« 超人のドキッとする絵画 16 アンドリュース・ワイエス死す | トップページ | 超人のジャーナリスト・アイ 100 第44代アメリカ大統領オバマ氏の就任演説 »

超人の面白読書 50 水村美苗著『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』

Img026 文芸雑誌「新潮」8月号に特別評論として掲載されてから3ヶ月近く経った10月下旬に、『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』が、第4章から第7章を書き下ろして単行本として筑摩書房から出版された。すでに話題づくりは出来ていて、案の定アマゾンドットコムではこのところ売り上げ第1位だったらしい。また、ネット上での書評も賛否両論があって賑やかだ。朝日新聞の文芸時評を担当している文芸評論家斉藤美奈子は、その状況を11月26日の文芸時評の冒頭で書いている。多くのブロガーが刺激したのは、この本がまさにネット時代の日本語と日本文学の未来を論じていたからだろう。続けて斉藤はいう。この本の議論の別れるところは、第7章の「英語教育と日本語教育」の章で、そこには作者水村美苗の国策として国民の一部を優れたバイリンガルとして育てよ、日本の国語教育は日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置けと主張していることに対して批判が出るのももっともだと言っているのだ。その美しい日本語を守れと主張する言説はナショナリストとほとんど見分けがつかないと語り、平等を原則としてきた日本の学校教育を覆すエリート主義の肯定だし、「日本文学の現状」を幼稚と決めつけるのも拙速すぎると批判している。

 さて、本書は下記の第7章からなる。
1章―アイオワの青い空の下で<自分たちの言葉>で書く人々
2章―パリでの話
3章―地球のあちこちで<外の言葉>で書いていた人々
4章―日本語という<国語>の誕生
5章―日本近代文学の奇跡
6章―インターネット時代の英語と<国語>
7章―英語教育と日本語教育

キーワードは<現地語>、<普遍語>、<国語>、<叡智を求める人>だ。筆者はすでに第3章まで雑誌掲載時に一気に読んだ。そしてその拙文を書いた(2008年8月10日、12日、15日)。昨日、買い込んでしばらくそのままにしていた本書の残り第4章から第7章までこれまた一気に読んだのだ。後半部分を読むと、この作者の評論のトーンが大きくうねり、<国語>の詳説、<文学>の読まれ方の詳説をやや文明論的な展開を踏襲しながら、結局は日本語というよりはむしろ、"奇跡的になりたった日本近代文学"の<読まれ方>が衰弱し、まさに危機的であると主張していることがよく解る。最近、と言ってもここ20年かそこらか、日本文学の衰退が叫ばれて久しい。巷間いわれていたことは、文学書はもはや以前ほど売れない、書き手が貧弱、問題意識が低い、文章力がない、日常雑辺的、文学賞の水増し現象、価値低下等々だったが、それはむしろ背景には経済価値優先の時代が続いたからではないのか。そのことは大学における文学部の衰退を見ればわかる。いや、人文科学の価値低下とも言ってもいい。実学の優先である。本書でも江戸後期緒方洪庵の緒方塾での福澤諭吉に言及していたが、その福澤諭吉が唱えた実学―。もう一つにはここで読みかえてみると、幅広く深い教養の復権だろう。但し、あまりに保守的にならずに適度にバランスの取れた格好でと、筆者は言いたいが。
 英語教育と日本語教育の問題提起。
この問題は以前から提起されては断ち切れし、また、浮上しては消えるという、いわば、その時代の背景から出てくることがしばしばだ。戦後すぐの頃、昭和30年代後半のオリンピックの頃、昭和40年代・・・平成と何度となく起きている。先月亡くなった加藤周一氏も、かつて朝日新聞の「夕陽妄語」で日本に住んでいる以上は英語を覚えたところで使う必要性に駆られないから上手くならない、日本語で充分なのだと書いていたし、作家・評論家の四方田犬彦氏も語学=会話力はその国に住んだ年数と比例するとも書いていた(『先生とわたし』。そして議論が沸騰すると右左の構図よろしく二分化、やがて曖昧のまま中断、もやもやで終わっている。しかし、今やインターネットの時代だ。ちょうど13年前の今頃、アメリカから入ってきたこの便利なツールについての議論が関係者の間で盛んに議論され、テレビはその普及の効用と悪用を報道していたのだ。そしてその普及に時間はかからなかった。むしろ法律的なものがついていけない状態がずっと続いたのだ。それではその言語はというと、プログラミング言語 ! いや、英語が主流だった。が、今や多言語でも可能。それだけインターネットが進化している証左だが、グローバル化が一気に進んだおかげで、負の遺産も背負い込まざるを得ない状態にもなったことも事実。ここで問題なのは英語を読めればインターネット上で外国の図書館、大学、研究者や書店などと手軽にアクセスでき、いろんな知識を即座に吸収し、知の蓄積、強いて言えば、幅広い教養も身につけることができることだ。ただ知の確かさは本のそれとはまた違って、著作権他いろいろと確認作業が必要なのだが。簡単に手に入るものほど身につかないのも事実だろう。本書にある福澤諭吉が塾長であった緒方洪庵の緒方塾の話。緒方塾の面々は、当時大名から2日間だけ借りた洋書を、筆写した貴重な辞書とみんなでにらめっこしながら、一人はその字句を覚えて次の人に読み、写しては翻訳を進めていった。しかも食事する間も寝る暇も惜しんで科学書の翻訳をした。そうして2日間でその原書を約束通り返したのだ。余談だが、この貴重な辞書は今大阪大学の文書館でみることができる。筆者は1年前に関係者の紹介で訪ねたのだ。このような話は『解体新書』の翻訳のところでも出てくるエピソードである。だが、それから150年以上が過ぎた現在、時代は変わった。英語が普遍語、昔の漢文、ギリシャ語・ラテン語に匹敵、そして日本語は亡びる運命に・・・。確かに6000語もある世界の言語は、ヨーロッパ、アフリカ、アジアなどの地域の一部では滅亡の危機に瀕している。言語学者や文化人類学者などがプロジェクトを組んでこれらの言語の保存に取り組み始めていると報告されている。たまたまその報告書の一部は筆者の手許にもある。言語帝国主義の行き過ぎも問題なのだ。英語は日本人にとっては便利な言語かも知れないが、コミュニケーションの手段、<共通語>程度に留めておくのが日本語を生かす道だと思うのだ。言語優位性を政治レベルで弄くり過ぎると、ベルギーのような言語紛争になり、泥沼化に発展しかねない。言語問題はデリケートな問題も孕むのだ。フランス文学者の鹿島茂氏はあるPR誌(朝日新聞出版『1冊の本』)で面白いことを言っていた。外国語の運用が上手い人は日本語が下手だ、逆に日本語がそれほど使っていない人は外国語の運用が上手いと。脳内に入る情報量の臨界点があって、バランスを取っているというのだ。近代の文学者や学生を調べたらしい。面白い見解ではあるが。
 作者水村美苗は優秀な帰国子女で後にその深い教養に裏打ちされて、誰も想像しなかった夏目漱石の『明暗』の続きを創作という形で『續明暗』を書いた作家だ。誰もがそのような半分不純な動機(大文豪の小説の続きを書くなんて!)で自ら小説を書かないが、この<外>からのアプローチは文学土壌的に不思議でも何ともなく、情報量の遮断されたところでは却って、新鮮なアプローチが可能だったろうと想像がつく。それが帰国後作家として成就した今、<内>からの日本語や日本人や教養の糧としてきた<近代文学>のよりどころが崩れてきていることを目のあたりにして憂い、アンダーソンにも助けられながら、このような書物を著すことになったのかもしれない。私の日本は、私の日本語はそして私の近代文学はどこに行ったの、と自問して悶々としている作者がいるような気がする。
この提言に応えようとすればの話だが、今の日本の教育の現状の全体的な座標軸のズレを大分直さなければならないと筆者は思うのだ。教育の機会均等、平等をベースに豊かな想像力と突飛な創造力のある力を組み合わせて教育力をつけることが先決問題だと思うのだ。思考回路と濾過装置という大きな人間の営為を考え直すパワーが必要だ。新たな価値の創出とも言い換えてもいい。それにしても、日本語は、日本文学は持続可能だろう、か―。
最後に文芸雑誌「新潮」2月号 追悼 加藤周一の水村美苗の声はどんなものだろうか、聞いてみよう。
 英語の世紀に入った今、英語の世紀が続く今、私たちの日本語は、加藤周一のような人に、科学の道に進まずに、そこへと帰っていきたいと思わせる言葉であり続けられるか。そこに自分の精神の足跡を刻みたいと思わせる言葉、その土壌こそを豊潤なものにしたいと思わせる言葉であり続けられるか。この問いを問わなければならないのは、今、すべての非英語圏の人間の宿命である。


|

« 超人のドキッとする絵画 16 アンドリュース・ワイエス死す | トップページ | 超人のジャーナリスト・アイ 100 第44代アメリカ大統領オバマ氏の就任演説 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/77059/43775875

この記事へのトラックバック一覧です: 超人の面白読書 50 水村美苗著『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』:

« 超人のドキッとする絵画 16 アンドリュース・ワイエス死す | トップページ | 超人のジャーナリスト・アイ 100 第44代アメリカ大統領オバマ氏の就任演説 »