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2005/10/09

クロカル超人の読書余話「杉原千畝」のことなど

以前に工藤幸雄著『ぼくとポーランドについて、など』の書評の余話で、ヴィニュスの西方にある商都Kaunasカウナスに第二次世界大戦中に6000人以上のユダヤ人を救った外交官杉原千畝の記念館があることに言及した(2005年5月13日)。
「日本のシンドラー」と言われたこの杉原千畝の伝記を読売テレビが終戦60年記念ドラマスペシャルsugihara_sorimachi「六千人の命のビザ」として制作、7月21日~8月8日までヴィニュスでロケも終え、10月中旬に放送予定と毎日新聞が2005年8月12日付で報じていた。杉原千畝・幸子夫妻を反町隆史と飯島直子が演じる。【写真右:ユダヤ人たちが日本領事館へ押し寄せるシーン。右端は反町隆史】(毎日新聞2005年8月12日夕刊より)その後、10月8日の日テレでこの番組の予告編を偶然に観た。その中で印象に残ったことは、杉原千畝が発給したビザで助けられた女性の一人がオーストラリアに住んでいて今92歳だということ。生命の恩人・杉原千畝の発給したビザを家宝として大切しているし、息子、孫にもこの忘れてはならない歴史を言い伝えている。ビザ発給後、当時ポーランドから逃れてリトアニアいたユダヤ人のこの女性は、旧ソ連を経由し日本に渡り、そのとき妊娠していて神戸で出産、息子を産んだ。その後オーストラリアに渡った。時代は新たな巡り合わせを生み、その孫夫婦も杉原千畝の実家のある岐阜県の町の記念館を訪ねて日本へ、ここで妊娠していることが判明、日本での「妊娠」がキーワードとそのお孫さんは言っていたが、その言葉の重みを噛み締めているようだった。10月11日火曜日夜9時、杉原千畝役の反町隆史とこのドラマの原作者の奥さん役に飯島直子が扮する「日本のシンドラー」のテレビドラマが楽しみだ。おそらく筆者は仙台のホテルで観ることになるが。映画「シンドラーのリスト」も6時間かけてテレビで観た。そもそもは関口宏司会の日本テレビの番組「知ってるつもり」で紹介され話題になった。日本人がもっと知ってて良い人物である。また、2005年10月7日付毎日新聞夕刊では古都の賢人に聞くシリーズで、第1回目、哲学者鶴見俊輔のインタビュー記事が出ていた。「あの大東亜戦争、どこでどう止めるか、ゼンゼン、見当もつけずにやったんだ。ゼンゼン、ゼンゼン ! あんなの負けること、3歳の童子でもわかりますよ。勝てるわけない。3歳でもわかることが一高1番、東大1番のやつにわからくなってんだ。それが1905年以降の日本なんです。この体制はまだまだ続きますよ。100年か200年、そして日本は滅びる。私はそう思っているんだ」毎日の記者のトーンが低くイロニー的に比べて、この老哲学者はハイテンションだ。戦後、丸山真男らと雑誌「思想の科学」を創刊、「べ平連」でも活躍したとは毎日夕刊の紹介記事。その丸山真男の蔵書、ノート、草稿類などの資料が寄贈されて丸山真男文庫を設立した東京女子大学、その附属図書館で先週の水曜日に年一回の記念講演があった。今回の講演者は作家の小田実氏だ。筆者は丁度講演終了後迎えの車に乗り込んだ小田実氏を目撃、思わずカメラ付き携帯電話で撮ろうとしたが止めた。この野郎何すんだと怒鳴られそうだったからだ。その日は知り合いの先生から丸山真男記念 比較思想研究センター報告(2005年3月創刊号)を頂いた。そのbulletinの中に「1930年代の恐怖の持続」という第4回講演者鶴見俊輔氏の要旨が載っていて興味深く読んだ。
先人の智恵と勇気に倣って、時代に流され風化してしまいそうな「平和」をしっかりと考えていきたいものだ。この国がいつか来た道を辿らせないためにも、だ。

euromap

杉原千畝と6000人のビザ略歴

1900年1月1日 岐阜県加茂郡八百津町に父好水、母やつの次男として生まれる。

1919年  早稲田大学高等師範部英語科中退、外務省留学生としてハルピンでロシア語を学ぶ。

1924年 外務省に奉職。満州、フィンランド、リトアニア、ドイツ、チェコ、東プロセイン、ルーマニアの日本領事館に勤務。
1940年夏、リトアニア共和国首都カウナスの日本領事館領事代理時代に、ナチスドイツの迫害をのがれようとするユダヤ人にビザを発給し、約6000人の尊い人命を救う。

1947年 帰国。外務省を退職。東京PX、米国APONJE商会、ニコライ学院教授、NHK国際局、国際交易(株)等に勤務。1985年1月イスラエル政府より「ヤド・バシェム賞」(諸国民の中の正義の人賞)を受賞

1986年7月31日 逝去(86歳)

幼年期~旧制中学校


母の葬儀に集まった杉原一家 京城の実家にて 1921年
 千畝は1900年1月1日、父好水、母やつの次男として岐阜県加茂郡八百津町に生まれた。
 父は税務署勤務で転勤が多く、千畝は小学校を三重県、岐阜県、愛知県と転校しているが成績はよく、「全甲」の通知表も残されている。千畝が小学校を卒業する前に、父は単身で朝鮮総督府財務部に赴任していった。その後、父は朝鮮の京城(現ソウル)で旅館業をはじめかなりの盛況だったようだ。1916年に家族は、朝鮮に引っ越したが、愛知県立第五中学校(現愛知県立瑞陵高校)へ進学していた千畝はひとり日本に残り、1917年に中学を卒業してから家族の住む京城に行った。成績の良い千畝が医者になることを期待していた父は、京城医学専門学校の受験手続きをして待っていた。だが、千畝には医者になる気は全くなく、入学試験の当日、母が作ってくれた特別の弁当を食べただけで、受験はせず帰宅してしまった。
 「母やつが当日のために、わざわざ特別の弁当まで作って、家から送り出してくれた。ところが、医者になることは私はイヤで、結局この入学試験は受験しないで、弁当だけ食べて帰宅した訳でしたが、父はそのことを大変に怒り、それならば家を出て働けと言いました」(千畝の手記より)
 他に流されない、千畝の意志の確かさが伺えるエピソードといえるだろう。

大学を中退し外交官へ


ハルピン時代 ロシアの専門家として頭角を現す
 一年の浪人生活の後、1918年早稲田大学高等師範部英語科予科に入学した。語学の得意な千畝は英語の教師になることを夢見ていたが、父の意志に反しての入学だったため、学費・生活費の一切をアルバイトで賄わなければならず、苦しい生活を送っていた。大学2年生の時、偶然、大学図書館で外務省の官費留学生の募集広告をみたことが、人生の転機となる。官費で3年間留学して語学を身につけ、のちに外交官に採用されるというものであった。「アルバイトをしなくても勉強ができる!」 願ってもないチャンスだが、受験までの期間はわずか一か月。必死の勉強が身を結び、みごと合格した。
 1919年10月、外務省のロシア語留学生としてハルビンに渡った千畝は、生来の語学の才能で4か月後には日常会話に困らない程に上達したという。
 1924年に外務省書記生に採用され、ハルビンの日本領事館ロシア係に就任する。1932年には満州国の建国が宣言され、満州外交部に派遣された。千畝は外交部時代に北満鉄道譲渡交渉に関わり歴史に残る成果を上げたが、1935年あっさりと満州外交部を退任し外務省に復帰する。この時のことを手記に「若い職業軍人が狭い了見で事を運び、無理強いしているのを見ていやになったので、本家の外務省へのカムバックを希望して東京に戻りました」と記している。

ヨーロッパへ赴任


各国外交官を招いて華やかなパーティー
 1936年、モスクワ大使館への赴任の辞令があったが、ソ連は千畝のビザの発行を拒否。外交官の入国ビザが拒否されるということは、異例のことであり、北満鉄道譲渡交渉で見せた千畝の手腕をソ連側が警戒したためとも推察されている。ソ連への赴任が不可能となったため、翌年、フィンランドのヘルシンキの日本大使館への赴任が発令された。杉原一家の10年にもわたる海外勤務の始まりだった。2年後の1939年、リトアニアの首都カウナスの日本領事館領事代理に任命された。もともとカウナスには1人の日本人もおらず、本来の領事館としてではなく、国際情報収集として領事館が開設されたようである。カウナス赴任にあたっては、危険がともなうとして氏名を変えていくように示唆されたが、千畝はこれを拒んだという。

6000人の命のビザ


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領事館前でビザ発給を訴えるユダヤ人たち 1940年
 1940年7月、ナチスドイツに迫害されていたユダヤ人たちは、日本通過ビザを求めカウナスの日本領事館に押し寄せた。オランダやフランスもナチスに占領され、ソ連から日本を通って他の国に逃げる他、もはや助かる道がなくなっていたためだ。千畝は5人のユダヤ人代表を選び話を聞いた。数人のビザなら領事の権限で発行できるが、数千人のビザとなると本国の許可がいる。電報を打って問い合わせたが、日本政府は再々にわたり「ユダヤ人難民にはビザを発行しないよう」回訓を与えてきた。
 一晩中考えぬいた末、千畝は外務省の意向に背き自らの判断でビザを発行することを決断した。それからおよそ1か月の間、千畝はビザを書き続け、これにより6000人とも8000人ともいわれるユダヤ人の命が救われた。
 リトアニアがソ連に併合された後、千畝はドイツ、チェコ、東プロセイン、ルーマニア領事館に赴任。第二次大戦が終結し収容所生活を送った後、1947年4月やっとの思いで杉原一家は日本に戻った。
 帰国後2か月が経った6月、外務省から突然依願免官を求められた。外務省きってのロシア通といわれた千畝、47歳にして外務省を去ることとなった。

後半生


外務省を辞めたのち勤務した東京PXの新年会 1951年
 退官後は生活のために職を転々としたが、語学力を活かし東京PXの日本総支配人や貿易商社、ニコライ学院教授、NHK国際局などに勤務した。1960年からは川上貿易(株)モスクワ事務所長として再び海外での生活を送ることになり、国際交易(株)モスクワ支店代表を最後に退職し日本に帰国したのは、75歳の時であった。
 1985年イスラエル政府よりユダヤ人の命を救出した功績で、「ヤド・バシェム賞」(諸国民の中の正義の人賞)を受賞。
 翌年7月31日、静かにその激動の人生の幕を下ろした。享年86歳。
(「6000人の命のビザー杉原千畝生誕100年記念事業委員会」サイトより)

追記。日本の麻生太郎外務大臣はこの2006年5月の連休に杉原千畝記念館を訪れた由。


追記2.「命のビザ」ポーランドが杉原千畝さんに勲章と2008年1月17日の毎日新聞朝刊。「命のビザ」を発給した故杉原千畝・元リトアニア領事代理の功績をたたえ、ポーランド大使館で16日、叙勲式が開かれた。マルチン・リビツキ大使から、杉原氏の孫千弘氏に「ポーランド復興勲章コマンドルスキ星十字型章」が手渡された。昨年10月、レフ・カチンスキ大統領が、大戦中にポーランド国内のユダヤ人を救った53人の叙勲を決めていた。(2008年1月27日 記)


 


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