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2018年7月

超人のジャーナリスト・アイ 171 世界的な異常気象

Viktigt meddelande till allmänheten om skogsbränder på flera håll i landet.
今日スウェーデンのインターネットラジオ放送を聴いていたら、上記のような警告が掲示されていた。「国の数ヶ所の山火事について住民への重要なお知らせ」とあった。また、「庭でのバーベキューは禁止」と。その記事を読むはこちら→https://sverigesradio.se/sida/artikel.aspx?programid=83&artikel=7000326

朝出掛けに世界の短いニュースをNHKBSでみるのが日課になっているが、アメリカのノースカロライナなどでは大洪水、ニューヨークのハドソン川では溺れた人もいて救出中とか。ギリシャのアテネでは山火事で多数の死者、韓国でも猛暑と報道されていた。更にネットニュースではアラブ首長国連邦では52℃、スウェーデンではこの季節は普段20℃位が30℃に、カナダのトロント州では熱中症で多数の死者、ロシアの北極圏の沿岸部でも高温、氷が更に解けているのは間違いない。ドイツやフランスでも猛暑と世界の終わりを告げるような異常気象が世界的に広がっているのだ。スイスの世界気象機関が注意を呼びかけていて、この地球温暖化による異常気象は、やはり二酸化炭素排出が原因と指摘、世界規模で考えないと大変になると警告している。

ちきゅうはおこっている。
はやくなだめないとておくれだ。
みんなてをつなげ。
みんなのちきゅうが
わらえるように。

さて、今日は少しは涼しいと思いきや、この時間になって暑さが振り返している。こういう時には昼食は少しばかり涼を感じるつけ麺に限る。ミシュランガイドで星一つを獲得してから行列のできるラーメン店に変身した店へイコカ。
で、食べたのは少し高い細麺・太麺とやわらかチャーシューがたっぷり味わえるつけ麺だった。

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「特製つけ麺」(1,030円)


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クロカル超人が行く 218 草野心平生家・小川郷駅・好間三野混沌生家の詩碑

先週用事があってS先生と草野心平ゆかりの地、いわき市上小川や好間を訪ねた。

故郷は切り取ったストップモーション。
そこにはいつまでも変わらない風景があったが。
変わりつつある風景もまた新鮮だった。
故郷は遠かったり近かったりだ。

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①草野心平生家
午後5時頃訪問したので閉館していた !
本当は家の中の心平の机も見たかった。
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②草野心平生家内の碑

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③JR磐越東線小川郷駅内
本当に久しぶり。その昔はバス亭もあったが。

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④詩人草野心平の筆による三野混沌の詩碑
「天日燦として 焼くが如し 出でゝ働かざるべからず」

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⑤詩人三野混沌(吉野義也)生家
いつかは来てみたかった菊竹山。カーペンターズと
書かれた旧居はもっと奥の方だと教えてくれたのは
近所のおばさん。8軒ほどだったのが今や40何軒あるらしい。あいさつで伺った折のご子息は混沌似。敷地は想像したより広い。混沌の詩集『否』は筆者の書棚にある。
👀①~③は草野心平記念文学館のOさんのガイドつき。①~⑤のいずれの写真も筆者が撮影したもの。

蛙よ

口笛をふいて

寂しい月蝕をよべ

花火をかこんで

青い冷や酒を傾けよう
(『月蝕と花火』序詩)

―『草野心平詩集』(エッセイ 重松 清 ハルキ文庫 2010年)

尚、小川町高萩にある「草野心平記念文学館」では現在開館20周年記念夏の企画展「宮澤賢治展 ―賢治の宇宙 心平の天―」を開催中。8月26日まで。手帳に書かれた「雨ニモマケズ」の原稿、書簡類、心平が関わった詩誌類など貴重な資料が展示公開されている。学芸員の本気度が感じられ、一見の価値あり。詳細はこちらを参照されたい→http://www.k-shimpei.jp

追記 余談だが、この文学館にあるレストランは店主がユニークでレパートリーは少ないがなかなか凝ったものを供してくれる。


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超人の面白読書 132 大西比呂志著『横浜をめぐる7つの物語』最終回

終章の「横浜学」では今までの7つの物語とは違って本書の締めとして全体的なアプローチの仕方に触れている。最近地域研究や地方史研究が盛んになる一方、グローバルに捉えようとする歴史学の新しい枠組でのアプローチも行われている。いつだったか、雑誌『思想』で中堅の歴史学者たちが戦後歴史学の時代区分の新しい分け方を提案していた。また、一部の出版社のPR誌で周辺領域を含めた歴史学の見直しを試みるエッセイも書かれている。戦後70年以上経過した現在、歴史学も新たな時代を迎えているということなのかも知れない。換言すれば、中心が少しズレ周縁よりになった感じだ。遺跡の科学的発掘とITを駆使し図解解析を容易にした追跡調査や古文書の卓越した解読と発見が次々と現れ今まで半ば常識化した歴史的な事柄が少しずつ塗り替えられているのだ。テレビやゲームそれに中高年の“歴史散歩”が歴史ブームに拍車をかけているのも事実だ。そして何より歴史は民衆史の視点を忘れてはならない。それと民間学―。著者が本書で言及している鹿野政直の唱えた歴史学の方法である。かつては大阪学を唱えてベストセラーになった学者もいた。立命館大学の地理学科は京都学を唱えて“営業中”だ。東京圏といえば、比較的活発なのが「多摩学」だろう。「多摩学」に関係する小冊子は何冊か筆者の手元にある。読んでみると目から鱗の事柄も。
本書はフェリス女学院大学国際交流学部のテキスト用に編まれているが、新書版サイズは一般読者にも手軽で読みやすい。著者は前任者の高村直助先生から引き継いで「横浜学」を今も講じている。横浜を身近に知る好著。最後は著者に倣って。Think locally, Act globally ! (2007年3月刊、フェリス女学院大、新書版、206頁、700円+税)

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リトアニアビール Gubernija社製「Tamsusis elisタムスシス エリス」

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リトアニアは知られざるビール大国。グベルニア社製ビールの「タムスシス エリス」を平塚七夕祭り開催中の7月7日にリトアニアのブースで呑んだ。テイクアウト禁止でこのブース七夕祭り期間限定初発売。一杯700円。やや高価だがこれが意外とイケた。黒ビール系でギネスより苦味が少なく、日本の黒ビールよりうまいかも。2杯呑んであとは赤ワインを一杯。ワインもイケた。意外とやるじゃん、リトアニア!平塚市が2020年オリンピック・パラリンピック競技大会でリトアニア共和国の事前キャンプ地に決定し、様々な交流を進めていてビールなどの販売もその一環。そのほかブースにはキビナイ(ミートパイ)や工芸品も販売していた。リトアニアのアリートゥス市からRytatoという8人の少年少女グループがリトアニア・ツィター(弦楽器)、パンパイプ、ホーンパイプそれにバイオリンを演奏した。残念ながら会場が違うのでこちらはパスした。

平塚七夕祭りちょい見。

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超人の面白読書 132 大西比呂志著『横浜をめぐる7つの物語』 7

横浜大空襲の被害の数字を眺めるとその被害の大きさが解るので本書から拾ってみよう。死者3649人、重傷1655人、軽傷8542人、行方不明309人、罹災者311218人、当時の人口比からすると二人に一人が罹災。民家の被害は中区、南区、西区、神奈川区に集中し約80000戸が全焼、その後の調べで死者は7000人から8000人と推定されるという。ここでの注目は
京浜急行電鉄の横浜駅と戸部駅の間にあった旧平沼橋の話だ。1944年に廃止されその後横浜大空襲で焼け落ちたホームと鉄筋の残骸は残っていたが、今は撤去されてないそうだ。アメリカ軍の爆撃機B29による攻撃は、戦略的で容赦ないものだった。そういった意味で旧平沼橋駅の残骸は歴史的証拠で貴重な戦争遺跡、移築して残しておけば良かったと思うのだ。これこそ横浜各地に残る戦没者の碑とともに“戦争と平和”を考える生きた教材として役に立つのに―。
尚、この横浜大空襲の話は、小堀 聡著『京浜沿線の近現代史』(クロスカルチャー出版 2018年12月刊行予定)でも言及される。
港北区の慶応義塾大学日吉校舎の地下にある、旧海軍軍司令部がおかれた巨大地下豪の話や病院として使われたフェリス女学院の地下豪の話しも戦争遺跡として貴重だ。日吉の巨大地下豪は機会があったら一度見学したい。
第7章の「占領のまち横浜とザンダー先生」。パイプを加えたマッカーサーが厚木飛行場に降りたときから横浜は「占領のまち」化した。横浜市内に互楽荘(慰安所)、日本造船大丸谷寮(慰安所)やエキスプレスビル(バー)や大阪商船ビル(キャバレー)などの「進駐軍将兵慰安施設」が設けられるも、米兵の間に性病が蔓延し、GHQは民主化の一環として「公娼制度廃止」を指示せざるを得なかった。遊廓の公認を禁止した。日本政府はこういった施設をつくることによって一般女性にまで被害が及ばないことを目論んだが失敗に終わり、まちに「パンパン」(映画、舞台、詩、写真集それに漫画などのモデルになった“メリーさん”はつとに有名)など街娼があふれることになる。これを機にやがては「売春禁止法」が制定される。筆者的には著者が書いている「二業街」(芸者や料理屋を中心とする歓楽街)には興味大。そう、大昔まだ都会に出始めの学生時代の頃、アルバイト先のオーナーに夜半伊勢佐木あたりの食堂(?)に連れて行かれ、そこで目にした光景は、白衣を着たやや年増の女性が給仕している妖しくも不思議な光景だった。これが「二業街」だったか。
そういった占領時代にGHQの兵士たちの振る舞いが横暴さを増すなか、フェリス女学院と極めて縁の深いヘレン・ザンダー女史がいたことは救われる。リンゴの代金支払いや少年を野球場に連れて行った話は感動的だ。(続く)

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超人の面白読書 132 大西比呂志著『横浜をめぐる7つの物語』 6

第6章の「戦争遺跡が示すもの」に入る前に、直近のテレビニュースから一つ。毎年夏が近づくと戦争関連ものが話題になるが、今年もその類いのニュースが飛び込んで来た。福井県の若狭湾でナチスドイツのUボート(Unterseeboot 潜水艦)が発見されたニュースだ。日本に製造依頼(川崎重工)して出来なかったもの。戦後すぐGHQによって沈められたという。前章でナチスドイツに触れたがまさしく「戦争遺跡」、3年前には戦艦「武蔵」がフィリピン沖でアメリカの富豪マイクロソフトの創業者ポール・アレン氏よって発見され話題になったことも記憶に新しい。
さて、この章では「戦争遺跡」の簡単な定義に始まって、原爆ドーム、戦争遺跡の種類、横浜の戦争遺跡、日吉の巨大地下豪、横浜の大空襲の傷跡それにフェリスと戦争を扱っている。やはり日吉の地下豪と横浜の大空襲が見逃せない。(続く)

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超人の面白読書 132 大西比呂志著『横浜をめぐる7つの物語』 5

野村家の援助で1936年に長女ヨアン、翌年にゴッドフリートが横浜の病院で生まれる。ヨーンもドイツ人弁護士の事務所で働く。日本はドイツほどにユダヤ人を排斥せず、むしろ豊富なユダヤ系資本を利用して局面を打開したいという思惑があるから、ヨーロッパから満州や上海経由でやって来るユダヤ難民を積極的に受け入れる。その大半は自由を求めて北米へ出国する。当時神奈川県内でポーランドから289人、ドイツから47人など354人のユダヤ難民がいたそうだ。著者は所々にマリアの回想録を挟み、1930年代~1940年代の戦前・戦中・戦後において時代に翻弄されていくマリア一家の動向を描く。あの“ゾルゲ”にも一度だけあったと回想録に書き残しているが、当時のナチスドイツ政権下のドイツ大使館員もマリア一家を手助けしている。ドイツ人、日本人それにアメリカ人といろいろな人に助けられながら横浜、茅ヶ崎、軽井沢、茅ヶ崎と転々する。そして戦後自由を求めてアメリカに渡ることになる。なるほど、この手の話としてはリトアニアのカナウスで6000人余のユダヤ人にビザ発給をした外交官杉原千畝の人道主義はあまりにも有名だが、著者も言っているようにそれだけではない歴史に埋もれた民衆の有様を掬いとることもまた大事なことなのだ。その実例がドイツの家族の物語だ。さて、横浜生まれのゴッドフリートさんは大学で何を研究していたのだろうか、筆者的には大いに興味あるところだ。(続く)

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超人の面白読書 132 大西比呂志著『横浜をめぐる7つの物語』 4

第4章は「シアトルの石灯籠とバラ」。関東大震災の見舞金のお返しに横浜市がシアトル市に石灯籠を贈り、また、シアトル市が2000本のバラの苗を贈った話。いい話である。まさにgoodwill diplomacy。その重たい石灯籠を運んだのが移民船としても有名な日本郵船の船。つい最近では高円宮家3女の絢子さまと婚約したのが日本郵船の社員だ。ということで日本郵船の社員の名前が大きく報道され一躍時の人に。その日本郵船株式会社は1886年(明治19)に創立、戦前最大の輸出品生糸を主に運搬したことで知られる。北米航路のほか欧州や豪州の三大航路を開設 し、北米航路では日本から移民を運びやがてはシアトルに日本人町を形成するほどに。話は逸れるがこの欧州航路を利用して横浜からマルセイユ経由でロンドンに留学したのが詩人で英文学者の西脇順三郎である。
さて、戦争を挟んで紆余曲折するが、日本郵船の日枝丸が運んだ石灯籠はシアトルに、お返しとして贈られたバラは横浜のこども動物園で健在だという。日米を跨いだ市レベルの交流史である。
第5章はユダヤ系ドイツ人故にナチスドイツから逃れて翻弄する家族の物語。著者は2001年春にカナダのヨーク大学の教員ゴッドフリート・パーシェ氏に会い、母が書いた回想記「Our Thanks to the Fuji-san」をもらった。それをもとにドイツから来た家族を紹介している。本書に沿って追おう。ゴッドフリート・パーシェ氏の母親は、ドイツの貴族出身で名はマリア・テレーゼといい、ヒトラー政権樹立の1933年にベルリンで東洋学を志すヨーン・パーシュという青年と結婚する。その青年の父親はユダヤ人でかつ祖父が社会主義者。ニュルンベルグ法(ユダヤ人の市民権を剥奪したりユダヤ人との結婚を禁じた法律)成立の前年1934年にドイツを離れる決心をする。オランダそしてロンドンに渡り、そこで当時横浜正金銀行ベルリン支店駐在員よで休暇で一時帰国途上の久米邦武・多賀子夫妻(久米邦武は『米欧回覧実記』を編纂した人。筆者はかつてこの岩波文庫版『米欧回覧実記』を持参、読みながら最初のニューヨーク行きを敢行した。1980年代半ば過ぎだ。ある先生が久米編纂のは間違いがあるとしきりに言っていたが、何年か前にその内容を照合して修正した本が慶応大学出版会から出た。水澤周『現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記』だ。何度か買おうと書店に足を運んだが高額なので買えず。今は廉価版も出ている)、娘寿賀子に出会う。久米邦武は真珠王木本幸吉の甥、妻多賀子はホテルニューグランド、サムライ商会などを経営する日本有数の実業家野村洋三の三女だった。日本郵船の欧州航路で横浜へ、ホテルニューグランドに投宿した後野村家の別荘を提供される。ここまで来ると出会いが運命的で日本人のもてなしも卓越していると言わざる得ない。度量が深いのだ。さて、その後。横浜ニューグランドに投宿した時のマリアの回想記。トーフ入りの味噌汁に馴染めなかったのか、クリームを入れて飲んだと。木の風呂や海苔がまだとれた時代の様子も。戦前の横浜の生活の様子が書かれていて面白い。それこそ詩人西脇順三郎の夫人だったマージョリーさんの挿絵が入ったキャサリン・サンソム著『東京に暮らす』を彷彿させる。時代もそう違わない。(続く)

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超人の面白読書 132 大西比呂志著『横浜をめぐる7つの物語』 3

第3章の「関東大震災と朝鮮人」で小見出しを拾うと、関東大震災発生、軍隊の出動、流言の発生、横浜の流言飛語、フェリス生徒のみた震災と朝鮮人、「不逞日本人」、朝鮮人に対する偏見、朝鮮人の犠牲者たちそしていま学ぶべきこととなっている。
つい最近大阪北部地方を中心にマグニチュード6.1の地震があり犠牲者も出た。大阪でこれほどまでに起きた地震としては、1596年の豊臣秀吉の伏見城築城時以来とか。なんと420年以上経っての地震だ。そしてSNSなどでは少なからず流言も出た。地震大国日本は、昔から地震やそれに伴う津波災害を受け、その都度復興してきた。それはこの風土に生きた先人たちの知恵である。記憶に新しい東日本大震災・福島第1原発メルトダウンは甚大な被害をもたらし改めて自然災害・人災の恐ろしさを痛感、特に福島第1原発のメルトダウンは瞬時に世界の知ることに。「備えあれば憂いなし」を心掛け「楽観バイアス」(昨日の毎日新聞日曜版海原純子のコラム「新・心のサプリ」)に陥らないことだとか。
さて、近年の大地震はやはり1923年(大正12)に起きた関東大震災だろう。その時朝鮮人に対する流言が流れたことはつとに有名だが、本書は横浜での動きを統計などを駆使して追っている。その一部。

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これで見ると著者も言っているように、集中度からいえば横浜は東京以上の大きな被害を受けたことになる(本文P.62)。そして朝鮮人に対する流言(デマ)。コトの真相は山口正憲を首領とした「横浜震災救護団」を名乗って略奪や暴行をほしいままにした一派の暗躍によるものだという。それではなぜパニックを起こさせるような流言が起こったか。それは第一次大戦による好景気で京浜工業地帯が発展し、労働力として朝鮮人が移住してきたからだ。低賃金で働かされたのである。と同時に、底辺で働く日本人労働者の職を奪いかねない存在となり、植民地支配の優越感や差別感情とつながって朝鮮人を敵視し排除する方向に。日常の不安がそうさせたと著者は書いている。専門家の研究では朝鮮人の犠牲者は2000人あまりだという(本文P.81)。最近のヘイトスピーチなど隣国に対して不寛容さが目立つが、過去の悲惨な出来事を歴史的事実として受け止め向き合い、決して歪めることなく相互交流・理解を深めていくことだ。江戸時代には朝鮮通信史の善隣外交が12回も続いたのだから。その中心人物雨森芳洲の朝鮮語読本は立派なものだ。筆者は20年以上前に彼の生誕の地滋賀県高月町の記念館を訪ねてその現物を見たことがある。著者もこの章の終わりで国際交流の重要性を説いている。(続く)

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超人の面白読書 132 大西比呂志著『横浜をめぐる7つの物語』 2

第2章の「二つの開港記念日」は、長らく横浜史編纂に関わった著者でしか書けないややマニアックな事柄だ。それは行政史料などを丹念に読み込んでコトの経緯を調べあげた成果(明治大正期、開港50年祭は7月1日に実施していたが、1928年2月の市会で横浜港開港日の1859年7月1日は、日本の暦では安政6年6月2日だとの理由で開港記念日をこの日に決定し変更された。戦時中一時中止を余儀なくされたものの、戦後1950年に復活、1979年には市制90周年・開港120周年祈念式典が行われ、1981年、日米和親条約締結の地、大桟橋のたもとに横浜開港資料館がオープンした。―本文56頁から一部抜粋)だろう。この件に関して著者が開港資料館の研究員の言葉を紹介していたが、これが妙にリアリティーを持つから不思議だ。当時の有吉忠一市長の誕生日が6月2日との単純な理由からだったと。誕生日なら普通は忘れない。いかにもありそうな話だ。(続く)

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