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学術先端情報―学術情報誌「CPC Journal」の最新号紹介 2     

Img094_42009年第2号 小特集: 挑発的日本語論 水村美苗著『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』を読み解く・・・

目次
■バベル塔崩壊以前への復帰 韓国外大日本語通翻訳科教授 徐載坤
■いくら亡ぼされても、針は。 詩人 和合亮一
■21世紀はクリアーな日本語教育へ シートン・ホール大学准教授 大須賀茂
■寺山修司の言語性、もしくは方言性―序章としてのコラージュ 国立国会図書館・国会分館長 神繁司
■近世日本の「鎖国」と「重商主義」―長崎貿易と国民生活との関係(1)― 関東学院大学文学部教授 矢嶋道文
■『近代日本語教科書選集』の編集を終えて 京都大学講師 李長波

バベル塔崩壊以前への復帰─英語世紀の翻訳─

徐載坤(スゼコン、韓国外国語大学校日本語通翻訳科教授/近代詩)

 『聖書』によると、昔、人類は一つの言語、つまり<普遍語>でコミュニケーションをしていた。しかし、天に近づこうとする欲望からバベル塔を築き始め、それに怒った神様は塔を破壊し、互いに言葉が通じないようにし、それ以後は同じ言葉を使う言語集団に分かれて生活するようになったようだ。しかし、もはや英語はインターネットの普及に伴い、人類の宿願であった<普通語>になりつつある。
 約1年半前の大統領選挙で勝った李明博候補は、早速「政権引受委員会」を発足させ、ある女子大学の女性総長を委員長に任命した。新政権は小学校低学年への英語授業の拡大、そのための英語先生の大量採用、特に「英語没入教育」の実施による学校での英語教育強化路線を取ろうとした。「英語没入教育」というのは、English Immersion Programの韓国語訳で、要は学校での一般科目の授業も英語で行うということである。水村氏の表現を借りると、「国民の全員がバイリンガルになるのを目指すこと」であった。新政権は学校での英語教育を充実させることで、私教育費(民間の塾での勉強費用)を減らし、しかも国際社会に通用する人材を育成するという一石二鳥の名案(!)であると主張した。その新しい英語政策公聴会の席上で飛び出したのが、委員長の「オレンジ発言」である。アメリカに行って学校で教わった通りに発音したら相手が聞き取れなかったという逸話を紹介した。だから早期からの「英語没入教育」を通じて的確な英語能力を養い、国家の国際的競争力を向上させるべきであるというのが発言の主旨であった。しかし、彼女の発言は世論の猛反発を招くことになり、「英語没入教育」は見送られるになった。もともと、新政権の英語教育強化方針に対して現実を度外した理想論であるという非難も少なくなかった。日本と同じく韓国も大学受験競争が激しく、学校教育は大学入試と密接に結び付いており、英語が高い比重を占めているのはいうまでもない。小学校低学年からの英語教育実施は更なる早期英語教育ブームを引き起こす危険性があることを専門家たちは指摘していた。現在、英語専門の幼稚園が誕生したり、アメリカの教科書を教える塾が増加するなど、もはや韓国は事実上「韓国語が亡びる」道のりを歩み始めたと言えるだろう。水村氏の本を読みながら、これは韓国の現状に対する鋭い批判にもなることを認めざるをえなかった。とは言いながら、私自身、「二重言語者」であり、わが子もバイリンガルか、トリリンガルになることを望んでいながら、昨今の韓国政府の英語政策と英語学習ブームを批判するのは自己矛盾ではないかと反問せざるをえなかった。漢字文化圏の周辺国で、特に中国大陸との陸続きの韓国では固有文字の誕生が15世紀(朝鮮時代)にまで遅れたため、その間、<外の言葉>である漢文が<書き言葉>の役割を果たしてきた。だから、<普遍語(漢文)>能力が知識人の必須条件になり、朝鮮時代では科挙試験の実施によって社会的地位までを左右してきた。その力はハングル誕生後も衰えることはなかった。また自国語の能力より<普遍語>能力が最優先された時期としては、日本の植民地時代とアメリカ軍政期を挙げられる。だから、韓国では上流階級、または知識人は、その時代の<普遍語>ができる<二重言語者>を意味してきた。‘英語の世紀’である今日、韓国では身分上昇の手段として英語にオールインする人たちが少なくない。最近、韓国の新造語に「お父さん鴨」「お父さんペンギン」というのがある。これはお父さん以外の家族は子供の教育のため、英語圏の国か地域で暮らし、一人韓国に残って働いているお父さんを指す言葉である。前者は少なくとも年1回くらい、お父さんが会いに行くが、後者は何年間も家族再会が行われていないケースを指す。世界的に例がないこの不思議な家族形態は、単に英語習得だけでなく、わが子を大学入試中心の知識教育から開放させ、先進国の人性重視教育を受けさせたいという願いから生まれた一面もある。しかし、言語をコミュニケーションの手段にすぎないと考えるのは危険である。「言語は文化のための道具ではなく文化そのものであり、私たちの主体そのもの」(福田恒存)である。だから、ある外国語を習うということは直、間接的にその文化まで習得することを意味する。だから、早期の外国語教育は子供に自己アイデンティティの混乱をもたらし、どちらにも定住できなくなる場合もある。グローバルというのは自分と他者の共通点と差異を明確に認識することから始めるべきである。次に、自分にないものを取り入れて自分と自文化の中身を豊かにすることこそ国際化で、相手のことをそのまま受け入れることではない。ある文化(圏)の持っている独自なものを別の文化(圏)に伝えるのが<翻訳の役割>であるのは言うまでもない。翻訳とは二つの異文化が出会う場であり、創造の領域である。自文化にない属性(要素)を自文化のコードを使ってデフォルメさせる行為であり、その時、真のコミュニケーションが実現するといえる。だから、インターネットと英語の世紀に求められるのは優秀な翻訳(者)であるにちがいない。


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学術先端情報―学術情報誌「PS Journal」創刊号~第13号・「CPC Journal」第1号目次一覧(小論タイトル名と執筆者名) 紹介 

「PS Journal」創刊号~13号・「CPC Journal」第1号 目次一覧(小論タイトル名と執筆者名)
「PS Journal」2003 autumn 創刊号 特集 転機の大学 ■国立大学も法人化で競争の時代へ 京都橘女子大学教授 教育行政学 渡部蓊 ■大学教員の身分保障問題 横浜市立大学助教授 教育学 高橋寛人 2004 spring 第2号 特集 研究者の現在 ■研究と調査 山梨学院大学教授 日本近現代史 我部政男 ■日系カナダ人史研究の現在 京都女子大学教授 文化史 坂口満宏■大学で「文学」を読むことの質的転換の試み 福島大学教授 日本近現代文学 澤正宏 ■「平成の大合併」と農村社会史研究 同志社大学教授 農業経済史 庄司俊作 ■旧農林水産省管轄岩手牧場所蔵資料 岩手県立大学盛岡短期大学部助教授 日本近現代史 後藤致人 ■250年間の「平和」広島修道大学教授 日本経済史 落合功 2003年 第3号 特集 研究者の現在Ⅱ ■ジェンダーの視点からの軍隊戦争研究 関東学院大学教授 現代史 林博史 ■「ヒロシマ・ナガサキ」からの59年-風化に抗する意思 筑波大学教授 憲法 黒古一夫 ■曖昧な科学としての教育学 名古屋大学助教授 教育学 牧野篤 ■汝、自身を知れ-京都大学総合体育館の建築論 京都大学助手 建築論 藤原 学 ■市町村合併と行政文書 福島大学助教授 地方行政 荒木田岳 ■中国語教育雑感 京都大学助手 日本語学 李長波 ■250年間の「平和」(その2) 広島修道大学教授 日本経済史 落合功 2004年 第4号 特集 研究者の現在 Ⅲ 目次 ■『非戦論』について 文芸評論家 富岡幸一郎 ■行政史料と個人情報 専修大学助教授 永江雅和 ■『普遍性』をめぐって 駿河台大学教授 北原仁 ■島崎藤村研究の現状と文学を読むことの意義 宮城学院女子大学教授 伊狩弘 ■嘉永6年のできごと 関東学院大学教授 矢嶋道文 ■植民地鉄道史研究の現在 奈良大学助教授 三木理史 ■金融史研究の現在 名古屋市立大学講師 横山和輝 2005年 第5号 特集 研究者の現在Ⅳ  若手研究者を中心に 目次 ■市民(地球市民)育成への挑戦 東京国際大学教授 下羽友樹 ■インターネット情報源の検索演習 昭和女子大学教授 大串夏身 ■閲覧者から見た資料館 東京大学大学院経済学研究科日本経済国際共同研究センター研究機関研究員 高嶋修一 ■大学史編纂雑感 青山学院大学助手 鈴木勇一郎 ■日本の「負の遺産」を考える 千葉科学大学非常勤講師 中川洋 ■山形県櫛引町黒川の資料調査から 日本大学通信教育部インストラクター 桜井昭男 2005年 第6号 特集 研究者の現在Ⅴ 経済史を中心に 目次 ■綿業史研究の現状と問題点 大阪大学教授 阿部武司 ■二分法的経済社会認識の錯誤 大阪市立大学教授 大島真理夫 ■もうひとつの研究活動 立教大学教授 及川慶喜 ■古書店で出会った資料や蔵書がおしえてくれたもの 浦和大学教授 寺脇隆夫 ■カフェーと文化運動 関西大学助教授 増田周子 ■志士と由緒 仏教大学・京都産業大学非常勤講師 笹部昌利 ■イギリスでの出来事 龍谷大学助教授 佐々木淳 2005年 第7号 特集 研究者の現在Ⅵ 越境する日本文化 目次 ■エリーゼは「伯林賤女」に非ず 金沢大学教授 上田正行 ■プリンストン大学東アジア図書館日本語コレクションについて プリンストン大学東アジア図書館司書 牧野泰子 ■ドイツ・エルフェルト大学東アジア史研究室の概要 エルフェルト大学教授 ラインハルト・ツェルナー ■ニコライ2世日記 挫折と再読 大阪学院大学助教授 広野好彦 ■市民と大学生にとっての歴史展示の意味―「軍事郵便」の運命を危惧して 専修大学教授 新井勝紘 ■中原中也、新聞を読む 梅光学院大学講師 加藤邦彦 ■「情報公開法」と「近代史科学」 駒沢大学講師 熊本史雄 2006年 第8号 特集:研究者の現在Ⅶ 女性学研究最前線 目次 ■中国女性学の最新動向 中華女子学院大学客員教授 大浜慶子 ■ジェンダー統計に関する研究 日本女子大学助教授 天野晴子 ■ジェンダー研究とセクシュアリティ研究の交差 女子栄養大学専任講師 田代美代子 ■NPOと女性の学習 市原看護学校非常勤講師 山澤和子 ■学校女性管理職の研究 日本女子大学助手 高野良子 ■「家庭教育」の歴史研究について 彰栄保育福祉専門学校専任講師  藤枝充子 ■戦後(1970年代まで)の女子教育研究をめぐって 日本女子大学教授 真橋美智子2006年第9号 特集:研究者の現在Ⅷ 人文・社会科学の、パースペクティブ ■王政復古政府と身分問題 京都大学名誉教授 佐々木克 ■最初の現地調査-「掃苔録」第1冊から-仏教大学教授 原田敬一 ■総合科学と歴史学 広島大学助教授 布川弘 ■宮沢賢治の造語「イーハトヴ」について 福島大学教授 九頭見和夫 ■作品の力がものを言う-中国における谷川俊太郎- 東京大学外国人研究員 田原 ■「自立」途上にある韓国の植民地期経済史研究 江陵大学講師 呂寅満 ■資本市場研究について 東京大学教授 伊藤正直 2006 Special issue Focus: Cross-cultural aspect ■Drago Unuk: "A Linguist came from a small country, Slovenia." 第10号特集: 研究者の現在Ⅸ 人文・社会科学の、パースペクティブ 2 ■ヨーロッパの帝国主義の東漸と東アジアの商人ネットワーク 京都大学人文科学研究所教授 籠谷直人 ■RG131接収商社資料と空襲ターゲット選定 九州大学教授 三輪宗弘 ■一次資料との出会いと大学図書館いろいろ 釧路公立大学准教授 宮下弘美 ■地方鉄道史資料との出会い 中京学院大学講師 関谷次博 ■船舶保存の課題 千葉科学大学非常勤講師 中川洋 フィルムセンターにおける映画資料の収集と公開 東京国立近代美術館フィルムセンター主任研究員 入江良郎 ■大学図書館員が教える「情報の紡ぎ出す力」同志社大学図書館員 井上真琴 2007年 第11号 特集:研究者の現在Ⅹ 人文・社会科学の、パースペクティブ 3 ■中国経済はなぜ成長したか 桃山学院大学教授 厳善平 ■戦後の郊外住宅都市における小売商業の展開と「お買い物バス」の運行 神戸学院大学教授 廣田誠 ■「地域に根ざす」経営史研究者としての一あり方 長岡大学准教授 松本和明 ■史料の保存や公開、あるいは戦争の労苦継承や慰籍事業に関する雑感 東京女子大学教授 黒沢文貴 ■移民関係書誌から考えること 国立国会図書館新聞課長 神繁司 ■ドイツの逆襲-データに基づく教育計画 玉川大学准教授 坂野慎二 ■「オカルト」の現在 横浜国立大学教授 一柳廣孝 2007年 第12号特集: 研究者の現在ⅩⅠ地方文学研究者は今 目次 ■鷗外『椋鳥通信』における西洋文化の受容と伝搬 富山大学教授 金子幸代 ■石川近代文学館徳田秋聲原稿について 金沢学院大学教授 秋山稔 ■谷崎潤一郎と日本橋人形町 京都大学助教 藤原学 ■東京裁判と文学 京都橘大学教授 野村幸一郎 ■「小説で読む日本の問題」を求めて」福島大学教授 澤正宏 2008年 第13号 特集: 研究者の現在ⅩⅡ歴史研究の地平 目次 ■水曜会と新水曜会 東海大学教授 井上 孝 ■歴史研究の醍醐味 敬愛大学教授 村川庸子■「リテラシー史」という領域 早稲田大学教授 和田敦彦■大蔵官僚の天下りと銀行業務の近代化 横浜国立大学准教授 邉英治 ■北部九州の炭鉱史料群を前にして 九州大学准教授 宮地英敏 ■ヒトの行為を中心に地域経済の変動を考える 東北学院大学准教授 白鳥圭志 ■現在の研究と関心 明治大学教授 佐々木聡

「CPC Journal 」2009年 第1号 特集: ライブラリアンは今 知の交流発信地のめざすもの 目次 ■インターネット環境下における原資料―憲政資料を例に― 国立国会図書館政治史料課長 堀内 寛雄 ■「民間」公共図書館の可能性 国立国会図書館電子資料課長/前東京都千代田区立千代田図書館長 柳与志夫 ■「日米韓」の図書館を訪問して 滋賀県愛荘町教育長/前愛知川図書館長 渡部幹雄 ■私説「いちばん病」 シカゴ大学図書館日本研究上席司書 奥泉栄三郎 ■文化としての科学を求めて 大分「児童文学と科学読物の会」代表 辛島泉 ■特集寸想 小浜傳次郎
註。敬称略。肩書きは執筆当時のもの。

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学術先端情報―学術情報誌「CPC Journal」の最新号紹介     

2009年第1号 特集 : ライブラリアンは今 知の交流発信地のめざすもの

目次Img059_cpc1
■インターネット環境下における原資料―憲政資料を例に― 国立国会図書館政治史料課長 堀内 寛雄Img048_horiuchi
■地方図書館をめぐる現状 いわき市立いわき総合図書館長 小宅幸一Img052_oyake
■「民間」公共図書館の可能性 国立国会図書館電子資料課長/前東京都千代田区立千代田図書館長 柳与志夫Img053_yanagi
■「日米韓」の図書館を訪問して 滋賀県愛荘町教育長/前愛知川図書館長 渡部幹雄Img056_watanabe
■私説「いちばん病」 シカゴ大学図書館日本研究上席司書 奥泉栄三郎Img058_okuizumi
■文化としての科学を求めて 大分「児童文学と科学読物の会」代表 辛島泉
■特集寸想 小浜傳次郎Img057_obama


  文化としての科学を求めて
大分「児童文学と科学読物の会」代表 辛島 泉

最初の科学読物『訓蒙究理図解』
 我が国最初の科学読物(子どもの科学の本)は、『訓蒙究理図解』と云われている。著したのは、啓蒙的洋学者として知られる・・・というより、あの一万円札の福澤諭吉翁ときいて驚く人も多い。諭吉の数ある著作の中でも、自然科学に関するものはこの一冊だけ。ほとんど世に知られていない小編である。訓蒙とは、子どもや初心者に教え諭すこと。究理とは、科学全般、特に物理学のことを指す。諭吉は、我が大分県ゆかりの人でもある。
 『訓蒙究理図解』は、1868年(明治元年)に出版された。彼は何故「科学」の必要性を説いたのか。幕末から明治初期の激動の時代にあって、日本が国際社会の中で生き残っていくのに、「科学」に基づいた論理的思考が不可欠であると考えたからである。彼は欧米から持ち帰った数冊の物理学の原書を参考に、身の回りで起こっている自然現象の成り立ちについて、初心者に分かるようにやさしく解説した。物理学を重視する理由として、真に大切なことは単に知ることではなく、理解することである。この理解するという思考の仕方を、物理学を学ぶことで体得せよとすすめている。
 当時から140年を経た今日、果たして諭吉が描いたような科学の基本的原理原則を理解するような教育が我が国でなされているだろうか。私たち大人の中に、論理的思考や科学的素養(科学リテラシー)は根付いているだろうか。
科学リテラシー調査が問いかけるもの
 2007年12月OECD(経済協力開発機構)が発表した15歳児を対象とした国際学習到達度調査によると、日本は57か国・地域中、理科の知識に対する得点は5位前後だったが、「科学への関心」に関しては最下位というショッキングな結果だった。例えば、「科学の本を読むことが好き」は36%、「科学に関するテレビ番組を見たり、新聞や雑誌の記事を読む」は8%、理科の授業について「クラス全体で討議する」は4%で、いずれも最下位というお寒い状況。つまり、理科の得点はそこそことれても、科学が自分や人間社会の中でどのように大事な役割を持っているのか、なぜそれを学ぶ必要があるかが分かっていないと云えよう。勿論、その理由を子どものせいにはできない。なにしろ、18歳以上の大人の科学技術基礎概念の理解度調査(2001年)の結果は、日本は17か国中13位という結果だったのだから。諭吉の慨嘆の声が聞こえて来そうである。
大人の文化の中で科学が心を捕えるものでないなら、子どもに面白さが伝わる筈がない。
大人が子どもの科学の本を読む
 科学が苦手という人に、私は子どもの科学の本(科学読物)をすすめることにしている。
科学読物は、大人にとっては格好の科学入門書であり、科学啓蒙書にもなる。科学読物は、概して段階を追って簡潔に事実や本質が述べられているので読み易く、理解しやすい。薄いし、ビジュアルなので楽に読める。同じテーマの本を何冊か読めば、基本的な知識を手に入れることができ、知らないことを知る喜びを与えてくれる。
 この程、待望久しかった2冊の科学絵本が再版された(何でもノーベル賞効果だとか)。『小さな小さな世界―ヒトから原子・クォーク・量子宇宙まで』『大きな大きな世界―ヒトから惑星・銀河・宇宙まで』(共に、かこ さとし作/偕成社)は、私達を小さな小さな量子宇宙の世界から、大きな大きな宇宙まで連れていってくれる。想像力に導かれて、10の-35乗mから10の27乗mの世界まで旅することができるのである。開く毎に新しい発見があり、何度読んでも飽きない。
 科学リテラシーを養うため、大人が子どもの科学の本を読むというのは如何だろう。
児童文学と科学読物の会の活動
 子ども達が物語絵本や児童文学を楽しむように、科学読物にも親しんでほしい。そんな願いをこめて、「児童文学と科学読物の会」は1991年に発足した。来年20周年を迎える。「子ども達と(・)科学の本の楽しさを、科学する喜びを」がモットー(子ども達にではなく、と(・)としたところがミソ)。
 子どもたちは出会う機会さえあれば、科学読物が大好き。特に文学とか科学とかの区別のない幼い頃から科学読物に出会っていれば、大きくなっても何の偏見もなく科学の世界に入っていける。科学読物に関しては、周りの大人の役割が大きい。ノーベル物理学賞を受賞された小柴昌俊教授は、「科学は習っているだけでは楽しくない。自分で考えて、やってみて、面白いと子どもが感じることが大事だ」と仰っている。又、「科学って面白いんだナと感じさえすれば、その子は一生科学が好きになる」とも。
 私達の会の会員の多くも、入会してはじめて科学の世界の面白さを知り、今では科学読物や科学あそびを自ら楽しみながら、その喜びを伝えることに情熱を注いでいる。毎月の読書会や子ども達との科学あそびの会は、自らの科学リテラシーを鍛える場でもある。
文化としての科学を求めて
 「科学」は本来面白く、驚きに充ちたロマンの世界である。私達がひらいている科学あそびの会は、どの会場もどの年令の子にも大好評。付き添い大人も興味津々。夢中になって子どもといっしょに楽しむ姿は、感動的ですらある。人間は、本来知的好奇心を持った存在なのだ。
 『歴史における科学』の中で、著者バナールは、科学のもつ他面的な特質を次のように分析している。
1) 多くの人に職場を与える<制度としての科学>
2) 真理を発見する方法を教える<方法としての科学>
3) 過去から累積された<知識としての科学>
4) ものを作る基礎・手段になる<生産力としての科学>
5) 宇宙や人間の見方の源泉となる<思想としての科学>
6) よろこびの多い人間的な活動、営みのひとつである<文化としての科学>
さまざまな側面を持つ科学の何が「科学への関心」や科学リテラシーの欠如を招いているのだろう。それは、<生産力としての科学>を追い求めて来た科学教育の目的論に問題がありはしないだろうか。科学の別の側面、<文化としての科学>という側面に視点をシフトさせて教育や社会のあり方を考える。そんな取り組みが今少しずつ日の目を見はじめている。私達の会の活動もそのひとつであるが、各地で草の根で行われてきた科学ひろばや、今注目されているサイエンスカフェの試み等もそのひとつであろう。
 誰もが文学や芸術を文化として楽しむように、科学もまた文化として楽しめる社会になれば、どんなに人生が知的で豊かなものになるだろう。図書館がそんな社会をサポートする拠点のひとつであってほしいと、切に願っている。

追記 辛島泉氏は2015年7月16日に逝去されました。生前のご厚情に感謝しつつ、心からのご冥福をお祈り申し上げます。安らかにお眠りください。(2015年7月30日 記)

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超人のジャーナリスト・アイ 104 PR誌プチ雑感

  最近久し振りに「現代詩手帖」2003年10月号「吉本隆明」特集を図書館から借り出して読んだ。詩篇と大澤真幸の<ポストモダニスト>吉本隆明が面白かった。あとは斜め読み。実は山本哲士の吉本隆明論を借り出したかったが貸出中だったのだ。同時並行で今出版社のPR誌3,4誌を鞄に入れて電車の中で読んでいる。その一つ、丸善のPR誌『学鐙』に関して、今朝の毎日新聞の日曜コラム「時代の風」で、作家瀬戸内寂聴が日本近代文学研究者河野敏郎著『学鐙を読む』の出版記念会に出席した話を書いていたのを読んだが、この老舗丸善のPR誌『学鐙』は筆者も定期購読していて、特に丸善の歴史を紐解く河野敏郎連載「学鐙を読む」は毎回欠かさず読んでいる。丸善創業者の林氏の当時のビジネス奮戦記や忘れかけている文学者のことなど資料渉猟の極み、かつエピソードが大変おもしろい。教わることが多い連載だ。今は季刊雑誌に変わったので年4回発行。さて、PR誌の雄、岩波書店の「図書」2月号の<こぼればなし>の一つは、先月亡くなった作家・評論家の加藤周一氏を追悼した編集者のやや長いが心に残る文章だ。二回読み直した。そこからの抜粋。加藤周一氏も、自分に最も近しい日本社会の中で「異邦人」たることによって、透徹した批評眼を獲得した、一人の単独者でした、と。そして朝日新聞出版社の「1冊の本」の内容は、鹿島茂、高祖岩三郎、森嶋瑤子、小倉千加子、中岡哲郎、四方田犬彦、橋本治などの書き手を揃えて充実しているようだ。もちろん読み応えもある。多様で濃い。紀伊國屋書店の「scripta」のバックナンバーはちと薄く原価を抑えたつくりになっているけれども、書き手の布陣は堂々としたもの。上野千鶴子、内堀弘、池内紀、都築響一、伊藤比呂美、斉藤美奈子など。毎回楽しく読ませてくれる。さて、新しいPR誌の紹介と考えたが時間がない。次回に。

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学術先端情報―学術mini情報誌「PS Journal」の最新号の紹介 9    

2008年第13号 特集: 研究者の現在ⅩⅡ歴史研究の地平
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目次
■水曜会と新水曜会 東海大学教授 井上 孝
■歴史研究の醍醐味 敬愛大学教授 村川庸子
■「リテラシー史」という領域 早稲田大学教授 和田敦彦
■大蔵官僚の天下りと銀行業務の近代化 横浜国立大学准教授 邉英治
■北部九州の炭鉱史料群を前にして 九州大学准教授 宮地英敏
■ヒトの行為を中心に地域経済の変動を考える 東北学院大学准教授 白鳥圭志
■現在の研究と関心 明治大学教授 佐々木聡

内容詳細はこちら→「img006.pdf」をダウンロード

■水曜会と新水曜会
東海大学教授 井上 孝

 マリオン・グレーフィン・デーンホフ(Marion Gräfin Dönhoff(1909-2002)という女性ジャーナリストの存在を、専門外とはいえ、寡聞にして知らなかった。ドイツの影響力ある週刊新聞 Die Zeit の主筆そして発行人であった著名人である。彼女はその名が示すように、貴族の出であるが、東プロイセンにあった所領の城で育ち、当時の女性としては珍しい大学教育を受け、一時所領の経営をしたが、やがてナチへの抵抗運動に加わり、戦後は東西融和に力を注ぎ、波乱の多い生涯を送った。その経歴は大いに興味を誘う存在である。
 デーンホフがその晩年の1996年、文化、学術、経済、政治の各界の一流のメンバーを集めて、現代の「焦眉の問題」を論じるべく企図して設立したのが、「新水曜会」(Die neue Mittwochsgesellschaft)である。この会は、彼女の没後も活動を続け、その成果を公表している。では、なぜ新・水曜会なのか。
 そもそも曜日名を冠した会は19世紀から各地にあったようだが、彼女が意識した「水曜会」なる名称は、19世紀の後半、ベルリンで設立された会合に由来する。1863年「学問的対話のための自由な会」(freie Gesellschaft zur wissenschaftlichen Unterhaltung)は、時のプロイセン国務大臣にして文部大臣であったB.ホルヴェークが主としてベルリン大学における各分野の教授を自宅に集めて自由な学問的集まりを意図したのに発する。1 会員はつねに16名であり、大抵は死去に伴って、新会員が補充された。創立時のメンバーは、まさに当代の各分野の第一人者であり、プロイセン、後にはドイツ帝国の知的エリートたちであり、その後、これに選ばれることは学問的な勲章と思われていたようである。思想・信条は問われなかった。月に2回、会員宅の持ち回りで会合を開き、自宅を提供した者が専門の講演をして、簡単な食事を供することになっていた。ただし、その際、狭い意味での時事的問題(Tagespolitik)は論じないことが、会の方針として決められていた。
 会は、1863年1月14日を第一回として、1944年7月26日まで、80年間にわたり1056回を数えたが、これを最後として、再び開かれることはなかった。例の、1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に、この会のメンバーのポピッツ、ベック、イェッセン2 そしてハッセルの4人が連座し、処刑された。事実上の最後の会は7月12日であり、講演者は理論物理学のハイゼンベルクであった。
 いま述べたように、戦後、会を再興しようとする動きはなかったようである。その理由は明らかではないが、水曜会メンバーは精神的自由が前提であっただけに、とりわけヒトラーの政権獲得後では、親体制も反体制も呉越同舟であった。上記の対ナチ抵抗運動のメンバーと同時に、ナチ支持者で有名な人類学者フィッシャーなども一員であったので、ナチ体制の崩壊後のドイツにおいて、そのメンバーが再び集まるのは所詮無理であったろう。
 さて、ではなぜその52年後に、「新」と銘打って、「水曜会」が再び結成されたのか。会は、1996年9月25日の初会合からの記録を順次公刊しているが、1998年におけるその第一巻(第5回目の会合までの記録収録)において、デーンホフ自身が、以下のような前言を述べている。今日、学問と科学も資本主義法則と相俟って業績と物質的成果をなによりも重視している。そのため精神・文化・芸術が次第に周辺に追いやられ、経済優先となっている。倫理規範なき社会ともみられる。方向を失いつつある社会では、これについて諸所で論じられているが、舞台と登場人物の交代はそうした議論の影響力をそいでいる。このときに想起されるのが、「無類の仕組み」としての、かの「水曜会」である。今日、事態は異なるが、この閉塞状況を打破するには、世界観は違っても、むしろ倫理的信念および法と正義という観点で結びついたグループの持続的な会合・討論を通じた、見解表明が必要であろう。そこで、今日のドイツの知性を集めて、この会合を持つことにした、と。3
メンバーは、デーンホフのほか、元ドイツ連邦大統領のリヒャルト・ワイツゼッカーや同じく首相のヘルムート・シュミットをはじめとする政治家やジャーナリスト、学者、実業家、著述家などであるが、旧東ドイツ出身者が三分の一を占める。公刊された23回分の会合記録で見る限り、狭く採っても時事的なテーマがその半数を占めているのは、メンバー構成からみても当然であろうし、彼女の現代に対する危機意識の現われであろう。デーンホフは、旧水曜会では純粋に学問的会話に限り、時事は除くことを規定に謳っていることを知っていたはずである。したがって、時事問題を論じつつも、個人と社会、道徳と正義、大学の危機、などをテーマにしたり、また劇場の危機や、宗教の復興など、彼女が前言で述べたように、精神文化的主題が含まれる。こうした構成を見ると、現代社会に対して批判的なジャーナリストであると同時に、東プロイセンにおいて出自でも知性でもエリートであったデーンホフは、ベルリン水曜会はやはり一種の憧れの存在であったのかもしれない。

註。
1 この会に関しては、中澤護人・田澤仁・増田芳雄『ベルリン「水曜会」 - ヒトラー暗殺未遂事件に関与した将軍と教授』、近代文芸社新書、2002に詳しい。著者のお一人の中澤氏は、同書に登場するベック将軍(ヒトラー暗殺首謀者の一人として処刑される)の父『鉄の歴史』の著者L.ベックの研究者として知られた学者であるが、偶然の機会からお近づきを得て、同書のもとになる自家版の小冊子なども頂いていた。
2 「民族的」経済学者として華々しい立場にいたJens Jessenがなぜ反ナチになり、命まで投げ出すことになったのか、その生涯と業績がこのところの私の関心事である。
3 Marion Gräfin Dönhoff(Hrsg.), Die neue Mittwochsgesellschaft – Gesprache über Probleme von Bürger und Staat,1998.

■歴史研究の醍醐味 
敬愛大学教授 村川庸子

 昨年末、拙著『境界線上の市民権-日米戦争と日系アメリカ人』(御茶の水書房)を出版した。着想から25年で博士論文に仕上げ、更に出版までに4年を費やした、と言うと、一様に戸惑ったような反応が返ってくる。逆の立場であれば私も同様の反応をするであろうと、寧ろ微笑ましく感じたりもする。だが、本の出来栄えはともあれ、これほど歴史研究の醍醐味を味わわせてもらったことはなかったし、恐らく今後もないであろうと思われることから、その経験について少しだけ紹介しておきたいと思う。
 本研究は、日米戦争中の日系アメリカ人の強制収容政策の研究から始まった。その政策に反発し、米国への忠誠を拒否した上に市民権まで放棄した(とされてきた)5千5百名余の二世の姿を追ってきた。アメリカを裏切った、と見なされたことから、一般のアメリカ社会でも日系アメリカ人の社会でも、またその歴史の中でも、幾重にも周辺化され、不可視化されてきた人々であった。
 この研究、実は最終盤に思いがけない展開をするのだが、その点については後述するとして、この30年近い歳月は、ユングの言うシンクロニシティを地でいくような人や資料との偶然の出会いに支えられてきた。それは、例えば、ある人の経験談を読んでいる最中にその当人から突然電話がかかってくる、たまたま見つけた昔の雑誌記事を知人に見せたらそこに載っていた数枚の写真が全てその家族のものであった、30年前に出会い本研究のきっかけになった家族と最後に出会った家族の名前が戦後送還船の8千名もの乗船リスト上で並んでいるのを見つける、といった形で、繰り返し目前に立ち現れた。
 研究の最終盤の2000年の研究休暇中にワシントンDCの国立公文書館で一連の行政文書を入手した。先行研究が皆無に近く、直接的な一次史料も見つけることができなかった本研究は、それまで周辺の政策に関する資料調査や、当事者や家族、関係者などへの面接調査を中心に行っており、隔靴掻痒の感を否めなかった。何年も公文書館を訪ね続け、「ここには無い」と言われ続けていた司法省の、それも本研究に直接かかわる文書が突然引き出されてきた。他の史料の収集に追われていて「貴女が興味を持つかも知れない資料があったから、手続きをしておいたよ。忘れずに引き出しなさい」というアーキビストの声にも生返事であったような気がする。ともかくも、この史料の発見により、私はその時点で概ね書き上げていた博士論文を一から書き直すことになる。
 強制収容の歴史に関しては、これまで数多くの研究が積み重ねられてきたが、大部分が陸軍に主導された(後に戦時転住局に移管される)11万名の一世・二世に対する政策に注目し、背景となった西海岸の排日運動や陸軍の政策決定に関与した人々の人種・民族差別を厳しく批判するものであった。他方、本研究で注目した司法省は、開戦直後に陸軍の政策に先んじて国内の治安維持に危険性をもつと思われる外国人の管理・統制にあたっている。戦前から用意されたリストに従い、6千名の日本人を逮捕し、2千名を抑留したが、対象となった人数が小さかったこと、個人ベースの調査が行われたこと、戦時に危険な外国人を国家が管理することは当然だと考えられたことから従来の歴史の中では等閑視されてきた。第一次大戦時の在米ドイツ人に対する政策などに比べれば、はるかに抑制の利いた政策であったと論じる研究者も多い。開戦後、両省の間では陸軍の政策を承認するか否かについての論争が続くが、司法省の動きが従来の歴史の中で見えているのは1942年2月半ば、陸軍の政策の実施が決定される頃までである。陸軍の政策は不必要で合憲性に疑いありと主張し続けていた司法省は、最終的には圧倒的な軍部の圧力に屈しその政策を認めてしまう、という図式が描かれた。
 だが今回発掘した資料を通して、@戦前から司法省内部で戦時の敵性外国人政策が周到に準備されていたこと、Aこの準備が陸軍省などには知らされず秘密裏に進められていたこと、B当初から予防措置としての拘禁と平時にも通用する恒久的な法整備が企図されていたこと、C彼らの言う「潜在的な危険性をもつ外国人」の中に一部市民が含まれていたこと、D危険な市民を排除するために彼らから市民権を剥奪し、「外国人」に変えること、即ち、ドイツ系帰化市民の帰化取消と日系市民(当時、アジア人には帰化が認められず、日系の帰化市民はごく僅かしか存在しなかった)の生得の市民権放棄、しかもE国内における(無国籍者を生み出す可能性があり、国際法では禁止されていた)自発的市民権放棄に向けての法整備が検討されていたこと、Eその目的が1944年の国籍法改正で実現したこと、そしてF時限立法であったその法が現行の国籍法に読み込まれ、ほぼ原形のまま生き残っていることが明らかとなった。
 これまで強制収容は日系アメリカ人に特殊な経験として描かれた。戦前からの排日(排アジア人)運動の歴史と真珠湾攻撃をきっかけにそのクライマックスとして位置づけられる強制立退き、という文脈の中で語られた。人種主義を中心に展開された日本人特殊論は確かに補償要求など政治的には効果的であったが、これを過度に強調することで見過ごされるものもある。その一つが国家的危機における外国人政策の歴史の視点、ナショナリズムの視点である。アメリカでは大きな戦争に際しては常に何らかの形で外国人や市民の自由が制限され、治安維持に危険であると見なされた者の逮捕・拘留、時に国外退去が行われてきた。リンカーン大統領に始まり、第一次大戦中の司法長官パルマー、第二次大戦中の司法長官ビドル、いずれも進歩的政策で知られる人物が人身保護律の停止に踏み切った。いずれも条件とされる戒厳令は敷かれておらず、違憲の疑いもある。危機における外国人政策の文脈の中では第二次大戦中の日本人・日系アメリカ人の経験は決して特殊なものではないのである。
 従来の「歴史」とは全く異なる展開に誰よりも驚かされたのは筆者自身である。この驚きと興奮を少しでも多くの方に共有していただければ幸甚である。

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学術先端情報-学術mini情報誌「PS Journal」最新号の紹介 8

Img013_2特集: 研究者の現在ⅩⅠ地方文学研究者は今
目次
■鷗外『椋鳥通信』における西洋文化の受容と伝搬
 富山大学教授 金子幸代
■石川近代文学館徳田秋聲原稿について
 金沢学院大学教授 秋山稔 
■谷崎潤一郎と日本橋人形町
 京都大学助教 藤原学
■東京裁判と文学
 京都橘大学教授 野村幸一郎
■「小説で読む日本の問題」を求めて」
 福島大学教授 澤正宏
■朝日新聞復刻版・縮刷版広告

内容詳細はこちら→「img014.pdf」をダウンロード

「小説で読む日本の問題」を求めて
 福島大学教授 澤正宏

 
 2007年(昨年)度は専門分野の研究とはいえ、久しぶりに現代詩に関する仕事に追われるばかりの一年間であった。「コレクション・モダン都市文化 第Ⅱ期・第28巻」として編著を任され、6月に刊行した『ダダイズム』(ゆまに書房)では、世界のダダイズムの歴史の概観のなかに、やや特殊ともいえる日本のダダイズムを関連づけたり、何冊かの日本のダダイズムの書物や雑誌を紹介したが、大変だったのは日本を重視した世界のダダイズムの年表作りであった。原稿を書きながら同時進行で古書目録を漁り、注文の乱発でなんとか作成できてほっとしている。
 7月には『復刻版 ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』(全10冊、不二出版)が刊行され、別冊に「『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』と現代詩」を執筆した。幻の詩誌といわれてきたこの雑誌が復刻されるまでの経緯にはいろいろあったようだが、この刊行は専門的な立場からみても本当に画期的なもので、私もある事情から15年前にこの詩誌の全コピーを入手していたので、復刻と詩誌の解説とに参加させて頂くこととなった。この詩誌は日本に超現実主義が受容される直前での、日本語による前衛的な詩の試みを研究するには第一級の資料である。その他、9月には福島市で「中原中也生誕100年祭IN FUKUSHIMA」が催され、トークショウ「中原中也と福島~中原中也の魅力をめぐって~」に参加、あらためて中也のモダニズムという課題を意識することになった。この課題は今年の5月に昭和文学会と中原中也研究会との合同研究会で話すことになっている。また、編集委員、執筆者として参加した、今年の2月に刊行の『現代詩大事典』(三省堂)
も大きな出来事になった。私は「瀧口修造」「吉岡実」「詩と詩論」「新散文詩運動」「東北の詩史」「詩人の小説」などを担当したが、この事典の総企画・編集を担当した飛鳥勝幸氏の労は多大なものであった。
 さて、今年の3月に依頼されて、福島市で「ハンセン病の文学――戦後のハンセン病小説を読む――」という講演をした。これは、以前にこの冊子に書かせて頂いた、学生たちと新しく始めた小説演習の、私なりの一つの成果の発表でもあって、また、この3月に大学院を修了していく、ハンセン病文学を3年半にわたり研究してきた院生との共同研究の一つの成果でもある。現在、ハンセン病の文学の担い手、ないしは研究者は少ない。しかし、私の研究の姿勢は、今後、ハンセン病はなくなる病気ではあっても、日本の政府が、とりわけ近代以降に犯して来たハンセン病者に対する差別の実態の歴史は、ハンセン病の文学を通して確認され、明らかにされ、まだなお告発されなければならないというところにある。
 講演の内容(研究の一端ということにもなるが)を簡単に紹介すれば、まず第一に、戦後のハンセン病小説といっても、戦時下で隔離されていた殆どのハンセン病患者にとっては、「癩予防法」(昭和6年4月公布)が完全撤廃されない限りは、隔離に関わる様々な実態は戦時下と地続きであり、敗戦が文学に大きな影響を与えることはなかったということがあげられる。第二に、ただこの時期には、敗戦になったことでハンセン病の治療薬としてのプロミンの有効性(この発見は昭和16年3月、薬の開発成功は昭和18年11月、ともに米国で)が日本でも評価され始め(昭和22年)、無癩県運動、強制収容、断種の法制化、特別病室(重監房)事件、強制労働など、世界のハンセン病理解とは逆行していく日本の隔離政策、方針などのなかで、本格的な救済にはならなかったがプロミンの国家予算化(昭和24年4月)がなされ、患者による人権闘争運動(最初の動きは昭和22年8月頃)が拡大していく様相を呈してきたということがあげられる。
 つまり、昭和24年あたりを境に、日本のハンセン病は、それまでの第一期ともいえる歴史から第二期ともいえる歴史を迎えるのであり、小説も既述したような内容を描いているのである。第三期をどの頃におくかはまだ課題であるとしても、第二期を昭和35(1960)年まで延ばして考えた場合、この時期にハンセン病小説として新しく現れたもっとも特徴的な描写の一つは、プロミン効果や人権闘争の描写の他に、隔離された生活のなかでの抑圧された性の描写ということであった。
ハンセン病文学の研究においては資料不足ということがあげられる。現在、ハンセン病療養所で発行された雑誌の収集や整理、保存がすすめられていると聞くが、この研究においては何をおいても
まず、このことをやらなければならない。いや、文学以前に、もう既にいろいろなところでなされているのだが、ハンセン病患者の歴史の実態を文字や映像や口承によって明らかにすることが大切である。私にとってのハンセン病文学は、「小説で読む日本の問題」の大きな一つである。


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学術先端情報-学術mini情報誌「PS Journal」最新号の紹介 7

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2007年第11号 特集:研究者の現在Ⅹ 人文・社会科学の、パースペクティブ 3

■中国経済はなぜ成長したか
桃山学院大学教授 厳善平
■戦後の郊外住宅都市における小売商業の展開と「お買い物バス」の運行
神戸学院大学教授 廣田誠
■「地域に根ざす」経営史研究者としての一あり方
長岡大学准教授 松本和明
■史料の保存や公開、あるいは戦争の労苦継承や慰籍事業に関する雑感
東京女子大学教授 黒沢文貴
■移民関係書誌から考えること
国立国会図書館新聞課長 神繁司
■ドイツの逆襲-データに基づく教育計画
玉川大学准教授 坂野慎二
■「オカルト」の現在
横浜国立大学教授 一柳廣孝

中国経済はなぜ成長したか
桃山学院大学 厳 善平

  ここ30年近くの中国では、年平均9%以上の経済成長が遂げられた。1人当たり総生産で見るなら、中国は日本の約20分の1と依然発展途上国のままである。しかし、国を基本単位として国際比較すれば、中国の国内総生産は米国、日本、ドイツに次ぐ世界第4位(05年)、輸出入総額は日本を抜いて世界第3位(04年)、そして、外貨準備高は世界1位(06年)と、多くの経済指標が世界のトップクラスに躍り出ている。世界一の人口を抱える途上国でありながら、比較的短い期間でこれだけの実績を挙げたのは経済史上前例のないことである。その意味で、中国の経済発展は概ね成功したといことができよう。
  中国の経済成長をどのように見るべきか。ここでは、日本などの経済発展の経験を参考に、または経済学の考え方を援用しながら、中国経済の成長要因を検討してみる。
  成長会計法は要素還元論の考えに基づいた経済分析の手法として広く知られる。この分析法では、経済成長をもたらす基本要素として資本、労働と土地があり、この三要素の投入増大に還元できない残差を総要素生産性(Total Factor Productivity、TFP)と呼ぶ。このTFPの中身は資本に体化された技術や労働者が学校教育で習得した知識(人的資本)等を含むものであり、定量的にそれを分解することは難しいが、非常に有用な分析概念である。
成長会計法に即して中国経済の成長要因を説明するなら、三つの側面からアプローチすることができる。①物的投資の拡大、②労働投入の増加、③総要素生産性の向上。
物的投資は企業の固定資本投資、社会インフラ整備などと多岐にわたるが、投資の原資は国内の貯蓄と外国から調達される。改革開放以降の中国ではきわめて高い国内貯蓄率、中でも家計貯蓄率(05年に3割近く)が見られた。主要な理由として、①高成長に伴う収入増、②1人っ子政策で出生率が低下し14歳未満人口の割合が低く養育費や教育費が少ないこと、③65歳以上の高齢者比率が低く介護、医療にかかる費用が少ないこと、社会保障制度の未確立で老後のための貯蓄が多いことが挙げられる。他方、外資とくに外国の民間企業による直接投資(FDI)が急増し、設備投資等の資金調達が潤沢にできた。投資増→雇用増→収入増→貯蓄増→投資増という循環構造が形成されている。
  労働投入の増大も経済成長に寄与した。新中国成立後のベビーブーム、1970年代以降の人口抑制政策の施行によって、中国は改革開放とほぼ同じ時期に莫大な人口ボーナス(出生率の低下に伴う生産年齢人口割合の上昇が経済成長を促進すること)を享受してきた。15歳~64歳の生産年齢人口が急増したため、豊富で安い労働力が供給され続けただけでなく、社会全体としても所得が消費を上回り、蓄積の多い状況が形成されている。
  総要素生産性の向上も高度成長に大きく貢献した。ここでは、それを技術進歩と人的資本の蓄積に分けて考えよう。①対中投資の外資企業が急増し、多くの優れた技術が資本と共に導入されている。②中国科学院、大学を中心に政府主導下の研究開発が進められた。産学連携も早い段階から実施されている。後発国がゆえに、中国は先進国で開発された多くの技術を短い時間、少ない費用で吸収、消化している。③人的資本の形成でも驚嘆に値するものがある。小中高学校の普及促進、大学教育とりわけ理系重視の学科設置、カリキュラム編成によって多くの産業労働者、技術者が養成されている。④国費留学生を計画的に派遣したことで中国と世界との距離が縮められた。生産年齢人口の増加と共に彼らのもつ人的資本の蓄積があってこそ、世界工場としての中国が成り立ったのであろう。
  諸要素が結合し経済の成長に結びついたのは、経済発展の初期条件、政府の能力、そしてより大きな国際環境とも深く関係する。①毛沢東時代の重工業化戦略が改革開放時代の市場化改革の土台を築き上げたことは否定できない事実である。②社会秩序を維持し、教育・研究開発等を推進するために政府の統治能力が問われる。共産党による専制の政治体制ではあるが、任期制の導入、集団指導体制の確立、意思決定プロセスの科学化など絶えずに進化し続ける共産党政権の中身を見逃しては本質が把握できなくなる。安定―改革―発展という三角形の関係を最も熟知しているのは中国の為政者である。③ここ30年間、中国の周辺で大きな紛争はなかった。中国は世界平和の最大の受益者である。
  中国経済はどこまで成長できるか。長期的に経済成長を制約する要素として、人口、食糧、環境、資源が考えられるが、中国では人口増加およびそれに伴う食糧の需要拡大は大きな問題にならない見通しだ。環境問題についても技術進歩や経済的手段でもってある程度解決できるとされている。石油などの需要増については、利用効率の改善で対応できる部分は多く、技術進歩による代用エネルギーの開発も不可能ではないと言われている。
  以上は経済発展の光ばかりだが、陰がないわけではない。深刻化しつつある環境破壊、都市と農村の巨大な格差、腐敗の蔓延、等など。これらすべては中国の中でも認識され議論されている。ただし、発展なくして解決の望めないものも多く含まれている。
  強大な中国の出現は日本にとってもチャンスだと近年認識されつつあるが、気持ちはより複雑だろう。置いて行かれるのではないかと。ところが、国民1人当たりの所得水準は両国間に巨大な格差が存在する。日本はもっと自信をもって成長する中国と付き合ってよい。これからは「戦略的互恵関係」の構築に向かって共に努力していくべき時代である。
この他の小論はこちら→「img005.pdf」をダウンロード

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学術先端情報-学術mini情報誌「PS Journal」最新号の紹介 6

学術先端情報-学術mini情報誌「PS Journal」第10号Img142_1
特集: 研究者の現在Ⅸ 人文・社会科学の、パースペクティヴ 2

RG131接収商社資料と空襲ターゲット選定
                         九州大学教授 三輪宗弘

米国国立公文書館Ⅱに所蔵されているRG131(接収文書)は大きく分けて3つの資料群から成り立っている。
①日本(商社と銀行)、ドイツ、イタリア企業の在米支店の接収文書
②司法省戦時経済局(Department of the Justice, Economic Warfare Section)の調査資料(日独伊企業、日独伊と取引・資本関係のあった米国企業、日独伊占領地域の経済調査)
③第一次世界大戦時接収資料(主にドイツ)
 
RG131の司法省戦時経済局調査関係資料のRecords of the Japanese Research Project(entry 341)の24箱に手書きの草案や英訳を行うだけの価値があるとされた資料が残されている。司法省戦時経済局は、押収した日本の商社のニューヨーク支店(三井物産、三菱商事、大倉商事、浅野物産、安宅産業)の資料を徹底的に分析し、日本の企業がどのような機械・装置を購入したのか、機械を据付けた工場の所在地はどこなのか、一点一点調べ上げた。機械や石油に特化していた大倉商事、浅野物産は資料がなくなるほど調べ上げられたようである。大倉と浅野の資料は戦時経済局の作成した調査レポートによって在米支店の活動および日米取引の実態を把握するしかないのが現状であるが、かなり研究がすすみそうである。
日本の基幹産業・軍需工場の設備が丸裸であり、日本への戦略爆撃ターゲット選定に有用なレポートになったであろう。例えば航空機燃料を精製する石油プラント関係の機械(購入先、商社、納入先)に関しては、航空機ガソリンや四エチル鉛の製造企業約50社の機械・装置の導入や契約内容などに関しては以下の手書きのレポートが残されている。
①H. Glicks, Draft of Petroleum Report
②Fred S. Auty, ,Report on Synthetic Oil and Gasoline Industry Japan (1943年8月8日作成)
陸軍造兵廠・海軍工廠(横須賀、呉、舞鶴、航空本部、艦政本部など)はじめ日立金属、中島飛行機などの個別企業ごとに、機械の購入元(メーカー)、販売商社名の詳細な調査記録が残っている。商社別の調査記録もある。例えば浅野物産、大倉商事、三井物産、三菱商事の資料から人造石油(フィッシャー法、オイルシェール)に関する情報を収集したり、交通網を破壊する資料として鉄橋や港湾、高速道路などの情報収集するなど手抜かりはなかった。機械据付に派遣された米国企業の技師のインタビューや日本に滞在した宣教師からの事情を聴取して作成されたレポートもある。
爆撃目標に選定された日本企業は九冊からなる“Air target intelligence, Japanese War : target analysis by areas”が米国議会図書館のGeography & Map Reading Roomに所蔵されている。Indexも一冊あり、日本本土だけでなく、満州、朝鮮、台湾、インドシナ、中国なども幅広く目配りされており、ターゲットとすべき目標(企業、鉄橋)が網羅されている。幸いにも米国戦略爆撃調査団のマイクロフィルムに収められており、国立国会図書館憲政資料室で閲覧できる。「接収された商社資料が日本爆撃にどのように利用されたのか、米国が日本の戦争遂行能力を低下させるためにどの企業を爆撃するする必要があると考えていたのか」という問題を跡付けることで、接収された商社資料は斬新な視点・切り口を日本経済史研究や軍事史研究に照射(しょうしゃ)しそうである。
米国国立公文書館Ⅱで、司法省(Department of the Justice)の資料を探したところRG60のCentral Correspondenceの中にEntry 230: Records of the Economic Warfare Section関連資料があり、戦時中の日本の戦争遂行能力に関する包括的な研究が行なわれ、プラスティック、軽金属、人造石油、化学産業、セメントなどの報告書が収められている。戦争末期になると、ドイツ、日本の賠償能力に関する。レポートも作成されたようである。作成されたレポートは左記に配付された。
①BEW(British Economic Warfare)
②OSS (Office of Strategic Service)
③MIS(Military Intelligence Service)
④A-2―Far East Section(後のG-2)

さて、米国戦略爆撃調査団(The United State Strategic Bombing Survey)報告書マイクロフィルムが国立国会図書館憲政資料室で閲覧可能であるが、その中に、戦時中の司法省戦時経済局が作成したレポートが収められている。Entry 46: Security-Classified Intelligence Library,1932-1947の中のSection 6: Japanese Intelligence Libraryの中に戦時経済局が作成した200ものレポートがマイクロフィルムに所収されている。RG165( Entry 79 : P. File)およびRG60に点在する戦時経済局のレポートも寄せ集め、接収された商社資料分析から、どのような知見が得られるのか、現在調査中である。

全内容はこちら「img143.pdf」をダウンロード

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学術先端情報ー学術mini情報誌『PS JOURNAL』の紹介 5 特別号    

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学術先端情報誌『PS JOUFRNAL』の最新号(2006年11月30日刊 無料)は、特別号で特集は異文化の位相 。

2006 Special issue
Focus: Cross-cultural aspect

■Drago Unuk: "A Linguist came from a small country, Slovenia."

Drago Unuk, docent for Slovene literary language at the Faculty of Education in Maribor, Slovenia, recipient of the JSPS (Japan Society for the Promotion of Science) Postdoctoral Fellowship for Foreign Researches to conduct linguistics research in Japan for a period of 12 months, under the leadership of Professor Keiko Mitani (Faculty of Integrated Human Studies, Graduate School of Human and Environmental Studies - Kyoto University).
I was a lot younger, when I sort of began to see that things are not as we see them and not nearly as they appear to be … How much different could Japan and the Japanese be, while observing those entities with the eyes of a foreigner, who hails from a small, a pocket European country so to speak, which does not count more than 2 million inhabitants, measures a good 20000 square kilometres, gained its independence some 15 years ago and up to this date remains quite an enigma in the European and virtually unknown in the consciousness of the worldly mind ?
As I had to decide where to conduct my studies, I thought about the USA at first, but after carefully thinking through the corpus of possibilities and expectations, changed my sights to Japan and came to a final decision within mere moments; the decisive arguments being Japan's role as the leading research and developmental power of the world. Although to a sensitive and resourceful mind, all arrows pointed to “Yes”, the surroundings I hail from understood my choice as a highly unusual one. It surely raised a lot of interest and, as for myself, represented a significant change in life. Our culture is full of stereotypical notions about Japan: it is regarded as a country based on futuristic development and ancient tradition, decent efficiency on one side and adaptability to the leading economic and other significant demands of the western world. The current image of Japan perceived by where I come from is a mosaic of incorporated information about traditional architecture, geishas and haiku poetry. It's basically the picture an average European gets through watching TV, surfing the Internet; summa summarum, broadening his or her mind.
Conscious of not wanting to rely on such a thwarted image, I gained some crucial practical information from a guidebook, willing to get acquainted to where I landed on the spot. Well, one year is quite a substantial amount of time to gain insight and process as much information about the surroundings you ought to become one with.
I caught the first glimpse of what I was to expect, as I, despite being awake all through the flight, admired the sun rise over Japan and while taking a closer look, ran my eye over the shape of Japan's coast, the ships and Kansai Airport, which was getting oh so close. As a new day dawned, I smilingly thought to myself: “Well, some romantic ideas about the country I am about to live in for a while do seem to be true.”
Japan may be far away, but is it really so different and obstinate as our culture is made to believe? The formalities at the airport let had let me know what I should encounter a lot during the following days, namely the exceptional friendliness, consistency and efficiency of the Japanese.
I left Slovenia in mid-winter conditions with 5 inches of snow covering the landscape, that's why I got to sweat a lot because I arrived dressed up perfectly for winter conditions (and I was advised to do so in the handbook) and was greeted by autumn temperatures. “This mild climate is really appealing,” are the words that cross my mind while I admire the surroundings through the train window.
My newfound residence is the Kyoto International Student House, Sakyo-ku, and with regards to my previous travel experience through Europe, I have to admit that students do not encounter very much luxury at all. The apartment interiors are old and worn out and there is no sign of technological wonders; “they have a computer room and one ADSL line for guests”, but what raises my hopes are ideal research conditions my host faculty has to offer.
Wintertime falls over us during the next days, but there is no central heating, or at least not the kind we are used to in Slovenia. The heating system does not work, yet I receive the friendly assistance of an electrical heater and an extra blanket, which are not much of a help since it is windy and cold to the bone outside. Where is the mild climate now?!
As one takes a walk through the streets, one can see so much: things are so near and there are a whole lot of them but there are also certain small matters that catch the eye. It is always best to look at trees and not see the forest, then the other way around, that is, strolling around Kyoto and getting acquainted with it step by step, while at the same time grasping the image of where I actually am.
The buildings. Of course, they are most frequent things I see – some of them are old, traditional, remains of the past woven into the city; the others are contemporary constructions, also divided into two groups, the first being low, private houses and the other encompassing higher multi-story buildings (on a side-note; there do not seem to be any mind-bogglingly high skyscrapers in Kyoto), which as it appears to me point out an interesting interaction between low and high buildings, giving the city quite a lively appearance. The promenades are as wide as they are in Europe and the back streets branch into many smaller ones, where there are mostly private houses. What is more, many buildings appear box-shaped; the advantage being on the side of functionality.
There is a magnificent forest that spreads on the outskirts of the city. I am very much surprised by the leafiness of the trees at autumn’s end and even more by their splendid colors, spreading from sunshine-yellow to Bordeaux-red. Since I still am a bit cautious, my main interest lies in exploring the nearest surroundings. I am glad to be living near the outskirts of the city, amidst private houses, which seem to be sort of connected, and the alleys spread around homeliness; there is lots and lots of greenness, blooming pot plants and small backyards. Very much like home!
When there is sunshine, it is especially pleasant to investigate what more there is around me –
an amazing number of shops (flower shops, dry cleaners and launderettes, small restaurants, fish markets, stationers' and jewelers’ shops). It appears that many of Kyoto's inhabitants are self-employed and services are the main source of income. Such a neighborhood is a quite rounded up and an apparently self-sufficient unit, since you have everything at reach – from schools to the pharmacist's. I am curious how one can earn enough in such a secluded unit, how profitable are the shops, respectively.
There seems to be one of the prevailing food shops every half mile (24/7 shops), so there are fewer department stores than one comes across in my hometown. I have also not yet encountered a mob on a shopping spree. As probably every foreigner, I miss the morning paper and the European tobacco shops; there are just vendors and drink dispensers and if one is persistent enough, one can find a specialized cigarette shop carrying smoking utensils. Luckily, I came across The Japan Times in English, satisfying, as I do not watch TV.
It has to be pointed out, that Japanese are very good neighbors. It is always a privilege to find how eager they are to help, how free they are to give any kind of information, although many cannot speak English and I cannot speak Japanese. Europeans find the Japanese very strict and earnest people. When they do not smile, they appear to us, as if they were angry – but that is just a picture living in the minds of the European population. I must emphasize that I have never ever before met such friendly people, and they are not only friendly to strange foreigners such as I may be, but to each other as well. Their encounters appear to me as rituals of politeness. One does not have to master the language to see that there are special and unique forms of conversation going on. Despite being foreign, I have not yet had the feeling of being redundant in any place, everyone I have met up to this point made me feel welcome.
Another aspect of the culture I landed in is cleanliness. Nowhere in Europe have I ever seen such pedantry when it comes to “keeping one’s threshold clean”. There is a sense in the air that keeping the streets, the homes, the whole environment clean is a leading aspect of everyday life. It reflects how one respects oneself and others.
And then there is the traffic, an overwhelming and important thing for a foreigner, because it has its specifics. As I got a cab soon after landing, I needed a couple of minutes to adjust to the new regime. The driver was sitting on my right but after another couple of minutes of fighting off the jet lag, the penny dropped: it is the same traffic regime as in Britain. Well, a normal thing, after you are finally fully aware of the differences. But until one reaches this point, some small encounters, such as crossing the road, waiting for the bus on the wrong side, etc., precede the “assimilation”. Fortunately, I am not driving a car here yet.
The basic regime (signs, lights) is the same as in Slovenia. The promenades appear the same as in all big cities. They seem equally long and wide, and the buildings on either side look very much alike. There is another slight problem though – language; signs are mostly in Japanese writing and because there are so many, one easily overlooks the fact that the names of roads and streets are also written in Latin letters. The countless signs do not appear as advertisements to me. They basically do not affect nor address me since I am illiterate when it comes to kanji, hiragana or katakana, yet I find the manner of writing very esthetic and appealing.
I am delighted about the pavements, which on main streets are fully paved, and to my amazement even the roads are smooth and well-surfaced. There are no crowds or traffic jams, no stress and no rage. I have this strange feeling that there is a lot less traffic than in my hometown, which counts no more than 100,000 inhabitants. How is this possible?
I must admit I was expecting to see many vehicles of indigenous production. Here and there we see a Peugeot, maybe a Mercedes, but that is about it. I have fancied Japanese cars for some time now, and I am glad to have the opportunity to get a close look. I was a bit surprised though, to see so many new and well cared for vehicles. It may not be more than five years ago when faculty colleagues and I admired a small Japanese one-seater, parked in front of the main building. The car stunned everyone with its shape and functionality, something we were not accustomed to. “But there are a lot of them here”, I say to myself as I pass by smilingly. Three or four manufacturers appear to prevail. It looks like Mazdas are expensive even here.
I find the palette of colors very unusual: black, white, gray and every other in between. No bright choice, if somebody should ask me. I am almost shocked to think that Mazda surprised the European market with very lively colors and daring combinations. After all I have seen up to now, I am not at all surprised to see no bumped or otherwise damaged cars, something, that is a frequent and not at all pleasant experience in my hometown, especially, when one goes to the supermarket. The Japanese impress me as patient, cultured and polite drivers.
I was furthermore expecting to see numerous motorbikes, scooters and vespas, mostly because I have grown fond of the image of fast and strong Japanese bikes. Another revelation was that there are not that many of them around here. Some of them are, if I may express myself in such a manner, old. The first, not very pleasant impression I got, involved a couple of bicycle-riders. A bike seems to be the most appropriate means of transportation for many students I met here on campus. Although his or her style of driving may appear aggressive, no one seems to get hurt or violated in any way. You may get a bit of a scare, though.
The bus is also a practical means of transportation. It is reliable, cheap and practical. Although I detect many who express displeasure about its unpunctuality, I personally like to use it, first and foremost, to look around. I finally got fond of it, after I figured out how to pay for the ticket. A foreigner always thinks of novelties as something peculiar, but when the adaptation is complete, he or she accepts them the way the natives do. At least I hope so.
It is often said that too much good is not good at all. To be more precise – I have to write about something that I rather would not have experienced. Sadly.
A couple of days ago, I stood at a pedestrian crossing, waiting for the traffic light to change. A man and his young son stood near by and the boy just could not take his eyes off my face. When his father became aware of that, he pulled him aside and began explaining something very intensively. A child of his age normally finds strange and foreign things and people quite interesting, and he kept staring at me, while his father was telling him I do not know what kinds of things and giving him who knows what crucial advice and facts about the presence of foreigners. This is what I presume, after seeing the father holding his son's arm very tightly, while I at the same time found the situation getting more and more embarrassing for me. Well, a bad experience.
There is also a commentary or an article in the daily newspaper about homicides of children, the last one just occurring in Kyoto. As I already knew and had experienced in the past weeks, Japanese families tend to take special care of their children, and also it is understandable that the statistics of violent deaths of children, which have recently risen up to 30 per year, arouse much worry. I hail from a country where there is a yearly average of 30 children dying in traffic accidents (we are a nation of just under 2 million inhabitants), but at the same time we have the lowest birth rate in Europe. I thoroughly read all the news about that topic.
Experts in different fields are in constant search for explanations and solutions. The matter is serious and difficult to explain. Children are dependent and the weakest members or links of our society. The more traditional a society is, the more it focuses on caring for its frail offspring. Contemporary societies also frequently generate paradoxical phenomena, such as: sexual and other kinds of violence against children, encompassing horrid murders, torture of children and elder people, etc. These homicides are arousing extra concern, while sadly becoming more frequent. As I can obtain from articles about trials, the culprits are mainly adult males, and only one stands out among them – a deranged foreigner, giving rise to (by fault of TV correspondence, as it says in newspapers) an absurd campaign against foreigners , who are all branded possible perpetrators. The fact is, that all of those criminals are mentally and differently unstable, and thus a certain question forces itself into the open: what is the reason for this horridness and what can be done to prevent and ultimately stop it?

I started the topic of children by acknowledging that they are helpless when compared to adults. What will follow, as thoughts of someone who is merely an observer on the side, may not please the reader. Japan is known worldwide for its craze for comic – read not only by young people but adult men as well, and almost anywhere: in restaurants, shops, bookstores … Among these comics is a special kind, emphasizing female characters, who are very childlike in appearance, and those comics feature sexual content. The male characters are portrayed performing different kinds of sexual acts on the female ones, the latter mostly being subordinate and exploited, while violence appears to be the background. What is more, the female characters look like children in every way (the exception being sexual attributes, which can be seen in front of or in a bookstore, where there is a special compartment with such comics, whose content is initially visible on the covers). But let us leave aside the fact that the circle of “readers” is rather limited and that the comics are taped together, so they can be purchased exclusively by adults and one can understand that they are some sort of means of living out sexual frustrations.
Something like that would not be possible in Europe, where communities are keen to protect children against sexual and other kind of violence, and at the same time a hunt is taking place against pedophiles. The notions sex, violence and children do not have a common denominator.
It is important in Japanese comics that the portrayed characters have the appearance of children who are being sexually and mentally traumatized, and the message of all of that is: they cannot defend themselves. There are sick deviants lurking in every community devoted to and a long special chapter could be spent when describing how they interpret the background message of such comics.
Even the “Cartoons” section in The Japan Times makes one think, with features showing how “most guys perceive Japanese women”, or how “we are all schoolgirls, animé princesses and demure geishas…”
Since I am a foreigner, I am doing just that, while observing what is usually looked at, but not seen.
(to be continued)

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超人のジャーナリスト・アイ  38 PR雑誌『PS JOURNAL』コンテンツ詳細を紹介 

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 筆者はこのコラムで学術先端ミニ情報誌『PS JOURNAL』を紹介してきましたが、目次程度の紹介でした。一応創刊号から最新号の第9号まで揃っておりますので、PDF形式で取り込んでみました。。パンフレット程度の小さな雑誌ですが、コンテンツはなかなか刺激的です。ぜひ一度ご一読をお薦めします。【写真右:PS JOURNAL第7号より 加藤邦彦梅光学院大学講師の「中原中也、新聞を読む」全文】
『PS JOURNAL』バックナンバ-①(創刊号~第4号)を読むはこちら
『PS JOURNAL』バックナンバ-②(第4号~第9号)を読むはこちら


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