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学術先端情報―学術情報誌「CPC Journal」の最新号紹介     

2009年第1号 特集: ライブラリアンは今 知の交流発信地のめざすもの

目次Img059_cpc1
■インターネット環境下における原資料―憲政資料を例に― 国立国会図書館政治史料課長 堀内 寛雄Img048_horiuchi
■地方図書館をめぐる現状 いわき市立いわき総合図書館長 小宅幸一Img052_oyake
■「民間」公共図書館の可能性 国立国会図書館電子資料課長/前東京都千代田区立千代田図書館長 柳与志夫Img053_yanagi
■「日米韓」の図書館を訪問して 滋賀県愛荘町教育長/前愛知川図書館長 渡部幹雄Img056_watanabe
■私説「いちばん病」 シカゴ大学図書館日本研究上席司書 奥泉栄三郎Img058_okuizumi
■文化としての科学を求めて 大分「児童文学と科学読物の会」代表 辛島泉
■特集寸想 小浜傳次郎Img057_obama


  文化としての科学を求めて
大分「児童文学と科学読物の会」代表 辛島 泉

最初の科学読物『訓蒙究理図解』
 我が国最初の科学読物(子どもの科学の本)は、『訓蒙究理図解』と云われている。著したのは、啓蒙的洋学者として知られる・・・というより、あの一万円札の福澤諭吉翁ときいて驚く人も多い。諭吉の数ある著作の中でも、自然科学に関するものはこの一冊だけ。ほとんど世に知られていない小編である。訓蒙とは、子どもや初心者に教え諭すこと。究理とは、科学全般、特に物理学のことを指す。諭吉は、我が大分県ゆかりの人でもある。
 『訓蒙究理図解』は、1868年(明治元年)に出版された。彼は何故「科学」の必要性を説いたのか。幕末から明治初期の激動の時代にあって、日本が国際社会の中で生き残っていくのに、「科学」に基づいた論理的思考が不可欠であると考えたからである。彼は欧米から持ち帰った数冊の物理学の原書を参考に、身の回りで起こっている自然現象の成り立ちについて、初心者に分かるようにやさしく解説した。物理学を重視する理由として、真に大切なことは単に知ることではなく、理解することである。この理解するという思考の仕方を、物理学を学ぶことで体得せよとすすめている。
 当時から140年を経た今日、果たして諭吉が描いたような科学の基本的原理原則を理解するような教育が我が国でなされているだろうか。私たち大人の中に、論理的思考や科学的素養(科学リテラシー)は根付いているだろうか。
科学リテラシー調査が問いかけるもの
 2007年12月OECD(経済協力開発機構)が発表した15歳児を対象とした国際学習到達度調査によると、日本は57か国・地域中、理科の知識に対する得点は5位前後だったが、「科学への関心」に関しては最下位というショッキングな結果だった。例えば、「科学の本を読むことが好き」は36%、「科学に関するテレビ番組を見たり、新聞や雑誌の記事を読む」は8%、理科の授業について「クラス全体で討議する」は4%で、いずれも最下位というお寒い状況。つまり、理科の得点はそこそことれても、科学が自分や人間社会の中でどのように大事な役割を持っているのか、なぜそれを学ぶ必要があるかが分かっていないと云えよう。勿論、その理由を子どものせいにはできない。なにしろ、18歳以上の大人の科学技術基礎概念の理解度調査(2001年)の結果は、日本は17か国中13位という結果だったのだから。諭吉の慨嘆の声が聞こえて来そうである。
大人の文化の中で科学が心を捕えるものでないなら、子どもに面白さが伝わる筈がない。
大人が子どもの科学の本を読む
 科学が苦手という人に、私は子どもの科学の本(科学読物)をすすめることにしている。
科学読物は、大人にとっては格好の科学入門書であり、科学啓蒙書にもなる。科学読物は、概して段階を追って簡潔に事実や本質が述べられているので読み易く、理解しやすい。薄いし、ビジュアルなので楽に読める。同じテーマの本を何冊か読めば、基本的な知識を手に入れることができ、知らないことを知る喜びを与えてくれる。
 この程、待望久しかった2冊の科学絵本が再版された(何でもノーベル賞効果だとか)。『小さな小さな世界―ヒトから原子・クォーク・量子宇宙まで』『大きな大きな世界―ヒトから惑星・銀河・宇宙まで』(共に、かこ さとし作/偕成社)は、私達を小さな小さな量子宇宙の世界から、大きな大きな宇宙まで連れていってくれる。想像力に導かれて、10の-35乗mから10の27乗mの世界まで旅することができるのである。開く毎に新しい発見があり、何度読んでも飽きない。
 科学リテラシーを養うため、大人が子どもの科学の本を読むというのは如何だろう。
児童文学と科学読物の会の活動
 子ども達が物語絵本や児童文学を楽しむように、科学読物にも親しんでほしい。そんな願いをこめて、「児童文学と科学読物の会」は1991年に発足した。来年20周年を迎える。「子ども達と(・)科学の本の楽しさを、科学する喜びを」がモットー(子ども達にではなく、と(・)としたところがミソ)。
 子どもたちは出会う機会さえあれば、科学読物が大好き。特に文学とか科学とかの区別のない幼い頃から科学読物に出会っていれば、大きくなっても何の偏見もなく科学の世界に入っていける。科学読物に関しては、周りの大人の役割が大きい。ノーベル物理学賞を受賞された小柴昌俊教授は、「科学は習っているだけでは楽しくない。自分で考えて、やってみて、面白いと子どもが感じることが大事だ」と仰っている。又、「科学って面白いんだナと感じさえすれば、その子は一生科学が好きになる」とも。
 私達の会の会員の多くも、入会してはじめて科学の世界の面白さを知り、今では科学読物や科学あそびを自ら楽しみながら、その喜びを伝えることに情熱を注いでいる。毎月の読書会や子ども達との科学あそびの会は、自らの科学リテラシーを鍛える場でもある。
文化としての科学を求めて
 「科学」は本来面白く、驚きに充ちたロマンの世界である。私達がひらいている科学あそびの会は、どの会場もどの年令の子にも大好評。付き添い大人も興味津々。夢中になって子どもといっしょに楽しむ姿は、感動的ですらある。人間は、本来知的好奇心を持った存在なのだ。
 『歴史における科学』の中で、著者バナールは、科学のもつ他面的な特質を次のように分析している。
1) 多くの人に職場を与える<制度としての科学>
2) 真理を発見する方法を教える<方法としての科学>
3) 過去から累積された<知識としての科学>
4) ものを作る基礎・手段になる<生産力としての科学>
5) 宇宙や人間の見方の源泉となる<思想としての科学>
6) よろこびの多い人間的な活動、営みのひとつである<文化としての科学>
さまざまな側面を持つ科学の何が「科学への関心」や科学リテラシーの欠如を招いているのだろう。それは、<生産力としての科学>を追い求めて来た科学教育の目的論に問題がありはしないだろうか。科学の別の側面、<文化としての科学>という側面に視点をシフトさせて教育や社会のあり方を考える。そんな取り組みが今少しずつ日の目を見はじめている。私達の会の活動もそのひとつであるが、各地で草の根で行われてきた科学ひろばや、今注目されているサイエンスカフェの試み等もそのひとつであろう。
 誰もが文学や芸術を文化として楽しむように、科学もまた文化として楽しめる社会になれば、どんなに人生が知的で豊かなものになるだろう。図書館がそんな社会をサポートする拠点のひとつであってほしいと、切に願っている。

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超人のジャーナリスト・アイ 104 PR誌プチ雑感

  最近久し振りに「現代詩手帖」2003年10月号「吉本隆明」特集を図書館から借り出して読んだ。詩篇と大澤真幸の<ポストモダニスト>吉本隆明が面白かった。あとは斜め読み。実は山本哲士の吉本隆明論を借り出したかったが貸出中だったのだ。同時並行で今出版社のPR誌3,4誌を鞄に入れて電車の中で読んでいる。その一つ、丸善のPR誌『学鐙』に関して、今朝の毎日新聞の日曜コラム「時代の風」で、作家瀬戸内寂聴が日本近代文学研究者河野敏郎著『学鐙を読む』の出版記念会に出席した話を書いていたのを読んだが、この老舗丸善のPR誌『学鐙』は筆者も定期購読していて、特に丸善の歴史を紐解く河野敏郎連載「学鐙を読む」は毎回欠かさず読んでいる。丸善創業者の林氏の当時のビジネス奮戦記や忘れかけている文学者のことなど資料渉猟の極み、かつエピソードが大変おもしろい。教わることが多い連載だ。今は季刊雑誌に変わったので年4回発行。さて、PR誌の雄、岩波書店の「図書」2月号の<こぼればなし>の一つは、先月亡くなった作家・評論家の加藤周一氏を追悼した編集者のやや長いが心に残る文章だ。二回読み直した。そこからの抜粋。加藤周一氏も、自分に最も近しい日本社会の中で「異邦人」たることによって、透徹した批評眼を獲得した、一人の単独者でした、と。そして朝日新聞出版社の「1冊の本」の内容は、鹿島茂、高祖岩三郎、森嶋瑤子、小倉千加子、中岡哲郎、四方田犬彦、橋本治などの書き手を揃えて充実しているようだ。もちろん読み応えもある。多様で濃い。紀伊國屋書店の「scripta」のバックナンバーはちと薄く原価を抑えたつくりになっているけれども、書き手の布陣は堂々としたもの。上野千鶴子、内堀弘、池内紀、都築響一、伊藤比呂美、斉藤美奈子など。毎回楽しく読ませてくれる。さて、新しいPR誌の紹介と考えたが時間がない。次回に。

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学術先端情報―学術mini情報誌「PS Journal」の最新号の紹介 9    

2008年第13号 特集: 研究者の現在ⅩⅡ歴史研究の地平
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目次
■水曜会と新水曜会 東海大学教授 井上 孝
■歴史研究の醍醐味 敬愛大学教授 村川庸子
■「リテラシー史」という領域 早稲田大学教授 和田敦彦
■大蔵官僚の天下りと銀行業務の近代化 横浜国立大学准教授 邉英治
■北部九州の炭鉱史料群を前にして 九州大学准教授 宮地英敏
■ヒトの行為を中心に地域経済の変動を考える 東北学院大学准教授 白鳥圭志
■現在の研究と関心 明治大学教授 佐々木聡

内容詳細はこちら→「img006.pdf」をダウンロード

■水曜会と新水曜会
東海大学教授 井上 孝

 マリオン・グレーフィン・デーンホフ(Marion Gräfin Dönhoff(1909-2002)という女性ジャーナリストの存在を、専門外とはいえ、寡聞にして知らなかった。ドイツの影響力ある週刊新聞 Die Zeit の主筆そして発行人であった著名人である。彼女はその名が示すように、貴族の出であるが、東プロイセンにあった所領の城で育ち、当時の女性としては珍しい大学教育を受け、一時所領の経営をしたが、やがてナチへの抵抗運動に加わり、戦後は東西融和に力を注ぎ、波乱の多い生涯を送った。その経歴は大いに興味を誘う存在である。
 デーンホフがその晩年の1996年、文化、学術、経済、政治の各界の一流のメンバーを集めて、現代の「焦眉の問題」を論じるべく企図して設立したのが、「新水曜会」(Die neue Mittwochsgesellschaft)である。この会は、彼女の没後も活動を続け、その成果を公表している。では、なぜ新・水曜会なのか。
 そもそも曜日名を冠した会は19世紀から各地にあったようだが、彼女が意識した「水曜会」なる名称は、19世紀の後半、ベルリンで設立された会合に由来する。1863年「学問的対話のための自由な会」(freie Gesellschaft zur wissenschaftlichen Unterhaltung)は、時のプロイセン国務大臣にして文部大臣であったB.ホルヴェークが主としてベルリン大学における各分野の教授を自宅に集めて自由な学問的集まりを意図したのに発する。1 会員はつねに16名であり、大抵は死去に伴って、新会員が補充された。創立時のメンバーは、まさに当代の各分野の第一人者であり、プロイセン、後にはドイツ帝国の知的エリートたちであり、その後、これに選ばれることは学問的な勲章と思われていたようである。思想・信条は問われなかった。月に2回、会員宅の持ち回りで会合を開き、自宅を提供した者が専門の講演をして、簡単な食事を供することになっていた。ただし、その際、狭い意味での時事的問題(Tagespolitik)は論じないことが、会の方針として決められていた。
 会は、1863年1月14日を第一回として、1944年7月26日まで、80年間にわたり1056回を数えたが、これを最後として、再び開かれることはなかった。例の、1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に、この会のメンバーのポピッツ、ベック、イェッセン2 そしてハッセルの4人が連座し、処刑された。事実上の最後の会は7月12日であり、講演者は理論物理学のハイゼンベルクであった。
 いま述べたように、戦後、会を再興しようとする動きはなかったようである。その理由は明らかではないが、水曜会メンバーは精神的自由が前提であっただけに、とりわけヒトラーの政権獲得後では、親体制も反体制も呉越同舟であった。上記の対ナチ抵抗運動のメンバーと同時に、ナチ支持者で有名な人類学者フィッシャーなども一員であったので、ナチ体制の崩壊後のドイツにおいて、そのメンバーが再び集まるのは所詮無理であったろう。
 さて、ではなぜその52年後に、「新」と銘打って、「水曜会」が再び結成されたのか。会は、1996年9月25日の初会合からの記録を順次公刊しているが、1998年におけるその第一巻(第5回目の会合までの記録収録)において、デーンホフ自身が、以下のような前言を述べている。今日、学問と科学も資本主義法則と相俟って業績と物質的成果をなによりも重視している。そのため精神・文化・芸術が次第に周辺に追いやられ、経済優先となっている。倫理規範なき社会ともみられる。方向を失いつつある社会では、これについて諸所で論じられているが、舞台と登場人物の交代はそうした議論の影響力をそいでいる。このときに想起されるのが、「無類の仕組み」としての、かの「水曜会」である。今日、事態は異なるが、この閉塞状況を打破するには、世界観は違っても、むしろ倫理的信念および法と正義という観点で結びついたグループの持続的な会合・討論を通じた、見解表明が必要であろう。そこで、今日のドイツの知性を集めて、この会合を持つことにした、と。3
メンバーは、デーンホフのほか、元ドイツ連邦大統領のリヒャルト・ワイツゼッカーや同じく首相のヘルムート・シュミットをはじめとする政治家やジャーナリスト、学者、実業家、著述家などであるが、旧東ドイツ出身者が三分の一を占める。公刊された23回分の会合記録で見る限り、狭く採っても時事的なテーマがその半数を占めているのは、メンバー構成からみても当然であろうし、彼女の現代に対する危機意識の現われであろう。デーンホフは、旧水曜会では純粋に学問的会話に限り、時事は除くことを規定に謳っていることを知っていたはずである。したがって、時事問題を論じつつも、個人と社会、道徳と正義、大学の危機、などをテーマにしたり、また劇場の危機や、宗教の復興など、彼女が前言で述べたように、精神文化的主題が含まれる。こうした構成を見ると、現代社会に対して批判的なジャーナリストであると同時に、東プロイセンにおいて出自でも知性でもエリートであったデーンホフは、ベルリン水曜会はやはり一種の憧れの存在であったのかもしれない。

註。
1 この会に関しては、中澤護人・田澤仁・増田芳雄『ベルリン「水曜会」 - ヒトラー暗殺未遂事件に関与した将軍と教授』、近代文芸社新書、2002に詳しい。著者のお一人の中澤氏は、同書に登場するベック将軍(ヒトラー暗殺首謀者の一人として処刑される)の父『鉄の歴史』の著者L.ベックの研究者として知られた学者であるが、偶然の機会からお近づきを得て、同書のもとになる自家版の小冊子なども頂いていた。
2 「民族的」経済学者として華々しい立場にいたJens Jessenがなぜ反ナチになり、命まで投げ出すことになったのか、その生涯と業績がこのところの私の関心事である。
3 Marion Gräfin Dönhoff(Hrsg.), Die neue Mittwochsgesellschaft – Gesprache über Probleme von Bürger und Staat,1998.

■歴史研究の醍醐味 
敬愛大学教授 村川庸子

 昨年末、拙著『境界線上の市民権-日米戦争と日系アメリカ人』(御茶の水書房)を出版した。着想から25年で博士論文に仕上げ、更に出版までに4年を費やした、と言うと、一様に戸惑ったような反応が返ってくる。逆の立場であれば私も同様の反応をするであろうと、寧ろ微笑ましく感じたりもする。だが、本の出来栄えはともあれ、これほど歴史研究の醍醐味を味わわせてもらったことはなかったし、恐らく今後もないであろうと思われることから、その経験について少しだけ紹介しておきたいと思う。
 本研究は、日米戦争中の日系アメリカ人の強制収容政策の研究から始まった。その政策に反発し、米国への忠誠を拒否した上に市民権まで放棄した(とされてきた)5千5百名余の二世の姿を追ってきた。アメリカを裏切った、と見なされたことから、一般のアメリカ社会でも日系アメリカ人の社会でも、またその歴史の中でも、幾重にも周辺化され、不可視化されてきた人々であった。
 この研究、実は最終盤に思いがけない展開をするのだが、その点については後述するとして、この30年近い歳月は、ユングの言うシンクロニシティを地でいくような人や資料との偶然の出会いに支えられてきた。それは、例えば、ある人の経験談を読んでいる最中にその当人から突然電話がかかってくる、たまたま見つけた昔の雑誌記事を知人に見せたらそこに載っていた数枚の写真が全てその家族のものであった、30年前に出会い本研究のきっかけになった家族と最後に出会った家族の名前が戦後送還船の8千名もの乗船リスト上で並んでいるのを見つける、といった形で、繰り返し目前に立ち現れた。
 研究の最終盤の2000年の研究休暇中にワシントンDCの国立公文書館で一連の行政文書を入手した。先行研究が皆無に近く、直接的な一次史料も見つけることができなかった本研究は、それまで周辺の政策に関する資料調査や、当事者や家族、関係者などへの面接調査を中心に行っており、隔靴掻痒の感を否めなかった。何年も公文書館を訪ね続け、「ここには無い」と言われ続けていた司法省の、それも本研究に直接かかわる文書が突然引き出されてきた。他の史料の収集に追われていて「貴女が興味を持つかも知れない資料があったから、手続きをしておいたよ。忘れずに引き出しなさい」というアーキビストの声にも生返事であったような気がする。ともかくも、この史料の発見により、私はその時点で概ね書き上げていた博士論文を一から書き直すことになる。
 強制収容の歴史に関しては、これまで数多くの研究が積み重ねられてきたが、大部分が陸軍に主導された(後に戦時転住局に移管される)11万名の一世・二世に対する政策に注目し、背景となった西海岸の排日運動や陸軍の政策決定に関与した人々の人種・民族差別を厳しく批判するものであった。他方、本研究で注目した司法省は、開戦直後に陸軍の政策に先んじて国内の治安維持に危険性をもつと思われる外国人の管理・統制にあたっている。戦前から用意されたリストに従い、6千名の日本人を逮捕し、2千名を抑留したが、対象となった人数が小さかったこと、個人ベースの調査が行われたこと、戦時に危険な外国人を国家が管理することは当然だと考えられたことから従来の歴史の中では等閑視されてきた。第一次大戦時の在米ドイツ人に対する政策などに比べれば、はるかに抑制の利いた政策であったと論じる研究者も多い。開戦後、両省の間では陸軍の政策を承認するか否かについての論争が続くが、司法省の動きが従来の歴史の中で見えているのは1942年2月半ば、陸軍の政策の実施が決定される頃までである。陸軍の政策は不必要で合憲性に疑いありと主張し続けていた司法省は、最終的には圧倒的な軍部の圧力に屈しその政策を認めてしまう、という図式が描かれた。
 だが今回発掘した資料を通して、@戦前から司法省内部で戦時の敵性外国人政策が周到に準備されていたこと、Aこの準備が陸軍省などには知らされず秘密裏に進められていたこと、B当初から予防措置としての拘禁と平時にも通用する恒久的な法整備が企図されていたこと、C彼らの言う「潜在的な危険性をもつ外国人」の中に一部市民が含まれていたこと、D危険な市民を排除するために彼らから市民権を剥奪し、「外国人」に変えること、即ち、ドイツ系帰化市民の帰化取消と日系市民(当時、アジア人には帰化が認められず、日系の帰化市民はごく僅かしか存在しなかった)の生得の市民権放棄、しかもE国内における(無国籍者を生み出す可能性があり、国際法では禁止されていた)自発的市民権放棄に向けての法整備が検討されていたこと、Eその目的が1944年の国籍法改正で実現したこと、そしてF時限立法であったその法が現行の国籍法に読み込まれ、ほぼ原形のまま生き残っていることが明らかとなった。
 これまで強制収容は日系アメリカ人に特殊な経験として描かれた。戦前からの排日(排アジア人)運動の歴史と真珠湾攻撃をきっかけにそのクライマックスとして位置づけられる強制立退き、という文脈の中で語られた。人種主義を中心に展開された日本人特殊論は確かに補償要求など政治的には効果的であったが、これを過度に強調することで見過ごされるものもある。その一つが国家的危機における外国人政策の歴史の視点、ナショナリズムの視点である。アメリカでは大きな戦争に際しては常に何らかの形で外国人や市民の自由が制限され、治安維持に危険であると見なされた者の逮捕・拘留、時に国外退去が行われてきた。リンカーン大統領に始まり、第一次大戦中の司法長官パルマー、第二次大戦中の司法長官ビドル、いずれも進歩的政策で知られる人物が人身保護律の停止に踏み切った。いずれも条件とされる戒厳令は敷かれておらず、違憲の疑いもある。危機における外国人政策の文脈の中では第二次大戦中の日本人・日系アメリカ人の経験は決して特殊なものではないのである。
 従来の「歴史」とは全く異なる展開に誰よりも驚かされたのは筆者自身である。この驚きと興奮を少しでも多くの方に共有していただければ幸甚である。

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学術先端情報-学術mini情報誌「PS Journal」最新号の紹介 8

Img013_2特集: 研究者の現在ⅩⅠ地方文学研究者は今
目次
■鷗外『椋鳥通信』における西洋文化の受容と伝搬
 富山大学教授 金子幸代
■石川近代文学館徳田秋聲原稿について
 金沢学院大学教授 秋山稔 
■谷崎潤一郎と日本橋人形町
 京都大学助教 藤原学
■東京裁判と文学
 京都橘大学教授 野村幸一郎
■「小説で読む日本の問題」を求めて」
 福島大学教授 澤正宏
■朝日新聞復刻版・縮刷版広告

内容詳細はこちら→「img014.pdf」をダウンロード

「小説で読む日本の問題」を求めて
 福島大学教授 澤正宏

 
 2007年(昨年)度は専門分野の研究とはいえ、久しぶりに現代詩に関する仕事に追われるばかりの一年間であった。「コレクション・モダン都市文化 第Ⅱ期・第28巻」として編著を任され、6月に刊行した『ダダイズム』(ゆまに書房)では、世界のダダイズムの歴史の概観のなかに、やや特殊ともいえる日本のダダイズムを関連づけたり、何冊かの日本のダダイズムの書物や雑誌を紹介したが、大変だったのは日本を重視した世界のダダイズムの年表作りであった。原稿を書きながら同時進行で古書目録を漁り、注文の乱発でなんとか作成できてほっとしている。
 7月には『復刻版 ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』(全10冊、不二出版)が刊行され、別冊に「『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』と現代詩」を執筆した。幻の詩誌といわれてきたこの雑誌が復刻されるまでの経緯にはいろいろあったようだが、この刊行は専門的な立場からみても本当に画期的なもので、私もある事情から15年前にこの詩誌の全コピーを入手していたので、復刻と詩誌の解説とに参加させて頂くこととなった。この詩誌は日本に超現実主義が受容される直前での、日本語による前衛的な詩の試みを研究するには第一級の資料である。その他、9月には福島市で「中原中也生誕100年祭IN FUKUSHIMA」が催され、トークショウ「中原中也と福島~中原中也の魅力をめぐって~」に参加、あらためて中也のモダニズムという課題を意識することになった。この課題は今年の5月に昭和文学会と中原中也研究会との合同研究会で話すことになっている。また、編集委員、執筆者として参加した、今年の2月に刊行の『現代詩大事典』(三省堂)
も大きな出来事になった。私は「瀧口修造」「吉岡実」「詩と詩論」「新散文詩運動」「東北の詩史」「詩人の小説」などを担当したが、この事典の総企画・編集を担当した飛鳥勝幸氏の労は多大なものであった。
 さて、今年の3月に依頼されて、福島市で「ハンセン病の文学――戦後のハンセン病小説を読む――」という講演をした。これは、以前にこの冊子に書かせて頂いた、学生たちと新しく始めた小説演習の、私なりの一つの成果の発表でもあって、また、この3月に大学院を修了していく、ハンセン病文学を3年半にわたり研究してきた院生との共同研究の一つの成果でもある。現在、ハンセン病の文学の担い手、ないしは研究者は少ない。しかし、私の研究の姿勢は、今後、ハンセン病はなくなる病気ではあっても、日本の政府が、とりわけ近代以降に犯して来たハンセン病者に対する差別の実態の歴史は、ハンセン病の文学を通して確認され、明らかにされ、まだなお告発されなければならないというところにある。
 講演の内容(研究の一端ということにもなるが)を簡単に紹介すれば、まず第一に、戦後のハンセン病小説といっても、戦時下で隔離されていた殆どのハンセン病患者にとっては、「癩予防法」(昭和6年4月公布)が完全撤廃されない限りは、隔離に関わる様々な実態は戦時下と地続きであり、敗戦が文学に大きな影響を与えることはなかったということがあげられる。第二に、ただこの時期には、敗戦になったことでハンセン病の治療薬としてのプロミンの有効性(この発見は昭和16年3月、薬の開発成功は昭和18年11月、ともに米国で)が日本でも評価され始め(昭和22年)、無癩県運動、強制収容、断種の法制化、特別病室(重監房)事件、強制労働など、世界のハンセン病理解とは逆行していく日本の隔離政策、方針などのなかで、本格的な救済にはならなかったがプロミンの国家予算化(昭和24年4月)がなされ、患者による人権闘争運動(最初の動きは昭和22年8月頃)が拡大していく様相を呈してきたということがあげられる。
 つまり、昭和24年あたりを境に、日本のハンセン病は、それまでの第一期ともいえる歴史から第二期ともいえる歴史を迎えるのであり、小説も既述したような内容を描いているのである。第三期をどの頃におくかはまだ課題であるとしても、第二期を昭和35(1960)年まで延ばして考えた場合、この時期にハンセン病小説として新しく現れたもっとも特徴的な描写の一つは、プロミン効果や人権闘争の描写の他に、隔離された生活のなかでの抑圧された性の描写ということであった。
ハンセン病文学の研究においては資料不足ということがあげられる。現在、ハンセン病療養所で発行された雑誌の収集や整理、保存がすすめられていると聞くが、この研究においては何をおいても
まず、このことをやらなければならない。いや、文学以前に、もう既にいろいろなところでなされているのだが、ハンセン病患者の歴史の実態を文字や映像や口承によって明らかにすることが大切である。私にとってのハンセン病文学は、「小説で読む日本の問題」の大きな一つである。


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学術先端情報-学術mini情報誌「PS Journal」最新号の紹介 7

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2007年第11号 特集:研究者の現在Ⅹ 人文・社会科学の、パースペクティブ 3

■中国経済はなぜ成長したか
桃山学院大学教授 厳善平
■戦後の郊外住宅都市における小売商業の展開と「お買い物バス」の運行
神戸学院大学教授 廣田誠
■「地域に根ざす」経営史研究者としての一あり方
長岡大学准教授 松本和明
■史料の保存や公開、あるいは戦争の労苦継承や慰籍事業に関する雑感
東京女子大学教授 黒沢文貴
■移民関係書誌から考えること
国立国会図書館新聞課長 神繁司
■ドイツの逆襲-データに基づく教育計画
玉川大学准教授 坂野慎二
■「オカルト」の現在
横浜国立大学教授 一柳廣孝

中国経済はなぜ成長したか
桃山学院大学 厳 善平

  ここ30年近くの中国では、年平均9%以上の経済成長が遂げられた。1人当たり総生産で見るなら、中国は日本の約20分の1と依然発展途上国のままである。しかし、国を基本単位として国際比較すれば、中国の国内総生産は米国、日本、ドイツに次ぐ世界第4位(05年)、輸出入総額は日本を抜いて世界第3位(04年)、そして、外貨準備高は世界1位(06年)と、多くの経済指標が世界のトップクラスに躍り出ている。世界一の人口を抱える途上国でありながら、比較的短い期間でこれだけの実績を挙げたのは経済史上前例のないことである。その意味で、中国の経済発展は概ね成功したといことができよう。
  中国の経済成長をどのように見るべきか。ここでは、日本などの経済発展の経験を参考に、または経済学の考え方を援用しながら、中国経済の成長要因を検討してみる。
  成長会計法は要素還元論の考えに基づいた経済分析の手法として広く知られる。この分析法では、経済成長をもたらす基本要素として資本、労働と土地があり、この三要素の投入増大に還元できない残差を総要素生産性(Total Factor Productivity、TFP)と呼ぶ。このTFPの中身は資本に体化された技術や労働者が学校教育で習得した知識(人的資本)等を含むものであり、定量的にそれを分解することは難しいが、非常に有用な分析概念である。
成長会計法に即して中国経済の成長要因を説明するなら、三つの側面からアプローチすることができる。①物的投資の拡大、②労働投入の増加、③総要素生産性の向上。
物的投資は企業の固定資本投資、社会インフラ整備などと多岐にわたるが、投資の原資は国内の貯蓄と外国から調達される。改革開放以降の中国ではきわめて高い国内貯蓄率、中でも家計貯蓄率(05年に3割近く)が見られた。主要な理由として、①高成長に伴う収入増、②1人っ子政策で出生率が低下し14歳未満人口の割合が低く養育費や教育費が少ないこと、③65歳以上の高齢者比率が低く介護、医療にかかる費用が少ないこと、社会保障制度の未確立で老後のための貯蓄が多いことが挙げられる。他方、外資とくに外国の民間企業による直接投資(FDI)が急増し、設備投資等の資金調達が潤沢にできた。投資増→雇用増→収入増→貯蓄増→投資増という循環構造が形成されている。
  労働投入の増大も経済成長に寄与した。新中国成立後のベビーブーム、1970年代以降の人口抑制政策の施行によって、中国は改革開放とほぼ同じ時期に莫大な人口ボーナス(出生率の低下に伴う生産年齢人口割合の上昇が経済成長を促進すること)を享受してきた。15歳~64歳の生産年齢人口が急増したため、豊富で安い労働力が供給され続けただけでなく、社会全体としても所得が消費を上回り、蓄積の多い状況が形成されている。
  総要素生産性の向上も高度成長に大きく貢献した。ここでは、それを技術進歩と人的資本の蓄積に分けて考えよう。①対中投資の外資企業が急増し、多くの優れた技術が資本と共に導入されている。②中国科学院、大学を中心に政府主導下の研究開発が進められた。産学連携も早い段階から実施されている。後発国がゆえに、中国は先進国で開発された多くの技術を短い時間、少ない費用で吸収、消化している。③人的資本の形成でも驚嘆に値するものがある。小中高学校の普及促進、大学教育とりわけ理系重視の学科設置、カリキュラム編成によって多くの産業労働者、技術者が養成されている。④国費留学生を計画的に派遣したことで中国と世界との距離が縮められた。生産年齢人口の増加と共に彼らのもつ人的資本の蓄積があってこそ、世界工場としての中国が成り立ったのであろう。
  諸要素が結合し経済の成長に結びついたのは、経済発展の初期条件、政府の能力、そしてより大きな国際環境とも深く関係する。①毛沢東時代の重工業化戦略が改革開放時代の市場化改革の土台を築き上げたことは否定できない事実である。②社会秩序を維持し、教育・研究開発等を推進するために政府の統治能力が問われる。共産党による専制の政治体制ではあるが、任期制の導入、集団指導体制の確立、意思決定プロセスの科学化など絶えずに進化し続ける共産党政権の中身を見逃しては本質が把握できなくなる。安定―改革―発展という三角形の関係を最も熟知しているのは中国の為政者である。③ここ30年間、中国の周辺で大きな紛争はなかった。中国は世界平和の最大の受益者である。
  中国経済はどこまで成長できるか。長期的に経済成長を制約する要素として、人口、食糧、環境、資源が考えられるが、中国では人口増加およびそれに伴う食糧の需要拡大は大きな問題にならない見通しだ。環境問題についても技術進歩や経済的手段でもってある程度解決できるとされている。石油などの需要増については、利用効率の改善で対応できる部分は多く、技術進歩による代用エネルギーの開発も不可能ではないと言われている。
  以上は経済発展の光ばかりだが、陰がないわけではない。深刻化しつつある環境破壊、都市と農村の巨大な格差、腐敗の蔓延、等など。これらすべては中国の中でも認識され議論されている。ただし、発展なくして解決の望めないものも多く含まれている。
  強大な中国の出現は日本にとってもチャンスだと近年認識されつつあるが、気持ちはより複雑だろう。置いて行かれるのではないかと。ところが、国民1人当たりの所得水準は両国間に巨大な格差が存在する。日本はもっと自信をもって成長する中国と付き合ってよい。これからは「戦略的互恵関係」の構築に向かって共に努力していくべき時代である。
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学術先端情報-学術mini情報誌「PS Journal」最新号の紹介 6

学術先端情報-学術mini情報誌「PS Journal」第10号Img142_1
特集: 研究者の現在Ⅸ 人文・社会科学の、パースペクティヴ 2

RG131接収商社資料と空襲ターゲット選定
                         九州大学教授 三輪宗弘

米国国立公文書館Ⅱに所蔵されているRG131(接収文書)は大きく分けて3つの資料群から成り立っている。
①日本(商社と銀行)、ドイツ、イタリア企業の在米支店の接収文書
②司法省戦時経済局(Department of the Justice, Economic Warfare Section)の調査資料(日独伊企業、日独伊と取引・資本関係のあった米国企業、日独伊占領地域の経済調査)
③第一次世界大戦時接収資料(主にドイツ)
 
RG131の司法省戦時経済局調査関係資料のRecords of the Japanese Research Project(entry 341)の24箱に手書きの草案や英訳を行うだけの価値があるとされた資料が残されている。司法省戦時経済局は、押収した日本の商社のニューヨーク支店(三井物産、三菱商事、大倉商事、浅野物産、安宅産業)の資料を徹底的に分析し、日本の企業がどのような機械・装置を購入したのか、機械を据付けた工場の所在地はどこなのか、一点一点調べ上げた。機械や石油に特化していた大倉商事、浅野物産は資料がなくなるほど調べ上げられたようである。大倉と浅野の資料は戦時経済局の作成した調査レポートによって在米支店の活動および日米取引の実態を把握するしかないのが現状であるが、かなり研究がすすみそうである。
日本の基幹産業・軍需工場の設備が丸裸であり、日本への戦略爆撃ターゲット選定に有用なレポートになったであろう。例えば航空機燃料を精製する石油プラント関係の機械(購入先、商社、納入先)に関しては、航空機ガソリンや四エチル鉛の製造企業約50社の機械・装置の導入や契約内容などに関しては以下の手書きのレポートが残されている。
①H. Glicks, Draft of Petroleum Report
②Fred S. Auty, ,Report on Synthetic Oil and Gasoline Industry Japan (1943年8月8日作成)
陸軍造兵廠・海軍工廠(横須賀、呉、舞鶴、航空本部、艦政本部など)はじめ日立金属、中島飛行機などの個別企業ごとに、機械の購入元(メーカー)、販売商社名の詳細な調査記録が残っている。商社別の調査記録もある。例えば浅野物産、大倉商事、三井物産、三菱商事の資料から人造石油(フィッシャー法、オイルシェール)に関する情報を収集したり、交通網を破壊する資料として鉄橋や港湾、高速道路などの情報収集するなど手抜かりはなかった。機械据付に派遣された米国企業の技師のインタビューや日本に滞在した宣教師からの事情を聴取して作成されたレポートもある。
爆撃目標に選定された日本企業は九冊からなる“Air target intelligence, Japanese War : target analysis by areas”が米国議会図書館のGeography & Map Reading Roomに所蔵されている。Indexも一冊あり、日本本土だけでなく、満州、朝鮮、台湾、インドシナ、中国なども幅広く目配りされており、ターゲットとすべき目標(企業、鉄橋)が網羅されている。幸いにも米国戦略爆撃調査団のマイクロフィルムに収められており、国立国会図書館憲政資料室で閲覧できる。「接収された商社資料が日本爆撃にどのように利用されたのか、米国が日本の戦争遂行能力を低下させるためにどの企業を爆撃するする必要があると考えていたのか」という問題を跡付けることで、接収された商社資料は斬新な視点・切り口を日本経済史研究や軍事史研究に照射(しょうしゃ)しそうである。
米国国立公文書館Ⅱで、司法省(Department of the Justice)の資料を探したところRG60のCentral Correspondenceの中にEntry 230: Records of the Economic Warfare Section関連資料があり、戦時中の日本の戦争遂行能力に関する包括的な研究が行なわれ、プラスティック、軽金属、人造石油、化学産業、セメントなどの報告書が収められている。戦争末期になると、ドイツ、日本の賠償能力に関する。レポートも作成されたようである。作成されたレポートは左記に配付された。
①BEW(British Economic Warfare)
②OSS (Office of Strategic Service)
③MIS(Military Intelligence Service)
④A-2―Far East Section(後のG-2)

さて、米国戦略爆撃調査団(The United State Strategic Bombing Survey)報告書マイクロフィルムが国立国会図書館憲政資料室で閲覧可能であるが、その中に、戦時中の司法省戦時経済局が作成したレポートが収められている。Entry 46: Security-Classified Intelligence Library,1932-1947の中のSection 6: Japanese Intelligence Libraryの中に戦時経済局が作成した200ものレポートがマイクロフィルムに所収されている。RG165( Entry 79 : P. File)およびRG60に点在する戦時経済局のレポートも寄せ集め、接収された商社資料分析から、どのような知見が得られるのか、現在調査中である。

全内容はこちら「img143.pdf」をダウンロード

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学術先端情報ー学術mini情報誌『PS JOURNAL』の紹介 5 特別号    

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学術先端情報誌『PS JOUFRNAL』の最新号(2006年11月30日刊 無料)は、特別号で特集は異文化の位相 。

2006 Special issue
Focus: Cross-cultural aspect

■Drago Unuk: "A Linguist came from a small country, Slovenia."

Drago Unuk, docent for Slovene literary language at the Faculty of Education in Maribor, Slovenia, recipient of the JSPS (Japan Society for the Promotion of Science) Postdoctoral Fellowship for Foreign Researches to conduct linguistics research in Japan for a period of 12 months, under the leadership of Professor Keiko Mitani (Faculty of Integrated Human Studies, Graduate School of Human and Environmental Studies - Kyoto University).
I was a lot younger, when I sort of began to see that things are not as we see them and not nearly as they appear to be … How much different could Japan and the Japanese be, while observing those entities with the eyes of a foreigner, who hails from a small, a pocket European country so to speak, which does not count more than 2 million inhabitants, measures a good 20000 square kilometres, gained its independence some 15 years ago and up to this date remains quite an enigma in the European and virtually unknown in the consciousness of the worldly mind ?
As I had to decide where to conduct my studies, I thought about the USA at first, but after carefully thinking through the corpus of possibilities and expectations, changed my sights to Japan and came to a final decision within mere moments; the decisive arguments being Japan's role as the leading research and developmental power of the world. Although to a sensitive and resourceful mind, all arrows pointed to “Yes”, the surroundings I hail from understood my choice as a highly unusual one. It surely raised a lot of interest and, as for myself, represented a significant change in life. Our culture is full of stereotypical notions about Japan: it is regarded as a country based on futuristic development and ancient tradition, decent efficiency on one side and adaptability to the leading economic and other significant demands of the western world. The current image of Japan perceived by where I come from is a mosaic of incorporated information about traditional architecture, geishas and haiku poetry. It's basically the picture an average European gets through watching TV, surfing the Internet; summa summarum, broadening his or her mind.
Conscious of not wanting to rely on such a thwarted image, I gained some crucial practical information from a guidebook, willing to get acquainted to where I landed on the spot. Well, one year is quite a substantial amount of time to gain insight and process as much information about the surroundings you ought to become one with.
I caught the first glimpse of what I was to expect, as I, despite being awake all through the flight, admired the sun rise over Japan and while taking a closer look, ran my eye over the shape of Japan's coast, the ships and Kansai Airport, which was getting oh so close. As a new day dawned, I smilingly thought to myself: “Well, some romantic ideas about the country I am about to live in for a while do seem to be true.”
Japan may be far away, but is it really so different and obstinate as our culture is made to believe? The formalities at the airport let had let me know what I should encounter a lot during the following days, namely the exceptional friendliness, consistency and efficiency of the Japanese.
I left Slovenia in mid-winter conditions with 5 inches of snow covering the landscape, that's why I got to sweat a lot because I arrived dressed up perfectly for winter conditions (and I was advised to do so in the handbook) and was greeted by autumn temperatures. “This mild climate is really appealing,” are the words that cross my mind while I admire the surroundings through the train window.
My newfound residence is the Kyoto International Student House, Sakyo-ku, and with regards to my previous travel experience through Europe, I have to admit that students do not encounter very much luxury at all. The apartment interiors are old and worn out and there is no sign of technological wonders; “they have a computer room and one ADSL line for guests”, but what raises my hopes are ideal research conditions my host faculty has to offer.
Wintertime falls over us during the next days, but there is no central heating, or at least not the kind we are used to in Slovenia. The heating system does not work, yet I receive the friendly assistance of an electrical heater and an extra blanket, which are not much of a help since it is windy and cold to the bone outside. Where is the mild climate now?!
As one takes a walk through the streets, one can see so much: things are so near and there are a whole lot of them but there are also certain small matters that catch the eye. It is always best to look at trees and not see the forest, then the other way around, that is, strolling around Kyoto and getting acquainted with it step by step, while at the same time grasping the image of where I actually am.
The buildings. Of course, they are most frequent things I see – some of them are old, traditional, remains of the past woven into the city; the others are contemporary constructions, also divided into two groups, the first being low, private houses and the other encompassing higher multi-story buildings (on a side-note; there do not seem to be any mind-bogglingly high skyscrapers in Kyoto), which as it appears to me point out an interesting interaction between low and high buildings, giving the city quite a lively appearance. The promenades are as wide as they are in Europe and the back streets branch into many smaller ones, where there are mostly private houses. What is more, many buildings appear box-shaped; the advantage being on the side of functionality.
There is a magnificent forest that spreads on the outskirts of the city. I am very much surprised by the leafiness of the trees at autumn’s end and even more by their splendid colors, spreading from sunshine-yellow to Bordeaux-red. Since I still am a bit cautious, my main interest lies in exploring the nearest surroundings. I am glad to be living near the outskirts of the city, amidst private houses, which seem to be sort of connected, and the alleys spread around homeliness; there is lots and lots of greenness, blooming pot plants and small backyards. Very much like home!
When there is sunshine, it is especially pleasant to investigate what more there is around me –
an amazing number of shops (flower shops, dry cleaners and launderettes, small restaurants, fish markets, stationers' and jewelers’ shops). It appears that many of Kyoto's inhabitants are self-employed and services are the main source of income. Such a neighborhood is a quite rounded up and an apparently self-sufficient unit, since you have everything at reach – from schools to the pharmacist's. I am curious how one can earn enough in such a secluded unit, how profitable are the shops, respectively.
There seems to be one of the prevailing food shops every half mile (24/7 shops), so there are fewer department stores than one comes across in my hometown. I have also not yet encountered a mob on a shopping spree. As probably every foreigner, I miss the morning paper and the European tobacco shops; there are just vendors and drink dispensers and if one is persistent enough, one can find a specialized cigarette shop carrying smoking utensils. Luckily, I came across The Japan Times in English, satisfying, as I do not watch TV.
It has to be pointed out, that Japanese are very good neighbors. It is always a privilege to find how eager they are to help, how free they are to give any kind of information, although many cannot speak English and I cannot speak Japanese. Europeans find the Japanese very strict and earnest people. When they do not smile, they appear to us, as if they were angry – but that is just a picture living in the minds of the European population. I must emphasize that I have never ever before met such friendly people, and they are not only friendly to strange foreigners such as I may be, but to each other as well. Their encounters appear to me as rituals of politeness. One does not have to master the language to see that there are special and unique forms of conversation going on. Despite being foreign, I have not yet had the feeling of being redundant in any place, everyone I have met up to this point made me feel welcome.
Another aspect of the culture I landed in is cleanliness. Nowhere in Europe have I ever seen such pedantry when it comes to “keeping one’s threshold clean”. There is a sense in the air that keeping the streets, the homes, the whole environment clean is a leading aspect of everyday life. It reflects how one respects oneself and others.
And then there is the traffic, an overwhelming and important thing for a foreigner, because it has its specifics. As I got a cab soon after landing, I needed a couple of minutes to adjust to the new regime. The driver was sitting on my right but after another couple of minutes of fighting off the jet lag, the penny dropped: it is the same traffic regime as in Britain. Well, a normal thing, after you are finally fully aware of the differences. But until one reaches this point, some small encounters, such as crossing the road, waiting for the bus on the wrong side, etc., precede the “assimilation”. Fortunately, I am not driving a car here yet.
The basic regime (signs, lights) is the same as in Slovenia. The promenades appear the same as in all big cities. They seem equally long and wide, and the buildings on either side look very much alike. There is another slight problem though – language; signs are mostly in Japanese writing and because there are so many, one easily overlooks the fact that the names of roads and streets are also written in Latin letters. The countless signs do not appear as advertisements to me. They basically do not affect nor address me since I am illiterate when it comes to kanji, hiragana or katakana, yet I find the manner of writing very esthetic and appealing.
I am delighted about the pavements, which on main streets are fully paved, and to my amazement even the roads are smooth and well-surfaced. There are no crowds or traffic jams, no stress and no rage. I have this strange feeling that there is a lot less traffic than in my hometown, which counts no more than 100,000 inhabitants. How is this possible?
I must admit I was expecting to see many vehicles of indigenous production. Here and there we see a Peugeot, maybe a Mercedes, but that is about it. I have fancied Japanese cars for some time now, and I am glad to have the opportunity to get a close look. I was a bit surprised though, to see so many new and well cared for vehicles. It may not be more than five years ago when faculty colleagues and I admired a small Japanese one-seater, parked in front of the main building. The car stunned everyone with its shape and functionality, something we were not accustomed to. “But there are a lot of them here”, I say to myself as I pass by smilingly. Three or four manufacturers appear to prevail. It looks like Mazdas are expensive even here.
I find the palette of colors very unusual: black, white, gray and every other in between. No bright choice, if somebody should ask me. I am almost shocked to think that Mazda surprised the European market with very lively colors and daring combinations. After all I have seen up to now, I am not at all surprised to see no bumped or otherwise damaged cars, something, that is a frequent and not at all pleasant experience in my hometown, especially, when one goes to the supermarket. The Japanese impress me as patient, cultured and polite drivers.
I was furthermore expecting to see numerous motorbikes, scooters and vespas, mostly because I have grown fond of the image of fast and strong Japanese bikes. Another revelation was that there are not that many of them around here. Some of them are, if I may express myself in such a manner, old. The first, not very pleasant impression I got, involved a couple of bicycle-riders. A bike seems to be the most appropriate means of transportation for many students I met here on campus. Although his or her style of driving may appear aggressive, no one seems to get hurt or violated in any way. You may get a bit of a scare, though.
The bus is also a practical means of transportation. It is reliable, cheap and practical. Although I detect many who express displeasure about its unpunctuality, I personally like to use it, first and foremost, to look around. I finally got fond of it, after I figured out how to pay for the ticket. A foreigner always thinks of novelties as something peculiar, but when the adaptation is complete, he or she accepts them the way the natives do. At least I hope so.
It is often said that too much good is not good at all. To be more precise – I have to write about something that I rather would not have experienced. Sadly.
A couple of days ago, I stood at a pedestrian crossing, waiting for the traffic light to change. A man and his young son stood near by and the boy just could not take his eyes off my face. When his father became aware of that, he pulled him aside and began explaining something very intensively. A child of his age normally finds strange and foreign things and people quite interesting, and he kept staring at me, while his father was telling him I do not know what kinds of things and giving him who knows what crucial advice and facts about the presence of foreigners. This is what I presume, after seeing the father holding his son's arm very tightly, while I at the same time found the situation getting more and more embarrassing for me. Well, a bad experience.
There is also a commentary or an article in the daily newspaper about homicides of children, the last one just occurring in Kyoto. As I already knew and had experienced in the past weeks, Japanese families tend to take special care of their children, and also it is understandable that the statistics of violent deaths of children, which have recently risen up to 30 per year, arouse much worry. I hail from a country where there is a yearly average of 30 children dying in traffic accidents (we are a nation of just under 2 million inhabitants), but at the same time we have the lowest birth rate in Europe. I thoroughly read all the news about that topic.
Experts in different fields are in constant search for explanations and solutions. The matter is serious and difficult to explain. Children are dependent and the weakest members or links of our society. The more traditional a society is, the more it focuses on caring for its frail offspring. Contemporary societies also frequently generate paradoxical phenomena, such as: sexual and other kinds of violence against children, encompassing horrid murders, torture of children and elder people, etc. These homicides are arousing extra concern, while sadly becoming more frequent. As I can obtain from articles about trials, the culprits are mainly adult males, and only one stands out among them – a deranged foreigner, giving rise to (by fault of TV correspondence, as it says in newspapers) an absurd campaign against foreigners , who are all branded possible perpetrators. The fact is, that all of those criminals are mentally and differently unstable, and thus a certain question forces itself into the open: what is the reason for this horridness and what can be done to prevent and ultimately stop it?

I started the topic of children by acknowledging that they are helpless when compared to adults. What will follow, as thoughts of someone who is merely an observer on the side, may not please the reader. Japan is known worldwide for its craze for comic – read not only by young people but adult men as well, and almost anywhere: in restaurants, shops, bookstores … Among these comics is a special kind, emphasizing female characters, who are very childlike in appearance, and those comics feature sexual content. The male characters are portrayed performing different kinds of sexual acts on the female ones, the latter mostly being subordinate and exploited, while violence appears to be the background. What is more, the female characters look like children in every way (the exception being sexual attributes, which can be seen in front of or in a bookstore, where there is a special compartment with such comics, whose content is initially visible on the covers). But let us leave aside the fact that the circle of “readers” is rather limited and that the comics are taped together, so they can be purchased exclusively by adults and one can understand that they are some sort of means of living out sexual frustrations.
Something like that would not be possible in Europe, where communities are keen to protect children against sexual and other kind of violence, and at the same time a hunt is taking place against pedophiles. The notions sex, violence and children do not have a common denominator.
It is important in Japanese comics that the portrayed characters have the appearance of children who are being sexually and mentally traumatized, and the message of all of that is: they cannot defend themselves. There are sick deviants lurking in every community devoted to and a long special chapter could be spent when describing how they interpret the background message of such comics.
Even the “Cartoons” section in The Japan Times makes one think, with features showing how “most guys perceive Japanese women”, or how “we are all schoolgirls, animé princesses and demure geishas…”
Since I am a foreigner, I am doing just that, while observing what is usually looked at, but not seen.
(to be continued)

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超人のジャーナリスト・アイ  38 PR雑誌『PS JOURNAL』コンテンツ詳細を紹介 

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 筆者はこのコラムで学術先端ミニ情報誌『PS JOURNAL』を紹介してきましたが、目次程度の紹介でした。一応創刊号から最新号の第9号まで揃っておりますので、PDF形式で取り込んでみました。。パンフレット程度の小さな雑誌ですが、コンテンツはなかなか刺激的です。ぜひ一度ご一読をお薦めします。【写真右:PS JOURNAL第7号より 加藤邦彦梅光学院大学講師の「中原中也、新聞を読む」全文】
『PS JOURNAL』バックナンバ-①(創刊号~第4号)を読むはこちら
『PS JOURNAL』バックナンバ-②(第4号~第9号)を読むはこちら


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学術先端情報ー学術mini情報誌『PS JOURNAL 』の紹介 4

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2006年第9号 特集:研究者の現在Ⅷ 人文・社会科学の、パースペクティブ

■王政復古政府と身分問題             京都大学名誉教授     佐々木 克
■最初の現地調査ー「掃苔録」第1冊からー    仏教大学教授     原田 敬一
■総合科学と歴史学                広島大学助教授     布川 弘
■宮沢賢治の造語「イーハトヴ」について      福島大学教授      九頭見和夫
■作品の力がものを言うー中国における谷川俊太郎ー
                         東京大学外国人研究員     田 原
■「自立」途上にある韓国の植民地期経済史研究
                              江陵大学講師    呂寅満
■資本市場研究について               東京大学教授    伊藤 正直

宮沢賢治の造語「イーハトヴ」について

 九頭見和夫 (福島大学教授/比較文学)

 賢治文学解明の重要なポイントの一つに、豊かな教養から生み出された賢治独特の造語がある。中でも特に重視しなければならないのは地名「イーハトヴ」であろう。
 この「イーハトヴ」の表記については、賢治自身の中で揺れ動いたのか一定せず、最も早く登場する詩「イーハトブの氷霧」(1923年11月頃)から始まって全部で7種類存在する。(1)「イーハトブ」(前述の詩の他に、童話「毒蛾」)、(2)「イーハトヴ」(童話「氷河鼠の毛皮」、童話「ポランの広場」、童話「注文の多い料理店」の表紙)、(3)「イーハトーボ」(童話「イーハトーボ農学校」)、(4)「イエハトブ」(「注文の多い料理店」の広告葉書)、(5)「イーハトーヴ」(詩「遠足統率」、童話「グスコンブドリの伝記」)、(6)「イーハトーヴォ」(童話「ポラーノの広場」)、(7)「イーハトーブ」(詩「さあれ十月イーハトーブは」、童話「グスコーブドリの伝記」)。まずこの造語の意味・内容についてであるが、賢治自身が「注文の多い料理店」の広告の中で解説している。
 イーハトヴは一つの地名である。強て、その地点を求めるならばそれは、大小クラウスたちの耕してゐた、野原や、少女アリスが辿つた鏡の国と同じ世界の中、テパンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考へられる。実にこれは著者の心象中に、この様な状景をもつて実在したドリームランドとしての日本岩手県である。そこではあらゆる事が可能である。人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し大循環の風を従へて北に旅する事もあれば、赤い花杯の下を行く蟻と語ることもできる。
しかしこの「イーハトヴ」の具体的な場所となると、賢治が愛読したアンデルセンの童話「小クラウスと大クラウス」やルイス・キャロルの童話『不思議の国のアリスの冒険』の人物が登場したりして、「ドリームランドとしての岩手県」、すなわち実在の、賢治が生活していた大正・昭和初期の岩手県そのものではないということがわかる程度で、地球上の、それも賢治の愛読する童話に登場する人物が活躍する場所であればどこでも可能と思われるほど漠然としていてつかまえどころがない。
 つぎに「イーハトヴ」の語源についてであるが、賢治の広範囲にわたる外国語能力とも微妙に関係することから、説得力のある学説は存在していない。強いてあげれば恩田逸夫の説である。
  これらの造語は<イハト、イーハト、イーハトー>など、長音の有無の別はあるが、基本的には「イハト」で、「いはて(岩手)」に由来すると推定される。・・・つまり、「岩手」の歴史的仮名づかい、「いはて」に基づいて<いはてihate>のteを、エスペラントの名詞の語尾づくりのように母音Oで終わる語としてとしたのであろう。そして岩手県の「県」に当たるところは、ドイツ語で「場所」を意味するをつけて、イハトヴォ(=岩手というところ=岩手県)>と造語したのであろう。「ヴ・ブ・ボ」を「ヴォ」と同じに用いていることは、いうまでもない。)
賢治は、堀尾青史作成の「年譜」によれば、1922年の1月にドイツ語とエスペラント語の独習を始めている。また弟清六による賢治の蔵書目録にもドイツ語やエスペラント語の本が掲載されている。恩田の指摘のように、「イーハトヴ」がエスペラント語と関係のある造語であることは、以下に述べるエスペラント語の特徴を考慮すればほぼまちがいないと思われる。
 まず第一に、「岩手」を「イハト」と表記した点については、エスペラント語の文字もローマ字であるが、エスペラント語のアルファベットにはの文字が存在しないためではなくてと表記し、ついでエスペラント語の品詞は語尾で決定されるので名詞の語尾Oをつけてとなったと推測される。なおのままだと副詞である。おそらくはこのに意味から判断すると、のいずれかのエスペラント語の名詞が付加されたものと推測され、発音も加味するとが有力である。以上のことを整理すると、となり、これを複合名詞にすると、例えばを複合名詞にするとと前の名詞の語尾Oが省略されるので、は、「コブリ」と発音しても「コーブリ」と発音しても意味は全く変わらない。第三は、語尾が「ヴ」と「ヴォ」、「ブ」と「ボ」とOが語尾につく場合(vo,bo)とつかない場合(v,b)とが存在することであるが、このことは、名詞をあらわす語尾Oがなくてもエスペラント語の場合品詞はわからないが単語の意味は推測できるので、賢治はおそらくその時々の語感に基づいてOを付加したり省略したのであろう。
 ここで「イーハトヴ」とほぼ同じ頃に作られた造語、童話「やまなし」に登場する「クラムボン」について触れてみたい。結論を記すと、この造語の語源は英語で、を付加して作ったではないか。具体的には、谷川にすむサワガニの生態と童話の内容から判断して、おそらくは母ガニが孵化し腹部に抱いていたカニの幼生(生まれたばかりの兄弟ガニ)と思われる。
 以上のように賢治の使用する造語は奥が深い。一つ一つの言葉を大切にする賢治の姿勢が、「イーハトヴ」の表記を7度も変えさせたのであろう。


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超人のジャーナリスト・アイ 31 新聞・雑誌拾い読み PR誌最新号を読む

 首都圏、関西の書店で出版社のPR誌をもらい、まとめて拾い読みをしてみた。驚いたことに新潮社の『波』、筑摩書房の『ちくま』がページを増やして96ページ。これは老舗の岩波書店の『図書』と同じページ数だ。続いて講談社の『本』が80ページ、未来社の『未来』が48ページそれに定期購読している丸善の『學鐙』が64ページ。手元にあるこれら6社のPR誌の合計ページ数は、480ページで新書版2冊分の分量である。それだけ出版各社は小さくとも内容の濃いそれでいて充分宣伝効果のあるPR誌に力を入れている証左かもしれない。
そのなかで面白く読んだ記事をピックアップしてみる。『図書』の冒頭の大岡信、岡野弘彦、丸谷才一の《座談会》歌仙 海月の巻、四方田犬彦の「万葉集」や河島英昭訳「新訳ダンテ神曲」、吉村昭、鶴見俊輔のものもいいが、英文学者の清水一嘉が書いた「酒飲みの国、イギリス」が目に留まった。゜イギリス人は外国人のあいだで不断に酒を飲む国民として知られている。かれらは病気になるまで飲む習慣がある"と書き、何とこれはNorman Conquest(1066年)以前の話だから驚く。 パブの隆盛・衰退とコーヒー・ハウスの増加の相関関係など歴史を紐解きながらイギリスの節酒・禁酒運動とコーヒー・ハウス運動が無駄であったとは言い切れないと説き、現在のイギリスの酒飲み事情も盛られいて面白い。この英文学者は9時過ぎには寝てしまうらしいが、バッカスの味はその本領を発揮するのは9時過ぎてかもしれない。あぁー、mottainaiかも。
 木田元の「反哲学入門」新連載(『波』)が始まった。第一回第一章は哲学は西欧人だけの思考法である との刺激的なタイトルである。そのなかでガンで亡くなった作家の日野啓三に言及しているところに惹かれた。死をどう考えるかという問題で、サルトル、ハイデガー、メルロ=ポンテの考え方特にサルトルの死はわたしのすべての可能性を無にし、わたしの人生からすべての意味を除き去る、まったく不条理な偶発事に自分の考え方は近いとし、哲学的な知は宗教的な悟りとは違うと言った後に、曰く、日野啓三さんの晩年の作品を読んでいると、生と死の瀬戸際を生きるという状態がありえる、と思わされますね。日野さんのばあいは、悟りの境地のようなものではなくて、普通の人とはちょっと別の感受性を持っているということではないでしょうか。死に直面したぎりぎりの状態で、醒めた意識で生死の問題を考えることができる感受性。わたしは、常識的な人間です。生死の境に直面したら、何か書こうなんて気はおこりそうにありません、と。また、哲学とは「ありとあらゆるもの(あるとされるあらゆるもの、存在するものの全体)が何であり、どういうあり方しているのか」ということについてのある特定の考え方、切り縮めて言えば「ある」ということがどういうことかについての特定の考え方だと言っている。さて、どの程度理解して読んでいるか自問せざるを得ないとは筆者の呟き。哲学者・木田元はハイデガー他の哲学書の読書会をずっと続けているらしくその訳がどこかの出版社からでたはず。元NHKアメリカ特派員の手嶋龍一と元外務省職員の佐藤優のニュースソースの秘匿や守秘義務など様々な制約がある情報=インテリジェンスについての対談も面白い。
 ドキュメンタリー作家・映画監督の森達也の「勝手にシンドバット」(『本』)は、大学四年の就職時期にフラッシュバックし、その当時流行ったフォークソングと重ね合わせ青春の不安定な心模様を描いて筆者も思わず頷けたりして可笑しかった。その後この同級生はレコード会社に就職、学生バンドのライバルだったサザンオールスターズを売り出すことになったとそのデビュー秘話を面白く書いている。学生時代には髪を切る切らない話はあったし、この森達也氏と同様結局のところは皆、死ぬまで、モラトリアムにいるのかもしれないには筆者も同感だ。
さて、最後は現代フランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシーの小特集を組んでいる雑誌『未来』だ。「神の死」の再考、「キリスト教の脱構築」の試みなどで有名な哲学者はこの春来日し日仏会館、東大駒場、早稲田大学それに立命館大学で精力的に講演・討論を行ったとはこの小特集の報告者西山達也氏の記事。ダ・ヴィンチ・コードは今や流行語、その謎は深まるばかりだが、マグダラのマリアなど読み解く『私に触れるな-ノリ・メ・タンゲレ』などの著書を持つ哲学者だ。この哲学者を読み込むのは大変かなー。ところで、雑誌『未来』と言えば、親子二代でコラムを書き続けている社主の出版事情エッセー「未来の窓」だ。今回の"ふたたび人文書ジャンル見直しという課題をめぐって"のタイトルで111回目。時に切り口の鋭い提案もあれば時に愚痴にも思えてトーンダウンすることもあるが、エネルギッシュで意気軒昂である。手に入れたときははいつも、筆者はまずこのコラムから読む。そしてちょっと考えさせてくれるのだ。このなかでこのコラムの西谷能英氏が言及している紀伊國屋書店本店の人文書担当者の「じんぶんや」の試みが面白い。著者や編集者という言わば本読みのプロにあるテーマで20~30点ほどの本をコメント付きで推薦してもらい、さらにそのテーマに沿ったエッセーを寄稿してもらったものを小冊子にして店頭配布している。各ジャンルの基本書や、埋もれつつある良書を掘り起こし、スポットをあてることができ、また、回を重ねることによって、それらを各トピックの基本書や良書のデータベースを作ることができ、社員教育に繋がる(基幹棚にうまく反映させる)ことを指摘している。西谷氏も指摘しているようにこの人文書の試みをぜひ継続してもらいたいと思うのだ。何と言っても書店にとっては棚が生命なのだから。点、線、面と逞しく想像力を働かせよと言いたいな。結果はあとでついて来るのだから。

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学術先端情報ー学術mini情報誌『PS Journal』の紹介 3

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2006年 第8号 女性学研究最前線

【目次】
■中国女性学の最新動向 中華女子学院大学客員教授 大浜 慶子
■ジェンダー統計に関する研究 日本女子大学助教授   天野 晴子 
■ジェンダー研究とセクシュアリティ研究の交差      女子栄養大学専任講師       田代美代子
■NPOと女性の学習         市原看護学校非常勤講師      山澤 和子
■学校女性管理職の研究      日本女子大学助手          高野 良子
■「家庭教育」の歴史研究について 彰栄保育福祉専門学校専任講師  藤枝 充子
■戦後(1970年代まで)の女子教育研究をめぐって
                      日本女子大学教授          真橋美智子
NPOと女性の学習          
山澤和子(日本女子大学大学院生・市原看護学校非常勤講師

現在、女性たちは大学、社会教育施設、カルチャーセンターなど様々な成人教育の場で学習をする機会に恵まれているが、NPOもそのひとつである。1998年にNPO法(特定非営利活動法)が成立してから、年々NPO法人の数は増加し、2005年9月現在では23,603のNPO法人が全国で活動している。活動分野別にみると、保健・医療・福祉、社会教育、学術・文化・芸術・スポーツ、国際協力、環境の保全、男女共同参画社会の形成、子どもの健全育成など多岐にわたっている。その割合は保健・医療・福祉56.8%、社会教育47.1%、学術・文化・芸術・スポーツ32.1%、国際協力21.5%、環境の保全28.9%、男女共同参画社会の形成9.0%、子どもの健全育成39.5%などである。女性達だけで運営するNPO法人も増えており、ジェンダーの視点で、女性の自立をめざしているNPO法人(特定非営利活動法人)4団体を紹介する。
神奈川県にある「WE21ジャパン」は国際援助活動を目的とし、30~50代の主婦たちがリサイクルショップを運営するNPO法人である。その収益金をアジアの女性たちの、生活の向上と自立を助けるために、アジアのNGO などに寄付をしている。1998年に第1店舗を開店し4年間で48店舗と増加を遂げているのは画期的である。WE は「Women’s Empowerment」の略で、女性の力を高め、市民と市民の交流の中から、アジアの平和を築くというビジョンを表している。会員や地域住民を対象とした、ショップ開店のための講座やNGOについての学習、各国の料理教室などの学習機会を提供している。支援先の調査や人々との交流のために、タイやカンボジア、フィリピンなどへのスタディーツアーもおこなっている。講座での学習や現地の人々と寝食を共にするスタディーツアーは異文化への理解を深め、女性たちの意識変容を促している。寄付や会費にだけに頼らず、女性たちが自ら事業を起こし、その収益によって活動を拡大している理由は、中年期の女性たちがそれまでに培ってきたネットワークにあるといえよう。
 一方、名古屋では、子育て中の専業主婦たちが託児所つきコンサートの企画、運営をおこなうNPO法人「SKIP」が活動している。名古屋市女性会館の講座で出会った、子育て中の4人の母親たちが、子育てをしながらもクラシック音楽を聴きたいと、1994年に全国初、朝の託児付き本格的クラシックコンサートを開催した。スタッフの「子育て中も私らしく輝きたい」という願いが、多くの同世代の母親たちに共感を与え、コンサートは成功したのである。子どもたちは成長するため、主要スタッフは随時世代交代をしているのがこのNPO法人の特徴だ。2001年には「ママたちのモーニングコンサート」と題する本も出版した。活動の意味を考える、女性学を学びたい、自分のことを話したいとの希望により講座の企画を兼ねた学習会をおこなっている。彼女たちは「専業主婦、子育て」というスキルは専門性であると考えている。家事や子育ては仕事とはみなされない現在の社会状況下で、この考えは注目すべきであろう。1986年の男女雇用機会均等法が施行されたころに、総合職としてOLを経験し、男性と対等に仕事をしてきた能力を、今度は芸術・子育て活動にと発揮しているのである。
 大阪では、ジェンダーフリーな社会の実現をめざし、ジェンダー教育を社会に浸透させるために、学校や行政に出前講座をおこなっているNPO法人「アートフル・エフ」が活動している。子どもたちは常にメディア(TV・ラジオ・新聞・絵本・雑誌など)や教科書にからジェンダーのすり込みが行われており、幼児期からのジェンダー教育は特に必要である。「アートフル・エフ」は性差にこだわらず、「自分らしく」生きるための社会の実現を、市民の立場から推進している。ジェンダーフリー教育プロジェクトを立ち上げ、幼稚園、小学校、保健所などで、子どもや保護者たちに出前講座による学習機会の提供をしている。オリジナルな人形や紙芝居教材を作成し、ゲーム・ロールプレイなどの方法を取り込みながら、自主公演を行っている。大人向けには市、公民館、女性センターとの共催の講座の開講、市民の意識啓発のための情報誌の発行、助成金事業、教職員研修や講座に講師を派遣する活動もおこなっている。全国的な取り組みへの発展にも意欲的である。
スポーツ分野でも女性の地位は低く、茨城県に本部を置く「ジュース」は1998年に男女平等をめざして、日本初のNPO法人となった。女性の地位の向上のために、女性指導者・研究者などへの支援事業、男女共同参画社会とスポーツをテーマとした啓発事業、女性スポーツに関する国際会議などの開催事業などをおこなっている。日本にとどまらず世界的に活動しているNPO法人である。行政や大企業(博報堂、全日空、NIKEなど)との関係が深いことが世界規模な活動を可能にしている。2001年にアジア女性スポーツ会議を大阪で開催し、シドニーオリンピック委員会へも会員を派遣した。2006年には熊本市の賛同を得て、第4回世界女性スポーツ会議を日本で開催予定である。国内では女性のスポーツ振興のためのワークショップや、女性指導者セミナーなどを開講している。2001年の文部科学省委嘱事業(女性のエンパワーメントのための男女共同参画学習促進事業)などの研究活動も行っている大規模なNPO法人である。
どの団体も、スタッフのジェンダーに対する思いが、活動の起爆剤になっている。そして家族や男性たちの理解を得ながら活動を進めている。つまり活動を通した学習が、家族との関係や地域との関係を変える力となっているのである。これらのNPO法人は、ジェンダーの視点を踏まえ、女性の地位向上のために社会で活躍し、女性たちのエンパワーメントに貢献しているのである。

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学術先端情報- 学術mini 情報誌『PS JOURNAL』の紹介 続々

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2005年 第7号 特集 研究者の現在Ⅵ 越境する日本文化

【目次】
■エリーゼは「伯林賤女」に非ず          金沢大学教授    上田 正行
■プリンストン大学東アジア図書館日本語コレクションについて   
                     プリンストン大学東アジア図書館司書   牧野 泰子
■ドイツ・エルフルト大学東アジア史研究室の概要  エルフルト大学教授  ラインハルト・ツェルナー
■ニコライ2世日記 挫折と再読         大阪学院大学助教授   広野 好彦
■市民と大学生にとっての歴史展示の意味
 ー「軍事郵便」の運命を危惧して           専修大学教授    新井 勝紘
■中原中也、新聞を読む             梅光学院大学講師   加藤 邦彦
■「情報公開法」と「近代史科学」           駒沢大学講師   熊本 史雄
発行:日本図書センターP&S 編集:日本図書センターP&S PS JOURNAL刊行委員会 無料 

エリーゼは「伯林賤女」に非ず

上田 正行(金沢大学教授/日本近代文学)

 小池正直の石黒忠悳宛書簡(明治22年4月16日付)が見つかり紙面を賑わせた。森林太郎を追いかけて、はるばる極東の島国までやって来たドイツ人女性、エリーゼ・ヴィーゲルトの正体が何か分かりそうに思われたからである。この女性の謎に迫ろうと既に数冊の本が刊行されているが、研究者以外でもこの女性に惹かれる人は多いようだ。今回の騒ぎで残念だったのは、そこに書かれていた「伯林賤女」と「手切」、森の「天狗之鼻」が三題噺のように結びつけられてしまって、あたかもエリーゼが「伯林賤女」であったかの如き先入観を読者に与えてしまったことである。いけなかったのは本年2月24日の「朝日新聞」(大阪版)に載った山崎國紀氏の一文である。その紙面で書簡発見者の高橋陽一氏の「日本医事新報」(平成16年6月12日)掲載の記事を知ったが、論旨は山崎氏と全く同じであった。
 これに対して、同じく7月6日付「朝日新聞」に「『鴎外と手切れ』に異論」が載り、『仮面の人・森鴎外』の著者、林尚孝氏の反論が紹介されていたが、論旨が一貫しており私も林説を支持するものである。
 林説の眼目は原文に二つの「○」印が付されており、この書簡が三つの部分から成り立っているというところにある。始めにロッツベッギ(小池の他の書簡ではロッツベッキ)と菊池常三郎のことが触れられ、次に橋本綱常の息、春(長男長勝の幼名、『橋本綱常先生』による)の話題となり、最後に森林太郎のことに及んでいるのであり、この文脈で書簡は読まれなければならない。
 問題は第二と第三の段落にある。まず前者であるが、ヴュルツブルグからやってきた春がベルリンの「賤女」と続いていた関係を、小池の度重なる忠告で漸く断念し、これで手切れになりそうで一安心だと、その経緯を春の父親に報告しようとしているのが趣旨である。綱常も小池から報告を受けて息子と女性とのことを気にしていたのであろう。山崎氏は「文芸春秋」(平17・6)の記事でベルリン・ヴュルツブルグ間の距離を問題にしているが、恐らく春に暫くのベルリン滞在期間があったか、ヴュルツブルグから出かけた折に知り合った玄人の女性がいたと考えれば済むことである。
 小池に「烏城紀行」(「中外医事新報」212号,213号 明22・1・25,2・10)があるが、小池がヴュルツブルグを訪れたのは明治21年10月26日から28日の三日間で、旅行の目的を「私事ヲ以テ烏城ニ赴ク」としている。しかし、春の寄寓先を宿としているので春に会うのが最大の目的と考えてよい。紙数の関係で詳述できないが、当然、女性との関係が話題の中心となったことは間違いない。
 今一つ考えなくてはならないのは森と小池との関係である。明治22年に入って二人の関係が急速に冷え込む事態になりつつあり(特に小池が森のことを快く思っていない)、とても小池が森のために一肌脱ぐような心理状態ではなかったことである。又、22年4月の時点で既にエリス事件は決着を見ており、ここで「手切金」など出ようはずがない。ベルリンに戻ったエリーゼが、今更、「手切」などと言い立てたところで誰が相手にするのであろうか。小池は明治21年5月20日にベルリンに入り、6月にはミュンヘンに移っており、それこそ、どうして見ず知らずのエリーゼの苦情を聞けるのであろうか。エリーゼが日本を発つ前に、滞在費や旅費を含めて何がしかの手切れに相当するものが森家から支払われたと考えるのが大人の常識であろう。(小金井喜美子の「次ぎの兄」の中には旅費、旅行券、皆取り揃へて、主人が持つていつて渡したさうです」とある)文脈から言っても「伯林賤女之一件」と
は橋本春に関わることは明白であるが、このことを決定付けるのが第三段落である。
 小池は森宛の書簡をわざわざ開封して石黒に読ませ、読了後に貼附して森に転送するように頼んでいるのである。何のためか。「天狗之鼻」を挫くためであるが、これには石黒も同意してくれるであろうという読みがあった。何をさして「天狗之鼻」というのであろうか。それは、直前の「同人ト争フ気ハ少モ無之候得とも」と関わる。
 二人の間に争い(意見の対立)があったのであり、この争いを知るには明治22年前半の「中外医事新報」と「東京医事新誌」を見なくてはならない。最初の対立は「中外医事新報」211号(明22・1・10)に掲載の「在独逸国医学士小池正直氏書翰」に端を発する。主文ではなく追伸が鴎外の反論を招くことになった。まず日本人に日本文で以って研究成果を発表すべきという小池の論に対して、森が「東京医事新誌」565号(1・26)で痛烈にその非なることを難じた。既に「戦闘的啓蒙家」の面目は躍如としている。小池は「中外医事新報」220号(5・25)掲載の社員原田宛書簡で自説を繰り返している。これが第一回の契機である。
 第二の契機はこれも森宛の小池書簡(「東京医事新誌」566号 2・2)にあった。二人の共通の師であるペッテンコ―フェルの七十賀の新聞記事の訳載を森に依頼したのが事の始まりである。いけなかったのは森が訳した「ペツテンコーフエルノ逸事」(「東京医事新誌」570号~572号,3・2,3・9,3・16)であった。その前書きで森は小池から送られてきた新聞の切り抜きが不完全なことを指摘して、「記録に漏れて知られずにしまった事柄」と掛けて「逸事」というタイトルを付けたように取れる説明をしている。嫌味な洒落である。小池は憤然として「与森林太郎書」(「東京医事新誌」583号,6・1)を書いた。書簡の日付は4月1日となっているので、今回、発見された書簡の二週間前ということになる。恐らく、この書簡か、あるいは殆ど同じ内容のものが4月16日付の石黒宛書簡に同封されていたのであろう。戦闘的啓蒙家の慢心を諌めようとの思いもあろうが、語調から見て、森のやり方に腹
に据えかねるものを感じていたのであろう。又、森がドイツや日本の新聞に記事を寄せ「新聞屋」を兼職していることも気に入らなかった。これが「天狗之鼻」の背景であり、小池の森に対する感情は悪化していた。
 伝統的保守主義者としての小池の面目は書簡で明らかであるが、同期生とは言え七つ年上の友人に食って掛かる林太郎も相当なものである。戦闘的啓蒙家は一切の私情を顧ようとはしない。このような森に小池が私事に渡ることについて、口を差し挟むような余地など全くなかったのである。第二段落と第三段落とは完全に切れていて、繋がらないことはこれで明らかであろう。この書簡からはエリーゼが「伯林賤女」であったという読みはどこからも出てこない。
                    

         
                  

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学術先端情報-学術mini情報誌「PS JOURNAL」の紹介 続

学術mini情報誌「PS JOURNAL」 季刊 (発行・編集 日本図書センターP&S journal刊行委員会 無料


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2004年 第4号 特集 研究者の現在 Ⅲ
【目次】

■『非戦論』について 文芸評論家     富岡幸一郎

■行政史料と個人情報   専修大学助教授   永江雅和  

■『普遍性』をめぐって     駿河台大学教授      北原仁

■島崎藤村研究の現状と文学を読むことの意義
                    宮城学院女子大学教授  伊狩弘

■嘉永6年のできごと         関東学院大学教授   矢嶋道文  

■植民地鉄道史研究の現在     奈良大学助教授     三木理史

■金融史研究の現在         名古屋市立大学講師  横山和輝

島崎藤村研究の現状と文学を読むことの意義
 
伊狩 弘(宮城学院女子大学教授/日本近現代文学)

  昨年、島崎藤村の『沈黙』という短編について考えてみた。この小説は渡仏する直前の藤村が、幽界の緑雨に語りかけるかたちで二人の交情を懐古した小説である。藤村と緑雨というとあまり親和感がなさそうだが、調べてみるとそうでもない。この交友は藤村の新たな一面を照らし出す契機でもある。そしてそこから一つの疑問に突き当たった。それは一葉の亡くなった明治29年11月23日ころ、藤村は緑雨とともに一葉宅を弔問し、葬儀をめぐって緑雨と邦が話すのを聞いたように書かれていることだ。これは果たして虚構なのかどうか。東北学院の教師をしていた藤村のもとに一葉危篤の知らせが行くわけはない。また母親のぬいが10月25日にコレラで死去、埋骨のため馬籠に帰省し、仙台に戻ったのは11月の10日頃だと思われるので、その後2週間足らずでまた上京したとは一般的に考えにくい。が、ここで秀雄の留守宅の様子を勘案する必要がある。秀雄は明治27年に下獄していた。留守宅には母親ぬいと嫁の松江(36歳)、いさ子(9歳)と周爾(1歳)そして友弥(27歳)が残った。友弥がどういう人間だったか考えると、ぬいが死んだ後、松江と友弥の間にどのような葛藤が生じたか、容易に想像がつく。そもそも友弥は放浪の挙句に悪病を負って馬籠に舞い戻った、その時すでに不埒な行いをしたことが窺える。『家』(上巻四)に徴してみる。
宗蔵の話が出ると、実は口唇(くちびる)を噛んで、彼様いふ我儘な、手数の掛る、他所(よそ)から病気を背負つて転がり込んで来たやうな兄弟は、自分の重荷に堪へられないといふ語気を泄(もら)した。そればかりではない、実が宗蔵を嫌ひ始めたのは、一度宗蔵が落魄(らくはく)した姿に成つて故郷の方へ帰つて行つた時からであつた。其頃は母とお倉とで家の留守をして居た。お倉は未だ若かつた。
 上に引いたように「未だ若かつた」松江に対して友弥が何をしようとしたか明白である。そして東京では、夫は獄中、藤村は仙台に移り住み、頼みの母親が頓死したわけだから残された松江が恐慌を来したのも当然だと思われる。友弥の出生の疑惑なども嫌悪感の要因になったかもしれない。そこで松江は仕方なく藤村にSOSを発信した。友弥をどこかへ連れて行くか、藤村が戻って監視するか、いずれにせよ一緒に暮らすことはできないと。このような想像は穿ち過ぎとは言えないと思う。仕方なく藤村は友弥に自重を求めるべく上京し、たまたま一葉の訃報に接したのではないか。『家』によれば、やがて秀雄は結婚したばかりの藤村夫婦に友弥の世話を
させようとしたが、それも松江の希望ではなかったかと思われる。厄介者の友弥はその後よそに預けられ廃人となって歿した。
 文学を読み学ぶことは以上のように人間の奥深い実態を考えることでもある。日本の近代文学史では一部の作家を除けば大概は惨憺たる人生の上に作品が成立した。ただし藤村は、葛西善蔵や嘉村礒多などの破滅型作家のように自身が破滅するのではなく、家族親戚の破滅的人生を糧にして文学を紡ぎ出しながら自分は超然と文壇の最高位に立った。そのために芥川からは「老獪な偽善者」と言われ、谷崎ほかの作家から毛嫌いされた。
 話を元へ戻すと藤村は友弥の性行を知っていながら、母親ぬいが同居していることを頼みにして仙台へ赴任したのであろう。その仙台行きは『奥の細道』を気取るものだった。藤村は赴任してすぐに松島に詣でている。「わが松島に入りしは九月十九日にして旧暦八月の十三日にあたれり。十三夜の月を心あてにして、仙台を発し塩釜に向ひしころは、東天ほのかに白うして加ふるに覚束なき雲行なりければ、汽車の窓より鶏鳴を聞きて、かのさよの中山の馬上ならねど、残夢未ださめやらずして塩釜に下りぬ。」(『一葉舟』所収「松島だより」)という冒頭が如実に示しているとおりで、ここには透谷の松島紀行ほどの詩魂は見られない。関西漂白の旅がやはりそうだったように、藤村は漂泊の詩人に身を準えた。そして幾ばくもなく母がコレラで死に、永昌寺での葬儀と埋葬のため馬籠に帰省した。そのあたりを「木曾谿日記」(『一葉舟』所収)に見ると、母の亡くなったという知らせは藤村が支倉町の借家に布施淡一家とともに住んでいた頃、たまたま布施は写生旅行に出ており、藤村はD氏(Dという頭文字からは土井晩翠かと思われるが、あるいは川合山月であろうか)とともに広瀬川畔を散策、一見亭という茶屋で一献傾けて帰宅した、その時であったという。「仙台で眺めのあるのは、ことに秋だ、とりわけて空のながめが麗しい。(中略)十月の末には秋風が赤くなつた柿の樹の葉を吹いて、庭に栗の落つる音もおもしろい。東北の秋色、これも擅((ほしい))まゝに楽む自分の身には、また得意の一つであつた。」とある。私は仙台に住んでかなり長くなるけれども、仙台の秋空がよそに比べて特に趣深いと感じたことはなく、栗の落ちる音を聞いたこともない。藤村の風流意識の産物であろう。
 「ハヽビヤウキスグコイ」の電報で藤村はその晩の12時40分発の夜汽車で上野に向かった。約12時間かかつて翌日の昼過ぎに到着した我が家は消毒のために入れない。母の亡骸は本所の避病院に収容されていた。その夜、遺骸は火葬場で荼毘にふされ、藤村は遺骨を携えて今度は名古屋・中津川経由で満15年ぶりに馬籠に帰郷した。紙数も尽きたが、このように藤村は芭蕉の紀行文めかして母の死を書いたが、もしかすると母の密通の結果生れた子かもしれない友弥の存在はここでも捨象されていた。一つの疑問の根は掘ってみると案外深かったのである。


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2005年 第5号 特集Ⅳ  若手研究者を中心に

【目次】

■市民(地球市民)育成への挑戦   東京国際大学教授   下羽友樹

■インターネット情報源の検索演習 昭和女子大学教授   大串夏身

■閲覧者から見た資料館
東京大学大学院経済学研究科日本経済国際共同研究センター研究機関研究員  高嶋修一

■大学史編纂雑感           青山学院大学助手   鈴木勇一郎

■日本の「負の遺産」を考える   千葉科学大学非常勤講師  中川洋

■山形県櫛引町黒川の資料調査から 
                日本大学通信教育部インストラクター 桜井昭男

■歴史データベース研究開発の一事例
                独立法人平和祈念事業特別基金   小坂肇
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2005年 第6号 特集 研究者の現在Ⅴ 経済史を中心に

【目次】

■綿業史研究の現状と問題点    大阪大学教授       阿部武司

■二分法的経済社会認識の錯誤  大阪市立大学教授    大島真理夫

■もうひとつの研究活動        立教大学教授       及川慶喜

■古書店で出会った資料や蔵書がおしえてくれたもの
                       浦和大学教授       寺脇隆夫

■カフェーと文化運動          関西大学助教授    増田周子

■志士と由緒     仏教大学・京都産業大学非常勤講師  笹部昌利

■イギリスでの出来事         龍谷大学助教授      佐々木淳

   

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クロカル超人のジャーナリスト・アイ 新聞・雑誌拾い読み 3 『學燈』春号をよむ    

gakuto_harugou約一ヶ月振りでのブログ登場です。ここ2,3週間、日常に多少流された感じでサボってしまったのだ。そんな中で『學燈』春号を拾い読み。仏文学者・文芸評論家の菅野昭正の「恩師の蔵書」 は面白かった。1893年(明治26年)刊行された象徴主義的形而上学小説のエレミール・ブールジュ『鳥たちは飛び去り花々は散る』をようやく読んだ著者が、ようやくの特別な理由を書き綴っていく話しだが、この本が仏文学者で著名な渡辺一夫先生の蔵書の一冊でそれが著者の手許に来るまでの経緯、エピソードを書いている。恩師渡辺一夫先生は贅沢本とか豪華本にはあまり執着しないタイプの学者で、むしろ書物活用の思想を貫き、蔵書にも並々ならぬ愛着があって、その愛着は所蔵するのではなく活用することに向けられたのだと著書は言う。そして蔵書はそれを活用できる後進に受け継がれてほしいという考えがあったと。その蔵書の遺贈に預かって30年近くたって先生が亡くなられた年齢に達した著者が一念発起して読み終えた本が奇想、幻想、幻滅と精神の衰えをしだいにつのらせてゆく若きロシアの大公の物語、原題は"Les oiseaux s'envolent et les fleurs tombent"。ようやく恩師の思いを果たすことができたが、また若い奇特な士を探し出して読み継がれていけたらと著者の願いもちらほら。ブールジュはマラルメの周辺にいた人らしい。
守山卓郎の「酒と泪や男や女」 ? も国語学者の眼がキイテイル。例題、新年会では、日本酒ビールを飲んだ。あ~、酔っぱらっちゃった。新年会では、日本酒ビールを飲んだ。あ~、酔っぱらっちゃった。曰く、「」は、もともと「結合させる」ことに中心があってどんなものでもくっつけられるが、それに対して、「」は、もともと何らかの「まとまりの集合」がある中から例を出すという列挙の仕方と。「点線」が「点線」になってもなんとかなるが、「老人海」が「老人海」になるとちょっと無理かもと著者は書く。なるほど、ナットク。
紅野敏郎の「學燈」を読む―篠田一士 も興味深く読んだ。亡くなって15年、今だこの巨漢にして大読書家、博識、世界文学に通じた篠田一士の仕事の全体像を如実に示す著作集が未だに沸き起こってこないのが残念と著者は嘆く。篠田の路線に沿いつつ近代文学史の見なおしが転回しつつあるのに。嘗て筆者はこの學燈で篠田一士の評論を何度か熱心に読んでいたし、題名は忘れたが今も著書を持っている。
丸善社史資料 25 もその初期の会社の内情が読めて面白く読んだ。

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フットワークで集めた学術先端情報-学術mini情報誌「PS JOURNAL」の紹介

学術mini情報誌「PS JOURNAL」 2003年11月創刊 日本図書センターP&S 無料
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2003 autumn 創刊号 特集 転機の大学
■国立大学も法人化で競争の時代へ    京都橘女子大学教授  教育行政学    渡部 蓊
■大学教員の身分保障問題          横浜市立大学助教授  教育学       高橋寛人
■【使える資料】2003年度21世紀COEプログラム
■PS JOURNAL 新刊あらかると
■学術図書案内

2004 spring 第2号  特集 研究者の現在 ■研究と調査                   
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山梨学院大学教授   日本近現代史   我部政男
■日系カナダ人史研究の現在         京都女子大学教授   文化史        坂口満宏
■大学で「文学」を読むことの質的転換の試み
                            福島大学教授      日本近現代文学  澤 正宏

■「平成の大合併」と農村社会史研究     同志社大学教授    農業経済史     庄司俊作
■旧農林水産省管轄岩手牧場所蔵資料   
               岩手県立大学盛岡短期大学部助教授    日本近現代史   後藤致人
■250年間の「平和」                広島修道大学教授  日本経済史   落合 功
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2004 summer 第3号 特集 研究者の現在
■ジェンダーの視点からの軍隊戦争研究    関東学院大学教授 現代史       林 博史
■「ヒロシマ・ナガサキ」からの59年-風化に抗する意思
                            筑波大学教授      憲法        黒古一夫

■曖昧な科学としての教育学          名古屋大学助教授   教育学       牧野 篤
■汝、自身を知れ-京都大学総合体育館の建築論
                            京都大学助手      建築論       藤原 学
■市町村合併と行政文書             福島大学助教授     地方行政      荒木田 岳
■中国語教育雑感                 京都大学助手 日本語学      李 長波
■250年間の「平和」(その2) 広島修道大学教授   日本経済史    落合 功

汝、自身を知れ―京都大学総合体育館の建築論

藤原 学 (京都都大学大学院人間・環境学研究科助手/建築論)

京都大学には、入学式や卒業式を行う専用の施設はない。それらの式典は総合体育館(増田友也設計、1972年竣工)で行われている。一年間に二度、運動施設は式場の仮面をかぶるわけである。いや、仮面というのはふさわしくないかも知れない。隠されていた建築の意味が現れ出る、といった方がよさそうだ。総合体育館は、京都大学創立七十周年記念事業の一環として建築されたが、その事業終了を伝える記事には「入学式、卒業式等全学的な式典にも兼用できる施設とした」(「京大広報」No.176)とあるから、総合体育館を式典に用いることは、設計段階から想定されていたと考えられるからである。
 ところで、建築は、いわゆる純粋芸術とは異なり実用目的をもっているから、その造形を審美的に観ることもできれば、倫理的に読み解くこともできるはずである。大仰な言い方だが、倫理とは、ここでは、人間の行為について考えること、といったことを意味していることに過ぎない。そして実用目的とは、建築を利用する人間の行為に関わることに違いないから、建築の造形には、設計者がその行為をどのように考えたかが反映されているはずである。総合体育館には、入学式と卒業式という、教育機関にとって節目となる重要な式典の意味が、どのように織り込まれていたのだろうか。
 総合体育館は東大路通りを隔て、京大の本部キャンパスと向かい合って建っている。本部キャンパスが塀と門で囲われているのに対し、体育館は東大通りに直接面している。このように外部と何ら隔てなく建てられている建築は、京都大学にはこの体育館と楽友会館(森田慶一設計、1925年竣工)の二棟あるが、楽友会館は同窓会館として建てられたものだから、在学生が利用する施設では体育館のみということになる。塀で囲うことは、その領域を画定、他と区別することにほかならないから、体育館はこの点では文字通り社会に開かれて建っていることになる。逆に言えば,体育館の扉の前にたつとき、そこが京都大学であるということは、形式的には保証されていないのである。その扉だが、総合体育館には入口が二箇所ある。それは二階建てで、プラットフォームと呼ばれる基壇の上にそびえる二階部分が主体育館であり、そこが式典の場所となるのだが、入口もまた二階に設けられている。一つは、東大通りに面した大階段を上った正面(東側入口)。もう一つは、体育館の南側に並ぶ部室群の奥にある階段を上ったところ(南西側入口)。南西側入口に入ると、靴脱ぎがあり、ロッカー室がある。対して東側にはそのようなものはなく、ラウンジを経てアリーナへとつながっている。つまり、運動施設として用いるときには南西側入口を、その他の用途として用いるときには東側入口を利用するよう、区別されているのである。大階段を上って東側から入る体育館、これが式典の場所としての体育館なのである。
東大通りから大階段を上ると、目の前に立ちはだかるように壁が建っている。大規模な建築物にありがちな単調な壁面となることを避けるかのように、堀の深い格子が、独特のプロポーションで配されている。このデザインの壁面が、体育館の四周すべてを被っている。余談になるが、これだけの規模の建築を、単一の素材による単一のデザインで設計することは、相当に勇気のいることである。しかも単調な印象を与えず、端正で格調高く、ある種厳格な印象を生み出しているのは、設計者の力量を物語るものである。
再び大階段の正面の壁に戻ろう。入口はその壁面の下、奥まったところにある。壁面の量感の大きさに比べ、いかにも小さく、入るのを逡巡するような扉である。扉を開け、内に入ると、再びあの格子が見える。ところがこの正面の壁面は、ロッカー室とアリーナとを隔てるもので、体育館外壁の裏側が露出しているのではなく、いわば仕組まれた意匠なのである。式典に参列する者に、あの壁の下の小さな扉から入ってきたことを、改めて思い起こさせるよう工夫されているといえよう。なぜそんな設計にしたのか?入学式も卒業式も、参列するには資格が問われる。形式的には入学試験に合格したとか、単位が足りているといったことだが、その意味するところは、京都大学で学ぶにふさわしいか、京都大学で学んだにふさわしいか、ということである。それは学部長や総長の許可を得るという手続きを得るが、式場の設計者はさらに別のことがらを要求しているように思われる。
総合体育館の大きな壁面と小さな扉は、式場に向かう人の流れを一端とどまらせることになるだろう。それは設計者から与えられた、自問自答の場なのである。京都大学であることが保証されていない場所で、壁に向かい、何を問えというのか。式場へ入るにふさわしいか否か、自分で判断しろというのである。京都大学での学問を確認する場へと進むことは、他人の判断を待つのではなく、己自身で判断できるはずだ。自分自身を知るというこという、古来最大の課題に挑まない者は、たとえどのような知識を得たとしても、この大学にはふさわしくない。こうした設計者の頑とした問いかけが、あの壁面に結ばれているのである。みずから問い、みずからの判断で式場へと歩み出した者は、再びその壁面を前にして、己の判断に責任を持つよう促されるのである。
いったい、自分自身を知ることは、新しい知識を得ることよりも遥かに困難なことである。こんな困難を投げかけてくるのだから、総合体育館はやっかいといえばやっかいな建築といえるかも知れない。だがしかし、どこかで見たようなデザインをパッチワークのように並べ、見かけだけは「大学らしい」建物が建っていく中、京都大学の建築としていずれがふさわしいのか、火を見るより明らかであろう。Img014

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