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超人の面白読書 29 大山恵佐著『努力と信念の世界人 星一評伝』続

  ヒアリングをもとにしてまとめた本書は、星一の記憶をたどって書かれた自伝である。著者の大山恵佐氏については日本教育新聞社社長以外に詳しい素性は分らない。「知り合って2年未満の間柄だが経験や抱負に非常に感銘を覚え、啓発されるところも多かった。それを伝えることができ共感が得られれば」と著者はその序で述べている。本書は81の短い章で構成されていて、一章はせいぜい3、4ページ、読みやすい。昭和24年刊行なので漢字や言葉使いにやや違和感はあるが、当時の雰囲気も感得できそれもいい。

  目次を追ってみよう。序、1.失敗の人、得意の人 2.山紫水明の境 3.小学校教員 4.東京遊学 5.成田山徒歩詣で 6.渡米準備 7.全国無銭旅行 8.新聞売り子の縄張り 9.鹿児島の東北人会 10.高橋夫人 11.渡米 12.サンフランシスコの遭難13.追出され星 14.22歳の小学生 15.斡旋料の払い戻し 16.アッペンジャー家 17.米婦人を殴って懲役6ヵ月 18.「お前の母は立派な人だ」 19.自助論 20.ニューヨーク行商 21.就職 22.コロンビア大学へ入る 23.ステキニー夫人の感泣 24.新聞と英文雑誌の発刊 25.安楽と安田 26.パリ大博覧会 27.日露同盟秘話 28.杉山茂丸 29.伊藤博文との出会い 30.卒業と帰国 31.1万円の生命保険 32.運命の対面 33.帰郷と婚約 34.野口英世 35.セントルイス大博覧会 36.宮尾瞬治 37.帰国の決意 38.朝鮮行 39.事業の選択 40.製薬の創業 41.代議士当選 42.シルクハットに大風呂敷 43.星製薬の誕生 44.岩下清周 45.成人教育 46.裸の資本 47.1万人に1人 48.日本一の広告 49.親切第一 50.星の盛業 51.大衆と共に 52.「景気は支配すべきものなり」 53.模範工場 54.組織と教育 55.ドイツへの学術寄付金 56.国賓待遇 57.原子力研究に一役 58.エーベルト大統領の親書 59.「ドイツ国民は星を東洋一の化学王とする」 60.モルヒネ製造に成功 61.阿片事件の陰謀 62.阿片事件と後藤新平 63.晴天白日 64.悲壮な陳述 65.張作霖への献策 66.破産 67.官憲の迫害 68.警察国家 69.検事を一喝 70.労働争議と官憲の策動 71.「抵抗は熱を生ず」 72.任務断行運動の心得 73.キナの栽培 74.更正の希望 75.米国人との協力 76.星の心境 77.星薬科大学とセルフ・サポーティング・カレッジ 78.信念禍 79.77翁の情熱 80.ペルーの土地 81.百万ヘクタールの裏書 (註。現代仮名遣いに直して表記)

吹く風を勿来の関と思えども
         道をせに散る山桜かな

  八幡太郎義家が奥州征伐の途次詠んだ有名な歌碑のある勿来の関。その勿来の関近くの福島県磐城郡錦村江栗で星一は後年村長、郡会議長、県会議員などを歴任した父喜三太と非常にアンビションを持った、他人には極めて親切な母留の長男として生まれた。小学校では国会開設の勅語を父親から暗記させられたりなど早熟の気配は見せたけれども、いわゆる秀才ではなかった。四年生の小学校卒業後、教員養成所に入り小学校の先生になったが、東京遊学、更に洋行の夢を抱いて東京神田の東京商業学校に入学する。送金が儘ならない苦学生でありながら在学中に先進国・アメリカ行きを決意。英語、柔道、生花の習得、体力づくりにと成田山詣でも試みる。更に渡米準備にと(体力づくりも含めて)古本屋から古本を買い入れてそれを自転車に積んで行商しながら国内見聞の無銭旅行をする。その半月目に大阪に入るが金がない。東京商業学校の校長をやめ大阪朝日新聞社主筆になっている高橋健三氏を尋ね、新聞売り子を申し出て梅田界隈で始めたがはじめは売れず徐々に売れてくると今度は縄張りがあって追い出しをくらい、終には私鉄沿線の川口に行くも売れず、高橋宅に居候する。自分がお金を出してやるから早くアメリカへ行けと高橋主筆に言われるもその申し出は断り、代わりに星一の不用本の譲り受けに賛同した高橋主筆は不用本300冊を集めてくれた。しかもこの貧乏旅行を記事にまでしてくれたことで、奈良ではそれを読んだ福島出身の署長に厚遇されたり、また、高橋主筆の斡旋もあって大阪商船で働きながら無料で四国、九州の旅が続けられた。
鹿児島に渡ってはたまたま福島県出身者が比較的多かった東北人会などに忍び込んで本を買ってもらったりしている。鹿児島に福島出身者(特に会津出身者)が多いのは明治新政府の政策だったらしい。琉球にも渡り新聞記事に載せてもらったり、また、上海にも渡ろうとしたがちょうど日清戦争が勃発していた矢先で行けなかった。帰りは金ができたので、汽車で大阪の高橋主筆を尋ねて旅の報告をし、3ヶ月余りの無銭国内行商旅行は成功し最後に5圓も残ったという。計画と実行しかも行商で、強靭な意志がないとできない至難の業だ。普通は挫折も余儀なくされるところだが、星一青年は違っていた。人の恩恵も受けての人情に触れた旅でもあったが。

  本書に沿って更に進もう。渡米。恩師高橋氏から後に外務大臣になるサンフランシスコ総領事の珍田捨巳氏宛の紹介状を携え、横浜からチャイナ号に乗ってサンフランシスコへ。50圓。懐中には150ドル、日本圓で約300圓だ。日本の苦学生が大抵宿泊している日本人経営の福音協会に身を寄せる。ベッドでの宿泊が10セント、食事が3食で30セント、1ヵ月9ドルでの生活である。まずは語学の勉強と思った矢先に福岡出身の人間にお金を貸したばかりに騙し取られるというハプニングに遭遇、仕方なくスクール・ボーイ(アメリカの中流以下の家庭では朝晩の家庭的な労働に日本人や中国人を雇って、日中は学校に通う便宜を与えている習慣があった)をして学校に通った。福音会の牧師は我孫子太郎氏、日本語新聞の社長である。この安孫子氏は後に星一の許婚者だった津田梅子の妹と結婚するのだが。星一は初めは石鹸一杯つけて窓を拭き、水撒き時には婦人に間違ってホースの水をかけてしまったり、また、鉢を割ったり化粧鏡を壊したりと散々で文化の違いを見せつけられた。Oidasare Hoshi、名づけてO.D.Hoshiと揶揄されたらしい。日本人の苦学生の間で有名なケチなユダヤ人での仕事、アッペンジャー家ではドイツ人女中に濡れ衣を着せられるも晴れて懸命に働き、主人や子ども、もちろん婦人にも気に入れられて「お前の母は立派な人だ」とまで言わしめるほど信頼は篤かったと著者は書く。このとき星一の顔には涙が流れていたという。この当時もそうだっかと筆者は一瞬思ったのだが、サンフランシスコあたりの西海岸にいる学生は学問の志がいつの間にか薄れてメリケンジャップといって漂流するらしい。
リバプールと小麦の取引で大きな商売をしていたアッペンジャー家のスクール・ボーイの仕事で貯めたお金で星一は、東部の商都・ニューヨークを目指す。ニューヨークでもドローイング・ワーク(食事時にするテーブルクロス敷きセット)の行商しながらコロンビア大学入学の計画を練る。新聞に広告を出して働き口を見つけては金を貯め、とうとう早稲田、慶応と同じく東京商業学校も専門学校と認めさせ、経済学部へ無試験で入学することになる(当時コロンビア大学は専門学校卒であれば無試験で入れたらしい)。しかも一年間の半分の講義を聴くという条件で授業料を値切って半分の75ドルしてもらった。人より2倍長く年数かけて卒業する計画だった。経済学部で統計学専攻それに社会学、歴史学と政治学。フェアチャイルド家での仕事、そのステキニー夫人の支援・協力、それは日本の新聞社や雑誌社に翻訳して記事を売り込む仕事だった。夫人には自分の英文を添削してもらうことだった。
向上心とアイディアそれにそれをやり遂げる固い意志と自由闊達なアメリカ社会に溶け込む勇気−。ここに星独特の人脈を広げていく"開拓魂"がある。それは星一に感銘と勇気を与えた、中村正直訳のスマイルの自助論「汝は常に死を用意せよ。然らば何事も恐れることはない」の言葉の実践であったか。
やがて、この日本の新聞社や雑誌社への記事売り込みからヒントを得て、石判刷りの日本語新聞「日米週報」と「ジャパン・アンド・アメリカ」を発行することになる(1898年、明治31年創刊)。経営は大変だったらしいが、一躍在留邦人間で名士になった。早稲田大学の田中穂積、商科大学の佐野善作、帝国生命の名取和作、三越重役の桜井信広、銚子の醤油屋浜口玄之助、古河の息子古河虎之助などの知己を得る。友人安楽栄治と安田作也。安楽は新聞発行の経営担当、後には星製薬の重役として星の片腕になって活躍するが、安田は星の後釜で入ったアペンジャー家で中毒死する。
1899年(明治32年)、星のニューヨーク滞在も4年目。中央新聞社の社長で衆議院議長の大岡育造氏が世界視察の途次、ニューヨークに立ち寄り、米国のトラスト事情や通信交通機関の調査の新知識を得るための情報収集を星に依頼してきた。大岡は逓信大臣に擬せられていたので、大岡が逓信省に送る約束になっていた調査報告書を星が全部書いて送った。その才覚を大岡に認められ欧州に遊ぶことになった。英国、フランスに渡り、フランスでは大岡の厚意で1900年のパリ大博覧会に、中央新聞の特派員として滞在する機会を得たのである。米国で知り合い、ちょうどパリ滞在中の新渡戸稲造とも相談して星は、パリで開催の万国新聞記者大会の日本代表として「日本の新聞の過去と現在」という題で講演、これが好評でパリの新聞に写真入で紹介された。ここではパリ博にきた壮士俳優・川上音次郎、女優の貞奴にも案内を買って出ている。
杉山茂丸のニューヨーク滞在で星が面倒を見たことで伊藤博文に星を推薦、これで星は伊藤博文と親しくなるのであるが、この右翼の黒幕は日露戦争は避けられないものとし、桂首相の内命を受けその軍費調達用6000萬圓の公債を起こす計画のためニューヨークにやってきたのだった。この話については日露同盟推進派の伊藤博文と意見を異にしていた杉山が日英派だったため意見を聞き流して各方面に折衝したが、公債の話はものにならなかった。しかしながら、星の調査と助言により日本の産業振興するための特殊機関として興業銀行を設立する案を土産に帰国し設立する。これが産業界に大いに貢献してきた興業銀行、今の投資政策銀行である。このときニューヨーク滞在中の伊藤博文に杉山茂丸に連れられて星一は会っている。背広新着代としてもらうが、200ドルは経営が苦しい日米週報の紙代に消えたらしい。
1901年(明治34年)、星は28歳でコロンビア大学を卒業。日米週報は4年ばかり続いたが、星の3度目の帰国で廃刊になった。この日米週報に関係した人には釜山日報の社長になった篠原實、三井の調査課長なった玉木椿園、鹿児島から代議士になった中村嘉寿、安楽栄治そしてアメリカ人のサムスがいたという。この日米週報はその後日本から活字を持って行って活版刷りにし、今尚続いているという。筆者はこの二つの新聞の現存資料をずっと追っている。

所持金のほとんどないまま帰国した星一は、ジャパン・アンド・アメリカの経営資金調達のため杉山茂丸ところに相談に行く。そこで杉山から入院中の後藤新平を紹介される。後の星製薬会社の隆盛期には後藤の援助の大きな力が働いていたとみられているが、星は後藤新平失脚の陰謀の犠牲となって阿片事件を引き起こされ、その事件で隆盛途上の星製薬会社の事業は根本的な打撃を受けることになる。誠に皮肉な運命のめぐり合わせであったと著者は書いている。
1904年(明治37年)、最初の外国雑誌「ジャパン・アンド・アメリカ」を廃刊、日米週報は人に任せて、12年間の青春を苦闘で埋めて帰国することになる。帰国後星は伊藤博文に懇願して視察目的で朝鮮に行くが、その時一緒なったのが廣田弘毅、後の首相だ。
星は大衆性のある商売をやってみようと考え、統計的な調査を思い立ち新橋から上野本通りまで一軒一軒商店や商品を調べて歩いた。昼も夜もだ。今度は自転車を月賦で購入して東京の工場や商店を見て回ったという。その結果星は3つの商売を選び出した。履物屋、金物屋そして薬屋だ。商売の選択を考えているうちに、星は研究資金が行きづまっていた友人からイヽチオールの研究とその製品を400圓で譲ってくれると言われ、杉山の知人から400圓を借り受け引き受ける。早速日本橋の薬問屋「いわし屋」にその製品を持ち込むと、1600圓で売れた。400圓を返し残り1200圓を杉山と後藤と星で山分けしたらしい。

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