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2018年5月

超人の面白ラーメン紀行 248 世田谷『ベジポタ』

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世田谷線上町駅すぐそばにあるラーメン店『ベジポタ』(ベジポタ: じゃがいも、玉ねぎ、トマトなどの野菜をポタージュ風にしたものと豚骨スープを混ぜたスープのこと。ベジタブル ポタージュの略らしい)のつけそば(800円)。茶系の太い麺がもちもち感たっぷり、黄色系の汁もまろやか。美味。胡椒(写真右端)が後で効いたのにはサプライズ(喉元あたりに残っていたのかしら?)こだわりの胡椒だったか。それは太麺を茹であげるまで10分を要することでも分かる。カウンター7席の親子で商うこぢんまりした、優しい雰囲気の店。先に入ったT先生の目利きが良かったのかも。
世田谷『ベジポタ』1.スープ★★☆2.麺★★☆3.トッピング★★☆4.接客・雰囲気★★5.価格★★☆

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超人の面白読書 131  ジョージ・オーウェル『1984年』 4

旧訳本を借り出すことに成功して訳者の解説を読んだ。この小説が書かれた背景を新たに知ることができた。
『1984年』は、たしかに“スターリンのソヴィエト”に触発された反(ディス)ユートピアの権力世界である。それはあらゆる人間性の集奪の上に成立する不毛の世界―人間を人間たらしめない権力集中への告発であった。ハーバード・リードがいみじくも指摘したように、ユートピアを装った体制の中にひとつの悪夢を構築することで“1984年”全体を風刺したのである。たとえ真理省は現代を支配する巨大化マスコミ組織、ゴールドスタインの哲学はマルクス主義の歴史観(トロツキーの『裏切られた革命』を模したものといわれるが、オーウェル独得の権力観を展開したエッセイである)、ニュースピークは英語の簡略化をはかるベイシック・イングリッシュ(言語について一家言を持ってきたオーウェルは、文化そのものである言語の簡略化が持つ危険性を警告する)、カブト虫のような党員はいわば党官僚や技術官僚のカリカチャアなのである。もちろん、作品全体が『動物農場』と同じような風刺劇として描かれているわけではなく、それはまた、政治的ユートピアがいかに諷刺の対象となりにくいかを物語るものであろう。(P.420―P.421 旧訳解説からの抜粋)
さて、旧訳の解説を読み終えて、一応この小説の背景などをおさえたところで、原著に戻り、P. Davisonの【注】を再度読んだ。今度は注意深く。出版の裏側を知り得て興味深かった。この小説の仕掛けの最大のテーマの一つ、数式2+2=5の5が組版段階で脱落していたにもかかわらず、イギリスの出版社もアメリカの出版社もミスしたまま刊行してしまった事実、また、英語版と米語版では語法に違いも。しかし、何よりアルゼンチンでのスペイン語版での当局の削除要請は、1949年(昭和24年)当時といえ、あまりにも衝撃的である。該当の削除頁を当たってみると、当局にとっては表現が道徳上いかがわしいものと映ったのだろうか。【注】者も次のように鋭く指摘している。「我々の時代の強力な権力を持つ動きに直に抗う目的の小説の基本的な理念を損ねてしまう」。この小説の読み方の一つは、過激な仕掛けがあればこそさらに想像力を膨らませて、一つひとつ繙いていく過程の中に気づきを(たとえ絶望の淵を歩かされても)、ごく普通の営みの中に優しさを見出すことなのかも知れない。ジョージ・オーウェルは書いている。政治的なものと芸術的なものの融合が最後のこの小説に課したテーマだと。
旧訳解説の最後に訳者も書いている。「『1984年』はわれわれにとっても重大である。なぜならそこには人間の尊厳をおびやかす実体が普遍的な問題として予言されているからであり、未来のはらむ危機と現代の政治的な荒廃とか、権力の構造ないし論理をぬきにしてはまったく考えられないからである」

追記 水道橋駅付近の通りで社民党の元党首福島瑞穂議員に偶然遭遇。背が低いが愛想は良く身近なところで手を振ってくれた。気さくぅ。(2018.6.4 記)

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超人の面白読書 131  ジョージ・オーウェル『1984年』 3

作家のトーマス・ピンチョン氏が解説で「オーウェルは永遠の反体制派として、労働党がその自己矛盾、とりわけ、戦時に、保守派の主導する圧政的な政府に盲従し、挙国一致体制に参加さえした矛盾と向き合うのを嬉々として助けたに違いない。一旦その種の権力の味を覚えた労働党が、創立者の理念を信奉し、虐げられた者の側に立った闘争に立ち戻る道を捨て、権力の拡大を図るというのは、いかにもありそうな話ではないか?この権力の意思を40年先の未来に投影してみるがいい。そうすれば、最後に再度待っているのは〈イングソック〉であり、オセアニアであり、〈ビッグ・ブラザー〉なのだ」と書いているが、この小説の真髄を言い当てている気がする。
SF小説、近未来小説、政治小説、寓意小説、恋愛小説等々この小説は読み方によっていろいろとジャンル分けが可能だ。小説(新訳と原書併読)、映画、漫画、舞台と媒体を変換しながら、この小説の全体像に肉薄しようと試みる旅は、道半ばで小括の試みと旧訳に当たって新旧のニュアンスを確認するに至った。ところが、この旧訳本が絶版で手に入りにくく往生していたが(近くの公共図書館に借り出しを申し込んでも3ヶ月待ち状態)、かろうじて大学図書館で見つけて今ほっとしている。
『1984年』が1949年に出版されて来年で70年になる。オーウェルが描いたオセアニア、ユーラシア、イースタシア(彼が生きた1930年代―40年代の英国とアメリカ、ヨーロッパ、スターリンの旧ソヴィエト連邦と中国や日本の世界情勢、それは戦争と平和それにイデオロギーが対立する時代でもあった)を念頭に置きながら現状の世界情勢(約80年後の2018年)を一瞥すると、英国のEU離脱、プーチンロシアの独裁体制、トランプの独善的なディール外交とダブルシンクを思わせる政治、損得勘定それに唯我論的なアメリカ(一昨年、トランプの登場でその政治手法が『1984年』を彷彿させたのか評判になり本が売れた)、習近平の独裁体制の中国、不安定な朝鮮半島、中東アジアの紛争、アフリカの内戦等々不確実な時代が、国連の機能が空回りしているくらい、非核化・戦争放棄(たった今入ったニュース。北朝鮮が豊渓里の地下核実験場廃棄のため爆破と韓国通信社が報道。2018年5月24日午後8時過ぎだったが、さらに驚かされたのがアメリカのトランプ大統領が6月12日のシンガポールでの米朝首脳会談を中止したことだ。非核化の道は遠いということか。異例の北朝鮮の金委員長への書簡まで公開した。が、ここで事態は急展開、韓国文大統領と北朝鮮の金委員長が板門店で秘密裏に2回目の会談を行い、直後に今度はアメリカのトランプ大統領が、米朝首脳会談をする用意があると撤回した。どうなっているのか、先行き不透明で不可解だ)と平和維持の困難さを露呈したままなのだ。オーウェルの描いた世界とどう符合するのか。

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クロカル超人が行く 217 相鉄本線・小田急江ノ島線大和駅『大和市立図書館』続

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【写真上から: 大和市立図書館外観 案内板 2階の外には神社が】

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クロカル超人が行く  217 相鉄本線・小田急江ノ島線大和駅駅『大和市立図書館』

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【写真左上: 大和市立図書館 『 図書館雑誌 』Vol.112. No.2 2018年2月号より 写真右・写真下の図書館内の写真は全て筆者=撮影】

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2016年11月3日に場所を替えオープンした大和市立図書館。オープンして1年半、ハードとソフトの両面で画期的な試みが奏功したのか、300万人以上の来館者があり今や日本一の図書館に。何しろ今までの図書館のイメージを覆して縛りをなくし、自由に読書できる空間を提供したことがウケたらしい。逆転の発想もこうなるとアッパレというほかない。館内での飲み食いは自由、スタバとローソンも入って、芸術文化ホール、生涯学習センター、キッズが遊べる場所や小さな学び空間などもあり、子どもから大人まで読書しながら楽しめる、それが文化創造拠点SiRiUS、言わば、リテラシー改革の発信基地だ。心に響く・心が躍る・心をつなぐがキャッチフレーズ。地域の牽引力としての公共図書館の未来形(will)が少しみえた。
さて、入館。趣のあるがっしりとした旧館は何度か訪ねたことがあるが、新館は、周辺が整備されて更に駅に近くなった。外観は何となく“環境に優しい要塞基地”を思わせる”コンテンポラリーな建築物である。1階から6階までコンセプトが明確なレイアウト(1階~3階まではエスカレーターでそれ以上はエレベーター使用。もちろん階段も利用可能)、ブラウン系の落ち着いた棚の色、本や雑誌など大きな数字で分かりやすくジャンル分けして配置、快適に読書できるよう用途に応じた机や椅子の組み合わせ等々斬新な試みがいくつも目についた。5階には本や雑誌などが自由に検索できる端末機と貸出等が簡単にできる端末機が置いてある。スキャナー技術が進化し、その技術の応用が貸出や返却のシステムにもみられる。特に高校生のプチグループや中高年が目立ったが、キッズ連れのファミリーも。中には車椅子で来館した元気な年配者もいた。4階は健康都市図書館と命名された健康に関する本や雑誌が陳列されている。館内には健康をチェックできる器具やエクササイズができる器具まである。大和市は健康都市宣言を謳い、高齢者の健康維持で治療費などをおえる運動を展開中だ。その他に託児所施設も。一日中いても飽きない図書館だ。この図書館の詳細情報はこちらが参考になる→https://www.trc.co.jp/topics/event/e_yamato.html

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超人のジャーナリスト・アイ 170 スウェーデン アカデミーのスキャンダル

前回の作家シャスティン・エックマン女史の『A Public Space』記事で、スウェーデン アカデミーのことが書かれていたが、そのスウェーデン アカデミーで前代未聞のスキャンダルが起きて、今年のノーベル文学賞は中止になり、来年二人の受賞者を発表すると報道された。18世紀に創設された伝統あるスウェーデン アカデミーは、権威失墜を免れず建て直しに時間がかかる見通しだ。改革派と守旧派が激しく対立し、事務局長や会員の辞任が相次いでいるという。下記はスウェーデンの文芸ジャーナリスト、クリステル・デューク氏(夫人は2011年ノーベル文学賞受賞者のスウェーデンの詩人、トーマス・トランスロンメル氏の作品『悲しみのゴンドラ』の翻訳者)がこのスウェーデン アカデミーのスキャンダルの動向について毎日新聞に寄稿した記事。その記事を読むはこちら→「20180518123452.pdf」

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超人のジャーナリスト・アイ 169 ニューヨーク・ブルックリンの文芸雑誌『A Public Space』からつい先程メールで届いた最新情報にスウェーデンの作家Kerstin Ekmanの記事

忘れかけていたスウェーデンの作家Kerstin Ekmanの記事。やはりニューヨークの文学シーンには北欧文学は時折登場するのかしら。下記は本日メールで届いた『A Public Space』の最新記事から。Reflecting on Dissent Writing from the APS Archive.

Given the dialogues within and around the Nobel academy, we're revisiting our feature on Kerstin Ekman, who was profiled by Dorthe Nors in our pages:

The Work of Kerstin Ekman | Selected and Introduced by Dorthe Nors • May 2, 2014 Share:

Literature Begets Literature

All through my twenties I sat immersed in Kerstin Ekman’s novels. I believe she taught me to write. Now I have traveled to Stockholm to meet her. It feels like going back in time.
We have arranged to meet at Clas på Hörnet on Surbrunnsgatan, one of the city’s oldest restaurants (legend has it that the likes of King Gustav III and Sweden’s great eighteenth-century troubadour Carl Michael Bellman regularly let their hair down here). When I arrive Kerstin Ekman is waiting on a chair in the lobby. Famous people look like they do in pictures: her hair is white and neat, her deep-set eyes keen and kind, but with an air of authority too. The same authority with which she resigned from the Swedish Academy in 1989 because of what she saw as the laxity of its stance on Salman Rushdie’s fatwa. I sense that walking out like that wouldn’t have bothered her in the slightest. More likely it suited her fine to pull on a pair of walking boots and stride off into the Swedish wilds. Her literature is like that too.
*
Kerstin Ekman was born in 1933 in Katrineholm, a small, industrial town in the middle of Sweden. After studying German at university, she published several crime novels, but in the 1960s her writing changed aspect as she expanded the genre novel with grand, existential prose; and in the 1970s, with Women and the City, a series of trailblazing historical novels, she established her reputation as one of Sweden’s sharpest social critics and an important figure in a generation that radically changed the destinies of women, including women writers.

When I read Ekman’s books as a young woman I was very absorbed with the things she wrote about the importance of memory, not only to us as individuals but also for a narrative. The process of remembering is a big part of the narrative—that is life—and without acknowledging it we lose track. Reading her work again now, at the age of forty-three, I discover how much the plight of women stands at the center of the ouevre. I also realize that what she—and other Swedish artists—taught me was to stay in the painful process of creation. To be courageous. To stick to it.

At lunch Ekman is polite and discerning, though when she notices a dog outside the window, a golden retriever rolling in the snow, she welcomes the distraction. (Ekman loves dogs. Not only do they appear in all her books, but one of her novels, The Dog, even has one as its main character.) “Hello, there,” she says, tapping her finger against the pane. The dog looks at her gleefully.

“I prefer to sit at home reading and writing,” Ekman confesses when I ask her how she relates to the world abroad. Our fish is served and we crunch conspicuously on our toasted bread. “I haven’t traveled overseas that much to promote my books. I don’t consider I have the time. I’m an introvert. But I have traveled extensively in the Nordic countries, and some years ago I was in Germany, though I really hadn’t the inclination. There was a school reunion in Katrineholm to which I was invited and didn’t want to go, and then came this invitation from Germany that I could use as an excuse. It was because my old high-school sweetheart, whom I was so very much in love with at the time, was going to be there at the reunion. I couldn’t bear the thought of seeing him as a fat old man. I wanted to remember him as he was then, and so I went to Germany instead. It was hell, going from one bookstore to the next to do readings and then stand there toasting with champagne in the company of mayors. And when I returned home I was sent a photograph from the reunion—and there he was in the picture, so handsome. How fortunate I hadn’t taken part! Imagine what could have happened!

“So no, I haven’t traveled much with my books. I find it so much nicer being at home—I know that I have to write in my own way, and if I sit in a corner of the world and offer resistance, then that’s my way of doing things. One has to believe that someone will discover the things one writes. The valuable work always survives. Books have their readers, and from that moment things can take a turn, things of a literary or political nature, or something else entirely. I believe that. If I didn’t, to keep on writing wouldn’t be much fun at all.”

After lunch, I ask if I can take her photograph. Like a doting mother (Ekman’s middle name is Lillemor, little mother, and we become what we are called) she beckons me to sit down next to her. We exchange books. She writes a dedication to me in her own, and I do likewise. It’s a happy conclusion, our lunch is over, and then the idol of my youth is gone, departed into Stockholm’s winter.

1. A Question for My Father

In this talk from a writers’ conference in 1995 at the Louisiana Museum of Modern Art, Ekman sketches the fundamental themes of her work and what has inspired her over the years—women’s ambivalent relationship to the construction of society.

“It’s natural for me to depict society and to write about politics and technology—in that respect, as A Question for My Father makes clear, my father is there in the background. He was an incorrigible optimist when it came to science and progress, which he believed would save the world. Imagine if he had been around to see how far we’ve come! His world was in stark contrast to that of my mother. My mother was a born storyteller. She wasn’t an active proponent of the women’s cause, but she always took a female aspect on things. Gradually I began to realize there is a need to combat male construction of history. Which is not the same as saying that I don’t love my father and can’t see that he was dependent upon the beliefs he possessed. But after all, I am a woman and I see things from the woman’s viewpoint.”

2. Witches’ Rings

This is the first volume in Women and the City, a series of four novels set in and around Katrineholm—the small, industrial town where Ekman grew up—as it grows from a village to a provincial city over the course of the twentieth century.

“I had read a lot of books that took place in important places. I was about seventeen, I suppose, and would go to the Stadsbibliotek at home in Katrineholm. When I reached the age when I began to really ingest literature, I devoured the books that came in volumes. The Forsythe Saga, for instance. Les Thibault by Roger Martin du Gard. That sort of thing. You might wonder how much a high-school student from Katrineholm got out of reading about the Catholic environment portrayed in a work like that. But I think it attracted me because the small town in which I grew up was rather dull. And so it came as something of a shock to me to read Eyvind Johnson’s Minnas because it was set in a town just like that. I thought: Aha, so you don’t have to write about Paris.”

Ekman’s female characters often must subordinate themselves to their gender. In this scene, which takes places in the early 1900s, thirteen year old Edla, a scullery maid at the local railway hotel, eavesdrops behind doors and is initiated into the biblical tale of the virgin birth, while biology is already at work to determine her fate.

“In the nineteenth century, woman was biologicalized completely. Our gray matter was insufficient for us to think, our brains weighed too little and Darwin saw woman as a midway stage between child and man. But the fact is that we do possess a biological destiny and it entails that we become pregnant and give birth—not forgetting the power of comfort and caring. We carry a very considerable heritage on our shoulders, not only historically, politically, and socially, but also biologically. It is a heritage with which we are saddled. And if we refuse to carry it, we lose much of our reality.”

3. The Knife-Thrower’s Woman

The biological destiny of women is a theme to which Ekman has returned often in her work. The Knife-Thrower’s Woman, her only published volume of poetry, is an intensely personal account of a young woman’s ectopic pregnancy, miscarriage, and subsequent hysterectomy. Suffering from depression after the operation, she descends in a mythic journey into the darkest recesses of herself in order to regain her life.

“Moa Martinson wrote about this subject in Sweden—the female body, she wrote, is as scarred as a runestone by pregnancy and childbirth. I remember an illustrious critic by the name of Anders Österling, whom I knew from my time in the Swedish Academy, reviewing one of her books and concluding: the perspective of the womb prevails here. The perspective of the womb! I had no idea he was capable of such an opinion. I was very fond of Österling but when I read that, it was as though something exploded in my mind. I immediately went upstairs to my study and dug out a manuscript I had decided never to publish. It became The Knife Thrower’s Woman, and I can assure you it is a book in which the perspective of the womb prevails! But to think: I had put it away in a cupboard, and I had put it there precisely because in that manuscript the perspective of the womb prevailed. Astonishing, don’t you think?”

I love Ekman’s description of compassion as that which is divine in the relationship between people: “How wondrous it is that some want to get up early / drink instant coffee, take the bus and soothe / or try to soothe the pain, to heal.”

4. Bring Me Back to Life

“I believe very strongly that literature begets literature. That’s how it works."

Although this novel—in which a group of women meet regularly for conversation in Stockholm during the 1990s—can be read independently, it is very much in conversation with Eyvind Johnson’s Krilon Suite trilogy. Written during World War II and fiercely critical of National Socialism, Johnson’s trilogy portrays the character of Johannes Krilon and the work carried out by his resistance cell.

“It was after I left the Academy. We had bought an apartment here in Stockholm and one evening we had friends round, a professor of literature and his wife. We got talking about Eyvind Johnson’s Krilon Suite, and the morning after I went out for a walk with the dog. I walked towards Bellevue with her. Silva was her name. The idea suddenly came to me as we were walking along. I wanted to write a book in which women make up a kind of resistance movement, just like the men of Johnson’s Krilon Suite. I couldn’t stop thinking about it and didn’t dare go home again. It was just welling up in me there and we kept on walking. Eventually the dog tired, although she was a hunting hound, but I felt no sense of fatigue at all. When we got home I sat down and filled eleven small notebooks. Afterwards, I was so exhausted I could have fainted.”

You also see another one of Ekman’s central themes—the significance of memory, for us as individuals and for the narrative—in this novel, the title of which refers obliquely to the “remember me” aria in Dido and Aeneas.

“I was thinking of remember as re-member or bring me back to life. It is a bit of falsified etymology, for I think that remember and member as in limb actually have different origins. Yet memory is indeed that which assembles a person’s limbs into a living gestalt. I find the thought fascinating—and besides, I’m getting closer and closer to the age of Oda. Actually I may have reached her age now.”


5. The Practice of Murder

This novel, set in the early twentieth century, depicts the motivations of a cynic with precision and, like Bring Me Back to Life, is also in conversation with another book—in this case, Hjalmar Söderberg’s novel Doctor Glas. Pontus Revinge, a young physician who earns his living from examining prostitutes for sexually transmitted diseases, he poisons his part-time employer, Dr. Johannes Harms, marries his widow, and takes over his victim’s practice and life. (He also nurtures an infatuation with their daughter).

“Although this chapter doesn’t exactly showcase its most attractive characters, it’s an entertaining book. I enjoyed writing it, but it also made my gorge rise. You see, I wanted to show where misogyny comes from.”

In this scene, Revinge who has recently murdered Harms, finds out that his widow plans to sell him the practice.

6. Scratchcards

This is the third volume in Ekman’s Wolfskin trilogy. Elis (aka Elias) Elv, who was a very young man when the trilogy opened, is now an elderly man, with many secrets. In the first excerpt below, we follow one of his many “crimes.” The essence of Scratchcards is how the past always catches up with us. In the second excerpt Risten, the Sami narrator of all three books, tells how her son Klemens killed a wolf. In the northernmost part of Sweden, the Samis are attempting in vain to preserve their traditional way of life as the laws of contemporary civilization are imposed on them. Klemens is trapped between tradition and modernity and marginalized, as are the Sami generally. The wolf, a pervasive symbol, begins and ends this trilogy, which spans the twentieth century.

7. The Con Game—Grand Finale

In her latest novel, Ekman describes the intertwined fates of two women: Lillemor Troj appears to be a well-known contemporary author who has won may literary prizes. Her friend Barbro (Babba) Andersson, however, turns out to be the real writer, but is convinced that she cannot live up to her status because of an unattractive exterior and an antisocial bent. Together, the two women enjoy a long, successful literary collaboration until Babba decides to come out of hiding. Lillemor has been a sort of mask for her, a position she now attacks by writing in secret and submitting to “their” publisher a manuscript revealing the truth.

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Dorthe Nors is the author of five books in her native Denmark, including the story collection Karate Chop, for which she received the 2014 Per Olov Enquist Literary Prize. She lives in Jutland.

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A Public Space is an independent nonprofit publisher of an eponymous award-winning literary, arts, and culture magazine, and APS Books. Under the direction of founding editor Brigid Hughes since 2006, it has been our mission to seek out overlooked and unclassifiable work, and to publish writing from beyond established confines. Subscribe today, and join the conversation.

この文芸雑誌は創刊号から知っているがよく続いている。短編が中心で詩、評論、エッセイ、翻訳、ルポ、写真、美術評論ほか盛りだくさんしかも執筆者も様々で多彩かつ斬新、いつも感心している。

作家Kerstin Ekmanは、大分前にスウェーデンの文芸評論家が書いた「北欧文学素描」に出てくる。筆者による翻訳記事を読むはこちら→http://crocul.cocolog-nifty.com/callsay/2005/05/6_bad5.html

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超人の面白読書 132 ネットで西脇順三郎『旅人かえらず』を読む

詩人の和合亮一氏が、毎日新聞夕刊の詩月評「詩の橋を渡って」(2018年4月13日)の冒頭で西脇順三郎の詩『旅人かえらず』(講談社学芸文庫)について言及していた。テレビ番組のコーナーで脚本家の大石静氏がこの文庫をカバンに入れて持ち歩いていることを紹介。今静かな話題になっていると書いていた。西脇順三郎の初期傑作を新鮮な覚醒の詩と評価し、それに対して、戦後すぐに刊行された『旅人かえらず』は、誰にでも親しめる身近な短い詩だと書き記した。『詩人 西脇順三郎』(クロスカルチャー出版)の著者の一人、太田昌孝氏に倣えば、『旅人かえらず』はアタルシア(心の平安)をもたらす詩なのだ。検索して解ったことなのだが、テレビ番組は安定した視聴率を誇る、つい1ヶ月ほど前まで有働由美子が司会を務めていたNHK「あさイチ」(2018年4月13日放送)だった。この番組は全国放送なので影響力があるはず。試しにアマゾンを覗いたらこの文庫は品切状態で、一部の古本屋にも在庫がなかった。筆者は大分前に手にして何度も読んでいる。今回ネットで読めることを発見したのだ。在阪の文学愛好者のサイトだ。このサイトで1時間かけて全168篇を再読。なるほど、なるほど。多摩川周辺を逍遙する西脇順三郎がいる、自然と戯れ、ときどき学識を散りばめながら自由自在に歩く〈幻影の人〉がいた。何故か永井荷風の下町逍遙を思い出した。少し時代は違うが同じ慶応の教授だった。仏文学と英文学の違いはあったが、後年は二人とも日本の江戸文学と民俗学に傾いた。『旅人かえらず』を読めるサイトはこちら→
http://www.asahi-net.or.jp/~va6n-nsok/shi1/tabibito-shi.html

このサイトから一篇。こういう詩もあるのだ。

二八

学問もやれず
絵もかけず
鎌倉の奥
釈迦堂の坂道を歩く
淋しい夏を過ごした
あの岩のトンネルの中で
石地蔵の頭をひろつたり
草をつんだり
トンネルの近くで
下から
うなぎを追つて来た二人の男に
あつたこんな山の上で


追記 筆者は今江ノ島アイランドに。これから鎌倉へ。ゴールデンウィークの後半戦、ときどき強い風が吹いているが、夏日を思わせる暑さと人混み、が、海からの風でクールな気分。マラルメの詩の『海の微風』の一篇も良いが、西脇詩、いいね。(5月4日 記)

追記2 この3月に退職した英米文学研究者(エズラ・パウンド研究、谷川俊太郎などの日本の詩人の翻訳などが専門)のN先生から最近贈られてきた翻訳本(An Anthology of Japanese Poems (1900s-1960s THE SINGING HEART compiled and annotated by Yamamoto Kenkichi Translated by William I. Elliot and Nishihara Katsumasa, Hon-no-shiro 2001. 原書: 山本健吉著『こころのうた』)文春文庫 1981年5月25日第1刷)、その中の西脇順三郎の「旅人かえらず」のページをN先生に許可を得て抜粋してみた。ドナルド・キ―ン訳などと比較すると良い詩歌鑑賞になるのではないかと。その抜粋部分を読むはこちら→表紙と翻訳文「20180515114523.pdf」をダウンロード 原書『こころのうた』の西脇順三郎「旅人かえらず」のページ「20180515114506.pdf」をダウンロード (5月15日 記)

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超人の面白テレビ視聴 歌手・ヴァイオリニスト サラ・オレイン 続

実は昨日の土曜日から妖精、癒しの歌姫、サラ・オレイン
Sarah Àlainnさん(筆者は昨年度だったか、NHK語学番組「大人の基礎英語」に講師として出演していたので少しは知っていた)の歌やゲスト出演した番組をずっとYouTubeで視聴していたのだ。3オクターブの音域を持つ、父親がオーストリア人の外交官、母親が音楽教授の日本人でオーストリア国籍のシンガー・ヴァイオリニスト。また、作詞家、作曲家、翻訳者、ディレクター、コピーライターの顔も。シドニー大学では言語学部でイタリア語など、音楽部では音楽理論などを専攻し首席で卒業(『ジブリ』などのアニメで日本語を学び、三島由紀夫の『金閣寺』The Temple of the Golden Pavilionを読み衝撃を受け、日本文学、文化にも興味を持ったらしい。母親は日本人だが家では専ら英語だった)、当時の東大教養学部にも留学している。まさしく才色兼備の女性だ。高音で歌い上げる歌は、しっかりした音程の上に感情が乗り、サラワールド、そう、アルファ波を出すヒーリング感たっぷりの新しい世界を創り出している(1/fのゆらぎの声の持ち主)。2010年にメジャーデビューを果たしている。なぜか九州での仕事が多いようだ。2012年11月にはNHKBS-1「地球テレビ エルモンド」に出演していた。この番組は筆者もよく観ていたが、サラ・オレインさんが出ていたとは知らなんだ!彼女のwebsiteによれば今秋からコンサートツアーが始まる。これからのサラ・オレインさんの“芸術”活動に目が離せない。サラ・オレインさんの詳細を知りたい方はこちらへアクセスされたい→http://www.sarahalainn.net/menu/index.html
追記 サラ・オレインさんの「ワイドナショー」に初出演した感想や次のテレビ番組出演まで書いている最新のインスタはこちらで→https://www.instagram.com/p/Bit8CiCl7KR/
ここで彼女が書いていたが「ワイドナショー」に出演した時の服装は私服だった。でもピンクが映えていた。So cute !
鬼母親はマイッタ、気持ちは分かるけど、ここは厳しい母親かママぐらいに。Sarah Àlainn の“Àlainn”の名前は、スコットランド・ゲール語(Old Irish)で美しいという意味らしい。やはり妖精fairyがたくさん住む国から来たようだ。(2018.5.14 記)
追記2 サラ・オレインさん、ムーミンが大好きみたい。

追記3 サラ・オレインさんが昨夜BS-TBSの番組『Sound Inn“S”』に出演して、「Time To Say Goodbye」 、「君をのせて」、ビートルズメドレーなどを歌い、自ら作曲したヴァイオリン曲「Animus」を披露した。衣装の色は赤、構成などを考えての歌(本人が言っていたが、一曲の歌を出だしは母国語の英語で歌い、次にヴァイオリン演奏を挟み、最後は日本語の歌で締める)とヴァイオリン演奏は、今までのアーティストとは一線を画する、チャレンジするアーティスト、表現者のようにみえた。これからも注目したい。この番組の詳細は収録模様を書いていたこちらで→https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakahisakatsu/20180519-00085379/

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超人の面白テレビ視聴 歌手・ヴァイオリニスト サラ・オレイン

歌手でヴァイオリニストのサラ・オレインSarah Àlainnさんがフジテレビの「ワイドナショー」にゲストコメンターとして初出演を果した。IT社長と芸能人の結婚、スペインのサッカーチームの大物のJリーグへの移籍の可能性、世界卓球選手権での北朝鮮と韓国との突然組まれた合同コリアンチームと日本チームの戸惑いそれにルール問題、セクハラの罪云々の麻生財務大臣と記者との短いやり取り、北東アジア情勢で北朝鮮、中国、韓国の動きに日本が蚊帳の外状態、北朝鮮の金正恩委員長と米国のトランプ大統領との史上初首脳会談の話題、東大生協が食堂リニューアルで飾ってあった絵画を破棄した新聞記事、母の日に花を贈ること等ワイドショー的な切り口に、一部面白いコメントも見受けられたが、ここまではごく常識的な範囲のコメントのようだった(もっとも初登場で緊張していたのかも知れない)。が、音に関する話題になると、俄然本領を発揮していた。それは音デザイナーズの調査のリストで日常的に不快に感じる音、例えば、蚊の飛ぶ音、歯ぎしりする音、ガラスを爪で鳴らす音、歯の削る音だったりと人が生理的に受け入れづらい音なのだが、サラ・オレインさんにどう思うかと司会者が尋ねると、驚いたことに、絶対音感の持ち主でかつ音を色で言い表わすことができる共感覚の持ち主だったのだ。映画『サウンド オブ ミュージック』のドレミの歌のドは実際はドの音ではないとも(実際の音を言っていたが失念した、Bフラットとか言っていた?)。そういう音に違和感を覚えるという。幼少期、音の違いに気づき元に戻らないのではないかという恐怖感に悩んで薬を飲んだこともあったと、筆者には理解しにくい“衝撃的な音楽体験”を語ってくれた。ゲストのタレントのヒロミがコップを叩いて音当てを試みたら、サラ・オレインさんがその音を見事に言い当てていた。この番組の中心メンバーの芸人松本人志などはこの話題についていけない様子だった。もう一人ゲストコメンテーターのミュージシャン土屋社央(筆者はほとんど知らないが)が時折気の利いたコメントを出していた。
尚、グーグルなどで「ワイドナショー」と検索をかけると、この番組を視聴できるみたい。(続く)

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超人の面白読書 131 ジョ―ジ・オーウェル『1984年』 2

It was a bright cold day in April, and the clocks were striking thirteen. Winston Smith, his chin nuzzled into his breast in an effort to escape the vile wind, slipped quickly through the glass door of Victory Mansions, though not quickly enough to prevent a swirl of gritty dust from entering along with him.


―from GEORGE ORWELL Nineteen Eighty- Four with an Introduction by Thomas Pynchon and A Note on the Text by Peter Davison, Penguin Books

4月の晴れた寒い日だった。時計が13時を打っている。ウィンストン・スミスは不快な風を避けようと顎を胸に埋めるようにしながら、ヴィクトリー・マンションのガラス製のドアを素早く通り抜けた。素早くとは言っても、砂埃の渦が自分について入ってくるのは防ぎようがない。

高橋和久訳(ハヤカワ文庫 2017年2月15日31刷)

これがジョージ・オーウェル作『1984年』の原著、Nineteen Eighty-four の出だしである。第1部8章、第2部10章、第3部11章と附録からなるディストピア(反ユートピア)小説。去年6月に高橋和久訳の『1984年』を通勤電車の中で読み終えたが、同じく主に通勤電車の中で再読(いやはや、約1年前に読んでいたのだが、内容を大分忘れていた!情けない)、こちらは所々晴天下、狭い庭先の椅子にもたれての読書となった。休日の野外での読書は至福の時で、同時に、室内から流れるクラシック音楽(この時はボッチャーのバイオリンなど)を聴きながらの読書はこれまた、格別だ。“プロール”に毛のはいた筆者の身分では別荘で過ごしているような錯覚である(笑)。弁解めくが注意深く読んでみようと考えたことは確かだ・・・。所々原書と併読しながら高橋和久訳の『1984年』(481頁)を読み終えたわけだが、「こなれた訳」と前回読んだと同じような感想を持った。いや、更にその思いを強く持ったと言ったほうがより正確だろうか。ともかく読み易いのだ。それと原著『Nineteen Eighty-Four』のジョージ・オーウェルの文章には複雑な文の構造が比較的少なく、平易な言葉で綴られていることだ。が、その代わりいわゆる“オーウェル語”の定義を正確に理解することまた、当時(1930年~1940年代頃)の時代背景をおさえておくことは必須だ。むしろ、こちらのほうがより重要で頭に叩き込んでおく必要があるだろう。余談だが、訳者の高橋和久氏のトークショーが先週観た芝居『1984年』後にあったことを帰りの電車の中で気づいた。後の祭りだった。ぜひ拝聴したかったのに残念である。(続く)

追記 You Tubeで『Nineteen Eighty-Four』の朗読が聴ける。→ https://youtu.be/xMzBETLocSA

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