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2005/07/30

学術先端情報-学術mini情報誌「PS JOURNAL」の紹介 続

学術mini情報誌「PS JOURNAL」 季刊 (発行・編集 日本図書センターP&S journal刊行委員会 無料


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2004年 第4号 特集 研究者の現在 Ⅲ
【目次】

■『非戦論』について 文芸評論家     富岡幸一郎

■行政史料と個人情報   専修大学助教授   永江雅和  

■『普遍性』をめぐって     駿河台大学教授      北原仁

■島崎藤村研究の現状と文学を読むことの意義
                    宮城学院女子大学教授  伊狩弘

■嘉永6年のできごと         関東学院大学教授   矢嶋道文  

■植民地鉄道史研究の現在     奈良大学助教授     三木理史

■金融史研究の現在         名古屋市立大学講師  横山和輝

島崎藤村研究の現状と文学を読むことの意義
 
伊狩 弘(宮城学院女子大学教授/日本近現代文学)

  昨年、島崎藤村の『沈黙』という短編について考えてみた。この小説は渡仏する直前の藤村が、幽界の緑雨に語りかけるかたちで二人の交情を懐古した小説である。藤村と緑雨というとあまり親和感がなさそうだが、調べてみるとそうでもない。この交友は藤村の新たな一面を照らし出す契機でもある。そしてそこから一つの疑問に突き当たった。それは一葉の亡くなった明治29年11月23日ころ、藤村は緑雨とともに一葉宅を弔問し、葬儀をめぐって緑雨と邦が話すのを聞いたように書かれていることだ。これは果たして虚構なのかどうか。東北学院の教師をしていた藤村のもとに一葉危篤の知らせが行くわけはない。また母親のぬいが10月25日にコレラで死去、埋骨のため馬籠に帰省し、仙台に戻ったのは11月の10日頃だと思われるので、その後2週間足らずでまた上京したとは一般的に考えにくい。が、ここで秀雄の留守宅の様子を勘案する必要がある。秀雄は明治27年に下獄していた。留守宅には母親ぬいと嫁の松江(36歳)、いさ子(9歳)と周爾(1歳)そして友弥(27歳)が残った。友弥がどういう人間だったか考えると、ぬいが死んだ後、松江と友弥の間にどのような葛藤が生じたか、容易に想像がつく。そもそも友弥は放浪の挙句に悪病を負って馬籠に舞い戻った、その時すでに不埒な行いをしたことが窺える。『家』(上巻四)に徴してみる。
宗蔵の話が出ると、実は口唇(くちびる)を噛んで、彼様いふ我儘な、手数の掛る、他所(よそ)から病気を背負つて転がり込んで来たやうな兄弟は、自分の重荷に堪へられないといふ語気を泄(もら)した。そればかりではない、実が宗蔵を嫌ひ始めたのは、一度宗蔵が落魄(らくはく)した姿に成つて故郷の方へ帰つて行つた時からであつた。其頃は母とお倉とで家の留守をして居た。お倉は未だ若かつた。
 上に引いたように「未だ若かつた」松江に対して友弥が何をしようとしたか明白である。そして東京では、夫は獄中、藤村は仙台に移り住み、頼みの母親が頓死したわけだから残された松江が恐慌を来したのも当然だと思われる。友弥の出生の疑惑なども嫌悪感の要因になったかもしれない。そこで松江は仕方なく藤村にSOSを発信した。友弥をどこかへ連れて行くか、藤村が戻って監視するか、いずれにせよ一緒に暮らすことはできないと。このような想像は穿ち過ぎとは言えないと思う。仕方なく藤村は友弥に自重を求めるべく上京し、たまたま一葉の訃報に接したのではないか。『家』によれば、やがて秀雄は結婚したばかりの藤村夫婦に友弥の世話を
させようとしたが、それも松江の希望ではなかったかと思われる。厄介者の友弥はその後よそに預けられ廃人となって歿した。
 文学を読み学ぶことは以上のように人間の奥深い実態を考えることでもある。日本の近代文学史では一部の作家を除けば大概は惨憺たる人生の上に作品が成立した。ただし藤村は、葛西善蔵や嘉村礒多などの破滅型作家のように自身が破滅するのではなく、家族親戚の破滅的人生を糧にして文学を紡ぎ出しながら自分は超然と文壇の最高位に立った。そのために芥川からは「老獪な偽善者」と言われ、谷崎ほかの作家から毛嫌いされた。
 話を元へ戻すと藤村は友弥の性行を知っていながら、母親ぬいが同居していることを頼みにして仙台へ赴任したのであろう。その仙台行きは『奥の細道』を気取るものだった。藤村は赴任してすぐに松島に詣でている。「わが松島に入りしは九月十九日にして旧暦八月の十三日にあたれり。十三夜の月を心あてにして、仙台を発し塩釜に向ひしころは、東天ほのかに白うして加ふるに覚束なき雲行なりければ、汽車の窓より鶏鳴を聞きて、かのさよの中山の馬上ならねど、残夢未ださめやらずして塩釜に下りぬ。」(『一葉舟』所収「松島だより」)という冒頭が如実に示しているとおりで、ここには透谷の松島紀行ほどの詩魂は見られない。関西漂白の旅がやはりそうだったように、藤村は漂泊の詩人に身を準えた。そして幾ばくもなく母がコレラで死に、永昌寺での葬儀と埋葬のため馬籠に帰省した。そのあたりを「木曾谿日記」(『一葉舟』所収)に見ると、母の亡くなったという知らせは藤村が支倉町の借家に布施淡一家とともに住んでいた頃、たまたま布施は写生旅行に出ており、藤村はD氏(Dという頭文字からは土井晩翠かと思われるが、あるいは川合山月であろうか)とともに広瀬川畔を散策、一見亭という茶屋で一献傾けて帰宅した、その時であったという。「仙台で眺めのあるのは、ことに秋だ、とりわけて空のながめが麗しい。(中略)十月の末には秋風が赤くなつた柿の樹の葉を吹いて、庭に栗の落つる音もおもしろい。東北の秋色、これも擅((ほしい))まゝに楽む自分の身には、また得意の一つであつた。」とある。私は仙台に住んでかなり長くなるけれども、仙台の秋空がよそに比べて特に趣深いと感じたことはなく、栗の落ちる音を聞いたこともない。藤村の風流意識の産物であろう。
 「ハヽビヤウキスグコイ」の電報で藤村はその晩の12時40分発の夜汽車で上野に向かった。約12時間かかつて翌日の昼過ぎに到着した我が家は消毒のために入れない。母の亡骸は本所の避病院に収容されていた。その夜、遺骸は火葬場で荼毘にふされ、藤村は遺骨を携えて今度は名古屋・中津川経由で満15年ぶりに馬籠に帰郷した。紙数も尽きたが、このように藤村は芭蕉の紀行文めかして母の死を書いたが、もしかすると母の密通の結果生れた子かもしれない友弥の存在はここでも捨象されていた。一つの疑問の根は掘ってみると案外深かったのである。


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2005年 第5号 特集Ⅳ  若手研究者を中心に

【目次】

■市民(地球市民)育成への挑戦   東京国際大学教授   下羽友樹

■インターネット情報源の検索演習 昭和女子大学教授   大串夏身

■閲覧者から見た資料館
東京大学大学院経済学研究科日本経済国際共同研究センター研究機関研究員  高嶋修一

■大学史編纂雑感           青山学院大学助手   鈴木勇一郎

■日本の「負の遺産」を考える   千葉科学大学非常勤講師  中川洋

■山形県櫛引町黒川の資料調査から 
                日本大学通信教育部インストラクター 桜井昭男

■歴史データベース研究開発の一事例
                独立法人平和祈念事業特別基金   小坂肇
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2005年 第6号 特集 研究者の現在Ⅴ 経済史を中心に

【目次】

■綿業史研究の現状と問題点    大阪大学教授       阿部武司

■二分法的経済社会認識の錯誤  大阪市立大学教授    大島真理夫

■もうひとつの研究活動        立教大学教授       及川慶喜

■古書店で出会った資料や蔵書がおしえてくれたもの
                       浦和大学教授       寺脇隆夫

■カフェーと文化運動          関西大学助教授    増田周子

■志士と由緒     仏教大学・京都産業大学非常勤講師  笹部昌利

■イギリスでの出来事         龍谷大学助教授      佐々木淳

   

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