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2005/10/28

超人のとっておきの映像 1 大阪

阪急京都線正雀駅近くで見つけた小さな秋。紅葉に似たモミジバフウという街路樹に適した木だそうな。

200510281141000.jpg     小さな秋掃くには足らずの落葉踏み 

2005/10/27

超人の面白ラーメン紀行 26 京都『東京ラーメン』

 以前にも書きましたが、ある大学の先生に教えて頂いたラーメン店。京都は京大人文研の裏手の小路にある『東京ラーメン』です。二度ほど尋ねましたが閉まっていました。時間帯が悪かったのかも知れません。今回はバッチリでした!
旧い建物の玄関に吊された赤い提灯を潜って入ると、年配の品の良さそうな大柄の店主と娘さんらしき女性と切り盛りしていました。カウンター、テーブル、それに座敷と全部で15人が入れば満杯の店。さすが場所がらでしょうか、京大の先生方が座敷に座って雑談しながらラーメンを食べていたり、カウンターでは京大生が入れ代わり入って来ては何々ラーメンと言って店主に注文をしていました。注文を受けてからラーメンの出来上がるまでの段取りが何とも言えないほどの絶妙な時間、速くもなく遅くもなく、そう恐らく店主がつくりあげたであろう古典的なリズムで供されます。鶏ガラスープであっさり味、麺はやや黄色っぽくストレート系、トッピングはもやしのみのシンプル イズ ベストです。それでいてスープが美味。ラーメン400円は安いです。量も値段の割りにはあります。筆者はあまりあっさりすぎと思い、生卵と海苔をトッピングした大盛りラーメンを頼みました。それでも560円でした!海苔は市販のものを使っていましたね。生の味を楽しむには生卵は入れないほうが良かったかも知れません。大盛ラーメン500円、たまごラーメン500円、チャーシューラーメン560円、小ライス130円、替玉(スープともやし入り)180円。営業時間AM11:00~PM9:00 日曜・祭日休。
『東京ラーメン』①スープ★★★②麺★★★③トッピング★★④応対・雰囲気★★☆⑤価格★★★

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2005/10/23

超人のジャーナリスト・アイ 21 新聞・雑誌拾い読み

■国立大学に続々「出版会」のタイトルで、国立大学にも出版会設立の動きが相次いでいるという記事。国立大学は、自立した法人として出版事業が興しやすくなり、自分たちの研究成果を社会に公表し、存在感を高めようと躍起になっているという(2005年10月23日の日経読書欄の活字の海での囲み記事から)。筑波大学は20年も前から出版会設立の話はあったが企画運営の人材がいず立ち消えていたことや弘前大学、富山大学でも地域性を活かした津軽の華、食文化史とか学生向け教科書などを出版している。しかし、良書を出すという理念と、収益との両立が大学出版会の大きな悩みとは大学出版部協会の理事長の話。販売業務の共同化、編集ノウハウの伝授など小規模出版会への支援強化に動き出したとの記事。特に学術専門書出版は生き延びていくのが難しい時代、個性ある出版と販路の創意工夫が求められている。

■『逝きし世のー』復刊
幕末明治期に来日した外国人による記録を渉猟、古い日本の姿を描き出した『逝きし世の面影』が平凡社ライブラリーから復刊するという記事。著者は在野の近代史家、渡辺京二氏。1900円(日経新聞2005年10月23日)

■『雨の日はソファで散歩』
種村季弘氏の最後のエッセイ集。幻の豆腐の話他。彼の不在の大きさをあらためて噛み締めるとは評者の作家・松山巌氏の書評。筑摩書房・1890円(朝日新聞2005年10月23日読書欄)

■鴻巣友季子著『明治大正 翻訳ワンダーランド』新潮選書・680円(税抜き)
西洋文学の名作の翻訳の意外な経緯や裏話など英文学の翻訳家が面白く明かす(日経新聞2005年10月23日)。

■ドウス昌代著『イサム・ノグチ(上・下)』講談社文庫・各752円(税抜き)
米国在住のノンフィクション作家が彫刻家・イサム・ノグチの生涯を丹念に取材した初の本格的な評伝(同上)。

■読売新聞2005年10月23日書評欄「HONライン倶楽部」の谷崎潤一郎の巻が面白いかな。

最近面白い雑誌を見つけて発売元から取り寄せた季刊雑誌がある。焼酎の「いいちご」(本社大分県宇佐市)で有名な三和酒類株式会社が出している最新号、『季刊 iichiko AUTUMN 2005 NO.88 特集 アルチュール・ランボー 151』、この雑誌は、精神、民俗、環境、場所の四つをキーワードに産業と文化の新しい関わり方を考察する文化広報誌。
奥付を見ると企画、三和酒類株式会社、発行所、日本ベルエールアートセンター、発行人、河北秀也、編集・研究ディレクター、山本哲士、そしてお問い合わせ先は港区永田町2-14-3赤坂東急ビル8F E・H・E・S・C内「季刊 iichiko」編集室 TEL03-3580-7784 FAX03-5730-6084とある。昨年が生誕150周年のアルチュール・ランボー、最近彼の詩集の改訳が刊行されて話題になっているが、執筆者の面々も豪華だ。宇佐美斉、鈴村和成、山口佳巳、中地義和、湯浅博雄、野村喜和夫と山本哲士の各氏。

また見附った              また見付った
ー何が、-永遠が、          何がだ? 永遠。
海と溶け合ふ太陽が。        去ってしまった海のことさあ
     〔小林秀雄訳〕           太陽もろとも去ってしまった。           
                                 〔中原中也訳〕

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この雑誌の巻頭で山本哲士はこの二人の訳を比較し、中也の野暮ったい訳と意訳だが小林のは名訳と上記の訳を引用しつつ、ことばというものの呪縛の強さを物語る、最先端の実例ではないかと記している。筆者は、この他の訳、例えば堀口大學、清岡卓行、粟津則雄などでもランボーの詩集を読んだ。そして、この有名な詩句は原文を諳んじていたのだが、一部は忘れた。さらっと読んだ限りではレベルも高く、しっかりした雑誌作りをしている。しかも市販していないのだ。執筆者の一人に偶然お会いする機会があり、この雑誌の存在を知って慌ててて申し込んだ次第。全部はまだ手に入れたばかりで読んではいないが、装丁もすっきりしていて良い。最近見たなかなか良い雑誌のひとつ。iichiko2

                      
                              

学術先端情報- 学術mini 情報誌『PS JOURNAL』の紹介 続々

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2005年 第7号 特集 研究者の現在Ⅵ 越境する日本文化

【目次】
■エリーゼは「伯林賤女」に非ず          金沢大学教授    上田 正行
■プリンストン大学東アジア図書館日本語コレクションについて   
                     プリンストン大学東アジア図書館司書   牧野 泰子
■ドイツ・エルフルト大学東アジア史研究室の概要  エルフルト大学教授  ラインハルト・ツェルナー
■ニコライ2世日記 挫折と再読         大阪学院大学助教授   広野 好彦
■市民と大学生にとっての歴史展示の意味
 ー「軍事郵便」の運命を危惧して           専修大学教授    新井 勝紘
■中原中也、新聞を読む             梅光学院大学講師   加藤 邦彦
■「情報公開法」と「近代史科学」           駒沢大学講師   熊本 史雄
発行:日本図書センターP&S 編集:日本図書センターP&S PS JOURNAL刊行委員会 無料 

エリーゼは「伯林賤女」に非ず

上田 正行(金沢大学教授/日本近代文学)

 小池正直の石黒忠悳宛書簡(明治22年4月16日付)が見つかり紙面を賑わせた。森林太郎を追いかけて、はるばる極東の島国までやって来たドイツ人女性、エリーゼ・ヴィーゲルトの正体が何か分かりそうに思われたからである。この女性の謎に迫ろうと既に数冊の本が刊行されているが、研究者以外でもこの女性に惹かれる人は多いようだ。今回の騒ぎで残念だったのは、そこに書かれていた「伯林賤女」と「手切」、森の「天狗之鼻」が三題噺のように結びつけられてしまって、あたかもエリーゼが「伯林賤女」であったかの如き先入観を読者に与えてしまったことである。いけなかったのは本年2月24日の「朝日新聞」(大阪版)に載った山崎國紀氏の一文である。その紙面で書簡発見者の高橋陽一氏の「日本医事新報」(平成16年6月12日)掲載の記事を知ったが、論旨は山崎氏と全く同じであった。
 これに対して、同じく7月6日付「朝日新聞」に「『鴎外と手切れ』に異論」が載り、『仮面の人・森鴎外』の著者、林尚孝氏の反論が紹介されていたが、論旨が一貫しており私も林説を支持するものである。
 林説の眼目は原文に二つの「○」印が付されており、この書簡が三つの部分から成り立っているというところにある。始めにロッツベッギ(小池の他の書簡ではロッツベッキ)と菊池常三郎のことが触れられ、次に橋本綱常の息、春(長男長勝の幼名、『橋本綱常先生』による)の話題となり、最後に森林太郎のことに及んでいるのであり、この文脈で書簡は読まれなければならない。
 問題は第二と第三の段落にある。まず前者であるが、ヴュルツブルグからやってきた春がベルリンの「賤女」と続いていた関係を、小池の度重なる忠告で漸く断念し、これで手切れになりそうで一安心だと、その経緯を春の父親に報告しようとしているのが趣旨である。綱常も小池から報告を受けて息子と女性とのことを気にしていたのであろう。山崎氏は「文芸春秋」(平17・6)の記事でベルリン・ヴュルツブルグ間の距離を問題にしているが、恐らく春に暫くのベルリン滞在期間があったか、ヴュルツブルグから出かけた折に知り合った玄人の女性がいたと考えれば済むことである。
 小池に「烏城紀行」(「中外医事新報」212号,213号 明22・1・25,2・10)があるが、小池がヴュルツブルグを訪れたのは明治21年10月26日から28日の三日間で、旅行の目的を「私事ヲ以テ烏城ニ赴ク」としている。しかし、春の寄寓先を宿としているので春に会うのが最大の目的と考えてよい。紙数の関係で詳述できないが、当然、女性との関係が話題の中心となったことは間違いない。
 今一つ考えなくてはならないのは森と小池との関係である。明治22年に入って二人の関係が急速に冷え込む事態になりつつあり(特に小池が森のことを快く思っていない)、とても小池が森のために一肌脱ぐような心理状態ではなかったことである。又、22年4月の時点で既にエリス事件は決着を見ており、ここで「手切金」など出ようはずがない。ベルリンに戻ったエリーゼが、今更、「手切」などと言い立てたところで誰が相手にするのであろうか。小池は明治21年5月20日にベルリンに入り、6月にはミュンヘンに移っており、それこそ、どうして見ず知らずのエリーゼの苦情を聞けるのであろうか。エリーゼが日本を発つ前に、滞在費や旅費を含めて何がしかの手切れに相当するものが森家から支払われたと考えるのが大人の常識であろう。(小金井喜美子の「次ぎの兄」の中には旅費、旅行券、皆取り揃へて、主人が持つていつて渡したさうです」とある)文脈から言っても「伯林賤女之一件」と
は橋本春に関わることは明白であるが、このことを決定付けるのが第三段落である。
 小池は森宛の書簡をわざわざ開封して石黒に読ませ、読了後に貼附して森に転送するように頼んでいるのである。何のためか。「天狗之鼻」を挫くためであるが、これには石黒も同意してくれるであろうという読みがあった。何をさして「天狗之鼻」というのであろうか。それは、直前の「同人ト争フ気ハ少モ無之候得とも」と関わる。
 二人の間に争い(意見の対立)があったのであり、この争いを知るには明治22年前半の「中外医事新報」と「東京医事新誌」を見なくてはならない。最初の対立は「中外医事新報」211号(明22・1・10)に掲載の「在独逸国医学士小池正直氏書翰」に端を発する。主文ではなく追伸が鴎外の反論を招くことになった。まず日本人に日本文で以って研究成果を発表すべきという小池の論に対して、森が「東京医事新誌」565号(1・26)で痛烈にその非なることを難じた。既に「戦闘的啓蒙家」の面目は躍如としている。小池は「中外医事新報」220号(5・25)掲載の社員原田宛書簡で自説を繰り返している。これが第一回の契機である。
 第二の契機はこれも森宛の小池書簡(「東京医事新誌」566号 2・2)にあった。二人の共通の師であるペッテンコ―フェルの七十賀の新聞記事の訳載を森に依頼したのが事の始まりである。いけなかったのは森が訳した「ペツテンコーフエルノ逸事」(「東京医事新誌」570号~572号,3・2,3・9,3・16)であった。その前書きで森は小池から送られてきた新聞の切り抜きが不完全なことを指摘して、「記録に漏れて知られずにしまった事柄」と掛けて「逸事」というタイトルを付けたように取れる説明をしている。嫌味な洒落である。小池は憤然として「与森林太郎書」(「東京医事新誌」583号,6・1)を書いた。書簡の日付は4月1日となっているので、今回、発見された書簡の二週間前ということになる。恐らく、この書簡か、あるいは殆ど同じ内容のものが4月16日付の石黒宛書簡に同封されていたのであろう。戦闘的啓蒙家の慢心を諌めようとの思いもあろうが、語調から見て、森のやり方に腹
に据えかねるものを感じていたのであろう。又、森がドイツや日本の新聞に記事を寄せ「新聞屋」を兼職していることも気に入らなかった。これが「天狗之鼻」の背景であり、小池の森に対する感情は悪化していた。
 伝統的保守主義者としての小池の面目は書簡で明らかであるが、同期生とは言え七つ年上の友人に食って掛かる林太郎も相当なものである。戦闘的啓蒙家は一切の私情を顧ようとはしない。このような森に小池が私事に渡ることについて、口を差し挟むような余地など全くなかったのである。第二段落と第三段落とは完全に切れていて、繋がらないことはこれで明らかであろう。この書簡からはエリーゼが「伯林賤女」であったという読みはどこからも出てこない。
                    

         
                  

2005/10/22

超人の面白ラーメン紀行 25 東京都文京区本郷『初代けいすけ』

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10月11日のTBSの番組『王様のブランチ』で紹介していたラーメン店のひとつが、地下鉄東京メトロ丸の内線駅から徒歩約5分の東大赤門前にある『初代けいすけ』。雨降りの月曜日に筆者が、東京医科歯科大学附属病院に行った帰りに立ち寄ったところ。場所をメモした紙片を見ながらここら辺かなと思っていたら、以前に入って店の名前を失念していたラーメン店『破天』(2月19日 記)の二軒先に赤と黒が基調のこの店を発見、えっ、こんな近くで商売が成り立つのかなと素人ながら考えた。しかも味噌ラーメンが売りの店がまさに隣り合っている感じである。店に入ると10名が座れば満席の小さな店だが、赤と黒が基調の雰囲気が思わず La nuit と言いたくなるほど大人的。カンバンの「黒味噌ラーメン」を注文してしばらく待つと赤色のどんぶりに入ったチャーシュー、挽肉、タマネギ、刻んだネギなどがトッピングしてある、ちょっと洒落た黒味噌ラーメンが出て来た。居酒屋を経営する店主が、信州や仙台など国内外7種の味噌をブレンドし、竹炭を混ぜ煮込んでから熟成させることで、真っ黒いインパクトのある味噌が円く味わえるし、またモンゴル岩塩で味付けしたチャーシューも上質な味とはあるラーメン雑誌の最新版のリポートの一文。実際には見た目と食べた感触には大分開きがあって、このギャップが良いかも。タマネギと挽肉がちょうど良く麺に絡まってこの黒味噌との相性の良さを一段と感じさせてくれる。スープは濃い味だがまろく、エロイのだ。欲を言えばスープの量がもっとあった方が良い。少なすぎないか。麺は中細ストレート系。トッピングの常識がここにはない。強いて言えば刻みネギくらいか。心憎い演出もあった。木炭の入った水差しをコップに注いで飲んだ水、これが美味しかった。厨房を仕切っているのは心優しそうな独学の店主とパートナー。黒い壁には王様のブランチからの色紙が貼ってあってその色の配置が印象的。入口右側の棚にはどっしりした入れ物に入った大きな昆布が目立つ。東大生をはじめ学生が次々に入って来てはサービスのライスでもりもり、黒味噌ラーメンをするりするり、バックグランドミュージックはジャズ風、狭い場所にしては音は澄んでいたかな。この日は歯茎の腫れを直した後のため、筆者には充分に食事を取る態勢になっていなかったかも。そのうち再度チャレンジしてみたいと思いつつ、この個性的なラーメン店『初代けいすけ』を後にした。黒味噌ラーメン680円、どっさり葱ラーメン830円、特大穂先メンマ200円、四万十のり200円。【写真は『首都圏ベストラーメンガイド2006』(双葉社)より】
『初代けうすけ』①スープ★★☆②麺★★★③トッピング★★★④接客・雰囲気★★★⑤価格★★★

2005/10/09

クロカル超人のニューヨーク面白回想記 1

 筆者の手許に4ヶ月位待ってやっと図書館から借りてきた慶應大学出版会刊『現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記 第1巻 アメリカ編』(久米邦武編著水澤周訳注 米欧亜回覧の会企画)がある。この本は明治11年版久米邦武『特命全権大使 米欧回覧実記』、ならびに久米邦武編・田中彰校注『特命全権大使 米欧回覧実記』(岩波文庫、1977年~82年版、1996年以降の改訂版)を底本に用いた現代語訳で、今年の5月に刊行されたばかりの本であるnewyork_broadway_1873
【写真左:1873年(明治5年)のブロードウェイ(本文P.380より)写真右:118年後の1991年のブロードウェイ(筆者撮影)】
                                                                  brodway_1991

買おうと思っても全6巻分売不可で24、000円以上もする高価な本だ。筆者は、JR東京駅北口丸の内口すぐ近くのオアゾーにある丸善に現物を見に行っても、ペラペラ捲るだけで買えない。本当は喉から手が出るほど欲しかったが。それで仕事序に神奈川県にある大学、公共図書館に所蔵を確かめるも意外と所蔵していないのには驚いた。調べてもらうと、確かに岩波文庫版は所蔵している。せっかちな筆者は、仕方なく辛抱強く待ったのだ。しかも4ヶ月もだ。モチベーションが下がるのを怖れながら。手に入れた昨日辺りはやったねの思いと読み込んでいて多少汚れている本にがっかりしながらもひとまず書棚に置いたのだった。そして、何時間か経って最初の2,3ページを拾い読みしてみた。読みやすかった。ひとつこの本に注文をつければ、せめて分売して欲しいことだ。
実は、1987年暮れにニューヨーク行きを決行した時に持参したのが岩波文庫版だった。行きの飛行機の中で読んでみたものの、この漢文調で格調の高い久米ものは、イマイチ読みこなせなかったのが正直な気持ちだった。その後、筆者の海外渡航の最終目的地は、ニューヨークではないが、何故かニューヨークの不思議な魅力にとりつかれて9回位行ったと思うが、この本が原点にあったことは確かだ。ナンバーリングのついた19世紀のニューヨークの地図を買い込んだこともあった。これからその筆者なりの回想記を書いてみようと思うのだ。

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【写真左・中央:World Trade Center before Sept.11,2001(筆者撮影) 】
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【写真右:1987年に訪れたジャズクラブ『ファットチューズデイのマッチ】
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クロカル超人の読書余話「杉原千畝」のことなど

以前に工藤幸雄著『ぼくとポーランドについて、など』の書評の余話で、ヴィニュスの西方にある商都Kaunasカウナスに第二次世界大戦中に6000人以上のユダヤ人を救った外交官杉原千畝の記念館があることに言及した(2005年5月13日)。
「日本のシンドラー」と言われたこの杉原千畝の伝記を読売テレビが終戦60年記念ドラマスペシャルsugihara_sorimachi「六千人の命のビザ」として制作、7月21日~8月8日までヴィニュスでロケも終え、10月中旬に放送予定と毎日新聞が2005年8月12日付で報じていた。杉原千畝・幸子夫妻を反町隆史と飯島直子が演じる。【写真右:ユダヤ人たちが日本領事館へ押し寄せるシーン。右端は反町隆史】(毎日新聞2005年8月12日夕刊より)その後、10月8日の日テレでこの番組の予告編を偶然に観た。その中で印象に残ったことは、杉原千畝が発給したビザで助けられた女性の一人がオーストラリアに住んでいて今92歳だということ。生命の恩人・杉原千畝の発給したビザを家宝として大切しているし、息子、孫にもこの忘れてはならない歴史を言い伝えている。ビザ発給後、当時ポーランドから逃れてリトアニアいたユダヤ人のこの女性は、旧ソ連を経由し日本に渡り、そのとき妊娠していて神戸で出産、息子を産んだ。その後オーストラリアに渡った。時代は新たな巡り合わせを生み、その孫夫婦も杉原千畝の実家のある岐阜県の町の記念館を訪ねて日本へ、ここで妊娠していることが判明、日本での「妊娠」がキーワードとそのお孫さんは言っていたが、その言葉の重みを噛み締めているようだった。10月11日火曜日夜9時、杉原千畝役の反町隆史とこのドラマの原作者の奥さん役に飯島直子が扮する「日本のシンドラー」のテレビドラマが楽しみだ。おそらく筆者は仙台のホテルで観ることになるが。映画「シンドラーのリスト」も6時間かけてテレビで観た。そもそもは関口宏司会の日本テレビの番組「知ってるつもり」で紹介され話題になった。日本人がもっと知ってて良い人物である。また、2005年10月7日付毎日新聞夕刊では古都の賢人に聞くシリーズで、第1回目、哲学者鶴見俊輔のインタビュー記事が出ていた。「あの大東亜戦争、どこでどう止めるか、ゼンゼン、見当もつけずにやったんだ。ゼンゼン、ゼンゼン ! あんなの負けること、3歳の童子でもわかりますよ。勝てるわけない。3歳でもわかることが一高1番、東大1番のやつにわからくなってんだ。それが1905年以降の日本なんです。この体制はまだまだ続きますよ。100年か200年、そして日本は滅びる。私はそう思っているんだ」毎日の記者のトーンが低くイロニー的に比べて、この老哲学者はハイテンションだ。戦後、丸山真男らと雑誌「思想の科学」を創刊、「べ平連」でも活躍したとは毎日夕刊の紹介記事。その丸山真男の蔵書、ノート、草稿類などの資料が寄贈されて丸山真男文庫を設立した東京女子大学、その附属図書館で先週の水曜日に年一回の記念講演があった。今回の講演者は作家の小田実氏だ。筆者は丁度講演終了後迎えの車に乗り込んだ小田実氏を目撃、思わずカメラ付き携帯電話で撮ろうとしたが止めた。この野郎何すんだと怒鳴られそうだったからだ。その日は知り合いの先生から丸山真男記念 比較思想研究センター報告(2005年3月創刊号)を頂いた。そのbulletinの中に「1930年代の恐怖の持続」という第4回講演者鶴見俊輔氏の要旨が載っていて興味深く読んだ。
先人の智恵と勇気に倣って、時代に流され風化してしまいそうな「平和」をしっかりと考えていきたいものだ。この国がいつか来た道を辿らせないためにも、だ。

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杉原千畝と6000人のビザ略歴

1900年1月1日 岐阜県加茂郡八百津町に父好水、母やつの次男として生まれる。

1919年  早稲田大学高等師範部英語科中退、外務省留学生としてハルピンでロシア語を学ぶ。

1924年 外務省に奉職。満州、フィンランド、リトアニア、ドイツ、チェコ、東プロセイン、ルーマニアの日本領事館に勤務。
1940年夏、リトアニア共和国首都カウナスの日本領事館領事代理時代に、ナチスドイツの迫害をのがれようとするユダヤ人にビザを発給し、約6000人の尊い人命を救う。

1947年 帰国。外務省を退職。東京PX、米国APONJE商会、ニコライ学院教授、NHK国際局、国際交易(株)等に勤務。1985年1月イスラエル政府より「ヤド・バシェム賞」(諸国民の中の正義の人賞)を受賞

1986年7月31日 逝去(86歳)

幼年期~旧制中学校


母の葬儀に集まった杉原一家 京城の実家にて 1921年
 千畝は1900年1月1日、父好水、母やつの次男として岐阜県加茂郡八百津町に生まれた。
 父は税務署勤務で転勤が多く、千畝は小学校を三重県、岐阜県、愛知県と転校しているが成績はよく、「全甲」の通知表も残されている。千畝が小学校を卒業する前に、父は単身で朝鮮総督府財務部に赴任していった。その後、父は朝鮮の京城(現ソウル)で旅館業をはじめかなりの盛況だったようだ。1916年に家族は、朝鮮に引っ越したが、愛知県立第五中学校(現愛知県立瑞陵高校)へ進学していた千畝はひとり日本に残り、1917年に中学を卒業してから家族の住む京城に行った。成績の良い千畝が医者になることを期待していた父は、京城医学専門学校の受験手続きをして待っていた。だが、千畝には医者になる気は全くなく、入学試験の当日、母が作ってくれた特別の弁当を食べただけで、受験はせず帰宅してしまった。
 「母やつが当日のために、わざわざ特別の弁当まで作って、家から送り出してくれた。ところが、医者になることは私はイヤで、結局この入学試験は受験しないで、弁当だけ食べて帰宅した訳でしたが、父はそのことを大変に怒り、それならば家を出て働けと言いました」(千畝の手記より)
 他に流されない、千畝の意志の確かさが伺えるエピソードといえるだろう。

大学を中退し外交官へ


ハルピン時代 ロシアの専門家として頭角を現す
 一年の浪人生活の後、1918年早稲田大学高等師範部英語科予科に入学した。語学の得意な千畝は英語の教師になることを夢見ていたが、父の意志に反しての入学だったため、学費・生活費の一切をアルバイトで賄わなければならず、苦しい生活を送っていた。大学2年生の時、偶然、大学図書館で外務省の官費留学生の募集広告をみたことが、人生の転機となる。官費で3年間留学して語学を身につけ、のちに外交官に採用されるというものであった。「アルバイトをしなくても勉強ができる!」 願ってもないチャンスだが、受験までの期間はわずか一か月。必死の勉強が身を結び、みごと合格した。
 1919年10月、外務省のロシア語留学生としてハルビンに渡った千畝は、生来の語学の才能で4か月後には日常会話に困らない程に上達したという。
 1924年に外務省書記生に採用され、ハルビンの日本領事館ロシア係に就任する。1932年には満州国の建国が宣言され、満州外交部に派遣された。千畝は外交部時代に北満鉄道譲渡交渉に関わり歴史に残る成果を上げたが、1935年あっさりと満州外交部を退任し外務省に復帰する。この時のことを手記に「若い職業軍人が狭い了見で事を運び、無理強いしているのを見ていやになったので、本家の外務省へのカムバックを希望して東京に戻りました」と記している。

ヨーロッパへ赴任


各国外交官を招いて華やかなパーティー
 1936年、モスクワ大使館への赴任の辞令があったが、ソ連は千畝のビザの発行を拒否。外交官の入国ビザが拒否されるということは、異例のことであり、北満鉄道譲渡交渉で見せた千畝の手腕をソ連側が警戒したためとも推察されている。ソ連への赴任が不可能となったため、翌年、フィンランドのヘルシンキの日本大使館への赴任が発令された。杉原一家の10年にもわたる海外勤務の始まりだった。2年後の1939年、リトアニアの首都カウナスの日本領事館領事代理に任命された。もともとカウナスには1人の日本人もおらず、本来の領事館としてではなく、国際情報収集として領事館が開設されたようである。カウナス赴任にあたっては、危険がともなうとして氏名を変えていくように示唆されたが、千畝はこれを拒んだという。

6000人の命のビザ


judaya
領事館前でビザ発給を訴えるユダヤ人たち 1940年
 1940年7月、ナチスドイツに迫害されていたユダヤ人たちは、日本通過ビザを求めカウナスの日本領事館に押し寄せた。オランダやフランスもナチスに占領され、ソ連から日本を通って他の国に逃げる他、もはや助かる道がなくなっていたためだ。千畝は5人のユダヤ人代表を選び話を聞いた。数人のビザなら領事の権限で発行できるが、数千人のビザとなると本国の許可がいる。電報を打って問い合わせたが、日本政府は再々にわたり「ユダヤ人難民にはビザを発行しないよう」回訓を与えてきた。
 一晩中考えぬいた末、千畝は外務省の意向に背き自らの判断でビザを発行することを決断した。それからおよそ1か月の間、千畝はビザを書き続け、これにより6000人とも8000人ともいわれるユダヤ人の命が救われた。
 リトアニアがソ連に併合された後、千畝はドイツ、チェコ、東プロセイン、ルーマニア領事館に赴任。第二次大戦が終結し収容所生活を送った後、1947年4月やっとの思いで杉原一家は日本に戻った。
 帰国後2か月が経った6月、外務省から突然依願免官を求められた。外務省きってのロシア通といわれた千畝、47歳にして外務省を去ることとなった。

後半生


外務省を辞めたのち勤務した東京PXの新年会 1951年
 退官後は生活のために職を転々としたが、語学力を活かし東京PXの日本総支配人や貿易商社、ニコライ学院教授、NHK国際局などに勤務した。1960年からは川上貿易(株)モスクワ事務所長として再び海外での生活を送ることになり、国際交易(株)モスクワ支店代表を最後に退職し日本に帰国したのは、75歳の時であった。
 1985年イスラエル政府よりユダヤ人の命を救出した功績で、「ヤド・バシェム賞」(諸国民の中の正義の人賞)を受賞。
 翌年7月31日、静かにその激動の人生の幕を下ろした。享年86歳。
(「6000人の命のビザー杉原千畝生誕100年記念事業委員会」サイトより)

追記。日本の麻生太郎外務大臣はこの2006年5月の連休に杉原千畝記念館を訪れた由。


追記2.「命のビザ」ポーランドが杉原千畝さんに勲章と2008年1月17日の毎日新聞朝刊。「命のビザ」を発給した故杉原千畝・元リトアニア領事代理の功績をたたえ、ポーランド大使館で16日、叙勲式が開かれた。マルチン・リビツキ大使から、杉原氏の孫千弘氏に「ポーランド復興勲章コマンドルスキ星十字型章」が手渡された。昨年10月、レフ・カチンスキ大統領が、大戦中にポーランド国内のユダヤ人を救った53人の叙勲を決めていた。(2008年1月27日 記)


 


2005/10/06

超人の面白ラーメン紀行 24 京都『タンポポ』

200509271402000.jpg  らぁ麺や どんぶりに見る 京の秋

これは京都は仏教大学近くにあるラーメン専門店『タンポポ』のラーメン。刻んだネギとたっぷりの背脂それに唐辛子で赤っぽく見え辛いのではと思いきや、これが以外と思ったほど辛くないのだ。むしろ豚骨ベースの鶏ガラ醤油スープの味に合うのだ。麺は細麺でストレート系。スープがこの麺に絡んだ感触は絶妙、京ことばのまったりした味である。チャーシューは多少硬かったけれど、トッピングは少なめ、スープはこぼれるほど多め。どんぶりの下には皿まで付いているのだから。これはこぼしても大丈夫だ。ラーメン並が小ライスをつけて700円。昼時間をズラして午後2時前だとゆっくり食べられる。
ラーメン店『タンポポ』①スープ★★★②麺★★☆③トッピング★★☆④雰囲気・接客★★⑤価格★★★

超人の面白ラーメン紀行 23 武蔵野市吉祥寺『生太郎吉祥寺店』

  秋雨の 舌に残るや ダシと麺 

JR吉祥寺駅からバスで5,6分の成渓大学すぐそばにあるラーメン専門店『生太郎吉祥寺店』は、頑固そうな親父と年老いた気品のある女性(親子?)との二人で賄う小さくも老舗のラーメン店。雨のなか並んで入って注文したのは、ぶたラーメン、定価580円。場所柄客ほとんどが成渓大生だ。何せ並んで食べ終わるまでに要した時間は何と1時間。せっかちで忙しい身としては耐えられへんかった。客は慣れたものだ。置いてあるコミックを読んでラーメンのできるのを待っていた。。ラーメン450円、おおもりラーメン520円、おおもりぶたラーメン650円それにたまご(生)40円のいたってシンプルなメニュ。しかしだ、筆者はここ10年で2度しか食べたことがないので辛子多め、ニンニク少し入り他と店主と客との味つけの微妙なやりとりにはシンプルの中にもレパートリーが豊富と感心したほど。典型的な鶏ガラ醤油スープと中細ストレートの麺、茹でる前にその麺をほぐしていく店主独特の仕草は異様だが職人技と取れた。トッピングは炒めたようなもやしのみだが唐辛子たっぷり、全体的に量はある。ラーメンでは単純と思い唐辛子のかかっていないぶたラーメンを頼んだのだが、このぶた4切れが軟らかくて美味しかった。
ところで、筆者は食べ終わった時に水をたっぷり一杯飲んだ。スープが濃すぎたからだ。いくらラーメンは好みと言ってもこれはいけない。
ラーメン専門店『生太郎吉祥寺店』①スープ★☆②麺★★☆③トッピング★★④雰囲気・接客★⑤価格★★★

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