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遠い記憶 ある死その7 長男Y男の少し早すぎた死

栄枯盛衰世のならわしとは含蓄に富んだ言葉だ。一地方の小企業が昭和20年代後半でピークを迎えるとそれ以降は次第に地方に進出して来た大企業に駆逐されて行く。かつてのK家もその例に漏れなかった。日本国が大きく変化し高度成長を遂げ始まるきっかけをつくった昭和39年の東京オリンピック、その時期から遡ること4、5年前だったか。半商半農のK家は当時両親と男4人女2人の6人兄弟姉妹の家族構成で、生活は決して楽ではなく子どもたちは家業の手伝いを余儀なくされていた。春夏秋冬ほとんど休みのない子どもたちの家業の手伝いは、ある意味ではかけがいのない労働力を提供して家計を助けたはずだが、それでも家計は苦しく外に働きに出ざる得ない状況もあったのだ。遠い記憶はその家族の犠牲者となった一人の人物を否応なしに引き出す。シリアス映画のワンシーンそのもの。その人物こそ3日前に急死した長男Y男である。
ある夜のこと、珍しくK家では深刻な家族会議が玄関を入ってすぐの六畳の居間で行われた。子どもたちの前で父が家業の窮状を告げ、それに対して二言三言言ってすすり泣く母がいた。奥の納戸の前に座っていた長男に父がT屋に働きに出てくれと告げた。それが長男Y男とっての出稼ぎの始まりだった。要は長男故稼ぎの糧にされたのである。
家業がうまく行っている間長男長女は大事に扱われたが、せいぜい7、8才止まりだった。長女N子ともどものんびりした性格で育ちの良さも伺えるほどだ。その頃K家の洒落た薄黄色の小さな工場の裏には何本もの無花果の木と桐木があって、小学生だった丸坊主で制服を着た長男Y男がその無花果の木に登っておどけて見せた。無花果の木の下には笊に一杯の取り立ての無花果があった。弟たちに自慢したかったのかもー。それは家族の古いアルバムの一ページにモノクロの写真で収められていたが、はて、古い家が放火で焼失(そう、K男は実家が焼失し新築した時期は、青春時代のど真ん中でアルバイト三昧の日々。正直言って経済的にも全く余裕がなかった。だから実家の放火→新築の過程は分からず。しかし、家計を支えていたのは長男Y男夫婦だったのである)してからは、今実家を継いでいる末弟M男が持っているのか定かではない。かつてK家で働いていたH女史が撮ったものか、今となってはそれこそ遠い消えかえそうな記憶だ。そういう楽しい日々もあったのだ。それから何年か経って家業が傾き、前に書いたように長男の出稼ぎが始まったのである。
Here's an eldest brother in family history.
記憶はさらに違った局面も抉り出す。こんなこともあった。一つは何かの調子で父の逆鱗に触れ、長男Y男が当時家業で使っていた大きな冷蔵庫に小一時間閉じ込められたこと、また、地元の夕刊紙にも写真入りで掲載された台風余波中洲置き去り事件は、小さな集落の大事件で今もって語り草となっている。長男Y男の母が亡くなったあとすぐ彼の家に焼香に来てくれた友人の一人に、彼の叔父がその当時のことを尋ねていたので、やはり伝説化していて関係者の脳裏に焼き付いていたのだ。夏のある日、台風が近づいているにも拘わらず近所の同級生何人かとN川で水遊びをしている最中に、台風の影響で急にN川の水かさが増して流され、中洲に漂着したものの引き返しができず置き去りにされてしまった。通報を受けた消防隊員が助けに出て一命をとりとめたという、誠に人騒がせな出来事だった。それは今たがらこそ笑える話だが一歩間違えば命を落としかねない非常事態だ。幼少期の苦い思い出だろう。
長男Y男はその後仕事を替えてサラリーマンになった。ある時期から請われて叔母夫妻の青果店の店長として働き独立、すでに結婚していて夫婦ではじめた青果店だったが、Y男はその事業をU駅近くのショッピングセンターの中でしばらく続けたが、立地が悪いのか客足が今一でうまくいかなかった。それと自分たちではじめた青果店だが以前に働いていた青果会社の叔母たちが役員に入り、まだ事業が利益を十分に出させずにいる段階でそれなりの報酬を払っていたことも経営を圧迫していたのかも知れない。これはK男が長男Y男から実際に聞いた話で、今だから書けるが、叔母にはこの役員報酬の話は内緒にと口止めされていたのだ。長男Y男にも遠慮があったのだ。そこはビジネスと割り切って事業が軌道に乗るまで凍結してもらっても良さそうに思うが、見栄というか独立するときの条件か何か柵があったのか、門外漢のK男には分からないままだ。それはどうだろう、K男が想像するにビジネスの基本で最も重要なことだが、計画的な事業遂行が見通せなければ撤退も仕方なしの大原則の決断を踏襲することなのだが、これができなくずるずるとさらなる悪化を招いてしまったのだと想像する。経営悪化の泥沼化だ。確かにどのタイミングで決断を下すかがなかなか難しいことなのだが。会社経営している人たちが攻めの営業展開するより守りを固めることがもっと難しいかよく知っていると思うのだ。長男Y男はこのビジネスの総合的判断からして見通しの甘さを露呈した形だ。時すでに遅しー。生前Y男の叔母がどういうつもりで言ったか知らないが、K男に「Y店長は計画性がないね」と言っていたことを思い出す。若い頃から一家の長として自分のやりたいことがままならないジレンマと闘ううちに(それは経済的な理由で満足に上級学校に進学できなかった無念さもあったことは容易に想像がつく)、自然と「仕方がない、今日を生きさえすればいい」という刹那的な見方や諦観や無常観が芽生えていたのだろう。さらに長男Y男が母から子どもが授からないことを咎めらたとK男に話していたこともあった。そのことも長男Y男の諦観や無常観を助長したものと思われるのだ。優しい繊細な男の心情を慮る配慮がK家には不足していたのかも知れない。今でいう家族のコミュニケーション力が足りなかったのだ。家父長制が多分に残っていて長男長女の両親にもそれなりの重荷に耐えた歴史があったからこそ、母の言葉も自然と出てきたことなのかも知れない。跡継ぎ問題はどこの家庭でも重要なテーマだ。K男が思うに、そこには母の表面的な取り繕った構えた仕草ではない、もう一つの子どもに対する深い愛情に支えられた仕草があってしかるべきだった。母にその感情があったなら長男K男のその後の生き方も柔らかな肯定的な人生を歩んだはずだ。かつて帰省したときなど送迎の車の中で、家督を譲ってもいいと言っていたのを思い出す。それは諸事情が重なって嫌になっていた時期だったかも知れない。これも遠い記憶、消えかけた記憶の一つだ。そして長男Y男は青果店つながりで運送屋に。それから細君と惣菜店を営み、その商売が上向き出した時期に病に倒れた。心身ともどもボロボロだったかも知れない。70才の生涯だった。少し早すぎた死だ。せめて人生の帳尻が合う時期まで生きて欲しかった。あと10年はー。さぞ無念さが残る一生だったとは本人が一番知っていたかも知れない。酒、タバコそして競輪のギャンブルもやった。あまりにもあまりにも人間的であった。波乱万丈ともいえる長男Y男に長年連れ添った細君T女史には大感謝だろう。苦労が絶えなかったはずだが明るく振る舞ってくれた。
K男は小さいときから長男N男とは何となく少し距離をおいていた。とことん話し合ったことは一度もなかった。多分相互に干渉されたくない関係を保ちたかったのだろう。しかし、彼の人生を他山の石としたい。そして、作家梅崎春生の言葉を贈ろう。「人生 幻化(げんけ)に似たり」。ありがとう。Y男兄さん。さようなら。安らかにお休みください。合掌。
(2017年10月9日 記 10月10日修正)

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