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2005/01/23

フットワークで集めた学術先端情報-学術mini情報誌「PS JOURNAL」の紹介

学術mini情報誌「PS JOURNAL」 2003年11月創刊 日本図書センターP&S 無料
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2003 autumn 創刊号 特集 転機の大学
■国立大学も法人化で競争の時代へ    京都橘女子大学教授  教育行政学    渡部 蓊
■大学教員の身分保障問題          横浜市立大学助教授  教育学       高橋寛人
■【使える資料】2003年度21世紀COEプログラム
■PS JOURNAL 新刊あらかると
■学術図書案内

2004 spring 第2号  特集 研究者の現在 ■研究と調査                   
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山梨学院大学教授   日本近現代史   我部政男
■日系カナダ人史研究の現在         京都女子大学教授   文化史        坂口満宏
■大学で「文学」を読むことの質的転換の試み
                            福島大学教授      日本近現代文学  澤 正宏

■「平成の大合併」と農村社会史研究     同志社大学教授    農業経済史     庄司俊作
■旧農林水産省管轄岩手牧場所蔵資料   
               岩手県立大学盛岡短期大学部助教授    日本近現代史   後藤致人
■250年間の「平和」                広島修道大学教授  日本経済史   落合 功
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2004 summer 第3号 特集 研究者の現在
■ジェンダーの視点からの軍隊戦争研究    関東学院大学教授 現代史       林 博史
■「ヒロシマ・ナガサキ」からの59年-風化に抗する意思
                            筑波大学教授      憲法        黒古一夫

■曖昧な科学としての教育学          名古屋大学助教授   教育学       牧野 篤
■汝、自身を知れ-京都大学総合体育館の建築論
                            京都大学助手      建築論       藤原 学
■市町村合併と行政文書             福島大学助教授     地方行政      荒木田 岳
■中国語教育雑感                 京都大学助手 日本語学      李 長波
■250年間の「平和」(その2) 広島修道大学教授   日本経済史    落合 功

汝、自身を知れ―京都大学総合体育館の建築論

藤原 学 (京都都大学大学院人間・環境学研究科助手/建築論)

京都大学には、入学式や卒業式を行う専用の施設はない。それらの式典は総合体育館(増田友也設計、1972年竣工)で行われている。一年間に二度、運動施設は式場の仮面をかぶるわけである。いや、仮面というのはふさわしくないかも知れない。隠されていた建築の意味が現れ出る、といった方がよさそうだ。総合体育館は、京都大学創立七十周年記念事業の一環として建築されたが、その事業終了を伝える記事には「入学式、卒業式等全学的な式典にも兼用できる施設とした」(「京大広報」No.176)とあるから、総合体育館を式典に用いることは、設計段階から想定されていたと考えられるからである。
 ところで、建築は、いわゆる純粋芸術とは異なり実用目的をもっているから、その造形を審美的に観ることもできれば、倫理的に読み解くこともできるはずである。大仰な言い方だが、倫理とは、ここでは、人間の行為について考えること、といったことを意味していることに過ぎない。そして実用目的とは、建築を利用する人間の行為に関わることに違いないから、建築の造形には、設計者がその行為をどのように考えたかが反映されているはずである。総合体育館には、入学式と卒業式という、教育機関にとって節目となる重要な式典の意味が、どのように織り込まれていたのだろうか。
 総合体育館は東大路通りを隔て、京大の本部キャンパスと向かい合って建っている。本部キャンパスが塀と門で囲われているのに対し、体育館は東大通りに直接面している。このように外部と何ら隔てなく建てられている建築は、京都大学にはこの体育館と楽友会館(森田慶一設計、1925年竣工)の二棟あるが、楽友会館は同窓会館として建てられたものだから、在学生が利用する施設では体育館のみということになる。塀で囲うことは、その領域を画定、他と区別することにほかならないから、体育館はこの点では文字通り社会に開かれて建っていることになる。逆に言えば,体育館の扉の前にたつとき、そこが京都大学であるということは、形式的には保証されていないのである。その扉だが、総合体育館には入口が二箇所ある。それは二階建てで、プラットフォームと呼ばれる基壇の上にそびえる二階部分が主体育館であり、そこが式典の場所となるのだが、入口もまた二階に設けられている。一つは、東大通りに面した大階段を上った正面(東側入口)。もう一つは、体育館の南側に並ぶ部室群の奥にある階段を上ったところ(南西側入口)。南西側入口に入ると、靴脱ぎがあり、ロッカー室がある。対して東側にはそのようなものはなく、ラウンジを経てアリーナへとつながっている。つまり、運動施設として用いるときには南西側入口を、その他の用途として用いるときには東側入口を利用するよう、区別されているのである。大階段を上って東側から入る体育館、これが式典の場所としての体育館なのである。
東大通りから大階段を上ると、目の前に立ちはだかるように壁が建っている。大規模な建築物にありがちな単調な壁面となることを避けるかのように、堀の深い格子が、独特のプロポーションで配されている。このデザインの壁面が、体育館の四周すべてを被っている。余談になるが、これだけの規模の建築を、単一の素材による単一のデザインで設計することは、相当に勇気のいることである。しかも単調な印象を与えず、端正で格調高く、ある種厳格な印象を生み出しているのは、設計者の力量を物語るものである。
再び大階段の正面の壁に戻ろう。入口はその壁面の下、奥まったところにある。壁面の量感の大きさに比べ、いかにも小さく、入るのを逡巡するような扉である。扉を開け、内に入ると、再びあの格子が見える。ところがこの正面の壁面は、ロッカー室とアリーナとを隔てるもので、体育館外壁の裏側が露出しているのではなく、いわば仕組まれた意匠なのである。式典に参列する者に、あの壁の下の小さな扉から入ってきたことを、改めて思い起こさせるよう工夫されているといえよう。なぜそんな設計にしたのか?入学式も卒業式も、参列するには資格が問われる。形式的には入学試験に合格したとか、単位が足りているといったことだが、その意味するところは、京都大学で学ぶにふさわしいか、京都大学で学んだにふさわしいか、ということである。それは学部長や総長の許可を得るという手続きを得るが、式場の設計者はさらに別のことがらを要求しているように思われる。
総合体育館の大きな壁面と小さな扉は、式場に向かう人の流れを一端とどまらせることになるだろう。それは設計者から与えられた、自問自答の場なのである。京都大学であることが保証されていない場所で、壁に向かい、何を問えというのか。式場へ入るにふさわしいか否か、自分で判断しろというのである。京都大学での学問を確認する場へと進むことは、他人の判断を待つのではなく、己自身で判断できるはずだ。自分自身を知るというこという、古来最大の課題に挑まない者は、たとえどのような知識を得たとしても、この大学にはふさわしくない。こうした設計者の頑とした問いかけが、あの壁面に結ばれているのである。みずから問い、みずからの判断で式場へと歩み出した者は、再びその壁面を前にして、己の判断に責任を持つよう促されるのである。
いったい、自分自身を知ることは、新しい知識を得ることよりも遥かに困難なことである。こんな困難を投げかけてくるのだから、総合体育館はやっかいといえばやっかいな建築といえるかも知れない。だがしかし、どこかで見たようなデザインをパッチワークのように並べ、見かけだけは「大学らしい」建物が建っていく中、京都大学の建築としていずれがふさわしいのか、火を見るより明らかであろう。Img014

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