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2005/12/23

超人の面白読書 16 岡田哲著『ラーメンの誕生』 続

岡田哲著『ラーメン誕生』には札幌ラーメンに言及した花森安治の1954年(昭和29年)1月17号の『週刊朝日』(この『週刊朝日』のバックナンバーは公共図書館から借り出したもの) の記事Nihon_haiken_1
がある。その週刊誌の記事の一部を抜粋してみよう。

「札幌の名物は、ラーメンである。鮭でもコンブでもない。中略。いきおい、名物はラーメンということになつてしまう。うまいから、というのではない、やたらに数が多いのである。札幌中、どこを歩いても、必ず一軒と行かないうちに、ラーメンの看板にぶつかる。薄野(すすきの)あたりでは、もう軒並みラーメン屋である。風呂の帰りにラーメンを食う、映画がハネたらラーメンを食う、ひるめし代わりにラーメンを食う、アベックで歩き疲れたらラーメンを食う、客が来たらラーメンを食う。デパートの食堂あたりで見ていても、大ていラーメンを食つている。一杯60円だから、札幌の物価にしては、安上がりだというせいもあるかもしれない。寒い土地だから脂肪分をとりたいという気も働いているのだろう。なんとなく安直だというかもしれない。それにしても、軒並ラーメン屋の提燈看板をながめ、広告塔の「ラーメン、ラーメン」とふり絞る声を聞いていると、これがサッポロだという気がしてくるのである。日本のそばの、あの伝統風味は、あろう筈はないが、さりとて、マカロニ、スパゲッティのような、本場のハイカラさからもほど遠い。なにか安手の異国ふうにみえて、実は日本製そのもの。サッポロ-まさしくラーメンの町」。

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ここには花森安治のテンポの良い文章に乗って半世紀前のサッポロの町の風景が活写されている。ラーメンの匂いがぷんぷんしている。今のラーメンブームとは違った生活感がある。
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典型的なご当地ラーメンー札幌ラーメンと九州ラーメンーの歴史を垣間覗いてみよう。何故なら、日本のラーメンの歴史の縮図が見えるからである。この本に従ってまずは札幌ラーメンの歴史を概略すると、1922年(大正11)札幌竹屋食堂が開店する。そこでは汁そばをラーメンと呼んでいたとの挿話は有名。1946年(昭和21)戦後の札幌ラーメンの原型である松田勘七の屋台が店開きする。1947年(昭和22)西山仙治の屋台『ダルマ軒』が開店する。西山製麺の誕生である。1948年(昭和23)大宮守人が「味の三平」を開店、1951年(昭和26年)南5西三東宝公楽横に公楽ラーメン名店街と称するラーメン屋が軒を連ねる。満州で外務官僚を務めた岡田銀八が「来来軒」を開店し大繁盛、ラーメン横丁の原型が出来上がる。
一方、対照的な九州ラーメンはどうかというと、『九州ラーメン物語』(九州ラーメン研究会)を参考にその概略を描てみよう。
1937年(昭和21)宮本時男が久留米駅前で屋台を開く。後の「南京千両」である。1946年(昭和21)うどん仲間の津田茂一が白濁したトンコツスープの「中華そば」を考案、赤く染めたのれんから「赤のれん」と呼ばれる。赤は遠くからでも目立つという理由で付けられたいう。1955年(昭和30)魚市場が長浜に移動して新たに「長浜ラーメン」が誕生。魚市場の仲買人の好みに合わせて茹りやすい細めんにし替え玉と称するめんだけの追加サービスを考案する。白濁ラーメンはその匂いに辟易させられるが、豚骨を時間をかけて煮込むときの血抜きや生姜などの香味野菜を入れるとこの独特な臭さがかなり緩和されるらしい。白濁した色は、骨髄に含まれたコラーゲンが乳化して生じたものである。九州白濁ラーメンは、久留米→玉名市での屋台ラーメン、それを真似して作られた熊本の「こむらき」が開店。1968年(昭和43)熊本ラーメン「圭花」が東京進出し白濁スープのコッテリ味とニンニクチップが話題になる。鹿児島では「日本のラーメンの母」と呼ばれた道岡ツナー横浜の同愛病院で看護婦をしたとき、その献身ぶりに入院していた中国人の料理人がせめてのお礼とめん料理の作り方を教えたというーが、1947年(昭和22)中華そば「のぼる屋」を開店する。ダイコンの漬物を添えたアイデアやかん水を使わずうどんのように白い手打ちめん、コクがありあっさりしたスープが受ける。その他ご当地ラーメンを上げると函館ラーメン、旭川ラーメン、喜多方ラーメン、佐野ラーメン、東京ラーメン、横浜ラーメン、飛騨高山ラーメン、京都ラーメン、大阪ラーメンそれに尾道ラーメンである。

筆者ばかりではなく誰もが思っていること、それは美味いラーメン店に出会えて満足感・満腹感を味わうことだ。著者はそれをラーメン通が行く店10ヶ条で教えてくれる。①めんを茹でる釜が大きい、家庭用の小さめの釜では熱量不足でダメ、②茹で上がっためんは、掬い網を使っている、③丼は小さめである、④近くにラーメン激戦地がある、⑤店構えがあまり広くなく、せいぜい15席ぐらい、⑥メニューは単純明快で少ない、⑦個性派の研究熱心な主人がいる、⑧特にチャーシューに拘りがある、⑨仕込み分が売り切れたら、閉店してしまう、⑩家族だけ、または、アルバイトの小人数で切り盛りしている。
ラーメンは身近な食べ物とは著者あとがきだが、また奥も深いらしい。新書版だがなかなか読み応えがあった。その歴史、かん水の話などときどき読み返してみたい本である。ラーメン大好きの筆者としては。
今年の年末はTBSで「ラーメン王」なる番組を放送するらしい(去年の年末は日本テレビで同じような番組をオンエアしていたが)。今年のラーメン王は誰か、 今から楽しみだ。


2005/12/21

超人の面白ラーメン紀行 29 むつみ屋八重洲店

東京駅八重洲南口地下街ラーメン激戦区の一角にあります『むつみ屋』は、札幌系ラーメンの典型的な店です。その定番のみそラーメンを食しました。赤味噌、白味噌と曜日によって供されるものが違いますが、今日は白味噌でした。確かにスープの味はまろやかでした。ところが、多少ラードが効いていたせいか食べ終わった後、喉元辺りにその油っぽさが残りました。トッピングは海苔、玉ネギ、丸切りの長葱、メンマ。ごくごく普通のトッピングの風景と思いきや、もやしがありません。卵もありません。ちょっと淋しく、思わず掻き回しまして探してしまいました。あーぁ。黄色いストレート系の麺は美味い。午後2時前でも18人はいました。食べ終わりますとまたぽつりぽつりと入れ替わり人が入って来ます。中国人ぽいアルバイト風の店員の態度はあまりよくはありませんでしたが。
ラーメン店『むつみ屋八重洲店』①スープ★★☆ ②麺★★★ ③トッピング★★☆ ④接客態度・雰囲気★☆ ⑤価格★★★

200512211335000.jpg ラーメンの 啜る音にも 寒さ聴き

2005/12/15

『日欧現代詩フェスティバル in 東京』

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EuroJapan Poetry Festival 日欧現代詩フェスティバルin 東京が2005年12月9日(金)、10日(土)の2日間九段のイタリア文化会館で開催された。日本とヨーロッパの現代詩人が出会い、2日間 にわたって朗読・音楽・映像の交差するフィールドのなかで、世界を詩によって新たに捉えなおそうと試みるフェスティバル。題して耕された夢・住まわれた言葉。筆者は仕事の都合で2日目の13時30分からのラウンドテーブル・ディスカッション「グローバリゼーションのなかの詩の役割」から聴いた。司会は東大教授の小林康夫、パネラーはVivian Lamarque(イタリア)、Jacque Darras(フランス)、Kai Nieminen(フィンランド)、辻井喬、藤井貞和、夏石番矢、城戸朱里の面々。断片的に列挙すれば、作家・詩人の辻井喬氏は稚内での地名が詩に現出した体験を語り、近代は断片化された世界と話すのは今一番乗っている国文学者・詩人の藤井貞和氏。詩人はずっと追放されてきたと語るのは詩論家・詩人の、ちょっと訛って話す城戸朱里氏、また、抵抗する詩人、情念の世界は共通とはフランスのダラス氏、グローバル化は決して政治的なものではないとフィンランドのカイ・ニーミネン氏と詩人それぞれの思いを語っていて司会の小林氏の引き出し方にうまく応えていたようには決して見えなかった。4時間に及ぶ討論は結局表題の「グローバリゼーション」という言葉が、イギリス・アメリカのアングロサクソンの国々の安っぽい政治的な世界戦略の匂いがする言葉にみえて(偶然かもしれないが、参加者のなかにはアイルランドはいたがイギリスの詩人はいなかった。これには苦笑)、むしろフランスのモデルナションの方がこの理念に適っていると主張していた俳句の夏石番矢氏(氏は俳句誌『吟遊』を主宰する大学教授で俳句などの短詩型文学の国際フェスティバルにもさかんに参画している国際派の一人)、そして、ヨーロッパ、日本の相互作用interactiveの再認識が必要と提言。このディスカッションをまとめようとする司会者からズレて、まとまりのないその混沌さ(caos)が良かったかも知れない。語り合える場があったからこそいろいろなことが見えて来るし、違いが分かり共通的なものが再認識できるのだと思う。このあとの俳句セッション、インターナショナル・リーデイングⅠ、Ⅱと続き、フィンランド、デンマーク、スウェーデン、エストニア、リトアニア、アイルランド、ポルトガル、オーストリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、フランス、イタリア、スロバニア、ハンガリー、何故かモンゴルからも参加、総勢40余名は盛大だ。イタリア文化会館でのレセプション会場は狭くてイモ洗いみたいだったが、DSCF0196
ミニコンサート(イタリアのドゥオ・ノヴェチェントDuo Novecento。1989年結成の20世紀音楽、現代音楽奏者)とイタリア本場のピッツァ、ラザーニア、チーズ、それにワインが出て忙しいながらも楽しい一時だった。

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【写真右:夏石番矢、カジミロ・デ・ブリト(ポルトガル)、セース・ノーテボーム(オランダ)、秋尾敏、鎌倉佐弓、八木忠栄それに飛び入り参加のモンゴル人による俳句セッション】

筆者は2日目の午後から聴いたわけだが、俳句セッションでは八木忠栄の30句詠んだうちの次の作品が印象的。

冬了る新宿渋谷のバカヤロー

肛門に指いつぽん春の医者

あぶら照り肉屋の女房肉つかむ

鎌倉佐弓の作品は日英で詠むとこんな風。

みずうみの泥ほつほつと唄うらし
Hearing that
lake-bottom mud sounds
like a mourmurous song

天も雪を見るらし雪の降りはじめ
The sky also sees
as it begins it seems
snow fall

夏石番矢の俳句を日本語、英語、フランス語、イタリア語で表記すればこうだ。夏石番矢自身の訳で。

ジェノヴァの熱は詩とサッカーと救急車

The fever of Genoa;
poetry,soccer
and ambulances

La fièvre de Gênes:
poiésie,football
et ambulances

La febbre di Genova;
poesia,calcio
e ambulanze

そしてその言語ごとの朗読、音の響きに酔うのだ。
日本語は母音が単調なだけゆっくり大らかだが、フランス語は滑らか、イタリア語はリズミカルかー。

次はポルトガルの有名な詩人Casimiro de Brito のhaikuを彼自身が朗読。

Uma cidade ! Um grão     A city ! A grain    都市 ! 砂の
de areia ! Fragmentos   of sand ! Fragments      一粒 ! 銀河の
da Via Láctea    of the Milky Way        断片 !

初老の男性の発声に聴く外国語、ここではポルトガル語の母音の響きに哀愁を聴いたか ?
今手許にフェルナンド・ペソア詩選『ポルトガルの海』の本がある。

portugal

塩からい海よ お前の塩のなんと多くが
ポルトガルの涙であることか
我らがお前を渡ったため なんと多くの母親が涙を流し
なんと多くの子が空しく祈ったことか
お前を我らのものとするために 海よ
なんと多くの許嫁がついに花嫁衣裳をきられなかったことか

それは意味あることであったか なにごとであれ 意味はあるのだ
もし魂が卑小のものでないかぎり
ポハドールの岬を越えんと欲するならば
悲痛もまたのり越えなければならぬ
神には海と危難と深淵をもうけた
だが神が大空を映したものもまたこの海だ

詩の朗読では藤井貞和のユーモラスな詩が印象的だった。

どうして日本の漁業史が

歴史の主流からはずれてるかということなのですが

たんてきにいって

漁業という産業は

と続いて
最後のフレーズは
われわれの湖には

おさかながいなければならない

そして、トリはやはり白石かずこだ。
御年74歳の元気のいい詩人は、南米のチリに行ってきたばかりとその刺繍のある赤い民族衣装を身に着けながら巻紙を読み始めた。今日のユリシーズ。

ふりかえると顔がなかった
おのれの
生まれたての顔が
顔は国であり
国は闇の思想に寝とられて

もはや顔のない
くちづけする唇のない おのれの顔
あとにして
彼は往く

途中、
虹と交合することだと
そして
人魚は 交尾もしないまま
独りでエルビスのレコードの中に また
眠りにいくのだ

の彼女独特のフレーズを織り込みながら76行も続き、毛筆の匂いがどことなくミューズを運んで来ているかのように、彼女のハリのある声と交合し響き合い、時に聴衆を唸らせていた。さすが白石かずこ、あっぱれ。
その他この直前にファンタジー色溢れる楽曲と透明な歌声とダンスを披露したシンガーソングライターの花実にはちょっとドキドキしたか。篠井英介氏の翻訳詩朗読、都留教博氏のバイオリンと城戸朱里氏自身の詩朗読のコラボレーションなども良かったが、そのなかでもハンガリーで数々の受賞歴を持ち、最も高く評価されている若い女流詩人のクリスティナ・トートさんが民族衣装を纏って読み上げた自作の詩の響きと雰囲気が印象的だった。
 ところで、筆者はこの日欧現代詩フェスティバルの始まった日に仙台で、こういった朗読詩の先駆的な試みを世界各国(恐らく20カ国以上)でしてきた詩人の谷川俊太郎の最新詩選集を編んだ翻訳者・詩人の田原氏に会っていた。集英社文庫で全3冊、8ヶ月もかかって選んだ詩だと田原氏は自慢げに話していた。3冊併せて10万部は行くらしい。特に3巻目は谷川俊太郎書簡インタビュー、田原氏流の類型的で斬新な視点での解説、谷川俊太郎のあとがき、詳細な年譜、谷川俊太郎著書目録と盛りだくさんだ。中国でも田原氏翻訳で谷川俊太郎詩選集が出て好評のようだ。筆者は、2005年11月21日から25日まで5回わたって日経新聞に連載された「ニッポン文学 世界へ」に触発されて田原氏を尋ねたのだった。いや、大阪藝術大学藝術学部文藝学科研究室発行の河南論集第9号の谷川俊太郎特別講義「詩の半世紀を展望する」という題で、谷川俊太郎、山田兼士それに田原氏が鼎談を行っている記事を見つけてずっと気になっていたのだ。

9時間にも及ぶ長丁場、しかも多言語、さすが疲労はあった。何か新しい息吹に感動していたことも事実だ。80年代、90年代にはニューヨーク他でさかんにpoetry readingが行われてきたし、谷川俊太郎、大岡信らの連詩の試みの下地があってこそこのような企画が実現できたのかも知れない。このEUROJAPAN POETRY FESTIVAL日欧現代詩フェスティバルは、今回が初めてだが今後2年に一度開催されるという。
今回の聴衆者は300人位か、次回は聴衆者も参加できる一体化した試みなども取り入れて、進化しながら続けて行って欲しい。入場料1500円。

急いで付け加えれば、この企画に参画している城戸朱里氏が2005年12月6日付毎日新聞夕刊文化批評と表現欄の詩この一年の記事で戦後詩に言及して面白いことを書いていた。ちょっと引用してみる。
現代の詩においても、世界と私の多様化と多数化は、もっとも大きな問題として、詩の言葉に反映している。かつて、単一の「世界」に確固たる「私」が対峙するようにして書かれたのが「戦後詩」だったとすると、その理念や方法は1980年代に臨界を迎え、それ以降の真の現代的な詩とは、多様化する「世界」に対峙して、分裂していく「私」という主体を生きるものになったのだと言えるだろう。そして今年の詩の収穫として、吉増剛造『天上の蛇、紫のハナ』」(集英社)、藤井貞和『神の子犬』(書肆山田)、野村喜和夫『街の衣のいちまい下の虹は蛇だ』、和合亮一『地球頭脳詩篇』(思潮社)、高岡修『屍姦の都市論』(思潮社)そして渡辺幻英『火曜日になったら戦争へ行く』(思潮社)の6冊を取り上げている。

もう一度日欧現代詩フェスティバルに戻ろう。午後10時半過ぎ最後のオープンマイクでのこと、スウェーデンの詩人のラース・ヴァルゴLars Vargö氏の登場で筆者が抱いていたその謎が解けた。彼は外交官でしかも日本文学研究者・翻訳者だけではなく、Cikada賞の創設者でもあったのだ。以前に新聞の記事を読んでこのCikadaが解らなかったのだ。2004年最初の受賞者は詩人の宗左近氏、今年の受賞者は俳人の金子兜太氏だ。

Lars Vargö was born in 1947 in Stockholm. He has published several books on Japan and Japanese literature and translated Japanese poetry and novels into Swedish. He has a PhD in japanese studies(1982)
from Stockholm University and was a graduate at student Kyoto University 1972-1976. As a dilomat he has served at the Swedish embassies in Tokyo,Washington D.C.,Toripoli and Vilinius and is presently ambassador
and head of the international department of the Swedish Parliament. He has started several literary magazines and is himself a poet,with publications also in Japanese. He was a ricipient of a special grant/award from the Swedish Academy in 1997 and received a cultural award from the city of Ichikawa in2003. He is himself the initiator of the literary Cikada prize,which in 2005 has been awarded to the Japanese haiku poet Kaneko Tota. (日欧現代詩フェスティバル英文パンフレットより抜粋 ) 

追記。この日欧現代詩フェスティバルに参加していたリトアニアの詩人カプリンスキー ヤーンJaan Kaplinskiについて松村一登氏のHPで興味深い記事を見つけたので引用してみる。

カプリンスキー ヤーンJaan Kaplinski(1941.01.22-)

エストニアの詩人,評論家,翻訳家。 1941 年,タルト生まれ。 1964 年,タルト大学歴史言語学部卒。在学中の 1960 年ころから文学活動を始め, 1968 年からエストニア作家同盟の会員。父親 Jerzy Kaplinski はユダヤ系ポーランド人。タルト大学でポーランド語講師をしていたが,ソ連軍に強制連行され帰らなかった。母親 Nora Raudsepp は南エストニアのヴォル (Võru) 地方の出身。
大学では,フランス語学科に在籍して,構造主義言語学,応用言語学を専攻。卒業後,同大学の計算機センター,社会学研究室で助手を務めたあと,エストニア語学科の大学院生となって (1968-1970), 生成文法の研究グループに参加した。品詞論や意味論の論文を書いている。言語学を通じての親友に,エストニアのいわゆる 「歌う革命」 の活動家のひとり,エストニア語の音韻論の研究で知られる言語学者 M・ヒント(Mati Hint) がいる。この2人は,エストニアが独立回復した直後の 1992 年から1995 年まで,国会議員として一緒に活動した。

私は,まだソビエト時代の 1987 年の秋から 1988 年の春にかけての半年間,当時タリン教育大学で教授をしていたM・ヒントに研究指導を受けた。冬の終わりに,南エストニアにあるスポーツ施設での学生たちのスキー合宿に参加させてもらったとき,カプリンスキがやってきて,私と M・ヒントの部屋に泊まっていった。2人のスキーの腕は相当なもので,ほとんど滑ることの出来ない私は相手にしてもらえなかったけれど,その時話をしたのが,私の唯一の生 カプリンスキ体験である。

多国語に通じるカプリンスキは,英語,フランス語,スペイン語,スウェーデン語を初めとするヨーロッパ諸語の詩のほかに,漢詩のエストニア語訳を手がけており,エストニア的表現を使うなら, 「東洋思想」の影響を受けた自然との共生をテーマとする思索的作風で知られる。本人によれば,「ケルトの神話」 「アメリカ・インディアン」 「中国の古典哲学と詩」が,彼の思索・創作の原点になっているという。エストニアにおける「東洋思想」への関心は,カプリンスキより1つ前の世代に属する宗教哲学者U・マシンク (Uku Masing, 1909-1985) にすでに見られる。カプリンスキは,すでに少年時代に「仏教的体験」をしたという意味のことを自伝的エッセイに書いているが,彼のエコロジー的思想は,そのころ芽生え,その後,タリン植物園で研究員を務めていた1970年代に成熟したものに違いない。1973年には「人類の諸文化と生態系について考える」というエッセイを,自然科学系の啓蒙雑誌に書いている。

今はもうなくなってしまったが,少なくとも 1980 年ころまでは,タルト大学に東方学研究室という名前の研究室があって,ここでは,細々とではあるが,日本語も教えていた。主任教授は,旧エストニア共和国時代の1930年代にコペンハーゲン大学などに留学して中国語を学んだ P・ヌルメクント (Pent Nurmekund, 1906-1993) で,日本語もできた。ひょっとすると,学生時代のカプリンスキはこの研究室を訪ねて,中国語を勉強したり,中国や日本の古典を翻訳で読む機会があったのではないかと思うが,確認していない。ちなみに,カプリンスキは,感銘を受けたと思想家の中に,マルクス, ヴィトゲンシュタイン, T・S・エリオットなどと並んで,鈴木大拙の名前を挙げている。彼のホームページにある自伝を読むと,子どものころ,エストニア語で短歌や俳句を書いたとあるが,エストニアでは,1980年にエストニア語俳句のアンソロジーが出版されたほどだから,日本の伝統的な詩に対する関心は相当高かったようである。

ゴルバチョフが登場し,いわゆるペレストロイカが始まる以前のブレジネフ時代は, 「停滞時代」と呼ばれることがあるが,この時期のカプリンスキ は「反体制派」の文化人のひとりとして人気があった。真っ向から体制批判をするというより,首都タリンの政治的喧噪から遠く離れた大学都市タルトを活動の拠点とし,自然との調和を主張するエコロジー的思想を押し出した「文明批判」によって,間接的に現体制の公式イデオロギーを否定するのが,カプリンスキのスタイルだった。エストニアが独立を回復し,検閲がなくなって,誰でも自由に発言できるようになってからは,カプリンスキのような静かな思想家の声は,回りの大きな声にかき消されてしまい,かつてのように人々の関心を集めることが難しくなったという点は否めないが,政治の中心で工業化した北エストニアに対し,文化の中心で自然の中にある南エストニアを対峙させて,南エストニアに住むことをライフスタイルとして選ぶ作家や芸術家は今でも少なくない。

国際的には,詩人としてのカプリンスキがいちばんよく知られており,日本では,英語からの重訳で『カプリンスキー詩集』(経田祐介訳, 1995)が出ているほか,インターネットにも詩の専門家による紹介記事がある。彼のホームページには,単行本の著作の一覧がある。

東西の間にいる作家 (講演要旨)
ヤーン・カプリンスキ
私はあるエッセイで,ユーラシア大陸には実は,「東」と「西」を分ける明確な境界など存在しないと書いたことがある。そのとき,やや逆説的だが,「東」と「西」という概念は,西洋に典型的なもので,線引きや定義づけが極めて重要視される文化から生まれた考え方であると,付け加えた。東洋では,東西の境界を,それほど念を入れて引こうとしたこともないし,キプリングの有名な詩「決して出会わない」のように,大陸を二つの部分に分けようと思ったこともないのである。

さて,私は,一方で「東」と「西」の存在そのものを否定しておきながら,同時にそういう考え方を利用しようとしているわけだが,なぜそうするのか。それは,大きな大陸ゆえ,それぞれの地域の文化やものの考え方には,やはり違いがあると考えるからだ。しかし,その違いは,東西の間に明確な境界を引くことができるようなものではないと思う。むしろ,1つの文化から別の文化への連続的移行を観察することができる。すなわち,中国,日本,韓国などでは,しばしば見られ,典型的だが,西ヨーロッパではほとんど見られない現象がある。ロシアやバルト3国,ときにフィンランドを含めた,東西の中間に存在する地域のように,両方の文化領域の要素が見つかる場合,東西間に確固たる境界線を引きたがる人たちは,これらの国々,民族,文化を,(しばしば政治的理由によって)時にはあちらへ,時にはこちらへと分類する。フィンランド人やエストニア人がモンゴロイド人種にきわめて近いとされたり,ロシアがアジアの国家と見なされたりする一方で,ロシア人や,アジアとの隣接地域に住む多くの民族は,自分たちの文化がヨーロッパ文化圏に属すると強調することに本質的な意義を見いだす。エストニア人も例外ではない。わが政治家たちはみな,またエストニアの思想家の多くが「エストニア人はヨーロッパ人である」と考え,またそう公言している。それでも,エストニア人が「東」に属する,ないしは,少なくとも,太古の昔からの強い東アジアとの絆をもっていることを示す特徴が,エストニアの文化,フォークロア,民族のこころ,言語の中に見いだされるとする「異論派」がエストニア人の中にはいて,彼らに言わせると,エストニア人は,東洋系の民族であり,好戦的なヨーロッパ人によって植民地化され,文化を奪われたものの,生まれついたアジア系の素質は,完全に失われずに残存しており,それを依然として感じとることができるとされる。

ここで,エストニア人が東洋系の民族であることを示すとされる習慣や,精神構造の特徴とされている点をいちいち挙げることはさておいて,明確に特徴づけられるような「東」と「西」があるのだという,この狭い前提から話をはじめてみようと思う。現実には,地域ごとに大きな差異のある1つの大陸があるのだが,それらの間には特定の地域に属さない中間的な領域も存在する。エストニアもそのような中間領域の1つである。エストニアの場合,かつては,東の地域との結びつきが西の方との結びつきよりも実際に強かったが,後になって,西との結びつき,西の影響の方が勝るようになった。しかし,将来これが逆転するかもしれない。また,どんな文化においても,他人とは違う基準で行動し,別の文化に親近感を感じ,それを自分の創作活動に反映させる人間がいる。そのような人間の役割は,過大評価すべきでも,過小評価すべきでもない。それはともかく,私自身,まさに東アジアの文化,中でも哲学,宗教,詩などに,非常に大きな知的刺激を受けた人間のひとりである。作家として成長する過程で,私は,エストニアの人々とは,いわば逆の方向,すなわち西から東へと動いてきた。私が最初に出版した文学的な仕事は,スペインの叙事詩『わがシッドの歌』の部分訳である。そして,私の翻訳で一番新しいのは,中国の古い詩である。つまり私は,大西洋の沿岸地域を出発して,太平洋の沿岸地域に流れついたわけだ。

私はまた,自分自身の関心から,また他の人たちのために,東アジアの文化において,最も明白に,もっとも強く表われる,ないしは,西ヨーロッパには欠けているか,あまり観察されない特徴は何か,あるいは,その逆の性質を示す特徴は何か,という問いの答えを見つけ出そうとしてきた。私の住む東ヨーロッパでは,典型的な「西洋的」特徴と典型的な「東洋的」特徴の両方を見出すことができる。

東アジアに典型的な特徴のひとつは,思考と意思伝達が一致しないことにあると私は考える。思考は,単なる内的な発話,自分との,あるいは想定された相手との対話ではない。人は,常にスタンバイ状態,つまり,意思伝達する準備のできた状態にはいない。人間の想像や思考は,他人に容易に伝えられるような形に整えられているわけではない。したがってまた,ことばで説明されつくされた,言語によって残すところなく表現された哲学体系は存在しないか,存在するとしてもまれである。意思伝達したり,ことばで表現したりする準備のできた状態にいつもいるわけではない人間にとっては,世界も容易に表現可能な対象ではない。そう考える人間が,このような世界を言語により表現することがそもそも可能なのかどうか,疑うようになっても不思議はない。そうした疑いは,道教(老荘哲学)に見られる。道教は,おそらく世界で最古の唯名論的な哲学であり,今日でも,精神世界を形成する重要な考え方の1つであり続けている。道教や仏教の禅宗の影響を受けた作家たちは,ことばで正確に表現し切れないものを,いかにしてことばによって他人に伝達するかという問題に取り組んできた。

そして,東アジアとエストニアの共通点は,意思伝達に対する姿勢がかなり類似している点ではないかという話に,私はやはり行き着いてしまう。つまり,東アジアやエストニアの人々の場合,意思伝達や思考において,言語が果す役割が,西ヨーロッパの人々の場合ほど重要な位置を占めておらず,意思伝達に言語以外の手段を用いる傾向があるということである。これは,擬声語,擬態語など,いわゆるオノマトペが,エストニア語その他のフィン・ウゴル諸語と同じく,日本語や韓国語で多用されることの説明となる。たとえば,エストニア語には,静かな音,自然の音,時には動きを表現することばが,sidin, sadin, sibin, sabin, sihin, sahin, sirin, sarin, surin, sorin, sumin, sagin などのようにたくさんある。これらの擬態語はときには新しく作ることもできる。擬態語の使用は,詩を作る過程と似ている。そこには,即興があり,表現不可能なもの,名前のないものを表現することへの要請がある。ものを「正しい名前」で呼ぶ代わりに,人はそれを,何らかの慣習的手法の助けを借りて,なんとか表現しようとする。このとき,擬態語は小さな芝居と言ってよく,こうして言語による伝達の限界領域に足を踏み入れることになる。すなわち,名づけたり,言語によって表現することから離れて,模倣・物まねの領域へと近づくわけだ。そのような表現のありかたは,不正確であることを免れず,まとまりがない。つまり,いわゆるファジーな言語,厳格には定義できない概念たちの世界である。

西ヨーロッパの言語(ロシア語も含む)をエストニア人が難しいと感じることがあるとすれば,それは,これらの言語では,まさにすべてのものを正確に,一様に名づけなければならず,不確定で,ファジーな表現が可能な場合が,エストニア語よりもずっと少ないためである。いわゆる「ファジー論理」は,日本ではすぐに受け入れられたのに,西洋ではそれほど注目されていないと言われる。誤解を恐れずに私見を述べるなら,これは,日本語や日本文化の特性と無関係ではないし,さらに言わせていただくなら,同様の論理思考は,主要な西ヨーロッパ言語と比べ,擬態語がより重要で本質的な役割をもつ言語を母語とする,エストニア人,フィンランド人などの民族からみても,親しみやすく,理解しやすい考え方であるはずである。

ことばによるコミュニケーションの機能としては,説明,描写/提示,および感化があげられる。詩が,他人に影響を与え,感化する手段として「東」でも「西」でも評価されてきたことは,中国最古の詩集である「詩経」の詩が,孔子の伝統的な教えの中でいかに重視されているか,そして他方で,詩人をプラトンがいかに危険視したかに思いをはせてみればわかることだ。しかし,中国では,古代ヨーロッパより,詩に対して肯定的な評価がとられてきたと主張するわけではない。違いはむしろ,詩において,説明することと,提示し,指し示すこととの間の距離が,どのくらい離れているかという点にある。私は,タルト大学での講義で,いくつかのヨーロッパの古典的な詩,たとえばペトラルカのソネットを,中国や日本の古典期の詩と比較してみたことがある。基本的な違いがあるとすれば,ペトラルカのソネットは,それ自体がひとつの小論になっていること,すなわち,そこでは何かが説明され,理由付けされていることである。そして,そのすべては,韻とリズムの点で散文と異なっているものの,論理的・文法的構造では散文と区別できない言語形式で表現されているのである。これに対し,中国の古典的な詩は文法的に見れば極めて単純である。一行一行がそれぞれ完結しており,詩においては提示と描写が重要である。そのような詩は,まるで一連の絵画である。言い換えれば,視覚的・聴覚的(さらには嗅覚的な)なものが極めて重要な位置を占める。それゆえ,中国およびその文化圏の古典的な詩には,しばしば絵が添えられており,その絵は,ときに詩と不可分のものとなっている。詩とは,ことばを用いて,読者の眼前に,一枚の絵,ないしは一連の絵を呼び起こすことであると言っていいだろう。読者は,たいてい,詩の中で語られている風景や場所のようなレアリアをよく知っている。つまり,そのような詩を理解し,その詩に参加するには,何らかの具体的な場所に関する知識を持っているかどうかが重要な意味を持つ。これに対し,ヨーロッパの古典的な詩においては,一般にそのようなことはない。表現がより抽象的だからだ。ペトラルカのソネットの大半は,どこで,いつ書かれたのか明らかでないのに対し,中国や日本の詩は,特定の時間や空間に結びついていることが非常に多い。

したがって,次のように言うことができるだろう。言語外的な要素は,東アジアの古典的な詩において,ヨーロッパの古典的な詩におけるよりも大きな役割を果していて,この事実に,言語に対する姿勢が現れていると,私は考える。ヨーロッパは,東アジアと比べ,より「言語重視型」の地域である。すなわち,ヨーロッパでは言語がより重要であり,言語に対しより多くの信頼が置かれ,言語はより多くの役割を果さなければならなかった。これに対し,東アジアでは,言語に対する接し方はより懐疑的であり,言語の役割は,描写することや真実を明らかにすることというより,むしろ,ものごとを想起させたり,指し示したりするもの(「指で月を指し示す」)であったといえる。したがって,多くの場合,詩人の役割も異なる。ヨーロッパの詩人は,雄弁家であることが多く,詩作の技芸は,ことばの技術,すなわち,人々になんらかの主張を解き明し,彼らを説得するための方法を扱うところの修辞学の一部門とされてきた。詩人は,フランスのヴィクトル・ユゴー,ロシアのプーシキン,ポーランドのミツケーヴィチのように,多くの国において「民衆の代弁者」であって,詩は明らかに政治的な役割を帯びていた。これに対し,東アジアでは,政治家たちの多くが詩人であったが,詩人たちの創作活動は,おおむね政治とは離れた場所で行われており,彼らの詩が描いたものは,個人的な世界,感情,回想といったものだった。このことからわかることは,東アジアの詩人が,詩の形式を用いて表現しようと努力してきたものは,自分の内面の世界,すなわち,もともとことばでは表わすことのできない何かあるものなのであって,うまく説明でき,理由付けのできるような何かあるものではないということであると,私は考える。詩人は運動家ではないし,何かを伝え広める人でもない。人間の内面の世界は,他人に伝え広めることのできるようなものではないのだから。

西洋における詩は,詩以外の方法,すなわち「散文的」に語ることのできるものを,美しく「詩的」に語る芸術である。東アジアにおける詩は,語ることのできないものを語る芸術である。李白や蘇東坡,芭蕉の詩は,私たちがどうしても説明したり,名前をつけたりできないもの,少なくともそうすることが非常に難しいものを,私たちの前に出して見せてくれる。詩の,ことばとしての意味よりも,詩が喚起する想像やイメージのもつ意味のほうが重要なのである。私がこのことに気づいたのは,アメリカで人気を博した禅の思想が,エストニアにまで伝わってきた1960年代初めである。禅を紹介した本には,必ず,詩の例がコメント付きで載っていた。こうしたことを深く理解したことで,詩に対する私の理解とともに,私の文章が,本質的な変化を体験したといっていい。あるほんのささいな理解,小さな悟りが,私を数日間,幸福な気持ちにしてくれたことを,はっきりと思い出す。松林の中にいたとき,突然,松たちが松ではないのだということ,松について日常的に思い描いているもの,「松」という語の意味するもの以上の何かが,その松たちにあることを,私は理解したのだ。

こうして私は,植物や風景,鳥たちを,それまでよりも鮮明に,見たり,気づいたりするようになった。このような理解のし方の変化の結果として,1冊の小さな詩集が生まれた。そのタイトルは,最初「具体的な風景たち」としようと思ったが,いろいろな理由から「ヴォルマーの上空の白い線」になった。この詩集のタイトルになった詩を読むと,そのころ読んだ禅についての本の影響が感じられる。

  風がクモを運んでいる          Tuul kannab ämblikke
  平原や川の上を 森は          üle niidu ja jõe mets
  両側に立つ 両方の手のひらを開く    seisab mõlemal pool mõlemad peod lahti
  20世紀 一機の飛行機が        kahekümnes sajand üks lennuk
  ヴォルマーの上空に描く白い線      veab valge joone Võrumaa kohale
  裸足でどこかから家に帰る途中      paljajalu kuskilt koju tulles
  あなたはナナカマドの前で立ち止まる   seisatad pihlaka ette

あるいは,短歌形式になっていると思われる次の詩はどうだろう。

  青い星たちの下             Siniste tähtede all
  静かに冷える古いサウナ         tasa jahtub vana saun
  土曜の夜                laupäeva öö on
  月が照らすのは 凍って         kuu valgustab jäätanud
  階段の前にあるほうき          luuda trepi ees

私が,中国と日本の古典的な詩,もっとひろく考えて,その精神から受けた影響は,今日まで続いており,そのことは,今日ここで朗読する詩の中にも感じ取ることができるだろう。同時に,次のことを考えると,私は落ち着かない。いったい,私にこんなにも強い啓示を与えた東アジアの精神,東アジア文化の基本的な姿はどんなものか,また,私たちエストニア人を東アジアに結びつけるのは何なのか。日本を実際に体験して,私がこうした問いに,少しうまく答えることができるようになればさいわいである。

(小森宏美・松村一登 訳)

*本ページは,2004年11月5日,東京大学における講演の原稿の日本語訳である。

カプリンスキーの詩
翻訳: 松村一登 宮野恵理 ラウリ・キツニック
*2004年11月5日のカプリンスキ講演会で,この順番に朗読されました。

東と西の境はいつもさまよっている,東へ行ったり,西へ行ったり。
今どこにあるのか,わたしたちには知るすべもない
ガウガメラなのか,ウラルなのか,あるいは私たち自身の中なのか。
耳や,目や,鼻の穴や,手や,足や
肺や,睾丸(女性なら卵巣)の片方は
こっち,もう片方はあっち。心臓だけは
心臓だけはいつも片方にしかない。
私たちが北を向くと,それは西側にくる。
私たちが南を向くと,それは東側にくる。
口は,どっちを向いて
話せばいいのか,わからない。

折れた翼で
誰かがテーブルの上の
手紙とパンくずを
はき集めている

子どもたちは庭で
いろとりどりの羽根を
拾い集める

それがいいのかもしれない
どんな翼が
私を支え持ってくれていたか
誰も考えてくれないことが

この不思議な地表の
上の方で

雪になって
灰になって
水になって

あらゆるところへ
すこしずつ
流れて戻っていくとしよう

そして,ときに道ばたで
ライ麦の穂先のもみ粒を
1粒1粒数えながら
手のひらに取ったり
あるいは,ポケットにいっぱい
ドングリを集めたりする人がいても

それが
私だとわかってくれる人は
もはや誰ひとり
いないだろう

人々が市場から帰ってくる,プラムの木の苗を持って
道路に白い線がつく
家に帰る道で,もう一度,
白樺の湾曲した幹や,芽を出し始めた葉と,
雲のかかった空が,水たまりの水面に映っているのを見て
私は思った もう少しで,
この美しさがやりきれなくなる
それよりは,足下の地面に生えている,
魅力的なゴボウや,イラクサや,ヨモギを見るほうがいい
あるいは,家の中に入って,辞典を調べてみるほうがいい
「幽玄」とか「さび」とか「もののあわれ」が
日本語でいったいどんな意味なのかと
それは,暗い神秘,
存在の魅力,もしくは,存在の悲しみ

風は吹くのではない 風とは吹くことそのもの
吹かない風があるだろうか? 照らない太陽が?
流れない川が? 流れない時間が
時間とは流れそのもの しかし,いったい何が
流れるのか,わからない では,ダムがせき止めて
できた湖のように,その場に立ち止まっている
時間というものがあるだろうか? 燃え始めておらず,
赤くもなっていない火があるだろうか?
冷たい火が? まだ光っていない稲妻が?
まだ考えられていない考えが? まだ
生きられていない生,何もない場所のままありつづける生,
風の巣の中の黒く乾いた穴のように空洞のまま残る生,
岸に着く前に岩となる波のような生,
今,テーブルの向こうの端から私をまっすぐ見つめて
夢の中で良心に触れる,そんな生があるだろうか

秋に咲く,この大きな,大きな黄色い菊
その菊は咲くのではない,それは咲くことそのもの,花の女神フローラ
その中で花の姿を纏う,それが花である
ちょうど,ヴァネムイネの坂道で,向こうからやってくる少女が
向こうからやってくることが少女の姿を纏ったものであるように
ちょうど,月なるものが,月の姿をとった輝きであるように
そして,この私はといえば,
子どもの下校に付き添うことが,ヤーンとレンミットの姿を纏ったもの
私にわからないことはこれ
何が/誰が,2つの顔をもつ,この言語というものによって
姿を現すのかということ 向きを反対にすると,
言語は,様々な概念や神々を産み出し
私たちや,私たちの日常的なものごとを
天上の神々たちの活躍の舞台に変えてしまう
そして洞窟の壁の影たちは,なぜか,
主語は述語より実体があるはずだとか,
その反対だとか考える でも,私はちゃんと知っていた
何が本物であるかを たとえば,庭で男の子たちが
古い鍋に投げつけた石ころ,ベランダの周りの葡萄のつる
ときには春の空,ときには夢

シレジアの石炭が4トン半――
地下室に入れるのに一日
燃やしてしまうのに一冬 手に入ってよかった
そして――いつものことながら――少し残念だ
こんなにすばらしいものを燃やしてしまうなんて
長い間埋まって隠れていた本なのに
ページを一枚一枚はがしてよく調べることもしないで
私は,これらの炭の塊たちから,ほとんど
何も読み取ることができない 太古の木々の葉や樹皮の
跡をはっきりと残しているのに
やはり本だ 見知らぬことばで書かれた黒い本
ところどころに知っている単語がいくつか見えるだけ
コルダイテス,ベネディテス,シギラリアといった木の名前が

池で洗濯物をすすいでいるとき,小さな茶色い蝶を見た。
暗い水に落ちて,もがいている。風にふかれ,しだいに岸のほうへ
流されてくるのを,まるでスポーツ大会でも見るように眺める。
岸までたどり着けるのだろうか,その前にミズグモにやられてしまう
のだろうか,あるいは,底の方から上がってくるゲンゴロウに
捕まってしまうのだろうか。私はむろん蝶の味方だ。けれど,
自然の営みに干渉し,助けて岸にあげてやろうなどという
気はない。風はあいかわらず,蝶を岸のほうに流し続ける。何かの
小さい虫が蝶の周りで騒いでいる。そうしているうちに,蝶が
泥炭のかたまりが水面に顔を出しているところにたどりつきそうになった。
だが,風はそこまで運んでくれない。蝶はなすすべもなく,泥炭の近くで
くるくる回り続ける。しかし,たとえたどりつけたとしても
助からなかっただろう。水面からわずか数ミリ顔を出しただけの
その泥炭のかたまりを,ときどきさざ波が洗っていたから。
私の忍耐もそれまでだった。私は,スギナの長い茎を差し伸べてやり,
それにしがみついた蝶を岸へあげて,草の上にねかせてやった。

詩人たちは詩を作っていればいい 私は空に飛びたって,自分の言葉で話そうと
 している魚だ
水は干上がるし 空気はやはり吸いにくい
大きな聖なる亀が捕鯨船の船倉で最後の夢を
 むさぼっている
祈りが半分に折れ ことばが枯れた松の樹皮のようにはがれ落ちる
そして私は知っている 私たちには両方が必要だ 水と空気 泳ぐことと
 飛ぶこと 息をすることと歌うこと
私たちを通して記憶は未来になる 私たちのなかに 私たちの言葉のなかに
 次なる時代の翼がある
私たちのなかに私たち自身に対する非難がある ひまごたちの辛らつなことばと
 呪い 彼らの口を通して私たちは自らに問う
私たちはどこにいたのか 何をしたのか 何をしなかったのか 何を言わなかったのか
 なぜ私たちは何もしなかったのか なぜ何も言わなかったのか
鯨とりの漁師たちが最後の水域を分け合い 香辛料を求める商人たちが最後の島々を
 分け合っていたときに

世界は海岸の砂粒ほどもたくさんある
大きいもの,小さいもの 丸いもの,尖ったもの
明るいもの,暗いもの 昔からあるもの,一瞬のもの
静止しているのもあれば,回転しているのもある
ひとりぽつんとあるのもあれば,房のように寄り集まったのもある
そしてその 大きいのにも小さいのにも
丸いのにも尖ったのにも 明るいのにも
暗いのにも 昔からのにも一瞬のにも
そのそれぞれの世界に海や陸があって
その海岸には砂粒があり,その砂粒一つ一つの中に
海岸の砂粒の数ほどの世界が
大きいのや小さいのが,丸いのや尖ったのがある
その中には,釈迦がすでに生まれている世界もあるが
まだ生まれていない世界,今生きて説法している世界もある
そんな数ある世界の中の一つの屋根裏部屋で,私は机に向かっている
すると一羽のムシクイ(Phylloscopus sibilatrix)が
窓のところに飛んできた その
黄色い眉の線と茶色の目が間近に見える
鳥がくちばしで窓をつつき
そのまま飛び去っていくのを,私は見ている

私には自分の土地も空もない。
私にあるのは小さな白い雲ひとつだけ
子どものころ
庭につみあげられた枝の上に寝ころんで
空を見上げたときに出会った--そこにはアマツバメたちや
雲たちがいた。そして,私のその
たった一つの雲も。今は,ずいぶんと姿形が
変わってしまっているだろうけれど,きっと見わけられるはず
ただ,何もせずじっと,庭の枝の山の上に
寝ころんでいられる時間さえあれば

夜 暗闇の中
子どもたちを幼稚園から家につれて帰る

世界は大きくなった 町や
建物,車はこんなにも大きいし たくさんある
彼らはしかし 昔と同じように小さくて
昔と同じように無力なのだ
昔ゆりかごに入れられて畑にいたとき 母親の背中にいたとき
ものがまだ人間の背丈より
高くなっていなかったときのように
  カヌーで荒涼とした海に出るフエゴ島の子どもたち
  ガス室へ入ろうとしているワルシャワの子どもたち

  暗い雪道を行くタルトの子どもたち 私はきみたち
みんなのことがとても心配だ きみたちはこんなに小さいのだ 世界のすべては
きみたちより速く成長する--きみたちが問いかけ 私たち いや私は答えなければならない
いったい何を 私たちがつく嘘を許してはいけない 私たちだって嘘を
つかれていたんだけれども 私はきみたちを信じるけど,それでもとても心配だ
人生を始めから生き始めなければならない すべてがとても小さくて毀れやすかったころに
戻って 外ではしかし,大きくて重い車が走っている 若者たちは歯が折れるまで
殴りあっている 飛行機が上空を飛んでいる 夜だ 眠くならないし平安もない夜
問うことばかりの雪の降る冬至の前の夜

(松村一登氏「フィンランドのページ」から)
【2005年12月29日 記】

2005/12/06

超人のドキッとする絵画 2

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大正期神戸生まれの39歳で没した画家・岡本神草作『口紅』。この妖艶さは何処から?
実は、テレビ東京の番組『美の巨人たち』に触発され、とうとう京都国立近代美術館まで行ってしまいました。が、そこで受付嬢が言った一言。所蔵はしていますが、未公開です。ガクゥーン! なんだ、あのテレビ東京の番組でナレーターが言ってたのは嘘?仕方なく1500円だったかな、この絵が掲載されている黄ばんだ画集を買い込みました。
写真はいずれも京都国立近代美術館刊『国画創作協会展覧会画集』1993年より。ジャンジャン。

超人のドキッとする絵画 1 妖艶の画家・岡本神草

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岡本神草作『拳を打てる三人の舞妓の習作』(1920年/大正9年)。舞妓の目をとくと御覧あれ。妖艶な女性表現ですが、でも何故か慈悲深い。仏像の投影か、この画家が好んだダ・ウ゛ィンチの手法の具現か?さて、この夭折の日本人画家に去来したものは、いまもって疑問は尽きない。その妖艶さの深さと同じく・・・。
また、別の絵には引き裂かれた謎の物語があるらしい。その話とは・・・。

京都国立近代美術館に収められている岡本神草・作『拳を打てる三人の舞妓の習作』。


2005/12/04

超人の面白読書 15 岡田哲著『ラーメンの誕生』

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 やっとのことで読み終えた岡田 哲著『ラーメンの誕生』(ちくま新書 720円)。巻末には参考文献、ラーメン年表も付いて全部で234ページだが、中国めん料理小史、日本のめん食文化史、ラーメン変遷史、ラーメンの魅力、こだわりの味、果てはインスタントラーメンまで幅広く、奥深く、ラーメンについて薀蓄を傾けている。新書版と侮ってはいけない、内容は濃いのだ。通勤電車の中、出張中の新幹線の中など主に移動中に読んでいたので読了するのに少し時間がかかり過ぎたようだ。途中興味を薄れたこともあってか新書にしては手間取った。
日本は歴史的にはそうめん、うどん、そばなどのめん文化を育んで来たが、ラーメンが入ってきたのは意外と新しく明治維新以降のようだ。江戸時代でもむしろ油嫌いや肉食忌避があってまだそばの段階で、明治以降肉食解禁も手伝って、横浜の南京町で中国人が改良して出したラーメンが受けたりして少しずつラーメンが庶民に受け入れ始めた。明治中期になると小説他にも登場しラーメンが普及して行く。そして、機械めん(明治中期)、ラーメンブーム(第二次大戦後)、インスタントラーメン・カップヌードル(昭和33~46年)・パスタ(20世紀後半)とめん文化がこの130年余、その時その時のドキュメントをのせて今日まで続いてきたと著者は書く。読者諸氏はすでにご存知と思うが、最初にラーメンを食べた日本人は誰か? 元禄時代、長崎に居留していた朱舜水が、ラーメン風の中国めん料理を水戸黄門で有名な水戸第二代藩主水戸光圀に振舞ったことが日本で初めてらしい。味のほどはどうだったか分からないという。<続く>

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