の詩の他に、童話「毒蛾」)、(2)「イーハトヴ」(童話「氷河鼠の毛皮」、童話「ポランの広場」、童話「注文の多い料理店」の表紙)、(3)「イーハトーボ」(童話「イーハトーボ農学校」)、(4)「イエハトブ」(「注文の多い料理店」の広告葉書)、(5)「イーハトーヴ」(詩「遠足統率」、童話「グスコンブドリの伝記」)、(6)「イーハトーヴォ」(童話「ポラーノの広場」)、(7)「イーハトーブ」(詩「さあれ十月イーハトーブは」、童話「グスコーブドリの伝記」)。まずこの造語の意味・内容についてであるが、賢治自身が「注文の多い料理店」の広告の中で解説している。
 イーハトヴは一つの地名である。強て、その地点を求めるならばそれは、大小クラウスたちの耕してゐた、野原や、少女アリスが辿つた鏡の国と同じ世界の中、テパンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考へられる。実にこれは著者の心象中に、この様な状景をもつて実在したドリームランドとしての日本岩手県である。そこではあらゆる事が可能である。人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し大循環の風を従へて北に旅する事もあれば、赤い花杯の下を行く蟻と語ることもできる。
しかしこの「イーハトヴ」の具体的な場所となると、賢治が愛読したアンデルセンの童話「小クラウスと大クラウス」やルイス・キャロルの童話『不思議の国のアリスの冒険』の人物が登場したりして、「ドリームランドとしての岩手県」、すなわち実在の、賢治が生活していた大正・昭和初期の岩手県そのものではないということがわかる程度で、地球上の、それも賢治の愛読する童話に登場する人物が活躍する場所であればどこでも可能と思われるほど漠然としていてつかまえどころがない。
 つぎに「イーハトヴ」の語源についてであるが、賢治の広範囲にわたる外国語能力とも微妙に関係することから、説得力のある学説は存在していない。強いてあげれば恩田逸夫の説である。
  これらの造語は<イハト、イーハト、イーハトー>など、長音の有無の別はあるが、基本的には「イハト」で、「いはて(岩手)」に由来すると推定される。・・・つまり、「岩手」の歴史的仮名づかい、「いはて」に基づいて<いはてihate>のteを、エスペラントの名詞の語尾づくりのように母音Oで終わる語としてとしたのであろう。そして岩手県の「県」に当たるところは、ドイツ語で「場所」を意味するをつけて、イハトヴォ(=岩手というところ=岩手県)>と造語したのであろう。「ヴ・ブ・ボ」を「ヴォ」と同じに用いていることは、いうまでもない。)
賢治は、堀尾青史作成の「年譜」によれば、1922年の1月にドイツ語とエスペラント語の独習を始めている。また弟清六による賢治の蔵書目録にもドイツ語やエスペラント語の本が掲載されている。恩田の指摘のように、「イーハトヴ」がエスペラント語と関係のある造語であることは、以下に述べるエスペラント語の特徴を考慮すればほぼまちがいないと思われる。
 まず第一に、「岩手」を「イハト」と表記した点については、エスペラント語の文字もローマ字であるが、エスペラント語のアルファベットにはの文字が存在しないためではなくてと表記し、ついでエスペラント語の品詞は語尾で決定されるので名詞の語尾Oをつけてとなったと推測される。なおのままだと副詞である。おそらくはこのに意味から判断すると、のいずれかのエスペラント語の名詞が付加されたものと推測され、発音も加味するとが有力である。以上のことを整理すると、となり、これを複合名詞にすると、例えばを複合名詞にするとと前の名詞の語尾Oが省略されるので、は、「コブリ」と発音しても「コーブリ」と発音しても意味は全く変わらない。第三は、語尾が「ヴ」と「ヴォ」、「ブ」と「ボ」とOが語尾につく場合(vo,bo)とつかない場合(v,b)とが存在することであるが、このことは、名詞をあらわす語尾Oがなくてもエスペラント語の場合品詞はわからないが単語の意味は推測できるので、賢治はおそらくその時々の語感に基づいてOを付加したり省略したのであろう。
 ここで「イーハトヴ」とほぼ同じ頃に作られた造語、童話「やまなし」に登場する「クラムボン」について触れてみたい。結論を記すと、この造語の語源は英語で、を付加して作ったではないか。具体的には、谷川にすむサワガニの生態と童話の内容から判断して、おそらくは母ガニが孵化し腹部に抱いていたカニの幼生(生まれたばかりの兄弟ガニ)と思われる。
 以上のように賢治の使用する造語は奥が深い。一つ一つの言葉を大切にする賢治の姿勢が、「イーハトヴ」の表記を7度も変えさせたのであろう。


超人のジャーナリスト・アイ 31 新聞・雑誌拾い読み PR誌最新号を読む

 首都圏、関西の書店で出版社のPR誌をもらい、まとめて拾い読みをしてみた。驚いたことに新潮社の『波』、筑摩書房の『ちくま』がページを増やして96ページ。これは老舗の岩波書店の『図書』と同じページ数だ。続いて講談社の『本』が80ページ、未来社の『未来』が48ページそれに定期購読している丸善の『學鐙』が64ページ。手元にあるこれら6社のPR誌の合計ページ数は、480ページで新書版2冊分の分量である。それだけ出版各社は小さくとも内容の濃いそれでいて充分宣伝効果のあるPR誌に力を入れている証左かもしれない。
そのなかで面白く読んだ記事をピックアップしてみる。『図書』の冒頭の大岡信、岡野弘彦、丸谷才一の《座談会》歌仙 海月の巻、四方田犬彦の「万葉集」や河島英昭訳「新訳ダンテ神曲」、吉村昭、鶴見俊輔のものもいいが、英文学者の清水一嘉が書いた「酒飲みの国、イギリス」が目に留まった。゜イギリス人は外国人のあいだで不断に酒を飲む国民として知られている。かれらは病気になるまで飲む習慣がある"と書き、何とこれはNorman Conquest(1066年)以前の話だから驚く。 パブの隆盛・衰退とコーヒー・ハウスの増加の相関関係など歴史を紐解きながらイギリスの節酒・禁酒運動とコーヒー・ハウス運動が無駄であったとは言い切れないと説き、現在のイギリスの酒飲み事情も盛られいて面白い。この英文学者は9時過ぎには寝てしまうらしいが、バッカスの味はその本領を発揮するのは9時過ぎてかもしれない。あぁー、mottainaiかも。
 木田元の「反哲学入門」新連載(『波』)が始まった。第一回第一章は哲学は西欧人だけの思考法である との刺激的なタイトルである。そのなかでガンで亡くなった作家の日野啓三に言及しているところに惹かれた。死をどう考えるかという問題で、サルトル、ハイデガー、メルロ=ポンテの考え方特にサルトルの死はわたしのすべての可能性を無にし、わたしの人生からすべての意味を除き去る、まったく不条理な偶発事に自分の考え方は近いとし、哲学的な知は宗教的な悟りとは違うと言った後に、曰く、日野啓三さんの晩年の作品を読んでいると、生と死の瀬戸際を生きるという状態がありえる、と思わされますね。日野さんのばあいは、悟りの境地のようなものではなくて、普通の人とはちょっと別の感受性を持っているということではないでしょうか。死に直面したぎりぎりの状態で、醒めた意識で生死の問題を考えることができる感受性。わたしは、常識的な人間です。生死の境に直面したら、何か書こうなんて気はおこりそうにありません、と。また、哲学とは「ありとあらゆるもの(あるとされるあらゆるもの、存在するものの全体)が何であり、どういうあり方しているのか」ということについてのある特定の考え方、切り縮めて言えば「ある」ということがどういうことかについての特定の考え方だと言っている。さて、どの程度理解して読んでいるか自問せざるを得ないとは筆者の呟き。哲学者・木田元はハイデガー他の哲学書の読書会をずっと続けているらしくその訳がどこかの出版社からでたはず。元NHKアメリカ特派員の手嶋龍一と元外務省職員の佐藤優のニュースソースの秘匿や守秘義務など様々な制約がある情報=インテリジェンスについての対談も面白い。
 ドキュメンタリー作家・映画監督の森達也の「勝手にシンドバット」(『本』)は、大学四年の就職時期にフラッシュバックし、その当時流行ったフォークソングと重ね合わせ青春の不安定な心模様を描いて筆者も思わず頷けたりして可笑しかった。その後この同級生はレコード会社に就職、学生バンドのライバルだったサザンオールスターズを売り出すことになったとそのデビュー秘話を面白く書いている。学生時代には髪を切る切らない話はあったし、この森達也氏と同様結局のところは皆、死ぬまで、モラトリアムにいるのかもしれないには筆者も同感だ。
さて、最後は現代フランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシーの小特集を組んでいる雑誌『未来』だ。「神の死」の再考、「キリスト教の脱構築」の試みなどで有名な哲学者はこの春来日し日仏会館、東大駒場、早稲田大学それに立命館大学で精力的に講演・討論を行ったとはこの小特集の報告者西山達也氏の記事。ダ・ヴィンチ・コードは今や流行語、その謎は深まるばかりだが、マグダラのマリアなど読み解く『私に触れるな-ノリ・メ・タンゲレ』などの著書を持つ哲学者だ。この哲学者を読み込むのは大変かなー。ところで、雑誌『未来』と言えば、親子二代でコラムを書き続けている社主の出版事情エッセー「未来の窓」だ。今回の"ふたたび人文書ジャンル見直しという課題をめぐって"のタイトルで111回目。時に切り口の鋭い提案もあれば時に愚痴にも思えてトーンダウンすることもあるが、エネルギッシュで意気軒昂である。手に入れたときははいつも、筆者はまずこのコラムから読む。そしてちょっと考えさせてくれるのだ。このなかでこのコラムの西谷能英氏が言及している紀伊國屋書店本店の人文書担当者の「じんぶんや」の試みが面白い。著者や編集者という言わば本読みのプロにあるテーマで20~30点ほどの本をコメント付きで推薦してもらい、さらにそのテーマに沿ったエッセーを寄稿してもらったものを小冊子にして店頭配布している。各ジャンルの基本書や、埋もれつつある良書を掘り起こし、スポットをあてることができ、また、回を重ねることによって、それらを各トピックの基本書や良書のデータベースを作ることができ、社員教育に繋がる(基幹棚にうまく反映させる)ことを指摘している。西谷氏も指摘しているようにこの人文書の試みをぜひ継続してもらいたいと思うのだ。何と言っても書店にとっては棚が生命なのだから。点、線、面と逞しく想像力を働かせよと言いたいな。結果はあとでついて来るのだから。

2006/06/04

超人の面白読書余話 森鷗外『舞姫』のモデルについて

 茨城大学名誉教授で地理学がご専門の中川浩一氏が『舞姫』のヒロイン・エリスのモデルとされる実在の来日した女性について、その本名がElise Wiegertであることを横浜発行の英字紙The Japan Weelkly Mail を読んで発見したという記事をHPで見つけて以前に書いたが、その記事を横浜開港資料館で実際に調べてみた。The Japan Weekly Mail紙の1888年(明治21年)の9月15日号には横浜港に降り立った名簿にMiss Elise WiegertImg072_3の名前が書かれているし、それから1ヵ月ちょっと過ぎの10月20日号には日本を立つ乗船名簿にMiss Wiegertの文字が見える。 インターネットで舞姫についての記事を探していたら、some other time氏のブログに2006年4月20日付で「舞姫あるいはゲネラル・ヴェーダー号の一等船客」と題した記事を見つけ面白く読んだ。曰く、Miss Elise WiegertはブレーメンBremenからはブラウンシュヴァイクBraunschweig号でスエズSuezを経由し香港でゲネラル・ヴェーダー号に乗り換えたらしいことが分かっているという。ブラウンシュヴァイク号の香港到着記事に降客名としてミス・エリーゼ・ワイゲルトMiss Elise Weigertと記載されているらしい。これが今日までの舞姫をめぐる混乱の大きな要因となった、と。WiegertかWeigertかそれとも法律家で現地調査を踏まえて書いた植木哲氏(筆者はなかなか手に入りにくかった『新説 鷗外の恋人エリス』を読んでいる)のルイーゼ・ヴィーゲルトか、謎は深まるばかりで興味は尽きない。それにしても森家には何らかの資料があるはず。公開して欲しいと願っているのは筆者だけではないと思うのだが。
小金井喜美子著『鴎外の思い出』(岩波文庫)にはこう書かれている。
10月17日になって、エリスは帰国することになりました。だんだん周囲の様子も分かり、自分の思い違えしていたことにも気が附いてあきらめたのでしょう。もともと好人物なのでしたから。その出発については、出来るだけのことをして、土産も持たせ、費用その外の雑事はすべて次兄が奔走しました。前晩から兄と次兄と主人とがエリスと共に横浜に一泊し、翌朝5時に起き、7時半に艀舟で本船ジェネラル・ウェルダーの出帆するのを見送りました.。中略。後、兄の部屋の棚の上には、緑の繻子で作った立派なハンカチ入れに、MとRとのモノグラムを金糸で鮮やかに縫取りしたのが置いてありました。それを見た時、噂にのみ聞いて人目も見なかった、人のよいエリスの面影が私の目に浮かびました(P.105~P.106)。
Miss Elise Wiegertが降り立った1888年(明治21)当時の横浜港とそれから118年後の現在の横浜大桟橋の写真

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珍しい北欧料理の店紹介 5 老舗のデンマーク料理店『スカンディヤ』

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 6月の空は梅雨空、とは打って変わって珍しく晴れ渡っていたこの日、森鴎外の『舞姫』のモデルとされるエリーゼ・ヴィーゲルトの足跡をある当時の新聞で見つけたあと、横浜港大桟橋に向かった。明治21年頃の様子がどうだったか思いを巡らせたかったからだ。その帰り道久し振りにデンマーク料理の老舗『スカンディヤ』
で昼食を取った。以前から多少高い料理とは知っていたが、今回は思い切って入ってみた。老舗の貫禄なのか室内は落ち着いている。重厚な窓際のカーテンの間からは陽が入り、壁に飾られた北欧の彫刻、北欧の国旗など色鮮やかな文様と呼応し明暗のコントラストよろしく大人のシックな雰囲気を演出していた。レストランそしてバーでもあるこの店は、1階が比較的低額な食事、2階はやや高額な食事と別れていて午前11時から夜12時まで開いている超有名レストランなのだ。ユーミンや桃井かおりなども訪れてたらしい。らしい、と書いたのはブログやHPで見たからなのだ。そう言えば女性客が多かったみたい。筆者は一人だったので人馴れしてはっきりした女性店員にそれならカウンターの右端に座れとばかりに半ば強制的に案内された。使いこなされた感じのピカピカした真鋳の手摺に手をやり座るや否や撮ったのがこの写真。
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デンマーク製のオープンサンドも良いが、なぜかナン、ニンジン、ジャガイモと野菜が豊富な特製カレーとアイスコーヒーを頼んだ。(1300円)大きなお皿に供されカレーの盛りが普通より少ないかな、と一瞬庶民の顔が覗いたが美味しかった。ここでカレーを食べるとは思いもつかなんだ。メニューにあったし安かったからね・・・。
この『スカンディヤ』作成のアラカルトメニューは、うすピンクのA4用紙ペラにあっさりと書かれたシンプルなものだが、メニューの種類は豊富で55種類ある。1階スカンディアガーデンではランチメニューは仔牛のカツレツ(ハムチーズ入り)、デニッシュオープンサンド(3種類盛り合わせ/プチケーキ付)、ハンバークステーキ、魚料理が1,300円、サーロンステーキ1,900円、お二人様より前菜7種類、魚肉料理5種類、アイスクリームそれにコーヒーか紅茶がついたスモーガスボードお一人様5,250円、前菜・魚・肉料理合わせて7種類、コーヒーか紅茶つきお一人様3,675円。ディナーコースは2名様よりスモーガスボード、スペシャルディナー、美食家のディナーとディナーコースはお一人様6,300円~10,500円位。何度も本場デンマークに行って修行を積んでいる名シェフ、荒川さんの料理は美味しいとの評判。意外と思ったのが北欧料理定番のサーモン料理Scandia_samon
だけではなく、デンマーク人もよく食べるらしいうなぎ料理もあるのだ。また、ここから徒歩5,6分の横浜スタジアム近くには知る人ぞ知る国際色豊かな老舗の『船員バー』がある。明治の初めに考案されたと言われる有名なカクテル、゜ヨコハマ゛なども飲める(NHK BS2のLive番組「神奈川特集」で紹介していた、ね)。
Scandia_unagi_2【写真右上&右下:サーモンとうなぎ料理はいずれもHPから】
またまた紹介。中区山下町156にあるここの『スカンディア』(横浜市中区海岸通り1-1 TEL045-201-2262)と同じ経営の船員バー『コペンハーゲン』(TEL045-681-6069)それにノルウェーアクアヴィットとノルウェー料理が楽しめるバー『ニューノルゲ』(TEL045-662-2309)。いやー、その昔この辺をハシゴしたねぇー。いずれも中華街の外れにあるのでここから歩いて行ける距離。


2006/06/03

超人の面白ラーメン紀行 40 品達

  麺達7人衆のらーめん"品達"は環七・野沢の『せたが屋』、東京・神田の『きび『、横浜の『くじら軒』、神奈川・秦野の『なんつッ亭』、西荻窪の『ひごもんず』、旭川の『さいじょう』そして品川の『麺屋蔵六』の面々。それぞれが個性溢れるラーメンの達人、東京周辺のラーメンが中心のようですが、旭川、熊本のラーメンもあります。筆者はてっきり新しく開発された港湾口の方と思い、最初はその周辺を探してしまいました。花屋のお姉さんに尋ねると話しかけられたのが迷惑とでも言いたそうな口調であちら、高輪口の左の方よ、と。JR品川駅高輪口から京浜百貨店Wingを左折し歩くこと2分、ガード下を利用した細長い今風に改良したところに"品達"の看板を発見しました。
並んでいるラーメン店もあればちょっとこの時間にしては寂しいラーメン店もありましたね。早速一巡、他の場所で食したラーメンもありましたので、ここは"伝説"の塩の旭川ラーメンと書いてあった『さいじょう』に決めて入りました。
筆者が券を買って入ろうとするとアジア系の店員が、お客さん、並んで下さいと。こちらが先なのに確かめないで勝手なこと言っていたのには多少腹立ちました。
  5、6分位経って例の伝説の塩ラーメンNec_0014
が出て来ました。スープは煮干系ですがまろやか、嫌味のない味、麺は黄色っぽくストレート中細麺、トッピングには海苔、やや大きめなチャーシュー、これまたやや大きめなナルト(これは珍しい)、それに定番のしな竹と刻みネギ。イメージしていた塩ラーメンはもっと澄んでいてあっさり系かと思いきや、違っていましたね、ここのは。最後のスープを飲み干すときにときどきラーメンのスープの本質がチラリと見えることがありますが、魚介系のまろやかな味には変わりませんでした。麺の味がちょっと独特かな。奥の方にあった『なんつッ亭』は並んでいましたね。『せたが屋』にも入ってみたかったですが、今度のお楽しみにします。Saijo_ramen_1

①スープ★★☆②麺★★☆③トッピング★★☆④接客・雰囲気★☆⑤価格★★☆

Shinatatsu【写真左:品達の館内風景】

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