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2005/05/15

超人の面白読書 8 「ワルシャワの七年」

ポーランドと言って一般的に何を思い浮かべるか ? 映画「戦場のピアニスト」、「シンドラーのリスト」、キューリー夫人、エスペラント語のザメンホフ、アウシュビッツ収容所、文化人類学者のマリノフスキー、最近ではローマ法王ヨハネ・パウロ二世、アテネオリンピック砲丸投げで室伏選手の強敵、ワイダ監督の映画、少し前では連帯のワレサ、社会主義、秘密警察、農業国とカトリック、東欧での日本学の拠点、やたらに子音の多い言葉、ユダヤ人大虐殺、領土の分割、ショパン、コペルニクスなどなどか。そう言えば、15年位前ニューヨークに行った時知人に紹介されて夜8時頃だったか、新聞、テレビ、雑誌、エッセー(『江戸っ子芸者一代記』、『ああ情なや日本』など)で有名な元新橋芸者の中村喜春さんに会った。彼女が愛飲していたのはポーランドのウォツカ、ジトニァをレモンで割った飲物だった。この女性にエッセーを依頼しに行って承諾は得たのだが・・・。去年長生きして90歳で当地で亡くなった。
話しは横道に逸れた。工藤幸雄の雑誌『文学界』2005年2月号に載った巻頭エセー「SURPRISE-傘寿の弁」を読んだ。ワルシャワ滞在7年、50歳で日本に戻ってから、3月で30年になるいう。御歳80歳である。吼えている。去年、処女詩集『不良少年』を出したが、人名・地名・日付等々に間違いが次々と。それはそれは哀しいサプライズだと。また、すべからくの話しが出てきた。怒っている。そして、最近小学生がセクシーな女と発していたことにこの翁はビックリしている。元気である。取り留めのないことを書いているが、この翁は言語感覚が鋭い。長年言葉を生業としてきた職業病かー。                                                                1974年当時のポーランド↓map2map3 
                      poland_today                            2005年現在のポーランド→


2005年1月29日にこの著者の『ワルシャワの七年』の読書途中で読後感を多少書いた。本書は1967年~1974年の7年間を回想した記録だが、ポーランドの国が、どんな国か、そこにはどんな人びとが、どのように生きているのか、そこに住みついた日本人は何を感じたか等をその亡国の歴史を紐解き、学生決起の三月事件を追い、ゴムルカ政権下の政治を語り、ワルシャワの生活を綴り、教え子たちを活写することで読者に迫る。筆者には政治を語る著者の熱い息吹を感じるも、正直言ってなかなか進まなかった。2週間の図書館の貸出期限を何回も重ねて読み終えたのは3月半ば。たっぷりと2ヶ月近くかかったことになる。それだけ前半はしんどかった。平行して読んでいた本もあったが。ナポレオン、バルザックの周辺にはポーランド女性がいたという話、歴史の重みに耐えた民族のこと、カトリシズムとマルキシズムについて、内務省の話、学生決起の三月事件のこと等著者は舌鋒鋭く、ときに冷静に歴史を政治を語る。もちろんエピソードを交えることもを忘れない。なかでもワルシャワ大学日本語学科講師の突然の打ち切り劇は、著者自身の身に起こった出来事でもあり、生々しくリアリティがあって読者に鋭く迫るものがあった。また、戦前から17年間も住んで、ワルシャワ大学日本語学科の講師をしていた梅田良忠という人(帰国して関西学院大学教授として亡くなったらしい。追記。この梅田良忠の妻だった現エッセイストの久代女史の再婚相手が著者・工藤幸雄氏。その梅田良忠と久代女史との長男が連帯顧問で有限会社YOHO社長の梅田芳穂氏ー父の梅田良忠の遺言により中学中退で単身ポーランドに渡りワルシャワ大学文学部・歴史学部に学ぶーも現ワルシャワ大学日本語学科講師で俳句専門のAgnieszka Zulawski女史と結婚している由。以上がインターネットで見つけた梅田芳穂のコラム。ひょっとして工藤幸雄氏の教え子の一人? )のことについては、その自伝と業績等を出版してみたい気になるほど生き方が凄い。不便を感じるワルシャワでの日常生活のこと、大学ではチョークの不足、印刷機もなく日本の商社に行ってコピーを取ったり、教室、トイレの劣悪な環境下で日本語を教えたこと、島尾敏雄、日高晋、奥野健男、尾崎秀樹、寺山修二、梶山季之のワルシャワ訪問等々哀愁に彩られて語られている。
現在、インターネットで見る限りでは日本とほとんど変わりのない授業風景である。あれから38年が経過している。インターネットで調べてみると、2年前の2003年時点でワルシャワ大学での日本語学習者は152名、日本人教師3名(東大系?!)、ポーランド人教師13名となっており(追記。2005年8月10日付毎日新聞でワルシャワ大学名誉教授のビエスワフ・コタンスキさんが8月8日90歳でがんのため死去、古事記の研究で知られ、ワルシャワ大学日本学科を創設するなど日本とポーランド両国交流に貢献したと報じた)、他にもアダムミツケビツチ大、ヤギェウォ大、コペルニクス大、グダンスク大などで日本語が教えられている。著者も書いているように日本の大学には今でもまだポーランド学科がない。筆者は最近実際に東大、京大、大阪大で言語学、日本史専攻のポーランドの留学生を見かけている。何と言っても体制転換前と後では雲泥の差があるかも知れない。ともかく読み応えのある本であった。
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註。ザメンホフ については、評論家松岡正剛のHP『千夜千冊』のなかの岩波新書『ザメンホフ』書評が面白かったので、ちょっと長いが引用する。リトアニアのユダヤ人。白ロシアのビヤトリストク(ビヤウィストク)生まれ。これがザメンホフのすべてをあらわすとはいいませんが、ずいぶん重要なことを示しているのです。 ラザロ・ザメンホフが生まれたのは1859年ですが、このときビヤトリストクには主な言語が4種類、細かくみればおそらく13種類の言語が使われていたとおもわれます。北のほうはリトアニア語、南は白ルテニア語、ユダヤ人はイディッシュ語やヘブライ語、毛織り商人はトルコ語、それにポーランド語もロシア語も、フランス語も。 この地域は14世紀はリトアニア領国で、16世紀はポーランド領、18世紀はプロシア領、それからロシア帝国に編入されるまでに、ナポレオン軍が入ったり、臨時政府ができたりしています。この不安定きわまりない諸文明の継ぎ目か破れ目のような地域に、ヨーロッパ各地のユダヤ人が羽虫のように流れこんできていたのです。
 しかし、この地域は近代になるにしたがって天才や異才や革命家を生んでいます。コペルニクス、カント、ショパン、シェンキヴィッチ、キュリー夫人、ミッキェヴィッチ、ローザ・ルクセンブルク、そしてザメンホフ。  ザメンホフが人工世界言語エスペラントを考えだした背景には、以上のようなきわめて風土的で地政的で、民族言語的な「厄介」というものがあったことが大きかったとおもいますが、それとともに、父親が私塾をひらいて外国語と商業世界地理を教えていたこと、それが認められて私的ユダヤ人でありながらロシア官立中学の教師になったこと、母親が信心深く、ザメンホフを筆頭に9人もの子供を育てるのに熱心だったことも関係しているでしょう。
 あとで説明するように、ザメンホフがエスペラントの構想の主要な部分をおもいつくのは学生時代です。いろいろ熟慮し、考案につぐ考案をかさねて組み立てたのではなく、いわば突沸し、発露したようなものです。
 これは青少年期のプリミティブではあるけれど、かなり複雑な社会環境要素の交差が不思議に大きな作用をもたらしたということで、そういう意味で外国語を独力で教えていた父親や、聖書の読み方を熱心に説いていた母親の姿が、エスペラントに投影したと見られるのです。伊東三郎は、父のヘブライ知的な情熱と母のヘレネー知的な理性が流れていたと言っています。 与謝野晶子が10人以上もの子供を必死に育てながら日本語を将来にも王朝にも飛ばして、新しい歌づくりや古典訳にとりくんでいた姿がおもいあわされますね。
 ザメンホフは(ザメンホフというのはリトアニア語、ロシア風の呼称はラザロ・マルコヴィッチあるいはルードヴィコ・ザメンホフ)、ビヤトリストクの学校からワルシャワの第二古典中学へ移って、ひとつの疑問をもちはじめます。
 世の中には、なぜ強い国や大きい民族の言葉と弱い国や小さな民族の言葉があるのか。しかも小さな弱い言葉は、大きな強い言葉に押され、歪められ、さらにおかしなことには、大きな言葉を小さな言葉が借り入れてしまっています。ワルシャワはザメンホフにとっては世界でいちばん大きな国際都市で、そこではそういうことが日常的に“見えて”いたのです。 さあ、こういうことが重なって、ここにわずかながらも、ザメンホフの心に「自由独立の言語」というものはないのだろうかというヴィジョンが芽生えます。 考えてみれば、民族や地域や、農奴や市民や、領土や移民は、あるときに自由独立を求めて自立することをおこすのが歴史というものなのに、しかし、言語はそういうことをしてきているようには見えません。ザメンホフはそこに疑問と、そして期待というか、希望をもったのです。 このヴィジョン(インスピレーション)はすばらしいものです。なぜザメンホフがこのようなヴィジョンをもちえたかということを推理してみるに、おそらくはまず、次の二つのことがおこったとおもえます。 ひとつは、ワルシャワの古典中学でギリシア語やラテン語を学んでいったとき、その古典の内容を知れば知るほど興奮すべき感動があるのにもかかわらず、そこに使われた言葉はいまはまったく使われていない古語であり、死語であることに驚いたのだとおもいます。 のちにザメンホフは「やがて私は、昔の言葉を復活させることはできないのだと、はっきり考えるようになった」と書いている。この気づきは大きいものです。昔の言葉が意味や感情や共感を呼びおこせるのに、それが生活や文学や政治のなかでは使えないというのは、そうとうに変なことなのですから。
 もうひとつは、ザメンホフはドイツ語やフランス語も学ぶことになるのですが(なかなか優秀だったようです)、これらの言葉はそれを母国語として子供のころから使っている民族や国民にとっては自然語であっても、あとからこれを習って使うものにとっては、これを努力して自分の中に刻みこむわけですから、これらの外国語は半分くらいは人工語なのではないかということ、このことに気がついたのではないでしょうか。 この二つの気づきが、ザメンホフに大胆ではあるけれど、ごくごく納得できる人工的な世界言語というものの「存在」を夢想させたにちがいありません。そしてこのことが、その後もエスペラントの理念となってザメンホフを動かした。 しかし言語というものは、理念だけではできません。ウンベルト・エーコ(第241夜参照)が『完全言語の探究』(平凡社)というとてつもなく大事な、かつ興味つきない著作でも書いていることですが、実は、完全言語や世界言語や普遍言語をつくろうという理念は、歴史上、かなりの数の試みがあったのです。 中世カバラのラビたちも、ダンテもルルスも、キルヒャーもライプニッツもコメニウスも、みんな人工世界言語を夢想し、その理念的必要性を説いています。多少の試みに着手した例も少なくない。 けれども、これらはすべて中断したか、難しすぎて流産したか、実用に乏しくて失敗したか、ともかくも砂上の楼閣におわりました。 ぼくはいっとき、ジョン・ウィルキンズやフランシス・ロドウィックの人工言語計画を調べたり考えたりしたことがありますが、その理念もアイディア(理念とアイディアは英語では同じ言葉ですが、ほら、日本語では別の意味ももつのです)も、たいへんおもしろいものなのですが、やはり限界を感じました。
 そこには何かが欠けているのです。この欠けた何かは、ザメンホフにとっては意外なところからのヒントによって、突破できることになります。 それは、やはりワルシャワという特異な国際都市にザメンホフがいたことと関係があります。 ここでは詳しいことは省きますが、ポーランドはヨーロッパの歴史のなかでも最も苛酷な抑圧と悲劇をうけたステートで(ポーランド分割とか)、そのため、このころからすでに自由や独立を求めた活動をするには、仲間やチームのあいだでだけわかるような暗号や符牒や秘密用語をつかわざるをえなかったのでした。
 たとえばポーランドの貴族地主と闘おうとしたウクライナの農奴たちは、追っ手をのがれるために乞食のような姿をとりながら、自分たちだけに通じる言葉をどんどんつくりあげていった。これがのちに、第941夜の『神もなく主人もなく』で紹介したマフノ運動などにもつながるのです。
 ザメンホフはこのような動きをそこかしこで見ていて、なるほど自由独立のための言語はありうるのだ、それは活動をおこそうとする内発の意志が仲間づたいに伝わっていけば、必ず起爆できるのだと確信したのです。
 本書でも何度も述べられていることは、エスペラントが広まったのは、それが小さな共同目標をもった人々のあいだのコモン・ランゲージ(小さなコモン・ネットワーク)として使われていったからだったということです。
 ザメンホフは「仲間たちの家」という言いかたをして、そこで使える言葉をつくりたかったとも述懐しています。
 それがやがて世界言語あるいは世界補助言語として認められ、ついにはトルストイやロマン・ロランなどの文学者、ド・クルトネやオットー・イェスペルセンなどの言語学者、ジョゼッペ・ペアノやバートランド・ラッセルのような数学者や論理学者の、賛同と同調をうるようになったわけです。 日本では1919年に日本エスペラント学会ができて、二葉亭四迷、土岐善麿、秋田雨雀、新村出、黒板勝美、それに大杉栄、山鹿泰治、長谷川テルなどが関心を寄せ、実際にも使用しました。 (ところで、これはごく一部の人のための余談ですから、このカッコ内のことは意味がわからなくていいのですが、以上のようなこともあって、だからこそ「ちょバロ」「懐適」「勇ラン」「くらチャン」「笹鳴き」「三間連結」「ルル3条」「電汁」などという言葉は動きだすんですね。これ、ISIS編集学校の符牒例でした)。
 さて、話を急ぎますが、ザメンホフは中学5年になって英語を教わり、この言語が特段に便利にできていることを知ります。 これはギリシア語・ラテン語・ドイツ語・フランス語を学習した直後だっただけに、そうとうに新鮮に映ったようです。これでザメンホフは、おぼえているのに苦労するようなめんどうくさい文法は、本来の言語にはそんなに必要ないのではないかとおもうようになります。文法は「歴史上の言いがかり」なのではないか、そう考えます。
 こういうことを感じていたザメンホフは、あるとき街角にかかっている看板に「シュヴェイツェルスカーヤ」(門番所)、「コンディトルスカーヤ」(菓子屋)という文字が並んでいるのにハッとするのです。「スカーヤ」(屋)という綴りがそこに共通して使われているのですが、これを見て、このようなスカーヤのような接尾辞をうまく使えば、新しい人工言語がつくれるのではないかとひらめきます。 そこでいろいろ試行錯誤をする。最初は「会話をする」というようなことばを「パ」なら「パ」と決めて、これにいくつもの接尾辞をくっつけて変化させるというやりかたを考えるのですが、このようにアタマの中でつくりだしたしくみは使いにくいことがわかりました。そこで次のように考えた。
 「この地球の上には、すでにたくさんの言葉がつかわれ、それなりにできあがっている。これは新たに創られる言語の宝の蔵だ、これらのよさを活用しなければならない」のではないか、と。
 こうしてザメンホフは、ローマン・ゲルマン系の言語(ロマンス語=フランス語・英語・ドイツ語など)から単語の材料を採り、これらの材料をもとに必要最低限のルールをつくり、とりあえずの人工語の見本のようなものをつくりあげました。ザメンホフ19歳のとき、1878年のことです。 さっそく学校の仲間がこの人工語を使います。みんなははしゃぎ、歌をつくりあい、メッセージを作成します。 このとき、ラザロ・マルコヴィッチは自分のペンネームをこの人工語でつくりたくなって、「エスペラント」(希望する者)を選びます。そして「ドクトーロ・エスペラント」と名のります。しばらくはペンネームだったこの言葉は、やがてこの人工語体系の全貌をさす用語に転用されました。
 もっとも、エスペラントはこれで仕上がったのではなく、このあとザメンホフが貧困を背負いつつ、眼科医として故郷やワルシャワやモスクワなどを転々としながら改良を加えて完成したものです。
 それがどういう言語であったかということは、遺憾なことに本書には簡単な付録以外に説明がないのですが、ぼくが知るかぎりは次のようなものです。
 文字は母音文字がアルファベットと同じ5音5字で、子音が28文字。単語の数は約900語です。
 文法は簡潔な16カ条だけで、発音は1字1音主義。アクセントの基本は例外なく第2尾音節にありますから、これは簡単です。 名詞の語尾はすべてローゾ(roso薔薇)、フローロ(floro花)というふうに-oで綴られます。複数はこれに「j」がついて、花でいえばフローロイ(floroj)のようになります。
 形容詞は名詞の語尾の-oを-aにするだけで、たとえばベーラ(bela美しい)、グランダ(granda大きい)というふうになる。動詞はこれに準じて、-eで語尾を終える。 これでも予想がつくとおもいますが、多くの語彙は英仏独の言葉から採用されています。けれども発音に近い綴りを原則としていますから、たとえば犬はハウンドでなくフンドー(hundo)、猫はキャットではなくカトー(kato)です。 つまりザメンホフはアポステリオリな母型によって人工言語を作ったわけで、まったく新規な言語に挑戦したのではないのです。そこには「節約」の思想が生きているとぼくはおもいます。 この「節約」は、ザメンホフ自身の年来の思想であった「ホマラニズモ」(普遍的友愛主義 homaranismo)から派生したもので、エスペラントの言いかたでいえば、「サミデアニ」(samideani)です。同じ理想によって集える者たちが使える言葉をつくるという意味ですね。 ザメンホフの言語は、まさにその言語を共有したいとおもう人々の社会思想そのものと、一緒にうまれたのでした。けれども、エスペラントの歩みはけっして容易ではなかったのです。 一部の者しか使わない人工言語なんて、すべての近代国家の中央言語権威主義とまったく対立するものであり、また、ユダヤ人からみても、たとえばシオニズムのようにユダヤ人が結束する民族主義とも背反するものとみなされたからです。
 かくてエスペラントは、20世紀の帝国主義と国民国家主義と排外主義と民族自立主義のすべてから敵視され、排外されるということになるのです。 が、それにもかかわらず、少数の闘いに挑もうとする革命家や、逆にトルストイやラッセルのような普遍主義者からは熱狂的に迎えいれられるという、アンビバレントな道をたどることになります。 こうしてエスペラントは、かつてどんな天才や異才が掲げた人工言語よりもすぐれた言語だとして、まことに狭い水路を抜けていくようにではあったのですが、結果的には圧倒的な浸透力をもって世界中に広まっていきました。 この理由をザメンホフ自身は、次のように考えます。博愛と博識と博語は、人々の自由なコミュニケーションのためにはどうしても必要なときがあり、エスペラントがその博愛・博識・博語でできているかぎりは、必ずや困難を突破して人々の自由交信のためにつかわれるであろう、というふうに。 ここには示しませんでしたが、エスペラントの人気が高まると、当然、これを改良する運動や批判する運動もおこって、ついにはエスペラントとは異なる「イドー」のような人工言語が考案されたり(これは元エスペランチストのルイ・ド・ボーフロンの抜け駆けでした)、資金の潤沢なホラックによる「ラング・ブルー」(青い言葉)といった挑戦が続いたのですが、これらはいずれも挫折をするか、非難をあびて退却しています。 興味深いことに、エスペラントの改良も何度かにわたってエスペランチストによって試みられたのですが、どうも当初のザメンホフ案が生き残っていくのです。このことはその後、きっとエスペラントには社会労働性に関する本質が備わっていたからではないかという、研究者の推測も生んでいます。
 ぼくの手元にあるイェスペルセンの『イェスペルセン自叙伝』(文化書房博文社)にもこうしたエスペラントをめぐる毀誉褒貶がさかんにとりあげられているのですが、それらのすべての困難をこえてエスペラントは確実質実誠実に残っていったのでした。 これにはライバルたちが知的所有権をつねに行使しようとしたのに対して、ザメンホフやザメンホフ亡きあとのエスペラント協会が、つねに今日のコンピュータ・ソフト用語でいう“フリーウェア”を貫きつづけたことも、大きかったとおもいます。 ザメンホフは世界の言語自由のためには、著作権など必要がないと考えていたのですね。そうだとすれば、エスペラントこそは世界最初のフリーウェア・ソフトの凱歌でもあったわけです。 その後、エスペラントは言語学上は「世界補助語」として認められてはいるものの、もはや往年の輝きを失ってしまっています。 しかしながら、それは世界中がザメンホフのような試みを新たに再開することをやめてしまっているというだけのことで、はたしてこれから何が世界の言葉にとって必要なのかという問いとは、まったく関係なく沈黙しているということにすぎません。
 かつてロマン・ロランはアンリ・バルビュスのザメンホフ賛歌にこたえて、次のようなメッセージを書いたものでした。ときどきは思い出して見たい言葉です。 「いま、自分の運命を自覚した新しい人類の最初の仕事としてエスペラントが、われわれの前にさしだされた。それはまさに魂の握手であって、生まれ出ようとする生活本能が生みだした創造である。いま、新しい人類は、あのミケランジェロのアダムのようにめざめたのである。」


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