超人の面白読書 93 田中慎弥著『共喰い』 3

「共喰い」とは動物界で個体が同種の他の個体を食べること。共食い現象とかいう。この短編は濃厚なイメージとそれを膨らませる描写力に優れていて、リアルさ、生臭さを圧倒しているようにみえる。血と性の題材と言えば、筆者がまず思い浮かべる作家に三浦哲郎と中上健次がいる。八戸、新宮そして、田中慎弥の下関、地霊までは行かなくとも独特の地方の臭いがある。それは血縁という家族の持つ繋がりの因果から更に茂みに分け入った性、陰湿なまでの近親相関図だが、地方の臭いが漂う。お主そこまでやるか、とタブーに挑戦した格好だ。いや、どうしても作者が通り過ぎることのできないテーマなのだ。

川のようになった道を、一歩一歩を重たく引き抜きながら走る。夕暮の、鈍い黄土色の雲が空を埋めている。あたりの雨樋や溝、マンホールから水が溢れるごぼごぼという音が聞こえ、流れ出してきた下水がにおい、泥や石、植木鉢が流れてき、鼠や虫や蛙がもがきながら消えてゆく 。
水を割ってアスファルトを踏む下駄の音が聞こえ、少ない髪が赤ん坊のように額に張りついている父が歩いてくるのが見えた。
「遠馬あ、遠馬あ。」声まで幼くなって、「琴子がおらんそじゃあ、どこ探しても。」
「千種は?千種はどうしたんか。社でなにしよったんか。」(続く)

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超人の面白読書 93 田中慎弥著『共喰い』 2

閑話休題。金環日食で大騒ぎの朝、特に7時34分、その騒ぐが頂点に達し、あるテレビ局の名古屋での中継で932年振りと女子アナウンサーが興奮気味に伝えていた。確かに太陽、月、地球が一直線に並ぶ瞬間は滅多に見られるものではないが、ちとはしゃぎ過ぎだ。NHK、TBS、日テレ、フジ、テレビ朝日とチャンネルを回してみた。まあ、どの局も金環日食の中継一色だった。和歌山、名古屋、塩尻、スカイツリー、六本木ヒルズ等々。生憎の曇り空にもかかわらず、雲間からだんだん輪となる金環日食が見えた。
注目された動物への影響はあまりなかったらしい。日差しが弱かったからか?
「金環日食」の天体ショーと「共喰い」の構図を対比させることはシュールだ。マクロとミクロの世界へ、次元を超えてほんの少し暗室風に覗かしてくれた。(続く)

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超人の面白読書 93 田中慎弥著『共喰い』

第46回(平成24年上半期)芥川賞受賞者は田中慎弥氏。彼は受賞後の記者会見で人を喰ったような発言で大いに話題を提供した人。彼の受賞作品『共喰い』を「文藝春秋」抜粋版(筆者自身の手作り簡易製本)で読んだ。ここ2、3ヶ月間鞄に入れたままだった。実はその前に2冊読む本があったのだ。
『共喰い』は思春期の性を赤裸々に描き出した短編私小説である。しかも軟らかな下関弁を巧みに挟み込むことによって、より豊かなイメージを鮮明に打ち出したローカル小説だ。肉欲に長けた親子、スキモノ同士の戯れだが、水際の陰湿なイメージに特有な軟体生物をセッティングさせるあたり、連想ゲームを際立たせ、粘着かつ濃厚な世界を構築している。それは水、うす汚れている水に蠢くイメージだ。すべてはそこに溶け込んで行くような、大人のうす汚れた世界を思春期の男がぬるっと垣間浸かる感じー。
ある地方の川辺に暮らす父親、息子、後妻、近くに住む右手が義手の魚屋を営む前妻、息子の恋人それにアパートの角の女、息子遠馬が中心に織りなす歪んだ欲望の世界だ。〈続く〉

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超人の美味しい果物発見 3 浅井さんの温室メロン

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誕生日に届いた浅井さんの温室メロン。甘くて美味しかった ! 贈って頂いたSさんに感謝。


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クロカル超人が行く 163 ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2012 ロシア音楽 5

先生はサービスも忘れなかった。講演終了間近で持参した紙袋から何冊か自著を取り出して曰く、本日は本のプレゼントを用意しましたと。聴衆から拍手が沸き起こり少しざわめいた。次の瞬間、亀山先生ご本人からブレゼント用の質問は用意してありますと。筆者は新しい靴を履いていて靴擦れを起こしていたので靴紐を解いていたのだが。途中から偶然に座れほっとしたのもつかの間、一番若い人、はい、キミ、次は一番年老いている人・・・、そしてそれでは今日誕生日の人?と亀山先生の声にすぐ反応し手を挙げてしまった筆者。微かに拍手ー。片方の靴紐を結ぶ暇なく亀山先生のところへ。我ながら恥ずかしかった。ありがとうございましたと深々と頭を下げた。人生にはこういうこともあるのだ。思わずラッキーと叫んだ。でもそれは声にはならなかった。亀山先生に感謝である。。
このあと別の会場に現れた亀山先生、先の比較的細い洒落た靴を履いていた!Ca92vskx

午後5時少し前ホールA214の2階ほぼ中央席に着席。イーゴリ・チェチュエフのピアノ、フェイサル・カルイ指揮、ベアルン地方ポー管弦楽団によるラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番イ短調を聴いた。手許のブログラムによると、ピアニストチェチュエフはウクライナ出身、指揮者のカルイ氏は1971年生まれの41才、比較的若い人たちによる演奏だ。流れるようなピアノの調べ、ときに力強く鍵盤を叩く音が会場に響き渡った。左右2台の大型スクリーンには演奏家の表情が逐一リアルに映し出されていた。ラフマニノ協奏曲、万歳、ブラボー。こうして筆者にとってたった1日の“熱狂の日は”終わった。

今年のラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン クラシック音楽祭ではチェブラーシカが大人気、アニメーションと指揮など新しい顔も登場したらしい。しかし筆者的にはチェブラーシカ Cheburashka , who ?人気アニメの主人公“バッタリ倒れ屋さん”らしい。また、モスクワ大司教座合唱団や大きなバラライカCaetvph0_2など独特な楽器を駆使して演奏するロシアの民族音楽、カペラ・サンクトペテルブルクの合唱等々多彩。仕掛け人ルネ. ・マルタン氏の面目躍如といったところかー。来年は二つのことを実行したい。日本人演奏家のものを聴くこととホールをハシゴすることだ。インターネットラジオ「オッターヴァ」のキャスターの一人は、ハシゴして聴いていたらポケットに1000円しか残っていなかったらしい。一体いくら使ったのかしらん。

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クロカル超人が行く 163 ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2012 ロシア音楽 4

ここに一冊の本がある。本のタイトルが「チャイコフスキーがなぜか好き」という新書、しかもキリル文字で書かれた著者自身のサイン入りのものだ。Img022_4親しくしているS先生曰く、それはお宝ですときっぱり。その経緯は後ほど触れることにして亀山先生の講演内容に少し触れてみたい。実は立見席の聴講者はレジュメを受け取れなかったのだ。やっと手に入れた時には講演後。 主催者側の準備不足かも知れない。走り書き風のメモが残っているのでそれをみながら印象を記してみたい。

ロシア音楽の真髄は、ひょっとしたら帰れない⇨ノスタルジー、くさみ⇨生活の臭いだー。

最近刊行された上記の本「チャイコフスキーがなぜか好き」に言及、2011年12月〜2012年1月にかけて書き上げ、雑誌「レコード藝術」などに書いたものと合わせた、言わば、書き下ろしプラス雑文の類の本 。一二ヶ月で上梓できるとは書くスピードが速いということだろう。ドストエフスキーの翻訳家はもちろんロシア音楽にも造詣が深いのだ。地方性、大地⇨ロシア正教以前は汎神論的⇨スラブ異教などなどロシア人の魂のふるさとにも及んだ。無料でダウンロードして聴けるyou tubeの話しでは、バイオリニストの五嶋みどりが奏でるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲に惚れ込んでいる様子、筆者も聴いてみたいと思ったほど。このあとロシアプリミティズム、プロコフィエフ、ストラヴィンスキー、旧ソ連の国歌が好き、アヴァンギャルド芸術やソ連の1920年代・30年代研究から50代でドストエフスキー研究再び、と続いた。9.11の時はロンドンにいた由、そして去年3.11以後の7月に被災地を150km歩き、海を眺めた時第六感⇨永遠の感覚、四次元⇨運命の世界を感じたという。被災地で出会った週刊誌記者の“もうやることがなくなってしまった“という話しには胸を打たれた。
最近ラフマニノフもいいとそしてロシア現代音楽をもっと聴いてほしいと講演を締め括った。約1時間の講演は聴衆を魅了した。

追記。先週の日曜日にS先生と会う機会があった。亀山先生には英語学者のお兄さんがいる(そう言えば、スピーカーを直してもらったと講演のなかで話していたっけ)し、NHKテレビロシア語講座を担当していた時には、親しい人たちに1分でも視てと声をかけていたとか。その昔筆者は主にラジオロシア語講座を聴いていたので、テレビの講座はたまに視る程度だった。講師の亀山先生か、残念ながら記憶にない。恐らく大分後かも・・・。ラジオロシア語講座の講師は東郷何某或いは八杉何某と言ったかな、それも今となっては朧げだ。(2012年5月15日 記)

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クロカル超人が行く 164 お雹

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雹 ヒョウ おひょう のあと。


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クロカル超人が行く 163 ラ・フオル・ジュルネ・オ・ジャポン 2012 ロシア音楽 3

立見席も一杯の講演会場ースペースが狭すぎたーでは講演者の亀山郁夫先生が講演タイトルについて話し始めていた。「熱狂とノスタルジー 歴史のなかのロシア音楽」。琵琶湖で開催したラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンでの浅田彰氏との対談から帰ったばかりと疲れを知らない風の亀山先生、浅田彰氏にはこの講演のあとメールで報告しますと満足げだった。浅田氏とは余程息のあった対談だったのだろう。亀山先生は聴衆の緊張感をほぐす術も心得ていた。浅田彰氏といえば、『構造と力』(何と筆者の書棚にまだある)の著者で当時ニューアカディズムの旗手と騒がれ、一世を風靡したフランス思想の専門家(京大経済研に在職した経済学者でもあった ! )。しかし自らピアノを弾くほどクラシック音楽に造詣が深い学者でもある。ここで思い出した、京大人文研にいた頃、雑誌「レコード藝術」も届けていた某営業所のY氏、その頃から精力的だったのか研究室は不在気味ー。そしてもう3年前になるか、京都芸術劇場 春秋座のマラルメ・プロジェクトで対談やら挨拶をしていたのだ。

人生の終わりの一曲、仮説の検証、西欧文化との対決、暴力のアイロニー、ムソルグスキーが嫌い、人工か神がかりか、スクリャービンの「革命」、ラフマニノフがなぜか好き、ストラヴィンスキー現象、封印されたアイロニー、二枚舌の闘い、現代ロシア音楽を聴く、が後で受取ったレジュメの中身。

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クロカル超人が行く 163 ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2012 ロシア音楽 2

5月4日当日は曇りのち雨のち晴という定まらない天気で傘が必要だった。が、筆者は傘を持たず出かけてしまった。インターネットラジオ「オッターヴア」を見学した後、一旦外へ出たら雨に会い、一瞬しまったと思ったが後のまつり。濡れながら屋台で買ったソーセージを頬張ったのだ。
ここまで書いて一休み。今朝の毎日新聞「余録」欄の記事が面白い。「完璧な欧州とは」のあとにこう続く。「イギリス人のように料理上手、フランス人のように謙遜、ドイツ人のようにユーモアに満ち、イタリア人のようにきちょうめん、オランダ人のように気前よく、ギリシャ人のように組織立って。そして他にもと、地味なスペイン人、技術に強いポルトガル人、融通がきくスウェーデン人、おしゃべりなフィンランド人が並ぶのは、それぞれの国民性の当てこすりで、実際は逆だとからかい合っている・・・」という記事。ではロシア人は?さしずめ「明るいロシア人」か―。お後がよろしいようで。
さて、会場内をぶらぶらしてたら午後2時、講演会が始まる30分前に会場の国際フォーラム6階会議室に到着。すでにたくさんの人が並んでいた。またしてもしまった、である。整理券を持っていた人はもう座っていた。(続く)

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クロカル超人が行く 163 ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2012 ロシア 音楽

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャボン熱狂の日、クラシック音楽祭2012。今年も5月3日〜5日まで開催された。今年のテーマはロシア音楽。この気軽にクラシックを楽しんでもらう音楽祭は、新潟、金沢、琵琶湖そして東京丸の内と4ヶ所で開催され、日本でも開催地が増えているのだ。特に若い人たちに浸透していることはクラシックをより身近に感じ始めている証拠。2005年、フランスのナントより上陸して7年目、最近ではすっかり定着した感じである。マスコミの報道によれば、2005年〜2010年までの経済波及効果は650億円でその人気が伺え知れよう。
さて、今年のテーマはロシア音楽、チャイコフスキー、モソロフ、ストラヴィンスキー、ラフマニノフ、プロコフィエフ、ショスタコービッチ、スクリャービン、ソルグスキー、ボロディンなどの作曲家たちを取り上げ、歴史、民族、宗教、大地、異教、ノスタルジーなどロシア音楽に浸透しているこれらの独自性を他種多様な指揮者や演奏家によって解釈開陳、聴く者を厳かでたまにメランコリーにさせてくれる。ロシア音楽は奥深いのだ。
4月30日に東京フォーラムのチケットピアで予約したチケットを持って、誕生日の5月4日に出かけた。開演が17時30分なのでその前にロシア文学者の亀山郁夫東京外大学長の講演を聴くことにしていた。この音楽祭ではもう一人仏文学者の鹿島茂氏の講演もあって興味があったが日にちが合わず取り止めた。(続く)

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クロカル超人が行く 162 谷根千あちこち 4

団子坂にある「鷗外記念図書館」へ向かう途中に小さな骨董店「Gallery ULALA」に寄った。表に出ていた小品の焼物が目につき購入。黒を基調としたぐい呑み。主はフランス人女性。
筆者とK子の会話は続く。その前に女主人との会話。
「パリのモンパルナスの丘から来たの?」
と藪から棒に尋ねた筆者。
「ええ、そうです。ここに来て5、6年経ちます」
モンパルナスの丘の骨董市は有名だとテレビなどで知っていたのだ。
「焼物は市で見つけるんですか?」
「日本全国いろんなところへ行きますから大変です」物静かそうな白髪雑じりの実年フランス人女性。狭いスペースに渋目の日本の焼物が並んでいた。
「ご主人か誰か働いていないとこれだけではやっていけないと思うわ」
「そうだと思うね」

鷗外記念図書館は只今改築中で11月に「森鷗外記念館」としてオープンするらしい。今年は鷗外生誕150年、商店街は鷗外生誕150年フラッグで盛り上げている。
さて、団子坂を下り地下鉄千駄木駅を左折、「天外天」を通り過ぎて2つ目の信号を今度は右折。すぐ前が谷中銀座だ。

「コーヒーでも飲んで休む?」
「たらふく食べて気持ち悪かったあー。アイスラテにしょうっと」
「オーケー」
「アイスコーヒーとアイスラテ、下さい」
狭いスペースを奥に、コーヒーブレークの人たちがそれなりにいた。
「トイレに行きたいのですが」
「ここにはないので、この先のドラッグストアでお願いします」
「コーヒー店にトイレがない、なぬ!水系を飲んだら出るものは出るのに…」
「早く行って来てよ」
谷中銀座に人が一杯、先ほどの根津神社よりは大分若い層みたい。
「テレビでやってた、アド街あたりで、惣菜屋のメンチ、これだ」
「でも、メンチがないっす、また揚げてる最中?」
「へえー、こんなに並んでんの!」
「メンチ食べられない!」「この店も惣菜屋」
斜め向かいの店に並んだ。唐揚げ(200g200円)とメンチ(140円)をゲット。「この店に入るから待ってて」
「わかった」
「この徳利もいいかも」
と呟く筆者。2、3日前にテレビで徳利の蘊蓄をしていたので、括りなど気になっていたのだ。しかし手頃な値段と色合いそれに形の良いのがない。
「このマグカップ下さい」
「はい、皸割れがあるか確認して参りますので少々お待ち下さい」
碧の鮮やかさ、そんなに大きくなく値段も手頃。
これで焼物3品目、4個ゲット。Ncm_00091

「思い出した、カエルの店があるはず」
「右曲がって真っ直ぐ行けば左側にあるよ」とは絵葉書屋のご主人。
カエルグッズ様々、小物に文房具、キーホルダーにハンカチなどなど。
「これ買っちゃおーかな。カエルのお守りでーす。3つ」
「良いんじゃない」

岡倉天心記念公園でK子トイレタイム。夕焼けだんだんを通り過ぎた。

ぼちぼち行きまひょか。谷中墓地へ。

「そんなに早くあるかないでよ!」
「遅い」
幸田露伴の五重塔のある碑のベンチで一休み。
「木々が青々で気持ちがいいっす」
先ほど買ったメンチをつまみにロングサイズのビールを飲み干した筆者。
「このメンチ、油ぽい!」「やはり、あの大分並んでいた店の方が良かったみたい」
「ダミーだったか、クッソー」

「トイレ行って来る」
「また!」

「この辺に引き回しの刑に処せられた、ええと、何と言ったかな、高橋、うっ、お伝の墓があるはず?」
墓の前の墓誌を読んで、
「高橋お伝って、不条理やねえ、ひどい!」
「境遇があんまりや」
以前に来たときは花が供えられていたお伝の墓だったが…。
「そうそう、馬場辰猪の墓捜しぃ」
途中スカイツリーがくっきり見えた。
201204301538000_2

「カメラカメラ、このアングルっ」
「墓の囲いのブロックに乗っていいの」
「……」
「ダメだ、ズームアップしなくちゃ!」
「馬場辰猪の墓、アラベスク調の、どこだっけ?」
「どこ、10乙左側?」
「ちょっと待て、携帯で調べるから」
「えっ?」
「ここ、アラベスク調の墓、やはり立派だ、弟さんの胡蝶さんの墓もね」
野草の花を添えた。

谷根千歩きは終わった。携帯の万歩計は22032歩を指していた。計り始めたのは有楽町駅近くの国際フォーラムだった。

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クロカル超人が行く 162 谷根千あちこち 3

「天外天」でK子が注文した料理は、海老チリ、四川風麻婆豆腐、チャーハンセット、餃子2個(1個100円)、ザーサイ。量はハーフサイズ。

「こんなに食べられんの?」
「食べる、食べる」
チャーハンセットから平らげ、スープ、海老チリ、比較的辛い四川風麻婆豆腐、餃子それにデザートの杏仁豆腐と口に入れて行ったのだ。
「麻婆豆腐の味は?」201204301208000_2「少し辛いけど、イケるね。この分食べてよ」
「この店、12年前に来たけど、隠れた名店の趣だよ」
「食った、食った」
K子は動けなそうというよりは眩暈を感じたらしい。狭い店内は中高年の夫婦で一杯、外では並んでいる。人気店なのだ。
「おしぼりを頼んだのに、まだこないんだけど」
右奥のテーブルの男性の声。
だんだん忙しくなってきたらしくて、女将と店員それに料理人の間で掛け漫才っぽいやり取りが聞こえてきた。

「すいません、おしぼりです」
少し過ぎて女将が持ってきた。筆者は隣の客が美味しいそうに紹興酒の水割りを飲んでいて刺激された。

「なにっ、紹興酒の水割り!」
半ばあきれた風のK子。
筆者はザーサイ、餃子、麻婆豆腐と海老少々をつまみにビール1本と紹興酒1杯を飲んだ。
「はい、お勘定、お願いします」
「いくらだと思う?」
「7000円」
「惜しい、残念!6650円でした!」
「カロリー消費しなくちゃ」だって。

須藤公園ですでにK子はトイレ。その左側の狭い通りを抜けると元雑誌「谷根千」の編集室、今は映画研究室とか。古い団地風の住まいに某氏が住んでいたっけ。
「風呂屋の近くのアパート探しにいくぞと」と筆者。この辺の通りはともかく狭い。
「どこまで歩かせんのよ!」
小学校で思わず風呂屋を訊いた。
「この路の先の右側にあるよ」とお兄さん。
「あった、あった、あれっ、サブタイトルがついてるっ」
肝心のアパートがない。二度ほど回ったあと、タバコ屋のおばさんに尋ねた。
「あのー、この前にアパートがあったんですが」
「取り壊して、半分はあそこ、公園になっています。もう5、6年になるかな」
「ありがとうございました」
やはり想像した通りだった。実は知り合いが以前に6年ほど住んでいたところだった。(つづく)

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クロカル超人が行く 163 谷根千あちこち 2

露店の多いこと、境内の周りを左へ行って今度は右へ、神社の裏側の方に行ったのだ。30軒以上並んだ露店で筆者とK子の会話は続く。
「何か食べたいすっ」
「もやもや風か、それにしても多いや」
「たこ焼きがいいなあ、あっち行ってみるよ」
「ビール下さい」
「500円です」と店の女性。
「串もんじゃ、玉子ありの、一つ」
「たこ焼き、止めた、これでいい」
「じゃ、二つっ!」
「500円です」ともんじゃ屋の女将。
中高年がやはり多い。何せ中高年女性用の下着まで堂々と売っている店まであるのだ。“おばあちゃんの原宿”ではあるまいし。ともかく商魂逞しい。
近くの階段のところで頬張った。何とも言えないうどん粉の味、かための玉子。しかし冷えたビールの方が美味かった。220円がここでは500円か!ランチ前に食べて大丈夫かと気になるK子。

「この離れの神社でみんなお詣りしてるけど、お詣りする?」
とK子が5円玉を財布から取り出そうとした。
「いや、別に」
結局食べ終えてすぐに移動した。祭りで見かける光景のオンパレード―。具だくさんの大きな煮込み鍋が軒先に置かれた店、ぱぱーんと的を鉄砲で撃つ男性の真剣な姿、小さな金魚が所狭しとたくさん泳ぎ回っていた、だだっ広い店、饅頭屋、アイス屋、ほんまに数え切れない。

「ツツジガミエルトコロハドコデスカ?」
突然外国の女学生が話しかけてきた。
「Over there」と筆者。
「アリガト、ゴザイマシタ」
「直感で英語を話せる人だと思ったんじゃないの」
「そんなバカな」
やがて境内を抜けて脇坂不動産や地下鉄千代田線千駄木駅を通過。目指すは中華料理店。
「確かこの辺だった?うっ、工事してる!もしかしたら…」
「まだなの!」
「もう少し先に行ってみて、あっ、あった、天外天」
「タバコ吸いますか?」
ふくよかな店の女性が訊いてきた。
「すいません」
と筆者が呟いたが相手には通じなかったようだ(笑)。(つづく)

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クロカル超人が行く 163 谷根千あちこち

「ひまね」じゃないよ「しまね」だよ、「リョーマ」の休日。島根県と高知県の観光キャチフレーズが面白い。変われば変わるものだと感心するほど。これは今朝のみのもんた司会の「朝ズバッ」の一コマだ。このゴールデンウィークは2200万人移動で一人33000円使う勘定だそうだ。

4月30日のゴールデンウィーク2日目に出かけた。場所は安・近・短の典型、東京は下町、谷根千など。今回は会話編でお届けしたい。

筆者とK子との会話。

「どこいくの?」
「わかんない」
「ひょっとしたら、足尾どうざん」
「何、それ、行きたくなーい!」
「じゃ、ともかく、東京方面や」
「最近オープンした駅ナカの、あんぱん屋」
「丸の内のイタメシ」
「昨日スパ食べ過ぎたから、パス」

この後二人はともかく電車に乗った。

「山手線で有楽町駅だな」
「どこいくの?ま、いいか」
「熱狂の森」
「それって、なぬ?こんなところにそんな森あんの、ウッソー」
「クラシックのリーズナブルな祭典や、今年はロシアあれこれや」
「チケットの予約に、立ち寄りや」
「チミも行く?」
「パス!」
「バスと聞こえたよ」

この後二人は三菱村→高級ブティック街→工事中の新東京中央郵便局→改築中の新東京駅へ。そして千代田線二重橋駅へ。

「どこいくの?」
「根津、千駄木、谷中」
「えっ、」
「つつじで有名な根津神社にお詣りや」
「ウッソー、お詣りしたことないくせに!」
「最近はなんでも神頼みや」
「しゃーないな」

根津駅下車。

「京都の漬物屋のデモ、お茶屋に雑貨屋八百屋、ええと、わかなくなっちゃた、多くて」
「このデカサイズのコーヒーカップの焼物、いいね、渋い緑の色合いサイコー」
「誕生日プレゼントに買ってあげるよ」

信号を左折してフリーマーケットっぽい通りを過ぎると根津神社。201204301114000_4「早く歩かないでよ」
「チミが遅いじゃん、ババたちを避けて行かなくちゃ、エネルギーいんのよ」
「ゴンギツネの根津神社到着!いやに赤いね」
「つつじの写真撮っちゃうかな。つつじの中にいるおじさん、邪魔、民家があるって、幻滅、はずしちゃおーっと」

デジカメのパチリとした音のあと、

「撮れたけど、電池がもうないっ」201204301116001

「おバカ、喝 !」

「つつじ見の入口に来たけどぉ、入る?200円、高い、パス!」

境内の左側に並ぶ露天。

「このつつじ、きれい」
「なんぼ、62000円、売約済みや!」(つづく)
201204301117000_3

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クロカル超人が行く 162 横浜・吉田町『濱新』

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金曜日の夕方「仲間」4人とふぐ・うなぎ・関外料理の店『濱新』に入った。4人の関係はすてきな「仲間」としておこう。伊勢佐木モール入口を入ってすぐ角の珈琲豆店『南蛮屋』を右折してほんの数メートル行った、柳が見える辺り。そこが『濱新』。木の温もりが歴史を感じさせる、モダンな店内、階段を上って2階の左側奥の部屋へ。畳の匂いが残るシンプルな部屋で思わず京都の祇園で食べた居酒屋を思い出した。創業昭和4年と古い、ふぐ・うなぎの老舗である。
早速ビールで乾杯、まずは鰻の肝他の前菜、珍味かつ精力がつきそうな一品料理だ。美味。ビールによく合う。が、年配のM先生が気遣って日本酒冷や、久保田千寿(1500円)と八海山を頼んでくれた。これで一挙に日本酒に傾き、話はM先生の独特な語りが奏功して笑いの渦に。大学研究者の世話ばなしやバスで行く小江戸(川越)巡り計画なども話題に上ったが、何と言っても、やはり珍道中だった佐渡行の話で盛り上がった。炊き上がらないご飯処理の話、早業蒲団取り替え作業、五右衛門風呂に毛が浮いていた話、蟹事件、民宿主のご立腹の話、北前船での昼寝、見舞い客不明と花束顛末などてんこ盛り。刺身盛り合わせ(美味)、特別メニューのふぐの唐揚げ(美味)、メインディッシュの鰻重そしてスイカ他のデザートが供された。その間お酒はヒレ酒に変わった。このヒレは、すてきな「仲間」の一人の手塩にかけて出来上がっているとの話が効いたか、お代わりするほど美味しかった。季節外れでもイケたのだ。特記すべきは鰻重。関東風の焼いた鰻の上に関西風のあっさりしたタレ、さらにお米の上品さが加わって重層感たっぷり。至福の時だった。竹コースだったが、予算は大分オーバーしてしまった。もう少し安価であって欲しかった!
横濱らしい田楽うなぎ、豊後のとらふぐ(季節料理)、うなぎのオムライス、P010593818_238_2P010593817_238_4うなぎ蒲焼の名物料理からリーズナブルな昼メニューの色々。焼き魚、厚焼き玉子、うなぎ料理各種が850円から1300円。
1階は落ち着いた雰囲気のカウンター席とテーブル席。特別な日にご馳走をと家族連れが来るのか、接待族か、はたまた昼定食目当てのサラリーマンか。何れにせよ、老舗の貫禄たっぷりの店だ。
営業時間:昼11:30〜15:00夜18:00〜22:00(日曜日は17:00〜21:00)定休日:月曜日 住所:横浜市中区吉田町3-1 電話045-251-0039
2階は要予約。【写真左上 : 『濱新』のWEBサイトから 写真右上 : ホットペーパーサイトから】

追記。M先生はその日買ったばかりのデジカメを持参していた。すてきな仲間をパチり、刺身をパチリ。しかし肝心の鰻重が撮れたかは定かではない。みんな食べるのに夢中だった…。筆者はなぜか集合写真1枚のみ撮った切り。
(2012.5.1 記)

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超人の面白読書 92 井上理津子著『さいごの色街飛田』 7

飛田遊廓の営業形態は「居稼」(てらし)だった。居稼は妓楼に自分の部屋を与えられ、そこで客を取ること。それに対して芸者のように、置屋でスタンドバイし、お呼びがかかって座敷に出向く形態を「送り」 という。座敷には、往来に面して太い格子が巡らされ、娼妓はその格子の中で外向きに並ぶ。東京の「張り見世」と同じ。客は外から覗き込んで娼妓の品定めをする。飛田は「早い、安い、おいしい」の三拍子揃ったセックス専門だった…。(本文P.94〜P.95) 本書は飛田の歴史も繙き、客観的な事実確認も怠らない。ここで花街独特の用語を多少記してみたい。青線、赤線、揚屋、花魁、置屋、岡場所、貸座敷、貸席(お茶屋)、カフェー、妓楼、芸妓、検番、公娼制度、私娼窟、酌婦、集娼、娼妓、席貸、茶屋、二業地、花街、水茶屋、遊女等々。(加藤政洋著『花街』から)
さて本書の書評も終わり近づいてきた。変わりつつある飛田の最新事情はあとがきのはじめに書かれているのでそちらを読んでいただきたい。なかなかインタビューに応じてくれない苦労のあった本書だが、著者は執念でこのテーマと向き合い、飛田を解剖。そこには事実を抉り真実に迫ろうとする作家魂がある。文章も読みやすい。欲をいえば、経営者と女の子のインタビューがもっと欲しかった。2011年10月筑摩書房刊、定価、2000円+税。
余談だが本書で言及していた黒岩重吾著『飛田ホテル』(角川文庫)は、残念ながら絶版で図書館から借り出して今筆者の手元にある。尾崎秀樹の解説は読んだ。名作。
 
余談の余談。こちらも“新地”グループ。写真はC氏提供。

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超人の面白読書 92 井上理津子著『さいごの色街飛田』 6

筆者は3、4年前に樋口一葉の小説の舞台になった本郷界隈、竜泉・千束周辺を歩いた。明治中期当時を忍ばせる質屋(一葉が通った)の蔵は今は記念館に。住んでいた長屋や近辺にある井戸も残っていて風情があった(この辺は戦災を免れている)。1週間後に台東区の一葉記念館を一巡して吉原へ出かけたが、ソ、ソ、ソープ、ランドの看板だらけ。様変わりしたのだ。吉原大門も新しく立て替えられていた。すぐ近くの吉原神社に寄りお詣り。そこで朝の魚河岸に千両、昼の歌舞伎に千両、夜の吉原に千両が落ちたいう有名な文句を録音で聴いた。最後は後ろ髪ひかれる思いの“柳”を潜り、土手通りトイメンにある蔵造りの天麩羅屋『伊勢屋』に寄った。並んでいるので取り止めにして三ノ輪駅近くの浄閑寺へ。正面左側には新吉原遊廓で死んだ遊女25000人の「新吉原遊廓総霊塔」が建てられていた。寺の裏手にはあの荷風の碑―。

話は飛んだ。

(つづく)

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超人の面白読書 92 井上理津子著『さいごの色街飛田』 5

阿部定事件はその昔映画になったくらいだからご存知の方は多いはず。元々は神田生まれ飛田でも働いた。男根切断事件を起こして新聞にも載った。また、飛田近くに住んだ直木賞作家黒岩重吾も戦後のある時期天国と地獄を体験した作家だった。筆者はかつて黒岩重吾と友人だった人に会ったことがある。今本書に誘われて彼の著書『飛田ホテル』を近々読んでみるつもりだ。しかし社会教育者篠原無然の仕事には頭が下がる。時は大正末期、飛田の歴史を本当に「救済」する側から著者が掘り起こした。出身地岐阜県では知られているが全国的にはまだ無名らしい。本書が出たことで少しは知られ始めたか。
飛田の最盛期は昭和5年から昭和12年、貸座敷240軒、娼妓数3200人、遊客数153万人。当時(昭和11年)全国で娼妓数約5万人だったからその規模では吉原、中村を抜いて日本一だと書いている(本文P.115)。(つづく)

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超人の面白読書 92 井上理津子著『さいごの色街飛田』 4

本書は足で稼いでなんぼの世界だ。インタビューの数は40人以上、傑作は「料理」組合の幹部、警察官、ヤクザの話と90歳のお婆さんの話…。幹部は「救済」を強調、警察官は立場上見てみぬふりを、ヤクザはホストと飛田の繋がりなど裏の仕組みをそして自転車に乗ってやって来たお婆ちゃんには意外な一面が……。
本書の魅力の一つは、飛田生まれの“ぼんぼん”(おかんが料理屋経営者だった)の悲喜劇にフォーカス、その寒暖をカメラアイよろしくアナザー・ヒーローに仕立てあげている点だ。切なく泣かせるが、意気地なしとも行間からは読める。人情一本というやつかも知れない。飲んべえ実年の著者は飛田を想うが故に石を投げられ離れて行った、この“ぼんぼん”を捜し当て北陸の地(家人の実家)で飛田脱出の“事故の顛末”を聞き出す。聞いてくれるなと言いつつぼそぼそ語る“ぼんぼん”。今の飛田にはなくなった本来の飛田の情緒を取り戻そうと、改革を叫ぶも見事に弾き飛ばされた。そこには性に絡んだ強欲が蠢き、作られた資本主義の典型的な需要と供給のバランスがある。明らかなのは余計なことをしてくれるなという現状肯定派の圧力だ。

2010年現在の飛田新地の規模を数字で表すと料理屋158軒、経営者150人、昼夜併せたおねえさん450人、おばちゃん200人になるらしい。そして売上推定額は?これは想像するしかない。

ピンク色のオアシス、トビタ…。

阿部定、直木賞作家黒岩重吾、難波病院と篠原無然、事件、ルポ、社会福祉事業の話に歴史統計資料なども加えて飛田の歴史も歩いている。そう言えば、昭和初期に書かれた横浜市史資料・風俗編にも似たような統計資料があった。
(つづく)

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超人の面白読書 92 井上理津子著『さいごの色街飛田』 3

最初は知り合いのテレビ局員、フリーター、版元営業マン、コピーライター、パチプロ、公務員、流通管理職者、観光業者、メーカー技術者、自由業、広告代理店OB、元医師、元公務員、大工、元バス運転手、衛生用品納品の人など飛田に行ったことのある人たち―その年齢は22歳から72歳までと幅広い―にインタビューを試み、女の子とのやり取りの様子、価格など飛田の内側を言わば外から覗く。次にじゃんじゃん横丁の喫茶店や飛田界隈のスナックなど飛田周辺の生活者に聞き込みながら、飛田の日常に触れ言わば、外側と内側の境界線のところから一歩内側へ辿り着く。さらにインタビューは飛田本丸、内側中心部へ。それはまるで襞を分け入るように怪しい世界に招き入れられたような感じだ。「料理」組合幹部、元「おばちゃん」、「おばちゃん」、「経営者」と続き、途中肝心のインタビューがままならぬに至り、自分で作成したビラ400枚を飛田本丸で配り歩く。正式には4人の「おねえさん」から電話インタビューを受けることに成功。まだ残る“バンス”(前借。語源は英語のadvanceか。縛りをかけた独特なシステム)の慣習、家庭の問題、教育レベル(わけあり女の子がやがて弁護士になった話はあっぱれだが)、経営者の搾取等々ここで働く「おねえさん」(若い女の子から年配者まで様々らしい。中には好きで働いている主婦も!)はほとんどわけあり人生なのだ。そんな中、ブログで見つけた威勢のいい女性「経営者」にインタビューを試みたり、終にはスポーツ新聞の求人欄で「おねえさん」に応募、友人を巻き添えにして飛田本丸の内側、その心臓部へと踏み込む。その様子は同姓が立ち入る場所かと思わせるほどリアリティーがあった。(つづく)

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超人面白読書 92 井上理津子著『さいごの色街飛田』 2

この本に関連した海外の最近のニュースを二つ。
一つは、カナダオンタリオ州最高裁がカナダ憲法は売春婦の安全な環境で働き得る能力を不当に差別していると売春宿の合法化を認める従来にない判決を下したニュース。もう一つは、コロンビア北部カルタヘナで米州サミット開幕前のオバマ大統領の警護要因チーム11人がホテルで売春をしていたニュース(いずれもCNNの携帯ニュースから)。二つとも大胆だが対照的だ。

さて、『さいごの色街飛田』の話に戻そう。まずタイトルの「さいご」が「最後」でない理由が分からない。パソコンでつい「最後」と打ってしまうから慣れは怖い。著者の思い入れ、それとも編集者の知恵、いずれにせよ、単なる感覚の問題だろう―。それより筆者ならタイトルを『最後の色街 飛田を歩く』と付けたいところ。この書評では詳細を追うより特に構成や叙述が印象的なところを中心に書いてみたい。そんなの映像的に入ればお終いや、と言われそうだが…。

どうやらこの本を書く動機は、著者の友人の、

あの町はいずれなくなるから今のうちに記録に留めたら、

という一言だった(本書はしがき)。著者は長らく住んだ大阪を離れて今は東京住まいらしい。(つづく)

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超人の面白読書 92 井上理津子著『さいごの色街飛田』

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これは哀しいオーラルヒストリーの本である。いや、単純に言えば、実年女性が書いた色街ルポ。ある現代セックス産業の現場報告である。しかも書き上げるまで12年もかかっている。この執念には脱帽だ。著者は社会派のドキュメンタリー作家だが、この飛田にここまで惹きつけられた魅力とは何か―。

東京の吉原も様変わり、名古屋の中村はすでになく、その面影を今に残す飛田新地の情緒。特に雨上がりの夕暮れはしっとりしていて、うっすらとした情緒に陰影を添える。感性の魔力と言おうか、それがまた、いい。

著者はあとがきにこう記している。

あの町のなんとも表現しがたい雰囲気を、言葉で紡ぎたかったからだと思う。怒ったり、笑ったり、騙したり、騙されたりを、どうしようもなく繰り返す人間の性がむきだしのあの町は、私を惹きつけ続けた。中略。売買春の是非を問いたいわけではなかったが、そのことについては、書き終わった今も私に解答はない。それよりも、今思うのは、飛田とその周辺に巣食う、貧困の連鎖であり、自己防衛のための差別がまかり通っていることである。

そして著者はあとがきの最後の方でこうも記して警告している。

本書を読んで、飛田に行ってみたいと思う読者がいたとしたら、「おやめください」と申し上げたい。客として、お金を落としに行くならいい。そうでなく、物見にならば、行ってほしくない。そこで生きざるを得ない人たちが、ある意味、一生懸命に暮らしている町だから、邪魔してはいけない。

本書の目次を追ってみよう。第1章から第6章まで第4章を除けば、章題がすべて“飛田”で始めている。
飛田に行きましたか、飛田を歩く、飛田のはじまり、住めば天国、出たら地獄―戦後の飛田、飛田に生きる、飛田で働く人たち、だ。巻末には97の参考文献も掲げてある。また、珍しい飛田の写真まである。 〈つづく)

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超人の面白ラーメン紀行 160 港区青山『かれー麺 実之和 南青山一丁目店』

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【上の写真: 多少湯気がかかったかれー麺】

久し振りに刺激的なラーメンを食した。発祥は昭28年水郷の実之和食堂。この『かれー麺 実之和 南青山一丁目店』は2005年の開業。午前の仕事の帰りに昼食をと入ったカレー麺の店だ。少し並んだが10分位で入れた。カウンター10席の右端、古いコミック本や雑誌が並んでいるやや狭いところに…。
店内は黒を基調としたノスタルジックな雰囲気の漂う大人感覚の店で、カウンターとテーブル席を数えると40名位入る計算。
ここの生姜焼き定食が美味しいと店を通りがかった男性が言っていたのが聞こえたが、ここは定番の“かれー麺”を頼んだ(サービスの白ごはん付で)。5、6分してでてきた“カレー麺”は、大きめのどんぶりになめらかカレーがたっぷり、その中にストレート系中細麺そして豚しゃぶと青ネギがトッピングされていた。一口啜るとまろやかな鶏ガラスープにカレーのピリッとした味が溶け込んで食感がとてもいい。麺もスープによく絡んでいる。普通ならチャーシューだがここでは豚しゃぶ肉、これがやわらかくてカレーのラーメンにピタリ。刺激的だった。カレー好きには堪らないかも。昼時、OLもそれなりにいた。
メニューはかれー麺並盛(750円)、かれーつけ麺並盛(800円)、赤いかれー麺並盛(880円)、豚バラ肉の生姜焼き定食(950円)、豚しゃぶスープカレーセット(850円)その他アグーかれー鍋(1980円)、かれー餃子鍋(1280円)。飲み放題もある夜のメニューもユニークだ。近くには六本木店もある(地下鉄大江戸線六本木駅から徒歩3分)。
営業時間:11:00〜23:00。電話:03-3408-1119。定休日:月曜日。住所:港区南青山1-3-6南青山一丁目アパート1階。
『かれー麺 実之和 南青山店』1.スープ★★★2.麺★★☆3.トッピング★★☆4.接客・雰囲気★☆5.価格★★


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北朝鮮、事実上のミサイル発射

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北朝鮮が長距離ミサイルを発射した模様。午前7時39頃。アメリカのオバマ大統領がまもなく声明を発表するらしい。韓国もミサイル発射を確認済。日本政府は確認できていず!
ミサイル発射は果たして成功したのか? 情報が錯綜しているらしい。

そして田中防衛大臣が会見したニュース、何らかの飛翔体が1分間飛んだあと洋上に落下した模様と。日本には影響ないと。打ち上げは失敗だった…。

とんだお騒がせである。

追記。それにしても発射してから40分も経ってからの日本政府の発表。危機的状況下の情報収集に問題がありそうだ。


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クロカル超人が行く 161 永田町界隈の桜

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 永田町界隈の桜
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 永田町界隈の桜
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 永田町界隈の桜

北朝鮮のテポドン改良型ミサイル→人工衛星の打ち上げ予測日を明日に控えた国会議事堂周辺に用事があって出かけた。昨日は日英の国旗が掲げられていたが、今日は違う国旗が掲げられていた。


春雨になびく桜も一枚一枚落ちて、館の溝にはたまったたくさんの花びら、その色合いの微妙、手でそっと愛でたいくらい。またその上には小さな滴、たまりたまって少し流れ、季節も少し流れ、その花のいのちはかくも短く散るも、風の悪戯で乱舞。絵はがき模様と思いきや…。人生にも似たり、儚さ、もののあわれ、幻化……。


写真は同じ場所での昨日、今日の桜。とくと違いをごらんあれ。


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クロカル超人が行く 160 夜桜見物

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何処かの夜桜。何と幻想的かと誰かが言っていた。

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クロカル超人が行く 159 靖国神社の楼、千鳥ヶ淵の桜 満開

今日の昼休みはここで花見。満開の桜の下、見上げた桜は見事そのもの。

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クロカル超人が行く 158 北区『飛鳥山公園』

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花見の名所の一つ、飛鳥山公園。桜はまだ7分咲き、今日みたいに暖かければ日曜日が満開になるはず。
一昨日の“爆弾低気圧”には参ったが、今日はぽかぽか。
JR王子駅近くにある『東書文庫』に出かけたついでに寄ったのだ。体調がイマイチのまま飛鳥山へ。平日とあってか年配者が多かった。気の早い人たちは花の下で宴、カラオケがなくて正解。静かに花を愛でるのがいい。

春嵐去ってみれば花の宴

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超人の面白ラーメン紀行 159 横浜『玉泉亭』横浜駅東口ポルタ店

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『玉泉亭』横浜駅東口ポルタ店のサンマー麺。タモリがサンマー麺の発祥地は横浜らしいよ(タレントの故前田武彦氏に聞いていたかも?)とテレビで言っていたが、その一つをラーメン探訪。本店は伊勢佐木町で大正7年創業の老舗の中華料理店。もちろんサンマー麺(600円)を食べようと足を運んだのだが、店のおばさんにこちらがお得よと言われてミニ餃子付のサンマー麺(800円)を注文。日曜日の午後とあってかこちらの予想を裏切り、26席しかない狭い店はほぼ満席状態。テレビやミニローカル情報誌を見て来た人たちもいたような感じだ。おばさんグループ、家族連れ、カップル等々。もちろん常連客はいるはず。
さて、肝心のサンマー麺の話だ。サンマー麺といえば筆者の頭にこびりついている光景が今も浮かぶ。大昔大学時代にアルバイトをしていた時、昼時にはいつもサンマー麺を頼む人がいたのだ。サンマー麺って?秋刀魚がのっていそうもないしといつも不思議に思っていたラーメン。もう一つ、その頃伊勢佐木町にあった『根岸屋』で朝方近くに割烹着姿のお姉さんが運んで来たのがこのラーメンだったか?この店は怪しい雰囲気を醸し出していた。当時知り合いの人に連れて行ってもらったのだった。
ほとんど食べたことのないサンマー麺の味は、『幸楽苑』のラーメンよりも素朴!極細麺にもやし、白菜、人参それに小さな肉、その上にあんかけ、一言でいえば、あんかけ風野菜醤油ラーメン、啜った醤油の味も素朴でパンチが効き過ぎている感の最近のラーメン専門店に比べれば物足りないのも事実だ。大正ロマンが漂う、懐かしいヨコハマの匂いがあった―(本店を見てから言えと怒られそう。実は本店に行くはずだったのだが…)。メニューは豊富だ、何と言っても、初代他がアイデアマンだったのか、「三国料理」などと謳って商売していたらしく、その名残かも。三国料理は西洋料理、中華料理、日本料理の出す店だと。ヨコハマだから少し洒落ていたのかも。かつてはタレントの前田武彦グループもよく来ていたと本店の店紹介記事にあった。今このサンマー麺を横浜ご当地商品として売り出す動きがあるらしい。最後はほっとする話をちょっと。この店のおばさん店員の接客態度が素朴だがすごくいいのだ。目配りがすばらしい。接客態度のあまり良くないラーメン店が多い中、ここはピカ一。
横浜『玉泉亭』横浜ポルタ店 ①スープ★☆②麺★★③トッピング★★④接客・雰囲気★★★⑤価格★★★

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超人の面白スポーツ観戦 卓球世界選手権大会 2012  ドルトムント

2012年卓球世界選手権大会(団体戦)がドイツのドルトムントで開催中。今年はオリンピックイヤー、開催地ロンドンで金メダルを目指すべく日本代表選手は、強豪を相手に奮戦中だったが、女子は準決勝で韓国に敗れメダルに届かず、男子は準決勝でドイツに大敗、胴メダルだった。
筆者は女子の準決勝からテレビ観戦したが、なかなか伯仲戦で基本的なミスをした選手が試合に負ける結果に。特に韓国戦でカットマンでは世界一といわれる実力者キム選手のレシーブが冴えた。大袈裟にいえば、どんなスマッシュでも切り返す、その技術力の高さと粘りには目を見張るものがある。ラリーが長く続いても切り返してスマッシュをかけポイントをあげることもしばしば。実力派選手であることは周知の事実。そのキム選手とこれまで12回対戦して一度も勝てなかった福原選手、今大会準決勝戦第1試合で対戦した。後半キム選手の攻撃に苦戦したが、接戦の末なんと福原選手が勝利、この試合は記念すべき1勝となった。以前より攻撃に切れが出てきて迫力があった。しかも一段と速攻に磨きがかかり、コース攻めも的確、相手を見て瞬時に判断しながら、サーブトスの高低、縦回転と横回転など微妙な違いを出すことで相手の切り返しを抑えることに成功している。持ち味のバックハンドも打点が正確で勢いもあった。

福原選手の泣きべそは中国のファンの間でも有名だが、筆者がテレビ観戦した2009年の横浜大会(個人戦)と比べて更に技術力それに精神力とも成長していたのだ。

さて、そのあと2回戦は石川選手が3-2で勝ちまた、3回戦は平野選手が1-3で負け、2-2で迎えた準決勝第5試合、19歳の石川選手もキム選手と対戦、手に汗を握るような好試合が続き、10対10でジュース、11対11のアゲインそして再度アゲインで12対12、そのあとキム選手のサーブを切り替えそうとラケットに当てたが、不運にもラケットのエッジに当たったのか、無常にも球は台を大きく離れて飛んでしまった。万事休す!結局日本は韓国に負けてメダルを逃した。120330_oth_ishikawa180


一方、男子は準決勝でドイツと対戦したが、3-0で大敗した。岸川選手が勝利しただけで、丹羽、水谷選手120331_tak_mizutani_180


がドイツのオフチャロフ、ボルに負けた。世界ランキングの10位、6位のドイツ勢にまたしても圧された格好だ。ドイツの卓球の層が厚いことを思い知らされた試合だった。
このあとの試合は決勝戦。やはり中国が強いようだ。【写真左上・右下: テレビ東京の電子版から】

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街の話題 孤独死

最近埼玉、東京、神奈川などの首都圏の孤独死が話題になっている。詩人の茨木のり子さんや、つい最近ではタレントの山口美江さんが目についたが、この他にも大分いると考えられる。埼玉ではヤクルトレディが郵便受けの新聞のたまり具合を見ておかしいと通報してくれたことで助かった人もいた。現代社会を無縁社会と捉えた某テレビ局の番組が話題になったが、こういった人々、他人に手を差し伸べる人もいるのだ。
しかし気になるのは弱者切り捨ての胸の痛むような事件だ。横浜市旭区の親子の孤独死は他人事ではないと感じて少し、いや大分凍てついた。恐ろしいむごい現実を突きつけられた。高齢の父親が病死、母親は重度の障がい者の息子(といっても40代の男性)を面倒みていたが、解離性大動脈瘤で死亡、重度の障がい者の息子も肺気腫による呼吸不全で死亡。発見者は障害者支援施設の職員で母親は死後一週間、息子は発見の前日頃死亡したという。いやはや過酷すぎる。昨秋あたりから通所を断っていたらしいが、経済面や体力などのご苦労があったり、他人に面倒をかけたくないとの母親の配慮が働いたとは容易に想像がつく。それでもだ、何かの前触れとかシグナルがあったはずだが、隣人はそれに気づかなかったか。様子がおかしいと薄々感じていても、自分たちには無関係とあくまで装うのか。生前当の本人が通所などを断っていたというが…。誰かが言っていたがいい意味でのお節介者がいなくなっていると。民生委員やマンションの管理組合それに町内会の役員などコミュニティでのセーフティーネットがいかに脆いか露呈した感じ。今地域社会のセーフティーネット、特に高齢者の一人暮らしや障がい者など弱者に配慮した、心の通ったセーフティーネットワーク構築が急務だろう。どうも3.11以後絆、きずな、kizunaと言葉が一人歩きをしているよう…。

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超人の面白絵画鑑賞『レオナルド・ダ・ヴィンチ美の理想』東京展

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渋谷のBUNKAMURAざ・ミュージアムで31日から開催される『レオナルド・ダ・ヴィンチ美の理想』東京展。開幕前に日本初公開の「ほつれ髪の女」の展示作業があったと今朝の毎日新聞朝刊が報道。ダ・ヴィンチ円熟期の傑作でパルマ国立美術館が所蔵している作品。6月10日まで開催。開催中に一度出かけてみたい。【写真左上: 3月28日付毎日新聞朝刊より一部加工した写真】
パルマといえば、サッカーチームの本拠地あるいは、こちらの方が筆者的には興味津々なのだが、パルメジャーノ・レッジャーノのチーズの王様の産地。一昨年や去年辺りはこの24ヶ月熟成に拘っていた…。

追記。4月7日(土)放送のテレビ東京の人気番組『美の巨人たち』でこの展覧会の目玉「ほつれ髪の女」を取り上げていた。縦241.7㎝、横21㎝の小さなポプラ板に描かれた女性像。小林薫のナレーションがその特徴を語ってゆく。

わずかに首を傾け佇む伏し目がちの女性。その慈しみに満ちたまなざしは、細部の陰影にいたるまでに完璧に描かれています。きめ細かな肌。柔らかな唇。スッと通った鼻筋。まさに神
業のような筆さばきです。
ところが、細密に描かれた顔に比べ、髪は即興的に描かれあまりにも無造作です。そう、この絵未完成なのです。…その謎に迫ります。
お馴染みのナレーションだが、ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチはなぜ髪をきちんと描かなかったのか、そしてそのモデルは誰か、と私たち想像を掻き立てて止まない。
「モナリザ」ももちろんすばらしいが、この「ほつれ髪の女」もそれに劣らずすばらしい。小さいのが気になるが早くシブヤのBunkamuraに観に行かなくちゃ。(2012年4月9日 記)

追記2。静岡、福岡展は好評のうちに閉幕したと今朝の毎日新聞人欄。その記事はこの展覧会の監修者アレッサンドロ・ベッツォージ氏の紹介記事だ。20歳からレオナルド・ダ・ヴィンチを研究し、作品をモチーフにした雑貨や関連資料を収集、それらを公開するためレオナルドと同郷のイタリア・トスカーナ州ビンチ村に私財を投じて「レオナルド・ダ・ヴィンチ理想博物館」を創設したすごい人だ。
「天才ではなく人間味にあふれ、自然科学と芸術と哲学によって、世界をよりよくしようと尽力した」と語っている。
約80展のうち、9割は日本初公開。(上記4月10日付「毎日新聞」朝刊人欄より)
周辺資料もいいが、レオナルド・ダ・ヴィンチの全作品を時系列、テーマ別のどちらでもいいから観たいものだ。(4月10日 記)

追記3。毎日新聞はこの展覧会の共催者だから、これでもかと執拗にキャンペーンを張っている。もういいやと思いつつも読んでしまう筆者がいるが、昨日の夕刊にもこんな記事が―。

開催前にイタリアで取材した記事。その中にローマ大学のベッチェ教授の話が興味深い。
レオナルドが描いた原画「レダと白鳥」は現存していないが、同時代の画家らが模写した作品が残っていて、『ほつれ髪』は女神レダの下絵である可能性が高いと。
筆者もこの絵にはエロスを感じてゾクゾクするほど。

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超人の面白読書 91 羽田 正著『新しい世界史へ―地球市民のための構想』 6

現行世界史の通奏低音は、ヨーロッパ中心史観と国ごとの異なった歴史の重視であることと書いたあと、著者は新しい世界史構築の考え方を提示する。「世界はひとつ」だがそこに住む人の個性、境遇、考え方は様々なのだから、多様な世界史の理解と叙述がある方が自然なのではないか。同じ地平に立ってさえいるなら、全員が同じ方向を向く必要はない。世界史の書き方は複数あるべきだ。そして具体的な方法を述べる。
2 三つの方法 目指す方向、この項で著者は外交官兼原信克著『戦略外交論』の中から引用して次のような五つのキーワードを参考にしながら三つの方法を提示する。
①法の支配(いかなる権力も広義の法の下にある)
②人間の尊厳(人間を大切にする)
③民主主義の諸制度
④国家間暴力の否定(平和の追及)
⑤勤労と自由市場(正当な報酬と自由な交換)

(1)世界の見取り図を描く
(2)時系列史にこだわらない
(3)横につなぐ歴史を意識する

以下この3点を詳述する。そして、本書の主張の小見出しではこの本の言いたかったことが綴られる。
地球社会の歴史は、「世界はひとつ」と捉えるとともに、世界中の様々な人々への目配りを劣らず、彼らの過去を描くものでなければならない。新たにそのような世界史を構想するべきだ。最後に近い未来の実現化に期待しつつ、著者はこう締めくくる。
最近、人文学の領域で、新しい世界史の構想と同じような動きが軌を一にして起こっている。新しい世界史と似た考え方に基づく世界文学の構想や国民文学という枠組みの相対化、中国哲学やフランス思想など国民国家別に分類された哲学思想研究の見直し、宗教や美といった概念の再検討など、いくつもの新しい傾向を指摘することができる。これら新しい学問がまとまってやがて大きな知の潮流となり、目に見える成果を次々と出しはじめてやっと、人々の世界の見方は変わってゆくだろう。

本書は構想力の本だ。決して難しいことを述べているわけではないが、イスラーム世界の歴史研究者として今までの欧米中心史観から脱却すべきと説いているのだ。だが、実現にはそれなりの労力が伴うのも事実だろう。かつて筆者は当時の橘女子大学(現在の京都橘大学)の著者の研究室でお会いしたことがある。当時から歴史研究者の間では若いが優秀な学者だと聞いていたのだ。

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超人の面白読書 91 羽田 正著『新しい世界史へ―地球市民のための構想』 5

閑話休題。筆者はもう4年近く前にある構想をある研究者(1960年代に刊行された岩波書店の『世界歴史』をあげると言ってくれた研究者で、この本は古本で高値がついているよとも。結局遠慮申し上げたが)に持ちかけた。それはスケールの大きい構想だったので、その研究者も学内外に基本構想の賛同の呼びかけをしてくれた。ある研究者からは構想趣旨の軌道修正を促され、構想自体の存続すら危ぶまれた。構想を持ちかけた研究者曰く、しばらく沈思、曝すことにしたよ、と。それから約3年後件の研究者から構想再開の知らせ、テーマは地球規模、執筆者は25名位に膨らんで目下執筆者への最終調整中だ。ここで重要なことは、構想力と時間軸に曝して熟成度を高めて行く協働作業だ。早まって生硬し過ぎたり、遅すぎて機会を逸したりと“よむ”力が試されるが、何より自らの問題意識の深さを再認識することだった。まだ進行中なのでこれ以上は言えないのが残念。ネタばれで大失敗したら大笑いになるからだ。多少違いはあるものの、このことはこの本の著者が推薦していた『二宮宏之著作集 Ⅰ』を借りてパラパラ巡ってみて感得。フランス社会史の専門家は先駆的なオーガナイザーでもあったことが、月報やあとがきの福井憲彦氏の文章を読めば理解できた。で、ついでにこの著名な著作集を全部ある書店の軒先で巡ってみた結果、古い論文を編んではいるが『著作集 Ⅰ』が良いかもと素人なりに判断してある箇所をじっくり読み込んでみたいと考えている。それはとりもなおさず筆者が構想中のものに刺激的なアドバイスを与えるに違いないことを確信したからに他ならない。

さて、最後の章第四章 新しい世界史の構想に移ろう。1 新しい世界史のために 共同研究「ユーラシアの近代と新しい世界史叙述」(http://haneda.ioc.u-tokyo.ac.jp/eurasia)の成果、ここでは著者は自分たちの共同作業の中間報告の形で具体的な世界史構想を述べる。世界史を記述する言語、英語を鍛える、非対称のパラドックス、複数の新しい世界史と続くが、この項でも著者の主張にしばし耳を傾けてみよう。〈つづく〉

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超人の面白読書 91 羽田 正著『新しい世界史へ―地球市民のための構想』 4

第二章 いまの世界史のどこが問題か?ここでも小見出しを追いながら、興味深いところは書き写したりして読み進んでみよう。
1 それぞれの世界史 古びたデザイン、自国史と世界史、ここではフランスの歴史教科書を取り上げて具体的な記述を試みているが、もちろん著者も書いているように、フランスとその周辺に限られていることは当然かもしれない。そこでは日本についての記述が明治維新になって初めてたった一行されているだけで、あとは日本の占領地域が図示されているのが目立つ程度だと著者は書く。
筆者はかつてアメリカの中学の歴史の教科書は読んだことがある。購入したのか借りてきたのか分からないが。アメリカの歴史教科書は自国についての歴史―歴史が浅いせいか―を詳細に描いていて、さらに理解を深めるため質問事項も組み込まれていた。英語読解にはいい材料と聞いて読んだのだった。
そして当然といえば当然だが、次のような見解を著者は述べる。

日本の高校で世界史を学んだ日本人と、フランスの高校で歴史を学んだフランス人が、世界史や双方の国の歴史に関する知識を共有したうえで、ビジネスや国際会議などの場で商談や討議を行うのは相当に難しいはずである。

次に中国の世界史教科書を目次を差し挟んで見ているが、世界史は中国のことを除いていて、自国史は別に学ぶようになっていると。要は二本立てで学ぶようだ。著者はここでは言及していないが、日本についての記述が時々問題になる。つい最近も名古屋や東京の首長たちの歴史認識発言で物議を醸し出したことは記憶に新しい。
それぞれの世界史、2 現状を追認する世界史、自と他を区別する歴史、では歴史学の現状を憂いてこう書く。

現在の歴史学は、時代を先導する松明であったかつてとは異なり、時代の後ろからその速い歩みを呆然と見送っているという状態に陥っている。歴史研究を職業とする人々は、歴史学の社会的な存在意義について、もう一度真剣に考えてみるべきだろう。

「イスラーム世界」の実体化、中国とイスラーム世界、3 ヨーロッパ中心史観 現行世界史最大の欠点、ヨーロッパ史の不思議、日本人のヨーロッパ史と小見出しは続く。〈つづく〉

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超人の面白建築 東京駅丸の内側駅舎

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東京駅丸の内北口側の駅舎。1914年に辰野金吾(仏文学者辰野隆の父)と葛西萬司が設計したレンガ造り3階建て建築が完成。どこかに書いてあったが、オランダのアムステルダム中央駅をモデルにしたという俗説は面白い。今そのドーム型の駅舎等の復元工事が急ピッチで進められている。
この写真は東京駅1番線ホームから撮影した工事中の駅舎。にょきっと姿を現した復元中の建造物、全体像を早くみたいものだ。今年の暮れには完成するらしい。

ここはどこおらんだあたりにみえかくれ

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超人の面白読書 91 羽田 正著『新しい世界史へ―地球市民のための構想』 3

さて、この辺で少しうさぎ飛びで先を急ごう。
戦後の1951年に「東洋史」や「西洋史」に変わって「世界史」が登場、しかし著者は高校で世界史があるのに、大学では西洋史や東洋史しかない、微妙なずれが生じていると指摘し、詳細記述は避けているものの、大学で世界史を系統的に講じられていないことに警鐘を鳴らしている。史学科卒業生は大概高校の社会科の教師(筆者のことで言えば、高校時の世界史の教師は、ユーモアはあったが果たして世界史をきちっと教えてくれたか疑問が残る。それも遠い昔の話)になるが、著者は彼らはどのように世界史を教えるのか、試行錯誤で教えるしかないと言い切っている。この後を小見出しで追うと、西洋を軸とする世界史、その後の学習指導要領、世界史観のうつりかわり、日本国民の世界史、日本の立つ位置への関心、日本国民の世界史の内容、現代の世界史の出発点となっている。『日本国民の世界史』は教科書として受け入れられず、一般書として刊行し評判を呼んだらしい。それは東洋と西洋の二項対立とその間の微妙な位置に日本を置いた戦前以来の世界認識を踏まえ修正したもので、「文明圏」という歴史の理解の単位は、トインビーが著した『歴史の研究』ですでに用いられていて、参考にしたに違いないと著者は書く。〈つづく〉

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超人の面白読書 91 羽田 正著『新しい世界史へ―地球市民のための構想』 2

1887年 帝国大学(現在の東京大学)の文科大学(現在の文学部)に「史学」創設。史学先進国のドイツから教師招聘。「過去をあるがままに見る」実証主義歴史学研究の方法を提唱したランケの弟子のリースが教えた。その後イギリス、フランスなどヨーロッパ諸国の歴史が講じられた。ここで著者は2点注意を喚起する。当初の科目名は西洋史ではなく「史学」、明治日本が手本とした当時の西北ヨーロッパの歴史認識が投影されているという。もう一つは、ヨーロッパ諸国の政治史。
1889年 国史(日本史)の授業開始。この本に依ると、歴史学の導入から2年後の開始は“画期的な事件”だったと。しかし明治以前に「大日本史」のような歴史書は記されていて、近代歴史学の実証的な手法を用いて天皇制国家日本の歴史を描こうすることは、国家史という枠組みを使う点では接合した。これ以後は帝国大学で国史学の研究と教育が連綿と進められてゆくと著者は書く。
1904年 支那史学講座開設。
1910年 東洋史学講座設立。著者は東洋史学の泰斗宮崎市定の言葉、先頭に立って西洋の侵略を防衛するという理想を実現すべき任務を負うて誕生したもの、を引用して一種の実学として成立したと書く。かくして日本独特の「日本史」「東洋史」「西洋史」の3区分が完成したという。これが今日まで続いているらしい。

筆者はかつて日本の学問史を近世後期・近代まで遡及しながら人脈史をチャート化しようと試みたことがあり、その道の専門家に尋ねたことがあった。この分野は教育社会学の分野らしく、一部の研究者たちはその成果を本に纏めたが、この一見易しいそうな人脈形成史はやってみると相当難しいらしい。広島大学や名古屋大学にはこの分野のエキスパートがいるが、個別的な分野、例えば京大人文研などは学者やジャーナリストが書いているので分かり易いが。それと東大をはじめ大学が節目節目に出している大学史、これは参考になる。幕末・明治期の海外渡航者を追跡するのも初期学問形成期には有益だ。仏文学者の鹿島茂が雑誌「ちくま」に連載している「神田神保町書肆街考」(2010.12~2011.2)にも東京大学の成立史を闊歩していて面白い。いや、最初に「お雇い外国人」を持ち出すべきだった…。
話は多少横道に逸れた。歴史学と歴史教育の歴史だった。〈つづく〉

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超人の面白読書 91 羽田 正著『新しい世界史へ―地球市民のための構想』

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中東情勢が依然として不安定な現在、「イスラ―ム世界」の歴史が専門の研究者の手による『新しい世界史へ―地球市民のための構想』(岩波新書 2011.9)が刊行され、ようやく昨日読み終えた。蛍光ペンで線を引きながら。筆者が目下構想中の企画に確かな手応えを与えそうな好著だ。ある先生に、先生、この本面白いですよと勧めたら、即座に君のそれ、頂きと取り上げられてしまった本でもある。しかしそのあと買い直した本を読みかけたまま鞄の中に入れ20日間以上も放っておいた。その間小雑誌他数冊を読んでいた。
最近では珍しいことだが、大型書店の店頭には世界史の本やら日本史の本が何冊も平積みされていて、中でもカナダ人が40年も前に書いた『世界史』(著者はカナダ生まれの元シカゴ大学歴史学教授ウィリアム・H・マクニール、文化人類学者増田義郎・比較文学者佐々木昭夫共訳。世界情勢の変化に伴い、内容が一新された改訂第4版の翻訳本。中公文庫上下 各1400円)という本が目下30万部以上売れているという。客層は30代〜50代のサラリーマン、その魅力は世界史を流れで把握できることらしいことと暗記しなければならない読みづらいカタカナが少ないから…。

さて、本書は今までの西洋史から脱却して、世界史へ―地球市民のための構想を打ち出し、新しい世界歴史叙述のあり方を提案した画期的な一冊である。世界歴史を今までのように一元的(権力者側)に捉えるのではなく、見方を変えて多面的に捉え直そうとする枠組み作りだ。
著者も現在の世界史の語り方、理解の仕方に疑問を抱き、新しい世界史をどのように記せば良いのかについて、ここ数年試行錯誤してきた私の思索の中間報告である(はしがき)、と書いている。

序章 歴史の力

第一章 世界史の歴史をたどる
1 現代日本の世界史
2 戦前日本の歴史認識
3 世界史の誕生
4 日本国民の世界史

第二章 今の世界史のどこが問題か?
1 それぞれの世界史
2 現状を追認する世界史
3 ヨーロッパ中心史観

第三章 新しい世界史への道
1 新しい世界史の魅力
2 ヨーロッパ中心史観を超える
3 他の中心史観も超える
4 中心と周縁
5 関係性と相関性の発見

第四章 新しい世界史の構想
1 新しい世界史のために
2 三つの方法
3 世界の見取り図を描く
4 時系列史にこだわらない
5 横につなぐ歴史を意識する
6 新しい解釈へ

終章 近代知の刷新

あとがき

以上が220ページの新書版の目次。言うまでもないが、これで大方の内容は予想つく。序章で著者は次のように書く。

現代日本において、歴史理解を生み出す源であるはずの歴史学と歴史研究者に元気がない。中略。最も大きな原因は、一般の人々が求める歴史像と歴史研究者が生み出す研究成果の間に、無視できないずれが生じているということではないだろうか。歴史研究者は着実に仕事をしているのだが、それが一般の人々の心に響かなくなっているのだ。中略。人々が自らの問題としてそれを真剣に議論し、新しい歴史認識を生み出そうとしたときに、それが力となって、時代の歯車が一つ回る。いま歴史学者に必要なのは、学界の「常識」に忠実に従うことではなく、時代にふさわしい過去の見方を思い切って提案することだ。

第一章 世界史の歴史をたどる では、現在使われている高校の世界史の教科書二冊の“学習指導要領”を具体的かつ丹念に読み込みんで行き、次の2点を導き出す。

①世界は異なった複数の部分から形成されており、それぞれ異なった歴史を持っていること。②複数の部分のうちで、ヨーロッパ文明世界とそこから生まれた諸国家が他より優位にあり、実質的に世界史を動かしてきたこと。
世界史とは、異なったいくつかの文明世界、ないし国家の時系列に沿った歴史を束にして、全体を紐で縛ったようなものとして理解される。

このような世界史の見方がどのように形成されたか。明治の日本までさかのぼって、その歴史学と歴史教育の歴史を探る。〈つづく〉


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市井の思想家吉本隆明の死

詩人・評論家で思想家の吉本隆明氏が3月16日に死去。全共闘世代にはカリスマ的存在で彼の著作は難解にも拘らずよく読まれた。今思えば、一種の知的ファッションだったと筆者は考えている。右手に朝日ジャーナル、左手にコミック雑誌というスタイルは、当時の学生の様子を象徴していた。こう書く筆者もその知的雰囲気に触れた一人だったが心酔するほどのめり込まなかった。当時筆者たちも講義の合間に大学近くの仲間の下宿でよく議論したものだ。

もう15年以上前に団子坂周辺をうろちょろしていた頃、夕方近くに手拭いを腰にぶら下げ自転車を押して坂を上る吉本隆明氏を何度か見かけた。白髪混じりで白いシャツとごく普通の人が履く茶色ズボンそれに下駄の出立ちは、庶民的なオジサンそのものだった。やや眼光が鋭い以外は。恐らく豆腐屋や八百屋などに寄って西片の自宅に帰る途中だったか。夫人が病弱だったため、代わりに吉本隆明氏が買い物をしていたと昨日の毎日新聞の夕刊に書いてあった。長女は漫画家、次女は著名な小説家吉本ばななさん。
今彼の詩集の一節を思い出そうとしている。それは詩論家鮎川信夫と吉本隆明の詩『固有時との対話』を対比させて論じたエッセイだったか、思い出せないでいる。『言語にとって美とは何か』、雑誌『試行』をはじめ、『マチウ書試論』、『転向論』、『共同幻想論』、『書物の解体学』『戦後詩史論』、『マス・イメージ論』となどそれに目についた新聞、雑誌の対談などは読んでいた。しかし彼の熱心な読者ではなかった。前述した通り難解なのである。その言葉の独特な定義づけとねちっこい言説には一つ一つ詳しい解説が必要だったくらい…。それはやわらかな詩的直感と硬質な論理的思考が織り成す水晶体のようなものだった。昨日の朝日新聞夕刊に中沢新一が“病を治してくれる”お医者さんだった、と気が利いたコメント発していたが、筆者には到底真似できないコメントだ。

そうそう、思い出した、2年前には文芸記者との対談・構成本『詩の力』を読んでいた ! さらに 絓秀美著『吉本隆明の時代』も書棚にあった。それにしても勁草書房刊『吉本隆明著作集 言語にとって美とは何か』が手元にないのだ、確かどこかにあるはずなのだが。

追記。この記事を書いたあと、まだある記事を見つけられないままあちこちの書店や古本屋を捜していたら、流石吉本先生、初期の詩集が見当たらない、売れているらしい。そうこうしているうちに毎日新聞は加藤典洋氏や中島岳志氏、それに北川透氏に寄稿してもらっいる。その内容のコメントはあとで。それはさておき、NHKのETV特集「吉本隆明は語る」を視た(2012.3 .25. 22:00-23.30)。2008年、糸井重里司会の昭和女子大学での講演会の録画を中心に構成した番組。面白かった。吉本隆明氏、83歳。車椅子での熱弁、恐れ入りました。自前の芸術言語論を熱く語って止まなかった。Yoshimoto
いわゆる自己表出と指示表出の話、目線は絶えず天井までは行かないまでも大分上(照れ隠しか)、アダム・スミス(ちょうど夕方必要あってスミスに関する本を買ったばかり!)の古典経済学からマルクス、鴎外、漱石と言語論を展開、言語は沈黙のところが意味深い、コミュニケーションだけではないと。横光利一を評価、ドストエフスキーや太宰治、桑原武夫の第二芸術論まで出てきた。小説の本質を見抜く直観力と推察は鋭い、語り口は大分年老いて聞き取りにくいところや繰り返しが多かったが、その中で多用された“つまり”の言葉が何とも良い響きだったか。(笑)。やはりフンボルトではないが(つい最近言語学者のフンボルトに関する論文を大分前に書いた元関西大学の福本喜之助教授の本を少しばかり読んでいたのだ。その本はこの春大学を退職するご子息から頂いたもの)エネルギアを感じた次第。4年前の講演だったようだが筆者はこの講演会を知らなんだ。糸井重里氏は吉本ワールドをネットで公開するらしい。戦後最大の思想家の一人を世界中に紹介してくれることは大変有益だと思う。それにしても吉本隆明は外国語は知らず全部翻訳書で読み込んでいたとは、これまた凄い。どこかに書いてあったエピソードだが、誤訳された翻訳書を読んで理解できるかと外国語の研究者から非難されたらしい。吉本隆明はそんな翻訳しかできない外国語研究はレベルが低くいかがなものかと反論したらしい。沖縄、アフリカの問題についても先見の明ありだ。そして恥じている筆者がいるのだ、若いときに読んだはずだか゛忘れてしまっていることがいかに多いか……。
加藤周一、井上ひさし、今回吉本隆明が鬼籍入り、知を背負って全仕事をした人たちがいなくなることは淋しい限りだ。
ところで、京都の大御所鶴見俊輔氏は元気だろうか?(2012.3.26 記)
追記2。ブレない吉本隆明だった、とは毎日新聞の文芸批評を担当している田中和生氏の3月文芸批評の冒頭文言(2012.3.29)。

Img021_2

ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる
ぼくの肉体はほとんど過酷に耐えられる
ぼくがたふれたらひとつの直接性がたふれる
もたれあふことをきらった反抗がたふれる
ぼくがたふれたら同胞はぼくの屍体を
湿つた忍従の穴へ埋めるにきまつてゐる
ぼくがたふれたら収奪者は熱ひをもりかへす

ちひさな群への挨拶 「転位のための十篇」から
『吉本隆明初期詩集』(講談社文芸文庫 2010年11月10日第2刷)

追記3。吉本隆明は数学者の遠山啓を尊敬していた…。

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クロカル超人が行く 157 豊島区民センターでの講演会「東日本大災害・TPP問題と国土環境問題」を聴講

クロカル超人が行く池袋・豊島区民センターでの「東日本大災害・TPP<br />
 問題と国土環境問題」の講演会
JR池袋駅から徒歩5分のところにある豊島区民センター、そこの5階の一室で講演会があって出かけた。
『東日本大災害とTPP問題』―二つの国難―。講師は元滋賀大学学長で公害問題、環境問題が専門の宮本憲一氏。東日本大震災と復旧・復興、戦場のような惨状、自然災害が深刻となった理由、人災―原子力災害、電発交付金などの実態、原発基地の集積、史上最大の事故、人間と地域社会の復興、身の丈に会った内発的復興、復興基本方針と財源、エネルギー政策の転換、脱原発への確信を、再生エネルギーの開発を、Trans-Pacific Partnership Agreement(略TPP)問題、東アジア同盟か日米同盟強化か、開国か亡国か、農林水産業・農村への影響、TPPの農産物生産の影響、農林漁業の大規模化・近代化は可能か、TPP参加は中止を、食糧とエネルギーの自給先進国の資格、農村の主体形成と都市の連帯、維持可能な内発的発展を、が講演の内容(当日配布された資料から抜粋)。
更に内容を急いでメモ風にピックアップすると次の通り。死者・行方不明1万9千人以上を出した東日本大震災ではほとんどが津波の被害で65歳以上が死者の55%以上、建造物の全壊12万戸・半壊18万戸、一部損壊60万戸、冠水農地24000ha、被害5200億円、漁船2万隻喪失、被害3500億円、直接経済被害額16.9兆円(3県所得15兆円)、原発被害地域12市町村約21万人、県外避難3.6万人、放射能による農業・畜産被害額増大、5兆円以上、2253万トンの瓦礫と石綿などの環境災害。孤独死などの2次災害が増えている。電発交付金は約70%は原発基地の自治体に交付、その額は福島県と原発基地4町村へ1974〜2009年で2400億円、福井県と町村3245億円。この交付金と固定資産税が財政を一時的に潤沢にし、寄付金とで多くの施設がつかられた。原発基地の減価償却は16年間、初期には立地交付金は5年間で終わり、減価償却資産税は激減、急速に外来資金はなくなる。地元は財政収入の水準を落とさないためには、原発基地拡張・新設続け過密な集積立地を招いた。福島12基、福井県15基、柏崎7基と集中。
集中復興期間は5年間で19兆円、東電は原発被害緊急救済措置、3兆6000億円、被害者の生活、農畜産の保障、二重債務の解消などの生業の再建で8兆円不足、原発再開や料金値上げを要求している。
瓦礫の安全処理や除染が最優先。新規の建設は中止、30年を超える19基廃止、54基停止でも電力維持可能。早急に自然エネルギーが普及できるように補助制度、固定価格制度を導入し、9電力体制の再検討を。原発はプルトニウムの再処理は困難で、廃棄物処理を考えると未完の技術、半永久的に負の遺産を残す。連帯して再生エネルギーの開発を。原発の廃止の時期を10年あるいは15年と明示して、省エネルギーの経済への転換と代替エネルギーの開発を急ぐべき。
TPP(環太平洋連携協定)問題。サービス、投資、政府調達(公共事業)、知的財産、労働力移動を提携国並みに規制緩和。農作物の自由化とともに、公共事業、郵政民営化、通信・情報技術の規制緩和、医薬品、流通、医療保険制度の改革など249項目の改革要求。農水省は19品目を対象とした試算結果。食糧自給率40%は14%へ減少、米90%、豚肉70%、牛肉は高級肉以外全滅、林産物500億円、水産業4200億円減、全農林水産4兆5000億円減、関連産業7兆9000億円減(GDP1.6%)、雇用340万人喪失。個別の自由貿易協定(FTA)を進めて行った方が良い。日本の農業の問題は、環境の問題とも関連、農業力、わずか20年で4分の1に。これまでの国土、農業政策が失敗、市民がもっと農業に関心を。補助金依存や企業誘致の外来型開発をやめて、足元の資源と環境と文化に根ざして、住民自治による維持可能な内発的発展の道を。以上が講師宮本憲一先生のレジュメ。
午後2時〜4時までだったが、質疑応答の時間(予め質問事項を書いてもらって、それを司会者が読みあげる格好)も長くなり、予定時間を約1時間弱オーバーして閉会。勉強会の体裁。参加費500円。

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『ベルイマン アイランド』観に再びスウェーデン大使館へ

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曇天で気温8度と寒空の今日(2012年3月4日)、ベルイマンの“難題を投げかけた男”の展示関連映画『ベルイマン アイランド』を観に再び六本木のスウェーデン大使館へ。
スウェーデン文化交流協会Swedish Institute 制作の英字字幕付日本語訳なしの映画。上映時間84分。ベルイマンが晩年住んでいたフォーレ島の自宅でのインタビューや話題に上った作品を随時挿入しながら回想するドキュメンタリー。2004年制作。手法、恐怖、時間、女性、包み、策略、カメオ浮き彫り、苦悩、、リハーサル、疑惑、スウェーデン、オスカー、悪魔、仲間、色彩、音楽、沈黙、死、回想、恥、母、窃盗、顔、父などを語り、映画のシーンが挿入される構成だが、ここには言わばベルイマン映画の謎を解く鍵が豊富にちりばめられていた。難解で知られる作品のモチーフは彼の幼少、少年時代の体験にあった。この時ベルイマン86才、亡くなる3年前の映像だ。
筆者が印象に残ったことと言えば、やはり8才の時に映写機Img016_3
を買ってもらったこととそこに映し出されていたのがチャップリン映画だったことだ。初期に見られる社会派的な映画から徐々に人間の内面にへばりつく諸問題を扱う映画に。それは難題を投げかけた男が自ら映画の“神様”になっていく過程でもあったか(あるいは伝説的になっていく)、それとも“紙一重”に賭けた男の生き様だったか。ベルイマン映画を更に魅力的にしているのは、女優や男優(つい最近亡くなったエールランド・ヨーセフソンなど)の名演技だった。完璧を求めたベルイマン監督によく応えたからこそベルイマン映画には観客を虜にして離さない魅力があるのだろう。更にもう二つ、時計や人形など小道具の効果それに象徴的な風景描写もいい。それらが実存的、心理的な映画で難解なテーマを私たちに投げかけた映画であっても…。
この日午前の部の観客は3名だった。帰りがけに偶然映写担当の男性に感謝の印か笑顔で見送られた。

外は今にも雨になりそうな気配。地下鉄六本木一丁目駅に戻る高層ビルの階段で結婚式の場面か晴れ着姿の集団に出くわした。

【写真左上:スウェーデン大使館入口の開催案内=筆者撮影 写真右上:自分の映写機を手にするベルイマン=スウェーデン文化交流協会制作の「イングマール・ベルイマン」P.41から】
参照:スウェーデン文化交流協会作成の英文小冊子 Ingmar Bergman: The man who asked hard question. Ingmar Bergman by Maaret Koskinen.


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超人の面白雛祭り

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今日はひな祭り 。

あかりをつけましょ ぼんぼりに
お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓
今日は楽しい ひな祭り

さて、こんなところに雛壇が―。JR東京駅丸の内地下の動輪が置かれているスペースに突然雛壇が出現、あちこちでパチリパチリとシャッター音が響いていた。筆者は大昔新しく張り替えた障子戸の中で、家族の人たちと雛壇飾りをしたことを懐かしく思い出す。しかし、新聞をさりげなく読んでいたら、こんな文章に出くわして苦笑。

雛まつりは美しいが、少し恐ろしくもある。その昔、人間が寝静まった後、お雛さまがどこかへ出掛けて、そっと帰ってくるという、ちょっと怖い話を聞いたことがある。だからむやみに触っていけないらしい。(2012年3月3日付毎日新聞朝刊 野坂昭如の「七転び八起き」から)

筆者も同じような話を母か叔母に聞いた記憶がある。
筆者の家ではサリーを迎えてケーキとちらし寿司が供された。
そして定番の桜餅。

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スウェーデンの映画監督ベルイマン“一家”の一人、俳優エールランド・ヨーセフソンの死

少し前にスウェーデン大使館でイングマール・ベルイマンのマルチメディアによる展示会についてリポートしたが、その円形状のマルチメディア空間の中心から5本のスクリーンに流された映像の中の一つに登場していた俳優が、今夜亡くなった(2月26日)エールランド・ヨーセフソン、享年88歳。彼はベルイマン映画“一家”の一人で俳優、作家そして舞台監督として活躍した。

スウェーデンの有力夕刊紙「アフトンブラデット」の電子版は俳優仲間のインタビューを交えて報じていた。下記はその大意。

舞台仲間の一人、ビョイエ・アールステット氏は彼は人間としても舞台監督としても知性があり寛大だったと語った。
エールランド・ヨーセフソンは女優のリブ・ウルマンと共演したイングマール・ベルイマンの映画『ある結婚の風景』(2008年3月8日付コラム「超人の北欧演劇鑑賞」参照)で有名だ。また、『ファニーとアレキサンドル』や『秋のソナタ』にも出演。さらにヘルシンキの国立劇場やヨーティボリの国立劇場、そしてドラマでも活躍した。
1960年から70年代半ばまで国立劇場の主催者を務め、スヴエンスカ ダーグブラデット文学賞や2003年にはスウェーデンアカデミー王立賞など生涯に数々の賞を受賞。彼は詩集から小説、短編小説それに自伝まで書いた。
ヨーセフソンの親友の一人、作家で演出家だったイェン・ドンネル氏が語る。
彼はエールランド・ヨーセフソンの温くて時折皮肉的なユーモアを指摘。
「彼と付き合うのが楽しみだった。寛大でオープンしかも偏見のない人だった」ビョイエ・アールステット氏とエールランド・ヨーセフソンはイングマール・ベルイマンの映画「ファニーとアレキサンドル」で共演した。彼は先見の明があって寛大な人と振り返る。
「博識で謙遜しかも温かった。劇場の主催者として壮大、私たちには最良の時期だった」
巨人だったとビョイエ・アールステット氏。何度もヨーセフソンと仕事をしたレーナ・エンド女史は彼の温かさを思い出す。
「素晴らしい仲間だったわ。良い雰囲気をつくってくれて安全だったわ。信じられないほど聞き上手で自慢をしない人だったの」と記者に。続けて、「彼は飛びっきり親切だった。私たちはこのあとの人生もあるので、またお互いに会えることを期待したい」

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超人の面白、街の話題 15 閏年の2月29日に雪

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閏年の2月29日に首都圏は本格的な雪景色。もう春なのに真冬並みの寒さ。

どか雪に子らははしゃぎ春逃げる

バス停でいつ来るかと梅眺め

雪だるま嬉しさ悲しさ置き忘れ

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クロカル超人が行く 156 国立国会図書館企画展示『ビジュアル雑誌の明治・大正・昭和』

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今国立国会図書館新館地下で『ビジュアル雑誌の明治・大正・昭和』展が開催されている。
テレビやインターネットもない時代、雑誌は貴重なメディアでした。中略。本展示会は、国立国会図書館の膨大な蔵書の中から、ビジュアル表現が特徴的な雑誌を集め、大衆文化を縦糸に、印刷技術を横糸に構成しましたとはこの展示会のパンフレット。

国立国会図書館新館入口からすぐに地下に向かった。受付があって、周りには展示関連のペーパーが置いてある。受付嬢(?)から簡単な案内パンフレットとアンケート用紙をいただき、順路を右から辿った。雑誌の最新号→第一部、ビジュアル雑誌を支えた印刷技術→第二部、ビジュアル雑誌の展開→①災害、風俗画報、関東大震災画報→②画報、近事画報、国際写真新聞など→③戦争、日露戦争実記、写真週報など→年表とこぼれ話→④人、日清戦争実記、美観画報など→⑤ファッション、ル・シャルマン、an-anなど→⑥子ども、少年世界、コドモノクニなど→⑦美術、明星、エポックなど→写真、アサヒカメラ、光画など→第三部、あの人気雑誌の創刊号、週刊ポスト、女性自身、モーターマガジン、なかよしなど→体験コーナー(ルーペで雑誌を見てみよう)そしてPCコーナー(国立国会図書館がHPで公開している電子展示会。ここはスキップ!)と全部あたっても小一時間もかからなかった。小規模な展示会だ。印刷技術のコーナーでは急いでおさらいやら知識の新たな詰め込みも。しかし、やはりここは印刷技術の実践もほしいところ。災害コーナーでは「風俗画報」に掲載された明治の三陸海岸大津波の絵が目を見張った。近事画報はあったが、日露戦争従軍記事が連載されている雑誌(確か作家国木田独歩の弟が発行人の)を探したがなかった。残念!美術コーナーでは「国華」が目を引いた。
それにしても待ち合わせしていたG氏がまだ来ないのだ。仕方なくブレークコーナーに置いてあった「芸術新潮」を捲った。リトアニア出身のユダヤ系アメリカ人の画家ベン・シャールの特集記事を福島県立美術館学芸員の荒木氏が書いている。昔見た記憶があるが忘れた。このベン・シャールの絵には社会に対する反骨の精神が独特なタッチで描かれていて面白い。特にアメリカでの冤罪事件から題材に取り上げたものも少なくない。ついつい読み耽ってしまった。読み終わる寸前にG氏から携帯電話。彼の声は殊の外低かった…。国会図書館の時計はすでに午後6時半、疎らになりかけた館内から外に出た。春間近の永田町から急いで有楽町線に乗った。

尚、この展示会は3月2日(金)まで開催しその後国立国会図書館 関西館 大会議室で3月9日(金)〜28日(水)まで開催。地下のアートスペースは狭いがそれを凌ぐ職員のこの展示にかける情熱があるとは、1時間後に別な場所で会ったG氏の弁。
簡単な展示会案内記事はこちら(国会図書館作成のパンフレットから)→「visual_ndl2012.pdf」をダウンロード


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超人のドキッとする絵画 18 ムンクの『叫び』

来年はノルウェーの画家ムンクの生誕150年。サザンビーズは今年5月にムンクの『叫び』をニューヨークのオークションにかけると発表。マスコミの報道によれば、ムンクの『叫び』が64億円以上で落札される見通しらしい。ムンクの生誕150年にあわせて新美術館を建設する予定で、実業家であるムンクの友人の息子がその資金にと手放したらしい。
追記。この絵、絵画史上最高値の96億円で落札されたらしい。(2012.5.4)

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超人の面白、街の話題 14 雪に覆われた車の中で2ヵ月、40代のスウェーデン人を救出

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雪に覆われた車の中で2ヵ月、40代のスウェーデン人を救出

下記はスウェーデンの英字紙「The Local」紙の電子版から。

Published: 18 Feb 12 09:42 CET
Swede saved after months in snowed-in car

The man, who is from southern Sweden, was found on Friday in his vehicle parked on a forest track near the northern town of Umeå, according to a report in the local Västerbottens-Kuriren (VK) daily.
"Absolutely incredible that he is alive, in part considering that he hasn't had any food, but also bearing in mind that it was really cold for a while there after Christmas," a member of the emergency services told the newspaper.
How the man managed to get stranded at the end of the forest track and how he remained undiscovered for such an extended period of time remains a mystery.
The man, who is reported to have been seriously emaciated and barely able to speak or move when he was finally freed from his snowy lair, was discovered by a pair out snowmobiling.
The men spotted the seemingly abandoned vehicle, cleared some of the snow and peered in to find to their surprise that there was a person moving around inside, according to the VK report.
They called the emergency services and the police snowmobile search and rescue team and an ambulance were dispatched to the scene.
According to the attendant medical staff, it is estimated that he had been in the vehicle for around two months, the time period accepted as the limit for a human to be able to survive without food.
The man is now recovering from his ordeal in intensive care at Umeå University Hospital.
While mystery surrounds the man's plight, it has been concluded that he was able to remain alive due to the plentiful supply of snow embracing his vehicle.

Peter Vinthagen Simpson
news@thelocal.se
+46 8 656 6518

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超人の面白、街の話題 13 駅ホームでの人身事故ほか

今朝通勤時間にいろいろなことが起きた。偶然でも度重なると怖い。まず京葉線京浜幕張駅で人身事故、中央線では武蔵境で車両点検、東横線、京浜東北線では東神奈川駅でいずれも車両点検、人が線路内に立ち入り等々で運転見合わせや遅延が起きていた。ほぼ毎日のように何らかの形で事故や遅延等が起きている首都圏の交通網。過密ダイヤの歪み?駅ホームの安全管理の不徹底?開かずの踏切問題?運転手の判断ミス?欝的人間の仕業?といろいろな原因が考えられる。速くて快適その上パンクチュアルに動く日本の電車運行は几帳面な日本人の心性を反映していることは確かだ。筆者が気がかりなのは、このところ小岩、市川界隈で人身事故が多発している現象だ。その度に電車は途中駅で止まり、挙句にはその駅で電車を乗り換えて目的地まで行かなければならなくなるのだ。今や自殺者が3万人以上出ている日本、健全なる社会環境が崩れてきている兆候かそれとももっと進んだ歪んだ社会になってしまったということか。
具体策は一部の駅で実施しているが、駅ホームの安全柵の設置だろう。いろいろな人が行き交う駅ホームは危険と隣り合わせの場所でもあるのだ。急激に少子高齢化が進んでいる社会では安全対策上一日も早い実施が求められている。また人身事故と聞くたびにその原因が何であれ胸が痛む。遺族の方は相当額の賠償金を鉄道会社に払わなければならない。その代償は重い。何とも気の毒な話だが極めて現実的なのだ。できれば回避したいが…。危機一髪で救助した美談も聞くが極めて稀だ。

追記。只今午後9時37分、戸塚駅付近で人身事故が発生。事故処理にあと50分位かかるらしい。もう30分以上電車が動かないでいる。この間も戸塚駅で異音云々で電車が遅れたばかり。あちこちで事故が絶えない。午前中のニュースでは東名高速で車の衝突、いやはや危険が一杯だが身の安全を考えざるを得ない。
それにしてもやっと春らしい陽気になったばかりの夜に待ちくたびれてしまうとは―!あーあ。(2012.3.22)
追記2。待っている間に携帯ニュースを視ていたら、もちろん今の事故を伝えていたけれども、驚くなかれ、またまた新小岩駅で人身事故だと。どうなってるの? この記事を書いてからまだ1ヶ月ちょい、緊張感が足りない、いや、自殺?わかんないや、 これでまた大地震が来たら大変や、と書いていたら運転再開のアナウンス。約1時間半ここにいたことになる。
追記3。またまた今度は高崎線で9時20頃に人身事故、これで今夜だけでも横須賀線・総武線、高崎線で3つの人身事故だ! 本当にどうなってんの?
追記3。昨夕は市川駅で人身事故、今朝はまた小岩駅で障害物落下?でダイヤが乱れた。東急線では40代の弁護士が駅のベンチから歩いて乗車しようとしたら落下、電車に挟まれて死亡との痛々しい事故が続いている。駅ホームの安全柵のいち早い設置が望まれる。(2012.3.30)

追記4。1時間ほど前のある駅ホームでの出来事だった。乗車しようとした20代(?)の女性がホームと電車の間にスルッと落ちて、一瞬あわやの惨事かと思われたが、両手に荷物を持っていたため胴体が残り自力ではい上がって無事だった。筆者のごく近くで起きた出来事だった。恐らく足下をきちっと見ないで電車に乗り込もうとして起きたのだ。彼女は無事乗車できたが片方の靴が線路脇に落ちたままだった。何より無事で良かった。
Watch your step !(2012.4.11 記)


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超人の面白映画鑑賞 ベルイマン監督 『不良少女モニカ』

超人の面白映画鑑賞ベルイマン監督『不良少女モニカ』

イングマール・ベルイマン監督の1953年作品『不良少女モニカ』(原題: Sommaren med Monika)を図書館所蔵のレーザーディスク版で観た。つい先だって見に行ったマルチメディアによるベルイマン展示会のしおりを読んでいるうちに、この際にできる限りの作品を観てみようと考えたのだ。もちろん昔観た映画が全く忘れていたり、その時は気が進まなかったりとスキップした映画もあったからだ。
『不良少女モニカ』は日本でいえば昭和28年制作の映画で白黒、ストックホルム南部の労働街で働く若い男女の一夏の“大人ごっこ”が主テーマ。上映時間92分。さりげない日常に反抗して一時の夢を見て行動するが、結局更に重い日常に連れ戻されて行く格好。

映画は春の兆しが見える、どんよりとした空の下小さな船着場を写し出すところから始まる。ハリーはストックホルム南部の労働街の陶磁器会社で配達係として働く真面目そうな19歳、一方、タバコをくゆらし、一見男慣れしているように見えるモニカも八百屋で働く17歳、二人はカフェで知り合う。貧乏人の子だくさんで粗暴な父親が嫌いなモニカと気弱そうなハリーはお互いに家庭の不満などで共感、恋に発展していく。ハリーは奔放で野生味のあるモニカに、モニカは実直なハリーに惹かれていつかは一緒に暮らしたいと思っている。モニカは銀婚式の日に酔った父親が暴力を振るったことで家出をする。ハリーは同情し、父が病気で留守の間家事を手伝っている伯母に、体のいい理由を語り寝袋他を運び出して父のボートで暮らし始める。ストックホルム郊外の二人の船上での暮らしは享楽的。やがて妊娠するが、途中嫉妬心の強い仲間にボートに火をつけられる事件も起きるが打ち勝つ。そんな開放的享楽的な暮らしでは食糧も底をつく。モニカは別荘に入り肉塊の盗みを働くが、モニカの危険を顧みない行動に比べて臆病者のハリーに対してモニカが怒りをぶちまけ、二人の関係がまずくなる。
子どもができる前にハリーの伯母が取り持ち結婚する。ハリーはエンジニアを目指し家庭を守るためにも工場で懸命に働く。すぐに長女が誕生、しかしモニカは赤ん坊と貧乏な生活に耐え切れず昔の仲間と浮気してしまう。それを出張帰りに目撃したハリーはモニカと別れる。季節は楽しかった夏が過ぎ落ち葉が舞い落ちる初冬にさしかかっていた。ハリーは子どもを引き取り新たな生活をめざす決心をする。映画はここで終わる。以上があらすじ。

この青春映画の原作はペル・アンデルス・フォゲルストレームの短編小説。主演は新人のハリエット・アンデション、ラルス・エクボルイの二人。特にハリエット・アンデションの野生味溢れる体当たり的な演技が光っている。ものの本によれば、この時ベルイマンも私生活では二度の離婚で子どもを養わなければならなかったので生活は苦しかったらしい。
ハリエット・アンデションの体当たりで新鮮な演技には目を見張るものがあるが、特に海辺で陽をたっぷり浴びようと裸でくつろぐシーンは開放的と同時に、自由奔放さを感じさせる。若者の反抗とも受け取れる。

みんな幸せなのにどうして私たちは幸せではないのとモニカの台詞、肉塊を盗み森の中で噛りつくシーン、また、ラストシーン近くでハリーの伯母が家財道具を引き払う時に少しでも高く買ってもらう交渉をしているシーン、そしてラストシーン。ハリーが以前働いた店の前を通り、鏡に写る自分の顔を見て思いの外老けたことに気づくシーンなどが印象に残った。しかし前述したがベルイマン自身の私生活にせよ、映画芸術にかける意気込みにせよ、この同時の心境が反映しているのは確かだ。それを青春映画に投影したのだ。フランスのヌーベルバーグの旗手たち、とりわけトリフオーに影響を与えた映画。

こう書き終えて、さりげなく易しいスウェーデン語が謳い文句の新聞の電子版に目を通していたら、今年は(2012年)ベルイマン自身も大分影響を受けた「アウグスト・ストリンドベリィ年」とその文化欄は報じていた。そう言えば、ベルイマンの卒論はストリンドベリィだった…。

【写真:『ベルイマンを読む』より】


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クロカル超人が行く 155 六本木 スウェーデン大使館 イングマール・ベルイマン展示会『難題を投げかけた男』

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イングマール・ベルイマンの映画人生をマルチメディアを駆使して紹介した「The man who asked hard questions 難題を投げかけた男」を観に出かけた。生憎小雨だったがこの時期としては珍しく気温は17度。スウェーデン大使館には本の即売会を見に行って以来13年振り、周りは新たな高層マンションが立ち並び、様相が一変していた。その昔は確か二階建ての古い人家もあった地域と記憶しているが…。六本木1丁目の地下鉄駅が出来て益々この界隈は便利になり居住空間が更に機能的に拡大したか―。

マルチメディアを駆使したイングマール・ベルイマン展、開催日二日目は静かそのもの、誰も見学者はいなかった。大使館員が展示会場を写真に撮っていた。約40分位いたか、会場の脇のホールではスウェーデン刺繍の講演会があった様子、女性たちが聴講していた(そっとドア沿いにのぞいた感じだが)。

そのマルチメディア展。狭い空間にモノトーンの曲線美、あたかもコンテンポラリーアートを見ているよう、いかにも北欧デザインの“今 ”を視た感じだ。しかもリーズナブルに出来ている。近く「ベルイマン・アイランド」の映画を観にまた行くつもりなので寸評はここまで。“立て看板”の英文を読んで興味を引いた言葉。

Working in film is an intesely erotic business.

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 47 余滴 続々

ラテン語の章ではベルイマンの『もだえ』にも授業は厳格だが私生活は乱れた、二重人格のラテン語教師が登場していたが(ベルイマン自身の高校時代の実体験に基づいているらしく、大分憎たらしく描いていた)、著者のギリシャ語・ラテン語の教師でクラス担当のボッケン先生の描写はこれまた観察が鋭く、ユーモラスかつペーソス的だ。笑えるようで実は笑えない。それは厳しいが優しさも持ち合わせた教師のキョウジというものだろうか。日本も戦前はドイツ風の教育が幅を利かせていて、特に旧制高等学校はその典型だった。古典語の教養は筆者には未だに身についていないがイギリスの文芸評論家ジョージ・スタイナーの本を繙けば一目瞭然だ。それはヨーロッパの文化風土に根ざした古き良き伝統だろう。筆者は岩波文庫あたりでその古代ギリシャやローマの文芸を本の少しだけしか知るよしもないが、著者のラテン語の話に刺激され、ホラチウスの作品を読みたいと思い図書館から借り出したのだ。日本でこれだけ本が溢れているのにホラチウス全集が一つだけしか刊行されていない。日本の文化風土が分かるというものだ。もちろん需要がないのも知れないから当然と言えば当然だとも思うのだが。日本語は言語構造がギリシャ語やラテン語とかけ離れているから習得がなかなか難しい。著者的な古典的教養はどこで身につけられるか。人文学の伝統のあるヨーロッパと日本は文化的風土が違い過ぎるか。しかしトーマス・トランストロンメル氏は日本の芭蕉や子規の俳句にも影響を受けていることは知られている。その三行詩は1950年代後半から作句し続け、一旦離れるが、脳梗塞で倒れた1990年代から再び短詩を作り始めている。この『わが回想』の直後からか。
 
さて、韻律の話。日本語は原則的に母音の長短がなく子音の豊富さにおいてもヨーロッパ諸語に比べて乏しく、抑揚も平坦な言語だ。詩の頭律や押韻が成立しにくいが、その代わり字数を制限して楽しむ文芸、短歌や俳句が昔から盛んだ。これは著者を刺激した。既存のコンテキストに異なるイメージあるいは新たなイメージを挿入して透明性の高い次元を創り出す。

古池や蛙飛び込む水の音

芭蕉

 以前にこのコラムでも言及したが、この有名な一句にして解釈が異なり、一冊の本が出来上がるくらいだ。

韻律、韻律。先ほど書いたが、日本語はこの点難があるようだ。かつてフランス文学の先達(加藤周一、中村慎一郎、福永武彦、窪田啓作や原條あき子など)らが、『マチネ・ポエテック1948 』を発表、日本語による韻律詩の実験詩を書いたことがあった。また、法律家で詩人の中村稔氏はこの実験を続けている数少ない詩人である。
トーマス・トランストロンメル氏はホラチウスやギリシャのサッフォーに倣って古典的な詩を書いた。

卒然と 旅人の前に立つ かの老いた
巨大な樫、さながら石と化した大鹿
果てしなく拡がる枝角を 九月の海の
暗緑の砦の前に
(『17の詩』1954年)
エイコ・デューク訳『悲しみのゴンドラ』(思潮社 2011年10月刊)P.89より

サッフォー的な韻律と訳者が言及しているが、当然原語に当たらないと分からない(筆者も原語から訳出を試みた)。
同じページからこの『わが回想』の余滴終了に相応しい文章を引用しよう。

中世以来の文学伝統の濃い高校で詩への接触を拡げ、自身試作を始めていた16歳の詩人は、ホラチウスの古典詩にも惹かれ、その韻律で詩を書いたのだった。伝統と新しい創作の独自な連鎖が見える。当時は高校文学にとって、類い稀な良き時代で、各校内誌に英才が輩出、「月桂冠への萌え」としてボニエル出版社がその特集を出していた。この若い詩才はたちまち注目され、詩集によるデビュー以前に非常な評価を得ている。

そして先週ノーベル賞委員会のウェブサイトの動画で2011年12月7日に行われたノーベル文学賞受賞講演を見た。車椅子のトーマス・トランストロンメル氏の表情に“静かな歓喜”に似たものを感得して感激、ピアノにも造詣深い詩人らしいセレモニーだった。
厳かの中にもハーモニーの美しい合唱、男優や女優による張りがあり抑揚の効いた詩の朗読、リストやシューベルトの室内楽演奏そして外国に翻訳された詩を朗読しかもその国の著名人の手で、その響きの多様、それは至上の悦びといったら当たるだろうか。終始穏やかに時折ハンカチを取り出して顔を拭うトーマス・トランストロンメル氏、上品で含羞に富んだモダニストの姿をそこに見た。バンケットスピーチはモニカ夫人、短くもクィーズイングリッシュのきれいなこと、彼女のスピーチも感動的だった。

2011年ノーベル文学賞受賞講演はこちらのホームページで→http://www.nobelprize.org

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 46 余滴 続

今一万分の一のストックホルムの市内地図を広げてトーマス・トランストロンメル氏の『わが回想』に出てくる地名などを記し、その足跡を追っている。もちろん戦前と現在では街の風景は変わっているに違いないが(行ったことがないので分からないが、テレビの映像やインターネットの動画で多少知っている程度。近い将来行ってみたいが)、地図上では公共の建物、駅名などはそんなに変化がないはずだが、通り名などは変化しているところもあるはずだ。また、イングマール・ベルイマン映画の『もだえ』は著者の学校がロケに使われた映画で、当時の学校生活の雰囲気を見事に活写しているだけでなく、その当時の学校周辺の建物や地理も写し出していて大変印象深かった。特にロケで使われた学校は、威厳がある建物、また、高台にあることも映像を通じて判った。

さて、この『わが回想』をページを追いながら実際に地図上を歩いてみよう。最初出てくるのは著者や母方の両親の住所、スウェーデンボリィ33番地、ブレーキンゲ通り、その後の転居先住所、フォルクンガ通り57番地、警察本部のあるクングスホルメン、ストックホルムのど真ん中で消えたところへトルイェット、家に帰る途中の橋ノルブロー 、旧市街ガムラスタンそしてスルッセンからセーデルへ、鉄道博物館のあるイエヴレ、国立歴史博物館通いでは路面電車でロスラグスツルまで、高台にある南ラテン語中学校通勤は家からビョルンの庭園、イェート通りやヘーベリィ通りを通って行く、というように該当の地名を一つ一つ蛍光ペンで記しながら追ってみた。著者の行動範囲が判って面白かった。そして印象に残った二ヶ所―ストックホルムのど真ん中で迷って家に帰るところや南ラテン語中学校通勤のところ―の距離を大雑把だが試しに測ってみたのだが、結果的には想像していたより長い距離ではなかった。テキストの地名を地図上で当たり、行動範囲を描き、点→線→面に到達していく過程の面白味を味わった。ついでにインターネットでストックホルムの現在の映像を見て、夜のスルッセン辺りを確認したのだ。それにしても周りは大小の島々という多島海である。余談だが、近代的な建物と古い建物が混在しているような街並みの中に緑色に染められた公園が多いことに気づくと同時に、病院も多く存在していることも地図で判った。

あまり裕福ではない友人の家に遊びに行ったときのトイレの話は大変印象的で、なぜかその場面が目に浮かぶくらい。戦前の話なのであり得るし、日本でも形態は違うが大なり小なり同じようなことはあったはずだ。貧富差が激しい時代は当然あり得た。今でこそトイレは衛生的かつ快適な空間、しかもデザインも優れているが、その昔は汲み取り式で田舎では畑に肥やしとして蒔いていたのだ。東京などの都会では役所の汲み取り車(正式な名称があるはずだが忘れた)が来ていたはず。この記事には筆者も驚いた。

悪魔祓いの件は筆者も若い自分に似たような体験したが奇妙なものだ。疲れたときによく出ると言われている“金縛り”の類だろうか。この情景描写も興味津々。

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 45 余滴

2011年10月始めにノーベル文学賞の発表があったが、日本ではあまり知られていない詩人トーマス・トランストロンメル氏の本をノーベル文学賞発表のあとすぐに都内の洋書店へ駆け込んで予約、1週間くらいでアメリカから届いた。それが『The Great Enigma』。それとインターネットでスウェーデンの版元から直接手に入れたe-bookの原書をゲット。英訳本をたよりにスウェーデン語の原書を参照しながら(スウェーデン語では意外と手間隙かかるのではとの勝手な筆者の思いで)、その本に掲載されている「わが回想」の日本語訳を試みた。それから約3ヶ月かけてようやく1月28日に“私訳”を終えた。大半が朝の通勤電車内で携帯電話のメール機能を使って行った。原書で約40頁、英訳本で約25頁そして日本語“私訳”で約21頁(但しA4判)だ。
回想、博物館、小学校、図書館、中学校、悪魔祓い、ラテン語の小見出しがついて幼少の頃から大学入学直前までの回想が綴られている。著者60才の回想記は筆者のそれとはかけ離れて一言でいえば〈内なる図書館〉の構築の過程であったか。誰でも小学校、中学校それに高校ではその時々の心に残る教師が良いにつけ悪きにつけいるものだ。筆者の例でいえば、高一の生物(著者は生物学や地理学それに中世の歴史が得意だった)の授業で生物担当の教師が、高校自分に出来の悪かった生徒でも後に大成する云々の話を白衣を着ながら語っていたのを昨日ように鮮明に覚えている。今そのことの意味をつらつら考えるに、エネルギーがまだまだ残っているので、それを自分が発見して行けばある程度(運不運はあるが)人生の荒波の中でナビが見つかり、自信をもって理想(自分の夢の実現)の岸に辿れるのではないかという意味だと解釈できた。
この回想を読み解く限りでは、著者は教師の一人息子というま、恵まれた環境(筆者の友人にもいるが)で育っているけれどもまた、早くして離婚の環境にも接していてその家族愛や兄弟姉妹などの揉まれ方が些か違っている。しかも1930〜1940年代の戦前戦中だ。その時代の幼少時の過ごし方―小学校前、小中学校生活―が手に取るように分かるのだ。特に教師の観察や描写が鋭い。思い入れや造形も深いのだ。筆者的にはギリシャ・ラテン語の教師のボッケン先生が魅力的だ。それとおませだったのか著者の博物館や図書館通いも凄い。しかも学校に上がる前にである。博物館では余りに熱心に通ってくるので正規登録させてもらったり学者と議論したりしている。相当おませである。また、図書館では大人の本を借り出そうとして司書に断られ、叔父が一計を案じて借り出しに成功する。悪ふざけもあるのだ。全てはかわいい少年の好奇心を満たしてあげたいばかりの大人の配慮なのだった。

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超人のかつおくんリポート 2012年 新物

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超人のかつおくんレポートもはや7年目。今年は1月25日に千葉産のものを1サク近くのデパ地下でゲット。出始めなので値段は高いがやわらかだった。一番寒い季節に食べるのもまた楽しからずや。

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ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 44 最終回

私の彼に対するイメージが13世紀の人生を扱った中世ラテン語の授業のあと更に悪くなった。曇天の日だった。ボッケンは身体の調子が悪く怒りが爆発寸前だった。突然彼は質問を浴びせた。「エリック・ザ・レイム・リスパー」とは誰か?テキストでエリックを参照した。私が彼はグレン・シェッピング(註。原型の小さな街。風刺週刊紙、グレンシェッピングス ヴェッコブラッドによれば、街はエリック・ザ・レイム リスパーとして知られているが、エリック エリックソン王(1216-1250)が創設した)の創始者ですと答えた。これは重苦しい雰囲気を明るくするための私の発した咄嗟の行動だった。しかしボッケンの怒りはその時だけでは収まらず、学期末でさえまでも続いて、ついに「警告」を私に言い渡したのだった。これは簡単な家庭への伝言だった。生徒がラテン語の授業のようなケースで科目をさぼったことに対して使われたのだが。私の作文の点数はすべて高かったので、この「警告」はラテン語の実績というよりはむしろ人生になった。
最終学年で私たちの関係は良くなった。試験があったときには全く本物になった。
その時あたりから二つのホラチュウスのスタンザ形式、サッフォー的詩風それにアルカイオス的な詩を自分の作品に反映する術を発見したのだ。大学入学後の夏私はサッフォー的なスタンザでニ編の詩を書いた。一つは「ソローへのオード」、後に簡潔にして「ソローへの五つのスタンザ」となり、更に青春の部分が消されて行った。もう一つは「秋の群島」を順々にした「嵐」だ。しかしボッケンがこれらの詩を本当に知っていたかは知らない。古典的な韻律、それをどういう風に使うようになったか?
それは単にひょっこり現れただけだった。というのは、私はホラチュウスの詩を現代的と見ていたのだ。彼はルネ・シャール、オスカー・レルケ、アイナー・マルムのようだ。その考えは大変ナイーブだが洗練されるようになった。


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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 43

ボッケンは慢性的な関節炎を患っていて強く足を引きずっていた。早く動くのがやっとだった。彼は自分の鞄を机の上に投げ出していつもドラマチックに教室に入って来た。数秒後私たちは機嫌が良いか悪いかはっきりと判った。天気の状態が彼の気分に影響するからだった。ある冷たい日に彼の授業は全く快活そのものだった。低気圧に覆われていて雲が多いときには彼の授業は抑えがたい怒りの爆発で中断され、鈍くイライラした雰囲気の中でのろのろと授業が進められた。 彼は他のラテン語の先生と同じだと想像することすらできなかった。事実学校の先生より他に想像することは難しいと言われていたはずだ。最終学年の前年のコースで現代詩の自分の作品を製作中だった。私が古い詩を引用したと同時にまたラテン語の授業が戦争、元老院や執事官の歴史ものからカトゥルスやホラティウスの詩に進んだときには、私はボッケンの支配する詩的世界に喜んで入ったのだ。
詩をこつこつ学ぶことは勉強になった。こんなふうに。生徒がまず多分ホラティウスからのスタンザを朗読しなければならなかったはずだ。

Aequam memento rebus in arduis
servare mentem, non secus in bonis
ab insolenti temperatam laetitia, morituri Delli

ボッケンが叫んだ。「訳しなさい!」そして生徒が強制された。
一つの気持ちでさえ…あー… 思い出して下さい、一つの気持ちに…いや、… 気難しい気持ちを持ち続けることが、そしてダメなら…あー…そしてこの、気持ちのいい…あー…極端な…あー…溢れている喜び、いつかは死ななきゃならないデリウス

現在古代ローマ時代のテキストは本当に地に落ちた。しかし次のスタンザのときにホラティウスがラテン語で詩の奇跡的な正確さを携えて戻って来たのだ。一方でつまらないものや老朽化したもの、他方で楽天的なことや崇高さを選択することで私はたくさん教えられた。それは詩と人生のことを扱っていた。詩の形式をおさえることで次のレベルまで引き上げてくれた。芋虫の足が消えて翼が広がったのだ。人は希望を失うべきではないのだ。
悲しいかな、ボッケンは私がいかに古典のスタンザから学んだか全く知らなかった。彼には私が1948年秋の学校誌に掲載された1940年代的な詩を書いている生徒にしか理解していなかったのだ。彼が私の詩の出来を見ると、大文字や句読点のマークを一貫して避けたことに関して彼は憤慨の反応を示した。私は粗野の進んだ兆候の一つだと判った。このような人はホラティウスの詩にも動じないに違いない。

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 42

ラテン語

1946年の秋私は上級中学校(高等学校)のラテン語部門に入学した。新しい先生の登場だ。モッレ、サターン、スレマン(スレ=さえない)に替わってフャーラル、フィード、リッラン、モステル(おばちゃん)やボッケン(山羊)のような人物だ。最後の名前が一番重要だった。彼は担任で私たちの個性が潰されたと思いたいほど私に影響を与えた。
私の先生になる数年前、私たちは劇的な接触の瞬間があった。ある日私は遅れて学校の廊下を走っていた。もう一人の少年が私と反対方向で突進して来た。似たようなクラスにいたGで雄牛としてよく知られていた。衝突を全く避けようとしなかったので向き合って急に止まった。この急なブレーキで勢いあまる攻撃を封じ込められたが私たちは廊下にぽつんと置き去りにされた。Gは右手の拳を出して私の上腹部をなぐった。私は目の前が真っ暗になり床に倒れた。19世紀の小説の中における独身女性のように唸った。Gが消えた。暗さが晴れてくるにつれて私は曲がっている一本の指にチカチカした星印があるのに気がついた。やつれて喚き、「どうした?どうしたんだ?」と絶望したかのように繰り返し声を出し続けた。そのとき私はピンク色の顔と白チョーク色のとても身綺麗な顎髭を見たのだ。顔の表情は心配している様子だった。
その声や顔からラテン語やギリシャ語を教えているペール・ヴェンストルム、別名ペッレ・ヴェンステル(左の意)、別名ボッケンだったと判った。彼は私が床にどっしりと倒れている理由について何も質問しなかった。彼は私が助けを借りずに歩けるのを見て満足そうだった。彼が心配して現れ何とか手助けをしようとしたので、私はボッケンは根は好い人との印象をもった。その印象は後々まで続き、私たちが心配事があるときでさえそうだった。
ボッケンはかっこよく本当に芝居じみていた。彼は普段は白い顎髭を生やし、つばの広い帽子を被り、短いコートを着ていた。冬の外での最低の着飾りだ。ドラキュラの格好だとはっきりわかるのだが。ちょっと離れて見れば彼は優秀で着飾っていたが近寄って見れば彼の顔は無力そのものだった。
彼の特徴の半ば歌うような抑揚はゴットランド仕込みだった。

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クロカル超人が行く 154 港区三田 慶応義塾大学三田キャンパスで開催された講演会『大いなる伝統 西脇順三郎から田村隆一まで』

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 三田の慶応義塾大学で西脇順三郎アーカイヴ開設記念の講演会があって出かけた。講師は明治学院大学名誉教授の新倉俊一氏。今年は西脇順三郎没後30年で誕生日の今日、記念講演会が東館の5階で行われた(歴史を感じさせる瀟洒なホール)。ホールはほぼ満員の80名以上が聴講。西脇順三郎と親交があった詩人、影響を受けた人などを俎上に乗せ、大いなる伝統について詩やエピソードなどを交えて講演。紳士的ソフトムードの講演会だった。その中で戦後の荒地派の代表者、鮎川信夫の西脇詩の評価についての話が興味を引いた。「橋上の人」はやはり倫理の人、西脇詩についても厳しい評価―。その荒地派同人の、晩年は鎌倉の呑んべえ詩人こと田村隆一の話が印象的。西脇先生に表札をお願いしたとは。それは尊敬を通り越して崇拝者だろう。そう言えば英文学者の福原麟太郎、西脇順三郎、中野好夫、阿部知二の戦中行われた座談会(『文芸』昭和15年12月1日 改造社)で司会をしていた若い田村隆一がいたっけ。
 最後に演劇関係者の西脇順三郎や田村隆一の詩の朗読で終了。この後西脇順三郎アーカイヴ開設のお披露目を兼ねたプチパーティーが、「西脇順三郎―大いなる伝統」展開催中の南館アート・センターの2階であった。

 西脇順三郎アーカイヴ開設記念「没後30年 西脇順三郎―大いなる伝統」展は2012年1月10日〜2月24日まで慶応義塾大学アート・スペースで開催中。Nishiwaki_ten2ジョン・コリア、英文詩集『スぺクトラム』(この本の出版事情についての記事は、2012年2月10日刊行の小冊子『CPC Journal』第5号に掲載されるはず)、ジョン・コリアより新倉俊一宛書簡、「旅人かへらず」の詩稿ノート、表紙に使われた鳥居清長≪菖蒲の池≫、『アムバルワリア』、『詩の原理』、『昭和詩抄』、T・S・エリオット、エズラ・パウンド、瀧口修三、西脇セミナーの報告が連載された雑誌「詩学」など60余点が展示されている。狭いスペースにもかかわらずいろいろな詩人の息吹が感じられ、また、小千谷訛りの残る西脇順三郎「最終講義」も聴ける。鑑賞中にちょっと耳に入ったのが次の言葉。ぺらぺらと英語を話すばかりではねえ、文化がなければ・・・。
 この講演会のパンフレットの最後に掲載されている田村隆一の詩を引用しよう。



ぼくは17歳の4月、早稲田の古本屋で
不思議な詩集を見つけて
東京の田舎 大塚から疾走しつづけた
ワインレッドの菊型の詩集をめくっていると
ほんとに手まで赤く染まってきて

小千谷の偉大な詩人 J・N
言葉の輪のある世界に僕は閉じこめられてしまって
古代ギリシャの「灰色の菫」という酒場もおぼえたし
イタリアの白い波頭に裸足のぼくは古代的歓喜をあじわって
だしぬけに中世英語から第一次世界大戦後の
近代的憂鬱に入る

ぼくは50歳 偉大なるJ・Nは80歳 
ハムレットの 「旅人帰らず」という台詞がお気に召したらしく
J・Nはピクニックに出かけてしまったが
「じゃ現代はいったいなんなのです?」

おお ポポイ
哀ですよ
人は言葉から産まれたのだから
J・Nは言葉のなかにいつのまにか帰っているのだ

四千年前の 二千年前の 百年まえの
言葉という母胎に帰ってくる旅人たち
<4月は残酷そのものさ>
いつのまにか猟犬が地に鼻をつけ
まるでT・S・エリオットのような声で
ここ掘れワンワン

ここ掘れワンワン

吠えつづけていて

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 41

当時私はすべての宗教に対して無神論者だった。確かに私は一度も祈らなかった。数年後に危機がやってきたなら、ある黙示として経験できたはずだ。私に起きたこと、それは釈迦の4人の邂逅者(老人、病人、死人そして物乞う僧)みたいだ。私は無意識に侵入した変人や病人に対して多少哀れみの感情や怖れない感情をどうにか持ったはずだ。しかしその時に戻って恐怖にとりつかれていたならば、宗教色に染まった解釈は私には役立たなかったのだ。祈らなくも音楽で悪魔祓いをしようと思えばできた。私は熱心にピアノを叩き始めた。
そうしてずっと成長してきた。秋季学期の始めに私はクラスで一番背が低かったが、終わりには一番背が高くなっていた。私の中に棲みついた恐怖は植物が急に成長するのを手助けする化学肥料的な役割を果たしたのだ。
冬が終わりかけ日が長くなった。今奇跡的に私自身の中の暗闇が引いた。少しずつだが事は起こったが何が起こっていたのかよく理解するには時間がかかった。ある春の夕方、私の恐怖は今端なものだと解ったのだ。私は深く考えたり煙草を吹かしたりしながら友達と座った。青白い春の夜歩いて帰宅するときだった。家に待っている恐怖に私は怯えなかった。私が加担してしまったもの、おそらくは私の一番大事な経験だろう。でも終わった。地獄だったが煉獄だったと思った。

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 40

私は最近生きることの喜びをなくした10代の若者たちについて読んだ。エイズが世界を支配するという考えに彼らがとりつかれるようになったからだ。彼らは私を理解したはずだ。
危機が始まった晩秋の夕方私が患った金縛りを母が目撃していた。しかし母は外部者に過ぎなかっただろう。誰もが締め出されるに違いなかった。先行不明は議論するにはあまりにも恐ろし過ぎた。私は幽霊に囲まれていたのだ。私自身が幽霊だったのだ。毎朝歩いて学校に行く幽霊が自分の秘密を暴かず授業中ずっと座っていた。学校は一息つく空間になっていて、私の恐怖はそこでは同じではなかった。幽霊が出没した私の私生活、すべてが混乱していたのだ。

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 39

しかし私の怖さは増大し夜明けまでまとわりついていた。夜中支配した感情は恐ろしい人フリッツ・ラングのようだった。『マビュース博士の遺言』の始めのシーンで機械や部屋が揺れ動いている間誰かが隠れている工場のシーン。夜はさらに静けさを増していたが、すぐにこんな状態にいると解った。
自分の存在で一番重要な要素が病気だった。世界は広い病院だった。人間が肉体や精神の中で変形されるのを私はじかに見たのだ。灯りが燃えて恐ろしい顔を掴み返そうとするが、時々うとうとして瞼を閉じてしまうと、突然に恐ろしい顔が私に近づいて来たのだ。
すべて沈黙のまま起こったが、沈黙の声が際限なく騒がしかった。壁紙の原型が顔に変身。時々沈黙が壁のちくちく鳴る音で破られた。何で生み出されたか?誰が?私が?私の病的な考えがそうさせたから壁が崩れたのだ。さらに悪いことには…。私が狂っていたのか?ほとんど。
私は狂気に引き込まれるのを恐れたが、一般的には病気を怖く感じなかった。心気症のケースはめったになかった。が、病気の絶対的な力で恐怖を引き起こしたのだ。映画のシーンのように、つまらないアパートのインテリアが絶えず人物に変身する場所や単調な音楽が聞こえるときなどに、私は全く違った外の世界を経験した。病気にうなされ目覚めたからだが。数年前には私は探検家になりたかった。今私はなりたくなかった未知の世界への道を推し進めてしまった。私は悪魔の力を見つけてしまった。むしろ悪魔の力が私を見つけたと言った方が正確かも知れない。

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 38

悪魔祓い

15才の冬の時期私は余りの酷い心配事に悩まされた。私は明るい方ではなく暗い方を射した灯りに彩られていた。私は黄昏がかった午後に捕えられ、夜が明けるまで恐ろしくて手をしっかり握ったままだった。ほとんど眠れなかったのだ。普通はベッドに座って目前の薄い本と戯れていた。この時期何冊か薄い本を読んだが本当にそうだっか言えないのだ。私の記憶の中では何の痕跡を残していなかったからだ。それらの本は灯りをつけるための予備的な本だった。
晩秋が始まった。ある夕方私は映画を見に行ってあるアルコール中毒者を扱った、「浪費された日々」を観た。その映画は精神錯乱状態の男と一緒のところで終わる。今日私が多分子供じみたと解る連鎖を壊す症状の精神錯乱状態だが、当時は違っていた。
横になって寝ていると、私は心の中に映画が再上映された。映画を見終わったときのような。
突然部屋の雰囲気が恐怖で張り詰めた。何かが私の身につけているものを取りはらった。突然私の身体が揺れ始めた。特に足が。私は傷ついたぜんまい時計でがたがたと走ったり飛び跳ねたりした。金縛りは自分の意志ではどうにもならないほどコントロールが効かなかった。こんな経験はしたことがなかった。私がうなされ悲鳴を上げたので母が来てくれた。徐々に金縛りは引いた。また来ることはなかった。

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 37

私の一番の得意科目は地理と歴史だった。助教師のブレマンがこれらのクラスを教えた。血色が良くエネルギッシュなブレマンは若者でそのストレートでブロンドの髪は、よく怒ったとき端に寄る傾向があった。彼は善良な人で私は好きだった。私が書いた作文はいつも地理や歴史ものだった。長かった。これを考慮に入れながら、私は大分後に別の南ラテン語中学校の生徒、ボー・グランディエン(詩人でジャーナリスト)からある話を聞いた。ボーは後に私の親友になったが、彼が話してくれたことは、お互いに知り合う前の早い時期だった。彼が言うには最初私の名前を聞いたのは、休み時間中で私の級友たちとすれ違ったときだった。彼らは自分たちの作文を返され点数に不満足だった。ボーは「トラナンのように早くすべては書けない」(*トラナンは鶴の意)との不満げな意見を聞き、「トラナン」は忌まわしい鳥で避けるべきだと決めた。私にはこの話は見方によれば気持ちのいいものだ。今日欠陥品でよく知られているが、私はその時量産する走り書き手で有名だった。文字通りスタハノフのような過度に生産して罪をつくったのだった。

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 36

母は取り止めた。学校生活を通して私は2つの言葉―学校と家庭―を切り離して守ることに力点を置いた。もし2つの言葉がお互いに浸透しあったら家庭は乱されたと感じるはずだ。そうしたら私はもはや適当な逃げ場がなくなってしまうだろう。現在でさえ私は「家庭と学校の協力」のフレーズに何か同意できないものがあるのだ。私が実践した、分離した言葉を別々に保つことは私的生活と社会とを更にはっきりと区別し維持することにやがてなる(このことは左か右かの政治的傾向とは全く関係ないのだ)。学校生活全体は社会のイメージとして計画されているのだ。私の学校生活全体の経験は入り混じっていた。明るさより暗さの方だった。社会に対する私のイメージができあがったように(私たちは“社会”とは何かとよく訊ねたが)。教師と生徒の間の連絡はひどく個人的なものだ。個人的で重要な特徴が、クラスの雰囲気の中の多くの張り詰めた状況のために誇張されたのだ。個人的にはいいが乏しい私生活ではダメだ。私たちは教師たちの私生活について何も知らなかった。が、た
いていは学校の周りの通りに住んでいた。モッレが若い時にはフェザーライト級のボクサーだったといったように自然に噂が入った来た。彼らはまともな証拠に辛うじて支えられていた。私たちはほとんど信用がなかった。私たちは何のドラマにもならない男、ほんとに目立たない2人の若い教師の信用できる情報を持っていた。その1人は貧しく夕方はレストランでピアノを弾いて自分のぎりぎりの給料で生活をしていた。もう1人はチェスのチャンピオンだった。彼は新聞に載っていた。
秋のある日モッレが授業に使うRussula aerugina(ベニタケ属のクサイロハツというキノコ)を手に持って教室にやってきた。そして机の上にそのキノコを置いたのだ。彼の私生活を垣間見て解放された気分だったがショックも隠せなかった。私たちは今モッレがキノコを集めていることを知ったのだ。
教師たちの誰もが政治的な発言はしなかった。しかし時々職員室では前例のない緊張が走っていた。第2次世界大戦がまたここでも戦わされていたのだ。多くの教師たちがナチに委ねられた。1944年の遅く1人の教師が職員室で叫んだという。「ヒットラーが倒れたら私たちも倒れるだろう」しかしながら彼は倒れなかった。私は後にドイツ語では彼を負かしたが。彼は見事に回復したので1946年のヘッセのノーベル賞を勝利宣言しながら歓迎することができた。
私は立派な生徒だったが一番ではなかった。生物は得意な科目だったはずだが、たいていの中学校には変わった生物担当の先生がいた。過去に彼はインクの染み付いた写しの本を持参したことがあった。彼は警告を受けて現在休火山みたいだった。

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 35

雨が降り注ぐような平手打ちをくわされた。私はあざけり笑った。次の瞬間モッレが机に戻り座っていた。怒りで泡を吹きながら家庭用のメモを書き出していた。「授業中の小さなミス」だったと責め立て、やや曖昧に言い表わしていた。多くの教師は家庭用のメモがあれば両親の手元に詳しい罪に対する質問や罰を知らすことが出来たのだ。
私に関してはそうではなかった。母が私の話を聞いてからノートに署名した。その時母が私の顔に青あざを作っているのに気づいた。担任の愛の手の仕業だ。母の反応は意外に強かった。学校に連絡しようと母が言った。多分校長に電話するのだろう。
私は抵抗した。母はそんなことはできなかった。すべてを承知していた。しかし今は「醜聞」を恐れた。私は「母が教師の子ども」と呼ばれずっといじめられるはずだ。担任のモッレではなく職員全員に。


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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 35

続きの私訳に入る前に、少しこのトーマス・トランストロンメル氏の作品『わが回想』の周辺に触れてみたい。一つは作者が地理にも詳しくしかもストックホルムの南部地区に長く住んでいることだ。『わが回想』は十代までの時期、博物館、図書館、中学校、高等学校での回想が主のためストックホルム市街の地名や通りの名などがよく出てくる。筆者は理解をより深めるためもあってストックホルム市内地図を買い、いつでも調べられるように鞄に入れて持ち歩いている。非常に助かるのだ。もう一つは先に書いたようにイングマール・ベルイマン脚本の映画『もだえ』が作者も言うように当時の(戦前の)学校の雰囲気を十分に伝えているばかりではなく、周辺の通りや建物なども映像で読み取れるから、今とりかかっている私訳に大変役立っているのだ。筆者の十八番の言辞、点→線→面の観点から言えば、面だ。立体的に理解できるのである。さて、私訳の続きに戻ろう。

学校では憤怒のプリマドンナがいてヒステリックな怒りの塔を構築するのに授業の大半を費やしていた。神の怒りを受ける人を無くすためだけだが。
私の担任のモッレは、プリマドンナではないが、定期的に来る抑えきれない激情の犠牲者だった。不幸にも私の一番思い出深いことは彼の激情だったのだ。(筆者註。『もだえ』のラテン語教師みたい)大きな感情の爆発が起きたのは月に2回程度だったろうか。しかし担任の権威主義が最もはっきりと注がれるのは得てしてこういう場合によってだった。
こんな授業のただ中雷が風景を遮って轟かせた。稲妻が光ったことは誰にも明らかだが、どこでかを予測するのは誰にもできなかった。モッレはある生徒たちの犠牲にはならなかった。彼は厳格で公平だった。誰もが稲妻に打たれた。
ある日稲妻が私を襲った。私たちはドイツ語の文法を開けと命じられた。私はできなかった。鞄の中にあるのか、家に忘れて来たのか?
「立て!」
私はモッレが机から踊って私のところに近づくのを見た。それは野原で一頭の雄牛が近づいて来るのを見ているようなものだった。

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超人のスポーツ観戦 2012年 箱根駅伝総合優勝は東洋大学

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 2012年の箱根駅伝の総合優勝は東洋大学。10区間、109.9キロ、10時間51分36秒、去年より8分15秒更新の大会新記録だった。今年は明大、青山学院大、城西大、順天堂大、山梨学院大、国学院大、国士舘大などが活躍、早大、中大、東海大などが失速した感じだ。それと今回エントリーできなかった日大他もいない。大学は4年間在籍なのでその間の選手の出来具合で勝敗が別れる。また、それがこの伝統的な箱根駅伝の醍醐味でもある。各大学の強化策はコーチや監督の招聘でも左右されるようだ。その典型的な例は今年の青山学院だろう。最後のゴール近くで中大のアンカーの頑張りにも目を見張るものがあったが、青山学院大の頑張りの方が上手だった。何と言っても堂々の5位だから凄い。これは青山学院大としては快挙だ。また、明大は約半世紀振りの3位(最速のランナーがいたらしい、しかも挫骨神経痛を患っての)、これまた快挙。今年は今までと違った大学のレース展開が見られて面白かった。
 そんな中「山の神(筆者としては山の男)」柏原竜二が4区の走者からトップでバトンを受け、終わってみれば自己記録を難なく更新してチームの往路優勝に貢献した。筆者的にはやはり山道を背後から抜き去って行く柏原の独特の走行フォームを視たかったが。それは柏原だけに頼ってばかりいられないチームの事情もあったようだ。去年の覇者早大に僅差で負けた悔しさを挽回せよと「1秒伸ばし」にチーム一丸となって取り組んだ。その成果が実を結んだようだ。いずれにせよ、今年の東洋大は強かった。柏原はこれから富士通に入りやがてオリンピックのマラソン走者になることを目指すらしい。期待したい。

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超人の面白映画鑑賞 イングマール・ベルイマン初期作品など

 筆者は今2011年のノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の散文詩「ある詩人の回想」の私訳を試みていて、あと7ページ足らずのところまでこぎつけた。主に通勤電車の中で携帯電話を使って。
 その中に戦前の中学校生活を描いている箇所があり、その学校はイングマール・ベルイマン脚本の映画『もだえ』のロケに使われ、作者自身も他の生徒と一緒にエクストラ201201022247000で5、6箇所のシーンに出ていることは以前このコラム(参照:2011年12月20日付コラム)で書いた。

【右の写真は多分エクストラのシーンだろう。この中に中学生のトランストロンメル氏がいるはず】 

 ベルイマンの初期の作品『もだえ』を含めた下記の7本を年末年始に約10時間30分かけてビデオ観賞した。これは2007年にテレビ放映したものを知人に頼んで録画してもらったもの。今頃になって偶然に―ひょっとしたらトーマス・トランストロンメル氏がその著作で言及していたところが出てくるかもとの期待もあって―その3本のビデオを開陳したのだ。

①『もだえ』1944年、97分。
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    【上の写真は原作タイトル“HETS”のシーン】
②『危機』1946年、88分。③『愛欲の港』1948年、94分。
④『歓喜に向かって』1950年、96分。
⑤『夏の遊び』1951年、92分。
⑥『悪魔の眼』1960年、84分。
⑦『この女のすべてを語らないために』1964年、77分。
 以上、1940〜1960年代の作品の一部。喜劇や悲喜劇ありの初期作品だが、①の『もだえ』は他の作品と違って社会問題を扱った作品だ。当時の教育とナチズムに対して強烈な批判を展開している。ベルイマンの高等学校での体験が基になっているらしい。筆者的には戦前のスウェーデンの学校の構造や雰囲気、それと当時のアパートや市街の状況そしてファッションが映像を通じて理解できたから貴重だった。ベルイマン監督の処女作②の『危機』は田舎に慎ましく暮らす病気がちの育ての親とその娘、都会で派手に暮らす生みの親と悪魔性を帯びた甥の恋愛葛藤劇。結局女を漁る癖のある甥の自殺で元のさやに納まる娘。恋愛劇と人間の強欲さも見える、田舎と都会暮らしの人間の有様の対比が面白い。③の『愛欲の港』では港町で港湾労働者として働く男と工場で働く更生施設帰りの女の恋愛劇。最後は取り返しのつかない事件を起こして外国逃避行を試みるが、乗船の手はずができたとき、考えが変わり生まれ育った町で暮らすと決心する。少女時代の母親と父親のいさかいシーンでは時計、人形というベルイマン得意の小道具が活躍する。他の作品は喜劇や風刺仕立てで、やや入り組んでいる。個性的な女優と衣装、男優の動きの機微とメリハリの利いたセリフ、セットやロケなども古い映画の中では興味がつきない。生涯54本の映画、126本の劇作品、39本のラジオドラマを書いたベルイマン、そのテーマは性的苦悩、孤独、人生の無意味さの追及、神の問題等々難解さでなる監督だが、結婚は5回、最後には南部の小島にごく親しい人たちと住み、人を寄せつけなかったという。

 さて、ベルイマン作品『もだえ』のエクストラ出演シーンの中で、中学生のトーマス・トランストロンメル氏を発見できたか ? 答えはNejである。しかし解決法はある。映像をスローモーションにしかつ拡大すれば見つけられるかも。その当時の写真もスウェーデン語の原作には載っているし……。だがこの話は主題から外れるのでこの辺で止めておこう。


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新年の詩 2012年 辰年 the year of the Dragon

3.11
9.11

地球が揺れた東と西
人類の叡智が試された
文明があまりに傲慢に
突き進んだ結果か
神々の悪戯かは知らず
ただずむ私たち

かつては信じていた
信頼や安全という神話も
3.11直後に起きた
原発のメルトダウンによって見事にうちさかれた

著名なイギリスの批評家G.S氏 あるPR雑誌のインタビュー記事で ヨーロッパの没落とインドの台頭を予測した後 曰く 「困難」な状況下 文明の利器で甘やかされた精神が覚醒し 新たな創造をもたらす可能性は少なくないと 「楽観的悲観論」を披露

そうして私たちは
フクシマの現実の
目に見えない力に
絶えずおびやかされ続けている

かつて科学の力
そして政治の力に
これほどまでに
虚に突かれることが
あっただろうか

9.11の首謀者は
地球の底に消された
しかも文明の衝突といっては計り知れない
現代も徘徊する形骸化された
シュウキョウと
ハイキンシュギ
人類が創造した座標軸の
矛盾に満ちた信頼よって
……

2012年
昇ってゆく龍に
微かな希望を
天空高く託すのだ

それは人類史を遡る
遥かな道程であることか

それとも未来史の
大いなる一歩を
私たちが分かち合えて
叶えるものなのか

苦役をだきしめて
歩かなければ
……

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 34

私の記憶にある教師たちは、もちろん緊張をほぐし興奮を抑えてくれた人たちで、また、生き生きとしていて色彩豊か、しかも独創的な人たちだった。彼らは少数派だったが公平さがあった。批判的な立場を描こうとすればこうだろう。「私の前の羨ましい蕪の頭たちには愛されていない。愛されていないが、少なくとも忘れていないことは確かだろう」
クラスは一つの劇場だった。先導の選手である先生は無慈悲な吟味を受けて舞台の上で演じた。生徒も観客と同時に、時には自分たちの役を演じた。
私たちは失敗しないためにも自分で守らなければならなかった。私たちは攻撃の噴出の繰り返しに慣れなければならなかった。良い基盤を築いていたR先生は厳格で指導も厳しかった。だが本当は劇場的ではなかった。家でこんなことは何も学べなかった。場面や座席そして父親役に怒鳴ることなど。母親は正直だが地味だった。怒りをぶちまけることは子どもじみていた。私は子どもっぽくよく怒ったが、今はバランスの取れた若者だ。私の理想は英国人―唇の上が堅いなどの。憤怒の噴出は伊独枢軸国にあった。

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 33

たくさんの盗難品が詰め込まれた彼の家で、私は剣で決闘をしたはずだ。私たちは共にリドダールホルメンの秘密の場所にある遺跡の掘り起こしを実行した。私は何とか骨格のかけらを回収することができた。私はそれを知り合いの歯科医に見てもらった結果、その骨が人骨の一部と判明したのだ。私が友達としてパッレを持ったことは良い経験だったが徐々に離れていった。加えて彼は病気のために長い間学校を休んだ。他のクラスに移った時に私たちは離ればなれになった。私の古い友達は本当に遠くに行ってしまったのだ。事実彼は死を覚悟していた。彼はたまに一つの足を切断されたまま学校に来たのだ。その表情は青白く深刻だった。彼が死んだ時私は受け入れることができなかった。私は良心の呵責を感じたが認めることができなかった。私は酷いものと思った。私と同い年で45年前に死んだのだ。しかしながら、まとめて言われる“古い人たち”、年老いた教師は、今これを書いている私と同じ年齢にもかかわらず私の記憶の中では古いまま残っている。私たちはいつも年より若いと思っている。私は木がその年輪を刻むように自分も早い面を内に持ち込むのだ。その総決算をするのは“自分”に他ならない。鏡は自分自身の最新の顔を映し出すだけだが、それは全て以前のものなのだ。

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超人の面白読書 32 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 32

南ラテン語中学校は南部地区の最も高い所にあって、中学校のグランドは地域の上の方に高台を形成していた。だからレンガ造りの学校の建物は遠くからでも見ることができた。そよ風のこの城への道は一般的には駆け足半分で踏破できた。私は長い木の山―それは危険な年の兆候なのだが―に沿って急いだ。ビョルンの庭園の前にはイェータ通りに出れる道があった。ハンソンやブルースの本屋を通り抜けて。そのイェート通りを左に大きく曲がるとヘーベリィ通りに入り、いつもの冬の朝一頭の馬がかいば袋から藁を噛みながら立っていた。醸造所の馬で湯気を出しているオーデンだった。私はほんの少し臭いのきついその馬の陰にいたのだ。冷たく湿気のある中でこの忍耐強い家畜の臭いが強烈なのを生々しく覚えいる。その臭いはすぐに息が詰まるほどだったが気持ちいいものだった。
私は朝の説教の時間が始まるベルが告げようとする時に、学校のグランドに滑り込んだ。朝の8時と9時の間だったがほとんど遅刻しなかった。春は学校が始まるように堅かった。
学校生活の最後の日、私はもちろん落ち着いていて普通通りだった。時々パッレと一緒に家に帰った。南ラテン語中学校の最初の学年では一番の親友だった。私たちは普通にたくさんのことをして遊んだ。彼の父親は船員で長い期間留守していた。私を見て喜ばす性格のいい母親の一人っ子だった。私と同様にパッレも大人げた特長を備えていた。彼は自分の興味を生きて、結局収集家になったのだ。何のだって?もちろん、全てのだ。ビールのラベル、マッチ箱、刀、火打ち石の斧、切手、葉書、貝殻、民族学的な奇妙なものそれに骨の収集だ。


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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 31

生徒は決められた時間にきちんと礼儀正しく、必要な教科書を持って指導を受けることになっている。彼らは良い命令と適度な振舞いを観察したり、受けるべき指導に従ったり、また、同じように朝の礼拝に出席し静かに注意深く自分を処することになっている。
生徒は学校の職員に対して充分な尊敬の念を持って従う。命令に従い処罰や懲罰を受け入れることになっている。

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超人の最近気になるニュース雑感 北朝鮮 金正日総書記死去報道

■北朝鮮の金正日総書記が急死。2011年12月17日午前8時20分、地方のデパート視察途中の列車の中で心筋梗塞で倒れ死去。(追記。この死亡時刻と場所には疑問点が多いらしい。2011年12月17日午前1時別荘で遺体発見と24日付毎日新聞の一面の記事)このニュースは日本がいち早く報道、韓国のメディアは多少遅れて報道、これについて韓国メディアは目立つ報道をしたがっているのか、暗殺説まで出る始末。一体どうなってるの?
やはりアメリカの衛星がいち早く死去の情報をキャッチしていた。また、悪ふざけもここまで来ると騒動になる報道も。今朝のシンガポールのテレビが伝えた台湾メディアのアナウンサーの話。例の北朝鮮の甲高く大袈裟に喋る、民族衣装を纏って現れる年配の女性アナウンサー(つい最近日本のメディアでもこの年配のアナウンサーが出ていないと退職説が出たりと話題だった。しかし今回は現れた!)の真似をしてしかも総統選挙報道をしたらしい。少しか多くか、悪ふざけもほどほどがいい。
それにしても北朝鮮の首都の平壌人口が200万人、故金総書記の弔問人口が500万人、一人2回以上弔問した計算だ。可笑しい。しかも視察予定のデパートのエレベーターで泣きじゃくる女性たち、いやはやこんな光景がまだあるの、と一瞬過去にタイムトラベルした錯覚を覚えたほど。しかし現実、相当演出がかったと見るべきだろう。
さて、故金総書記の後継者の三男氏は、小学生の指導者とマスコミは北朝鮮の専門家の話として伝えているが……。それもそのはず、まだ後継指名されて1年ちょっと、これでは誰の目にも無理と移るはず。この世の中、完璧は難しいのが常。日本でもやれ次の社長は息子にと独裁的な経営者に多いのも可笑しい、また、二世議員……。
要人の弔問客に挨拶をしている後継者の故金総書記の三男氏―握手しているが目は次のところを見ていてちぐはぐ―の後ろにいる女性がマスコミのカメラが捕えて喧しい。やれ三男氏の妹に間違いないと、またあの人、元金総書記の料理人だった藤本氏がマスコミ登場し出した…。

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 30

中学校

小学校のクラスから2人だけ中学校(realskola)に進学した。私以外誰も南ラテン語中学校を出願しなかった。私はパスしなければならない入学試験があった。これについて一つだけ記憶にあるのはsärskilt(特別に)という単語のスペルを間違えたことだ。私はllと2つ書いてしまったのだ。その時以来私が煩わしいと思った単語は1960年代に入ってまで長くまとわりついた。
私は1942年秋南ラテン語中学校に入学した最初の日をはっきりと覚えている。それはこうだ。私は何人かの見知らぬ11才の少年に囲まれていることに気づきおじけついた。私は不確かで孤独だった。しかし幾人かは互いに知り合いのように思えた。彼らはマリア予備校出身だった。私はカタリ―ナ・ノッラ出身の顔をずっと探した。私の感情には憂鬱な心配事と希望の持てる期待感とが混じり会っていた。
私たちの名前が呼び出され、3つのクラスに編成された。私は15Bのクラスにあてがわれ、私たちの担任になるモーリン博士に従うように言われた。彼は最年長の教師でドイツ語を教えた。背は低いがすばしこく、静かだが動きが速かった。しかも短気で、言いにくいが白髪でこみかみの上は禿げたくさび形をしていた。彼を知っていそうな側近の誰かから、私は彼の評価を掴んだ。モッレ―そう呼ばれていたように―は“厳しいが公平”な人だ。不気味だった。
最初から中学校は小学校とははっきりと違っていた。南ラテン語中学校は全体的には男性で、学校は修道院や兵舎のようだった。数年経って初めて入って来た2人の女性は気取った職員だった。
毎朝私たちみんなは講堂に集められ、賛美歌を歌い、宗教担当の先生から配られた説教を聴いた。それから私たちは尊敬するクラスまで行進した。南ラテン語中学校の集団的な雰囲気は、イングマール・ベルイマンの映画『悶え』(訳者註 : 英国での映画の題名は「熱狂」、米国での映画の題名は「苦悩」)よって不滅になった。(この映画は学校で撮影され、生徒だった私たちも5、6ヵ所のシーンにエクストラで出演している)
私たちは学校規則を渡された。それには「学校法規に則り、命令と方針に従って指導」と書いてあった。

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 29

運搬人他を伴った19世紀の探検だった。私が半ば気付いたことは、現在では旧式な旅行だったことだ。アフリカは変わったのだ。イギリス領のソマリアでは戦争があった。それがニュースになり、戦車が出動した。事実連合国が進行できた最初の地域だった。もちろんアビシニアは独伊枢軸国から解放された最初の国だと分かった。
私のアフリカの夢は数年後に戻ったときには、近代化されて今はほとんど現実的になっていた。私は動物学者になってアフリカの昆虫を収集しようと考えた。新しい砂漠の代わりに新しい種を発見しながら。

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 28

ある夏―どの夏だかは覚えていない―私はアフリカについて詳しく調べたり追究したりしながら空想を巡らしていた。図書館からは大分遠いルンマレの島にいたのだ。私はファンタジーの世界に引き入れられて、中央アフリカを通りまっすぐに遠征していた。私はルンマレの森をとぼとぼ歩いた。自分が引いた全体陸の地図のアフリカの大きな地図に線を引いてどの位来たか記した。例えば、もし達成したら私は1週間でルンマレを120キロ歩いたことになる。地図に120キロと記した。大分遠い距離ではなかった。
最初私は東海岸から遠征することを考えていた。多少スタンレーが始めたところだ。しかし最も面白いところに到着しないうちに横断するには途方もなく離れていた。私は考えを変え車でアルベルト・ニァンサまで横断しようと考えた。ここは徒歩で遠征をスタートするには適した場所だった。私は夏が終わらないうちに大部分のイツリ森林を通り抜けるまともな機会を得たのだ。

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20011年ノーベル文学賞受賞式 スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏

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ノーベル文学賞受賞式のトーマス・トランストロンメル氏
下記は「8 sidor「」紙2011年12月9日付の電子版から。

Fest i Stockholm
Publicerad: 2011-12-09

I helgen är det Nobelfest i Stockholm och Oslo.
I Oslo delas fredspriset ut
och i Stockholms konserthus
delas priserna ut i kemi, fysik,
medicin, ekonomi och litteratur.
På kvällen blir det stor fest i Stockholms stadshus.

I år är det en svensk bland pristagarna.
Författaren Tomas Tranströmer får litteraturpriset.

Pristagarna har mycket att göra
både dagarna före och efter prisutdelningen.
De ska hålla tal, vara med på fina middagar,
möta studenter och andra forskare
och mycket annat.
Men Tomas Tranströmer orkar inte vara med
om hela programmet utan har valt
ut några saker han tycker är extra viktiga.
Det kan eleverna i stockholmsförorten
Rinkeby vara stolta över.

Tomas Tranströmer har valt att tacka nej
till middagen med kungen och drottningen.
Men han har tackat ja till att träffa eleverna i Rinkeby,
skriver tidningen Dagens Nyheter.

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クロカル超人が行く 153 JR東海道線辻堂駅 『テラスモール 湘南』

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2011年11月11日オープンした『テラスモール 湘南』。テラス型巨大ショッピングモール―外観はカリフォルニアのパセディナを想起させる―が誕生した。広々とした駅前広場に面したエリアは、各フロアを増しながら、湘南の広々とした空の下、ゆったりとした空間をつくり出す。延床面積約17万㎡に281の店舗が入る湘南随一の大型商業施設(「テラスモール 湘南」のパンフレットより)。キャッチフレーズは“豊かで・落ち着いた・上質な・毎日”だそうだ。この辺の再開発は住友不動産が手掛けた。元々住友関係の企業跡地だ。最近の首都圏の集客事情、小田原駅、戸塚駅についで辻堂駅の再開発がやっと進んだ地域だ。今まで注目度が低かった地区で湘南エリアの再起を促す格好になった。駅から3分のこのモール(2階のアーケード型デッキでJR辻堂駅と直結)に土曜日の正午に到着。人出はマスコミで報道されていたほどではなかったが、食べ放題の串焼き店で2時間以上待つ間、各階のショップを見て回った。
4皆はホビー&レストラン。全部で10のシアターがある映画館「109CINEMAS」、毎月10日は1000円で映画鑑賞できる。12月10日のこの日も特別割引で映画鑑賞できたが、観たい映画がなく見学のみ。東モールを歩くと、美山、串家物語、がってん寿司、チェゴヤ、いしがまやハンバーグ、H.B.PASTA&PIZZA、ダブルレインボー、花旬庵、チャイニーズダイニングCHAO、大戸屋ごはん処、とんかつ新宿さぼてん、バケット、鎌倉パスタ、ラケル、サンマルクカフェのレストラン。どこも行列。特に花旬庵、串家物語、大戸屋、バケット、鎌倉パスタなどが目立ったが、何と言っても串焼き店「串家物語」が一番人気だ。
有隣堂はトレードマークのグリーンの配色から抜けてホワイトが基調のややヤング向け指向に転換して出店。店内を一巡して目立ったといえば、子どもがコミックを電子書籍で読んでいるコーナーがあったこと位か。クリスマス関連デスプレイが中心。絵葉書を買おうとしたが品揃えが悪くほんの少しあった程度。隣の家電製品のノジマで写真のプリント依頼、L版1枚30円、26枚出来上がるのに20分、早い方かも。1枚10円の相模大野にあるフォトショップには叶わないが。アトランダムにショップ歩き。BRICK HOUSEシャツ工房、グローバルワーク エト、ムラサキスポーツanotherstyle、m.f.editorial、コンファーム・フロウリッシュ、Top to Top、ABC-Mart、Beach Sound、フララニハワイ、イワサキメガネ、銀座山野楽器、ABC Cookingなどファッション、雑貨、カルチャーのショップ。
3階はファミリー&カジュアル。DAD-WAY、アカチャンホンポ、アクシーズファム、マザウェイズ、靴下屋Life and feel、クレアーズ、生活の木、パスポート、ロフト、ユザワヤのファッション、雑貨、ライフスタイル等々のショップ。グルメ&フードのショップは、ブレンディーズクレープ、湘南 野の実(佐野実のラーメン)、梅蘭、石焼ビビンバの店 李家むっとり、しらす問屋とびっちょ、グリルおくう、KUGENUMA SHIMIZUなど。2階はファッション&グッズ関連のショップ、1階はフード&デイリー関連のショップ、ユニクロ、サミットストア、セブンイレブン、銀行などがずらり。
待っている間に絵葉書1枚を書き終え、「串家物語」に戻って遅いランチをとった。串焼き食べ放題土日用1680円(制限時間70分)を試食。バイキング方式で串に刺した肉、魚、野菜類の具材を取り、テーブルに備え付けてある油に小麦粉、パン粉を塗し浸して焼き揚げ、好みのタレをつけて食べるのだが、何せ初めての体験、戸惑ったことも確か。全体的に小粒の具材、牛肉、豚肉、エビ、オクラ、ししとう、しいたけなどはまあまあの揚げ具合で旨かったが、サツマイモ、ジャガイモ、カボチャそれにレンコンは多少時間をかけて揚げないと硬いままだ。これは要注意だ。オプションで飲み放題も頼んだ。串焼きは35本でギブアップ。家人は29本。他にカレー、チキンライス、ごはん、味噌汁、お茶漬け(梅や鮭だけではなく種類が豊富)、野菜サラダ、デザートなどサイドメニューも豊富。タレは甘口、辛口ソース、マヨネーズ、梅、ポン酢、大根おろしなどから選べるのだ。筆者は醤油も頼んだ。家人は筆者がビールやワインを飲んでいる間にカレーを食べていた(後にあれはレトルトカレーっぽいと言っていたが)。多少油にまみれた70分、満足感はあった。食べ終えて外に出ると、女性シンガーミンミンのコンサートがモール前の特設ステージで開催されるとあって人集りが出来ていた。開演20分前だった。関係者の、みなさん、録音や撮影はご遠慮下さいとの声がひどくやかましくて目障りだった。すでにモールの2階や3階のテラスにも人集り、コンサートが始まると一斉に観客が手を振ってエールを送っていた。
初冬の夕暮れ、湘南はこのシーンを見た限り元気である。盛り上がっていた。午後入った時間より帰る時間になって人がどっと増えて来た感じだ。比較的若い人たちが多いが、もちろん年配の人たちもいた。外国人は筆者の見た限りでは出口付近で1人見かけた―。

「テラスモール湘南」の巨大ショッピングモールを計画するにあたって関係者の話がパンフレットに載っている。それによると、フィロソフィー(哲学)とコンセプト(概念)それに動線をいかに引くかが難しかったらしい。だから各階のコンセプトには衣食住の基本的スタイルからトータルファッション、エンターテイメント、カルチャー、公共的なサービスまでやや重なり合いながらトータルイメージを描き出そうとした苦労のあとが垣間見えるようだ。相模湾のへそという立地を活かした、明るく自分なりのライフスタイルを追及できる、ゆったり感も施されているようだ。
オープンしてから一ヶ月、果たして勝算はあったのか?

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超人の面白ラーメン 158 中央区日本橋『ますたに 日本橋店』

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 ある大学の先生と久し振りにお会いしてラーメン談義。なんと先生は京都・銀閣寺道のラーメン店『ますたに』をよくご存知だった。筆者も京大の先生に教えてもらって以来何度か食べていたラーメン店だ。好みで評価が分かれるところがラーメンの妙味。その典型が『ますたに』。もう20年以上(途中途切れ途切れだったが)もお付き合いの先生だが、こんな話は聞いたことがなかった。実は先生の生家があったところは京大農学部の先あたり(父親は京大教授の言語学者だった)。『ますたに』(当時は屋台、昭和29年頃だそうだ)でよく食べた由。その上おまけつきまで。『ますたに』と同業者、『珍萬』の屋台ラーメン時代のほろ苦く味付けされた話も聞けた。店主は雨風関係なく常に同じ場所で毎日営業していた由。それこそ根性がすわっていたと。百万遍に移ってからは明るく上品な味になり、その昔の薄暗い中で啜るラーメンの“味”は消えたと貴重な証言も得た。話は脱線するがこの先生の手製の関西風きつねうどんは美味だった。

 さてさて、前置きが長くなってしまった。先生に教えてもらった東京にもある『ますたに』の姉妹店、その一つが日本橋『たいめいけん』(久しく忘れていた洋食屋だ!ここのオムライスを食べに近々訪ねてみたい)のトイメンにある『ますたに 日本橋店』だ。夜7時頃入った。意外と広い。カウンターだけだが40人近くは入れるスペースだ。大分本家本元とは雰囲気も違う、味も違う、人も違う、ようだ。ラーメン(750円)を頼んだ。鶏ガラスープ、背脂、細緬ストレート系、チャーシュー、九条ネギ、これが『ますたに』の定番だ。本家本元とは違うがより関東風で上品な味わい、意外と美味。特に鶏ガラスープがまろやかで澄んでいる。麺も極細麺、スープとの相性もいい。背脂の量も程良い、それに柔らかいチャーシュー、難を言えばもう少しボリュームを。
 全体的にバランスがとれた一品である。メニューはラーメン、チャーシュー麺(930円)他1点と数は少ない。開店して17年らしい。行列はできていなかったが次々と客が入って来ていた。若いサラリーマンや女性客が多い。
『ますたに 日本橋店』1.スープ★★★2.麺★★☆3.トッピング★★☆4.接客・雰囲気★☆5.価格★★

追記。銀閣寺道にある『ますたに』(2006年7月26日付本コラム参照)入って右手に厨房があるが、素朴で印象的。カウンターは狭く、むしろ畳の上で食べるのがいいかも。味は濃く表面には九条ネギがたっぷり、チャーシューは硬い。応対はおばちゃんパワーで・・・。ここは今でも時間帯によっては行列ができている。
追記2。ラーメンの話からまたまた脱線してもほんの少し触れたい話。それはこの先生の新潟珍道中の話だが、この話は別の機会に…。筆者も去年の6月頭に関東のある大学の先生に誘われて、学会出席、ゼミ合宿に付き合った。新潟大学→佐渡行。まさに珍道中だったのだ。


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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス ・トランストロンメル氏の作品を読む 27

一旦図書館で自由になると、私はほとんどノンフィクションに夢中になった。私は文学を運に任せた。同様に経済学や社会問題と貼られた棚にも夢中になった。歴史ももちろん興味の対象だったが医薬の棚にはびっくりした。
しかし地理が私の好きな棚だった。私は広いアフリカの棚に特に夢中になった。『エルゴン山』、『アフリカの市場の少年』や『砂漠が描く』などの本のタイトルを呼び込んだ。これらの本がまだ書棚にあるのかしら?
アルベルト・シュバイツアーが『水と原始林の間』という本を書いたことを誰かが気付いた。それは大部分人生についての思索から構成されていた。しかしシュバイツアー自身はミッションを配置して留まり動かなかった。彼は本物の探検家ではなかった。例えば、イェースタ・ボーベリとは違っていた。彼は際限のない距離を魅惑的に踏破した。例えば、ニジェールやチャドのような見知らぬ地域や土地を。図書館にはそれらの地域や土地について詳しく調べ上げた情報があった。ケニアやタンザニアはスウェーデンの居住地だったため好意的だった。ナイル川を浮動植物地域まで登った旅行者がまた北へ旋回した。彼らは本を書いた。しかしスーダンの渇いた地帯に入った人たちではなく、コルドファンやダルフールへ入る途中の人たちでもなかった。アンゴラやモザンビークのポルトガルの植民地―地図上ではすごく大きく見えた―もまた、知られていなかったし、アフリカの棚で見落とされた地域だった。それらの魅力は更に増幅した。
図書館では多くの本を読んだ。私は同じ種類のたくさんの本を家に持ち帰らなかったし、同じ本を何度か継続して持ち帰りもしなかった。図書館員に非難されているみたいで、それは私がどうしても避けて通らなければならないことだった。

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 26

一方で叔父のオロフが中を取り持ってくれた。叔父が私に大人のセクションに行くカードをくれた。私たちは彼が集めている本があるという口実を作っていたのだ。欲しいものが手に入れることができた。
大人のセクションはプールがある壁で仕切られていた。入口で中の匂いがした。換気装置から漂う塩素の匂いと響き渡る声が遠くから聞こえた感じだ。スイミングプールなどはいつも奇妙な響きを醸し出していた。健康の殿堂と本の殿堂が隣り合わせだったのだ。良いアイデアである。私は何年も市立図書館の分館の良き理解者として通った。私はこの図書館をスヴェアベーゲンにある中央図書館より優れているとはっきり認める。中央図書館は雰囲気が重いが塩素や響き渡る声はなかった。本自体がそこでは違った匂いがしたのだ。私は頭が痛くなった。

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 25

図書館

市民会館が1940年頃に建てられた。南部地区の真中に大きな4つの正方形のブロックが置かれているだけではなく、明るく将来性のある建物で近代的しかも“機能的”だ。家からわずか徒歩5分のところにあった。
市民会館には公共のプールと市民図書館の分館も含まれていた。子ども室は当然必要で私の割り当てられた領域だった。始めは消費するためには充分な本が揃えてあった。一番大事なことはブレームの『動物の生活』だった。
私はほとんど毎日図書館に入り込んでいた。しかしこれは悩みがないことでは全くなかった。女性図書館員が私の年に相応しくないと考えた本を貸し出そうとしたことが時々あった。一つはクヌート・ホルムベの『砂漠は燃えている』という乱暴なドキュメンタリーの本だった。
「この本を借りたいと誰が?」
「私が…」
「えっ、ダメ…」
「私は…」
「お父さんに訊いてからお父さんが借りに来てください」
私が大人のセクションに入ろうとしたことが尚更悪かった。子ども室になかった本が必要だったのだ。入口で止められた。
「ぼく、何才?」
「11才です」
「ここでは本は借りられないよ。5、6年経ったら戻っていらっしゃい」
「はい、分かりました。でもその本はここにしかないんです」
「どんな本?」
『スカンジナビアの動物 :移住の歴史』そして『エクマンが書いた』と付け加えた。力の抜けた声でゲームに負けたと感じて。私は赤面し怒り狂った。女性図書館員には決して謝らなかった。

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人のトーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 24

私たちがエーンシェデに行く途中の郊外電車に乗っていたとき、私はいつも派手な注目を嫌った母親にプロパガンダのニューズ フロム グレート ブリテン紙を広げ、私たちの立場を静かに公表して欲しかった。彼女はほとんど私のためにしてくれた。
戦争中は私は滅多に父親と会わなかった。しかしある日父親がひょっこり現れて私をジャーナリストの友人たちと一緒にパーティーに連れて行ってくれた。グラスが用意され、笑い声があり紫煙が立ち込めていた。私は連れ回され紹介されそして質問に答えていた。寛いだ雰囲気で寛大、私もしたいことができた。私は自分で退き、この不思議な家の書棚を横歩きした。
私は『ポーランドの苦難』という新刊書と出会った。ドキュメンタリーだ。私は床に座り、声が出ている間丹念に読んだ。恐ろしい本―決して見たことがなかった―は私の恐怖あるいは期待が含まれていた。ナチスは私が想像した通り非人道的だった。否、一層酷かった。私はひきつけられながら戸惑ったが同時に、勝利の感情が沸き起った。私は正しかったのだ!詳細な証拠は本の中だけだった。少し待って下さい!ある日すべてが暴かれるだろう。ある日疑っていた皆が非難された真実を手にするだろう。少し待って下さい!それは実際に起こったことなのだ。


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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 23

私と近しい人たちから私は曖昧でない支持を期待した。私たちが叔父のエロフと叔母のアグダを訪ねたある夕方、ニュースに興奮した日頃は無口な叔父が、「イギリス軍はうまく撤退している…」彼は皮肉な低い声を交えながら少しがっかりしたと言った(概して皮肉は彼には相容れなかった)。私は突然引きつめられる恐ろしさを感じた。歴史の連合国解釈は疑問視されなかったのだ。私は慰めるため屋根の灯りをじっと見つめていた。それはイギリス人の鉄のヘルメットだったがスープ皿のようだった。
日曜日にはよくエーンシェデの母方の叔父や叔母と食事をした。彼らは離婚後母親の代理人的役割を担っていた。BBCのスウェーデン語ラジオ放送を捻ればイギリスの儀式の番組。私はその番組のオープンの派手さ加減をずっと覚えている。最初勝利のシグナル、その後署名チューニング、それからパーセルのトランペットボランタリーと思われる曲が流れ、実際はジェレミア・クラークによるハープシコードのやや膨らんだアレンジ曲だった。アクセントに微妙な違いがあるアナウンサーの静かな声が、優しい英雄たちの世界から私に直接話かけた。爆弾が雨のように落とされたとしても、通常の仕事と分かって仕事をする英雄たちだ。

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 22

他の記憶。あるクラスメイトの家を訪ねたとき、私はトレイがなく、裏庭に田舎に行けば見かける類の渇いた物置だけがあってびっくりしたのだ。私たちは捨てられた鍋の中に用を足し友達の母親が台所の流し台に流したはずだ。一風変わった光景だった。概してその家族があちこち不足していたなんて思いも浮かばなかったし、だからと言って、エッペルヴィーケンの屋敷を素晴らしいとは思わなかった。私はあまりに能力不足だったため、多くは早い時期でさえも階級の状態や与えられた環境での経済的レベルを一目見ただけで掴む必要があったようだ。多くの子どもたちはそうすることができると思われたが、私には出来なかった。
私の“政治的”衝動は絶えず戦争とナチズムに向けられた。私はナチか反ナチかのどちらかと信じていた。私には全く理解出来なかったことは、生ぬるい態度や楽観的な成り行き任せのスタンスがスウェーデンに広がっていたことだった。これは連合国の支持かあるいは隠れナチズムかのどちらかだと私は解釈した。私がある人間が“職業ドイツ人”を好きになることが本当に分かると、私は直ちに胸が引き締まるほどの恐ろしさを感じた。すべてが壊されたのだ。仲間意識が全くなくなっていたのだろう。

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戦争

1940年の春だった。私は新聞の上に屈んだ、がりがりの9才だった。黒い矢がドイツ戦車部隊の侵入を示す戦争の地図に夢中だった。これらの矢はヒットラーの敵のフランスや私たちのスウェーデンを貫通していた。彼らは私たちの身体に寄生して住んでいた。私は本当に自分をヒットラーの敵とみなした。私の政治的信条は決して心暖まるものではなかった。
9才の政治的信条を書くことは明らかに嘲笑の的だろう。しかしこれは世の中のまともな意味で政治的問題にはほとんどならなかったのだ。参戦するとは単純なことだ。私は社会問題、階級、組合、経済、資源の分配、社会主義や資本主義の競争的な要求のような問題について浅はかな考え方をしなかった。共産主義者はロシアを支持した人だ。“右翼”はいかがわしい言葉だが、政治的残像の終焉でドイツに偏りした人たちだった。金持ちと理解された人たちだ。金持ちとは本当にどういうことだったのか。私たちはたまに金持ちの家族との食事に招かれた。彼らはエッペルヴィーケンに住み、家主は卸売りのディーラーだった。大きな屋敷で白人や黒人の召使がいた。私が気付いたことだが、その家の私と同い年の少年は信じられないほどの大きくて魅力的なおもちゃの自動車やエンジンを持っていた。このようなものをどのようにして手に入れたのか?私がちらっと思いついたのはその家族は違った社会階級に属していたのだ。普通は大きなおもちゃの自動車など買えない階級の人たちだ。このことは今尚孤立していてるが大して重要な記憶ではなかった。

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人 トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 20

私より5倍も力があって体格がいい、黒ずんだ少年ハッセは、一学年の休み時間にレスリングをする癖があった。始めは私が激しく反撃に出たが、どうにもならなかった。彼は私を地面に投げつけて勝った。とうとう彼に絶望するようになった。手加減してリラックスしてやれば良かったのに。彼が私に近づくと私はとっさに演技をした。彼が望んだ通りに地面に押しつけられたボロ布を“本当の自分”が置き去りにしたまま飛んでしまったように振る舞った。それからまもなく彼は興味を失った。私は自分自身をボロ布に変身させる方法が後に自分の人生に役立った。自尊心がある間は踏み躙られた。トリックをよく元に戻せたか?上手く行く場合もあったが、ハズレたときも。

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 19

もっと現実的な脅迫は避難だった。戦争の最初の年、計画は大都市の全ての児童の避難のためだった。母がシーツなどにインクで記しながら、トランストロンメルと名前を書いた。疑問は私が母親や彼女の学級と一緒に避難したのか、あるいはカタリーナ・ノッラの自分のクラスと一緒に避難したのかどうかだ。即ちR先生と一緒に強制移動させられたか。私は後者だと思っている。
私は避難を避けた。学校生活が続いたが、終わる日を待ち焦がれながらずっと過ごした。だから自分の最も関心あるものに没頭した。アフリカ、海底の世界、中世などだ。私がただ一つ興味を持ったのは壁図表だった。それに熱狂的になった。そして私が一番幸せになれたことは使い古した段ボールの図表を持ち帰るため、店に担任のR先生と一緒に行ったことだ。そうして私は中にある他のぶらさがっているものを覗いたのだ。私は出来るだけ家で作ろうとした。
私の生活とクラスメイトの重要な違いは父親がいなかったことだ。大部分が離婚が本当に稀な労働者階級出身だった。家庭の事情について特別に何もなかったことを認めよう。私自身に対してさえなかった。否、もちろん、たとえ年に一度だけ会うことでも、父親はいたのだ(普段はクリスマスイブの日)。私は父親を見逃さなかった。戦争中のある時期、父親は魚雷艇に乗っていて、私に楽しい手紙を送ってくれた。クラスでこの手紙をみんなで読むことが好きだったのに、その機会はやって来なかった。私はパニックの瞬間を忘れない。私が二日間学校を休んでいたときで、学校に戻ってから、一人のクラスメイトが教えてくれた。先生―担任のR先生ではない代用の先生―が、父親がいないからと言っていじめてはいけないとクラスのみんなに言ったくれたと。言い換えれば、クラスメイトは私に申し訳ない気持ちだった。私はパニックを起こした。私は本当におかしかったのだ。で、ずっと遠く離れて喋ろうとしたが自分の顔が赤くなった。
私は実際によそ者とみられる危険を知っていた。自分がそうだと内心思っていたからだ。私は普通の子が持っていない興味に夢中になった。自主的に絵画クラスに入って、海底のシーンを描いた。魚、ウニ、蟹や貝だ。先生が私の絵はとても個性的と高々に指摘したからまた、パニックに陥ってしまった。私を不思議な少年といつも指摘したがっていた無神経な大人がいたのだ。クラスメイトたちは本当に耐えた。私は人気者でもいじめられっ子でもなかった。

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 18

すでに書いたように、私が教師の息子だったことが暴力沙汰から救ってくれた。しかし私はあらゆる脅迫や叱責によって引き起こされた重苦しい雰囲気を感じた。鼻が高く危険な校長がいつも背後にいたのだ。最悪の場合には矯正学校へ送られることだった。特別な行事の時に言及したのだ。私は個人的には脅迫とは感じなかったが、まさにそう言ったことで納得の行かない事件を巻き起こした。
私は矯正するとはどんなことかよく分かる。それは一つの名前を聞いてからますますそうだった。ヤスリや鉋をほのめかす名前のSKRUBBA、ごしごしこするという意味の言葉だ。収容者が毎日拷問に従わさせる自己証拠とみなした。私が必要とした世間の見方が、大人が子どもを拷問にかける特別な機関の存在を許したのだ。多分死ぬまで。事件を起こしたことで。恐ろしい見方だ。しかしそれならそれでいい。私たちが事件を起こせば、その時は…。
私たちの学校から一人の少年が矯正学校に連れて行かれて一年後に戻って来たとき、彼は死から這いあがったのだ。

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 17

一昨日の毎日新聞夕刊にトーマス・トランストロンメル氏のことが書かれた記事が載っていた。ノーベル文学賞発表の5日後の10月11日夕刊にやはりトーマス・トランストロンメル氏の写真が載っているが、その後方に書があって、その書のことで読者から問い合わせがあり、それにも応える形で同じ記者が書いた記事。厳密に言えば、10月11日の記事はトーマス・トランストロンメル氏の長年の友人でストックホルム在住のジャーナリスト、クリステル・デューク氏の文章を佐藤由紀記者が翻訳したもの。また、11月14日の記事は佐藤由紀記者自身のもの。
今私訳中のトーマス・トランストロンメル氏の散文詩『回想』には、高等学校で友人たちと校内誌を発行し、そこに彼の詩編が掲載されたことが書かれているが(私訳はまだそこまで行っていない!)、その辺のちょっとした事情を高等学校以来の友人であるクリステル・デューク氏が書いていた(10月11日の記事参照。筆者はこの記事をうっかり見逃していた。で、毎日新聞本社に出向いて入手した)。
そのクリステル・デューク氏の文章にトーマス・トランストロンメル氏が国民詩人である一端を覗かせる件がある。
子供の洗礼から結婚式、誕生日、葬式まで、日常生活のさまざまな場面でいつも彼の詩が読まれるからだろう。ごく普通の人にも理解出来る詩を書き、題材も日常から取ったものが多いが、クリステル・デューク氏も書いているように、突然、詩的な魔法によってまったく別なイメージに変容する。読者を人生の呪縛から解き放つ、言わばメタファーの達人なのだ。
そのトーマス・トランストロンメル氏が中国の昆明に滞在したときに手に入れた書は、著名な書道家が書かれたものと記事は解説している。早い時期から俳句を嗜み、日本や中国に行きたい夢は捨てていないが、やはり高齢で健康的な問題もある。筆者的には日本に来てもらい、芭蕉を生んだ国を堪能してもらいたい。
前掲11月14日の毎日新聞夕刊の記事から句作を拾ってみよう。

脱走者
捕らえられし
ポケットいっぱいの
アンズダケ

送電線
厳寒の王国の上にのび
あらゆる調べの
北にあり

サングラスをかけ
鳥のこえが
暗くなる

海はかべ
カモメの叫びが聞こえる
わたしらに手をふる

ひそやかな雨の音
わたしは秘密ひとつをささやいて
響き合わせる

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超人の面白ラーメン紀行 157 千代田区猿楽町『SOUP 』

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ある一定の法則は見られるものの、今やラーメン店の名前は何でもありの様相。『SOUP』というラーメン店もその一つだろう。単純明解だが、どっこい、単純すぎて分からない。筆者が店に入った午後2時頃には2、3人の客、そのうちの学生が、ところで、この店の名前は何と言うのと店主に訊いていたのだ。看板も横文字でSOUPと書いただけで言わば、“見出し”だけ。不親切と言えば不親切、木の素材を活かした黒を基調としたモノトーンの店内、券売機以外にメニューがない。地鶏だし二本立て、塩と味噌味、それにチャーシューとメニューもシンプル。淡麗地鶏塩味(750円)を頼んだ。全体的に黄色いスープを一振り、鶏スープ味そのものと塩っけが多少、さっぱり、あっさり系だ。全体的にはまろやかさを演出していて細緬ストレート系との相性もいい。しかし、スープにコクが感じられず、また、尾を引いた。脂と塩のインバランスか―。トッピングのチャーシューは柔らかくてイケた。
まだ開店1ヶ月の店だが、若い店主夫婦(?)の意気込みは感じられるが、ちと力が入りすぎているようにみえた。笑いある店には福来る、だ。
『SOUP』1.スープ★★2.緬★★★3.トッピング★★4.接客・雰囲気★☆5.価格★★

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 16

小学校

私はカタリーナ・ノッラ小学校に上がった。担任は毎日服を変えてくる、身ぎれいなオールドミスのR先生だった。毎土曜日学校が終わると、子どもたち一人一人にキャラメルを上げていたが、厳しかった。髪を引っ張たり、矢を飛ばしたりには寛容だった。が、私に当たることはなかった。私が教師の息子だったからだ。最初の学年を通じて雰囲気は最高だったと感じている。しかし時が経つにつれて何か寒気がしてきたのだ。 善良な命令に対する妨害、引っかけや鍵裂きがあってから先生は怒るようになった。私たちは落ち着きがないことや大声を上げることが許されなかった。めそめそ泣くことも出来なかった。学ぶことで予想外の困難さを経験することはなかった。結局私たちは予想外のことをすることはなかったのだ。恥や恐怖でへこんだ子どもたちには慈悲を期待することが出来なかった。

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 15

ぐずぐすしているところはどこでも。エチルアセテートの臭いが、私がポケットに殺した昆虫の入ったブリキ缶をいつも忍ばせていたから私の臭いも。手引き書の薦めとしてカリウム青酸塩を敢えて使っていたことは確かだ。幸いにこの物質は私の手元にはなかった。だから使うのにどれを選ぶかで自分の勇気を試す必要はなかった。
多くは昆虫採集に割いた。近所の子どもたちは興味津々の昆虫を見たとき、警告の音が聞けるようになった。「ここにいるよ!」という子どもたちの声が家々の間に響き、私が蝶捕り網を持って駆け込んだものだ。私は絶えず探検を続けた。健康を助長するという馬鹿げたことを考えないで済む屋外での生活だった。もちろん私の戦利品には何も芸術的な意見はなかった。結局科学の部類だった。しかし知らず知らずに多くの自然美を吸収できた。私は偉大なミステリーの中で動いていたのだ。地面が生きているのを学んだ。また、私たちにほとんど注意を払わなくとも自分たちの生活を豊かに過ごしているものたち、はい回っている、飛んでいるものたちの無限の世界があった。
私はその世界のほんの少しの部分を捕まえてピンで止め箱に入れたのだ。その箱を未だに持っている。滅多に意識することのない隠された小さな博物館だ。しかし昆虫がそこに座っているのだ。自分たちの時期が来るのを待ってるかのように。

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 14

しかしある日誰かと出会った。見学者ではなく彼は学者の類だった。私たちは無脊椎動物の間で会った。彼が突然陳列ケースの間に現れたのだ。彼は背丈が私と同じくらいで、半分独り言を言っていた。そして突然軟体動物の議論に巻き込まれた。彼はひどく放心状態になっているかあまり偏見をもたなかったからか、私を大人扱いしてくれた。子どもの頃に時々現れた守護天使が、その羽で私に触れた。
会話がきっかけで私たちは普通は入れない博物館の部屋に入ることができた。小さな動物を準備中にたっぷりアドバイスをもらったし、実に専門的にみえる小さなガラス管まで用意してくれた。
私は11才から15才になるまでまず最初にカブトムシの昆虫採集をした。最も芸術的な、張り合っている興味に私は夢中になった。昆虫学がダメになることを感じたことでなんと憂鬱になったことか。これはその時の便宜的なものだと強く思った。15才かそこらで自分の収集を取り戻したかったのだろう。
私の収集は春に始まり夏にルンマレ島の郊外でピークに。動き回る位しかスペースがなかったサマーハウスで、私は死んだ昆虫や蝶の陳列された板を瓶に入れて保管した。

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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメルの作品を読む 13

ついに到着、私を象の骨格が出迎えてくれた。よく直接「古い」部屋にも行った。中には膨れた頭のある、やや乱雑に置かれた、18世紀の剥製の動物の部屋もあった。しかしここは特別な魔法の部屋だ。私の興味をそがないほどエレガントにデザインされ、動物見本がうまく配置されている大きくて人工的な景観、それらは子ども騙しだった。いや、生きた動物の問題ではなかったことは一目瞭然だった。科学に役立たせるために剥製化されて立っていたのだ。一番身近に感じた科学的方法はリンネ式分類学だった。発見、収集、調査だった。
私は博物館でゆっくりと勉強したはずだ。古生物学の部屋にある鯨の間の長いポーズ。その時私を最も引き止めたのは無脊椎動物だった。
私は他の見学者と全く接触しなかった。事実私は博物館の見学者を覚えていない。時々訪ねた国立海洋博物館、国立民族学博物館、技術博物館などの博物館はいつも混んでいた。しかし国立歴史博物館は私だけに開いているように思えた。

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超人のラーメン紀行 156 東京ラーメンショウ 2011

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 仕事の帰りにラーメンの殿堂、「東京ラーメンショウ2011」の会場の駒沢公園に出向いた。生憎の曇天模様、やや蒸し暑い午後3時過ぎに一番人気の京都木津川『無鉄砲』×千葉県松戸市『中華蕎麦とみ田』のコラボの店の前に並んだ。係員が50分待ちですと言われたが並ぶことにした。気になっていたラーメンで、2店舗ともまだ食べていなかったラーメンだ。さて、思ったほど早くラーメンブースに近づいたまで良かったが、チケットがないと食べられないと係員に言われて慌ててチケット販売所に買いに行った。係員が待っててくれて一件落着。おバカである。ちびまる子も呆れたかも。800円のコラボのラーメンの味は、ドロドロ系、濃厚豚骨そのもの。塩辛そうにみえるが実は甘さが漂う不思議な味だ。究極の魂の一杯とはラーメンカタログのキャッチ。麺は『とみ田』、中細ストレート系、濃厚のスープによく絡んでいる。普通の麺の色と違いやや黒っぽい。イケた。それにしてもドロドロ、ドロドロ…。豚炙り、鶏炙り、味付け玉子入、300円のトッピングのオプションもある。これを入れたら大変な味になること間違いない。が、柔らかなチャーシュー以外はちとトッピングが寂しい。スープも麺もトッピングも少なめ、これで800円だ。ちと高い。筆者は実は徳島の『岩田家』が食べたかった。人気の行列店は、ブースNo.12の秋田成ト会、比内鶏、桃豚、長ネギなどを使った鶏白湯と筋系を合わせたダブルスープの秋田県大館市『らーめん錦』×秋田県横手市『らーめん丈屋』、ブースNo.13の縮れ麺と薄口醤油のあっさり系釜石ラーメン、ブースNo.1の北海道新味塩ラーメン、ブースNo.21の長野の信州麺友会の肉玉チャーシューなど。因みに筆者が食べたブースNo.25の『無鉄砲』×『とみ田』の客数は2000人以上らしい。すごい!会場を少し歩き回っての感想は意外なものだった。若者と女性が多かったことだ。ラーメン食べ歩きのルールも徹底していた。今年で15周年、これだけ多くいても気持ちよい食空間は流石に関係者の努力の賜物だろう。ラーメン店を知らせる多彩な色ののぼりが風に吹かれていた。それにしても旧オリンピック村はその広さに引けをとらず多かった。

麺面と打つ買うゲーム秋暮れて

麺喰いは男女の宴秋嗤う


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クロカル超人が行く 152 舞岡ふるさと村

 曇天の文化の日の今日、“ちいさん”につられて横浜南西部の舞岡ふるさと村を散策。所要時間約2時間。横浜市営地下鉄ブルーラインの舞岡駅→農産物集出荷施設・産地直売所の舞岡や→ハム工房まいおか→水車→舞岡八幡宮→総合案内所「虹の家」→舞岡公園入口→瓜久保の家→小谷戸の里のコース。
 直売所前のジュウガツサクラを一瞥、直売所を一巡、そう安くないみたいと思いつつ、隣のハム工房へ。ちいさんが食べたおにぎりは売れ切れ、仕方なくメンチを購入(1個170円、これが美味)。水車は多少くたびれていても動いていた。もう休憩しておにぎりを頬張っている家族も。ビニール栽培の農家をチラリ、整備されている散策道を行く。初めは石段を上り鎌倉時代創建の鎮守、舞岡八幡宮にお参り、超自然、手入れが行き届いていなく無人風。それでも賽銭を入れて行く…。寂れた感じの神社だ。これもなかなか風情があって良い、とはある若い親子のふと漏れ聞いた会話。小川には錦鯉が何匹も、金魚、いや亀まで遊泳、のどかだ。家人曰く、誰が逃がしたのかね、だって―。
 虹の家では能面の展示会をよそに農機具、背負子(はいこ)、足踏式脱穀機、唐箕を拝見、昭和30年代まで使われていたものだろう。遊び半分で筆者も小学低学年時頃に使っていた。素朴な農業の歴史も壁紙に読める。
20分位歩いて舞岡公園入口に到着。山里そのもの、その瓜久保の家を潜り、こども田んぼを見、奥の池を一巡、そこは野草と野鳥の宝庫、それは素朴な掲示板の野鳥の写真や望遠レンズを覗く男性たちを見ればわかる。
コスモスの群生に足を止め、田んぼの案山子や渡り鳥を見てさらに進むとそこは古民家のある小谷戸の里。
左にトイレさらに農機具などを収納する納屋、中間に事務所そしてその奥に藁葺屋根の古民家、金子邸。明治初期に建てられたもので元々は横浜新道の近くにあったものをこの公園の一角に移築されたらしい。
玄関を入って土間、かまど、囲炉裏、広い畳の居間、足踏み式のミシン、食器類が置かれた納戸に離れトイレ。

「坊や、その敷居に土足で上がらないで。掃除している ! よく教えてください」

「……」

 この古民家の保存状態が良いのは5、600人いるボランティアの人たちが交代でサポートしているからとボランティアの一人、11月23日には一大イベント、収穫祭があってたくさんの人たちで賑わうと。デジャヴの空間―。母方の祖父を思い出す。入口付近にはこの民家関係のチラシと共に1冊のノートが置かれていた。

ちいさん散歩のテレビを見て来ました。とても懐かしく、癒されますときれいな字の筆跡が。恐らく中高年の女性か。

 庭の一角では製作者の名前入りで野鳥の木彫りの品々が展示されていた。これも中高年の趣味のお披露目、フクロウなど秀逸。

「今パート時給が850円位ならばその代金位でご提供したいのですが、誰も買ってくれません」

製作者の一人がぽつりと言った一言が印象的だ。
帰路は田んぼの案山子、水鳥を眺めて畦道、散策用に整備された道を引き返した。
ハム工房で今度はコロッケを購入。これも美味。やはりちいさんが食べたおにぎりはなかった。

農機具も今は昔飾る秋

幼子に山田の案山子喋ってる

秋深しフクロウもいる小谷戸家


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超人の面白読書 90 ノーベル文学賞受賞者スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル氏の作品を読む 12

 博物館の職員が若い少年の熱心さに気付き、時々事務所の中に通され、見学者名簿に自分の名前を書くことを許された(後ろのS字を前にして)。私は鉄道技師になりたかった。でも電気のエンジンより蒸気のエンジンの方に興味を持った。言い換えれば、私は技術的なことよりロマンチックな方だった。
 私は自分独自の収集を始めていて、それを家の食器棚に収めていた。しかし自分の頭の中では途方もない博物館が育まれ、想像的なことと実際訪ねた現実の博物館との間に相互作用が増した。
 私は毎第二日曜日に国立歴史博物館を訪ねた。ロスラグスツルには路面電車で行き、残りは歩いた。道は常に想像していた以上よりも少し長かった。とてもはっきりとした足取りで歩いたのを覚えている。いつも風っぽく、鼻水が出、目は涙で一杯だった。反対方向の旅は覚えていない。博物館まで出ただけでもまるで家に帰れないようだった。巨大で奢侈なビルの方角へ向かって歩く旅で、それは鼻水の出る、目に涙を一杯貯めた、期待の膨らむ旅だった。

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