歴史

クロカル超人が行く 196 横浜ユーラシア文化館特別展『ギリシャ考古学の父 シュリーマン』

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土曜日の昨日用事で横浜馬車道辺りに出掛けた。ついでに徒歩10分の横浜ユーラシア文化館に寄った。20ヶ国語を独学でマスターしたといわれている語学の天才しかも商才に長けて巨万の富を築き、後に考古学者としてトロイア遺跡、ギリシャのティリンス遺跡を発掘して有名になったハインリッヒ・シュリーマン、そのシュリーマン関連の貴重な資料130点が今公開中でそれを観たかったからだ。目玉展示は初公開のティリンス遺跡原画だが、筆者的にはシュリーマン自筆の生の手紙2点を観たかった。惜しくもこの日は公開日ではなく、生の手紙2点を同時に観られるのは8月11日だと係員。残念!また、出向くつもり。今回のような人を待たせての鑑賞(用事の合間に鑑賞)は時間的にも制限されるのでじっくり鑑賞できなかった。規模は小さいが、幕末に来日して日本旅行記を書いたあのシュリーマン先生、筆者も読んで書評を書いた(この書評を読むはこちら→http://crocul.cocolog-nifty.com/callsay/2005/06/11_abc3.html続編はこちら→http://crocul.cocolog-nifty.com/callsay/2005/07/11_6f4d.html)。この横浜ユーラシア文化館では特別にこの本に着目して浮世絵や写真などを使ってシュリーマンが見聞した横浜、町田、八王子、江戸の浅草、吉原などを追っている。記述に間違いもあるが、観察眼鋭く面白く読めるのだ。今で言う異文化体験である。
展示構成は、シュリーマン(1822-1890)の生涯、シュリーマンが魅せられた世界 古代ギリシャの文化、ギリシャ・ティリンス遺跡の発掘とシュリーマン直筆の報告書、19世紀 黎明期の考古学 発掘合戦から科学的な報告へ、シュリーマンの眼差し 古代エジプトへの情熱。今更ながらシュリーマンの古代への情熱のすごさに圧倒されると同時に、ギリシャ文化の繁栄ぶりを象徴した優れた文物にも驚かされる。2016年9月6日まで開催。

横浜ユーラシア文化館で配布されている簡単な資料を読むはこちら。→「20160725113349.pdf」をダウンロード

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クロカル超人が行く 103 「足尾銅山の今昔―江戸・明治から世界遺産申請まで―」展

2009022810400006日振りで晴れ渡った今日、金沢文庫から関東学院大学釜利谷校舎へ急いだ。ある先生が奔走してできあがったプチ企画展が開催され、その初日の講演時間が差し迫っていたからだ。

関東学院創立125周年記念特別講演会 講師: NPO法人「足尾歴史館」副理事長小野崎敏氏 「足尾銅山の今昔―江戸・明治から世界遺産申請まで―」

1.足尾銅山の歴史
2.足尾銅山に導入された先端技術
3.足尾公害と対策の歴史
4.松木地区緑化事業の歩み
5.近代化によるエネルギー消費量の歴史的推移
6.私の試行

上記は小野崎敏氏の講演の要旨だが、天文19年(1550年)、足尾銅山が発見される、明治10年(1877年)市兵衛が足尾銅山を買収、明治17年(1883年)、この年日本一の産銅量となる、明治29年(1896年)渡良瀬川の大洪水で鉱毒問題が沸騰、明治32年(1899年)田中正造一行が鉱山視察、明治34年(1901年)田中正造、明治天皇に操業停止を直訴、昭和48年(1973年)足尾銅山閉山、 平成1年(1989年)精錬所の操業停止などを記した年表、産銅量や労働者数の推移を示した統計それに投入された先端技術一覧が理解度を深め、分かりやすかった。2、3の興味ある質疑応答があってこの講演会は終了。その後場所を小講堂の展示会場へ移して小野崎敏氏の説明を聞いた。何せ「足尾歴史館」の三分の二をここに持ち込んでの開催、「足尾歴史館」の方はやむなく休館中だと小野崎氏。半ばY先生の腕力に呆れていたが、嬉しいそうでもあった。古河家から借り受けている屏風、足尾の全体の写真200902281212000_2、公害対策、田中正造が現地見学した写真など貴重な品々がずらりと並べられていた。また、夏目漱石、田山花袋、吉屋信子、芥川龍之介、志賀直哉、碧吾洞など文学者にも馴染み深いのだ。200902281247000_2
ここで特に興味深かったことは、講演で小野崎氏も触れていたが、関東学院初代院長の坂田祐先生が青年時代足尾銅山で働いていたこと、二宮金次郎が助言して本格的な銅の採掘200902281241000
が始まったこと、ソニーの井深大の父親、志賀直哉の祖父、東京芝浦製作所の創業者、足尾鉱山経営者古河市兵衛と渋沢栄一の関係、鉱山技術はもちろんのこと電力、鉄道や電話の敷設など最先端技術の導入、そして足尾公害、クロカル超人が行く 足尾銅山展
それは江戸時代からあって、当時幕府は利根川を銚子方面に方向を変えたこと等々貴重なお話や写真を拝見したことだ。今はその足尾の山に100万本の植林をする運動を展開中(まだ十数万本らしいが)だそうでまた、環境遺産として世界遺産登録を目指しているらしい。 筆者はこの趣旨に賛同、署名用紙にサインした。まだ足尾に行ったことがないので、これを機会に近々訪ねてみたい。
「足尾銅山の今昔―江戸・明治から世界遺産申請まで―」展は関東学院大学釜利谷小講堂展示室で3月28(土)から3月3日(水)まで4日間開催中。午前10時30分から午後4時まで。無料。展示会場までの交通アクセス。京急金沢文庫駅から関東学院大学行のバスで終点の関東学院大学下車、展示会場の関東学院大学小講堂まで徒歩約8芬。

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クロカル超人が行く 93 星薬科大学星一資料室

筆者はずっと関心があって一度は尋ねてみたい資料室だった。前のコラムでニューヨークのブルックリン橋の話を取り上げたが、この星一も野口英世(第一回野口賞が先週末で閉幕したアフリカ会議の最中に受賞式があったばかり)とニューヨーク時代に同じ同県人として交遊があったのだ。そのニューヨーク時代の資料捜しにこの資料室を尋ねたのだ。しかしその資料は解らなかったが(別室にあるらしい)、ここは大正時代の雰囲気を充分感じさせてくれた。星一がそこに微笑んでいるのではないか―。最後に記帳、そのノートにはある作家が尋ねた女性らしい筆跡もあった。
突然の訪問に戸惑いながらも応対してくれた関係者に感謝したい。さあ、今度は大崎のTOC(東京卸センター)にある星製薬会社を尋ねてみたい。荒俣宏のユニークな訪問記をそのまま体現するという試行だ。
 
 
【写真上左から: 星一の銅像と大正後期建築のホール 親切第一他星製薬のモットー 子息の作家・星新一の著作 明治・父・アメリカ他2点 写真下左から: 愛用の湯のみ茶碗他 後藤新平らの書 英語版・中国語版・西語版の日本概略史など星一の著作】


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超人のジャーナリスト・アイ 54 ヒットサイト「日独同盟に風穴をあけた日本人<崎村茂樹>」他   

  筆者は先週T大学のI先生から小雑誌に寄稿するネタとして「ベルリン水曜会」(註)の話を聞いた。この「ベルリン水曜会」はこの大学の近くに住んでいて3年前位に亡くなった中澤護人氏の著作-I先生も情報提供していてその著作ではないが、著者本人から送られてきた私家版の書物に引用されている箇所を見せて頂いたーが新書版で刊行されていると教えて頂いたので、早速ネットで検索して注文しようと思ったが、新刊書店では品切れ、古本屋のサイトでもヒットしなかった。仕方なく図書館に尋ねてみたが所蔵していないという。はて困ったなと思いながら、今度はインターネットでベルリン水曜会を検索をしてみた。すると"日独同盟に風穴をあけた日本人<崎村茂樹>検索"のタイトルサイトに出くわした。このサイトは現代史の謎を扱っているサイトで、驚いたことに、去年8月に90万件ものアクセスがあった超人気サイトなのだ。
筆者はたまたま2007年1月15日付の刺激的なコラムから読み始めた。このサイトはベルリン水曜会の記述もあったが、農業経済学者で1940年代当時ナチス政権下の日本大使館に勤務していた謎の人物「崎村茂樹」を取り上げていた。インターネット上で情報収集しながら次第に謎を解き明かしていく様には、正直言って一種の知的興奮を覚えた。面白い。早速『ベルリン水曜会』の本を何としても手に入れて再度I先生に尋ね、またサイトをじっくり読んでみたい。この現代史の謎の話は、また。
海の向こうでは民主党上院議員、ヒラリー・クリントンが時期大統領選に立候補するとのニュースや国内では宮崎県知事選挙で元タレントのそのまんま東が当選確実とのニュースが飛び込んできた。それにしても環境問題のドキュメンタリー映画上映で来日したゴア元副大統領が大統領になっていたら、世界はもう少し良い方向に進んでいたかも知れないと思うのは筆者たけだろうか。

註。「ベルリン水曜会」についてのサイトを見ると下記のような記述。

水底の陰 中澤護人のサイト:(中澤護人は歴史学者・網野善彦の義兄で宗教学者・中沢新一の叔父)
 水曜会
 第一次世界大戦に敗れたドイツについて「カイゼル(皇帝)は消えたが、ゼネラル(将軍)は残った」との評がある。ワイマール憲法下でもユンカー層出身者を主とする将軍達の力は確実に温存されていた。25年のヒンデンブルグ大統領の出現は結果 的にはヒットラーの登場を準備したものだった。世界大恐慌はドイツに左右両翼を台頭させた。「国会議事堂の火炎」の中からナチス独裁政権が猛々しく立ち現われる。
 ユンカーの出身ではなかったベックが陸軍参謀総長の要職に就任したのは、35年ヒットラーの第三帝国の下であった。38年ヒットラー総統は、自身の故郷オーストリアを併合し、次いでドイツ系住民の多いチェコスロバキアのズデーテンの併合を企図した。ミユンヘン会議はこの事態へのイギリス、フランス等の対応であったが、ソ連の影響力拡大を阻止するためナチスの利用を図った「宥和政策」により併合は黙認された。この併合に反対したベック将軍は参謀総長を罷免された。
 1863年1月、プロイセンの文部大臣ベートマンの私邸に10余人の学者が集った。メンバーの数が16人以下とされた賢人会議は1944年7月26日の水曜日の1056回まで続いた。開催日に因み「水曜会」とよばれ、自然科学、文化科学、芸術、社会問題、戦争学等々幅広い分野の発表、報告、質疑、討論が極めて高い学問的水準を維持しながら約80年間続けられた。今日的話題は原則としては避けられていたがヒットラーの「革命」以後、しばしば時事問題をテーマにせざるを得なくなった。老齢、重病、死去の際に入れ替わるメンバーは全員の賛同を必要としたから、相対立する見解の表明は皆無かと予想されそうであるが事実はこれに相違する。ただし批判、論争は深い知性のもつ抑制力によって静穏に進行した。
 ベック将軍が水曜会に参加したのは39年、直後にヨーロッパにおける第2次世界大戦が始まった。当時の「水曜会」メンバーをみると 1 地理学者 2 文学史家 3 神学者 4 古代史家 5 医学・人類学者 6 植物学者  7 政治家 8 歴史学者 9 政治学者 10 外科医 11 哲学・教育学者 12 美術史家  13 古典学者 14 物理学者 15 外交官 等であり大多数がベルリン大学の教壇に立った経験を持っていた。
 この中から、対ナチス抵抗運動が起こる。政権に忠実な者も決して少なくはなかったし全く超然としている人も2、3には止まらなかった。抵抗運動派の中心がベック、忠誠派の中核は医学・人類学者フィッシアー、ゲーテ学者ベーターゼン、超然派の代表はかの原子物理学者ハイゼンベルグであった。

 1944年7月20日、ベック等が慎重、極秘裡に計画し実行に移したヒットラー暗殺の試みは僅かの手違いで失敗におわった。ベック将軍は自殺し、他の数名も処刑され、1・2が亡命に成功した。
 ベルリンがソ連軍に包囲され、ヒットラーが自殺するまでの時間は残り10カ月であった。第三帝国は崩壊したが、水曜会は44年7月26日、僅か数名の参集をもって終焉し、以後二度と開催されることはなかった。

 要約が過ぎるベック父子についての紹介は、言うまでもなくその圧倒的部分を中澤の「ベック将軍研究」に拠っている。
 第15集の完成は2000年1月21日である。88年に第1・2集、89年に第3・4集、90年第5・6集、91年7・8・9集。92年第10集、93年第11・12集そして1年とんで95年に第13集、3年間をおいて99年に第14集を自作出版し、第15集完成の約1ケ月後、2月22日 83歳の中澤は「天に召された」。
 第13集が(上)のみであったり、第15集は(中)であったりすることからも中澤は仕事半ばにして倒れた-「神」はお召しになるのが早すぎたのである。

 文頭、あるいは文中に挙げたもの以外の中澤の著作、訳書は略以下の通りである。

「近代溶鉱法の誕生」 1954 八幡製鉄
「幕末の思想家」 1966 筑摩書房
「鉄のメルヘン」 1975 アグネ
「栄光のいばらの道」 1987 アグネ
「ヨーロッパの世紀」 1987 東洋経済新報社
「ベッセマー自叙伝」共訳 1999 日鉄技術情報センター
「青山芳正山紀行」1~4 1989~91 自家版
「丹沢通信」1~5 1996~99  〃
「製鉄史研究」 1997  〃
「鉄鋼技術の過去・現在・未来」 1991  〃

追記。なかな中澤護人著『ベルリン水曜会』』の本が見つからない。版元の近代文芸社は絶版になって久しく再版の予定もないと拙い返事。それと雑誌「Intelligence」創刊号も読んだ。こうなったら何としても探して読んでみたい、ね。
2007年2月1日付『Personal_NewsN』 のブログで上記の「崎村茂樹他」記事に関するシンポジウムが早稲田大学である由。下記はその転用(2007年2月3日 記)。

2007.02.01
「日本の対ソ・対ロのインテリジェンス活動」
確かここは申し込みだけで参加費無料だったと思う。
>最近、"インテリジェンス 武器なき戦争" (手嶋 龍一, 佐藤 優)を読んだ。面白かったけど、こいつら、現場復帰は無理だろう、こんなに喋って。

20世紀メディア研究所主催特別研究会
「日本の対ソ・対ロのインテリジェンス活動」
3月10日(土)1ー5時
早稲田大学国際会議場・第一会議室

「加藤哲郎のネチズン・カレッジ」へようこそ!
「2007年の尋ね人」として「<崎村茂樹の6つの謎>について、情報をお寄せ下さい!」とよびかけた「国際歴史探偵」は、ついにドイツから、アマゾンで予約していた待望の『カレーナ・ニーホッフ伝記』 (Karena Niehoff. Feuilletgonistin und Kritikerin. Mit Aufsaetzen und Kritikenm von Karena Niehoff und einem Essay von Joerg Becker. FILM & SCHRIFT, Band 4. Muenchen ,Verlag edition text + kritik, 2007.1)が届きました。その内容は、前回ベルリン日独センターがらの要約として伝えた通りですが、同時に日本側では、戦時米国による日本外交暗号の解読記録「マジック文書」の中から、崎村茂樹についての重要な交信記録をみつけました。これから本格的解読に入りますが、その検討結果の一部は、来る3月10日(土)1ー5時、早稲田大学国際会議場・第一会議室で開かれる、20世紀メディア研究所主催特別研究会「日本の対ソ・対ロのインテリジェンス活動」で、「情報戦のスパイとされた在欧・在ソ知識人――国崎定洞から崎村茂樹まで」と題して報告します。この日はかの「外務省のラスプーチン」佐藤優さんとご一緒で、佐藤優さんの報告「近年の在外公館の対ロ・インテリジェンス活動」の後、私と佐藤さんとの対論形式で山本武利早稲田大学教授が司会するシンポジウムも予定されています。来月のことですが、予告しておきます。

追記2。中澤護人他著『ベルリン「水曜会」』(2003年刊 近代文芸新書 1050円)は国会図書館、公共図書館では札幌市立中央図書館それに滋賀県立図書館しか所蔵していないという。恐らくコンピューターの端末を叩いた結果の情報だろう。それせにしてもだ、こんなに所蔵していないということは不思議だし呆れるばかり。何か理由があるのか疑ってみたくなる。公共図書館(特に大都市の東京都や神奈川県では所蔵ゼロだ !!)版元ももっと力を入れてみてもよさそうだがそうでもない。古本屋のネットでも探したがダメ、これは以外と言えば以外だが、日本の図書館事情もお粗末なものだ。ま、近代文芸社は自費出版中心の出版社だが。それにしてもだ、むっ。滋賀県立図書館から有料で借り出して読むことにした。仲介役は地元の公共図書館。はて、いつ手元に届くか、今後のこともあるので一冊簡易製本にして取っておこうとは考えている(2007年2月6日 記)。
追記3。筆者はとうとう滋賀県立図書館所蔵ではなく世田谷区立中央図書館所蔵のこの本をつい一週間前に借り出した。高くつくが製本を依頼、近日中に取りに行くところだ。だからパラパラと捲ったきりでまだ読んでいない。
(2007年2月24日 記)

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超人の歴史発見 ヒュースケンの墓

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2005年7月30日のコラムでシュリーマン著『シュリーマンの旅行記 清国・日本』で登場するHeuskenヒュースケン。幕末日米修好通商条約のハリス総領事の通訳、オランダ人ヘンリー・コンラッド・ヒュースケンは、交渉途上馬に乗って米公使館麻布善福寺に帰る途中薩摩藩士よって刀で殺害された。当時政府側は土葬を禁じていたため府外のここに埋葬したと光林寺の看板に書いてありました。やっとのところで探し出したのがこの写真、ヘンリー・ヒュースケンの墓です。1861年YEDOで死去と誌されています。また、この付近にはフランス大使館それにU.S.Naval joint services activityのホテル“THE NEW SANNO”Sanno
があります。南麻布界隈はちょっと坂もあったりして洒落た店がありますよね。Nec_0062_1

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超人のジャーナリスト・アイ 28 6000人の命のビザ 杉原千畝のことなど 続

  2005年10月6日付このコラムでリトアニアでユダヤ人に通過ビザを発給した杉原千畝について書いたが、日経新聞2006年4月13日の朝刊文化欄「交遊抄」で早乙女光弘外務省参与が、20数年前ニューヨーク領事館勤務時代に日本政府にある問題で抗議に来た現地のユダヤ人協会の代表でユダヤ人ラビ、シュナイヤー師のことについて書いている。彼はナチスドイツの迫害か逃れてポーランドからリトアニアに赴き、鉄道で大陸を横断、ロシア・ウラジオストクから海路、福井県の敦賀や神戸を経て日米開戦直前に渡米した。杉原千畝に日本通過の発給を受けた一人で、敦賀では地元住民から炊き出しの温かいもてなしも受けたという。我々はこの恩を忘れない、5000年後の子孫も必ず覚えていると話されたらしい。実際、阪神大震災の際には協会から日本に多額な義援金を送っていただいた由。このコラムの執筆者は最後にこう結ぶ。日本は戦後、多くの国々から支援を受け、復興を成し遂げた。果たして今、その恩義に報い、国としての品格を保てているのかと師の面影を思い出すたび、自問している、と。この物語は最近作家・堤清二脚本で舞台化も計画されている。

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クロカル超人の読書余話「杉原千畝」のことなど

以前に工藤幸雄著『ぼくとポーランドについて、など』の書評の余話で、ヴィニュスの西方にある商都Kaunasカウナスに第二次世界大戦中に6000人以上のユダヤ人を救った外交官杉原千畝の記念館があることに言及した(2005年5月13日)。
「日本のシンドラー」と言われたこの杉原千畝の伝記を読売テレビが終戦60年記念ドラマスペシャルsugihara_sorimachi「六千人の命のビザ」として制作、7月21日~8月8日までヴィニュスでロケも終え、10月中旬に放送予定と毎日新聞が2005年8月12日付で報じていた。杉原千畝・幸子夫妻を反町隆史と飯島直子が演じる。【写真右:ユダヤ人たちが日本領事館へ押し寄せるシーン。右端は反町隆史】(毎日新聞2005年8月12日夕刊より)その後、10月8日の日テレでこの番組の予告編を偶然に観た。その中で印象に残ったことは、杉原千畝が発給したビザで助けられた女性の一人がオーストラリアに住んでいて今92歳だということ。生命の恩人・杉原千畝の発給したビザを家宝として大切しているし、息子、孫にもこの忘れてはならない歴史を言い伝えている。ビザ発給後、当時ポーランドから逃れてリトアニアいたユダヤ人のこの女性は、旧ソ連を経由し日本に渡り、そのとき妊娠していて神戸で出産、息子を産んだ。その後オーストラリアに渡った。時代は新たな巡り合わせを生み、その孫夫婦も杉原千畝の実家のある岐阜県の町の記念館を訪ねて日本へ、ここで妊娠していることが判明、日本での「妊娠」がキーワードとそのお孫さんは言っていたが、その言葉の重みを噛み締めているようだった。10月11日火曜日夜9時、杉原千畝役の反町隆史とこのドラマの原作者の奥さん役に飯島直子が扮する「日本のシンドラー」のテレビドラマが楽しみだ。おそらく筆者は仙台のホテルで観ることになるが。映画「シンドラーのリスト」も6時間かけてテレビで観た。そもそもは関口宏司会の日本テレビの番組「知ってるつもり」で紹介され話題になった。日本人がもっと知ってて良い人物である。また、2005年10月7日付毎日新聞夕刊では古都の賢人に聞くシリーズで、第1回目、哲学者鶴見俊輔のインタビュー記事が出ていた。「あの大東亜戦争、どこでどう止めるか、ゼンゼン、見当もつけずにやったんだ。ゼンゼン、ゼンゼン ! あんなの負けること、3歳の童子でもわかりますよ。勝てるわけない。3歳でもわかることが一高1番、東大1番のやつにわからくなってんだ。それが1905年以降の日本なんです。この体制はまだまだ続きますよ。100年か200年、そして日本は滅びる。私はそう思っているんだ」毎日の記者のトーンが低くイロニー的に比べて、この老哲学者はハイテンションだ。戦後、丸山真男らと雑誌「思想の科学」を創刊、「べ平連」でも活躍したとは毎日夕刊の紹介記事。その丸山真男の蔵書、ノート、草稿類などの資料が寄贈されて丸山真男文庫を設立した東京女子大学、その附属図書館で先週の水曜日に年一回の記念講演があった。今回の講演者は作家の小田実氏だ。筆者は丁度講演終了後迎えの車に乗り込んだ小田実氏を目撃、思わずカメラ付き携帯電話で撮ろうとしたが止めた。この野郎何すんだと怒鳴られそうだったからだ。その日は知り合いの先生から丸山真男記念 比較思想研究センター報告(2005年3月創刊号)を頂いた。そのbulletinの中に「1930年代の恐怖の持続」という第4回講演者鶴見俊輔氏の要旨が載っていて興味深く読んだ。
先人の智恵と勇気に倣って、時代に流され風化してしまいそうな「平和」をしっかりと考えていきたいものだ。この国がいつか来た道を辿らせないためにも、だ。

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杉原千畝と6000人のビザ略歴

1900年1月1日 岐阜県加茂郡八百津町に父好水、母やつの次男として生まれる。

1919年  早稲田大学高等師範部英語科中退、外務省留学生としてハルピンでロシア語を学ぶ。

1924年 外務省に奉職。満州、フィンランド、リトアニア、ドイツ、チェコ、東プロセイン、ルーマニアの日本領事館に勤務。
1940年夏、リトアニア共和国首都カウナスの日本領事館領事代理時代に、ナチスドイツの迫害をのがれようとするユダヤ人にビザを発給し、約6000人の尊い人命を救う。

1947年 帰国。外務省を退職。東京PX、米国APONJE商会、ニコライ学院教授、NHK国際局、国際交易(株)等に勤務。1985年1月イスラエル政府より「ヤド・バシェム賞」(諸国民の中の正義の人賞)を受賞

1986年7月31日 逝去(86歳)

幼年期~旧制中学校


母の葬儀に集まった杉原一家 京城の実家にて 1921年
 千畝は1900年1月1日、父好水、母やつの次男として岐阜県加茂郡八百津町に生まれた。
 父は税務署勤務で転勤が多く、千畝は小学校を三重県、岐阜県、愛知県と転校しているが成績はよく、「全甲」の通知表も残されている。千畝が小学校を卒業する前に、父は単身で朝鮮総督府財務部に赴任していった。その後、父は朝鮮の京城(現ソウル)で旅館業をはじめかなりの盛況だったようだ。1916年に家族は、朝鮮に引っ越したが、愛知県立第五中学校(現愛知県立瑞陵高校)へ進学していた千畝はひとり日本に残り、1917年に中学を卒業してから家族の住む京城に行った。成績の良い千畝が医者になることを期待していた父は、京城医学専門学校の受験手続きをして待っていた。だが、千畝には医者になる気は全くなく、入学試験の当日、母が作ってくれた特別の弁当を食べただけで、受験はせず帰宅してしまった。
 「母やつが当日のために、わざわざ特別の弁当まで作って、家から送り出してくれた。ところが、医者になることは私はイヤで、結局この入学試験は受験しないで、弁当だけ食べて帰宅した訳でしたが、父はそのことを大変に怒り、それならば家を出て働けと言いました」(千畝の手記より)
 他に流されない、千畝の意志の確かさが伺えるエピソードといえるだろう。

大学を中退し外交官へ


ハルピン時代 ロシアの専門家として頭角を現す
 一年の浪人生活の後、1918年早稲田大学高等師範部英語科予科に入学した。語学の得意な千畝は英語の教師になることを夢見ていたが、父の意志に反しての入学だったため、学費・生活費の一切をアルバイトで賄わなければならず、苦しい生活を送っていた。大学2年生の時、偶然、大学図書館で外務省の官費留学生の募集広告をみたことが、人生の転機となる。官費で3年間留学して語学を身につけ、のちに外交官に採用されるというものであった。「アルバイトをしなくても勉強ができる!」 願ってもないチャンスだが、受験までの期間はわずか一か月。必死の勉強が身を結び、みごと合格した。
 1919年10月、外務省のロシア語留学生としてハルビンに渡った千畝は、生来の語学の才能で4か月後には日常会話に困らない程に上達したという。
 1924年に外務省書記生に採用され、ハルビンの日本領事館ロシア係に就任する。1932年には満州国の建国が宣言され、満州外交部に派遣された。千畝は外交部時代に北満鉄道譲渡交渉に関わり歴史に残る成果を上げたが、1935年あっさりと満州外交部を退任し外務省に復帰する。この時のことを手記に「若い職業軍人が狭い了見で事を運び、無理強いしているのを見ていやになったので、本家の外務省へのカムバックを希望して東京に戻りました」と記している。

ヨーロッパへ赴任


各国外交官を招いて華やかなパーティー
 1936年、モスクワ大使館への赴任の辞令があったが、ソ連は千畝のビザの発行を拒否。外交官の入国ビザが拒否されるということは、異例のことであり、北満鉄道譲渡交渉で見せた千畝の手腕をソ連側が警戒したためとも推察されている。ソ連への赴任が不可能となったため、翌年、フィンランドのヘルシンキの日本大使館への赴任が発令された。杉原一家の10年にもわたる海外勤務の始まりだった。2年後の1939年、リトアニアの首都カウナスの日本領事館領事代理に任命された。もともとカウナスには1人の日本人もおらず、本来の領事館としてではなく、国際情報収集として領事館が開設されたようである。カウナス赴任にあたっては、危険がともなうとして氏名を変えていくように示唆されたが、千畝はこれを拒んだという。

6000人の命のビザ


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領事館前でビザ発給を訴えるユダヤ人たち 1940年
 1940年7月、ナチスドイツに迫害されていたユダヤ人たちは、日本通過ビザを求めカウナスの日本領事館に押し寄せた。オランダやフランスもナチスに占領され、ソ連から日本を通って他の国に逃げる他、もはや助かる道がなくなっていたためだ。千畝は5人のユダヤ人代表を選び話を聞いた。数人のビザなら領事の権限で発行できるが、数千人のビザとなると本国の許可がいる。電報を打って問い合わせたが、日本政府は再々にわたり「ユダヤ人難民にはビザを発行しないよう」回訓を与えてきた。
 一晩中考えぬいた末、千畝は外務省の意向に背き自らの判断でビザを発行することを決断した。それからおよそ1か月の間、千畝はビザを書き続け、これにより6000人とも8000人ともいわれるユダヤ人の命が救われた。
 リトアニアがソ連に併合された後、千畝はドイツ、チェコ、東プロセイン、ルーマニア領事館に赴任。第二次大戦が終結し収容所生活を送った後、1947年4月やっとの思いで杉原一家は日本に戻った。
 帰国後2か月が経った6月、外務省から突然依願免官を求められた。外務省きってのロシア通といわれた千畝、47歳にして外務省を去ることとなった。

後半生


外務省を辞めたのち勤務した東京PXの新年会 1951年
 退官後は生活のために職を転々としたが、語学力を活かし東京PXの日本総支配人や貿易商社、ニコライ学院教授、NHK国際局などに勤務した。1960年からは川上貿易(株)モスクワ事務所長として再び海外での生活を送ることになり、国際交易(株)モスクワ支店代表を最後に退職し日本に帰国したのは、75歳の時であった。
 1985年イスラエル政府よりユダヤ人の命を救出した功績で、「ヤド・バシェム賞」(諸国民の中の正義の人賞)を受賞。
 翌年7月31日、静かにその激動の人生の幕を下ろした。享年86歳。
(「6000人の命のビザー杉原千畝生誕100年記念事業委員会」サイトより)

追記。日本の麻生太郎外務大臣はこの2006年5月の連休に杉原千畝記念館を訪れた由。


追記2.「命のビザ」ポーランドが杉原千畝さんに勲章と2008年1月17日の毎日新聞朝刊。「命のビザ」を発給した故杉原千畝・元リトアニア領事代理の功績をたたえ、ポーランド大使館で16日、叙勲式が開かれた。マルチン・リビツキ大使から、杉原氏の孫千弘氏に「ポーランド復興勲章コマンドルスキ星十字型章」が手渡された。昨年10月、レフ・カチンスキ大統領が、対戦中にポーランド国内のユダヤ人を救った53人の叙勲を決めていた。(2008年1月27日記)


 


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クロカル超人の最新読書案内①岡田哲著『ラーメン誕生』②網野善彦著『日本の歴史をよみなおす』③林博史著『BC級戦犯裁判』

最近買い込んだ書籍。raumentanjou
一冊目は岡田哲著『ラーメン誕生』(2002年1月刊 P.234 定価720+税  ちくま新書)。たまたまブックオフで見つけた本ですが、著者は『とんかつの誕生』、『コムギ粉の食文化史』、『カステラ文化史全書』などの著作をもつ食文化史研究家。中国めん料理の発達小史、日本のめん食文化の歩み、ラーメンへの芽生え、料理書にみるラーメンへの変遷、ラーメンの魅力を探る、日本が生んだ世界のラーメン、こだわりの味・くせになる味、ラーメンと日本人からなるとっても面白くためになる本です。巻末の参考文献、家庭向け料理書にみるらーめんへの変遷、ラーメン年表も参考になるし興味深い。通勤、出張の電車のなかで気軽に読めて、なるほどと唸ることしばしば。更なるラーメン道追求には恰好の書です。前半は歴史を紐解くあたり、多少忍耐が必要ですが、それもラーメンを深く知ればこその通過点です。筆者としてはラーメン食べ歩き最中、こんな本が欲しかったからハマリました。読了するまであと少し。
ところで、今流行りのラーメン店最新ニュース。超人気ラーメン店中野の「青葉」店主が監禁・暴行された事件にはビックリ、SURPRISE。この店へは筆者は残念ながらまだ入っていません。噂は聞いておりますが。スープの味を守るにも一苦労あって有名店は大変らしい。ラーメン戦争はエスカレートしていますが、生き残るのも大変。たかがラーメン、されどラーメン、です。

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二冊目の網野善彦著『日本の歴史をよみなおす』(2005年7月刊 P.499 定価1200+税 ちくま学芸文庫)は、網野史学のエッセンスが詰まった本。文字について、貨幣と商業・金融、畏怖と賎視、女性をめぐって、天皇と「日本」の国号、日本の社会は農業社会か、海からみた日本列島、荘園・公領の世界、悪党・海賊と商人・金融業者、日本の社会を考えなおすからなり、著者は日本中世史、日本海民史専攻の著名な歴史家。著作は『蒙古来襲』、『日本中世の非農業民と天皇』、『無縁・公界・楽』、『日本社会の歴史(上・中・下)』など多数。今までの歴史観を覆すその独特な歴史観は"網野史学"と呼ばれ多くのファンをもったが、惜しくも1年前の2004年に亡くなっています。折りしも歴史教科書問題でゆれている日本、中国、韓国。権力者や支配者におもねった歴史ばかりではなく民衆からの歴史を考えることが必要かも知れません。筆者は多少読んできましたが、思い切って通読してみようと企んで手に取った次第。

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三冊目は林博史著『BC級戦犯裁判』(2005年6月刊 P.218 定価740+税 岩波新書)。現代史専攻の著者が最近、日本社会は冷静さを失い、排外的なナショナリズムや他者へのバッシングが横行しています。日本の戦争責任への自覚も、戦争への抵抗感も薄れてきています。そんなときだからこそ、日本自らの過去と現在を冷静にかつ自己反省的にみつめることが必要だと思いますと、本書のあとがきで記しています。戦後60年の節目の8月はもう間近、ちょっとは考えてみようと読み始めています。
参考:PS JOURNAL 2004 SUMMER 第3号 林博史小論「研究者の現在 Ⅱ ジェンダーの視点からの軍隊・戦争研究」(2005年1月23日付記事)以下内容は転載。

ジェンダーの視点からの軍隊・戦争研究
                    

林博史(関東学院大学教授/現代史)

これまで日本軍の戦争犯罪・戦争責任についていろいろ調べ書いてきた。マレー半島での日本軍による華僑虐殺、東南アジアへの侵略、イギリスによる対日戦犯裁判をはじめとするBC級戦犯裁判、日本軍「慰安婦」、沖縄戦、戦争犯罪・戦争責任問題、など。調査で回ったのは、中国、北朝鮮、韓国、マレーシア、シンガポール、沖縄などの現地(資料館や大学も含めて)とイギリス、アメリカの公文書館、図書館などである。それらの研究は基本的には日本軍の問題だが、戦犯裁判はそれにとどまらず連合国の戦中戦後政策でもあるので、第2次大戦期から戦後冷戦期の各国の政治外交安全保障政策も勉強せざるをえない。当然、日本の戦前戦中戦後の近現代史は必須である。しかし日本のことしか知らないのでは日本のことをきちんと理解できない。特に日本史研究者はそういう傾向が強いので(外国史研究者は逆に日本のことを知らなさ過ぎるが)、アジア―米英―日本という複合的な観点で考えようとしてきた。
最近、米軍についての資料を集めている。今日、米軍が世界中で戦争をおこし、他国の女性たちを貶めているからには、やはり米軍をきちんと分析批判する必要があると思うのだが、自衛隊サイドの軍隊のための軍事研究者や軍事マニアを除くと、平和の視点からの軍隊・戦争研究がきわめて遅れている。特にジェンダーの視点で考えてみたいと思い、米軍の性問題に対する政策をテーマとして取り上げている。 アメリカの国立公文書館では現在、1950年代の途中まで、米軍(陸軍)の世界各地への派遣軍の資料を見ることができる。資料によっては60年代も公開されつつある。売買春、性病、性犯罪、同性愛、軍紀など性問題といってもいろいろなアプローチの仕方があるが、米軍がそうした性に対してどのように考え、対応してきたのかを19世紀末からたどっている。19世紀末というのはハワイ併合や米西戦争、義和団事件などによって、ハワイ、フィリピン、中国、パナマ、プエルトリコ、キューバなど各地に米軍が駐留をはじめたときだからである。戦後の日本や沖縄、韓国、フィリピン、タイなどアジア各地を占領あるいは駐留した米軍による性犯罪や買春などは大きな問題であったし、いまもそうである。かつての日本軍も国内では遊郭を利用し、海外では慰安所を作って女性たちを性奴隷として扱っていたが、その日本軍がやっていたことはどれほど世界的に共通のものであり、どれほど独自のものなのか、日米両軍を見ているといろいろ見えてくる。米軍資料のなかのどこにそうした関係資料があるのか、最初は手探りで調べ(もちろんアーキビストからは貴重な手がかりを教えてもらったが)、たくさんの資料を請求してもハズレだったことも多かったが、この4年ほど何度も公文書館に通ったので、そうした関係資料が含まれているファイルの見当がつくようになった。それらの資料を読みながら、米軍の性への対応が西欧や日本とはかなり異なったものであることがようやくわかってきた。日本軍慰安婦問題が1990年代に大きく取り上げられるようになり、その問題にかかわるようになったが、フェミニズムの議論から多くのことを学び、ジェンダーの視点の重要さをようやく理解できるようになった。そのこともこうしたテーマを取り上げようと考えた理由である。ほかにアカデミズムへの失望もある。たとえば日本の平和学会は1990年代を通じて日本の戦争犯罪や戦争責任問題をほとんどまったく取り上げなかったし、ジェンダーの視点が欠けていると思われるような企画が多かった。ようやく戦争と性暴力を大会で取り上げたのは2000年のことだった。日本の平和学は軍隊や戦争そのものを研究しようとしてこなかった。これは日本の平和思想・運動にも共通する致命的な欠陥であるだろう。歴史学会のなかでも侵略戦争への反省のうえに研究を進めているはずの歴史学研究会も90年代を通じて(その後も)、戦争責任問題や慰安婦問題を大会で取り上げようとしなかった。日本が突きつけられた戦争責任問題、とりわけその中の慰安婦問題を取り上げようとしない日本の平和学や歴史学とはいったい……。
女性国際戦犯法廷を開催したバウネット・ジャパンの企画である『「慰安婦」・戦時性暴力の実態』(緑風出版)の東南アジア編の責任編集者になったときにあらためて気がついたのは、東南アジア史研究者がほとんどこの問題を無視していることだった。結局、東南アジア編を執筆したのはほとんどがアカデミズムとは関係のない市民たちだった。そこで私は編者として次のようなことを書いた。「ところで奇妙なことに東南アジアを専門とする研究者はほとんど、日本軍の性暴力あるいは戦争犯罪・戦争責任について研究しようとしないし、被害者の声に対しても冷淡な現状がある。アカデミズムの中に閉じこもり、無難なテーマを取り上げて「業績」をあげ、大学のポストを確保するしか関心のない「学者」たちに対して、バウネットに参加してきた市民の力によって初めて本書の第Ⅱ部(東南アジア編のこと)が可能になった。」けっして全否定するつもりはないが、しかし戦争犯罪・戦争責任あるいは戦時性暴力について取り組む研究者の少なさをいつもながら痛感する。私は、アカデミズムの構成員に向かって語るのではなく、被害者の痛みに共感し現実を克服しようと努力している人々に向かって、その人々と一緒に歩きながら語りたいと思う。

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