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超人の面白読書 35 岩波新書『翻訳家の仕事』続

  全214ページの新書版サイズにもかかわらず、本書は翻訳のエッセンスが随所に散りばめられていて読者、特に外国文学に関心のある読者にとっては翻訳者の裏側を覗けて楽しい。その苦労話、自慢話それに快感などがひとりひとり違った音色を響かせているが通低音は同じだ。結局、翻訳とは多和田葉子が言った「翻訳は文学の極端な形」に象徴されるだろうか。特に文学の翻訳は単なる言葉の「伝達」ではなく「表現」がモノを言う世界なのだ。だから語学力だけでは解決できない母国語での言語研鑽、読書体験を通じた広くて深い教養などが必要なのだ。その上、推理や勘も働かなければならない。「翻訳力」たる所以である。翻訳とは創作物として生きた日本語に「書き直す」作業で「力仕事」でもあるのだ(編集部編「まえがき」)。
  昨今の新訳ブームに乗った訳者ももちろん本書に登場しているけれども、筆者などは古典の名著でさえ時代にあった改訳・新訳があって当然と思うのだ。一度ならずと多少の翻訳を手がけた人なら(ここでは技術翻訳以外の人文・社会科学系)分ると思うが、本書に登場している翻訳家の先生も書いているように、ある語なりフレーズなりまたはセンテンスなりがぴったり日本語のコンテクストに収まった時の感激や感動そしてそれとは裏腹に自分の無知さ加減を突きつけられることは、よく起こる話である。七転び八起きのあとにだ。
  もうひとつ本書を読んでいて楽しかったのは、巻末に掲げた執筆者紹介と「翻訳書、この1冊」、翻訳家をこころざすきっかけとなった本、記憶に残る翻訳作品とその理由のわずか11ページ足らずの欄である。特に若い読者には参考になる欄だ。改めてレビューしてみると、年配者から比較的若い方までジャンルも幅広い。しかも時代の反映が翻訳者にもされていて結構面白いのだ。イタリア文学にはもっと面白い訳者もいたかな、ギリシャ・ラテン文学にも、アラブ文学の翻訳者は入っていないね、中国文学にも否、インド文学、カリブ文学にも・・・と考えているうちに重要なことに気づいた。筆者が関心を抱いている北欧文学の翻訳者がいないのだ。編集者が需要や関心が少ない分野で埒外だった可能性が高いと勝手に想像してしまうのだが-。それにしても翻訳大国・日本を想ってしまう筆者なのだ。

  さて、最後に本書の執筆者一覧を掲げ、筆者が印象に残ったいくつか翻訳者の珠玉のエッセンスを引用してこの書評を終わりたい。
 鼓直、富士川義之、木村榮一、小田島雄志、若島正、沼野充義ね池内紀、亀山郁夫、藤井省三、アレッサンロ・G・ジェレヴィーニ、柴田元幸、三浦佑之、鴻巣友季子、中条省平、宮下志朗、青山南、須永朝彦、岸本佐知子、中務哲郎、和田忠彦、高見浩、野谷文彦、西成彦、越川芳明、米川良夫、西永良成、松永美穂、丘沢静也、リービ英雄、多和田葉子、管啓次郎、伊藤比呂美、野崎歓、旦敬介、金原瑞人、アルフレッド・バームバウム、鈴木道彦

ここで突然出題だ。上記37名の専門分野を当てて下さい。


「翻訳は、不可欠な言語的知識とは別にして、決定的な働きをするのが翻訳者の創意である作業だ。この翻訳者が、人間によって<プログラム>された機械であるが、辞書に囲まれた人間であるかは問わない」
「翻訳と創作は双生児的な営みである。一方において、ボードレールやパウンドらの例が示すとおり、多くの場合、翻訳は創作と区別しがたい。他方、両者の間には絶えざる交流が、持続的かつ相互的な肥沃化が存在する」(P.6 鼓直の項 O.パスの「文学と逐語性」を引用した文章から)

小説を翻訳するさい、最初のうちは思うようにはかどらないのに、いったん文体が定まってくると、とりわけ最後の三分の一まで辿り着くと、ほとんど一気呵成に仕上げてしまうこともある。長編小説を読み上げるときの感触に何だか似ている(P.10 富士川義之の項)

文章のリズムについて尋ねられた村上春樹が、リズム、つまりビートとそれよりも大きいサイクル<うねり>があるが、この二つがないと文章は読めない、というか読みづらいといっているのだ(P.13~P.14 村上春樹・柴田元幸の『翻訳夜話』を読んだ一節に出会って。木村榮一の項)
「一貫性、果てしない反復」と言ったのは確かヴァレリーだが、翻訳もまさにそれである(P.17 木村榮一の項)。筆者も同感。

中野好夫の翻訳、ディケンズの『ディヴィッド・コパフィールド』第49章のミスタ・ミコーバーからの手紙の書き出しの候文(P.27に引用されているが省略)による翻訳に「翻訳史上において、一度はありえても二度とは起こらぬ奇蹟」でないかと思う(P.28 若島正の項)

翻訳とは、ある外国語の土壌の上で1回限り起こった言語的事件を、日本語の舞台の上でもう一度起こさせるという、何か途方もない仕事なのである(P.34 沼野充義の項)

翻訳者は言葉の運び屋である。一つの言葉から他の言葉に移す。言葉の運送屋であり、言語的世界を忙しく往復して、せっせと移す。そのためだろう。訳者に対する讃辞には、いつもどこかしら反語的なひびきがある。上手に移した。巧みに運んだ。つまるところ、ただそれだけ(P.38 池内紀の項)

わたしなりの浅い経験でいうと、翻訳者に欠くべからざる資質とは、第一に、他者の言葉から受けるストレスを耐える精神力である。また、耳の良し悪しにからめていうなら、ある一定量の原文をきちんと記憶のタンクに溜めこめる能力もかかせない(P.42 亀山郁夫の項)。

姿かたちをすべて翻訳に反映させることなどできない。とくに長文のドイツ語(屈折語)を日本語(膠着語)にほんやくするとき、句読点を律儀に反映させようとすれば、昔の岩波文庫のドイツ観念論みたいに、どの言葉がどの言葉にかかっているのか、チンプンカンプンになる。一対一対応にこだわる必要はない(P.161 丘沢静也の項)

基本的には、あらゆる翻訳は「誤訳」であり、あらゆる読解は「誤読」なのかもしれないと思っています(P.171多和田葉子の項)。
訳者というのは、ちょうど、作者の書いた戯曲を外国で演出する演出家のようなものではないでしょうか。単なる黒衣では責任が果たせないような気がするのです(P.174 多和田葉子の項)。

英語圏ではTranslators are just writers.「翻訳者はみんな挫折した物書きさ」とさえ言われることがあります(P.204 アルフレッド・バーンバウムの項)

すべての翻訳可能な言語は、マラルメの言うように不完全なものだろう。いわば翻訳者は、愛情をこめてどこまでも原作に近づこうとしながら、必ず原作を相対化するのである(P.231 鈴木道彦の項)。

 筆者は最後のフランス文学者の鈴木道彦の「愚かさに国境はない」と執筆者の彼の欄に何だか共感する。学生時代に人文書院の彼の本を多少読んだからではないが、この老フランス文学研究者の小文は、本書『翻訳家の仕事』のトリに相応しいようだ。約3200字前後の翻訳者のメッセージにはエスプリがある。時々拾い読みしたい本だ。


  

  

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