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2006/01/07

超人の映画鑑賞 1 スティーブン・スピルバーグが製作した映画『SAYURI』

 話題の映画、『SAYURI』を日本封切日の12月10日から20日過ぎた12月30日に有楽町マリオンの丸の内プラゼールで見た。[sayúri]、アクセントが第二音節に置かれたこの言葉の響きが端的にこの映画の本質を見事に表している。日本をテーマにした映画にして日本映画ではないまさしくハリウッド映画。主演が中国人の女優などAsian tasteに仕立て芸者、踊り、着物、着付、庭園他日本人にしてみればディテールに違和感は残るものの、エンターテイメント性を重視して作られた映画。ところどころ日本語は入るが全体を通して英語という外国語で語られるある種のモドカシサが残る映画。本当はwetな映画をdryに異国趣味的タッチを覗かせながら描く女のサクセスストリーの映画。ここには原作を超える試みがある。それは何か。恐らくイメージの世界、美の祭典、とりわけ踊り(=ダンス)と音楽との饗宴を描きたかったからか。それがエンターテイメントの映画の醍醐味を熟知しているスティーブン・スピルバーグ、ロブ・マーシャルの狙いか。2時間26分があっという間に終わってしまって思ったより短かったというのが筆者の正直な感想。それにしても和太鼓、尺八、琴そして三味線などの日本の伝統的な楽器とパールマンのウ゛ァイオリン、ヨーヨー・マのチェロなどの西洋音楽とのアンサンブル、そのテンポの小気味良い速さと強弱のある響きが鮮やかな映像と絡み合って豊かな叙情性を醸し出していた。この一大スペクタルは忘れられない。誰かが言っていた言葉を拝借すれば"感動した"。2時間半銀ブラをした甲斐があったというものだ。筆者は、丁度午前の部が終わるのを見計らってチケットを買いに窓口に行っのだが、すでに時遅し満員で入れず、仕方なく有名な鞄店などをハシゴしていたのだ。 ついでに言えば、映画鑑賞と洒落込んだのは20何年振り、映画館も椅子、音響設備、トイレ他大分以前とは新しくなっていて快適になっていたのだ。一時劇場映画は廃れて危機的状況だった。今は情報過多気味。それでも観たい映画はあったが、いざ映画館まで足を運ばなかったのが実情である。
 さて、全体的な内容はと言えばThe Japan Times Weekly December 17の記事が簡潔に伝えているので、引用してみよう。

The story chronicles a young girl's rise from poverty in a Japanese fishing village to life in high society as a top geisha-a woman schooled in the art of dance, singing and conversation to be a companion for weathy men.

中国の女優が日本の文化を本当に理解して正確に描き切れるか、或いは、アメリカ人が書いた小説に心を動かされた同じくアメリカ人の監督が、海外で大分誤解されている芸者の伝統を正当化できるのかなどの文化的な懸念があるが、これについて監督のロブ・マーシャルはこの映画のことをこう言っている(いずれも上記の「ジャパン タイムズ ウィークリー」の記事 "Globalization in film stirs up cultural anxiety" から)。

Marshall has tried o despel some of those concerns,saying he aimed to set the record straight on geisha-who often seen in the West as glorified prostitutes.

時代は戦前の1920~30年代そして戦後。貧しさゆえに9歳で山陰の小さな漁村から京都の置屋に売られた千代は(このさゆりの少女時代を耐える一途な女の子を好演していた女優、大後寿々花は、渡辺謙と競演した「北の零年」の映画の演技で認められ、この役に抜擢されただけあって小さいながら卓越した演技が光っていた。置屋を屋根から抜け出そうとするが失敗、結局は大怪我するのだが、このシーンが音楽の効果も手伝って印象的だったし、また渡辺謙扮する会長さんに橋の上で出会うシーンなど見る者を飽きさせない)、コン・リー扮する売れっ子でわがままの芸者、初桃などの冷たい仕打ちや嫌がらせをされながらも、した働きに耐える日々を送るなかで会長さんと出会う。ミシェル・ヨーが演じる知性と品性を備えた一流芸者の豆葉に見込まれ芸者として成長し、数年後一流芸者として会長さんと再会する。その立派な芸者に成長していく過程で印象的なのは、春の踊りのシーンである。さゆりを演じるチャン・ツィイの独壇場でその仕草に多少の違和感はあるものの、ぽっくり下駄の履きさばき、踊りの上手さ、傘の使いこなしなど切れのある動きと雪のシーンをsauri_odori
演出する青と白のコントラストが見事で、醸し出す雰囲気は見る者をうっとりさせて圧巻そのもの。置屋「新田」の女将を好演しているのは桃井かおり。英語も板に付いており、演技にも実力派女優の仕草が光っていた。特にキセルで煙草を燻らすシーン、濡れ衣を着せられた千代を叩く迫力あるシーンや算盤を弾いて"水揚げ"(この描写では原作の方が優っていた !)を計算するシーンなど怪しい女を演じて余りある。さゆりと同世代で明るい芸者役で最後にはさゆりの友情を裏切るおカボを演じているのは、工藤夕貴。この映画が最初に発表されたときには最初は主演のさゆり役に工藤夕貴の名前が上がっていた。ミュージカル出身の監督ロブ・マーシャルとしてはダンスのできる女優が欲しかったらしい。映画を観ていて多少は納得したかな。早くからハリウッドを目指し、何本かのハリウッド映画にも出演していてその英語力も定評もあったので、筆者などは至極残念だった。大阪の電器会社の社長で会長と友人でもある延さんを演じているのは、役所広司だ。芸者嫌いだがさゆりには魅かれていた。渋い役ではある。
この映画は、さゆり自身のナレーションで語られるように、「願い事はきっと叶う」という世界共通のテーマを日本的な装いで描いたlove storyである。これはシネマスクランブルの映画評だが、同感できる見解だ。
チャン・ツィイ、ミシェル・ヨー、コン・リーなど中国系の女優の演技力にはやはり日本の女優にない演技のダイナミズムさがある。役になりきっていて日本人と間違えるほどだ。いろいろと日本文化について研究はしたようだ。そのことはこの映画のパンフレットのインタビューで彼女自身が語っている。また、『SAYURI』に出演したことで、芸者のイメージは変わったかの質問に対して「撮影前はほとんど芸者の知識はなかったが、撮影を終えたときには、非常に感銘を受けていた。例えばさゆりも、彼女は美しく着飾った【芸者さゆり】として存在するが、それは彼女の本当の姿ではない。芸者は、自分自身の運命すらコントロールできない、特殊な世界に生きるしかなかった。そういう状況にありながら、たくましく生きる姿に非常に感動した」と答えている。芸者の化粧、着物の着こなし方、歩き方、宴会のもてなしなどに妖しい色気が漂い、そのワンシーンを切り抜いてみれば一枚、また一枚と色鮮やかな絵画を見ているようだ。これはオイシイ。障子のシーンが出て来る場面あたりにしっとりとしていながら乾いた感性が透けて見えるのは、筆者の思い過ごしだろうか、或いは製作者側の巧妙に仕込んだ異国趣味的な明るさだろうか。出演していた日本をはじめアジア系の人たちのplain Englishは、聞き取りやすかった。それにしても映画製作を発表してから5年はナガスギナイカ、スティーブン・スピルバーグ様 !

主演女優チャン・ツィイZhan Ziyi、ミシェル・ヨーMichelle Yeoh、コン・リーGong Li、渡辺謙、役所広司、桃井かおり、工藤夕貴、大後寿々花などの豪華俳優を揃えた、スティーブン・スピルバーグSteven Spielbergが製作、ロブ・マーシャルRob Marshallが監督した映画。制作費は$8500万。日本の映画ランキングでは7位。原作は発売以来全世界で400万部以上売れたベストセラー、アーサー・ゴールデンArthur Golden作 "Memoirs of a Geisha"(邦訳『さゆり』文春文庫)。興味ある方は、筆者の2005年7月~8月の記事"Memoirs of a Geisha"を参照されたい。

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