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2005/06/25

超人の面白読書 11 ハインリッヒ・シュリーマン著石井和子訳 『シュリーマン旅行記 清国・日本』

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ハインリッヒ・シュリーマン著石井和子訳『シュリーマン旅行記 清国・日本』(講談社学術文庫 800円)を読了。
金沢へ行く途中のバスの中に置き忘れ買い直した文庫本。190ページ足らずのこの旅行記は原題"La Chine et le Japon au temps présent"(1869年パリで出版)、シュリーマンの処女作。前半70ページは当時の中国、清国の旅行記。万里の長城、北京から上海へ、上海の章と後半は江戸上陸、八王子、江戸、日本文明論、太平洋の章からなっている。シュリーマンと言えば『古代への情熱』、『シュリーマン伝』があるが、トロイア遺跡の発掘で有名だ。また、数ヶ国語も操る語学の天才で高校時分によくその伝記を読んだものである。その語学獲得の方法を真似てみたもののそんなに身につかなかった記憶がある。才能がなかったのかも。
ハインリッヒ・シュリーマンは、1822年、北ドイツのノイブコーに牧師の子として生まれ、考古学好きの父親、音楽好きの母親だったが、母親は9歳のとき亡くなっている。ホメロスの叙事詩やポンペイの悲劇などを父親から聞いていたらしい。その語学の才はある国の言葉を覚えるのに6週間もあれば充分だったという。11歳でオデュッセウスやアガメムノンの冒険譚についてラテン語で作文を書いたことでも語学の才がうかがえるとは訳者のあとがき。また、少年時代はけっして恵まれていず、学校教育も満足に受けられないまま14歳で小売店の小僧をしながら簿記の勉強をした。19歳のとき運ためしでアメリカ行きを試みるが、不幸にも船は難破、オランダの砂洲の一つに打ち上げられ九死に一生を得た。アムステルダムで糊口を凌ぐかたわら、フランス語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語等をマスターしていった。類まれな商才にも恵まれ24歳でアムステルダムの貿易商となり、モスクワのインディゴ(藍色染料)の商売で成功しペテルスブルグで独立して商館を開き、ゴールドラッシュのアメリカに銀行を持つなど国際的な大商人となって巨万の富を築いた。1863年、41歳のとき経済活動を止めてトロイア遺跡の発掘に精を出し1871年その発掘に成功するのである。その6年前の1865年3月に世界漫遊の旅に出る。そしてこの旅行記は横浜港を離れ、太平洋上をサンフランシスコへ向かう船中約50日のあいだに書き上げられたもの。(訳者のあとがき)何か日本国にも似たような人がいた。50何歳かで家業を譲って日本全国測量の旅に出て、終には精緻な日本全図を完成した、あの伊能忠敬に似ていない ?

1865年6月1日から7月4日アメリカのサンフランシスコへ向けて出発するわずか1ヶ月間の幕末・日本の滞在見聞記だが、通読して感じたのは、ものを正確に見る目、また異常なる好奇心からくる観察の鋭さ、道幅、日本の家屋、屋敷、運搬に必要な馬のことなど具体的な数字を示して説明したり、金銭感覚も鋭い。参勤交代の現場、土砂降りの八王子行きのてんやわんやの道中記。冠婚葬祭にも出くわし、事件も見ている。原町田の茶屋、八王子の絹織物の店、田植えの風景も活写している。相当な記憶力とメモが手かがりになかったならば書けないほど細部に渡っている。また、事前に日本に対する教養も身につけていたに違いない。オールコック卿の引用も度々。確かに間違いはあるもののこれだけ詳細な描写は普通はなかなかできないはず。上海から横浜まで3日間の船賃(蒸気船に乗って)100両(清国の貨幣テール)、900フランに驚き、1865年6月4日日本上陸の横浜港ではちょん髷をし入れ墨した船頭たちに労賃が4天保銭(13スー)請求されて驚く。
富士山についての記述では4725メートルで山頂が万年雪で覆われ、日本の霊山、各地から巡礼者が訪れるとある。3776メートルの誤りとは訳者註。また、1859年当時の横浜はちいさな漁村だったが、いまや人口4000人を数えて道路はすべて砕石で舗装されていて幅10~20メートル、青みがかった瓦葺の木造二階建ての家が道に沿って並んでいる。ときどき練り土で作られた完全な耐火建築の家〔土蔵造り〕も見られるとその建築方法まで詳述している。日本は地震が1ヶ月に6回も起こり、ときには日に2回も揺れることもあると当時の横浜を詳細に観察している。家々の奥には花が咲いていて小さな庭が見え、日本人はみんな園芸愛好家かと言えば、床は道路から30センチほどあがったところにあって長さ2メートル、幅1メートルの美しい竹製のござ〔畳〕で覆われていると書く。その観察の鋭さにに恐れ入ります。主食は米で、日本人にはまだ知られていないパンの代わりをしている。日本の米はとても質が良く、カロライナ米よりも優れている。ご飯が炊けると、主婦は漆器の大きな椀〔お櫃〕に盛って、部屋の中央のござのうえに置く。そのそこへぴりっとしたソースで煮た魚を一椀と、日本人の好む生魚〔刺身〕の入ったもう一つの椀とが加えられる。ナイフ、フォークではなく長さ30センチほどの漆塗りの箸と、皿ではなくて赤い漆塗りの椀が出るなどの椀にも聖なる火山・富士かコウノトリ〔鶴のことだろうとは訳者註〕が金で描かれている。コウノトリは長寿と至福の象徴として、富士山と同様、聖なるもとみなされている。住宅は清潔さのお手本とその前に清国では不潔極まりないところを見てきたことにもあるのか。また、夜9時には寝てしまうとか、税関で遭遇した光景か、正座して帳面に非常な速さで上から下へ、右から左へ筆で書いていて、実に奇妙な眺めだと書いている。
その国の生活費が高いか安いかは、日常出回っているものの最低額によって計られるという。日本人の生活費はとても安いに違いない。一天保は小額貨幣〔キャッシュ〕百枚にあたり、したがってキャッシュ640枚は1フランに相当することになる。この小額貨幣は架空の貨幣ではなく、実在の通貨であると書き、着物、下駄、おはぐろ、簪、馬丁、半纏について活写する。公衆浴場の前を通りかかって浴場から飛び出してきた人に何の恥じらいも感じていないとその清らかな素朴さに感嘆。男女混浴の容認云々にも及ぶが、疥癬の皮膚病が多く、その唯一の原因は生魚〔刺身〕を食べることにあると断言しているところが可笑しい。それだけ当時の外国人には異常に見えたのかも知れない。
そして売春についても書いている。日本政府は、売春を是認し奨励する一方で結婚も保護している。正妻は一人しか許されず、その子供が唯一の相続人となる。ただし妾を自宅に何人囲おうと自由である。貧しい親が年端も行かぬ娘を何年か売春宿に売り渡すことは、法律で認められている。契約期間が切れたら取り戻すことができるし、さらに数年契約を更新することも可能である。この売買契約にあたって、親たちは、ちょうどヨーロッパ人が娘を何年か良家に行儀見習いに出すときに感じる程度の傷みしか感じない。なぜなら売春婦は、日本では、社会的身分としてかならずしも恥辱とか不名誉とか伴うものではなく、他の職業とくらべてなんら見劣りすることのない、まっとうな生活手段とみなされているからである。娼家を出て正妻の地位につくこともあれば、花魁あるいは芸者の年季を勤めあげたあと、生家に戻って結婚することもごく普通におこなわれる。
娼家に売られた女の児たちは、結婚適齢期までーすなわち12歳までーこの国の伝統に従って最善の教育を受ける。つまり漢文と日本語の読み書きを学ぶのである。さらに日本の歴史や地理、針仕事、歌や踊りの手ほどきを受ける。もし踊りに才能を発揮すれば、年季があけるまで踊り手として勤めることになる。
遊郭は、町から離れた一角に集められている。江戸の遊郭は極めて数が多く、城壁や壕によって他の地域から隔てられた、もうひとつの町をつくっている。吉原である。Img025_1
吉原に入るには、夜昼を問わず警備の役人に守られているたったひとつの門をくぐるしかない。吉原は周囲2マイルほどの平行四辺形をしており、7本の道が直角に交差していて、町を9つの地区に分けている。それぞれの区域はたがいに木の格子戸〔大戸〕で仕切られ、警備の人が随時門を開け閉めするから、監視は厳重である。【写真右:本文から「吉原への道」の図】
吉原には10万人以上の遊女がいる。しかしどんな遊女でも外に出るには通行証が必要で、通行証を手に入れるためには、相当なお金を用意しなければならない。遊里の営業権は、各町ごとにセリでいちばん高い値をつけたものが、数年間にわたる独占権とともに政府から払い下げられる。遊里の収入は莫大であり、国家のもっとも大きな財政源のひとつになっている(P.90~P.92)。こういうところの言及も冷静で鋭い。

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