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超人の面白読書 39 石川榮吉著『欧米人が見た開国期日本−異文化としての庶民生活』 7

 2009年横濱開港150周年記念企画、「横濱開港新聞」創刊号 嘉永6(1853)年6月9日 PR版 監修 横浜開港資料館・横浜都市発展記念館 発行 神奈川新聞社の一面トップ記事には浦賀沖「黒船」現る、ペリー提督、久里浜上陸、幕府に米大統領国書と太文字の見出し。この時ペリー提督は日本の開国を求めて幕府と交渉を繰り返したが、ついには老中首座の安部正弘は国書を受け取ることを同意、同提督は久里浜に上陸したとはこの新聞のリードだ。石炭補給地、捕鯨船燃料確保、遭難者の保護や食料、薪炭などの補給や通商を求めての上陸だった。1年後ペリー提督は再来日し日米和親条約が嘉永7(1854)年3月3日横浜村で締結(下田や箱館開港など12カ条)、この時の日本側通訳は森山栄之助、アメリカ側はウィリアムズとポートマンだ。この通訳官森山栄之助については次回の書評で触れる。この記事によれば、条約調印後ペリー提督一行は、しばしの休息を横浜村散策にあて名主を訪問、お歯黒の妻とその娘にお菓子や味醂酒のもてなしを受け上機嫌だったという。お歯黒の話はこの辺にして、この書評の最後に筆者が興味を引かれたところを何ヵ所か本文から引用して終わろう。
 お雇い外国人の一人、地質・鉱物学者のアメリカ人レフェイエル・パンペリー(1862年から1年位日本に滞在)の観察によると、湯屋には「男湯」・「女湯」と記した二つの入口があるが、この仕切りは敷居を越えると終わっていて、中に入ると混浴であった(『アメリカ・アジア横断』1870年刊)。辺鄙な湯治場などで今でも見られるやりかたであると著者がコメントしている(本文P.42)。次ページの写真「下田の混浴場」は大分あとのものだが(C.Crow,1939年とあるが)、今となっては貴重な写真だ。こういった混浴のシーンや珍しい異人が通れば素っ裸で外に出ること(イザベラ・バードの秋田での話)や長崎でカッテンディーケ(海軍伝習所第二代教育班長、『滞在日記抄』1860年刊)やポンペ(オランダ商館の医師、日本近代医学の父ど呼ばれた。『日本における五年間』1867-68年刊)が見た湯屋から出た男女が素っ裸で町を歩いている姿やアンベール(スイス人、『図解日本』1870年刊)が見た隅田川東岸の本所での湯屋から出た男女が裸体で歩いている姿にしても、日本の習慣ではあたりまえのこととみなされて誰も咎めないのだということなど当時の外国人の驚きようをその著作から引用しているが、日本人が特別に淫蕩・卑猥なのでも羞恥心を欠いているのでもなく、欧米人とそのありかたが違うだけのことであると著者は自分の見解を述べている。上述したパンペリーは「旅行者の意見は、概して自分の体験の中で強く印象づけられた出来事にもとづいている」、しかし「思慮深い旅行者は、歩き回る最初の段階で、二つの民族間の関係に距離があればあるほど、同じ尺度で彼らを測ることがよりいっそう困難であることを学ぶ」としたうえで、「一国民を描くには、まず彼らの内的生活―いかに行動し、考え,かつ彼らの家庭関係が何であり、彼らの美徳と悪徳がなんであるか―を知らなければならぬ」(訳文は伊藤尚武氏)と、まるで現代の文化人類学者のような意見だと著者は驚いている(P.48)。当時の旅行者の見識は高い。1869年(明治2年)東京で男女混浴の禁止令、1872年(明治5年)には人前で裸になったり肌脱ぎになったりすることも禁止されたという。
グリフィス(『みかどの帝国』1876刊)によると、開港に先立って二つの場所を作った。税関と女郎屋(遊郭、妓楼)だという。日本人用遊郭に気の荒い外国人の船乗りが立ち入ると、とかく喧嘩騒ぎが絶えないからでだった。その妓楼の最たるものが横浜の港崎(みよざき)遊郭の岩亀(がんき)楼と五十鈴楼、とりわけ岩亀楼の「遊女喜遊伝説」は有名だという。1862年(文久二年)岩亀楼の遊女が、アメリカ人と褥を共にするよう強要されたとき、時世を詠んで自害した。

 露をだに厭ふ倭の女郎花
   ふる亜米利加に袖はぬらさじ

この伝説には真偽両説あるが、「唐人お吉伝説」などと同じく、後人の創作だと著者は書くのだ。(P.57)
「 破廉恥な日本人」の章は続く。幕府公認の遊郭は、延宝(1678)の藤本箕山の『色道大鏡』によれば、その当時江戸新吉原、京都島原、大坂新町、長崎丸山など、全国で20余ヶ所をかぞえたという。その他、私娼ともなると、ケンペルやシーボルトが見たように、日本全国いたるところにあり、幕府もときにこれを取り締まりはするものの、実際には野放し状態に近く、とくに街道筋の宿場町や港町では、飯盛女が、旅籠一軒につき何人というような形で、黙認というか半公認されていた。もっとも栄えたのは大都市江戸、ここでは元和3年(1617)に現在の中央区掘留2丁目付近に遊郭の設置が幕府によって許可された。当時このあたりは一面の葭原であったため、吉原遊郭と呼称された。明暦3年(1657)の江戸の大火(いわゆる振袖火事)ののち、吉原遊郭は浅草千束へ移転させられ、以後、吉原といえばここを指すようになったが、正しくは新吉原であり、もとのほうは元吉原である(P.62)。
品川も東海道の第一の宿場であったため、宿役の御用が多いからという理由でその繁盛ぶりは他の宿を遥かに凌駕して、天保15年(1844)年の飯盛女の実数は、1348人をかぞえたという。そうか、ナルホド、ザ、ワールドだ。
以下蓄妾のすすめ、三行半、女の実力では、グリフィスは日本の妻は、表向きは男性に服従しているが、じっさいには、気転・言葉・愛嬌・魅力などによって男性を巧みに支配していると分析、当節でも思い当たる男性のかたは多いのではないかと著者。欧米人の目には、日本女性の内股歩行はすこぶる評判が悪いと書き、着物の非活動性を指摘している。履物や雨具、扇子と懐紙(ハンカチより便利とはオリファントやオイレンブルクが褒めている)、肉を食べない日本人、食事での調味料の話では醤油と塩には言及しているものの味噌と味噌汁にはまったく言及がないのは不思議だと著者。砂糖は黒砂糖しかなかったからかアンベールは金沢(金沢八景)に一泊した折に老婆から白砂糖をねだねられたと書いている。日本の魚、寿司などの食文化の言及も面白い。食事作法、自由自在の畳の活用、枕(木枕の不思議、筆者もそう思うのだ)、陶芸などにみられる日本人職人の優秀さ、急いで付け加えれば、呉服屋「越後屋」の大きさといい繁盛ぶりといいロンドンやパリの百貨店より勝っているかもしれないとシュリーマンの見聞記に言及、そして最後の章では矛盾だらけの日本人を扱っている。不誠実な、正直で親切、勤勉でいて悠長、礼譲でいて無作法、清潔好きの清潔知らず(風呂好きのわりにはお湯をあまり取り替えない)の日本人と、外国人が指摘した矛盾をみている。
 著者はおわりに異文化理解の心得の章で次のように締めくくる。もともと異文化理解など出来なくて当然なのかもしれない。それでもなおかつ異文化間の協調を保つためには、世間は他人ばかりであるのと同様に世界は多様な異文化の集合体であることを承知したうえで、己の文化、己の価値観を絶対視して異文化を評価することをせず、ましてや己の文化や価値観を相手方に強要することなく、異文化を異文化として容認する寛容さが肝要であろう。そのうえで押しつけではない強調点を探ることが国際交流とか国際化の前提である。世界の諸文化の画一化が国際化なのではない。画一化は人類文化の衰退である。
 この本は2006年に著者が逝去され、弟子の須藤健一氏が手書きの遺稿をワープロ化して刊行したとある。弟子の須藤氏は刊行にあたってのなかで書いている。サイードの『オリエンタリズム』(1978年)において、西洋の東洋に対する思考と支配の様式を強く批判している。それは、西洋人がオリエントを自分に都合よく解釈し、ひとつの様式をもった存在として表現し、さらに支配する正当化の言説に対する批判である。本書で石川は、欧米人が描いた旅行記、日記、見聞記の内容が、西洋人が日本を理解するための一枚岩的な見方や考え方、つまり「一つの様式」を提示していないことを示唆している。彼・彼らは、自分らが目にした日本の一つの習慣や事項に関しても異なる解釈をし、多様に表象しているからである。いろいろと横道に逸れながら書いたが、本書は異文化理解の真髄を読み解く好著である。


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