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2005/05/29

超人の面白ラーメン紀行 14 東京・渋谷『すずらん』

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テレビ朝日のニュースで新しいラーメン店の紹介があり、翌日その一つを渋谷三丁目の『すずらん』に尋ねてびっくり。いつも仕事で國學院大學、渋谷区立渋谷図書館等に行った帰りに明治通りまで歩いては、赤坂ラーメン、函館ラーメン、九州ラーメンと何軒かのラーメン店を食べ歩きました。最近では以前のカテゴリーては当てはまらない新型のラーメン店がぞくぞく開店しているそうです。そんな中、自称ミーハーの筆者が立ち寄ったのが鶏つけ麺が売りの『すずらん』。テレビでやっていた白湯スープの特製限定鶏麺は店の人に尋ねたが、さすが2時過ぎでは売り切れでした。16人が入れば一杯の小さな店は、並ばないと食べれないほど盛況、と言っても昨日やっていたテレビの影響もあると思いますが。午後2時過ぎに3,4人待った後、カウンターの左端に座り、すでにオーダーを取っていた筆者の味噌角煮そばが出てくるのを今か今かと待っていました。その間、今まで見たことのないきしめんより平べったい平打ちつけ麺やらやや白く太目のつけ麺やらスープ割と言ってはサービスをお願いする客を見ながらそのときをじっと待ってました。すでに筆者より遅く席に着いた人たちにつけ麺やらが出されて来ているのに、一向に筆者のところには来る気配がありません。待ちくたびれて一言、実年のちょっと怖そうな女主人に(昨日テレビ取材を受けていました)、まだですか、遅いのですがと尋ねたところ、意外な返事が返ってきました。順番でやっていますから、今しばらく待って下さい、と傍迷惑なのか、素っ気無い返事。こちらはもう15分以上待っているに、です。カウンターの中をちょっと覗くとオーダー通りに料理されていないのか、厨房にいる2人は女主人、オーダーを取っていた男性と確認なのか小さな伝票を捲ってはひそひそ話。手違いがあったなとは素人の筆者でも瞬時に解りました。これはヤバイぞとのあやしい視線が料理している奥の二人から感じ取れました。サラリーマン、学生等々16人、目一杯のカウンターには2,3人を除いては一時、麺ものが出ていず、待つ視線のみがぴいーんと張っていました。あれは何だったのでしょうか。流行っている店特有の待ちの雰囲気 ?それとも・・・。邪推は無用です。ここは今流行りのラーメンの有名店なのですから。水も遅れて出され、ちょびちょび飲んではただただ待っておりました。もう、文句は言うまいとヒタスラ耐えました。それでもまた、7,8分は経ちましたか、食べる意欲も薄れ顔色も怒りのモード状態の後、ようやく出て来たのが写真のそれ。味噌角煮そば !そのそばを出してきたときのその女主人の言葉がまた、フルっていました。時間がかかった分、充分美味しいですから、とのたまったのだ。明らかに問題のすり替えです。筆者が食べてみて美味いかどうか決めるのだ。勘違いしないで欲しいと密かに思いました。筆者の脇で食べていた若いサラリーマン二人が食べ終わって勘定を払っていたときにトラブルがありました。例の女主人がお釣りを出すのを一度ではなく立て続けに二度も忘れて、しかも2千円札、5千円札を各々出していたのにもかかわらず、です。全部千円札だと思ってイッショクタンにしてしまったのかしら。筆者がカメラ付き携帯電話で注文した例のそばを撮ったりしていたからか、動揺を隠し切れなかったのでしょうか ? 迅速かつ正確さが要求される重要な勘定の場面でこの大失態の有様。そしてまた、この女主人のひょっと漏らしたセリフ。そんなにあるんではもらっちゃいますか。自分がミスしたのにですよ。冗談が過ぎますよ。普通はまず誤ってくるのが常識、ヘイセイの常識でしょ。ふてぶてしいとはこのことかと呆れてしまいました。角煮は確かに柔らかく煮込んで美味でしたが、スープ、それに比較的太い麺は特別にどうのこうのと格別に言うものではありませんでした。〆て1150円也。因みに他の麺では、中華そば750円、鶏麺750円、平打ちつけ面950円等々。店の雰囲気をどうにかしてもらいたい筆者のサプライズ最新版でした。

テレビ朝日で紹介していた新ラーメン店は池袋の豚揚げ、新塩ラーメンの麺屋武蔵二天(記憶が曖昧で正式名称、ちょっと怪しいかな)、品川のブラックラーメンのなんつってぃ、新橋のとんこつ+海鮮スープの和麺屋長介です。ジャンジャン。


クロカル超人の北欧文学散歩 6 『今日の北欧文学素描 Ⅵ』 

『今日の北欧文学素描』の続き。最終章。

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Kerstin Ekmanは3世代を困惑させたスウェーデンの近代化についての三部作をちょうど書き終えたばかりだ。社会改革のテーマに対するEkmanのアプローチは他の作家と異なっている。P.O.Enquistのような作家たちが現代性の足跡を追うところでー世界の中からはずれた北方の小さく貧しく半未開拓な村でスタートを切るがーともかく物事が間違って進んだルーツ、福祉社会の均一的な枠にあまり適合できないならば、外国人、原住民、女性や子どもたちを投げ捨ててしまうルーツ、そのルーツにEkmanは振り向き戻る。Ekmanは常に文学を倫理的な効用に置くが、最近特に文学をあらゆるテキストと主題が許されるひとつの遊戯と見なす傾向に照らして見ている。そのことが道徳の問題や歴史的な現実の解釈になるときを除いては。これはもっとはっきりしてきて、時折評論家に批判されてきた。しかし、倫理的なものと目に見えない審美的なものとの縫い目を作るEkmanの能力に誰も反駁はできないのだ。私の考えでは、彼女の作品は今日のスウェーデンで産み出された最高の文学である。
この北欧文学の素描では北欧五ヶ国の類似性よりは相違性に、また各々の国が隣りの国より自分たちの伝統に費やされていることを明らかにした。それでもなお、成長と成人についての物語は北欧の小説には共通している。ノルウェーの作家Klaerstadを言い換えるなら、幸せな幼少期を持つのは決して遅過ぎないし、さらに不幸な幼少期を持つにも遅過ぎないということだ。
全体的にスカンディナビアの作家たちは不平を言えない。本は人気があり、冬は長いし暗い、そしてスカンディナビア人はたくさん本を読む。雑貨店とほとんど同じ数の文庫本を売る本屋があって出版社はより良い時を経験しているし、テレビはゲストとして作家を欲しがる。新人作家の関心は現在より決して大きくなっていない。最近の10年間で創られた文学賞のなかで質とそしてで小説の価値を推し量るなら、それは質が高く上昇中だ。

文芸評論家Ingrid Elam女史は比較文学の博士号を持ち、1970年代の終わりから各種メディアにおいて文芸批評家として活躍している。彼女はスウェーデンの主要な新聞にコラムを書いていて、また公共の文芸討論の司会もするし、各種の文学賞の審査委員にもなっている。

追記。Norstedts社のwebsiteから。【写真左下: 文芸評論家 Ingrid Elam女史】
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Ingrid Elam
Ingrid Elam är född 1951 på Donsö i Göteborgs södra skärgård, och är idag bosatt i Stockholm. Hon har varit verksam som litteraturvetare vid Göteborgs universitet och doktorerade 1985 på en avhandling om Den romantiska versberättelsen. Ingrid Elam har medarbetat i olika litteraturhistorieprojekt och antologier, varit verksam som litteraturkritiker i olika media sedan slutet av 1970-talet, 1989-2000 kulturchef på, i tur och ordning, GT/iDAG, GP och DN. För närvarande områdesprefekt för Konst, Kultur och Kommunikation vid Malmö högskola. 2005 mottog hon Gerard Bonniers essäpris för Min obetydliga beundran.

Swedish Book Reviewのwebsiteの英文から。
Ingrid Elam has been active as a journalist in Sweden in the fields of arts and literature since the late 1970s. She holds a PhD in Comparative Literature, and has served as the editor of the arts pages of several of the major daily papers in Sweden: Göteborgs Tidningen, Göteborgs-Posten and Dagens Nyheter. She is currently self-employed and is often seen on television, heard on the radio and read as a columnist in virtually all the main Swedish publications, as well as chairing public debates and serving as the director of various committees for the awarding of literary prizes. Her favourite work of art is Bach’s B minor Mass.
(2007年3月24日 記)

2005/05/28

クロカル超人の北欧文学散歩 5 『今日の北欧文学素描 Ⅴ』 

『今日の北欧作家素描』続き。

南のデンマークへ目を向けると、詩の確信がどの国よりも力強く見えるのは最も若い作家たちだ。北欧諸国では詩は常に初心者にとって重要なジャンルなってきているが、最近の20年間では若い詩人たちがよく1980年代の理論的かつ言語学的な議論を鳴り響かせてきた。詩についての詩、すなわち詩至上主義という言語を扱った内向きな詩を書いてきた。デンマークではそうではなく、詩人たちは外へ、政治の方へ、外国へそして日常生活へ転換してきた。このこともまた、デンマークの詩は隣国の詩の多くの状況より単純化され、より幅広く読まれるようになってきている。
40才に届こうとしているMorten Søndergaardはデンマークの詩人で最も成功した詩人だ。彼の最新詩集Vinci,senere(Vinci,Later)が、2003年に Nordic Council's Prize賞を受賞した。哲学的な詩には原初的存在があるが、また、それ故に真実の詩的ヴィジョンに反駁できないこと、また、写実がVinci Laterそれ以後、第一印象に続くことをSøndergaardは知っている。詩人はVinciという小さな町でしばらく過ごしたきた。彼の詩はその経験の余波である。夢、家族生活、建築、彫刻というポストモダンの現実の多面的な相を脚色している。
Søndergaardの創造性は、その詩が説得力があって魅惑的であるばかりでなく、人生抱擁を力強くしているかのようだ。
また、彼は比較的若い世代の文学へのアプローチの典型的な代表者でもある。何でもするが、真剣である。ファン雑誌や雑誌の編集をしたり映画の脚本を書き、小説や詩集を出版してきた。Tingen Orden(The Order of Things)は神話と伝統的なラブストリーとを組み合わせた小説である。ヒーロー、イカルスは屋根瓦で無意識に叩き、忘れることができないで目が覚める。彼は自分の全ての記憶に打ちひしがれてコペンハーゲンを歩き回り、アリスと出会ったことで安堵を発見する。
比較的若い世代が北欧諸国の大部分でそうであるように、デンマークでも大いに注目をあつめているけれども、1970年代初期に出現したまさに力強い世代は、重要な小説を書き続けているし、その小説は多くの読者に読まれている。二つの例を出そう。Ib Michaelは、ラテンアメリカの幻想写実主義に一早くインスピレーションを受けた海洋作家だが、いまなおKejserens Atlas(The Empire's Atlas)のような幻想物語とロマンティックなラブストリーを書いている。Kirsten Thorupは女性の生活と社会問題(ノルウェーのJan Kjaerstadが彼女に必ず敬意を払ってきた)についての3つの小説を書いて1980年代を席捲した。Bonsai盆栽のようにスリムにしながら、彼女はエイズで死んだ一人の男と前夫人の間の満たされない愛の性質を探し求める。
文学的状況はスウェーデンでも全く同じだ。若い作家たちは詩と同じく散文においても簡潔さで魅了する。短編は何年も作家デビューのジャンルだったし、1980年代にはたくさんの女性の詩人たちによって進化した新反形而上学的詩、その詩が、長さ、重要さにおいて育っている。一度例外として認めてしまうことは、今まで既定化されているので、新人作家たちを無理に抵抗させたりからの騒ぎを起こさせたりするのだ。

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若い詩人のAnna Hallbergは2年前にFriktion(Friction)という処女詩集を書いたとき、Katarina FrostensonやAnne Jäderlundような名前を持つミュージカル風に詩を歌う女性の伝統にはっきりと逆らって書いた。作品Friktionは反詩的で反イディオロギー的で反心理学的でそして反ジェンダー的である。にもかかわらず、イディオロギーや心理学やジェンダーのテーマで自己を確立してきた、現在70才代であるこれらの作家たちは、いまなお出版社や批評家や読者の間でまさに堅固な地位を保っているのだ。

写真:Sweden's Anna Hallberg

2005/05/27

クロカル超人の北欧文学散歩 4 『今日の北欧文学素描 Ⅳ』

『今日の北欧作家素描』続き。
アイスランドからのもうひとつの成長小説、Gundrun EvaのTale of the Cast-Adrift Pianosの作品では音楽もまた、ある役割を果たしている。しかし、エウ゛ァは年配の同胞と全く同じような写実的な伝統では書かない。彼女のイドは大抵択一的で実質的な物語では潜んでいるが、彼女の主人公は、真実の関係性と主観性を十分に意識して物語という一つの海に浸っているのだ。
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写真左から右:アイスランドの作家Gundrun Eva、デンマークの詩人Morten Sodergaardとデンマークの作家Ib Michael。

クロカル超人の北欧文学散歩 3 『今日の北欧文学素描 Ⅲ』 

『今日の北欧作家素描』続き。

Ulla-Lena Lundberg が叙事詩的長編小説を書けば、フィンランド語で書くPirjo Hassinenは、フィンランド文学上に新しいものを提供する。フェミニスト風刺小説である。彼女の作品Strawberrries in Novemberは、ボーイフレンドがスーパースターになりたいという、一人の女性に関する可笑しくも残酷な物語。彼女は彼をある世界へ引きずり込み、そこでは有名であれば人々はいとも簡単に殺されてしまう。彼女は彼を舞台に乗せるため暴力を使い、ひとまたぎにすべてのジェンダールールを楽に変えてしまう。Strawberries in Novemberは、必ずしも良い小説ではないが笑わせてくれる。
しかしながら、ユーモアと高質さが結合可能なことは、アイスランドの小説では長い間明白だった。1970年代と1980年代ではEinar Már Gudmundsson やEinar Kárasonのような名前を持つ<おかしな世代>とやがて呼ばれる作家集団が出てきた。それ以来、Steinnunn Sigurdadottir は、特にアイスランドで一般的に現代の生活様式を扱っているアイロニーな散文を書くことで、彼女は世代を富ませてきた。彼女の最新の小説The Glacier Theaterは、アイスランドの男性優越主義、国家主義、そしてこの国のアルコール文化を大いにからかうが、結局自然の産業開発を皮肉った大変シリアスな本である。もちろん彼女は実際に多国籍のアルミニウム会社が安い電気を供給するため、アイスランド最大の氷河を破壊する恐れがある巨大ダム建設に言及はしない。そのダム建設はほとんど現実的すぎるほど現代の脅威となっているが。その代わりに彼女は、悲劇が喜劇 に変わるある劇場プロジェクトの物語を語る。
風景はアイスランドの散文では重要な役割を果たす傾向があるが、Vigdis Grimsdottirの現実に対するアプローチはさらに親密だ。彼女は人間関係について自分の小説で心の宗教を探し求める。作品Silenceでは一人の若い少女が祖母に虐待され、愛されない。その祖母は自分の孫をチャイコフスキーような天才に変えたいと思っている。
Silenceは暴力、利他的な犠牲と芸術の自己的な要求について扱った本だ。多くの催眠効果があるかどうかは、チャイコフスキーの音楽に係わっている。その音楽はそのスタイルとリズムでテキスト全体に渡って鳴り響いているが。

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2005/05/26

クロカル超人の北欧文学散歩 2 『今日の北欧文学素描 Ⅱ』 

たまたまNHKBS2でノルウェー映画『ソフィーの世界』を途中からだが1時間ばかり観た。日本でも売れた哲学を解りやすく書いた本の映画化。ちょっと飛躍と言うか無理があるかなとは思って観てたが・・・。

本題に戻ろう。『今日の北欧作家素描』続き。

Kjaerstadの勝利のあとの年に同胞であるLars Saabye Christensen が作品Harvbroren[(The Half Brother)でNordic Prizeを受賞した。その小説は800ページもある大冊。著者を引き合いにだしながら、「不適切な場所に生き、不適切な場所でも笑う大人的生活の愛好家」について扱っている。成長することと家を離れることは多くの北欧の小説のテーマ、多分まさしくテーマそのものだ。
Hanne Ørstavikも例外ではない。彼女もまた、子どもと親の間にある開放の苦痛と運命的な絆である『愛と家族』の争いを扱った三部作を書いた。彼女の最新作Uke43(Week43)では、個人生活に文学が重要であることを議論する。Ørstavikが主張するのはその本で生活が救われることや、目立たないやり方だが、確信そしてKjaerstadのテーマが映し出されることだ。
KjaerstadやSaabye Christensen がページ数の少ない本で多くの自信をさらせば、10年若いJohn Erik Rileyは作品varnland(Mill Land)の薄い本でフィクションとジャーナリズムの境を探り尋ねるだろう。その本はボスニア戦争の残虐行為について短い物語とインタビューで構成されていて、そこではインタビューをした人の質問が消されるが、それでもなお困惑したインタビューされた人たちの回答のなかに推測が下される。読者は多くの沈黙のために耳を傾けなければならないし、彼女がやればメディアの冷笑的な声を聞くはずである。
スウェーデン系のフィンランドではUlla-Lena Lundberg が、最近戦争のまさに男性の領域に敢えて乗り出した。『偉大なるフィンランド人の小説』は、いつも男性によって書かれてきたし、20世紀における戦争体験の辛苦と苦しさを扱ってきた。その時代ではフィンランドは3つの戦争に耐えた。偉大なる戦いと他の大きな出来事の間に何が起こるかに焦点をあてるとき、Lundbergは通常の流れの外にまったく違ったものをつくる。
作品Marsipansoldaten(MarzipanSoldier)は、戦争中でさえもいつもと同じようにいかにして生活を続けるかいう物語だ。
私たちはある教師の家族に日常生活を追う。そこでは子どもは学校のため家から離れ、夕食が料理され、そして食事中の会話では多くの取るに足らない問題と同じように戦争のことが話される。言うまでもなくLundbergは、低い視線で英雄的な戦争を大いに批判してきたにもかかわらず、彼女の本は、フィンランド人の歴史小説のタペストリーのなかである隔たりを埋めている(この項続く)。

2005/05/22

クロカル超人の北欧文学散歩 1 『今日の北欧文学素描 Ⅰ』 

筆者は以前から現代の北欧作家の動向を一瞥してみようと考えていた。その昔、と言っても十二、三年前だったか、雑誌海か何かに北欧研究者の寸描が載っていたのを読んだことがある。いま、家のどこかを探せば出て来るはずだが、その二、三ページもののコピーが見つからない。熱が入ったときには夢中で没頭するが、仕事にかまけて遠ざかっては月日の経つのが早く、自分の能力不足を呪う始末。
ということで、ある雑誌(2004年夏号)の電子版で見つけた小論、『今日の北欧作家』の私訳を試みよう。

Ingrid Elam女史の 『今日の北欧作家素描』

スカンディナビア人は、世界で最も文学的な人々で多くのすばらしい自国の作家の作品を持っているばかりではなく、外国の翻訳作品の最良のものを読んでいる。最近のスカンデイナビアの作家について著名なスウェーデン人文芸評論家に解説してもらった。

スカンディナビア文学は進歩しているか。
それはアプローチのしかた次第だ。たとえばドイツ人から見れば、北欧文学は以前より活発で繁栄しているように見える。最近の10年間、ほとんど若者向けに書いているノルウェー人の Jastein Gaarder、スウェーデンの犯罪作家の Henning Mankell やデンマークのPeter Høeg(Smilla's Sense of Snow)のような作家たちは、多かれ少なかれベストセラーリストに載る作家だった。
しかし、私はストックホルムに住んでいるが、Høegはここ8年間本を出版していないことや犯罪小説はスウェーデンでは他のジャンルより数で売れているという事実を嘆くし、それによって文学的シーンが単一文化に変わっていくことを恐れるのだ。
それでもなお、読者は、特別に北欧作家を自分たちの言語で読めるなら幸せであることがたくさんある。私はスウェーデン語、ノルウェー語そしてデンマーク語は読めるが、アイスランドやフィンランドの作家のものは翻訳に頼っている。私は詩よりは小説をプロットより意味を好んでよく読む。書き出しにあたってこのような私の視点を踏まえ、今日の北欧文学のシーンについて個人的かつ選択的な見解を述べる。
ノルウェーの文学状況を見ると、まずは個人的生活上で大冊の小説を書いている40才代の男性作家をわずかにはっきりと認めざる得ない。Jan Kjaerstad は2001年にNordic Council's literature Prize賞を受賞したばかりではなく、The Seducer、The Conqueror、The Discovererの三部作で多くの読者を獲得した。Kjaerstad の小説は、古典的な叙事詩的長編小説のように見えるが、事実は様式と芸術フォルムのおどけた交錯である。彼のテーマは倫理的で人文主義的だ。彼は自分自身や読者に人間はいかにして共にピッタリ合うか、そしてどのように乗り越えられるかを問う。彼の主人公はテレビのパーソナリティーで、その生活は矛盾している物語に満ちている。この小説でjaerstad は自分たちが現在あるのは、自分たちが記憶していることや自分たちについて記憶されているおかげであると主張する。Tegn til kjoerlighet (Signs of Love)という最新の小説ではグラフィックな文化がいかに自分たちの人生と愛を形作ったかを探る。それは三部作の作品のように熱狂的には受け入れなかったが、私の見方ではまるでシビュラの書のように魅力的な作品だった。(この項続く)

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2005/05/21

超人のジャーナリスト・アイ 新聞・雑誌拾い読み 10 The Japan Times Weekly の記事を読む

2005年5月21日付The Japan Times Weekly の news of the world の記事。
■スウェーデンのSydsveska Dagblandet紙、ロシアの外交政策についての論評。
"The increasingly aggressive Russian foreign policy toward what the Kremlin commonly calls 'the nearabroad' has apparently caused a lot of uneasiness inWashington. As an indication of this U.S. President George W. Bush had organized his trip to also include visits in Latvia and Georgia. "When Bush met with the
Baltic chiefs of staff inRiga the other day he described the Soviet occupation as 'one of the greatest wrongs of history.' "Such talk is unfortunately never heard in Moscow."
■ノルウェーのStavanger Aftenblandet紙はロシアとバルト三国の論評。
"Russia's President Vladimir Putin is unwilling to make the apologetic gesture that the Baltic states demand. Without doubt, the Soviet occupation of Estonia,Latvia,Lithuania after the defeat of Germany in 1945 caused the Baltic states great and lengthy suffering through mass deportation,oppression and terror.
Putin believes he has done enough by admitting that Stalin was a tyrant. But why is it so costly to apologize to the Baltics ? "As a former KGB man, he regrets the collapse of the Soviet Union, and the loss of the Baltic states and other regions. "Clearly,Kremlin powers are reluctant to let go of Russia's imperialist ambitions. The most striking example is Chechnya, but Moscow also seeks influence in other parts of Russia's periphery,making relations with several former Soviet republics difficult.
"Setting up with the past by Moscow is unlikely tohappen before Russia has a democratic revolution a la Ukraine and Georgia. when that will happen is uncertain."

2005/05/15

超人の面白読書 8 「ワルシャワの七年」

ポーランドと言って一般的に何を思い浮かべるか ? 映画「戦場のピアニスト」、「シンドラーのリスト」、キューリー夫人、エスペラント語のザメンホフ、アウシュビッツ収容所、文化人類学者のマリノフスキー、最近ではローマ法王ヨハネ・パウロ二世、アテネオリンピック砲丸投げで室伏選手の強敵、ワイダ監督の映画、少し前では連帯のワレサ、社会主義、秘密警察、農業国とカトリック、東欧での日本学の拠点、やたらに子音の多い言葉、ユダヤ人大虐殺、領土の分割、ショパン、コペルニクスなどなどか。そう言えば、15年位前ニューヨークに行った時知人に紹介されて夜8時頃だったか、新聞、テレビ、雑誌、エッセー(『江戸っ子芸者一代記』、『ああ情なや日本』など)で有名な元新橋芸者の中村喜春さんに会った。彼女が愛飲していたのはポーランドのウォツカ、ジトニァをレモンで割った飲物だった。この女性にエッセーを依頼しに行って承諾は得たのだが・・・。去年長生きして90歳で当地で亡くなった。
話しは横道に逸れた。工藤幸雄の雑誌『文学界』2005年2月号に載った巻頭エセー「SURPRISE-傘寿の弁」を読んだ。ワルシャワ滞在7年、50歳で日本に戻ってから、3月で30年になるいう。御歳80歳である。吼えている。去年、処女詩集『不良少年』を出したが、人名・地名・日付等々に間違いが次々と。それはそれは哀しいサプライズだと。また、すべからくの話しが出てきた。怒っている。そして、最近小学生がセクシーな女と発していたことにこの翁はビックリしている。元気である。取り留めのないことを書いているが、この翁は言語感覚が鋭い。長年言葉を生業としてきた職業病かー。                                                                1974年当時のポーランド↓map2map3 
                      poland_today                            2005年現在のポーランド→


2005年1月29日にこの著者の『ワルシャワの七年』の読書途中で読後感を多少書いた。本書は1967年~1974年の7年間を回想した記録だが、ポーランドの国が、どんな国か、そこにはどんな人びとが、どのように生きているのか、そこに住みついた日本人は何を感じたか等をその亡国の歴史を紐解き、学生決起の三月事件を追い、ゴムルカ政権下の政治を語り、ワルシャワの生活を綴り、教え子たちを活写することで読者に迫る。筆者には政治を語る著者の熱い息吹を感じるも、正直言ってなかなか進まなかった。2週間の図書館の貸出期限を何回も重ねて読み終えたのは3月半ば。たっぷりと2ヶ月近くかかったことになる。それだけ前半はしんどかった。平行して読んでいた本もあったが。ナポレオン、バルザックの周辺にはポーランド女性がいたという話、歴史の重みに耐えた民族のこと、カトリシズムとマルキシズムについて、内務省の話、学生決起の三月事件のこと等著者は舌鋒鋭く、ときに冷静に歴史を政治を語る。もちろんエピソードを交えることもを忘れない。なかでもワルシャワ大学日本語学科講師の突然の打ち切り劇は、著者自身の身に起こった出来事でもあり、生々しくリアリティがあって読者に鋭く迫るものがあった。また、戦前から17年間も住んで、ワルシャワ大学日本語学科の講師をしていた梅田良忠という人(帰国して関西学院大学教授として亡くなったらしい。追記。この梅田良忠の妻だった現エッセイストの久代女史の再婚相手が著者・工藤幸雄氏。その梅田良忠と久代女史との長男が連帯顧問で有限会社YOHO社長の梅田芳穂氏ー父の梅田良忠の遺言により中学中退で単身ポーランドに渡りワルシャワ大学文学部・歴史学部に学ぶーも現ワルシャワ大学日本語学科講師で俳句専門のAgnieszka Zulawski女史と結婚している由。以上がインターネットで見つけた梅田芳穂のコラム。ひょっとして工藤幸雄氏の教え子の一人? )のことについては、その自伝と業績等を出版してみたい気になるほど生き方が凄い。不便を感じるワルシャワでの日常生活のこと、大学ではチョークの不足、印刷機もなく日本の商社に行ってコピーを取ったり、教室、トイレの劣悪な環境下で日本語を教えたこと、島尾敏雄、日高晋、奥野健男、尾崎秀樹、寺山修二、梶山季之のワルシャワ訪問等々哀愁に彩られて語られている。
現在、インターネットで見る限りでは日本とほとんど変わりのない授業風景である。あれから38年が経過している。インターネットで調べてみると、2年前の2003年時点でワルシャワ大学での日本語学習者は152名、日本人教師3名(東大系?!)、ポーランド人教師13名となっており(追記。2005年8月10日付毎日新聞でワルシャワ大学名誉教授のビエスワフ・コタンスキさんが8月8日90歳でがんのため死去、古事記の研究で知られ、ワルシャワ大学日本学科を創設するなど日本とポーランド両国交流に貢献したと報じた)、他にもアダムミツケビツチ大、ヤギェウォ大、コペルニクス大、グダンスク大などで日本語が教えられている。著者も書いているように日本の大学には今でもまだポーランド学科がない。筆者は最近実際に東大、京大、大阪大で言語学、日本史専攻のポーランドの留学生を見かけている。何と言っても体制転換前と後では雲泥の差があるかも知れない。ともかく読み応えのある本であった。
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註。ザメンホフ については、評論家松岡正剛のHP『千夜千冊』のなかの岩波新書『ザメンホフ』書評が面白かったので、ちょっと長いが引用する。リトアニアのユダヤ人。白ロシアのビヤトリストク(ビヤウィストク)生まれ。これがザメンホフのすべてをあらわすとはいいませんが、ずいぶん重要なことを示しているのです。 ラザロ・ザメンホフが生まれたのは1859年ですが、このときビヤトリストクには主な言語が4種類、細かくみればおそらく13種類の言語が使われていたとおもわれます。北のほうはリトアニア語、南は白ルテニア語、ユダヤ人はイディッシュ語やヘブライ語、毛織り商人はトルコ語、それにポーランド語もロシア語も、フランス語も。 この地域は14世紀はリトアニア領国で、16世紀はポーランド領、18世紀はプロシア領、それからロシア帝国に編入されるまでに、ナポレオン軍が入ったり、臨時政府ができたりしています。この不安定きわまりない諸文明の継ぎ目か破れ目のような地域に、ヨーロッパ各地のユダヤ人が羽虫のように流れこんできていたのです。
 しかし、この地域は近代になるにしたがって天才や異才や革命家を生んでいます。コペルニクス、カント、ショパン、シェンキヴィッチ、キュリー夫人、ミッキェヴィッチ、ローザ・ルクセンブルク、そしてザメンホフ。  ザメンホフが人工世界言語エスペラントを考えだした背景には、以上のようなきわめて風土的で地政的で、民族言語的な「厄介」というものがあったことが大きかったとおもいますが、それとともに、父親が私塾をひらいて外国語と商業世界地理を教えていたこと、それが認められて私的ユダヤ人でありながらロシア官立中学の教師になったこと、母親が信心深く、ザメンホフを筆頭に9人もの子供を育てるのに熱心だったことも関係しているでしょう。
 あとで説明するように、ザメンホフがエスペラントの構想の主要な部分をおもいつくのは学生時代です。いろいろ熟慮し、考案につぐ考案をかさねて組み立てたのではなく、いわば突沸し、発露したようなものです。
 これは青少年期のプリミティブではあるけれど、かなり複雑な社会環境要素の交差が不思議に大きな作用をもたらしたということで、そういう意味で外国語を独力で教えていた父親や、聖書の読み方を熱心に説いていた母親の姿が、エスペラントに投影したと見られるのです。伊東三郎は、父のヘブライ知的な情熱と母のヘレネー知的な理性が流れていたと言っています。 与謝野晶子が10人以上もの子供を必死に育てながら日本語を将来にも王朝にも飛ばして、新しい歌づくりや古典訳にとりくんでいた姿がおもいあわされますね。
 ザメンホフは(ザメンホフというのはリトアニア語、ロシア風の呼称はラザロ・マルコヴィッチあるいはルードヴィコ・ザメンホフ)、ビヤトリストクの学校からワルシャワの第二古典中学へ移って、ひとつの疑問をもちはじめます。
 世の中には、なぜ強い国や大きい民族の言葉と弱い国や小さな民族の言葉があるのか。しかも小さな弱い言葉は、大きな強い言葉に押され、歪められ、さらにおかしなことには、大きな言葉を小さな言葉が借り入れてしまっています。ワルシャワはザメンホフにとっては世界でいちばん大きな国際都市で、そこではそういうことが日常的に“見えて”いたのです。 さあ、こういうことが重なって、ここにわずかながらも、ザメンホフの心に「自由独立の言語」というものはないのだろうかというヴィジョンが芽生えます。 考えてみれば、民族や地域や、農奴や市民や、領土や移民は、あるときに自由独立を求めて自立することをおこすのが歴史というものなのに、しかし、言語はそういうことをしてきているようには見えません。ザメンホフはそこに疑問と、そして期待というか、希望をもったのです。 このヴィジョン(インスピレーション)はすばらしいものです。なぜザメンホフがこのようなヴィジョンをもちえたかということを推理してみるに、おそらくはまず、次の二つのことがおこったとおもえます。 ひとつは、ワルシャワの古典中学でギリシア語やラテン語を学んでいったとき、その古典の内容を知れば知るほど興奮すべき感動があるのにもかかわらず、そこに使われた言葉はいまはまったく使われていない古語であり、死語であることに驚いたのだとおもいます。 のちにザメンホフは「やがて私は、昔の言葉を復活させることはできないのだと、はっきり考えるようになった」と書いている。この気づきは大きいものです。昔の言葉が意味や感情や共感を呼びおこせるのに、それが生活や文学や政治のなかでは使えないというのは、そうとうに変なことなのですから。
 もうひとつは、ザメンホフはドイツ語やフランス語も学ぶことになるのですが(なかなか優秀だったようです)、これらの言葉はそれを母国語として子供のころから使っている民族や国民にとっては自然語であっても、あとからこれを習って使うものにとっては、これを努力して自分の中に刻みこむわけですから、これらの外国語は半分くらいは人工語なのではないかということ、このことに気がついたのではないでしょうか。 この二つの気づきが、ザメンホフに大胆ではあるけれど、ごくごく納得できる人工的な世界言語というものの「存在」を夢想させたにちがいありません。そしてこのことが、その後もエスペラントの理念となってザメンホフを動かした。 しかし言語というものは、理念だけではできません。ウンベルト・エーコ(第241夜参照)が『完全言語の探究』(平凡社)というとてつもなく大事な、かつ興味つきない著作でも書いていることですが、実は、完全言語や世界言語や普遍言語をつくろうという理念は、歴史上、かなりの数の試みがあったのです。 中世カバラのラビたちも、ダンテもルルスも、キルヒャーもライプニッツもコメニウスも、みんな人工世界言語を夢想し、その理念的必要性を説いています。多少の試みに着手した例も少なくない。 けれども、これらはすべて中断したか、難しすぎて流産したか、実用に乏しくて失敗したか、ともかくも砂上の楼閣におわりました。 ぼくはいっとき、ジョン・ウィルキンズやフランシス・ロドウィックの人工言語計画を調べたり考えたりしたことがありますが、その理念もアイディア(理念とアイディアは英語では同じ言葉ですが、ほら、日本語では別の意味ももつのです)も、たいへんおもしろいものなのですが、やはり限界を感じました。
 そこには何かが欠けているのです。この欠けた何かは、ザメンホフにとっては意外なところからのヒントによって、突破できることになります。 それは、やはりワルシャワという特異な国際都市にザメンホフがいたことと関係があります。 ここでは詳しいことは省きますが、ポーランドはヨーロッパの歴史のなかでも最も苛酷な抑圧と悲劇をうけたステートで(ポーランド分割とか)、そのため、このころからすでに自由や独立を求めた活動をするには、仲間やチームのあいだでだけわかるような暗号や符牒や秘密用語をつかわざるをえなかったのでした。
 たとえばポーランドの貴族地主と闘おうとしたウクライナの農奴たちは、追っ手をのがれるために乞食のような姿をとりながら、自分たちだけに通じる言葉をどんどんつくりあげていった。これがのちに、第941夜の『神もなく主人もなく』で紹介したマフノ運動などにもつながるのです。
 ザメンホフはこのような動きをそこかしこで見ていて、なるほど自由独立のための言語はありうるのだ、それは活動をおこそうとする内発の意志が仲間づたいに伝わっていけば、必ず起爆できるのだと確信したのです。
 本書でも何度も述べられていることは、エスペラントが広まったのは、それが小さな共同目標をもった人々のあいだのコモン・ランゲージ(小さなコモン・ネットワーク)として使われていったからだったということです。
 ザメンホフは「仲間たちの家」という言いかたをして、そこで使える言葉をつくりたかったとも述懐しています。
 それがやがて世界言語あるいは世界補助言語として認められ、ついにはトルストイやロマン・ロランなどの文学者、ド・クルトネやオットー・イェスペルセンなどの言語学者、ジョゼッペ・ペアノやバートランド・ラッセルのような数学者や論理学者の、賛同と同調をうるようになったわけです。 日本では1919年に日本エスペラント学会ができて、二葉亭四迷、土岐善麿、秋田雨雀、新村出、黒板勝美、それに大杉栄、山鹿泰治、長谷川テルなどが関心を寄せ、実際にも使用しました。 (ところで、これはごく一部の人のための余談ですから、このカッコ内のことは意味がわからなくていいのですが、以上のようなこともあって、だからこそ「ちょバロ」「懐適」「勇ラン」「くらチャン」「笹鳴き」「三間連結」「ルル3条」「電汁」などという言葉は動きだすんですね。これ、ISIS編集学校の符牒例でした)。
 さて、話を急ぎますが、ザメンホフは中学5年になって英語を教わり、この言語が特段に便利にできていることを知ります。 これはギリシア語・ラテン語・ドイツ語・フランス語を学習した直後だっただけに、そうとうに新鮮に映ったようです。これでザメンホフは、おぼえているのに苦労するようなめんどうくさい文法は、本来の言語にはそんなに必要ないのではないかとおもうようになります。文法は「歴史上の言いがかり」なのではないか、そう考えます。
 こういうことを感じていたザメンホフは、あるとき街角にかかっている看板に「シュヴェイツェルスカーヤ」(門番所)、「コンディトルスカーヤ」(菓子屋)という文字が並んでいるのにハッとするのです。「スカーヤ」(屋)という綴りがそこに共通して使われているのですが、これを見て、このようなスカーヤのような接尾辞をうまく使えば、新しい人工言語がつくれるのではないかとひらめきます。 そこでいろいろ試行錯誤をする。最初は「会話をする」というようなことばを「パ」なら「パ」と決めて、これにいくつもの接尾辞をくっつけて変化させるというやりかたを考えるのですが、このようにアタマの中でつくりだしたしくみは使いにくいことがわかりました。そこで次のように考えた。
 「この地球の上には、すでにたくさんの言葉がつかわれ、それなりにできあがっている。これは新たに創られる言語の宝の蔵だ、これらのよさを活用しなければならない」のではないか、と。
 こうしてザメンホフは、ローマン・ゲルマン系の言語(ロマンス語=フランス語・英語・ドイツ語など)から単語の材料を採り、これらの材料をもとに必要最低限のルールをつくり、とりあえずの人工語の見本のようなものをつくりあげました。ザメンホフ19歳のとき、1878年のことです。 さっそく学校の仲間がこの人工語を使います。みんなははしゃぎ、歌をつくりあい、メッセージを作成します。 このとき、ラザロ・マルコヴィッチは自分のペンネームをこの人工語でつくりたくなって、「エスペラント」(希望する者)を選びます。そして「ドクトーロ・エスペラント」と名のります。しばらくはペンネームだったこの言葉は、やがてこの人工語体系の全貌をさす用語に転用されました。
 もっとも、エスペラントはこれで仕上がったのではなく、このあとザメンホフが貧困を背負いつつ、眼科医として故郷やワルシャワやモスクワなどを転々としながら改良を加えて完成したものです。
 それがどういう言語であったかということは、遺憾なことに本書には簡単な付録以外に説明がないのですが、ぼくが知るかぎりは次のようなものです。
 文字は母音文字がアルファベットと同じ5音5字で、子音が28文字。単語の数は約900語です。
 文法は簡潔な16カ条だけで、発音は1字1音主義。アクセントの基本は例外なく第2尾音節にありますから、これは簡単です。 名詞の語尾はすべてローゾ(roso薔薇)、フローロ(floro花)というふうに-oで綴られます。複数はこれに「j」がついて、花でいえばフローロイ(floroj)のようになります。
 形容詞は名詞の語尾の-oを-aにするだけで、たとえばベーラ(bela美しい)、グランダ(granda大きい)というふうになる。動詞はこれに準じて、-eで語尾を終える。 これでも予想がつくとおもいますが、多くの語彙は英仏独の言葉から採用されています。けれども発音に近い綴りを原則としていますから、たとえば犬はハウンドでなくフンドー(hundo)、猫はキャットではなくカトー(kato)です。 つまりザメンホフはアポステリオリな母型によって人工言語を作ったわけで、まったく新規な言語に挑戦したのではないのです。そこには「節約」の思想が生きているとぼくはおもいます。 この「節約」は、ザメンホフ自身の年来の思想であった「ホマラニズモ」(普遍的友愛主義 homaranismo)から派生したもので、エスペラントの言いかたでいえば、「サミデアニ」(samideani)です。同じ理想によって集える者たちが使える言葉をつくるという意味ですね。 ザメンホフの言語は、まさにその言語を共有したいとおもう人々の社会思想そのものと、一緒にうまれたのでした。けれども、エスペラントの歩みはけっして容易ではなかったのです。 一部の者しか使わない人工言語なんて、すべての近代国家の中央言語権威主義とまったく対立するものであり、また、ユダヤ人からみても、たとえばシオニズムのようにユダヤ人が結束する民族主義とも背反するものとみなされたからです。
 かくてエスペラントは、20世紀の帝国主義と国民国家主義と排外主義と民族自立主義のすべてから敵視され、排外されるということになるのです。 が、それにもかかわらず、少数の闘いに挑もうとする革命家や、逆にトルストイやラッセルのような普遍主義者からは熱狂的に迎えいれられるという、アンビバレントな道をたどることになります。 こうしてエスペラントは、かつてどんな天才や異才が掲げた人工言語よりもすぐれた言語だとして、まことに狭い水路を抜けていくようにではあったのですが、結果的には圧倒的な浸透力をもって世界中に広まっていきました。 この理由をザメンホフ自身は、次のように考えます。博愛と博識と博語は、人々の自由なコミュニケーションのためにはどうしても必要なときがあり、エスペラントがその博愛・博識・博語でできているかぎりは、必ずや困難を突破して人々の自由交信のためにつかわれるであろう、というふうに。 ここには示しませんでしたが、エスペラントの人気が高まると、当然、これを改良する運動や批判する運動もおこって、ついにはエスペラントとは異なる「イドー」のような人工言語が考案されたり(これは元エスペランチストのルイ・ド・ボーフロンの抜け駆けでした)、資金の潤沢なホラックによる「ラング・ブルー」(青い言葉)といった挑戦が続いたのですが、これらはいずれも挫折をするか、非難をあびて退却しています。 興味深いことに、エスペラントの改良も何度かにわたってエスペランチストによって試みられたのですが、どうも当初のザメンホフ案が生き残っていくのです。このことはその後、きっとエスペラントには社会労働性に関する本質が備わっていたからではないかという、研究者の推測も生んでいます。
 ぼくの手元にあるイェスペルセンの『イェスペルセン自叙伝』(文化書房博文社)にもこうしたエスペラントをめぐる毀誉褒貶がさかんにとりあげられているのですが、それらのすべての困難をこえてエスペラントは確実質実誠実に残っていったのでした。 これにはライバルたちが知的所有権をつねに行使しようとしたのに対して、ザメンホフやザメンホフ亡きあとのエスペラント協会が、つねに今日のコンピュータ・ソフト用語でいう“フリーウェア”を貫きつづけたことも、大きかったとおもいます。 ザメンホフは世界の言語自由のためには、著作権など必要がないと考えていたのですね。そうだとすれば、エスペラントこそは世界最初のフリーウェア・ソフトの凱歌でもあったわけです。 その後、エスペラントは言語学上は「世界補助語」として認められてはいるものの、もはや往年の輝きを失ってしまっています。 しかしながら、それは世界中がザメンホフのような試みを新たに再開することをやめてしまっているというだけのことで、はたしてこれから何が世界の言葉にとって必要なのかという問いとは、まったく関係なく沈黙しているということにすぎません。
 かつてロマン・ロランはアンリ・バルビュスのザメンホフ賛歌にこたえて、次のようなメッセージを書いたものでした。ときどきは思い出して見たい言葉です。 「いま、自分の運命を自覚した新しい人類の最初の仕事としてエスペラントが、われわれの前にさしだされた。それはまさに魂の握手であって、生まれ出ようとする生活本能が生みだした創造である。いま、新しい人類は、あのミケランジェロのアダムのようにめざめたのである。」


2005/05/13

超人の面白読書 7 工藤幸雄著「ぼくとポーランドについて、など」

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工藤幸男著「ぼくとポーランドについて、など」(1997年12月刊 本体価格2000円 共同通信社)を読了。島尾敏雄著『夢の影を求めて 東欧紀行』を近くの図書館から借り出したついでにこの本もゲットし、こちらの本を先に読んだ次第。そして、筆者は最近ようやく読んだ『ワルシャワの七年』で(これも絶版で図書館から借りた)、その後著者はあのポーランドの自由化への道、ワレサの連帯とどう係わってきたか、大変興味があった。確か『ぼくの翻訳人生』のなかで「ポーランド月報」を発刊し連帯革命の応援団を買って出たと書いているが。それでクドーものをまた読んでしまったのだ。月刊「言語」、「鳩よ!」、「學燈」、「映画芸術」等々の新聞、雑誌に書いたもの、44編が纏められている。300ページ超には、生い立ち、満州時代、原口統三、寺山修司、井上光晴、木村浩等の友人の話、言葉あれこれ、コンヴィツキ、シュルツ、シンボルスカのポーランドの作家について、ときに舌鋒鋭く、ときに愛情たっぶりに描く。クドーワールド、ワンダーランド言ったところか。1997年時でのポーランド関係の著作は、『ワルシャワの7年』、『ワルシャワ物語』、『ポーランドの道』、『ぼくのポーランド文学』、『乳牛に鞍』、『絵の散歩道』の6冊、訳書はヤセンスキ『無関心の人々の共謀』、フワスコ『雲の中の第一歩』、コンブローヴィチ『コスモス』、同『ポルノグラフィア』、同『バカカイ』、ノヴァコフスキ『ワルシャワの冬の日々』、フェドローヴィチ『共産国で楽しく暮らす方法』、コンヴィツキ『ポーランド・コンプレックス』、カプシチンスキ『帝国』、ミウォシュ『囚われの魂』、シンボルスカ詩集『橋の上の人たち』、『ブルーノ・シュルツ全集』、ポトツキ『サラゴサ手稿』、ミッチェナー『ポーランド』、I・B・シンガー児童書4冊、『ワイダは語る』の19冊とロシア作家の訳書、パステルナーク『自伝的エッセイ』、エフトゥシェンコ『早すぎる自伝』、ドンブロフスキイ『古代保存官』3冊の計32冊と、はしがきの註で著者自ら記す。それは過去40年間ポーランドに拘ってきた成果だ。因みに、アマゾンドットコムのサイトで調べたら37冊。この本ではむしろ亡き友への哀悼、映画批評、ポーランドの作家・詩人についての論評が主で雑文集、スケッチ集にすぎないと謙遜ともとれる一文をあとがきで語っている。
コンフ゛ィツキ・インタビューのところで日本人とポーランド人について語っているところが興味を引く。曰く、どうしてそうなのかは分らないけれど、日本とポーランドは精神的に似ていますね。ほら、日本のサムライとポーランドのシュラフタ〔士族〕はそっくりだ。日本人はひどく控えめなのに熱情がある。内にこめた力、これににたものはポーランド人にもある。面目、名誉、誇りーこれも共通だ。戦争中は敵見方同士だったのにポーランド人の日本びいきは変わらない。さいわい両国は戦火を交えなかった。また、この作家の生まれ故郷について語るあたりなど筆者は大いに興味を持った。いまはリトアニアの首都ウ゛ィリニュス(ほとんどがカトリック教徒、1931年当時は人口19万5千人。現在の人口は58万人余。旧市街は世界遺産に指定されているー筆者註)、昔はポーランド領でヴィルノ。vilnius_old_town1
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この地方は歴史上重要な役割を果たしたところでリトアニア人はもちろんポーランド人、ベラルーシ人、ロシア人、タタール人、ユダヤ人なども住む多民族、多言語、多宗教の領域、諸民族の寄り合い所帯で現代の「バベルの塔」様相を呈し、今日で言えば相互理解、相互協力、寛容の精神を身につけていた、とコンブィツキは著者のインタビューに答えて語る。帝政ロシアでは西部諸県以外にはユダヤ人の居住が許されなかった。また、ユダヤ人の中でも最低の貧民層が集中して住んでいた。そして、ここからアメリカ、西ヨーロッパへ向けてたくさんのユダヤ人が国外流出した、と。アメリカでのポーランド移民の人口は、1970年時点の統計で510万人余。シカゴではポーランド人街を形成している(これは『ワルシャワの七年』P.31からの引用)。特にアメリカの藝術にはこれらの人々との繋がりが極めて強い。チェスワフ・ミウォシュ、フランスの作家になったロメン・ガリ、シャガール、スーチンの画家、映画俳優、監督らもこの地帯から出た由。
それで、どうしてなんだろうとこの地域が気になって、インターネットでリトアニア、ヴィリニュス周辺を調べてみたところ、最初の疑問からズレてオモシロイことが分かって苦笑い。もちろん教会など絵に描いたような美しい街並みが特徴的なエストニア(首都タリン。追記。このタリン、漢字を当たれば塔林、日刊ゲンダイで作家の五木寛之が編集者と語るコラム「流されてゆく日々」での記事。2005年7月23日付では聖ニコライ教会にほど近く、石の城壁の奥に組み込まれたような入口に看板、LITTLE CHINAを見つけ入った話。チャイナ服を着た髪の長い黒髪の美人が緊張した表情で応対してくれたが、CHINESE RESTAURANTなのに紹興酒も老酒もおいていないことにビックリしていた。でもその娘が純情だったと作家五木寛之は書いていた。)ラトヴィア(首都リーガ)などバルト三国のひとつには違いないが、最近では右翼の台頭でネオナチ風な風貌で日本人観光客を狙って窃盗他を働いていて危険なところと、情報が流れているではないか。もちろんそうでなかったとの報告も現地に行って来た人の報告もあったが。ついでに言えば、ビールが美味いのと美女が多いのもこの地域だそうだ。

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sugihara_kinenkankaunas15 このヴィニュスから西方にある商業都市Kaunasカウナスには第二次大戦中に6000人以上のユダヤ人を救った外交官杉原千畝(すぎはらちうね)の記念館がある(この写真はネットからの借用)。

追記。「日本のシンドラー」と言われたこの杉原千畝の伝記を読売テレビが終戦60年記念ドラマスペシャル「六千人の命のビザ」として制作、7月21日~8月8日までヴィニュスでロケも終え、10月中旬に放送予定と毎日新聞が2005年8月12日付で報じていた。杉原千畝・幸子夫妻を反町隆史と飯島直子が演じるらしい。

追記2。その後10月8日の日テレでこの番組の予告編を偶然に観た。その中で印象に残ったことは、杉原千畝が発給したビザで助けられた女性の一人がオーストラリアに住んでいて今92歳だということである。命の恩人・杉原千畝の発給したビザを家宝として大切しているし、息子、孫にもこの忘れてはならない歴史を証言し続けている。ビザ発給後、リトアニア系ユダヤ人のこの女性は、旧ソ連を経由し日本に渡り、そのとき妊娠していて神戸で出産、息子を産んだ。時代は新たな巡り合わせを生み、その孫夫婦も杉原千畝の実家のある町の記念館を訪ねて日本へ、ここで妊娠していることが判明、日本での「妊娠」がキーワードとそのお孫さんは言っていたが、その言葉の重みを噛み締めているようだった。10月11日火曜日夜9時、杉原千畝役の反町隆史とこのドラマの原作者の奥さん役に飯島直子が扮する「日本のシンドラー」のテレビドラマが楽しみだ。おそらく筆者は仙台のホテルで観ることになるが(2005年10月9日記)。


ワルシャワこのごろの章で著者は、演劇文化の普及、とくに戯曲翻訳に貢献したとの理由で「ヴィトキエヴィチ賞」を授賞し、その授賞式では地下出版で初の大仕事"検閲黒書"はクドウが大量送付のガリ版原紙の威力によったとの賛辞と拍手を受けた件は、この著者の文学者・翻訳者として社会を見る眼が確かだったことの証左だろう。
そして、また現代のポーランド文学は隆盛か否か、思いは尽きない。


言葉に関する薀蓄は、ちょっと辛口だ。すべからくの誤用、ご注文のほうはいかがしますか、の<ほう>の使い方、決まり文句、詮索、穿鑿、脳天気、定番、ほとけの顔も三度のほんとうの意味とか、ちょっと年配者の意地悪とも取れるし、言語感覚が古臭くなっているかなとも思うが、さて・・・。
最後に、クドーものをここ4ヶ月ほど読んできたが、恩師の渡辺一夫先生が円錐形を円筒形に間違えて訳したことを指摘した著者のエピソードは、筆者が読んだ3冊の中に必ずと言っていいくらい言及されていて辟易してしまった。小気味良い自慢 ? 揚げ足取り ? 寛容さも大事と思いますが、ね。人間は思い違いもするし、勘違いもするし、無知だし・・・。忘れないで指摘しておくと、文中にあった「拙者」は「拙著」の間違いだと思いますが。嗚呼、人間は、一知半解で人生は終わると著者も書いているではないか。

2005/05/12

超人のジャーナリスト・アイ 新聞・雑誌拾い読み 9 ノルウェーの新聞Aftenpostenの英文電子版を読む

ノルウェーの有力新聞Aftenposten紙の2005年5月12日付直近記事から。Liv Ullmann awarded royal order
Norwegian actress and filmmaker Liv Ullmann was awarded one of Norway's highest royal honors on Wednesday, the Commander with Star of the Order of St. Olav.
The order, created in 1857, is awarded by Norway's King Harald V based on recommendations from a panel to Norwegians deserving a "reward for excellent services to country and mankind".

Ullmann, 67, was born in Tokyo, Japan, to Norwegian parents, but grew up mainly in the central Norway city of Trondheim.

She had established herself as a Norwegian stage and screen actress in the 1950s, but it was her creative liaison with Swedish filmmaker Ingmar Bergman that gave her international stardom.

Ullmann may be best known for her roles in nine Bergman films, including "Persona" from 1966, "Shame" from 1968, and "Autumn Sonata" from 1978. She made her debut as a director in 1992 with the film "Sofie".

The Order of St. Olav is named after the martyred Viking and Christian king Olav the Holy. The Order is divided in five classes: Grand Cross, Commander with Star, Commander, Knight Class 1 and Knight.

一つ目は、あのベルイマン映画の立役者、リブ・ウルマンがノルウェー国王から勲章をもらったニュース。彼女は東京生まれでノルウェーのトロンハイム育ち。彼女の出演している映画の作品は何本か観ている筆者だが、最近はお目にかかっていない。もう、67歳。、3年程前にNHKのBSでイングマール・ベルイマン特集を組んだときにビデオを録画したものを持っているが、まだ全部を観ていない。その中に勿論リブ・ウルマンが出演している映画もあったはず。近々観るつもり。かつてアメリカの有名なニュース・マガジン、タイム誌で彼女の特集を組んだ記事が掲載されて読んだことがある。まだその記事は筆者の家のどこかにあるはず。二つ目は、四日間の予定でノルウェーを公式訪問する天皇皇后両陛下が火曜日に到着したノルウェーのGardermoen国際空港。そこで出迎え、挨拶するノルウェーのメッテ・マリット皇太子妃。それと、ある式典での出来事か、生憎この日は雨や霙の降る悪天候で、皇后さまが陛下の肩を乾かしているシーン(写真左)。その脇にはホステス役の妊娠中のメッテ・マリット妃の姿も見える。三つ目は、4月はノルウェーも暖かかったらしい。そのオスロ周辺の写真。
「aftenposten_norway_norwegian_news_on_japanese_emperor_in_english.htm」をダウンロード

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NORWAY__merkeiser4__283652g Crown Princess Mette-Marit was to greet them on arrival in Oslo Tuesday, and be their sole royal hostess when they travel onto Trondheim later this week.ハラッド国王が心臓病手術で入院し、週末には退院という見通しの事態で、メッテ・マリット皇太子妃(写真右)は、ノルウェーを公式訪問中の日本の天皇皇后両陛下に対し、木曜日の古都トロンハイムへの訪問では一人でホステス役を務める。彼女はホーコン皇太子と結婚前にはやれ、ドラッグをやっていたとかいろいろと噂された女性と筆者は雑誌か何かで読んだことがある。
_A14fiske2504_jpg_279633g  Spring bursts forth
Spring is burstin' out all over in Norway, and sunny weather our most of the country helped make April one of the warmest on record. The sunshine spurred this man to try his fishing luck along Oslo's waterfront.
春が突然出現と見出しがついた記事。この4月はノルウェーでも史上最高の暖かさになり、この日光でこの男性はオスロのウォターフロント地域で釣りをする幸運に恵まれた由。

更に天皇陛下の訪問シーンを二つ。同じ新聞から。

keiserpar__merkeise_283650_pupils_greet_emperor Pupils from Bestum School greet Emperor at the palace square. ベスツム学校の生徒、王宮広場で天皇陛下に挨拶(写真左)
keiserpar__merkeise_283651g_the_guard_of_honor Japan's Emperor Akihito and Crown Prince Regent Haakon inspect the Guard of Honor at the palace. 天皇陛下と摂政のホーコン皇太子、王宮で衛兵を視察(写真右)

2005/05/07

クロカル超人の運動 ゴルフ練習

                                                                                                      ゴルフ好き 飛べばネットの 薫る風

golf

週末に1,2回運動を兼ねゴルフ練習をしています。これは、夕方7時頃にカメラ付き携帯電話で撮った写真。1回2時間240発、2、200円ですが、SW、8番、7番、5番、7番ウッド、スプーンそれにドライバーと番手を替えて練習しています。このところやっとこつを覚えたのか、曲がらず飛ぶようになったようです。それでもときにはスイングがくずれたりして調子が上がらないときもあります。この連休はほとんど毎日練習の日々。この練習場でも最近、若い女性、おばはんと女性が増えて来ています。今日などはジージに連れられて3才位の小さな女の子が、その子にしては長いアイアンを振っていました。当たっているから不思議。ジージが時どきコーチしていましたが。天晴れか、驚きです。ここにも今や女子プロの宮里藍と横嶺さくらの人気が浸透して来ているのかしら。ジャンジャン

超人のジャーナリスト・アイ 新聞・雑誌拾い読み 8

ノルウェーのことからぶらりとアイスランドへ。淡路島位の国土で人口20万位の小国だが、氷河、火山、温泉、オーロラと自然が豊かな国。長身揃いの国。そしてあまりに有名な英雄叙事詩アイスランド・サーガを持つ国。Road of the ring の作者はその叙事詩に魅せられ、アイスランド語(古代の形態を残した難しい言語)を勉強して会話はできるようになったという。その記事を在アイスランド大使館のHPで見つけました。。最近ではチェスの王者ボビー・フィッシャーがフィリピンから日本へ不法入国して一時拘束され、日本の法務省とすったもんだした挙句、受入国アイスランドへ引き渡されたというニュースが目新しい。彼は母国アメリカから脱税容疑でマークされていました。そのアイスランド最大の新聞、モルグンブラーズィス紙電子版2005年5月6日号の一面。イギリスはブレア首相率いる労働党が勝利したニュースを報じているらしい。筆者はかつてアイスランド語を齧ったことはありましたが、今は残念ながら読めません。だかららしいなのです。ジャンジャン
A2005-05-06


超人のジャーナリスト・アイ 新聞・雑誌拾い読み 7

ノルウェーの新聞アフテンポステン紙Astenpostenの英文電子版の2005年5月6日号を読んでびっくり。タイ女性、ノルウェーで見捨てられるとの記事が目に留まった。10年間、車や家の資金調達のため夫が妻のタイ女性に売春を強要していたという。ノルウェー外務省によれば去年ノルウェー人男性と結婚後、タイからノルウェーに移ったタイ女性は935人で、そのうちの153人は去年オスロPROセンターで助けを求めたアジアの女性で、その148人以上がタイ出身で売春サポートを依頼して来ていたと、アフテンポステン紙が報じている。騙されて結婚し、異国に行ってはこの惨状、ひどい話しで人権問題であろう。(-.-)
「aftenposten_norway_norwegian_news_in_english.htm」をダウンロード


2005/05/05

クロカル超人の誕生日プレゼント

一日過ぎて今日5月5日は端午の節句、子どもの日、夏日に近くよく晴れています。幼少期、亡き母に一日遅れてこの日に赤飯、柏餅をよく作ってもらいました。赤飯は苦手でしたが。将来の社会を担う子どもの少子化が心配。午前中にはささやかなプレゼントがありました。

present
この写真の右上の方にあるものは何でしょうか ?
ヒント:ビールのジョッキーに関係があります。(^。^)


誕生日 鯉のぼっては 亡母の風  


そして、そよ風のなか泳ぐ鯉のぼりを発見。

koinobori


2005/05/04

クロカル超人のグルメの話 カツオ 3

今が旬の鰹・かつお・カツオが今年は東海、紀伊半島沿岸では漁獲高が激減しているとのニュースを毎日新聞が4月22日付夕刊で報じている。見出しは13年ぶり黒潮大蛇行 カツオ激減、漁師悲鳴と縦と横を使った目立つ記事。しかも写真にあるように日本近海の海流図付。帯のように見えるのが黒潮と解説している。黒潮は通常、東シナ海を北上し、太平洋沿岸を流れて房総半島沖へ向かう。回遊魚の移動ルートでもあり、周辺は豊かな漁場になる。しかし、昨年8月以降、紀伊半島から遠州灘沖では、沿岸から南へ最大約400キロも離れている。91年以来13年ぶりの発生というが、収束する見通しはなく、原因も分っていない。カツオを使う手こね寿司が有名な三重県では、初ガツオのシーズンを迎え、大きな打撃を受けている。例年の漁獲高は1000トン前後だが、今年は水揚げがほとんどない。地元の漁師は黒潮が沿岸に近付く房総沖まで出張している状態で手こね寿司のネタに他県産のカツオを使うことになるかもと嘆くと、リポートしている。そう言えば以前にもカツオが獲れず値段が高かったことを覚えている。筆者は鹿児島、宮崎、東京都、千葉、福島、宮城産のカツオを今年は3月始めからほぼ2,3日おき位で食べている。三重、静岡産のはほとんどなかったかも。いつも年より値段が高く一さく700円位したが、このところは300円前後に落ち着いてきている。ただ値段の割には「かさ」がないので割高のようだ。刺身のカツオはマグロとかと違い、ちょっと癖があって長持ちもしない魚だが、背、腹等が赤く脂がのっていて柔らかいのが最高に美味い。それがこれだけ食べていてもなかなか当たらないから不思議だ。ショウガ、ニンニクを醤油にたっぷりとつけて食べるカツオの刺身は最高で、筆者にとって至福のひとときだ。(京都、大阪あたりではワサビで召し上がるらしいが筆者には頷けない。高知ではニンニクのスライス、レモン、ネギを添えて食べる)。特に福島県のいわきで獲れるカツオは美味、他の地域のそれと一味も二味も違う。カツオ好きの読者諸氏は一度試してみてはいかが。
ところで、今日5月4日は筆者の何十歳かの誕生日。年をとるのが早く感じる今日この頃。一知半解で全ては終わるか。ああ、全ての書を読みぬ ! とは有名な詩人の言葉。
ジャンジャン


大蛇行 追っても遠い かつお船
mainichi_katsuo2


超人のジャーナリスト・アイ 新聞・雑誌拾い読み 6 スウェーデンの新聞 Dagens Nyheter のトップ記事を読む

2005年5月3日火曜日、スウェーデンの有力新聞 Dagens Nyheter紙のトップ記事から拾ったのがこれ。
Uppdaterad 3 maj 2005 19:13

Gängbråk på Hjulstaskolan

Beväpnade med järnrör och kedjor slog ett tjugotal ungdomar på tisdagen sönder inredning i Hjulstaskolan, hotade och misshandlade elever. Enligt uppgift från polisen har ingen vågat vittna.


Före två på eftermiddagen dök ungdomarna i 16-årsåldern upp på högstadieskolan Hjulstaskolan beväpnade med järnrör och kedjor. De hade tidigare varit på Bredbyskolan i Rinkeby.

Efter att ha givit sig på elever, inredning och fönsterrutor på Hjulsta­skolan sprang de från platsen.

Polisen kunde under eftermiddagen identifiera 20 möjliga gärningsmän mellan 15 och 16 år. Ingen av dem har gripits eller delgivits misstanke. De som identifierade hade inga vapen på sig utan stoppades snarare därför att sprungit och varit i rätt ålder. Drygt 20 poliser deltog i jakten.

Jan Sjunnesson som är biträdande rektor på Hjulstaskolan säger att förstörelsen bara handlar om fyra krossade fönster. Enligt Diana Sundin, informatör på Västerortspolisen, är skadegörelsen mer omfattande.

- De har slagit sönder skolan ganska ordentligt inomhus och så är det rutor krossade.

Ett antal elever har skadats lindrigt. Jan Sjunnesson säger också att ett par elever har ställt upp och pekat ut några av de skyldiga efter att polisen varit där, något som Diana Sundin inte säger sig känna till. Flera av dem som har sett vad som har hänt kommer att kallas till förhör och Diana Sundin hoppas att de då ska våga peka ut de som stoppats.

- Det brukar krypa fram så småningom. De som jobbar med ungdomsbrott gör förhör på ett annat sätt än när du står med uniform. Det sker mer informellt när du blir kallad till en polisstation. Då vågar du kanske berätta mer än när du står där med uniformerad personal och alla andra tittar på.

2005/05/03

超人のジャーナリスト・アイ 新聞・雑誌拾い読み 5 雑誌 New Yorker最新号を読む

コンピューターの動作環境が鈍くいろいろと試していたとき、 New Yorker 最新号(issue of 2005-05-02)の電子版を覗いていましたら作家村上春樹の短編が載った記事を見つけ、ぼちぼちと読め始めたところ。またしても村上ワールドの面目躍如かー。
書き出しをちょっと。タイトルは"WHERE I 'M LIKELY TO FIND IT"。
"My husband's father was run over by a streetcar three years ago and killed,"the woman said, and paused.

I didn't say a word, just looked her in the eye and nodded twice.During the pause, I glanced at the half-dozen pencils in my pecil tray, checking to see how sharp they were. Like a golfer carefully selecting the right club, I deliberated over which one to use, finally picking one that was neither too sharp nor too worn but just right. そしてA4版で10枚位続きます。スキップして最後のところを少し書き写してみます。

"Mr.Kurumizawa,"I said aloud to a corner of the ceiling. "Welcome back to the real world. Back to the three sides of your beautiful triangular world-your panic-attack-prone mother,your wife, with her icepick heels, and good old Merrill Lynch.

I imagine my seach will continue-somewhere. A seach for something that could very well be shaped like a door. Or maybe something closer to an umbrella, or a doughnut. Or an elephant. A seach that,I hope, will take me where I 'm likely to find it.Philip Gabriel氏の訳ですが、比較的読み易い英文のようです。
この2005年5月2日号の表紙を探しましたがすでに新しく変わっていました。写真は2005年5月9日号の表紙と80年前の1925年8月22日号の表紙。80年前のデザインも斬新ですね。
in_the_current_issue_of_the_new_yorker
august221925the_new_yorker
その後e-mailで問い合わせたところ、2005年5月2日号はありました !
issue__20050502_of_the_new_yorker
2005年5月2日の表紙を描いたBruce Eric Kaplan の cartoon。
new_yorker_cartoon_by_bruce_eric_kaplan

New parents entering sparse apartment holding baby, whose thought balloon says, "Oh great. Humble beginnings".Published in the New Yorker April 5,1999

2005/05/01

クロカル超人のジャーナリスト・アイ  NHK新番組 司会 春風亭昇太 青山祐子アナウンサー【発見ふるさとの宝】を見る 

筆者が関係していたホームページにコラムを書いたもらった記事が日経新聞の記者の目に留まり、記事になったことがありました。あれから4年位が過ぎて忘れかけていた頃、コラムを書いてくれた中川さんから今度NHKの新番組で放映されることになりましたとのお話しを聞いたのは3月の中旬、戦時中"武智丸"として活躍したそのコンクリート船が立派に広島県の呉のある町でコンクリート船防波堤として漁民の役に立っていることをふるさとの宝として紹介され、専門家として彼も出演したことは、関係者の筆者としても嬉しい限りです。メールで詳細を知らされ出張先の京都のホテルで見、携帯写真で撮ったのがこの写真です。ちょっと鮮明さに欠けますが(on airは4月19日(火)午後11時15分から11時44分)。これこそノーベル賞受賞者のマータイさんの3R(reduce,reuse,recycle)運動の魁でしょうか。日本語の"もったいない"(もったいはものごとの本質とは4月29日付毎日新聞余禄子の弁)に感動したマータイさんを筆者は、もったいないの意味も込めて「モータイさん」と呼んでいます。ジャンジャンnhk_bouhatei
nhk_nakagawa
nikkei_concretesen
このコンクリート船についての詳しい記事はこちら。興味ある方はアクセスしてみて下さい。http://www.crocul.com コラム・バックナンバー「8月のコラム 防波堤として余生をおくる戦時コンクリート船」へ。

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